式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

明応の政変 

1493年(明応2年4月)、細川政元10代将軍・足利義材 (あしかが よしき) を追放して、足利義澄(あしかが よしずみ)11代将軍にした事件が起きました。これを明応の政変と言います。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変)

「人の世空しい(1467年)」応仁の乱は、家督相続にまつわる兄弟喧嘩から始まりました。今でも、通夜の席が遺産相続に絡んで肉親同士が争い、とんでもない修羅場になるといった話を聞きます。応仁の乱はその修羅場に軍事力を持ち込んで争った戦争です。

世は乱れ、戦続きの時代でしたが、それでも家臣が主人を追放する事はありませんでした。細川政元がそれを行なった初めての人です。これを下剋上の本格化と捉え、応仁の乱をもって戦国時代の始まりとするよりも、近頃では明応の政変を以て戦国時代の始まりと、解釈する様になって来ています。

明応の政変は、重臣が(14)好み(93)の将軍にすげ替えた政変と語呂合わせすると覚えやすいと思います。

 

3人の養子

 管領細川政元には子供が居ませんでした。そこで彼は養子を3人取りました。

三人の養子の出自は次の通りです。

養子1 澄之(すみゆき) 実父は関白左大臣九条政基

養子2 澄元(すみもと) 実父は阿波細川家(分家)細川義春
養子3 高国(たかくに) 実父は細川野州(分家)細川政春

澄之が政元の養子になった時はまだ2歳でした。政元はこの子に、細川家の嫡流嫡男が代々名乗っていた聡明丸と言う名前を付けました。

聡明丸は細川本家の幼名を付けられたのですが、家中から、細川家嫡流の跡取りに細川家の血筋以外の者を就けるのは如何なものか、と言う意見が出ました。そういう声に加えて、政元と聡明丸はどうも折り合いが悪かったので、1503年(文亀3年5月)、政元は聡明丸を廃嫡し、二番目の養子を阿波細川家から取ります。それが六郎、後の澄元です。

養子の3番目に高国が居ます。彼の諱(いみな)の「高」は、11代将軍・足利義高偏諱(へんきorかたいみな)です。義高は義遐(よしとお)義高義澄と、三度名前を変えています。順番から言えば義高の「高」一字を賜った高国の方が、澄之や澄元よりも先と言う事になります。

 

派閥

聡明丸は元服して澄之と名乗り、六郎は澄元と名乗るようになりました。

この場合「元」の字は細川家代々の当主の名跡です。「元」が付いた方が政元の跡を継ぐ事を意味します。これで細川政元の跡を継ぐのが澄元だと誰の目にも分かりました。

細川政元は、澄元に従って阿波からやって来た三好之長(みよし ゆきなが)を特に重く用いていました。之長は無頼漢でしたが、戦には滅法強い武将でした。一方、澄之付家臣の香西元長(こうざい もとなが)薬師寺長忠(やくしじ ながただ)は、三好之長の後塵を拝していました。もし今の流れのままに澄元が細川家のトップになれば、彼等は完全に反主流派の冷や飯食いになってしまいます。

彼等の焦りと、廃嫡された澄之の恨みがここで接近し始め、或る考えに辿り着きます。政元を斃してその地位を奪う、と。そうすれば澄之は管領になれるし、香西と薬師寺は三好を駆逐して主流になれる・・・この謀は深く静かに進められて行きました。

 

丹後攻略

尾張・知多出身の一色義有(いっしき よしあり)が、落下傘守護の様な形で丹後守護に任ぜられたのですが、応仁の乱から続いている国人達の抗争をなかなか鎮められません。それを見た若狭の武田元信が、一色義有の統治能力を問い、義有の罷免と丹後の国を要求します。

細川政元は武田元信の要求を入れ、義有を罷免します。が、義有はこれを拒否します。

 1506年(永正(えいしょう)3年4月)細川政元は一色氏討伐に動きます。

政元は、澄之、澄元、細川政賢(ほそかわ まさかた)、赤沢朝経(あかざわ ともつね)三好之長、香西元長、武田元信等の武将を率いて討伐軍を発します。

翌1507年(永正4年5月29日)、政元は戦陣を離れて京都に帰りました。澄之は、加悦城(かやじょう)を攻めていましたが、石川直経と偽りの和睦を結び、政元を追う様に京都に帰ってしまいます。香西もそれに従います。後に取り残された細川軍は、その後も丹後で戦い続けていました。

永正(えいしょう)の錯乱

細川政元修験道に凝っていました。女人を近づけず、また、本気で天狗の真似をして高い所から飛び降りて怪我をするなど、全く馬鹿々々しい修行に本気でのめり込んでいました。

1507年(永正4年6月23日)、この日、政元が修行する為、精進潔斎して湯殿で行水を使って身を清めていた時、突然、香西元長や薬師寺長忠の意を受けた近侍の者に襲われ、暗殺されてしまいました。

翌6月24日、香西と薬師寺は、澄元と三好之長の屋敷を襲います。不意打ちを食らった澄元と之長は辛うじて窮地を脱出し、近江に敗走します。
香西と薬師寺は主君・澄之を迎えて、細川本家家督を継がせました。

同年6月26日、丹後で戦っていた赤沢朝経(あかざわともつね(=澤蔵軒宗益(たくぞうけんそうえき))は、京都の変事を知り、軍を撤退しようとしましたが、石川直経の反撃を受けて敗北、自刃してしまいます。

 

 

余談  赤沢朝経

赤沢朝経は小笠原氏の支流で、大和・河内・山城の守護代です。小笠原流馬術の師範で、細川政元足利義政に弓馬術を教えました。文武両道に優れた剛の者です。

 

余談  今熊野城、阿弥陀峰ヶ城、加悦城(かやじょう)

一色義有の上記三つの城は、日本三景の一つ、天橋立を眼下に望む絶景ポイントに建っていた山城でした。(現在、郭などの遺構は木に覆われています)

この時の戦により町は炎に包まれ、灰燼に帰しました。雪舟の国宝天橋立図」は、そうなる直前の貴重な記録絵でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

98 船田の乱 土岐氏と斎藤氏

織田信長が生まれる40年ほど前、美濃の船田で始まった船田の乱は、船田合戦とも言い、土岐氏家督相続を巡る争いが発端です。この戦いは、美濃一国に留まらず、近隣の尾張、近江、越前を巻き込む広範な地域に及びました。

石丸(=斎藤)利光が居城としていた船田城は、今はすっかり影も形も有りません。岐阜駅から南へ約1.5㎞ 位の所に石碑があるのみです。

この合戦の中に古田氏の名前が出てきますので、もしや美濃出身の古田織部の先祖も関わっているのかもと思い、取り上げてみました。

 

