式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

176 茶史(4) 山上宗二処刑~太閤薨去

「歌 連歌 乱舞 茶の湯を嫌う人 育ちの程を知られこそすれ」と細川藤孝(幽斎)が言っていたそうです。

当時の武人達の教養には上の四つの習い事は欠かせなかったとか。その藤孝、和歌の教養で命拾いをしたというエピソードを持っています。ところが、お茶では、命拾いどころか、利休の様に命を落とす人も出て来ます。利休の弟子・山上宗二(やまのうえ そうじ) も処刑され、そして、同じ利休の弟子・古田織部も命を落としました。利休七哲の一人・瀬田掃部(かもん)も、茶湯が原因ではありませんが、粛清されています。婆の義父も言っていました。「茶湯は家を滅ぼす」と。

今回は山上宗二が秀吉の怒りを買って処刑されてから、利休の切腹文禄・慶長の役を経て太閤秀吉が薨去(こうきょ)するまでを扱います。以前にも述べました様に、茶湯愛好家に武将が多い事もあって、茶史は戦史と重なります。

                                       茶   史

織部が直に関係した件は黒字、茶史・その他政治史・戦史に関しては青字で記します。

 

1586(天正14)            細川(長岡)藤孝、3千石になる。

藤孝は秀吉より山城西が岡3千石を与えられた。彼は文武両道に秀で将軍・義昭に仕え、信長との連絡役をしていた。やがて藤孝は、将軍義昭の振る舞いから彼が天下統治の器で無いと見て、信長家臣へと軸足を移して行く。信長包囲網が形成されて行くなか、藤孝は義昭側の情報を逐一信長に伝えて行く。この頃、藤孝は本姓の「細川」を改め、「長岡」と名乗る様になる。長岡藤孝は、後の細川幽斎である。

1588.05.09(天正16.04.14) 聚楽第後陽成天皇行幸

後陽成天皇聚楽第への行幸に、古田織部も皆と共にこれに供奉する。太政大臣になった秀吉は後陽成天皇聚楽第に迎え、全国の大名を集めて天皇に臣従を誓わせようとした。が、北条だけは上洛督促に応じなかった。秀吉は、北条氏が天皇に従わなかったとして天皇に対する叛逆と断じ、小田原征伐の号令を発した。

1588(天正16)                秀吉、堺の環濠の土居川を埋める。

自由都市堺は周囲に濠(ほり)を巡らし、入口の橋には門や門番を付けて外敵から町を守り、自治を行っていた。秀吉はその壕を埋め立てて堺の自治を奪い、彼等を支配するようになった。

1588(天正16)                       蒲生氏郷伊勢国四五百森(よいほのもり)松坂城を築城。

蒲生氏郷利休七哲の筆頭。利休は彼を「文武両道の御大将にて、日本に於いて一人、二人の御大名」と評した。茶の湯・和歌・連歌・能に秀で、築城の名手である。秀吉は彼の軍才を認め、100万の大軍を任せたい武将は蒲生氏郷だと言い、彼の実力を恐れていた。秀吉は後に、氏郷を畿内から遠ざけて会津に転封させた。それは氏郷を警戒すると同時に伊達政宗に対する抑えでもあった。

1588(天正16)                       山上宗二、自著『山上宗二記』の自筆写本を配る。

山上宗二は利休門弟の中の随一の弟子と言われている。「一期一得(いちごいちえ)を説いたのは彼である。残念ながら秀吉によって処刑されてしまった。

秀吉の「堺支配」の遣り方に忍び寄る暗雲を感じ取ったのか、或いは又、自身の価値観や正義を貫く剛直な性格が「死」を招き寄せると予感したのか、宗二は茶の湯で知り得た全てのものを後世に書き記して残そうとした。

『夫御茶之湯起者鹿薗院殿御代ヨリ普光院殿御唐物御繪賛等歴々ノ集畢・・・』で始まる『山上宗二記』は、茶の湯の歴史から説き起こし、茶道具・小道具の所持者・来歴・特徴などを記録している。それは絵画や香炉などにも及び、宗二が生きていた時代の茶の湯の有様を知る一級の資料となっている。宗二はこの記録を確実に残そうとしたのであろう。何冊も自ら書き写し、これはと思う者に授けている。幾冊も複写したのは広く確実に伝わって行く事を願ったからなのかも知れない。なにしろ、宗二はこの頃、秀吉の怒りに触れて、命の危機を2度にわたって経験している。一度目は1584年(天正12)年で、その時は前田利家の下に身を寄せた。二度目の1586(天正14)年は高野山に逃げた。その頃に書いたのが山上宗二記』である。三度目の正直に備えて、この本を遺したのではないか、と思える。  (参考:鹿苑院殿=足利義満。 普広(光)院殿=足利義教)

