式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

146 信長年表2 初陣~桶狭間

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 ※ 年表表記について

〇  西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇  元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)   〇  年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

年表

1547.01.11(天文15.12.20)    足利義藤(=義輝)、室町幕府13代将軍に就位。

義藤、僅か11歳で将軍宣下を行う。細川家の内紛、細川家家臣で軍事的実力者の三好氏の内紛など、糾合離反、向背の動きが激しく、義晴も、新将軍・義藤(義輝)もその度に逃げ、近江と京を何回も行ったり来たりしている。

1547.08.06.(天文16.07.21)  舎利寺の戦い。

(細川晴元陣営)三好長慶+六角定頼+三好政長 対  (細川氏綱陣営)細川氏綱+畠山政国+遊佐長教(ゆさながのり)の戦いである。大物崩れで自刃した管領細川高国の養子・細川氏綱が、敵将・細川晴元勢力に挑んだ戦いで、三好長慶側が圧勝。

1547(天文16)  信長(14)初陣。

今川勢力下にある西三河の吉良大浜(現愛知県碧南市)の長田重元の留守を狙って、織田側が仕掛けた戦い。今川の侵攻を止める狙いと、大浜の港の権益に食指を動かし、総大将を信長(兵力800)にして攻めたが、長田は織田側の動きにいち早く帰館。長田の兵力は2,000。伏兵などの陣立てをして信長を迎え撃った。信長、大浜に放火をして那古屋に帰るも、死傷者を大勢出し、地元伝承では大敗と伝わる。『信長公記』では無事帰陣とだけ書かれている。

1547.09.15.(天文16.08.02.)  松平竹千代(6歳)、人質になる。

松平竹千代は後の徳川家康である。竹千代は今川氏の人質となったが、護送途中に立ち寄った田原城戸田康光の裏切りにより、尾張織田信秀の下に送られた。その後2年間尾張国熱田の加藤藤盛の屋敷に留め置かれた。

1548(天文16.12) 堺公方足利義維、阿波に逼塞。

足利義維(あしかが よしつな)を推戴していた細川晴元が、主君を足利義晴・義藤に鞍替えした為に、後ろ盾を失った義維は堺から阿波へ没落した。

1548(天文17) 織田信長(16)斎藤道三の娘(濃姫)と結婚

1548(天文17.07)     武田晴信塩尻の戦いで小笠原長時軍を撃破した。

1548(天文17.08.12 ~ ) 三好長慶三好政長討伐に動く。

1532年飯森山城の戦いで、三好元長は、ライバル三好政長と管領細川晴元の策謀に嵌(はま)り敗死。息子の三好長慶はそれを知らず、晴元や三好政長の為に粉骨砕身して戦って来た。ところが、敵の遊佐長教と長慶が和睦し、長慶が遊佐の娘を娶ってから、三好政長こそ長慶の親の仇だと知り、長慶は晴元から離れ、晴元の対抗馬の細川氏綱側に寝返る。長慶は1549年の江口の戦い三好政長を討ち取り、細川晴元を京から追い落とす。長慶は氏綱を奉じて上洛し、京を制圧。三好政権を樹立。畿内を治めて長慶は天下人となる。これが三好長慶派と細川晴元派の争乱の底流となり、やがて将軍・足利義輝の暗殺や、足利義昭の流浪の発端となって行く。

1548(天文17.12.30.) 越後の長尾景虎(19)春日山城主になる。

1549年  キリスト教伝来。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。布教開始

1549(天文18.10.18)     足利義晴、築城に励む。

敵対勢力を警戒した義晴は、慈照寺の裏山に中尾城と将軍山城を、翌年北白川に城砦を築く。

1550(天文19.02,)    長尾景虎(上杉謙信)、越後の守護の代行になる。

越後国守護・上杉定実、嗣子無く死去。将軍・足利義輝長尾景虎に越後守護の代行を命ずる。

1550(天文19.05.04)    足利義晴、水腫の病により薨去。享年40

1550.07.14(天文19.07.1411.21) 中尾城の戦い 

細川晴元、義輝を擁立して京都奪回を試みるも不成功。鉄砲による死者一人記録される。

1550(天文19.09.09.10.01) 信濃砥石(といし)崩れ。

信濃国砥石城(村上義清)での戦い。攻め手の武田晴信(武田信玄)大敗を喫す。

1550(天文20.01) 越後。坂戸城の戦い。

長尾景虎(上杉謙信)、坂戸城長尾政景と戦いこれを制し、越後を統一する。(22歳)