嫡子  対  庶子

1494年(明応3年)、美濃の守護・土岐家に跡目相続の争いが起きました。

守護・土岐成頼(とき しげより) は、嫡子・政房よりも四男の側室の子・元頼(もとより)を溺愛していました。

彼は元頼を後継者にする為に、守護代斎藤利藤(さいとう としふじ)と手を結びます。利藤は代官の石丸利光(いしまる としみつ)に「斎藤姓を名乗る事を許す」と釣り、石丸利光を味方に引き入れます。斎藤利藤と石丸(斎藤)利光は元頼を擁立し、政房を討とうと動きます。

それに対して、嫡出嗣子の政房こそ正統な跡継ぎだと、斎藤利国(=妙純(みょうじゅん))が反対します利国は、利藤の異母弟です。(「利」が付く名前がこれから沢山出てきて紛らわしいので、ここでは「利国」を法名の「妙純」で呼ぶことにします。)

石丸利光は妙純を討とうと兵を集めますが、奇襲に失敗してしまいます。

1495年(明応4年)、利光は、自分の居城の船田城に、土岐元頼、斎藤利藤、その孫の利春毘沙童を迎え入れます。(利春は間も無く風邪で陣没してしまいます。)

一方の土岐政房・妙純側には、尾張織田寛広(おだ とおひろ or おだ ひろひろ)が、妙純との姻戚の縁を以って援軍に駆けつけます。

 

船田合戦

1495年(明応4年6月19日)、石丸利貞、秀道が斎藤方の西尾氏を攻め、これを破りました。更に勢いに乗り、妙純の居城・加納城を包囲しましたが、反撃に遭い、二人とも戦死してしまいます。

1495年(明応4年7月1日)、両者の間で戦端が開かれました。古田氏が石丸利光側についたと聞いた妙純は、弟の利安と利綱を、西郡に居る古田を討ちに向かわせます。それを聞いた石丸利光は、古田救援に1,000人余の援軍を送りました。

7月5日早く、利安、利綱、山田氏、村山氏が石丸方に攻めかかります。石丸方は敗退し、船田城に火をかけて近江へ逃れました。

土岐成頼城田寺城(きだいじじょう)に引き籠って隠居し、嫡子・政房に家督守護職を仕方なく譲ります。

 

城田寺城(きだいじじょう)の戦い

 1496年(明応5年5月)、妙純は尾張の織田寛広を支援の為、尾張へ出陣します。すると、その隙を狙って、近江に逃げていた石丸利光が、六角高頼織田寛村(おだとおむらorおだひろむら)の支援を受けて、美濃に侵攻し、土岐成頼の居る城田寺城に入ります。

それに対する妙純は、近江の京極隆清尾張織田寛広、越前の朝倉貞景の援軍を得て、城田寺城を包囲、総攻撃を掛けます。城田寺城は落城。5月30日に利光と利高父子は切腹し、元頼も日を置かずして切腹してしまいます。終戦を迎え、京極、織田、朝倉の軍勢はそれぞれ本国に引き返します。

土岐成頼は剃髪して宗安と名乗り、56歳で亡くなりました。

後日談

〇 妙純利親(としちか)父子は1496年(明応5年12月)六角高頼遠征後の帰り、武装した郷民の一揆に襲われ軍は敗退、父子は討死しました。

〇 土岐政房は父と同じ轍を踏み、嫡男頼武を廃嫡、次男頼芸(よりのり)を守護にして美濃を混乱させました。この混乱に斎藤道三が乗じます。

〇 織田寛広は後盾だった妙純死後、衰退。別家織田家から後の信長が出ます。

 

参考までに群書類従第21(合戦の部)、船田前記(明応4年)の記述を載せます。

なお、( )内の小さい字は、ずいようが後から付けた注です。

 

群書類従第貮拾壹輯(合戦の部)

船田前記 (明応四年)  

七月一日吾兵星(ノ如クニツラネテ)行軍於西郡討古田氏。以其與(与)(石丸利)也。光聞之遣鋭卒千餘人救之。以石丸正信新左衛門為上将。國枝氏為助為次将。馬場氏為之副。吾兵以其寡告急。

五日之早利安(斎藤利安)。利綱(斎藤利綱)領山田氏。村山氏曁(至るor及ぶの意)諸兵往而討之。貔貅(読み:ひきゅう、勇猛の兵の意)三千餘人。駢(並)部曲列?隊。一瞻(読み:せん、仰ぎ見るの意)将帥・麾節以為進退動止。朱幡白閃々交色。遠而望之則如雑花亂發。至高春遘(逅)敵於中野。山(山田)氏為先鋒。與國(国枝)氏戦乃捷矣。國(国枝)氏昆季(読み:こんき、兄弟の意)五人倶死。村氏與石氏箭(読み:せん。真っ直ぐの意)鋒相抂(狂)及其交鋒。利安。利綱自左右挟撃大破之。如山壓(圧)卵。馬(馬場)氏同族九人。石(石丸)氏三人。正信等父子三人皆死。刎額(首)者百三十餘級。遭虜十餘。横死者填野。

(ずいよう超意訳)  7月1日、妙純が、西郡の古田氏を討ちに行った、と聞いた石丸利光は、石丸正信を上将、次将国枝氏、馬場氏を副将にして、精鋭千人余の兵を救援に派遣した。

5日の早くから、妙純側の利安、利綱、山田氏、村山氏の諸兵が既に攻撃を始めていた。勇猛な兵三千余人が大将の采配に進むも退くも動くも止むも一糸乱れぬ動きをし、紅白の旗が閃いて遠目で見ると花々が咲き乱れる様だった。村山氏が先鋒、国枝氏の動きは早かったが兄弟5人討死。利安と利綱は左右から挟撃して大いに破った。まるで潰れた卵が山の様。馬場氏9人、石丸氏3人、正信等父子3人討死。討ち取った首は130余、捕虜10余、戦死した者は野に充ちていた。

(貔貅:貔(ひ)も貅(きゅう)も虎や豹に似た獰猛な動物の事です。昔、中国で貔貅を飼い慣らし、戦場で使役したと言う伝説から、貔貅は勇猛な兵士を表す言葉になりました。)

 

 

余談  古田城落城

船田の乱の時、古田氏が石丸利光側についた為、妙純は弟の利安、利綱を中之元にある古田城(中野城)に向かわせました。古田勝信信清兄弟は応戦しましたが、兄弟とも討死し、城も落城しました。たぶん古田城は平城で、館の様な構えだったのではないかと婆は推測しています。

古田の嫡男・古田彦左衛門が政房側に居たので、生存者を、美濃加茂郡八百津に亡命させた、との話があるようです。が、研究者によれば、古田彦左衛門は船田の乱よりずっと前に亡くなっているので、この話は違うと言う説も有ります。

戦乱により古田は美濃、尾張と散り散りになり、系図もかなり混乱しているらしいです。ただし、古田彦左衛門については不二庵(大仙寺)への寄進文が残っていて、実在の人物です。

船田の乱で亡くなった者達を葬ったのが古田山徳林寺と言って、やはり大野町中之元にあります。徳林寺は以前は寂乗山徳林寺と言っていたそうですが、山号の変わった理由は分かっていないそうです。古田織部天正時代に寺を再建した時に山号を変えた、と伝わっているそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

97 山城国一揆

山城国(やましろのくに)はどこ?

