太閤秀吉が古田織部に「武士に相応しい茶の湯を創始せよ」と命じ、織部はそれに応えました。秀吉は、今、世の中で行われている茶の湯は町人の茶である、武士がやる様な茶では無い、と思っていたのでしょう。
侘茶の、余計な装飾を一切省き、冥界を思わせる様な薄暗い侘しさの中に見る究極の美は、諸行無常の提示にも見えます。三途の川の川霧に朧(おぽろ)げに浮かぶ一輪の蓮、そんなイメージの侘びの美ですが、日常をひょいと跨げば死の世界に瞬間移動してしまう武士にとって、そのような「メメントモリ(死を想起せよ)」的なイメージは、「言われずとも分かっとるわい」であり、余計なお世話なのです。むしろ武士は、死に至るまでの「生を謳歌せよ」の立場です。ですから、秀吉の黄金の茶室が出現したのです。
古田織部は束(つか)の間の全盛を誇り、東西の争いに巻き込まれて消えて行きます。茶の湯も受難の時代でした。堺は灰燼(かいじん)に化し、畿内は天下争乱に茶の湯をする余裕を失います。茶の湯愛好家の武将達は戦場を駆け、茶史はいよいよもって戦史と軌を一にします。
茶 史
織部が直に関係した件は黒字、茶史・その他政治史・戦史に関しては青字で記します。
1601(慶長6) 家康、諸城築城・修復など天下普請を行う。
1601.01.23(慶長5.12.19) 関白に九条兼孝が就任。
豊臣秀次が死亡し関白職が空位になっていた。家康は関白職を摂関家に戻した。
1601.03.03(慶長6.01.29) 織部、伏見自邸で茶会。
客は上田宗箇、金森出雲、桑山伊賀、小堀遠州らである。
1601.04.25(慶長6.03.23) 家康、伏見城で政務を執り、徳川氏の系図を改正。
1601.05.19(慶長6.04.17) 織部、大和井戸堂(現天理市)の屋敷で茶会。
1601(慶長6.05) 家康、二条城の造営を始める。
1601.06.03(慶長6.05.03) 織部、松屋久好らに九輪釜と風炉の切形を与える。
1602.01.05(慶長6.閏11.12) 織部、伏見で茶会
信長旧蔵の唐物肩衝背高(せいたか)を入手し、奈良衆相手に初披露の茶会を開く。
1602.01.14(慶長6.閏11.21) この日付で織部、毛利秀元宛の書状あり。
この日付けの翌日22日に、秀元を茶湯に招待する。この頃、織部と毛利秀元の交流が盛んになる。秀元は織部の弟子の中でも優れた茶人であった。
1602(慶長7) 上田宗箇、和歌山城西の丸庭園を作庭。
宗箇、浅野幸長(あさの よしなが)に招かれ紀州に行き、1万石を給される。和歌山城修築の際、庭づくりに携わった。
1602(慶長7) 家康、佐竹義宣を出羽国久保田に転封し減封す。
1602(慶長7.12) 伏見城再建なる。
関ケ原前哨戦で落城の伏見城が再建。大坂に移転していた大名達も伏見に戻って来る。
1603(慶長8) 丹羽長重、常陸国古渡1万石を与えられる。
1603.02.23(慶長8.01.13) 古田重勝、古田重然(織部)の茶会に正客で招待される。
1603.03.24(慶長8.02.12) 家康、征夷大将軍と右大臣に任命される。
家康、伏見城で将軍宣下を受け征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開く。
1603.04.23(慶長8.03.12) 家康、伏見城から二条城に移る。
1603.04.23(慶長8.03.21) 家康、宮中に参内し将軍拝賀の礼を行う。
1603.05.14(慶長8.04.04~)家康、将軍職就任祝賀の宴を3日間催す。
1603.06.12(慶長8.05.03) 織部、朝の茶会。客は浅野幸長と上田宗箇。
1604(慶長9) 小堀政一(遠州)、父の遺領備中松山1万2千石余を継ぐ。
1604.03.01(慶長9.02.01) 織部、伏見で茶会を開く。客は奈良衆。
1605.01.19(慶長9.12.01) この日付で山口直友(幕臣)より島津義弘宛に書状有り。
家康の側用人の山口直友は、薩摩との取次役をしていた。彼は薩摩焼の評判が良く、皆が薩摩焼の茶入れを欲しがっている事、その茶入れを織部が褒めていた事を知らせた。そして、秀忠がその茶入を茶会に使用予定だから、それまで人に見せず誰にも与えてはならないと指示した。