1551(天文20.03) 織田信長(18歳)、父死去に伴い家督を継ぐ。

1552(天文21.01) 三好長慶足利義輝が和睦。義輝上洛。細川晴元出家。細川氏綱が細川京兆家の当主に成る。

1522(天文21.01.) 上杉憲政長尾景虎に庇護を求める。

関東管領上杉憲政北条氏康に攻められて景虎の下に逃げ、長尾と北条が敵対関係になる。

1552.09.04(天文21.08.16) 尾張。萱津(かやづ)の戦い (=海津の戦い)

尾張の当主になった若い信長を不安視する家臣が続出。鳴海城主・山口親子が今川に寝返り(赤塚の戦い)、清洲城家老の酒井大膳らが、松葉城・深田城を占領、叛旗を翻した。信長は叔父織田信光と共に駆け付け、清洲方と海津で激突、別の戦場でも交戦が行われ、清洲城方はほぼ壊滅。信長は清洲城を奪還する。信長19歳

1552(天文21.08.) 長尾景虎、関東に派兵。侵攻した北条軍を押し戻す。

北条方の手に落ちた関東管領上杉憲政の居城・平井城(現群馬県藤岡市)と、平井城詰城の金山城(現群馬県太田市)を、景虎が奪還。北条長綱は上野(こうずけ)国から撤退し、武蔵国松山城へ逃亡。

1552(天文21.11.27) 『甲駿同盟 』が結ばれる

今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)と武田晴信の嫡男・武田義信が結婚。(嶺松院の母は武田信虎の娘で、武田晴信の姉である。つまり晴信の息子義信と嶺松院はいとこ同士になる。 後に、武田晴信により義信が廃嫡される。)

1553(天文22.03.08) 東山霊山城の戦い。(ひがしやま りょうぜんじょう の たたかい)

対抗勢力の脅威に対し、足利義晴と義輝父子は、1549年頃から築城に励んだが、霊山城は築城間も無く三好長慶に攻められ自焼した。1552年、義輝と長慶の間で和睦が成立。義輝は細川晴元に備えて再び霊山城を築城。が、長慶との和睦が決裂して、今度は、義輝は細川晴元と手を結び、1553年に霊山城で長慶と戦う事になる。結果、長慶側勝利。義輝・晴元側壊滅し、近江に逃亡。義輝による京都奪還は不首尾に終わる。

1553(天文22.04) 織田信長斎藤道三尾張国境付近の聖徳寺で会見

この時信長、「うつけ」から大変身する。道三驚嘆。自分の息子達が信長の軍門に降る事を予見する。

1553(天文22.04~) 第一次川中島の戦い

武田軍は村上義清の葛尾(かつらお)城を落すが、5月、更科八幡の戦いで葛尾城を奪還され、9月、武田軍は塩田城を落された。上杉謙信信濃領内に侵攻、荒砥城、虚空蔵山城を落した。

1554.2.25(天文23.01.24) 信長、村木城の戦いに勝利。

西三河知多半島の水野氏は今川勢力と織田勢力の緩衝地帯にあり、元々は織田に与していた。が、織田信秀今川義元の和議の話し合いで、水野氏は今川方に組み入れられた。信秀の跡を継いだ信長はその和議を破棄。今川氏に敵対する。水野氏も織田方に復したので、今川勢が水野を討ちに出陣し、織田方の重原(=鴫原(しぎはら))城を落し、水野信元の近くの村木に城を築く。水野からの救援要請に信長は直ちに行動を起こす。舅・斎藤道三那古屋城の留守を預け、嵐の中、熱田から20里の海路を1時間で渡海。鉄砲攻めで村木城を落す。この報告を聞いた斎藤道三は「恐ろしい男よ。隣に住みたくないものだ」と言ったそうである。

