式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

86 足利義持と上杉禅秀の乱

 トップの座に据えるべき人物を選ぶのは大変です。最新のニュースでも、或る団体のトップ交代を巡る一騒動がありました。ましてや、帝位や将軍位にまつわる人事では、国を争乱に巻き込むような事態に発展する例が後を絶ちません。

 

足利義持

室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)は父・義満との確執はあったものの、順当に将軍位に就く事が出来ました。義持が将軍に就いたのは9歳、将軍の実権を握ったのは23歳、それまで父義満が将軍の実権を握っていました。義満が薨去してからようやく名目上の将軍職から実質上の将軍になった義持でした。

彼は父が成した業績を壊し、政治路線を変えます。鹿苑寺の破却と勘合貿易の廃止です。それでも家臣からの反対は無く、朝廷とも一層良好な関係を結ぶことができ、長期安定政権を築く事が出来ました。義持の将軍継承については表面上全く問題がないように見えました。ただ、紛争の種だけは父によってしっかりと撒かれていたのです。

その種とは弟・義嗣(よしつぐ)でした。義嗣は義持の異母弟です。父・義満は義嗣を異常なほど可愛がっていました。義嗣の元服を宮中の清涼殿で行うなど、武家棟梁の家にはあるまじき扱いをし、まるで親王の御元服のようだと公家達から眉をひそめられました。元服を済ませた義嗣を、義満はその日の内に早速従三位に昇進させます。弟・義嗣への目に余る父の溺愛ぶりは、義持を警戒させるのに十分でした。つぎの将軍は義嗣様ではないかと、考える人々も出始めていました。そのような時、上杉禅秀の乱が起きました。 

 

上杉禅秀の乱

室町幕府は京都に政庁を置き、鎌倉へは幕府の支庁を置いていました。この支庁を鎌倉府と呼んでいます。鎌倉府のトップは鎌倉公方(かまくらくぼう)といい、2代将軍足利義詮の弟・基氏(もとうじ)が分家して、その子孫が代々継いでいました。

1409年鎌倉公方の跡を継いだ足利持氏(あしかがもちうじ)は11歳でした。その頃、彼の叔父・足利満隆(あしかがみつたか)が謀反をするとの噂が流れ、持氏は怖くなって関東管領上杉憲定(うえすぎのりさだ)の屋敷に逃げ込みます。上杉憲定は持氏の異母弟・持仲(もちなか)を滿隆の養子にすることで、持氏と満隆を和解させます。この養子の話は、和解に結びつく解決策には何ら関係もないように見えますが、鎌倉公方に接近して権力を得たい満隆にとっては、その足掛かりを得る策として、先を見据えた一手の駒だったに違いありません。

 この騒ぎで上杉憲定は責任を取らされ関東管領辞任に追い込まれます。

代わりに関東管領になったのが上杉氏憲(うえすぎうじのり)(=禅秀)です。

 上杉憲定と上杉氏憲(禅秀)の先祖は同じですが、途中で分かれて別々の上杉流家系になっています。

(ここから先は、上杉氏憲を出家後の法名上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)、又は単に禅秀と呼ぶことにします。)

経過

 鎌倉公方足利持氏が若いので、新しく管領になった上杉禅秀が持氏を補佐する様になりました。禅秀は次第に権勢をふるう様になります。それを嫌った持氏は、上杉憲基(のりもと)を重んじる様になります。そう、憲基は、叔父・足利満隆の謀反の噂に怯えて逃げ込んだ先の、あの前関東管領・上杉憲定の息子です。

1415年5月2日、 持氏と禅秀は対立し、持氏は禅秀を更迭します。

 同年5月18日、持氏は、禅秀の後釜に上杉憲基を関東管領に登用します。

1416年10月 2日、この人事に不満を持つ禅秀は、足利持仲を擁立して足利満隆と結託、関東周辺に居る身内の諸将や国人衆を糾合して、鎌倉公方の館を襲撃します。持氏は脱出して西へ逃れ、今川氏の下に行きます。

  同年10 月6日、禅秀一派は上杉憲基邸を襲い、これも陥落させます。上杉憲基は越後へ逃れました。

   同年10月13日今川範政から幕府へ、鎌倉での上杉禅秀謀反の一報がもたらされます。 

   同年10月29日、評定の席で、足利滿詮(あしかがみつあきら)(=3代将軍・義満の弟) は甥の義持を励まし、禅秀討伐を進言しました。評定衆もこれに同調、義持は今川範政と越後守護・上杉房方に持氏支援を命じます。

   同年10月30日、京都に居る足利義嗣(あしかがよしつぐ)が突然失踪し、遁世してしまいます。「?」狐につままれたような話で、初めの内は誰もが義嗣の失踪の理由が分かりませんでした。その内、関東のクーデターへの義嗣の関与が明るみに出てきました。義嗣の愛妾が上杉禅秀の娘でした。

同年11月5日、義持は弟・義嗣の確保を命じます。義嗣は仁和寺に幽閉され、更に相国寺に移されて幽閉されます。

1417年1月、幕府討伐軍に、上杉禅秀と足利満隆・持仲は敗北、鎌倉八幡宮近くの「雪の下」と言う地で自害しました。

 

義嗣殺害

幽閉されていた義嗣をどう扱うか、幕府内で意見が分かれました。管領細川満元は事を穏便におさめる方向の意見でした。それに対して、畠山滿家は義嗣の切腹を主張しました。

1417年11月、義嗣とその側近を取り調べた富樫満成(とがしみつなり)の報告が上がってきました。その内容は驚くべきものでした。 

報告によると、義嗣を担ぎ出して将軍にしようという計画でした。まず上杉禅秀や足利満隆・持仲が鎌倉でクーデターを起こし、関東の武士団への働きかけに加えて、その謀に管領細川満元、元管領斯波義重赤松義則などが乗っかっていた、と言うものでした。

1418年1月14日、義嗣は義持の命を受けた富樫滿成により殺害されました。享年25歳。

義嗣の最終的な官位は正二位、兄の将軍・義持が従一位で、官位の上では兄弟に差があったものの、眉目秀麗、文武両道と言われた義嗣。御神輿に担ぎ上げるには十分過ぎる程の条件が揃っていました。彼自身も野心があったかも知れません。

義嗣の死を以ってこれにて一件落着、とはいかず、富樫の報告書の信憑性が問われる様になりました。義嗣を殺害した富樫滿成は、謀反に加担した事実を隠蔽する為に、自ら担ぎ出した義嗣を殺して口を封じたと、義嗣の愛妾が将軍・義持に直訴したのです。積極的に切腹を主張した畠山滿家も怪しいものでした。富樫は不義密通の不祥事が暴かれ、高野山に逃げ込みますが、畠山に討たれてしまいます。

 

鎌倉公方足利持氏

一方、幕府の援軍で再び鎌倉公方に納まった足利持氏は、上杉禅秀の残党狩りに力を注ぎます。幕府は、持氏が残党狩りに名を借りて支配圏を広げているのではないかと疑い、持氏を警戒します。