山城国と言うのは、山向こうの国と言う意味です。昔、奈良に都があった時、今の京都は山の彼方の国でした。山背(やましろ)の国、山代とも書きました。

794年、桓武天皇平安京に遷都した時、「山背国」の「背」の文字を忌み、詔を発します。 

「此の国の山河襟帯(きんたい)にして自然に城を作す。斯の形勝に因り新号を制すべし。宜しく山背国を改め山城国と成すべし」

(ずいよう訳) 山背の国は山や川によって襟(えり)や帯の様に囲まれ、自然のお城の様です。その形に因って名前を新しく定めます。山城国と。という訳で、山城国と名付けられました。

山城国は京都の南部に当たります。およそ京都盆地とその周辺の山々を含めた地域で、南は奈良県に接しています。

山城国一揆が起きたのは、その中でも最も大和に近い久世(くせ)郡、綴喜(つづき)郡、相楽(そうらく)郡の地域でした。

 

朝廷のお膝元

山城国は朝廷のお膝元でしたので、皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、社家領などの荘園がびっしりとモザイク状にありました。8郡500ヵ村に及びます。そういう地域に、幕府の御料地などが点在していました。

この様な状況から、山城国は守護が領主の様に君臨する土地では無く、六波羅探題守護代わりに警備を担当するとか、山城国に守護が置かれても、何となく監督している様な緩い体制で推移してきました。

鎌倉幕府が出来た頃の守護は、天皇領や摂関家領、公家領などの荘園の警備監督をして、その手数料を得て生活をしていました。ところが時代が下ると、守護は年貢を荘園領主に納めるどころか、半済令(はんぜいれい)の乱用が起き、年貢を誤魔化したり、あたかもその土地から上がる年貢は全て自分の物であるかのように我が物顔に振る舞い始め、戦費に使い、闘茶などに湯水の様に贅沢に使い、挙句の果ては、土地の相続に骨肉の争いを始める始末になってしまいました。お蔭で公家達は窮乏し、明日の食べ物も満足に得られないほど没落してしまいました。(半済令→年貢の半分を納める事。最初の半済令は1349年、ちょうど足利尊氏と弟・直義(ただよし)が戦った観応の擾乱の時に発令、兵糧米徴収が目的でした。但し、後世目的が変化します)

 

山城国一揆の背景

1485年(文明17年)、山城国国一揆が起こります。

国一揆と言うのは、国人(誰の家臣でもない土着の武士達) が起こした一揆の事を言います。

山城国一揆は、土着武士に加えて農民も混ざって蜂起したもので、守護を追い出して自治を始めた特筆すべき出来事でした。

さて、山城国一揆に至る迄の経緯は次の様でした。

時は少し遡ります。

1478年(文明10年)、畠山政長山城国守護になりました。これによって政長は、河内、紀伊越中に山城を加えて4か国の守護になりました。とは言え、長年家督相続で争って来た義就(よしひろ(orよしなり))河内国を実効支配していましたので、河内国に関しては、政長は名目上の守護に過ぎませんでした。そこで政長は、山城国では年貢を半分取る権利や裁判権、警察権、その他様々な権利を一円的に得られる守護領国制の導入を目指します。これは荘園領主にとっても、幕府にとっても苦々しい事態でした。幕府は、山城国については御料国化したい目論見がありましたから、政長が頑張って守護職に邁進するのは迷惑だったのです。

1482年(文明14年)、細川政元畠山政長の連合軍が義就討伐に動きます。が、政元は義就と単独講和して軍を引き上げてしまいます。残された政長は義就と戦い続けます。義就は河内から山城へ侵攻、木津川沿いに軍を展開します。主戦場になった山城国の国人達は彼等に反発します。

 

山城国一揆

1485年(文明17年)、国人衆や惣の農民らが宇治平等院に集まって評定を開きました。彼等は「国中掟法(くにじゅうおきて)を取り決め、36人の代表による自治を行なうことに決めました。

 興福寺「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうき)という日記には、次の様に書かれています。

 「今日、山城の国人衆会す。上は六十歳、下は十五、六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両軍の時宜を申し定めんが為の故と云々。然るべきか。但しまた下剋上の至りなり」

(ずいよう意訳) 今日、山城の国人達が集まりました。上は60歳から下は15~16歳までの者、同様に同じ年齢の農民達が一堂に会しました。それは今度の畠山両軍の退き時を話し合って決める為だそうです。それは当然でしょう。ただしこれもまた下剋上の現れです。

その集会で決議された事は次の通りです。

1. 畠山両軍は南山城から撤退する事。以後入って来てはならない事。

2. 寺社領地の権利関係は元の通りに認める事。

3. 住民は年貢を滞納せず、半済(はんぜい)する事。(本来なら、半済分の年貢は領主に納めますが、この集会での話し合いでは、この半済分を自治費用に充てるようにしました)

4. 新しく関所を作ってはならない事。

一揆側は畠山両軍と交渉。話し合いは難航しましたが、これを実施する為には武力行使も辞さないと毅然とした態度で臨み、結果、畠山両軍を撤退させることに成功します。

 

一揆の崩壊

 1486年6月(文明18年5月)、畠山政長の跡を、伊勢貞陸(いせ さだみち(政所執事伊勢貞宗の嫡男))が守護に補任されます。

貞陸は一揆側の自治を認め、その上で緩い支配をしていきますが、やがて欲を出し、政長と同じ様に山城国全域の一円化を目指す様になります。彼は、大和土豪にして僧侶・古市澄胤(ふるいち ちょういん)守護代にして南山城を治めようとしたことで、国人達の中にそれに随おうとするものと反発する者が現れました。国人同士の間や農民仲間同士、或いは国人対農民の間でも、それぞれ意見の食い違いなどが生じて来て、まとまりを欠いて来ました。年貢を滞納する者達も現れてきました。こうして次第に内部分裂を起こし始めました。澄胤はそういう隙を突いて反抗する者達を弾圧します。あくまで自治を貫こうとした人達は、稲屋妻城(いなやつまじょう)に立て籠って戦いました。が、澄胤はこれを討ち、鎮圧しました。

山城国一揆の約8年間続いた自治は、こうして終わりを告げました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変

足利義尚 (あしかが よしひさ)

9代将軍・足利義尚は母親の愛情を一身に受けて育ちました。

母親はあの日野富子。彼女は子供を完全に自分の支配下に置こうとしました。

子供は親の粘土細工ではありません。親の思い通りになる子供にしようとすればする程、反発します。9歳で将軍位を継いだ義尚は、長ずるに及んで自分で何でも判断する様になります。ただ、それは富子の望まない事でした。父・義政も又、隠居と言いながら義尚に政治の実権を渡そうとしませんでした。暇な義尚は、そこで何をしたかと言うと、和歌に興じ、酒と女に溺れました。