なお、水野信元は、徳川家康の生母・於大の方の異母兄である。

1554(天文23.07) 尾張守護・斯波義統(しば よしむね)暗殺さる。

尾張守護・斯波義統が、清洲城主で守護代織田信友に暗殺された。義統の息・斯波義銀(しばよしかね)は落ち延びて織田信長を頼った。織田信長の家は、守護代織田信友の下位に就く三奉行の一つ・弾正忠(だんじょうちゅう)家である。信長は、信友を「主殺し」としての大義分を得て信友誅殺の為に出陣し、信友一統の重臣達を討つ。

1554(天文23.07) 駿相同盟なる。

今川義元の嫡子・氏真と北条氏康の娘・早川殿が結婚。ここに、1552に結ばれた『甲駿同盟』 と併せて『甲駿相三国同盟』が成る。この同盟は相互不可侵条約であって、軍事同盟ではない。これによって、今川は背後を突かれる憂いが無くなって上洛できるようになり、武田も安心して越後を攻められるようになる。

1555(天文24.03.)   松平竹千代、今川義元の下で元服

竹千代、名を次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・瀬名(築山殿)を娶(めと)る。

1555(天文24/弘治1.04) 第二次川中島の戦い

川中島で武田軍と上杉軍が200日対陣(上杉川の記述では5ヵ月間とも)した。今川義元の仲介で、景虎と晴信は和睦。

1555(弘治1.04) 信長、清洲城城主となる。

織田信友は、1554年に尾張守護・斯波義統暗殺に成功したものの、信長との戦いで敗れた。劣勢を挽回すべく織田信光を新たに清州の城主に傀儡として据え、勢威を存続しようとした。信光は、信友の策に嬉々として乗って手勢を率いて清洲城に入城する。が、信光、ここで主殺しの信友を取り囲んで退路を断ち、切腹させてしまった。これは、事前に信長と信光が謀議して筋書を書き、信友をその気にさせて罠に誘い、嵌めたものである。信長はこうして清洲城を奪取。清洲城を改修して信長の居城とする。那古屋城織田信光に譲る。

1556(弘治2.04) 斎藤道三戦死

信長の舅・美濃の斎藤道三は、嫡子・義龍を嫌い、次男の孫四郎、三男の喜平次を偏愛していた。道三と義龍の関係は険悪化し、ついに義龍は弟二人を殺し、道三に歯向かって挙兵する。道三と義龍は長良川で交戦。道三に従う家臣は少なく、信長が駆けつけた時は討死していた。享年63

1556.09.27.(弘治2. 08.24?) 稲生(いのう)の戦い 

信長23歳の時、信長の同母弟の信勝(=信行)を、織田弾正忠家当主にと願う家臣達が、信長に叛旗を翻した戦いである。信勝軍には柴田勝家林秀貞、林美作(はやし みまさか)(=通具(みちとも)が従い、兵力1,700。対して信長軍は、佐久間盛重、森可成(もり よしなり)、前田利家、織田信房、丹羽長秀を合わせて兵力700。信長側は初め劣勢だったが、盛り返して信勝軍を崩し、敗走させた。

1557(弘治3)     大内氏滅亡 (防長経略)

毛利元就が大内義永を討った。元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を掌中に収めた。

1557(弘治3.04 ) 第三次川中島の戦い

信濃の飯山城主の高梨政頼は、武田の脅威を長尾景虎に訴え、救援を要請していたが、豪雪で景虎は動けなかった。景虎は4月に入って出陣し、武田勢力の城を落しながら善光寺に進んだが、武田晴信景虎との正面衝突を避け続けた。

1557(弘治3) 将軍・足利義輝から甲越和睦のご内書が下る。

1558(弘治4.02)  正親町(おおぎまち)天皇即位。

1558(弘治4/永禄1) 元号を弘治から永禄に改元。義輝これを知らず。

1558(弘治4/永禄1) 信長、弟・織田信勝(=信行)暗殺。

1556年に稲生の戦いで信長に叛旗を翻した同母弟の信勝は、再び信長に謀反する兆しを見せ始めた。信勝付重臣柴田勝家は、稲生の戦いで反信長派の信勝に従い大活躍をしたが、信勝の謀反の動きを察知した勝家は、その事を信長に密告。信長は「病気」になり、清洲城に病気見舞いに来た信勝を暗殺した。