持氏は、関東に居ながら鎌倉府の管轄下に入らず、直接京都の幕府と主従関係を結んでいる京都扶持衆と言う人達を討伐して行きます。「京都扶持衆」には小栗満重宇都宮持綱、桃井宣義という武将が居ました。持氏はこれらの武将を残党狩りの名目で滅ぼしていったのです。これは、幕府にとって宣戦布告に近く、やがてこれが6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の代に起きた「永享(えいきょう)の乱」に発展して行きます。

 

 余談  勘合貿易の廃止

4代将軍・足利義持は、父・義満が始めた勘合貿易を廃止します。

理由は、明との朝貢貿易は屈辱的である、と言う点です。

もう一つあります。義満は日本国王を名乗って貿易をしましたが、それは詐称であり、天皇を蔑ろにしたものである、という考えに依ります。

義持は、父・義満が武力と財力で公家達を圧倒し、皇室までも思いのままに操ろうとしたことを改め、皇室を敬い、寄り添う様になります。その為、義持の代は皇室と大変良好な関係を築いていきます。

 

余談  北山第の破却

義持は、父の建てた北山の鹿苑寺を、金閣を除いてを全て壊してしまいます。そこで暮らしていた弟の義嗣も追い出してしまいます。義持自身は祖父の義詮が住んでいた三条坊門殿に移ります。義嗣は花の御所に移ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

85 元滅亡と朱元璋

日本の文化は、大陸の影響を受けながらも、それらを取り入れつヽ島国と言う器の中で独自に消化し発展してきました。

1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度の蒙古襲来を受けてから、大陸との交易が険悪になっていました。

この辺りで大陸の事情を探ってみたいと思います。

 

元の滅亡

大元の初代皇帝フビライの後、権力闘争が続きます。四代皇帝・アユルバルワダ(仁宗)の頃になると、皇太后とその寵臣(ちょうしん)の専横が罷り通る様になり政権が不安定になります。その為、アユルバルワダ没後の13年間に7名の皇帝が次々と変わりました。

人々に順法意識が薄く、法は無視されました。血筋が尊ばれ、宮廷の役職は能力に関係なく皇帝の身内が占めました。賄賂が横行し、寵臣や軍閥が跋扈(ばっこ)しました。

重税が課せられ民衆は苦しみました。加えて、数年に及ぶ冷害によって農作物が出来ず、飢饉が発生、更に追い打ちを掛けたのが、14世紀に起きたペストのパンデミックです。飢饉と疫病、重税と極端な貧富の差に耐え切れなくなった民衆が、やがて蜂起します。

 

朱元璋(しゅげんしょう)

中國は江南の地に朱重八(しゅじゅうはち)と言う子供が居ました。兄弟と従兄弟合わせて8人で、重八は末っ子でした。彼の父は洪水で死亡、他の家族は皆餓死して亡くなりました。重八は寺に入りますが、やがて寺でも小僧を養うだけの余力が無くなります。彼は乞食(こつじき)をしながら各地を転々と放浪し、何とか生き延びました。

重八は後に名を朱元璋と改めます。彼こそ明の初代皇帝になった太祖・洪武帝その人です。

1351年白蓮教徒が紅巾の乱を起こします。彼等はみんな頭に赤い布を巻いて乱に加わりました。

25歳の時、朱元璋は紅巾の乱に身を投じます。彼は、郭子興(かくしこう)と言う紅巾軍の将の下に行きます。朱元璋は異形の顔をしており、スパイと疑われましたが、その面構えが気に入った郭子興は自分の配下に入れます。朱元璋は郭子興の下で軍功を上げ頭角を現していきます。そして、郭子興の養女・馬氏を妻に迎えます。

 

戦績

郭子興が亡くなると、子興の軍は二人の息子に引き継がれます。が、その二人の息子が戦死してしまいましたので、朱元璋はその軍を率いて戦います。彼は長江下流の集慶路(現南京市)を押さえ、応天府と地名を変えました。

江南の地には、張子誠(ちょうしせい) の勢力と紅巾党の勢力があり、朱元璋と三つ巴で争う様になります。朱元璋は紅巾党の党首・韓林児と手を結ぼうと応天府に呼びましたが、謀略を持って彼の船を転覆させ、殺してしまいます。また、鄱陽湖(はようこ)の戦いで紅巾党の一派が興した大漢国の水軍60万を、朱元璋赤壁の戦いの戦略に倣って火計で殲滅し、この三つ巴の戦いに勝ち抜きました。

彼は応天府で即位し呉王と名乗り、元号洪武、国名を大明としました。元号に従って彼を洪武帝と呼びます。

洪武帝はここで元討伐に手を着けます。20万の大軍を差し向け、連戦連勝の快進撃を続け、ついに元の首都・大都に迫りました。元は抵抗することなくゴビ砂漠の北へ逃げて行きました。これ以降、元は北元となって存続して行きます。更に洪武帝は紅巾党の残党を滅ぼし、ほぼ中国全土を平定しました。

 

洪武帝の評価

清の三代皇帝・順治帝は「漢の高祖から明まで歴代の君主は洪武帝に及ばない」と称賛し、康熙帝(こうきてい)は「唐宋以上の盛時を成した」と書いたそうです。「聖賢と豪傑と盗賊を一人で兼ね備えた人物」と言われた朱元璋。その肖像画には、威厳に満ちた帝王の顔と、異形な顔の二枚があります。異形の方は、顔が長く、顎がしゃくれ、耳が長く、口が大きく、眉も目も吊り上がって鋭い眼光を放っています。

 

善政

洪武帝重農政策を取ります。治水事業を盛んにして堤防修理に力を注ぎました。天災で飢饉にあえいでいた民に養民政策を施しました。移民と定着を進め、免税も実施しました。これによって農業生産が回復し始めました。小商いの商人を優遇し、大商人などの財産を没収し弾圧しました。商人と役人の癒着を切り離す為に、北人の官吏を南方へ、南人の官吏を北方に任命する『南北更調の制』が取られました。抵抗すれば即処刑でした。

 

粛清

 [空印の獄]  1376年、印鑑の不正使用に対して大規模な粛清が行われました。その頃、予め印鑑を押した白紙書類を使って書類を作るという習慣が横行していました。洪武帝はそれを禁止。印鑑管理者と関係者全員を、有無を言わさず処刑しました。死刑執行は数千人に及んだそうです。

[胡惟庸の獄]  1380年、共に建国の労を取った胡惟庸(こいよう)に謀反の疑いを掛け、彼とその重臣、一族郎党を皆殺しにします。そればかりか、「あいつは胡党だ」と密告があれば確かめもせず処刑してしまいました。宮廷の功臣も巻き込まれた者が多く、その数1万5千人と言われています。

[文字の獄]  1381年、文字の獄と言う弾圧を始めます。自分の過去を隠したい朱元璋は、「僧」「光」「禿」等と一緒に、「僧」に近い発音の「生」、「盗」に近い発音の「道」も使う事を禁止しました。これを迂闊に書いたり話したりすると処刑されました。