1605(慶長10) 片桐貞昌(石州)誕生。
貞昌は片桐貞隆の長男として誕生。彼は桑山宗仙(千道安の弟子)について茶湯を学び、小堀遠州などとも交流、後に石州流の開祖となる。
1605.04.01(慶長10.02.13) 織部、薩摩焼の肩衝茶入を入手。(1605.01.19参照)
山口直友書状で話題の薩摩焼肩衝茶入を、秀忠が使用後、織部が真っ先に入手した。
1605.5.22or5.26(慶長10.4.5or10.4.9) 織部の茶会に徳川秀忠が出席する。
1605.06.02(慶長10.04.16) 家康、将軍職を辞す。
1605.06.17(慶長10.05.01) 秀忠、征夷大将軍宣下。
1605.07.11(慶長10.05.25) 織部、神谷宗湛・堺衆・中国衆を客にして伏見で茶会。
1605.07.13(慶長10.05.27) 織部、浅野幸長邸で朝の茶会に出席。宗箇と同席。
1606.07.20(慶長11.06.16) 古田重勝(織部従弟)卒 (享年46)
1606.10.22(慶長11.09.21) 織部、伏見で茶会を開く
客は豊後大分城城主・竹中伊豆守(竹中半兵衛の義弟)、毛利伊勢守(毛利高政)、榎田清右衛門、池田備前守、神谷宗湛、京の宗珍(=国嵬宗珍 (こくがいそうちん))
1607.06.02(慶長12閏4.08) 結城秀康没。死因梅毒 享年34
1607.11.03(慶長12.09.14) 5代志野流の志野宗因没
志野流は香道の流派であると共に、茶道の流派でもある。志野流の茶道は『遠州ほど華やかでなく、石州ほど武骨でなく、町人の千家流ほど侘びてはおらず、ほどよい礼風がある』と鳥取藩主の子・池田仲雅が気に入って志野流の茶道を藩に導入した。宗因の弟子に織田有楽、古田織部、本阿弥光悦、烏丸光弘、細川三斎、三宅亡羊、金森宗和がいる。
1607.03.09(慶長12.02.12) 織部、茶会を開く。
客は浅野幸長と上田宗箇。この時、道具の置き合わせの質問に対して織部が答える。
浅野幸長は、日頃茶湯について分からなかった事を、上田宗箇を通して織部に尋ねていた。それが『茶道長問織答抄』と言う本に纏められた。『茶道長問織答抄』とは、茶道について幸長が問い、織部が答える、と言う意味である。
1607(慶長12) 織部、大坂城内に於いて豊臣秀頼に献茶をする。
献茶は織田有楽(おだうらく(=織田長益(おだながます))と共に行った。
1608.02.24(慶長13.01.09) 織部、茶会。客は宗箇
1608.05.13(慶長13.03.29) 織部、自邸の鎖の間に浅野幸長と宗箇を招き、振る舞う。
1609(慶長14) 小堀政一、従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙任。
1609.03.12(慶長14.02.07) 織部、自邸鎖の間にて夜咄(よばなし)。
客は浅野幸長と宗箇。夜咄とは冬の夜に灯(ともしび)を頼りに行う茶会である。
1610.10.01(慶長15.08.15) この日付で肥後の松井康之宛の古田織部書状有り。
松井康之は細川藤孝・細川忠興に仕え家老だった人物である。彼は地場産業の上野焼(あがのやき)を織部に送って意見を求める。
1610(慶長15.09) 古田織部、将軍秀忠に茶道を伝授する。
織部、江戸城へ出向き、二代将軍・徳川秀忠に茶の湯の台子点てを伝授する。将軍の師となった事で「数寄者之随一」の評判を得る。
1611.03.23(慶長16.02.09) 春屋宗園入寂 享年83
1611.05.29(慶長16.04.07) 浅野長政没 享年65
1611.07.26(慶長16.06.17) 堀尾吉晴没 享年69
1611.08.02(慶長16.06.24) 加藤清正没 死因梅毒 享年50
1611.09.18(慶長16.08.12) 織部、宗箇から水指(みずさし)の事を尋ねられる。
上田宗箇は織部に利休の小型の水指の扱いを尋ねる。(水指は水を入れて置く器。小さな甕(かめ)か水桶の様な形の物。薬缶や急須の様な注ぎ口は無い)