 

六角征伐

 近江国六角高頼(ろっかく たかより)と言う守護がおりました。高頼は近隣の国や、公家や寺社の荘園に侵攻し、土地を押領していました。それを成敗してくれと幕府に訴えがありました。

義尚は、この時こそ将軍の威令を示す時とばかり2万の軍を召集し、

1487年(長享元年9月12日)、自ら軍を率いて勇躍近江に出陣します。

義尚は六角氏の居城・観音寺城(かんのんじじょう)を攻撃します。観音寺城は佐々木城とも言い、琵琶湖の東岸にある交通の要衝(現近江八幡市安土)にあります。六角高頼は攻撃をうけるとその城を捨てて甲賀(こうか)の山中に入り、得意のゲリラ戦に持ち込みます。甲賀と言えば甲賀忍者の里。勝敗は決せず戦は膠着状態に陥り、鈎(まがり)と言う場所に陣を敷いたまま、義尚の陣中生活は1年5か月にも及びました。その為、幕府の機能も鈎に移ってしまった様な恰好になりました。朝倉氏を幕府の直臣に取り立てたりもしています。

義尚は、母・富子の手から離れて自由になったものの、箍(たが)が外れて自堕落になり、しかも、常にゲリラの襲撃に脅かされると言う過酷なストレスに晒されました。

1488年(長享2年)、義尚は義煕(よしひろ)と改名します。

1489年(長享3年3月26日)、義尚は近江鈎の陣中で25歳の若さで病没します。

彼は黄疸に罹っていました。死因は大酒と荒淫による脳溢血と言われています。

 

足利義材(あしか がよしき) 

義尚には後継ぎの男子が居ませんでした。そこで、義尚が近江に出陣する9か月前に、彼の猶子となって元服した義材が次の将軍の候補になりました。(義政の養子になったと言う説も有ります) 義材は足利義視の嫡男です。

管領細川政元は、次期将軍に堀越公方足利政知の子・義澄(よしずみ)を推していました。その為、義材の将軍就任は円滑には進みませんでした。しばらく将軍空位のまま、義政が将軍代行として政務を執っていましたが、結局、義政と富子の後押しがあって義材が次期将軍に決まりました。

1490年1月20日(延徳2年1月7日)、義政が薨去(こうきょ)しました。

1490年7月22日(延徳2年7月5日)、足利義材が10代将軍に就任しました。

義材は前将軍の遺志を継いで近江の六角高頼討伐の為に近江に親征、高頼の駆逐に成果を上げます。

六角征伐に成功したので、次に義材は、河内の争乱を鎮圧すべく4万の兵を率いて河内に向かいます。応仁の乱の発端となった畠山家の家督争いがまだ続いていて、畠山政長と、畠山義就(はたけやま よしひろ or よしなり)の子の義豊(よしとよ)が争っていたのです。

 

明応の政変

細川政元

幕府の権威を高めようと将軍が率先して動く事に、細川政元は反対していました。そういう仕事は管領や側近の職掌。将軍は御神輿に徹していれば良い、政務は儂が執る、と彼は考えていました。彼の意図に反して義材は親政を行い、政元と対立します。

また、彼は修験道に凝り不犯(ふぼん)の掟を自らに課しました。修行を成就(じょうじゅ)すれば役行者(えんのぎょうじゃ)の様に何でも思うままに動かせるとでも思ったのでしょうか。変な術を練習したりしていたようです。彼は結婚せず、次から次へと3人も養子を取りました。これが災いして、3人の子は後に跡目争いを起こし、細川家没落の原因となります。

クーデター

1493年(明応2年4月)、細川政元は、義材が河内に出陣している間にクーデターを起こします。

政元は、義材を廃立し、堀越公方足利政知の子・義澄(よしずみ)を擁立します。ところが、このクーデターを後土御門天皇が認めず将軍宣下を拒否、義澄は中途半端な立場になってしまいました。

細川政元は裏で義豊と結託、義材討伐の軍を河内に送り、義材達が本陣を置いていた正覚寺(現大阪市平野区)を襲います(正覚寺合戦)。河内に出陣していた幕府軍は、クーデターの話に激しく動揺、次々と大名達が細川側に寝返ってしまいます。味方だった者が敵方に回り、軍は崩れ、義材は敗北、政長は自害しました。義材は捕らえられてしまいます。義材は龍安寺に幽閉されましたが、かつて西軍に居た神保長誠(じんぼう ながのぶ)の家臣に手引きされて脱出、畠山政長の領地・越中へと落ち延びます。

1495年1月23日(明応3年12月27日)、義澄が新たな将軍になります。

 明応の政変は、家臣が将軍の首を挿(す)げ替えた、正に下剋上の事件として、戦国時代の幕開けの事件と言われています。

足利義澄(あしかが よしずみ)

 足利義澄は、堀越公方足利政知の次男です。

父・足利政知は6代将軍・義教の四男で8代将軍・義政と義視の異母兄です。つまり、堀越公方足利政知は将軍一家の生まれでした。

政知には3人の子がおりました(4人説も)。長男が茶々丸、次男が義澄、三男が童子(じゅんどうじ)と言います。

政知は嫡子・茶々丸を素行が悪い事を理由に土牢に幽閉します。次男については、将来将軍を継ぐかもしれない事を念頭に、天龍寺香厳院に入れて僧侶にします。これは義政・富子の意向でもあったようです。将軍候補控え選手の手駒だったのでしょうか。僧になった次男は法名清晃(せいこう)と名乗りました。清晃が後の義澄です。政知は三男の潤童子を自分の後継者として指名し、嫡男の茶々丸を廃嫡しました。廃嫡を諫めた上杉政憲切腹させられてしまいます。

1491年5月11日(延徳3年4月3日)、政知が亡くなります。その3か月後、茶々丸は牢番を殺して脱獄、継母と潤童子を殺害して堀越公方の座を奪います。彼は恐怖政治を敷き、重臣達も容赦なく斬り殺した事から家臣達は茶々丸を支持しなくなりました。

伊勢新九郎こと北条早雲の登場

天龍寺に居た清晃は、1493年の明応の政変で還俗して義遐(よしとう)と改名し、更に義高と名を変え、最終的に義澄の名前に落ち着きます。彼は将軍になっても、母と弟を茶々丸に殺された恨みを忘れていませんでした。幕府政所伊勢貞親の流れで伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)と言う者が駿河に居ましたので、義澄は伊勢新九郎茶々丸を討つ様に命じます。新九郎は手勢と今川氏から借りた兵とで茶々丸を攻撃、茶々丸を敗走させます。