1588(天正16)                       織部中川家存続のため婚姻策を巡らす。

中川清秀は摂津茨木城の城主だった。古田織部は清秀の妹の嫁ぎ先である。(織部から見れば清秀は義兄になる)。二人はよく同じ戦場を駆け巡り戦友でもあった。1583(天正11)年、賤ケ岳の戦いで清秀が討死した。清秀の嫡男・秀政が父領茨木の5万石の家督を継いたが、若年だったので織部が秀政の後見を引き受けた。

秀政は織田信長の娘・鶴姫を正室に迎えたが早世し、子供がいなかった。織部は自分の娘・千を秀政の養女にして中川千とし、そこへ、織部自身の養父・古田重安の実子・重続と娶(めあ)わせて中川重続とした。(織部は、自分の娘と古田の血を引く義弟を結婚させて中川秀政の夫婦養子にしたのである)。織部切腹後、織部の男子実子全てが処刑あるいは自害したので、織部の家は断絶してしまった。この夫婦だけが生き残り、中川家の家老として後世に織部の血脈を伝えている。

1588(天正16.09)                   古田織部、中川秀政の後見役を解かれる。

1589(天正17)                        蒲生氏郷方広寺大仏殿建立に携わる。

1589.03.25(天正17.02.09) 古田織部、堺衆を招き茶会を開く。

 

    山上宗二処刑(於 小田原の陣)

 

1590(天正17)                  蒲生氏郷小田原征伐出陣前に遺影を描かせる。

1590.03.08(天正18.02.03)  秀吉、小田原征伐に出陣。

秀吉、後陽成天皇から北条氏討伐を名目として節刀(せっとう)を賜り、聚楽第から大軍を率いて下向した。節刀とは、天皇の意を呈して遣わされる者に与えられる刀である。これによって北条氏は賊軍になった。千利休、秀吉の小田原征伐に随伴。箱根湯本などで茶事を担当。

1590.05.03(天正18.03.29)  利休七哲古田織部と瀬田掃部(かもん)の二人、玉縄城(現神奈川県鎌倉市)に入城。

小田原城支城・山中城で激戦が繰り広げられ、豊臣軍の攻撃で山中城が陥落した。城主・北条氏勝は玉縄城に落ち延び籠城する。しかし、徳川軍に攻囲され氏勝は城を明け渡した。開城後は徳川氏や古田織部、瀬田掃部正忠が玉縄城に入城し、守備する。

1590.05.04(天正18.04.01) 秀吉、本陣を箱根山に移した。

1590.05.08(天正18.04.05)   秀吉、箱根湯本の早雲寺を占拠、本営とする。

1590.05.12(天正18.04.09)   北条方の皆川広照、徳川方に投降。北条方に居た山上宗二も同行する。

皆川広照は下野(しもつけ)皆川城城主である。関東は北条や上杉、武田の草刈り場と化していた。皆川氏は弱小国の生き残り策を賭けて、尾張の新興領主・織田信長三河徳川家康と誼を通じていたが、北条氏の関東侵攻により圧迫され降伏、北条氏支配下に入った。秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏配下の各地の領主は小田原城への参陣が求められ、皆川広照もそれに従った。が、本心は反北条氏であり、小田原城入城後密かに徳川へ繋ぎを取り、徳川陣営に寝返った。北条陣営内に居た山上宗二が、この時、広照に同行して徳川方へ脱出する。

1590.05.13(天正18.04.10) 山上宗二、秀吉の下に帰参が許される。

利休は弟子の山上宗二と秀吉の仲を取り持ち、帰参が許される様に取り計らった。

1590.05.19(天正18.04.11) 山上宗二、太閤の怒りに触れて打ち首になる。

山上宗二の良さは、相手が誰であれ自分の思う所を忖度無く率直に述べる所にある。そして、それが又最大の欠点にもなっている。彼は師の利休に対してさえ、「山を谷、西を東と茶湯の法度を破り、物を自由にす」と利休の急激な侘びへの傾斜を批判している。