1558~1559(永禄1~2 ) 信長、岩倉城の織田信賢(おだ のぶかた)を破る

織田信賢嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の出身で、弾正忠家出身の信長に対抗していた。信長は1558年、浮野(現愛知県一宮市⦆の戦いで信賢を撃破した。翌1559年、岩倉城に籠城していた信賢を、信長は降伏させ、尾張統一を果たした。

1559(永禄2) 永禄の飢饉発生。

旱魃(だいかんばつ)によって飢饉発生。北条氏政、徳政をもってこれに対処する。他の領主達無策。戦争に明け暮れ、戦費調達の為に重税を課すばかりである。

1559(永禄2) 甲斐国に大規模水害発災

1559(永禄2)  信長(26歳)、上洛して将軍足利義輝に拝謁する。

斎藤義龍長尾景虎も相次いで上洛し義輝に拝謁。長尾景虎正親町天皇にも拝謁している。

1559(永禄2.02) 武田晴信出家。徳栄軒信玄と号す。

1559(永禄2.05) 松永久秀筒井順慶の城を陥落させ、十市(とおちorといち)氏を破る。

1559(永禄2.09) 毛利氏、尼子氏に大敗す。

大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山に手を伸ばし、出雲の尼子晴久と戦った。1558年の忍原(おしばら)(現島根県太田市)で毛利氏は忍原崩れと呼ばれる程の大敗北を喫し、1559年の山吹城(やまぶきじょう)攻略の時、降露坂(ごうろざか)の戦いで、再び毛利は壊滅的な大敗をした。(山吹城は石見銀山の傍にあり、銀山を守る為だけに築かれた城)

1560(永禄3) 松永久秀興福寺を破り、大和国を統一

1560(永禄3.03.29.) 上杉謙信、富山城を陥落させる。

富山城主・神保長職(じんぼうながもと)は、武田信玄と誼(よしみ)を通じながら、一向一揆軍と手を結び、信玄が信濃へ北進する時には、神保は越中で陽動作戦を行って上杉軍の背後を脅かし、上杉が武田軍に集中できない様にしていた。謙信は、その神保を攻め勝利する。神保との戦いはこれで終わらず、数年続くことになる。

 

今川、上洛の機、熟す

『甲駿相三国同盟』は相互不可侵条約である。これにより、今川義元は背後や脇腹を突かれる心配がなくなった。武田は信濃攻略に野心を燃やし、越後の上杉は武田に備えながら越中の神保に気を配らなければならず、南下どころではない。相模の北条と言えば、当面の関心事は内政の充実であり、今川にとって安心して良い相手だった。

 

織田、迎撃態勢道半ば

尾張は、東に三河、北に美濃、西に伊勢に国境を接している。東は今川義元、北は斎藤義龍、西は村上源氏の名門・北畠氏の支配地である。力と力が三方から押し合い、丁度隙間が出来た三角形の土地、それが尾張である。尾張濃尾平野の肥沃な土地であり、木曽川揖斐川長良川の大河を抱え水運の便が良く、伊勢湾に港を幾つも擁している。非常に豊かなこの国に食指を動かさない戦国大名はいないであろう。しかも、上洛に都合のいい街道筋にある。

常に狙われている国を存続させて行くには、先手必勝とばかり、信長の父・信秀は、1532年、謀略を以て今川方の那古屋城を乗っ取った。その後も、松平竹千代人質事件などで見られる様に、絶えず隣国、特に三河と美濃の間で摩擦があった。その解決が無いまま、家督がうつけの信長に継がれ、尾張国内は分裂し、まとまりを欠いた状態になった。

1547年、西三河の長田重元(松平氏方)と戦い、1552年萱津の戦い、1554年の村木城の戦い、1555年、清洲城乗っ取り、1556年稲生の戦いを経て、1558年弟・信勝を暗殺、1558年岩倉城攻めを行い、ようやく尾張を統一する事が出来た。軍制を改革し、鉄砲隊を強化し、親衛隊の馬廻衆を創設して機動力をつけ、敵の迎撃に万全を期す筈であったが、今川軍と対決した時は、後ろ盾だった斎藤道三を失って、防御の壁に想定外の大穴が開いてしまっていた。 