茶々丸は再起を図って伊豆を窺(うかが)っていましたが早雲に捕えられ、1498年(明応7年8月)に自害しました。

北条早雲今川氏親と連携しながら領国を拡大して行きます。

 

義材(=義尹(よしただ))の流浪

将軍位から追放された足利義材は、供回り30名ばかりと共に畠山政長の領地・越中国に入り、守護代神保長誠を頼ります。神保勢は義材と共に畠山義豊と戦い、甚大な被害を出しましたが、長誠自身は病気療養中で河内国の合戦に参陣していませんでした。

長誠は、義材の為に放生津(ほうじょうづ)正光寺(しょうこうじ)を御所に造り直し、彼を迎え入れます。義材を細川政元の軍が攻めてきますが、これを神保は撃退します。

義材は北陸の大名達に協力を求めましたが、成果を得られず、越前朝倉氏を頼ります。この頃、義材は義尹(よしただ)と改名します。

1499年(明応8年9月)、正覚寺で死んだ畠山政長の子・尚順( ひさのぶ or ひさより)は、筒井順賢(つつい じゅんけん)、十市遠治(とおち とおはる or とおいち とおはる)の協力を得て、父の仇である畠山義豊を討ちました。この時を捉えて、義尹(=義材)は尚順と手を結び、又、叡山や根来寺(ねごろじ)高野山等の僧兵とも糾合して京都に攻め上ろうとしますが、敗北。義尹は逃れて周防(すおう)大内義興(おおうち よしおき)の下に落ち延びます。

 

余談  茶人・古市澄胤(ふるいち ちょういん)

1499年に畠山尚順が攻撃した相手・義豊側に、古市澄胤と言う武将がおりました。澄胤は興福寺の僧侶出身です。彼は茶の湯には欠かせない重要な人物で、村田珠光(むらた じゅこう or むらた しゅこう)の一の弟子です。山上宗二茶の湯の名人としてその名を挙げています。澄胤の弟子に松屋久幸が居ます。松屋が持っていた三名物の内で、現在所在が分かっているのは、根津美術館に所蔵されている松屋肩衝(まつやかたつき)という茶入れだけです。(肩衝(かたつき)と言うのは茶入れの事で、口の周りが肩が張っている様な形のものを言います。茶入れは抹茶を入れるもので陶器で出来ています。木製で出来ている物を「棗(なつめ)」と言います。茶入れには、丸っこいもの、撫で肩のもの、下膨れのものなどがあり、それぞれの形に名前が付いています。) 

 澄胤は1508年(永正5年)、畠山尚順を攻めましたが敗走し、自害しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

95 応仁の乱(6) 終結への道

全てのものには始まりが有れば終わりが有ります。けれども、何時の世でも、戦争ほど始めるのは易く、終わらせるのが難しいものは他には有りません。

畠山家の家督争いから始まった応仁の乱は、参戦者のそれぞれの思惑が絡んで様々な様相を見せる様になります。

 

利権の争い。

1467年(応仁元年9月)、大内政弘が1万の軍勢と水軍2千隻を率いて上洛しました。

大内氏細川氏は、瀬戸内海と東シナ海制海権を賭けて長年争って来ました。瀬戸内海は海運の要です。また、莫大な利益をもたらす日明貿易をするには、どうしても東シナ海制海権が必要です。両氏は海上利権の対立に加えて、大内政弘の母は宗全の養女、細川勝元正室も宗全の養女と、因縁浅からぬ仲でした。政弘は西軍の宗全側に立って戦います。

幕府は大内政弘の力を削ぐ為、大内氏の国元を突いて慌てさせ、攪乱する策に出ます。

義政は大内氏の留守を預かっている大内教幸(おおうち のりゆき)大内氏の当主と認めます。そして教幸や大内関係者に、又、東軍に居た豊後・筑後守護・大友親繁(おおとも ちかしげ)にも、政弘を討てと命じます。京都に在って軍を展開していた政弘は、急遽家臣の益田貞兼(ますだ さだかね)を国元へ派遣し、国元の陶広(すえ ひろもり)を援(たす)け、鎮圧します。

 

東軍の将、西軍に走る

 戦時で疎(おろそ)かになっていた政権の運営を軌道に乗せようと、義政は文正の政変で失脚していた伊勢貞親(いせ さだちか)を呼び寄せます。東軍の総大将として活躍していた義視(よしみ)は、伊勢貞親の登場を知るや突然東軍を出奔して比叡山に登ってしまいました。それはそうでしょう。貞親は義視の殺害を企てた人物ですから。

かつて勝元は、義視還俗の折り義視の後見を約束していましたが、事ここに至っては態度を変え、義視に対して再び出家して一生無事に過ごす様に勧めます。失意の義視に宗全が近づき、義視を将軍に奉って迎え入れます。

 

下剋上

その頃、大内政弘山城国をほぼ制圧しており、兵火は地方へと移って行きました。

守護の主だった者が京都に集結して戦っている間、留守宅の領国では守護代や国人達が力を付けてきます。彼等は、殿様の留守を預かる守護代としての立場から、何時の間にか守護を凌ぐ実力を発揮し始める者が出てきます。

国元で起き始めいてる変化に、守護もおちおちと京都で戦っていられなくなりました。勝敗も決せず、成果も上がらず、だらだらと長引く戦に厭戦(えんせん)気分が蔓延してきました。

そんな時、西軍の将・斯波義廉(しば よしかど)の一家臣であった朝倉孝景(あさくら たかかげ)が、義政から越前国守護職を約束されて東軍に寝返りました。守護大名・朝倉氏の誕生です。斯波義廉は、家臣に自分の領土を奪われてしまいました。義政はこうして西軍の切り崩しにかかります。

これは幕府主導によって、家臣が主人の地位を覆した下剋上のケースですが、やがて幕府不在の戦国型下剋上になって行きます。

 

和議への模索

1472年(文明4年)、勝元と宗全の間で和議が諮(はか)られましたが、条件の調整で失敗しました。

そんな時、事態が急展開します。

1473年(文明5年3月18日)山名宗全が亡くなりました。その後を追う様に約2ヵ月後の5月11日細川勝元も亡くなります。これを機に和睦交渉が再開されました。が、応仁の乱の着火点でもあった畠山義就(はたけやまよしひろ(orよしなり))畠山政長は、主戦論を強硬に唱え、決裂してしまいます。