[藍玉の獄]  1393年、元を倒し、元を北方モンゴルの地に追い払った大将軍・藍玉(らんぎょく)も粛清されます。藍玉の時に連座して粛清されたのは3万人と言われています。

柔弱な皇太子を心配した洪武帝は、息子の脅威になりそうな頭の良い官吏も、知識人も殺しました。ところが、皇太子が若死にしてしまいましたので、嫡孫の允炆(いんぶん)を皇太孫にしました。幼い孫が帝位に就く事を考え、益々謀反の芽を事前に摘み取る事に熱中し、粛清に励みます。允炆が帝位に登り建文帝となった時、彼の周りには無能な者ばかりでした。「靖難(せいなん)の変」のクーデターが起きた時、建文帝を助ける優秀な将軍も献策をする文官もおらず、敗退してしまいます。

豊臣秀吉が死の床で、「秀頼を頼む」と何度も五大老五奉行に繰り返して懇願した話は有名です。ところが、朱元璋は猜疑心の命ずるまま、前田利家石田三成に相当する重臣達を片っ端から処刑してしまいました。結局、二代目・建文帝は、叔父・朱棣(しゅてい)(洪武帝の四男)に攻められ、帝位を簒奪(さんだつ)されてしまいます。(→靖難の変)

建文帝を倒して三代目の皇帝になったのが永楽帝(=朱棣)です。永楽帝は帝位簒奪の悪名を払拭する為、建文帝の元号を抹消して、自分が二代目であるかの様に振る舞います。

 

勘合貿易

 洪武帝(朱元璋)は日本に朝貢を求めました。九州に居た懐良(かねよし)親王がその親書を受け取り、使者を切り捨てるなど一悶着しましたが、結局朝貢する事に決め、日本国王の称号を得て、冊封されます。

 永楽帝の時、足利義満日明貿易を求めます。が、「日本国王」と呼ぶ人物が懐良親王だった為、義満の要求は受け入れて貰えませんでした。義満は、九州に根を張る南朝勢力を駆逐する為にも、貿易の利権を得る為にも、懐良親王を排除する必要があり、今川了俊を九州に遣わし、親王を追い落としてしまいます。そして、倭寇の取り締まりを条件に、晴れて義満は日本国王と明に認められ。勘合貿易を始める事が出来る様になりました。

  

余談  白蓮教

白蓮教の教義は、ササン朝ペルシャで興ったマニ教を基にしています。中国では明教とも言います。ゾロアスター教キリスト教、仏教の三つの要素を持った宗教です。人間界も世界も光と闇の戦いで成り立ってたっており、光の要素を持った救い主は弥勒菩薩の姿をして降臨する、という教義だそうです。マニ教は布教を浸透させる為に、その土地の宗教を取り入れて説いているそうです。

洪武帝が「光」と言う言葉を嫌ったのも、白蓮教に接近した過去を消したかった為かと・・・

或いは白蓮教を弾圧する為だったのかも知れません。一方国名「明」はそこが出所だと言う説もあります。

 

余談  糟糠(そうこう)の妻・馬(ば)皇后

 朱元璋には馬皇后と19人の側室が居ました。馬皇后は、洪武帝朱元璋と言っていた頃に娶った最初の妻で、郭子興の養女でした。彼女は質素で優しく、驕り高ぶらない人でした。

彼女に有名な逸話があります。馬皇后が病気になった時、彼女は医者を拒否しました。もし、私が死んだならば、私を診た医者は処刑されるだろう、と気遣ったのです。彼女は50歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異形の人

朱元璋(=洪武帝)には、威厳に満ちた帝王の顔と、異形な顔の二枚の肖像画があります。異形の方は、顔が長く顎がしゃくれ、耳が長く、口が大きく、眉も目も吊り上がって鋭い眼光を放っています。

彼は紅巾軍の中で軍功を上げ頭角を現していきます。そして、郭子興の養女を妻に迎えます。彼女は後の馬皇后(ばこうごう)です。彼女は質素で優しい人でした。彼女に有名な逸話があります。馬皇后が病気になった時、彼女は医者を拒否しました。もし、私が死んだならば、私を診た医者は処刑されるだろう、と気遣ったのです。彼女は50歳で亡くなりました。
 

洪武帝の評価

 清の三代皇帝・順治帝は「漢の高祖から明まで歴代の君主は洪武帝に及ばない」と称賛し、康熙帝は「唐宋以上の盛時を成した」と書いたそうです。「聖賢と豪傑と盗賊を一人で兼ね備えた人物」と言われた朱元璋は、出自が極貧の農家だった為、農民や下層に生きる庶民へは手厚い政策を施しました。

 

善政

 朱元璋は重農政策を取ります。治水事業を盛んにして堤防修理に力を注ぎました。天災で飢饉にあえいでいた民に養民政策を施しました。移民と定着を進め、免税も実施しました。これによって農業生産が回復し始めました。小商いの商人を優遇し、大商人などの財産を没収し弾圧しました。商人と役人の癒着を切り離す為に、北人の官吏を南方へ、何陣の官吏を北方に任命する『南北更調の制』が取られました。抵抗すれば即処刑でした。

 

粛清

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

84 室町文化(11) 武家礼法

式正織部流の茶の湯武家の茶です。従って所作は武家礼法が基本になっています。清潔に、折り目正しく美しく、心を込めて敬い持て成すのを旨としています。

人は誰でも、雑な対応をされると不愉快になります。ぞんざいに丼物のご飯をにゅっと出されて、ドンとテーブルの上に置かれたら、もう二度とそのお店に行きたくなくなるでしょう。

それと同じです。丁寧に接客されれば良い気分になります。

茶の湯は高度に洗練されたお持て成しです。一挙一投足の凛とした挙措(きょそ)が「雑な対応」の対極にあります。お茶一服を差し上げるだけがお持て成しではありません。美しい所作もご馳走の内なのです。それはまた、武士の無駄も隙も無い動きに通じています。

 

姿勢

武士は運動神経抜群の戦士です。立つ、歩く、座る、走る、泳ぐ、馬に乗る、弓を引くなど、あらゆる戦闘場面に備えて彼等は体を鍛えます。何故なら運動能力アップが生存に直結しますから。そうやって筋肉を鍛え上げた彼等が、茶の湯の席では「動」を収めて「静」の立ち居振る舞いになります。デレデレ、グダグタのだらしない所作はしません。

立つ時は自然体の正しい姿勢で立ちます。

座る時は正しい姿勢で体を揺らさない様に座ります。右足を引き、左足を引き、右足を引いて左足で体重を支え、真っ直ぐにスゥーッと上体を下げ、右膝を畳に着け、左足を右足に揃え、腰を脚の上に降ろし、足の甲を畳に着けます。分解写真の様に書きましたが、この一連の動きを一つ一つ折り目をつけて正しく行います。足を後ろに引きながら同時に腰を降ろし始めるという「ながら」動作はしません。かといって、未熟なロボットの様にギクシャクした動きは見苦しいです。動作の折り目を付け乍ら、連続して淀みなく流れる様に行います。これは亭主の右手側に居並ぶお客様の視線を意識しての体の動きです。立つ時はこの逆で、左右左の足遣いで立ちます。