1560(永禄3.05) 今川義元、上洛を決意し、松平元康に先鋒を命ずる。

1560.06.11.(永禄3.05.18) 松平元康、大高城救援の兵糧を運び込む。

松平元康(徳川家康)は、鷲津城と丸根砦の敵地を突破して小荷駄隊を大高城に運び入れ、無事に引き上げた。

1560.06.12(永禄3.05.19.  3:00頃) 今川軍、丸根砦と鷲頭砦に攻撃を開始。

此の時の攻め手は松平元康と朝比奈泰朝である。

1560.06.12(永禄3.05.19.  4:00頃) 信長、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣す。

この時直ぐに従った者は小姓数人のみ。外の者は慌てて主君の後を追った。

1560.06.12(永禄3.05.19.  8:00頃) 信長、熱田神宮に到着。戦勝祈願をする。

1560.06.12(永禄3.05.19. 10:00頃) 信長、善照寺砦に入り、軍勢を整える。

この頃、信長側の丸根砦、鷲津砦が陥落。

1560.06.12(永禄3.05.19. 12:00頃) 信長側の中島砦の部隊敗れる

1560.06.12(永禄3.05.19. 13:00頃) 豪雨

1560.06.12(永禄3.05.19.) 桶狭間の戦い

今川義元、服部一忠と毛利新介によって討ち取られる。義元享年42 

此の時信長は27歳

 

 

 

お断り

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」「日本の災害防災年表」その外、戦国時代の領国支配や経済のレポート、地域の出している情報、観光案内などなど、ここには書き切れない程の多くのものを参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

145 信長年表 1 誕生前から元服迄

織田信長と言えば、知名度抜群の戦国武将です。学校で習うのは勿論の事、小説で、映画で、テレビのドラマで、そしてゲームで、頻繁に取り上げられています。彼の生涯についてはそれ故、御存じの方が大勢いらっしゃいますので、ここでは敢えてそれを書かず、代わりに彼の人生の年表を記して、それに代えたいと思います。

彼が生まれた時代を知る為に、彼が誕生する2年前からの世の中の動きを書き出します。また、彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども視野に入れながら、彼本人の事績に関係のない事柄であっても、或る程度取り入れていきたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇 西暦年月日を前に、その後に続けて和暦元号年月日を( )内に記します。

〇 西暦年はグレゴリオ暦です。

〇 年月日という漢字表記はピリオドを以て代用します。

〇 元年の場合は1と表記します。(例:弘治元年→弘治1)

〇 年だけが分かり、月日が分からないものについては、年初にまとめて列記します。従って、その年の初めに書かれた事柄であっても、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあり、時系列の順序が、その場合は狂っている場合があります。

 

信長誕生2年前から

1532(享禄(きょうろく)5)  織田信秀、策略をもって那古野城を奪う。(乗っ取りの時期については1533年の蹴鞠大会以降という説も有り)。

尾張勝幡城(しょうばたじょう)主・織田信秀(信長の父)は今川氏豊連歌好きを利用して連歌仲間に入り、信用を得てから氏豊の那古野城にしばらく滞在。信秀は病に倒れ、本国より家臣を呼び寄せ、油断していた氏豊側の隙を見て兵を引き入れて城に火を放ち、これを奪い取った。氏豊は捕らえられるも解放される。

1532(享禄5.05.~ ) 堺公方政権内部の抗争激化。

堺公方足利義維(あしかが よしつな)を擁立していた細川晴元は、対立していた管領細川高国を前年1531年の摂津の大物(だいもつ)で討滅すると(大物崩(だいもつくず)れの戦い)、京都の将軍・足利義晴と和睦する。それまで義維(よしつな)を擁立していた晴元は、これを機に義晴側に接近して行く。

細川晴元と共に、堺公方・義維を盛り立てていた三好元長(みよし もとなが)がこれに激怒。細川晴元 vs 三好元長の争いが始まる。これとは別件で、畠山義堯(はたけやま よしかた) の家臣木沢長政が、主君・義堯(よしかた)から細川晴元へ乗り換えようと晴元に接近。これに義堯が怒り、細川晴元憎しの一点で三好元長と畠山義堯が手を結ぶ。そこに、細川晴元に肩入れしていた本願寺一向宗(浄土真宗)が絡まる。