山上宗二は秀吉との面会が許され、秀吉も宗二を許して再び召し抱えようとしたが、宗二は故・北条幻庵(幻庵は宗二処刑前年に既に死亡している)に義理立てしたので秀吉は怒り、鼻と耳を削ぎ落し打ち首にしたと言う。

北条幻庵伊勢新九郎宗瑞の末子、即ち北条早雲の末っ子である。箱根の地域一帯の広大な土地を領し、その嵩(たか)は北条氏の所領の一割に及んでいた。幻庵は長綱や宗哲とも幻庵宗哲とも号し、和歌・連歌・将棋・鞍作り・石台(庭石)などに秀でた才能を発揮、軍事にも優れ、後北条5代に仕え、前述の通り1589(天正17)年に97歳で没したと言われている(異説として1584年没説と1585年没説がある)。

宗二が故・幻庵に義理立てしたと言う事は、幻庵その人が北条のシンボル的人物であり、皆川広照に同道して北条から寝返ったとしても、本質的には北条寄りの心情であることには間違いない。

宗二が北条にシンパシーを抱きながら秀吉に擦り寄って来たのは、秀吉から見れば、命惜しさに面従腹背の行動をしている様に見えてしまう。日頃、筋道を立てて反駁(はんばく)して来る宗二とは矛盾した態度である。それが秀吉の逆鱗に触れたのかもしれない。そんなに北条が好きならば、小田原城に残って北条と共に滅びてしまえ!    という秀吉の声が、聞こえて来る様な気がする。

1590.08.10(天正18.07.11) 小田原城降伏開城。北条氏政・氏照切腹

これにより小田原征伐は成り、秀吉は次なる関東・奥州平定に取り掛かる。

1590.08.27~(天正18.07.28~) 古田織部、御座所普請衆として働く

秀吉は小田原攻めの最中に、既に関東・東北の平定を視野に入れており、小田原から会津までの道路普請の法度を出し、平定軍の移動の便を図って道路事情の改善を命じていた。その為、織部は秀吉の移動に合わせて、秀吉の御座所設営などに携わっていたと思われる。

秀吉は、小田原城とその支城を平らげて奥州仕置に取りかかった。彼は、浅野長政蒲生氏郷を伴い北上行軍し、宇都宮城に入って領地の再配分を行った。この時、氏郷は伊勢国から陸奥国会津に移封された。常陸佐竹陸奥南部などの仕置を行い所領安堵。奥州の伊達を、小田原参陣に遅刻した理由に加えて奥州各藩侵攻の咎(とが)を挙げて150万石から72万石に減封した。その後、更に北上、豊臣軍を率いて巡検を行った。秀吉は途中で引き返したが、巡検の行軍は平泉まで到達した。道々一揆等の討伐を進め、新体制の行政移行や検地を行って東北平定を進めて行った。この奥州平定は短期間に一気呵成に行われたもので、領地の策定や移封への不満、検地によって年貢米増加などの危機感を持つ者達が一斉に蜂起、翌年の1591(天正19)に、豊臣秀次を総大将とする総勢6万の鎮圧軍が改めて派遣される事態になった。

1590(天正18.08)        利休、小田原より帰洛

1591(天正19)             津田宗及卒。葬・堺の南宋

宗及には二人の子がいた。長男が天王寺屋を継いだ津田宗凡である。次男が臨済宗大徳寺の僧・江月宗玩(こうげつそうがん)である。宗玩は黒田家の菩提寺龍光院(りょうこういん)を継いだ。そして、黒田長政の支援により、龍光院内に宗玩を開祖として小堀遠州「孤篷庵(こほうあん)を建てた。孤篷庵には「忘筌(ぼうせん)という十二畳の書院造の茶席がある(点前座・三畳の相伴席を含む)。「忘筌」は重要文化財である。また、ここには津田宗及が所持していた国宝曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)が収められている。

1591.02.15(天正19.01.22) 豊臣秀長病死 享年52

秀長は前年の天正18年1月頃から病状が悪化、同年10月に病気回復の祈願を甥の秀次が談山神社で行ったが、回復する事はなく小田原征伐には出陣が出来なかった。温厚で包容力があり、秀吉の良き補佐役だった彼が亡くなった事によって、秀吉を上手に制御できる者がいなくなった。秀吉の頑迷が強くなり暴走を始めた。千利休切腹も朝鮮遠征も、最早止める者がおらず、秀吉認知症の進行と共に政権の末期的症状を見せ始める。