歩く時は、体の重心を丹田(骨盤の中心)に落として、重心を水平移動させます。重心が上下動しない様に摺り足で動きます。但し、歩く時、足裏で畳を擦る音が出ない様にします。などなど細かい動きを書きだしたら切がありません。要は、これらは武術の心得と同じで、一瞬の隙も作らない動きなのです。体幹が余程しっかりしていないと出来ない所作です。

袱紗の捌(さば)き方も大切です。茶杓の持ち方や茶筅の扱い方も大切です。ただ、お稽古をしていると、どうしてもお道具の扱い方や順序などに気を取られて、姿勢を忘れがちになります。気を付けたいものです。(参照:「3 ご挨拶は拳骨で」「4 清潔こそ命」「5 拳骨の作り方」)

 

武家礼法の始まり

粗野で粗暴で無礼者。直ぐ頭に血が上り、「無視した」「馬鹿にした」と難癖付けては刀を抜きたがる輩。気に喰わなければ「やっちまえ」と直情直行の困った性癖の侍達。木曽義仲が山猿と罵られ、京の人々から敬遠されたのも、行儀の悪さ故です。

鎌倉幕府は、侍達に自覚を持たせ、士風を整えようとしました。公家の前に出ても、領民を纏めるにしても、それなりの立ち居振る舞いができれば・・・と願い、お行儀の躾けを侍達に施す事にしました。先ずは将軍が習い、範を示します。将軍に近侍する御家人達が習います。上層部を見て自然に下に伝播していくかと思いきや、武闘はあっても武道が無い時代、なかなか一般武士に浸透するという訳には行きませんでした。

 

武家礼法の祖

永和4年/天寿4年(1378年)足利義満は右近衛大将(うこんえのたいしょう)に任ぜられました。右大将の位は従三位。武官の最高位。何かと宮中の行事に出席し、故事作法が難しい場面を捌いて行かなければなりません。そこで幕府は、義満に宮中典礼の作法を身に付けさせようと、お作法の先生を探しました。すると、二条良基が礼儀作法の先生に名乗り出ました。良基は義満に礼儀作法を教え始めます。

公家と武家の融和に礼法の大切さを感じた義満は、家臣達にも武家の礼法を身に付けさせようと思い立ちます。

当時、武家礼法には、今川流(今川貞世)、伊勢流(伊勢憲忠)、小笠原流(小笠原長秀)の三つの流派がありました。

今川貞世武家故実や書などに詳しい人でした。

伊勢憲忠は殿中の礼法、装束、折形、書礼などに通じていました。

小笠原長秀は弓馬術の武技と作法に長じていました。

義満はその三人に命じて武家礼法を作らせます。

三流派にはそれぞれ特徴があります。そこで武家礼法を擦り合わせる下敷きになったのが、日本の有職故実(ゆうそくこじつ)の中の武官礼法と、宋で編まれた『禅苑清規(ぜんえんしんぎor ぜんねんしんぎ)』です。

こうして三つの流派が一つの礼法としてまとめられ、三儀一統と呼ばれる武家礼法が出来上がりました。

 

 

余談  『禅苑清規』

唐の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が、『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)と言う禅寺の規則を定めた書を著しました。それから300年後、『百丈清規』が散逸して失われてしまいましたので、宋の長蘆宗賾(ちょうろそうさく)が各禅寺で行われている清規を調べ直し、改めて纏めたものが『禅苑清規』です。そこには禅寺で守るべき規則が記されています。全部で10巻あります。集団生活を維持していく為の規則、それが清規(しんぎ)です。

禅宗の寺院では、大勢の僧が一つ寺院で集団生活をしています。彼等は托鉢や帰依者からの寄進に加えて、農業などをして原則自給自足の生活をしています。

百丈懐海にこんな話があります。

高齢の百丈を心配した弟子が、百丈が農作業をしない様にと鍬(くわ)を隠してしまいました。すると、『一日不作、一日不食(一日作さざれば一日喰らわず』と言って、百丈は食事を摂らなかったそうです。

余談  今川貞世 (いまがわさだよ)

 今川貞世法名了俊 (りょうしゅん) です。九州探題に赴任し、九州を平定します。遠江駿河守護大名歌人としても名高く、難太平記の著者でもあります。彼は長寿でした。何歳まで生きたか二説あります。享年87歳、または96歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

83 室町文化(10) 連歌

連歌の始まり

倭建命(やまとたけるのみこと)が東北の遠征から帰る途中、供の者にお訊ねになりました。

『新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』(新治 筑波を過ぎて何日経ったのだろうか?)

御火焼(みひたき=篝火を焚く人)の翁が歌ってこう申し上げました。

『かがなべて夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を』(日々を数えてみますと、夜は九日、昼は十日でございます)

倭建命の歌の問い掛けに、翁が5.7.5の歌で答えました。二人で一つの歌に成したこの故事が、連歌の始まりと伝えられています。

『菟玖波集(つくばしゅう)の名前は、関白太政大臣二条良基がこの故事に因んで付けたものです。

 

『菟玖波集』

『菟玖波集』は連歌ばかりを集めた准勅撰連歌集です。

二条良基は、連歌師の救済(くさいorぐさいorきゅうせいorきゅうぜい)と協力して連歌を編纂し、1356年(正平11年(延文元年)に『菟玖波集』を出しました。翌年、佐々木道誉の尽力で准勅撰に昇格しました。

1356年と言えば、前年に南朝北朝が京都奪還を巡って攻守入り乱れて戦っており、南朝に拉致されていた光明上皇が解放され、京都に戻って来た時期でもありました。

『菟玖波集』は、二条良基と言う時の関白の後ろ盾を得、准勅撰集になった事で連歌の地位が上がりました。当時、連歌はとても盛んでしたが、和歌より下に見られていました。これにより連歌が独立した文学のジャンルに認められる様になったのです。

連歌の仕組み

連歌と言うのは、一言で言えば二人以上でする和歌の連想ゲームです。

しりとり遊びですと、例えば春ーるりーりすーすずめーメダカ・・・と続いていきますが、連想ゲームですと、春ー鶯ー梅ー匂いー思い出ー物思いー恋・・・と、末尾の発音には捉われずに、印象の連想が広がって行きます。これを和歌でやるのが連歌です。

連歌には色々な式目(規則)があります。

和歌の5.7.5ー7.7の始めの5.7.5の前句と7.7の後句を別々の人が詠みます。5.7.5に付ける後ろの句の7.7を付句と言います。付け句を詠んだ後ろの次の人が再び前句の5.7.5を詠みます。こうして次から次へと歌が詠まれて行きます。句を100回詠むのを百韻(ひゃくいん)と言います。千回続けるのを千韻と言います。50回や36回(歌仙)と言うのも有ります。