1611.10.13(慶長16.09.08) 織部邸に来客あり。船越、猪子等。
松屋会記によると、この時の織部邸は小座敷が未だ普請中だったらしい。「小座敷は作事半ばなり」と書かれているそうである。
1611.12.16(慶長16.11.13) 織部邸で茶会。宗箇や浅野孫左衛門ら6人
1612(慶長17) 天王寺屋津田家嗣子無くして断絶。
『天王寺屋会記』『曜変天目茶碗』など茶器名品が大徳寺龍光院の江月宗玩(こうげつそうがん)に渡った。江月宗玩は津田宗及の子である。宗玩は、茶の湯を父・津田宗及と古田織部、小堀遠州に学び、松花堂昭乗や狩野探幽とも交流、千宗旦とも親しかった。
1612.02.13(慶長17.1.12) 織部、堺の茶会で宗箇と浅野幸長同席
1613.01.12(慶長17.11.22) この日付の島津義弘宛古田織部書状有り。
織部、贈られた薩摩焼肩衝茶入2点の御礼を述べ、作陶の助言をしている。その中で薩摩焼肩衝茶入の姿形は良いが、釉薬が良くないと言い、又、上田宗箇が焼かせた作品を批判している。
1613(慶長18) 上田宗箇、本願寺准如上人光昭の朝の茶会の客になる。
織田頼長は織田長益(有楽)の嫡男で、豊臣方の強硬派である。頼長は利家が豊臣方に与(くみ)する様に説得に訪れた。利長これを拒否。(利長は前田利家の嫡男)
1613.03.16(慶長18.01.25) 池田輝政没 死因中風 享年50
1613.10.09(慶長18.08.25) 浅野幸長没 死因梅毒 享年50
幸長は武断派の中心的人物で終生に渡って豊臣家に忠誠を誓い続けた。徳川家に暗殺されたとの説も有る。織部の弟子。茶書『茶道長問織答抄』を残す。
1614.06.27(慶長19.05.20) 前田利長没 死因梅毒(服毒自殺とも) 享年53
大 坂 の 陣
冬の陣
1614(慶長19) 片桐貞昌(=石州)、人質になる。
貞昌は片桐貞隆の長男で片桐且元の甥。10歳の時、人質として板倉勝重に預けられる。
1614(慶長19) 片桐且元、方広寺鐘銘筆者に文英清韓を選ぶ。
文英清韓(ぶんえい せいかん)は南禅寺の長老。銘文の中の「国家安康」「君臣豊楽」が問題視される。
1614(慶長19.06) 家康、英国より大砲を輸入
輸入したのは、カルバリン砲4門(射程6.3㎞)、セーカー砲1門
1614.08.31(慶長19.07.26) 幕府、方広寺大仏殿の上棟供養の延期を命じる。
1614.09.16(慶長19.08.13) 豊臣方、鐘銘文弁明の為に使者を駿府に派遣。
派遣されたのは片桐且元・文英清韓。後発に大蔵卿局も派遣される。
1614.09.21(慶長19.08.18) 京都五山に方広寺鐘銘の適否を問う。
京都五山(東福寺、天龍寺、南禅寺、相国寺、建仁寺)は徳川に忖度し、不敬と判断す。
1614.09.23(慶長19.08.20) 家康、且元に解決の条件を付ける。
その条件とは、①秀頼が江戸に参勤する。②淀殿が人質として江戸に来る。③秀頼が大坂城を出て、大名として領国に国替えする、というものだった。
1614.10.01(慶長19.08.28) 古田織部、文英清韓を茶席に招く。
織部、鐘銘事件について清韓を慰める。幕府、これを知り、織部を叱責す。
1614.10.21(慶長19.09.18) 片桐且元、弁明不首尾に終わり、大坂に帰る。
銘文を書いた清韓は南禅寺から追放される。
1614.10.26慶長19.09.23) 片桐且元の暗殺計画。
1614.10.30(慶長19.09.27) 秀頼、且元に隠居を命じて執政の任務を解く。
1614.11.02慶長19.10.01) 且元、引き継ぎを済ませ手勢を率いて大坂城を出る。
この頃、織田長益(=有楽=如庵)も大坂城を出る。大坂城内では穏健派と強硬派が分かれていて、長益は大野治長らと共に穏健派だった。ところが、嫡男の織田頼長は強硬派であり、対立。長益は「誰も自分の下知を聞かぬ。もはや城内に居ても無意味」と言って、家康と秀忠の許しを得て、大坂城から出て、豊臣家から離れた。同時期、織田信雄(信長次男)、織田信則(信長の甥)、石川貞政など複数の重臣達も大坂城から退去する。