1473年1月7日(文明5年12月19日)、義政が隠居し、義尚(よしひさ)が9代将軍になります。そして、

1474年4月19日(文明6年4月3日)、宗全と勝元の跡を継いだ新世代の山名持豊(やまな もちとよ)細川政元の間で、和議が成立します。

戦争を終わらせる為に二人は手を握り、未だ戦っている畠山義就大内政弘を攻撃します。

こうなると矛の納め時を探していた各武将も、続々と東軍に帰順します。

一色直義(いっしき なおよし)の子の義春が義政の下に出仕してきます。

甲斐敏光(かい としみつ)が東軍に投降してきます。

斯波義敏守護代織田敏弘と共に尾張へ向かい、消息を絶ちました。

義政は大内政弘に「これ以上無駄な事は止めなさい」と『世上無為』の御内書を送ります。

西軍に走った義視も義政に恭順しました。義視の罪は問われませんでした。

投降や帰順しても罪を問われず、処分もされなかったので、外の者達もそれを見て後に続きました。こうして西軍は解体されて行きました。

 

富子の手腕

上洛して10年も転戦を続けていた大内政弘は、軍をなかなか引こうとせず、未だ愚図っていました。長い間戦ってきて何の成果も上げられなかった、と言うのでは儂のメンツはどうしてくれる? 政弘は撤収の名目に拘っていました。義政の妻・富子はそれを察し、義尚の名前で周防(すおう)・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・筑前の4か国を安堵して撤退させます。政弘は喜んで降参し、国へ帰って行きました。

 畠山義就へは撤収費用として1千貫を渡して撤退させています。

畠山義統(はたけやま よしむね)土岐成頼も撤収し、それぞれ国に帰ります。美濃へ帰国する土岐成頼と共に、足利義視とその子・義材(よしき)も同行して美濃へ下向します。大物達が京を去り、ようやく「束の間」の平和が訪れました。

 1477年、文明9年11月20日天下静謐の祝宴が開かれました。

戦争で幕府御料国からの収入が途絶えた中、富子は戦費を武将に貸し付けて、利を稼ぎました。京都七口に関所を設けて通行税を取りました。その遣り口に人々は反発、徳政一揆を起こした程でした。悪辣な守銭奴と罵られ、後世に三大悪女の一人と不名誉な名を冠せられました。

けれど、もし、彼女が居なかったら、幕府は疾っくに財政破綻をきたして潰れていたでしょう。将軍とは名ばかり、財力も兵力も失った足利将軍は、やがて漂流し始めます。

富子は悪名を浴びせられつつも、7万貫の蓄財をしたそうです。現在の貨幣価値にすると40億円くらいだそうです。その程度のお金では、戦時の国家を動かすには焼け石に水でした。

富子は焼失した御所の再建に自らの蓄財をはたき、また、春日祭りの復活に力を注いだと聞いています。彼女が亡くなった時、ほとんど手元に財は残っていなかったと聞いています。

 

 

 余録  長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)の大飢饉

1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)にかけて、旱魃(かんばつ)や洪水、虫害が発生、また疫病が流行り、都だけで8万2千人の餓死者が出ました。物乞いや餓死者が都大路に満ち、死者は放置され、悪臭が漂いました。堪(たま)りかねて死者を鴨川に捨てます。時宗の願阿弥と言う僧が救民小屋を作りますが、押し寄せる窮民の数に粟粥などの補給が追い付かず直ぐにパンク。僧は救民を諦めて、川原に穴を掘り、一穴に千体とも二千体ともの死者を埋葬し始めました。

この天候不順による凶作の原因は、南太平洋にある海底火山クワエ山が、1452年から1453年にかけて数回噴火した事に依り、火山の冬が起きた事にあります。ヨーロッパでも酷い冷害と飢饉が発生しました。因みに、クワエ山の爆発の規模は、富士山の宝永噴火の10倍だったそうです。

 

余録  七五三と寿命

婆の祖母が言っておりました。七五三の祝いは命定めの祝いだったと。

昔は幼児の生存率が低く、三歳までが生存の分岐点、五歳を迎えられれば御(おん)の字、七歳になってやっと命定めが出来たと、皆で喜んだと聞いております。七五三はその節目節目の祝いだったそうです。命定めの病が「はしか」で、それを無事に乗り切れればもう大丈夫だと安心したとか。婆の祖母は明治14年生まれです。

疫痢、赤痢、麻疹、天然痘、そういう大層な病気では無く普通の風邪でさえも、昔は命を落としました。義政の兄弟の11人の内、大人になったのがたったの3人だったと言うのを見ても分かります。(参考: 89 趣味天下を制す 足利義政)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

94 応仁の乱(5) 開戦

畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごりょうがっせん))

 

蜜月から破綻へ

ここに至るまでに様々な事がありました。当初、畠山家督を巡る争いで、細川勝元山名宗全は、結束して弥三郎を支持していました。それは弥三郎が政長に代わっても同じでした。

勝元と宗全は、敵対するよりは手を結んだ方が得策と考え、勝元は宗全の養女と結婚したのです。ところが、宗全は政長支持から義就支持に鞍替えします。

宗全は、畠山義就に注目していました。兎に角、義就は強い。彼は嶽山城(だけやまじょう)の戦いの時、幕府軍を相手に孤軍奮闘で2年半も戦い抜いたのです。敵にするにも失うにも惜しい人材でした。

 

斯波義廉(しばよしかど)

1466年(文正(ぶんしょう)元年)、義廉は出仕停止処分を受け、3か国の守護職の返還を命じられました。

義廉は、舅の宗全と猛将・畠山義就が結びつけば得策と、二人の提携に向けて動きます。そんな事もあって、山名宗全は、義就を支援する事にしました。それは政長を見限り、政長を支援する細川勝元と袂を分かつ事でもありました。

 

義就上洛

1467年(文正元年12月)、義就は宗全に促され、大和から河内に回り、政長の城を次々と攻め落として上洛します。義就は義政に拝謁し、そして、将軍・義政に、政長の管領職の剥奪と畠山の家督を要求します。

翌1467年(文正2年1月6日)、義政はこれを呑んで畠山政長管領職を召し上げ、代わりに斯波義廉管領職に任じます。そして、畠山の家督と領国を義就に与えます。

政長はこの仕置に怒り心頭、自邸に火を掛け、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に陣を敷きます。政長は兵を集め、京都の緊張は一気に高まりました。

義就側も手を打ちます。宗全と義就は御所の天皇上皇親王などを室町御所にお連れして避難させ、そのまま自分達もそこに居座ってしまいました。幕府側の細川勝元は、ところてん式に室町御所を追い出されてしまいました。勝元は自邸で指揮を執ります。

 

御霊合戦

1467年(応仁元年1月18日~19日)、京都の上御霊神社畠山義就軍と畠山政長軍が衝突します。義政は宗全と勝元へ、政長と義就の衝突は私闘だからお前達は関わらない様に、と釘を刺します。宗全は義政の命令を守らず義就に加勢します。勝元は命令を守り静観します。この結果、政長は初戦で敗北してしまいます。政長は、上御霊神社に放火して撤退し、勝元邸に逃げ込みます。

この時の陣容は次の通りです。

政長軍 畠山政長、神保長誠(じんぼながのぶ(政長家臣)),遊佐長直(ゆさながなお(畠山家臣))