実際にどうなっているのかを菟玖波集巻第一から抜粋してみます。

最初に百韻連歌と銘打って御嵯峨院御製の句が出てきます。菟玖波集に記載されているのは、その内のほんの一部です。「春はまた・・薄霞」の次に続く「山の・・」は別の連歌会で詠われたものです。このように、百韻連歌といっても、その全文を載せているのでは無く、良いとこ取りの数句が入集(にっしゅう)されているだけです。

そういう数え方で菟玖波集の全20巻に収められている句は2,190句です。

原文

菟玖波集巻第一

宝治元年八月十五日夜百韻連歌

山陰(やまかげ)しるき雪の村消えと侍るに

       後嵯峨院御製

新玉(あらたま)の年の越えける道なれや

 絶えぬ烟と立ちのほる哉

        前大納言為家

春はまた浅間のたけ(岳)の薄霞

 山の梶井の坊にて百韻連歌侍りけるに

 猶(なお)も氷るは しか(志賀)の浦波

     二品法親王(にほんほっしんのう)

雲間より道有山と成りぬるに

 月かけ寒く夜こと更(ふ)けぬれ

      前大納言尊氏(=足利尊氏)

山の陰にある雪の村消えは新年が山を越えて来た足跡でしょう。家々も賑わい竈の煙も立ち昇っています。烟と言えば、浅間の岳の烟は薄霞の様です。(山の・・以下の意訳は略)

三句をずいよう流に超意訳してみました。合っているかどうか不安です。

菟玖波集はこのように、ずらずらと区切りなく続いています。良く読み込めばその区切りが分かるでしょうが、婆には分からない事の方が大きく、参ってしまいました。

 

菟玖波集に出て来る作者

菟玖波集に入集(にっしゅう)されている作者で上位5者は次の通りです。

救済127句、二品法親王90句、二条良基87句、佐々木道誉81句、足利尊氏68句。

その他に藤原為家、善阿、藤原家隆、後嵯峨院、周阿、足利義詮など合わせて500名以上に及びますが、名前が分かっている人は450名くらいです。

連歌は二人以上で行う歌の会です。連歌の付き合いは、皇、公、武、僧の広くに渡っていました。それ故、単に文学的サロン、と言うばかりでなく、皇公武僧の縦断的かつ横断的な交流の場であり、政治的に非常に重要な役割を果たしていました。

 

猫また騒動

『奥山に猫またといふものありて』で始まる『徒然草』第89段にこんな話があります。

奥山に「猫また」という化け物がいて、人を喰うそうだという噂がありました。何阿弥陀仏と言う連歌の僧が、或る時、連歌の会が遅くなって夜になってしまいました。びくびくして夜道を歩いてようやく我が家の前に来たところ、急に化け物に襲われて首の所を喰いつかれそうになり、慌てて防ごうとしますが、なおも飛びついて来ます。「助けてくれー!」と叫んで小川に転げ落ちた所、連歌の賞品を落して濡らしてしまいました。不思議にも命拾いをしたのですが、後で、それが飼っていた愛犬だったと分かった、というお話です。

徒然草』の著者・吉田兼好二条良基の和歌の弟子です。二条派の和歌の四天王の一人に数えられています。四天王というのは浄弁、頓阿、慶運、兼好です。良基は「吉田兼好は歌が上手ではあるけれど、イマイチだ」と評しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

82 室町文化(9) 東山御物

東山御物(ひがしやまごもつ)と言うのは、室町幕府八代将軍・足利義政が東山山荘に集めた書画文物の事を言います。これ等の蒐集品は義政が集めた物ばかりでなく、歴代の将軍達が集めた物も入っております。

東山御物の蒐集品群は、宋・元・明との交易によって集めた唐物が中心になっております。

これ等の書画は将軍家に仕えていた同朋衆の能阿弥、芸阿弥、相阿弥の親子三代によって管理されていました。どれも皆、国宝や重要文化財級の至宝の数々です。

その中でもお茶に関して言えば、大名物(おおめいぶつ)と呼ばれる茶器類があります。

大名物の中には数奇な運命を辿っているのが少なくありません。

例えば、銘「初花」という唐物肩衝茶入(からものかたつきちゃいれ)は、名だたる所有者の手を経て今日に至っています。

「初花」は南宋で焼かれた物です。それが日本に輸入されて足利義政の手に入ります。それから次の様に所有者が変わります。足利義政→(茶人二人を経由)→織田信長→(本能寺の変で一時不明)→徳川家康羽柴秀吉宇喜多秀家徳川家康→(松平忠直の子孫に伝承)→徳川幕府→徳川記念財団

その外にも、大名物には窯変(曜変)天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)などがあります。窯変天目茶碗は、漆黒の夜空に星が輝いている様な美しい茶碗で、世界に三盌しかありません。

 

『御物御畫目録(ごもつおんがもくろく)

 『御物御画目録』と言うのは、足利将軍家が所有している書画をリストアップしたものです。

書画の名前と内容と作者が一行ごとに記録されています。

例えば『圓石観音 韋駄天 竜 牧谿和尚』と言う具合です。

目録に載っているのが90点。その内牧谿のが36点あります。徽宗皇帝の作品が3点収められています。牧谿の作品がかなりの割合を占めている所を見ると、牧谿がよほど気に入っていたのでしょう。末尾に『鹿苑院殿已来御物 能阿弥撰之』とあります。鹿苑院足利義満法名です。

 

『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)

『君台観左右帳記』は、作品をただ列挙するのではなく、上の部の作品、中の部の作品、下の部の作品と、作品の善し悪しを分類して整理し、記載しています。

本の構成としては、初めに絵の分類別リストがあります。その後に書院飾りの項目があります。軸の掛け方、花瓶の位置、燭台、香炉の位置などが図で示されています。棚飾りも、どの棚に何を置くかが具体的に描かれております。

『君台観左右帳記』が国立国会図書館デジタルコレクションに載っていましたので、開いて読んでみましたら、婆が習った床の間飾りとほとんど同じでしたので、びっくりしました。

残念な事に東山御物は、その後、足利将軍家の衰退と共にちゃんとした管理が行われなかったこともあり、かなりのものが散逸したり失われたりしてしまっています。

 

唐物趣味

鎌倉、南北朝、室町と時代が下がるにつれ武家は、政治や軍事、果ては経済まで世の中を牛耳る様になり、我が物顔に振る舞う様になりました。けれども、彼等がどうしても公家に敵わないものが有りました。それは、公家達が築き上げてきた文化に対してです。

確かに武士の上層部の人達の中には、和歌を詠み、連歌を楽しみ、茶の湯を嗜む「文武に優れた人」と評判をとる人達も居ました。が、それはほんの一握りでした。文化の背景というか、その深さや広がりの点に於いて、公家に比べて武家は圧倒的に劣っていました。