1614.11.03(慶長19.10.02) 豊臣家、恩顧の武将に声を掛け、浪人を集め戦争準備に着手。
集めた兵力10万。浪人達は大坂城にやって来たが、大名達の中に馳せ参じるものは無かった。真田信繁、長曾我部盛親、後藤基次などの将は居たが、御家取潰しに遭ったり浪人の身であったりして、一国一軍を率いての参加では無い。彼等将達は寄せ集めの浪人達を指揮する困難さを抱えていた。大坂方は兵糧買い付けと、諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収を行った。
1614.11.06(慶長19.10.05) 家康、且元が無事に茨木城入城を喜ぶ。
1614.11.11(慶長19.10.10) 且元、土佐国に対し大坂へ米を回送する事を禁ず。
1614.11.12(慶長19.10.11) 家康、軍勢を率いて駿府を出陣する。
1614.11.24(慶長19.10.23) 家康、二条城に入る。
1614.11.24(慶長19.10.23) 秀忠、6万の兵を率いて江戸を出発。
1614.11.26(慶長19.10.25) 家康、藤堂高虎と片桐且元に先鋒を命ずる。
1614.12.01(慶長19.11.01) 且元、小豆島周辺3ヵ国に大坂城の経済封鎖を命ずる。
1614.12.05(慶長19.11.05) 且元、今井宗薫ら堺衆の奮戦を称賛する。
豊臣と徳川の激突が避けられない中、豊臣側は堺に武器の提供を求め、これを断れば堺を攻撃すると脅した。堺の代官・今井宗薫と堺奉行・芝山正親は徳川に密かに援護を求めたが、露見してしまう。そこで宗薫は、大坂城を出て茨木城に戻った片桐且元に救援を求めた。豊臣方は密告によりそれを知り、10月13日に豊臣軍300をもって堺を攻撃して占拠。同日、且元が派遣した救援軍は一歩遅く到着して奪還できず、且元軍の将・多羅尾牟左衛門以下200の兵は全滅してしまう。また、今井宗薫と宗呑(宗薫長子)は大坂方に捕らえられ、財産全てを没収されてしまった。
1614.12.15(慶長19.11.15) 家康、二条城を進発、奈良経由で大阪へ向かう。
1614.12.18(慶長19.11.18) 家康、茶臼山陣城で秀忠と落ち合う。
1614.12.19(慶長19.11.19) 木津川口の戦い。陸戦と船戦。
[豊臣軍]敗北 樋口雅兼,(明石全登(てるずみor他に読み多数) (不在中)) 800 VS
[幕府軍]勝利 蜂須賀至鎮(よししげ)・浅野長晟(ながあきら)・池田忠雄
3,000
豊臣軍の守将は明石全登だったが、軍議の為に大坂城へ行っており留守だった。
1614.12.23(慶長19.11.23) 家康、淀川の流れを尼ケ崎に流す長柄橋工事を命ず。
1614.12.26(慶長19.11.26) 鴫野(しぎの)の戦い・今福の戦い。
鴫野の戦い
[豊臣軍]敗北 大野治長,竹田永翁,渡辺糺,穴澤盛秀 14,000 VS
[幕府軍]勝利 上杉景勝,堀尾忠晴,丹羽長重,榊原康勝,佐竹義宣 6,300
今福の戦い
[豊臣軍]惜敗 矢野正倫(まさもと),飯田家貞,木村重成,後藤基次 3,600 VS
[幕府軍]辛勝 上杉景勝,直江兼続,堀尾忠晴,榊原康勝,佐竹義宣 2,500
織部、佐竹義宣の陣所見舞い中に負傷する。織部は竹林に入り茶杓の竹を探していた。
1614.12.29(慶長19.11.29) 博労淵(ばくろうぶち)の戦い、野田・福島の戦い
[豊臣軍]敗北 薄田兼相,平子正貞,米村六兵衛 700 VS
薄田兼相(すすきだ かねすけ)(=薄田隼人(はやと)=岩見重太郎)は、化け物退治の英雄として有名。博労淵の戦いの時は、砦の守将でありながら遊女と遊んでいた為に砦が陥落してしまった。ついたあだ名が橙(だいだい)武者。見栄えは立派でも酸っぱくて喰えないから。
1615.01.02~01.03(慶長19.12.03~04) 真田丸の戦い。八丁口・谷町口
[豊臣軍]勝利 真田信繁,後藤基次,木村重成,長曾我部盛親 17,000以上 VS