義就軍 畠山義就山名政豊(宗全の後継ぎ)朝倉孝景(斯波義廉家臣)

 

東軍 対 西軍

御霊合戦後、勝元は細川氏族全員に軍の動員を掛けます。山名も斯波も負けてはいません。国元に動員を掛け、京都は軍勢で溢れかえりました。御霊合戦で都が踏み荒らされた上に加えて、急激な人口の膨張で兵糧不足が発生、細川軍は山名軍の米を略奪し始めます。足利義視は義政と同じ東軍にあって、これらの略奪事件などの調停に当たっていましたが、応仁の乱が始まってから約2年後、義視は突然比叡山に逃げ込んでしまいます。

それは義政が、大赦で許した伊勢貞親を復帰させ、政権に加えたからです。「伊勢貞親」と言えば、義視誅伐を義政に具申した張本人(文正(ぶんしょう)の政変)。義視はそのような人物と同じ陣営で活動する訳には参りません。何時寝首を掻かれるか、毒殺されるか義視にとっては危険極まりない相手です。逃げるのは当然でしょう。

義視が比叡山に登ったと聞いた山名宗全は、大歓迎で義視を西軍の総大将に迎えます。

東西両陣営は次の様になりました。

 

東軍     総兵力16万

総大将    足利義政足利義尚(あしかがよしひさ)

主な武将      細川勝元畠山政長斯波義敏伊勢貞親筒井順永、

       成身院光宣(じょうしんいんこうせん)山名是豊、赤松政則

       京極持清、土岐政康、富樫政親、大内道頓、

       その他諸将多数

 

西軍     総兵力11万

総大将    足利義視(あしかがよしみ)

主な武将    山名宗全畠山義就斯波義廉、伊勢貞藤、

       越智家栄 (おち いえひで)、古市胤栄(ふるいち たねひでorいんえい)、

       一色義直、有馬元家、 京極政光、 石丸利光

       富樫幸千代(とがし こうちよ)大内政弘その他諸将多数

 

御霊合戦が第一ラウンドとすれば、第二ラウンドは同年の5月から始まります。それも、あちこちで同時多発的に起きました。

播磨国で赤松氏と山名氏、若狭国細川氏と一色氏、伊勢国では土岐氏と一色氏が戦い始めます。関東では1455年(享徳3年)関東管領上杉家と鎌倉公方の間で起きた享徳の乱が、応仁の時代になってもまだ続いておりました。

1467年5年26日、各武将それぞれが、敵方が京都に構えているそれぞれの邸宅を攻撃し、潰し合い、火を掛け合いました。邸宅は大きく、火災になれば大火災になり延焼します。翌27日に両軍が一旦引き上げた時には、この合戦で船岡山から二条通り迄焼失したそうです。

新たに西軍に大内政弘が参陣し、戦線は次第に拡大して行きます。武将の館ばかりでなく、三方院、南禅寺相国寺、稲荷社の堂塔伽藍が全て焼亡しました。東軍有利だったのが西軍有利に展開する様になりました。

焼け野原になった京都での陣取り合戦が膠着状態になり、戦闘はむしろ下火になり、その分、戦火は地方に広がって行きました。

 

 

余談  細川勝元正室

細川勝元正室山名宗全の養女です。この養女の本当の父親は嘉吉の乱の時、赤松満祐邸で将軍・義教(よしのり)と共に殺された山名煕貴(やまなひろたか)です。山名煕貴は石見国(いわみのくに)守護大名で、義教の近習でした。彼は赤松邸での事件で即死しています。宗全は遺された二人の姫を引き取り養女にしました。そして、一人を大内教弘正室に、もう一人を細川勝元正室にしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

93 応仁の乱(4) 乱の前夜

室町幕府の政治体制はピラミッドの様な三角形をした支配体制の形ではありません。言うなれば、頂上がなだらかな丘の様になっていて、三管領四職の大名や重臣達の評議制の上に成り立っていました。将軍は一見その上に君臨している様には見えますが、将軍職と言うものは彼等が担いでいる御神輿に過ぎず、弱い存在でした。その最大の原因は、室町幕府の経済的基盤が弱かった事にありました。

 

弱い幕府

鎌倉幕府室町幕府の財政を比べてみると、鎌倉幕府承久の乱で没収した膨大な領地を得る事が出来、関東甲信越8か国を知行国にしました。また、潤沢に御家人達に分け与える事も出来ました。室町幕府建武の親政時に出来た幕府で、後醍醐天皇は公家に手厚く荘園を与え、武家には薄く配分しましたので、鎌倉幕府よりはずっと少なかったのです。

3代将軍・足利義滿の時、勘合貿易で利益を得て、経済的に豊かになり余裕も出てきました。が、4代将軍・義持が明との朝貢貿易を廃し、御料地と土倉(=高利貸・質屋) や酒屋からの税収、関銭(通行料)、津料(港使用料) 等の収入に頼る様になると、途端に歳入が不安定になりました。例えば土一揆で徳政令を出すと、土倉や酒屋が潰れそうになり、幕府の税収が減りました。戦乱と飢饉と疫病に苦しめられていた庶民は徳政令を頻繁に要求しました。

朝鮮使節尹仁保(いんじんほ) が出した朝鮮への報告書には、日本の事を『国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ』と書いてあるそうです。

 

策謀と言う武器

将軍は、経済力で諸大名に対抗できず、威令も蔑(ないがし)ろにされる様になる中、将軍家は様々な手を打って将軍の権威を高めようとしました。その手とは権謀術策の数々です。

1. 将軍家に対抗する可能性のある人物を潰す。 2. 内紛を起こさせて大名の勢力を削(そ)ぐ。 3. 利害が反する国同士を戦わせる。4. 強引に圧伏する・・・などなど。

結果は、将軍の権威は挙がらず却って下がり、世が乱れました。その混乱に大名達の欲と思惑が重なり、てんでんに皮算用をしながら、戦い始めます。

 

畠山氏の後継ぎ問題

畠山持国は、将軍・義教(よしのり)の怒りに触れて家督も領国も弟の持永に替えられてしまいました。

1441年(嘉吉元年6月24日)、義教が暗殺された翌日25日の評定で、義教によって失脚させられた者達の赦免が行われ、持国も赦されました。持国は直ちに弟・持永を攻撃して討ち取り、家督と領地を奪い返します。

1442年(嘉吉2年)、嘉吉の乱の張本人・赤松満祐(あかまつ みつすけ)の討伐が一段落すると、細川持之(ほそかわ もちゆき)管領職を辞し、替わりに畠山持国管領職を引き継ぎます。持国は8代将軍に義政を推し、彼を将軍職に就けます。その功のお蔭で持国は権勢並びのない者になります。

畠山持国は弟の持冨(もちとみ)を後継者に定めていました。ところが、後継者を定めた後に遊女との間に子供が出来ました。彼は心変わりして持冨を廃嫡し、その子を跡取りにしました。