武家は公家に、破壊と新潮流をもってそれに対抗します。それがバサラと禅宗です。

腕力に任せ、財力に任せ「どうだ、凄いだろう」と言わんばかりに傍若無人に振る舞うバサラ族。ゼニ・カネで闊歩する彼等は、大陸から輸入した高価な唐物で身の回りを飾り、悦に入っていました。鎧の下に唐織物の胴服を着て、陣羽織を羽織って戦に出陣しました。闘茶の賭け物に唐物の絵画、墨蹟、骨董、什器、織物などを並べました。

そうなると、日本の職人達も負けられません。唐織物に追いつこうと、蜀江錦や緞子などを見様見真似で工夫しながら織物を作り始めます。染織技術の工夫は一段と進み、やがてそれが西陣織に発展して行きます。豪華な能衣装などにも使われ始めます。

 

侘びと華やぎ

禅宗では人間生来無一物と言い、執着心を捨てる様に説いています。簡素な生活を勧めています。面白い事に、そうは言いながら、高僧達の袈裟は金襴・錦などの超高級品で作られています。それは頂相図等から推察できます。山水画、道釈図、禅会図などの掛け物は、見事な裂(きれ)で表具されています。幽玄を演じる能の衣装は、染織の粋を集めた華麗な織物で出来ています。

禅宗的な侘びと、金満家的な華やぎが同居している文化、それが室町文化の特徴の様に思えます。一見チグハグに見える取り合わせが、妙に調和しているのです。

 

工芸品

鎌倉の円覚寺に残る『仏日庵公物目録(ぶつにちあんこうもつもくろく)』によると、堂坊で使う什器は全て中国からの輸入品でした。

茶の湯が盛んになると唐物の茶碗が輸入される様になりました。それにつれて国産の茶碗作りも上向いて来ました。禅宗寺院で使う什器も初めは日本で生産できませんでしたが、やがてそれも出来るようになりました。刀剣や鎧の金工細工の腕がそれを支えました。

侘びとバサラが出会ったこの時代、混乱の中から新しい文化が生まれてきました。

 

 

余談  能阿弥、芸阿弥、相阿弥 

 能阿弥(のうあみ)は、元は武士で中尾真能(なかおさねよし or しんのう)と言いました。六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と八代将軍・義政に同朋衆として仕え、足利家が初代から蒐集してきた書画骨董の鑑定や管理を行って来ました。将軍からは絶大な信頼を得て、書画庫に自由に出入りし、東山御物の制定を行いました。また、優れた作品に日常的に触れられたお蔭で、彼も一流の水墨画の絵師になりました。茶人にして連歌師表具師でもあります。

芸阿弥は能阿弥の息子です。名前は真芸(しんげい)。父と同じ様に足利義政同朋衆として仕え、絵師にして連歌師。鑑定家で表具師です。書画庫の管理を任されていました。彼は座敷飾りに通じ、書院飾りの指導などを行っています。
相阿弥(そうあみ)は芸阿弥の息子です。つまり、能阿弥の孫です。父祖と同じ様に足利将軍家に仕え、書画の管理や鑑定を行いました。連歌や茶道に通じ、絵も一流で、彼は狩野正信やその子の狩野元信に絵の指導を行っています。

 

余談  中興名物・名物

大名物に対して、「中興名物」や「名物」と言うのがあります。それ等は千利休やそれ以後の茶人・松平不昧(まつだいらふまい)などが「これは良いものだ」と太鼓判を押したもの(極め)を指します。

 

余談  御物(ぎょぶつ)と御物(ごもつ)

同じ文字を書きながら「ぎょぶつ」と読んだり「ごもつ」と読んだりします。読み方の使い分けは、皇室の宝物は「ぎょぶつ」。それ以外の宝物は「ごもつ」と読みます。

正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)

東山御物(ひがしやまごもつ)

柳営御物(りゅうえいごもつ) 柳営→将軍家の事。柳営御物と言った場合は徳川将軍家の宝物を指します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

81 室町文化(8) 水墨画

空山不見人   空山人を見ず

但聞人語響   ただ聞く 人語の響き

返景入深林   返景 深林に入り

復照青苔上   また青苔の上を照らす

この詩は、王維が作った『鹿柴(ろくさい)』という有名な詩です。教科書か何かで一度は目にした事があるのではないでしょうか。王維は自然を詩に写し取り、幽玄な世界を描き出しました。彼の『香積寺(こうしゃくじ)に過(よぎ)る』という詩など、正に水墨画の世界です。

王維は詩人です。しかも南宋画(又は南画)の祖と言われる程の絵の大家です。王維の『偶然作六首』という詩の中に『前身應畫師』という一節があります。自ら畫師(画師)である事を認めています。

 

文人

文人と言えば、隋や唐の昔からずっと中国の歴史の文化を担って来た人達です。彼等は学問(主に儒教)などを深く身に着け、詩作に耽り、書を能くする書斎人でした。

詩と書に卓越した人を詩書双絶の人と称します。これに畫(が)が加わると詩書畫三絶の人と称賛しました。意外な事に書聖・王義之、王献之も三絶の人でした。ただ、二人とも書が傑出し過ぎていましたので、絵の才能は霞んでいました。また、絵は画工職人が描くものと思われていましたので、誇り高き文人や士大夫(したいふ)から、詩や書よりも畫は下に見られていました。

こういう話があります。

唐の閻立本(えんりっぽん)は、母が武帝の娘という家柄抜群の文人でした。或る時、皇帝・太宗の命令で呼び出され、皆の前で絵を描く様に命じられました。立本は命令に背けず絵を描いたのですが、これをとても愧(は)じました。なまじ絵が上手な為にこの様な目に遭ったと言って、子供達に絵の習得を禁じました。とは言いながら、彼自身は生涯を宮廷画家として過ごし、歴代帝王の肖像画を描いて後世に名を残しています。

 

絵画

唐代頃から盛んに描かれたのは、聖人や帝王の肖像画、宮廷の人達の群像など人物中心の絵でした。又、花などの絵も多くの人に好まれました。絵は彩色してこそ完成品と思われていました。輪郭線のみで描かれた白描画(はくびょうが)の人物画もありましたが、それが受け入れられるのはずっと後になってからです。 

白描画でも無く、彩色画でも無く、筆一本で自在に描ける墨筆の奥深さに気付いた宋代の文人達は、水墨画に手を染める様になります。人物画など衣の襞や袖が風に翻(ひるがえ)ったりする様は、草書の運筆の緩急自在の筆運びに似ています。花鳥画に於いても、蘭・竹・梅が好まれました。蘭の葉の柔らかな弧線、表葉と裏葉の返り、梅の絵のごつごつした勁(つよ)い枝の線と花の清々しさなど、文人達を魅了するものでした。

宋元の梅墨図が鎌倉時代の中期から日本に輸入される様になり、日本人の梅好みもあって大いに持て囃されました。それらを絵手本にして日本人も梅墨図を描く様になりました。

 

道釈図(どうしゃくず)禅会図(ぜんねず)