[幕府軍]敗北 前田利常,井伊直孝,松平忠直 26,000以上
大坂城の出丸の真田丸は、攻め手を罠に誘う優れた構造を持っており、それを活かして、豊臣側は徳川方を盛んに挑発した。その手にまんまと乗ってしまった徳川軍は、多大な犠牲を払うことになった。
1615.01.02(慶長19.12.03) 豊臣方と徳川方との間で和平交渉始まる。
1615.01.04(慶長19.12.05) 家康、本陣を茶臼山に移す。
1615.01.08(慶長19.12.09) 淀川の流れ改変の工事完了。
1615.01.09(慶長19.12.10) 家康、大坂城に降伏を促す矢文を送る。
1615.01.10(慶長19.12.11) 家康、大坂城の土塁石垣を破壊する為の坑道掘削開始。
1615.01.14(慶長19.12.15) 和議交渉が暗礁に乗り上げる。
1615.01.15(慶長19.12.16) 家康、全軍より一斉砲撃を始める。大筒100門以上
6月に英国から輸入したカルバリン砲やセーカー砲に加えて、オランダから大砲12門(半カノン砲)も備わっていた。
1615.01.18(慶長19.12.19) 和平交渉成立
条件は惣構えの南堀、西堀、東堀を埋める事。淀殿を人質とはしない事。代わりに大野治長と織田有楽との間の人質交換。秀頼の身の安全と本領安堵。城中諸士不問。和平成立後、家康、駿府に帰る。秀忠は伏見に戻る。諸大名攻囲を解き国元へ帰る。和平への動きとは逆行する様に、徳川、国友鍛冶に大砲の製造を命じる。
1615(慶長20) 堺、江戸幕府の直轄地になり堺奉行が置かれる。
1615.02.20(慶長20.01.23) 大坂城、外堀内堀の全ての埋め立て工事完了。
夏の陣
1615.04.12(慶長20.03.15) 京都所司代より治安悪化の報告が駿府に届く。
京都所司代・板倉勝重から、浪人共の乱暴狼藉、大坂城の堀や屏などの復旧の動き、京や伏見への放火の噂などがある、との報告が家康の下に届く。
1615.04.27(慶長20.03.30) 織部の茶堂・木村宗喜、京都所司代に捕らえられる。
木村宗喜、薩摩島津の連歌師が豊臣氏に内通して京への放火を企てた罪で、京都所司代板倉勝重に捕えられた。織部、伏見屋敷に幽閉される。
1615.04.28(慶長20.04.01) 家康、畿内の浪人取り締まりを命ず。
大坂から逃れて来る浪人共を捕縛せよ、と畿内の大名に命じ、また、伏見城の警護の為に小笠原秀政を派遣した。
1615.05.01(慶長20.04.04) 家康、9男義直の婚儀の為、駿府から名古屋に向かう。
1615.05.02(慶長20.04.05) 大坂方、豊臣家の移封を断る。
1615.05.03~04(慶長20.04.06~07) 家康、諸大名に鳥羽・伏見に集結を命ず。
1615.05.06(慶長20.04.09) 大坂城内で、大野治長、襲撃される。
1615.05.07(慶長20.04.10) 家康、名古屋城に到着。秀忠は江戸を出発している。
1615.05.09(慶長20.04.12) 名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われる。
義直の相手は春姫と言って父は紀州藩初代藩主・浅野幸長、母は池田恒興の娘。大変豪華な嫁入りで、これが、現代にも続く名古屋の豪華な結婚式の元になっている。
1615.05.09(慶長20.04.12) 豊臣側、武備を整えはじめ、浪人達に金銀を配る。
1615.05.15(慶長20.04.18) 家康、二条城に入る。
1615.05.18(慶長20.04.21) 秀忠、二条城に到着。
1615.05.26(慶長20.04.29) 樫井(かしい)の戦い
[豊臣軍]敗北 大野治房,塙(ばん)直之,岡部則綱,淡輪重政(たんのわ しげまさ)
3,000 VS
[幕府軍]勝利 浅野氏重,上田重安(=宗箇),亀田高綱 5,000
豊臣軍は大和郡山城を落し、堺を焼討。堺は灰燼に化す。
1615.06.02(慶長20.05.06) 道明寺・誉田(ほんだ)合戦
[豊臣軍]敗北 後藤基次,真田信繁,他に将15名 18,000 VS