持国を取り込みたい将軍・義政は、この変更を裁可します。その子は名前を義夏と言い、更に義就(よしひろorよしなり)と改めます。持冨は廃嫡されて4年後、失意の内に病気で亡くなってしまいました。(参考:91 応仁の乱(1) お家騒動)

 

弥三郎政久  vs  義就

収まらないのは持冨の家臣達です。元遊女の側室から生まれた義就が、本当に殿の子かどうかを家臣達は疑っていました。その側室には他にも二人子供が居て、二人とも父親が違っていました。家臣達は持豊の遺児・弥三郎政久こそ本来の後継ぎだと言い立てます。

1453年(享徳3年8月21日)、弥三郎支持派が持国の屋敷を襲撃します。義就は伊賀へ逃げます。

1454年(享徳3年4月3日)、持国は弥三郎を支持する家臣・神保国宗(じんぼ くにむね)を誅殺し、弥三郎派を一掃します。が、細川勝元山名宗全などが弥三郎を支持し、弥三郎政久とその弟・政長兄弟を保護します。この件で勝元と宗全は持国の責任を追及し、持国を失脚させます。勝元は宗全の養女を正室に迎えており、勝元と宗全は持国追い落としに結託したのです。

義就が伊賀に逃れている間に弥三郎は復権しますが、義政は、勝元と宗全を牽制する為に伊賀に逃げた義就を呼び寄せ、弥三郎を没落させてしまいます。そして、

1455年(享徳3年3月26日)、畠山持国が亡くなり、畠山義就家督を継ぎます。弥三郎は大和へ逃れます。

 その頃、大和では「大和永享(やまとえいきょう)の乱」と呼ばれる大乱が1429年(永享元年)から25年以上も続いていました。発端は奈良の興福寺の支院・大乗院と、同じく興福寺支院・一乗院の両者の覇権争いでした。興福寺成身院光宣(じょうしんいん こうせん) は6代将軍・義教に援軍を要請、以後義教が死亡した後も泥沼の戦いと化していました。義教死亡で復権した河内国守護・畠山持国が大和への勢力拡大を図っていた、と言う様な歴史がそこにはありました。

1454年、畠山家でお家騒動が発生すると、光宣と弟の筒井順永は弥三郎を支援しましたが、義就側に就いた越智家栄(おち いえひで)に敗れ、光宣は逃亡しました。

その後義就は、義政の上意と嘘をついて大和の弥三郎派の弾圧を開始、軍事行動を起こします。更に義就は上意と嘘をつき細川勝元の所領山城国を攻撃します。勝元は義就の排除に動きます。

上意詐称を何度もする義就は、義政からの信用をすっかり失ってしまいます。義政は、義就を放逐、義就の所領を没収し、更に、義就に協力的だった大和の国人達の所領を没収してしまいます。そして、弥三郎政久は赦されますが、1459年、彼は亡くなってしまいます。

 

政長  vs  義就

 弥三郎が亡くなった後、弟の政長は、畠山家の家臣の遊佐長直(ゆさ ながなお)神保長誠(じんぼ ながのぶ)と、成身院光宣の支持を受けて弥三郎の跡を継ぎます。そして、勝元、光宣、畠山家臣団に擁立されて、畠山家の家督を継ぎます。政長は大和の義就派の残党の一掃に勤めます。幕府は義就追討令を出します。

1460年(長禄4年or 寛正(かんしょう)元年)5月、義就は河内国嶽山城(だけやまじょう)(現大阪府富田林(とんだばやし))に立て籠り、徹底抗戦します。

勝元は細川氏一族、山名氏など諸大名と討伐軍を組んで義就と戦いますが、なかなか決着がつかず、ようやく2年半後に嶽山城は陥落しました。義就は吉野へ逃れました。

勝元は戦いに勝利し、勢いを増しました。ところが、元は協力関係にあった勝元と宗全でしたが、宗全は増大し始めた勝元の派閥を警戒します。これ以上細川勝元を拡大させてはならないと、宗全は勝元を追い落としに掛かります。

畠山政長管領に就任します。

 

義政の子の誕生と義視

1464年12月24日(寛正(かんしょう)5年11月26日)、義政は弟・義視(よしみ)を説き伏せて還俗(げんぞく)させます。

義視は初め説得に応じませんでした。彼は、兄・義政が30代で若く、まだ子供が授かる年齢である事、子供が生まれた場合には自分が家督争いに巻き込まれる事などを懸念、中々承知しなかったのです。義政は自分に子供が生まれても将軍職は子供に継がせず義視に継がせると約束をし、ようやく承諾させたのです。間もなく、義政の妻・富子の妊娠が分かります。富子はそれを承知で、実の妹・良子を義視と結婚させます。

1465年12月11日(寛正6年11月23日)、義政と富子の間に子が生まれます。子の名は義尚(よしひさ)です。義尚は晩年に義煕(よしひろ)と名前を変えます。義政は義尚の養育係に伊勢貞親(いせ さだちか)を付けました。伊勢貞親は、かつて幼少の義政を養育した人物です。義政と貞親の絆は強く、貞親を得て義政は親政の度を深めていきます。

貞親は1466年、斯波氏の家督相続に介入し、山名宗全細川勝元が支持している斯波義廉(しば よしかど) から家督を取り上げ、斯波義敏(しば よしとし)家督を与えました。加えて義敏に越前・尾張遠江(とうとうみ)を与え、更に、義廉を討つ様に命じています。こうして宗全と勝元を牽制しました。

 

文正(ぶんしょう)の政変

1466年、貞親は義視の排除を画策します。貞親が養育している義尚の将来に義視は禍根でしかなく、義尚の安全の為にどうしても義視を殺害しなければならない、と貞親は考えました。貞親は義視に謀反の動き有りと噂を流します。

1466年(文正元年9月6日)、貞親は義政に、義視を誅殺する様に訴えます。義視は勝元の下に逃げ込みます。伊勢貞親は讒言の罪を問われて追われる身となりました。貞親に与(くみ)していた季瓊真蘂(きけい しんずい)斯波義敏赤松正則も失脚しました。義敏の失脚により、斯波家の家督斯波義廉に戻されました。(文正の政変)

1467年(文正元年12月) 畠山義就が軍を率いて上洛、義政に拝謁し、畠山政長管領辞職と畠山邸の明け渡しを要求します。

1467年(応仁元年元日)、義就、義政から赦免され、畠山氏の家督を継ぎます。

1467年(応仁元年1月5日)、畠山政長管領を罷免され、斯波義廉管領になります。

1467年(応仁元年1月18日)、義就と政長は京都の上御霊神社で対峙し、戦いを始めます。(→ 御霊合戦(ごりょうがっせん)or上御霊神社の戦い(かみごりょうじんじゃのたたかい))

義就と政長の両者の戦いに、各守護大名達が参戦します。応仁の乱の勃発です。