梅墨図ばかりでなく、禅僧の渡来と共に、道釈図も日本にもたらされます。道釈図と言うのは、道教や仏教に関係した人物の絵を描いたものを言います。例えば、布袋や達磨、羅漢、仙人、頂相図(ちんそうずorちょうそうず)などの人物画です。

禅会図と言うのは、禅の悟りを助けるような、公案的な絵の事を指します。十牛図(じゅうぎゅうず)寒山拾得(かんざんじっとくず)などがその代表です。(参照:鎌倉文化(12)肖像画・宋画)

 

気韻生動(きいんせいどう)

山水画と言えば水墨画と言うイメージが有りますが、彩色された山水画も有ります。

日本に沢山入って来たのは墨一色で描かれた水墨山水画の方です。特に禅僧達は彩色画よりもモノクロームの絵に禅気を感じていたようです。色は本質を掴むのに邪魔だったのかも知れません。

画工達の描く絵は、正式には彩色を施した絵が多かったのですが、それに対して水墨山水画はどちらかと言うと、文人達の手遊(てすさ)びでした。

どういう訳か水墨山水画は描く人の品位が問題にされました。出自が立派で学があり人徳優れた人物が描くものだ、という変な思い込みが当時にあり、画業をもって生活する画工は、それに値しないと考えていた風があります。高潔風雅の人間が描いてこそ、山水画の神韻が表現できる、と言うのです。謝赫(しゃかく)の絵画論の『画の六法』第一に挙げられているのが、『気韻生動』です。(横山大観流に言えば、『絵にはその人の人格が現れる、人品が良ければその絵に品格が出る。人品卑しければその絵は貧しいものになる』と言うことでしょうか)

 

神仙思想

気韻生動の考えが良いか悪いかの論議はさて置いて、中国の水墨山水画は神仙思想に基づいています。

岩山が空高く聳え、雲が巻き、樹々が生え、渓谷が山間を走り、小さい庵が川の畔(ほとり)に結ばれている・・・そんな風景の山水画。(これ以降山水画と言えば水墨山水画の事を指す事にします)

桂林や黄山、廬山などの景色をテレビで見て、あゝ、さすが山水画の故郷だと、婆は感動しました。日本にはこの様な地形は見当たりませんもの。でも、しかし、あの山水画は、現代の画家がする様に、屋外にイーゼルを立てて写生するのとは違って、こんな所に住んで悠々自適に暮らせたら仙人の気分になれるだろうになぁ、という文人達の憧れの世界を描いたものなのです。詩の世界からインスピレーションを得て描いたり、或いは、且つて旅に遊んだ土地の景色を思い出しながら、頭の中で景色を再構成して仙境を描いたりしたものです。白居易の様に廬山の麓に引っ越す人もいました。天台山に登って禅の修行をした僧も数知れず。ですから、全く空想の絵だとは申し上げませんが、本当の写生とは違ったものなのです。

 

米芾(べいふつ)

米芾(米元章(べいげんしょう))という書家がおりました。宋の四大書家に数えられる程の書の大家ですが、彼は絵の大家でもありました。また、鑑識眼も高く、徽宗の蒐集物の鑑定に当たり、書画学博士にもなりました。彼は米法山水画と呼ばれる山水様式を生み、雲や霧など湿潤な空気観を表す画法を編み出しました。墨筆の水の含み具合によって描き分けたり、輪郭線を描かなかったりする方法ですが、これによっていよいよ深山幽谷の景色が可能になりました。彼の息子の米友仁(べいゆうじん)も書家で画家です。(参考:49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟)

 

牧谿(もっけい)

牧谿南宋から元の時代にかけての僧です。無準師範の弟子で、同門に無学祖元兀庵普寧(ごったんふねい)など日本に渡って来た禅僧がおります。日宋交流で、宋の色々な文物が日本に輸入されましたが、特に、牧谿水墨画は人気が高く、その作品の多くが日本に有ります。

牧谿は中国本土では余り人気が無く、評判も良くありませんでした。婆が思うに、多分彼は西湖の風光明媚な穏やかな景色に囲まれて住んでいましたので、画風も穏やかだったからでしょう。景色にしても動物や仏画にしても彼の絵は、文人達が峨々とした仙境を描き出そうとしたのとは違っていたので、宋では日の目を見ず、日本に作品が伝わって初めてその良さが理解されたのだと思います。日本には桂林だの黄山の様な景色はありませんもの。

牧谿が日本の画家達に与えた影響は大きく、長谷川等伯『松林図屏風』もその一つと言われております。

 

雪舟(せっしゅう)

室町時代の画僧で備中の国に生まれました。10歳で相国寺に入り、春林周藤の下で禅の修行を励み、天章周文について絵を学びました。30歳を過ぎた頃、周防(すおう)の国の大名・大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護を受けます。その後明へ渡航。中国各地を2年間巡り水墨画を学ぶと共に、写生を重ねました。この点、中国の山水画が観念的なものであるのに対し、雪舟山水画は写生を基にしています。国宝天橋立図』を含めて国宝6点、重要文化財13点あります。

 

余談  国宝・瓢鮎図(ひょうねんず)

如拙作『瓢鮎図』は禅会図です。画題は、足利義持が出題したものです。コロコロした瓢箪(ひょうたん)でヌルヌルしたナマズを捕まえるにはどうしたら良いか、という禅の公案で、不可能なものを可能にする工夫を問うています。これに対して31人の日本のトップクラスの禅僧達が詩文で答えています。

うわっはっはっは!できる訳が無かろうが、という答えや、ナマズが竹に登ったら捕まえるかのぅ、とか、面白い答えもあります。鮎はアユではなくナマズの事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

80 室町文化(7) 庭園

日本の作庭の基本は、自然の姿を写し取り、違和感なく住いに取り込む事に有ります。

自然信仰

古来の日本人は、八百万(やおよろず)の神が自然のあらゆるものの中に居る、と信じて来ました。神様は磐座(いわくら)や見事な大木を憑代(よりしろ)として降臨する、と言い伝えられていましたので、それらに注連縄(しめなわ)を張って大切に守ってきました。

浄土式庭園

仏教が伝来し、神道と仏教が共存する様になります。初め、仏教は国策として取り入れられましたが、信仰が広く深く浸透して行くにつれ、仏教を信ずれば死後は極楽浄土へ行けると云う風に変わって行きます。それならば、極楽浄土をこの地上に造ろうと言う貴族が現れます。阿弥陀堂の前に大きな池を造り、信者が西に向いて手を合わせられる様に伽藍を配置します。宇治の平等院毛越寺(もうつじ)などが代表でしょう。

寝殿造りの庭園

貴族達は大きな寝殿造りの前庭に、広々とした庭園を造ります。池を配し、そこに船を浮かべて遊びます。広庭では蹴鞠などに興じます。曲水の宴などを開き、詩歌に打ち興じます。そのような遊びや行事に応えられる庭、それが寝殿造の庭の役目でした。