大和大納言・豊臣秀長の跡を継いだのは甥で養嗣子の秀保(しげやす)である。秀保は秀吉の姉・ともの子で、関白秀次の弟である。

 

 

                             利  休 切 腹

 

1591.04.06(天正19.02.13) 利休に謹慎せよとの命が下る。

秀長が病死してから僅か一ヵ月も経たない内に、利休への仕置が始まる。利休に謹慎の命が下ると、利休はその日の内に堺へ下った。

1591.04.06(天正19.02.13)  古田織部と細川三斎、利休を見送る。

蟄居を命じられて堺に下る利休を、織部と細川三斎は共に淀の泊りで見送る。秀吉の怒りに触れるのを恐れて、他の大名達は利休を見送りに行かなかった。

1591.04.18(天正19.02.25)  利休、辞世を詠む

1591.04.19(天正19.02.26)  利休、京都に護送される。

1591.04.21(天正19.02.28)     利休切腹 享年70

1591.〃.〃(天正〃.〃.〃)        豊臣秀次、関白職を継ぐ。

秀吉、隠退して太閤となり、実権を握る。

 

                                 文 禄 ・ 慶 長 の 役

 

1592                                  文禄の役が始まる。

秀吉は、日本国内における征討の成功体験に浮かれ、その勢いでやれば大陸を簡単に我が物とできる、と考えてしまった。誇大妄想の一人の老人が世界の王になった気分で他国に臣従を要求、それは明や朝鮮ばかりかフィリピンやインドにまで及んだ。先ずは明を手に入れようと、明への経路である朝鮮に侵攻した。だが、当然のことながら朝鮮側も抵抗する。日本軍の消耗は激しかった。

1592(天正20/文禄1)        蒲生氏郷(利休七哲の一人)文禄の役肥前名護屋へ出陣した。

1592(天正20/文禄1)    長岡忠興(=細川三斎)(利休七哲の一人)、朝鮮へ渡海し晋州城(しんしゅうじょうorチンジュソン)を攻める。

1592(天正20/文禄1)    古田織部(利休七哲の一人)名護屋の後詰で兵卒300名を率いて守備

1592(天正20/文禄1)    牧村利貞(利休七哲の一人)、船奉行を務める。

朝鮮渡海の船奉行を務めて渡海。上陸して昌原の戦いに加わり、更に晋州城の戦いで戦功をあげるも、朝鮮にて病死する。

1593.01.10(文禄1.12.08) 天正→文禄へ改元

1593.08.29(文禄2.08.03) 淀殿が秀頼(拾)を出産。

秀吉、大いに喜ぶ。『言経日記(ときつねきょうにっき)によると、この時、秀吉は日本を5つに分け、その内の4/5を秀次に与え、1/5を拾(=秀頼)に与えるという構想を言っていたそうである。

1595.05.24(文禄4.04.16) 豊臣秀保急死 享年17

小堀政一(=遠州)の父は豊臣秀長の家老を務めていた。秀長没後、家督を秀保が継いだ。秀保は秀長の養嗣子である。しかし、秀保も間もなく死亡したので、政一はこれを機に秀吉直参となって秀吉に仕えて、伏見に移住する。ここで政一は古田織部に茶湯を習う様になる。

1595(文禄4.06)      関白・秀次に謀反の疑い。

1595.08.08(文禄4.07.03) 秀次の下へ、査問の使者が来る。

聚楽第に居た関白・秀次、秀吉より5ヶ条の詰問状を受け、清洲城に蟄居を促された。秀次、誓詞に反逆心が無い事を誓い、出頭しなかった。

1595.08.20(文禄4.07.15) 秀次、死を賜り高野山にて切腹す。

1595.09.05(文禄4.08.02) 秀次の妻妾と子等29名、三条河原にて処刑

1596.04.29(文禄5/慶長1.04.02) 古田織部、茶会を開く。客は上田宗箇など。

1596.09.05(文禄5/慶長1.07.13) 慶長伏見地震

震度:M7.0、 震源地:北緯34.8°東経135.7° 京都及び大坂・神戸等畿内被害甚大。伏見城天守閣大破、諸寺民家倒壊死傷者多数。方広寺損壊。余震は翌年迄続いた。

なお、慶長伏見地震前後に大きな地震が多発している。

慶長伏見地震の4日前に慶長伊予地震 M7.0

   〃   1日前に慶長豊後地震M7.0 (別府湾の瓜生島・久光島沈没)。 

1605年に東海・南海・西海道の慶長地震M7.9(津波犬吠埼から九州迄)