[幕府軍]勝利 水野勝成,本田忠政,松平忠明,伊達政宗,松平忠輝,他に将22名
34,000
大坂城の堀が埋め立てられた為、豊臣軍は野戦をせざるを得なかった。幕府軍は既に軍略の地に展開を済ませており、豊臣軍は作戦通りにいかず出遅れていた。豊臣軍の後藤基次、薄田兼相、井上時戦死。幕府軍は奥田忠次と秋山直国が戦死。なお、古田重勝の後継・古田重治は幕府軍二番手の本多忠政隊に所属。
1615.06.02(慶長20.05.06) 八尾・若江合戦
八尾の戦い
[豊臣軍] 長曾我部盛親,増田盛次,吉田重親 5,300 VS
若江の戦い
[豊臣軍] 木村重成,山口弘定,内藤長秋,木村宗明,他3名 6,300 VS
[幕府軍] 井伊直,榊原康勝,仙谷忠政,丹羽長重,保科正光,他3名 9,500
八尾の戦いでは豊臣側の武将3名の内2名が戦死した。幕府側では武将3名の内1名戦死。若江の戦いでは豊臣側の武将7名の内6名が戦死した。幕府側では武将8名の内1名戦死。
激戦が繰り広げられ、勝敗が判然としない。豊臣側は武将を殆ど失いながらも、幕府軍を敗走させたりしている。
1615.06.03(慶長20.05.07) 天王寺・岡山合戦
[豊臣軍]敗北 総大将 豊臣秀頼。
[幕府軍]勝利 総大将 徳川家康。 諸将総力 150,000
1615.06.03(慶長20.05.07) 大坂城落城
1615.06.03(慶長20.05.07) 古田織部、伏見にて捕縛される
1615.07.06(慶長20.06.11) 古田織部切腹。享年73
古田織部は板倉勝重の取り調べに対して「かくなるうえは入り組み難きゆえ、さしたる申し開きもなし」と言って切腹した。
板倉勝重は公正な裁判をする事で知られていた。彼は、自白に寄らず必ず自身でその裏を調べ、証拠は適正であるか、嘘が無いか、讒言ではないか、理に適っているか、本人の言い分などについて、当時としては珍しく真摯に向き合って裁判をしたと言われている。その為、たとえ犯人であっても、その判決に納得したと言う。彼の善政を慕う庶民も多く、判例などをまとめた『板倉政要』が後世に伝わっている。後の大岡政談の中には、板倉勝重とその子・重宗が扱った判例などが大岡越前の話として入っている事もある。
余談 破袋
1610(慶長15) この頃、伊賀焼耳付水指「破袋(やぶれぶくろ)」が作られる。
織部から大野主馬治房宛ての書状に、約束していた伊賀焼の水指が出来た、これほど素晴らしい物は今後出る見込みが無いのでお勧めします、と言う内容が書かれてある。日付は霜月(11月)2日
書状文面
『已上
内々御約束之伊賀焼之水指進入候。今後、是程のものなく候間、如此候。大ひゞきれ一種候か。かんにん可成と存候。猶、様子御使に申し渡候。恐惶謹言
大主馬様 人々御中』
この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。
『よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇』展 広島県立美術館
世界美術全集 第8巻 桃山、第9巻 江戸1 角川書店
茶会記を深読みする№3 「江戸時代前期の茶会記の検証」古陶磁鑑定美術館
古伊賀水指 銘 破袋 五島美術館 解説
伊賀耳付水指 銘破袋(やぶれぶくろ) 表紙解説 三重県立美術館
藤堂高虎と古田織部と破れ袋 建築デザイナー/大学常勤講師/陶芸家
なにわ大坂をつくった100人—足跡を訪ねて
志野流茶道 松風会について
京の大仏-各大仏・大仏殿の顛末(通史)
大坂の陣絵巻 堺占領の解説
和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-CASIO
この外に「ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「地図」「地域の出している情報」「観光案内」などなど
書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。
ありがとうございました。