神仙蓬莱式庭園

大陸から神仙蓬莱思想が伝わってきました。仙人が住むと言う不老長寿の桃源郷に人々は憧れました。海の彼方にあるという蓬莱山を真似て、池を造り、池の中に島を造り、そこに蓬莱山に見立てた石を立て、鶴や亀の姿に似せて石を組み合わせたりして庭を造りました。

縮景庭園

日本の美しい景色を縮尺して造った庭が縮景庭園です。築山や池や州浜などを配して、それを富士山や天橋立や住吉の浦などの名勝に見立てるという趣向です。

禅宗の庭

 森羅万象の自然と一体となって座禅を組む場、それが禅宗の庭です。

山や渓谷、滝や龍に見立てた石組などを配置し、できるだけ自然に近い形にします。

そう言う自然志向の庭もあれば、また、雲水に何かを問う様な、龍安寺の石庭の様に、石以外何も置かない庭も出現します。具象の庭、抽象の庭、いずれも禅宗の庭です。

 

庭造りは、それぞれの風土により、宗教観により、又、人々の生活様式により大きな影響を受けています。その楽しみ方も様々です。池泉回遊式庭園の様に池の周りを巡り歩いて鑑賞する方式や、書院や縁側に座って定点で眺める様に作られた庭も有ります。歩き回るも良し、座って眺めるも良し。日本の庭はどれも変化に富んでいて、味わい深いものが有ります。

 

『作庭記』

『作庭記』は、平安時代末期の橘敏綱(たちばなとしつなor藤原敏綱)が書いたと言われております。 この本は世界最古の作庭の書と言われております。主に、寝殿造りの庭の造り方が書かれているそうですが、『作庭記』に書かれている庭造りの要諦は現代でも立派に通じるそうです。石を立てようとするならば、まず全体の主旨を把握し、土地の様子を活かして行いなさいと書かれているそうで、造園家ならぱ一度は必ず読む本と聞いております。

 

夢想疎石

作庭の事を語るには夢想疎石を抜きには語れません。

夢想疎石は臨済宗の僧侶です。彼は作庭に天才的な才能を発揮しました。

夢想疎石は求道遍歴の旅人です。初め彼は天台宗の寺に入門しました。そこで天台宗真言宗を学びました。ある事を切っ掛けに仏教に疑問を持ち、禅宗に興味を持ちました。

建仁寺無隠円範(むいんえんぱん)に参じ、東勝寺無及徳詮(むきゅうとくせん)に参じ、建長寺葦航道然(いこうどうねん)に参じ、円覚寺桃渓徳悟(とうけいとくご)に参じ、建長寺痴鈍空性(ちどんくうしょう)に参じ、原点に戻って建仁寺無隠円範に参じ、更に建長寺一山一寧(いっさんいちねい)に参じ、松島寺(現瑞巌寺)で天台宗を学び、万寿寺高峰顕日(こうほうけんにち)に参じ、最終的に高峰から印可を受けました。

このように、道を求めて三千(参禅)里。夢想疎石は旅を続けました。京都や鎌倉はもとより、四国、近畿、東海、中部、関東、東北と、その行脚(あんぎゃ)の範囲は驚くべきものが有ります。修行を続けた疎石は『長い間、青空を求めて大地を掘っていた。無駄な努力をして随分余計なものを積み重ねてしまった』と言う意味の漢詩を詠んだそうです。

日本中を旅して、岩の上や洞で座禅を組み、自然の呼吸の中に身を置いて得たものが、彼の庭造りの基になったのでしょう。

以下の漢詩は、平成12年8月27日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものです。ネットにアップされていましたので引用しました。対談は天龍寺管長・平田精耕氏、京都大学名誉教授・上田正昭氏、ききて・峯尾武男氏のお三方で行われました。詩の前後の対話は略します。

仁人自是愛山静 仁人は自ら是(これ)山の静かなるを愛す

智者天然楽水清 智者は天然に水の清きを楽しむ

莫怪愚惷翫山水 怪(あや)しむ莫(なか)れ愚惷(ぐどう)の山水を翫(もてあそぶ)

只図藉此砺清明 只だ此れを籍(かり)清明を砺(と)がんと図(はか)るのみ

 

 

夢想疎石が作庭したと言われる庭 

夢想疎石の造った庭は沢山あります。その中でも代表的なものを挙げます。

西芳寺(京都市)

開山・行基。中興開山・夢想疎石。

兵乱による焼失2度。洪水による被災3度。浄土式庭園から禅宗の石庭に変わり、洪水と近くの川の湿気の影響で苔むす寺に変貌。通称「苔寺」。なお、鹿苑寺金閣慈照寺銀閣の作庭の手本になっています。重要文化財世界遺産特別名勝

 天龍寺(京都市)

開基・足利尊氏。開山・夢想疎石。

後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立。天龍寺船を明に遣わし、貿易による利益で建てる。

焼失6回、伏見大地震で倒壊。その後更に2回火災焼失(うち1回は禁門の変)。都合8回の火災。度重なる被災で、夢想疎石が作庭した当時の面影が残されている部分は少しだけです。特別名勝世界遺産

永保寺(えいほうじ)(多治見市) 

開創・夢想疎石。開山・元翁本元(げんのうほんげん)(=仏徳禅師) 

浄土式池泉庭園。天然の岩や崖を利用した庭園です。石組は亀石・鶴石などがありますが、全体面積に占める人工的石組の割合は僅かです。阿弥陀堂や開山堂の屋根には強い反りがあり、禅宗様の建物風です。名勝地。

瑞泉寺(鎌倉市

 開基:二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)。開山:夢想疎石

 足利基氏が中興して瑞泉寺と名を改めました。建物の殆どは大正時代以降の再建です。庭園は、昭和になって発掘作業を行い、古図面に従って復元したものです。

岩壁に穴を彫って洞を造り座禅の場としました。岩窟のある錦屏山(きんぺいさん)の頂上に登ると相模湾と富士山が一望できるそうです。疎石は頂上に小さな亭を建て、そこでも座禅を組んだとか。

その他に夢想疎石が作庭に関わった寺

 等持院(京都市)、南禅院(京都市)、浄居寺(じょうこじ)(山梨市)、恵林寺(えりんじ)(甲州市)、宝寿院(山梨県市川三郷町)

 

余談  七朝帝師

夢想疎石は歴代の天皇から尊崇を受け、幾つもの国師号を下賜されました。

生前に夢想国師、正覚国師、心宗国師の号を下賜され、示寂後も普済国師、玄猷(げんゆう)国師、仏統国師、大円国師の号を賜りました。

 

余談  『夢中問答集』

夢想疎石の著書に『夢中問答集』があります。

足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)の問いに対し、夢想国師が丁寧に答えたものです。誰にでも分かり易く説明しているので、直義がこれを皆に見せたいと願い、足利氏の家臣・大高重成が出版しました。奥書は

笠仙梵僊(じくせんぼんせん)が書いています。室町時代から江戸時代、現代に至る迄何回も出版されています。(参考:笠仙梵僊は元からの渡来僧です)