1611年会津Ⅿ6.9(寺社民家倒壊大破20,000戸、死者3,700人)。

1611年三陸及び北海道東岸Ⅿ8.1 (揺れの被害軽微、津波被害甚大)

1596.12.16(文禄5/慶長1.10.27) 文禄→慶長に改元

地震多発の状態に、「文禄」の元号は不吉であるとして、慶長に改元する。

1597(慶長2)          この頃の古田織部の所領は8千石。

この頃の古田織部の所領は南山城の瓶原(みかのはら)(現木津川市)と井戸堂(現天理市)を合わせて8千石になっていた。

1597.04.07(慶長2.02.21) 慶長の役

秀吉、唐入りの朱印状を諸将に出す。「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他も侵攻せよ」というもので、朝鮮との講和決裂を機に、再び朝鮮征伐が開始された。秀吉は加藤清正小西行長黒田長政島津義弘などなど諸将に朝鮮出陣を命じ、小早川秀秋を総大将にして14万の兵が渡海した。

2度目の渡海ということもあり陸戦も海戦も順調に勝ちを進めて行った。全羅道(朝鮮半島南端西部)、忠清道(全羅道の北)を掃討したが、加藤清正軍が築城中の蔚山倭城(ウルサンワジョウ)の戦いで籠城戦になり、兵糧が無く苦戦を強いられた。毛利の援軍により形勢が盛り返し、これ以降連戦連勝になって行く。戦国時代を戦い抜いて来た武士達は、彼等が持っている弓・銃・槍・刀などの武器の性能も良かった。日本軍の銃の命中率、弓の飛距離、槍の使い勝手など習熟しており、戦闘能力が高かった。特に日本刀の切れ味は朝鮮側の脅威になった。

1597.10.21(慶長2.09.11) 古田織部、伏見で茶会を開く。客は奈良衆

1598.04.20(慶長3.03.15) 醍醐の花見

秀吉、各地から桜の木を集め、醍醐寺に植えて花見を楽しんだ。

1598.04.20 (慶長3.05.15) 秀吉、遺言書を書く

秀吉は五大老(徳川家康前田利家前田利長宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元)と五奉行に宛てた11か条の遺言書を書いた。それを受けた者は起請文を書き血判した。最期まで秀吉は「我が子秀頼」の行く末を心配し、特に家康には念入りに頼んだ。

1598.09.18 (慶長3.08.18) 秀吉、伏見城薨去(こうきょ)

秀吉薨去の事態を受けて、五大老により朝鮮からの撤退が決定された。この報せは現地の小西行長に届けられた。彼は戦争終結に向けて撤退交渉に臨んだ。11月中旬、日本軍は釜山(ぷさん)に集結、11月下旬に殿(しんがり)島津義弘が釜山を出航、ようやく慶長の役終結した。

秀吉の覇権の夢は、皮肉な事に豊臣政権の崩壊に繋がった。遠征した諸将は武器・弾薬・装備・兵糧・人員など自腹の持ち出しであり、人的にも経済的にも莫大な損失を蒙り、疲弊した。領国は荒れ、地震災害も有ってその打撃は計り知れなかった。

一方、渡海しなかった徳川家康は、勢力を温存する事が出来た。家康は五大老の中で発言力を強め、ポスト秀吉の道を歩み始めた。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

国文学資料館 山上宗二記 

山上宗二記』の真実第二回:掲示:寺子屋素読の会

山上宗二記』第一稿できました。言の葉庵

戦国日本の津々浦々ライト版 やまのうえ そうじ

嗜好品文化研究会 研究会の記録 「茶の湯 その様式美」 谷晃

『藩政成立期における二・三の問題について豊後岡藩中川氏の事例を中心として』別府大学別府大学短期大学部

理科年表 東京天文台編纂

和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-CASIO

戦国ヒストリー 「奥州仕置(1590)」秀吉の天下統一最終段階! 東北平定と・・・

日本の旅侍、奥州仕置(1/2) 豊臣秀吉が東北平定、波紋を呼んだ

サライ.jp 無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真実

会津のおさんぽ話 関白秀吉の会津下向 会津長門|創業嘉永元年心をつなぐ

天下統一期年譜1592年 「人文学情報処理研究センター(人情研)

この外に「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「地図」「地域の出している情報」

などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。