1532.07.17(享禄5 .06.15) 飯森山城の戦い、堺公方の幕府瓦解を誘発。

木沢長政と細川晴元の援軍が立て籠もる飯森山城(いいもりやまじょう)を、三好元長・畠山義尭が攻囲、その攻囲網の更に外周から一向一揆軍が攻めて挟撃する。三好・畠山連合軍が敗北。畠山義尭自害。三好元長は堺の顕本寺(けんぽんじ(法華宗))まで敗走するも、一向一揆軍は20万の大軍をもって堺を包囲。進退窮まった元長は嫡子・仙熊丸(せんくままる(=長慶(ながよし))などを逃がして、顕本寺で6月20に自害。

堺公方足利義維細川晴元に捕えられる。

1532.08(天文1.07) 将軍・足利義晴近江八幡の桑実寺(くわのみでら)に避難。

管領細川高国は将軍・足利義晴を支えていたが、細川家本家の跡を狙う細川晴元と対立し、高国と晴元は天王寺で衝突 (天王寺の戦い)。結果、高国が敗北し自害する(大物崩(だいもつくずれ))。側近高国の敗死に危機感を募らせた足利義晴は近江の六角定頼を頼り、六角氏の観音寺城山麓にある桑実寺に入り、そこで幕府の政務を行う。

1532.08.28(享禄5.07.28) 改元元号を享禄から天文(てんぶん)に改める。 

1532.08.29(天文1.07.29) 天文元年

1532.09.22.~ (天文1.08.23) 天文法華の乱・山科本願寺合戦

飯森山城で畠山義尭を討ち取り、三好元長を敗走させて堺の顕本寺で自害させた一向一揆勢は、勢いを止む事なく大和に侵入。興福寺春日大社を襲い、京都までも争乱に巻き込みかねない情勢になった。一向一揆軍が法華宗を攻撃すると言う噂が流れ、それに対抗した法華宗徒が蜂起。一向宗を初めに焚きつけた細川晴元も燃え広がった一向一揆に脅威を覚え、これを鎮圧すべく逆に法華宗と手を結んだ。そして、8月23日、法華一揆軍・細川晴元・六角定頼の連合軍が山科本願寺を包囲、攻撃を始める。結果、細川晴元側が勝利し、山科本願寺側は寺院の全てを焼亡した。この戦いはこれで終わらず、長きにわたり尾を引く事になる。

山科本願寺はこれによって寺地を、証如の居た大坂へ移し、石山本願寺へとなって行く。やがて信長は、石山本願寺と戦う事になるが、それは凡そ40年後のことである。

 1532.11.16 (天文1.10.20) 足利義維、阿波に逼塞

細川晴元に捕えられていた堺公方足利義維は堺を脱出、淡路に逃れた後、阿波に渡りその地に逼塞(ひっそく)する。

1532.12.03. (天文1.11.07) 将軍・足利義晴細川晴元の間で和睦が成立する。

1533.07.12.(天文2.06.20) 三好仙熊、一向宗細川晴元の和睦斡旋の労を取る。

細川晴元三好元長・畠山義尭を討つ為に、一向宗を焚きつけて一揆軍を起こさせ、飯森山城攻防戦に利用した。が、目的を果たした後も一揆軍の反乱は勢いを増し、法敵・法華宗徒と衝突を繰り返した。更に、各地に波及、鎮火にてこずった晴元は、一揆討伐に舵を切った。細川晴元一向宗が対立し、戦乱は拡大。一揆に対しては一揆をと、晴元は、今度は法華宗徒に一揆を起こさせ一向一揆を攻撃させた。(「享禄の錯乱」「天文の錯乱」「天分の乱」「天文法華の乱」)

この事態に、三好元長家督を継いだ嫡子・仙熊丸(せんくままる)は、12歳ながら事態収拾に乗り出し、叔父三好康長などを動かして和睦させる。仙熊丸は後の三好長慶(みよしながよし)である。

1533.08.02~(天文2.07.12~) 織田信秀が和睦の蹴鞠(けまり)大会を開く。

織田信秀(信長の父)は、清洲三奉行の一人・織田藤左衛門と争っていたが講和し、講和を記念して蹴鞠(けまり)大会を勝幡城で連日行い、更に清洲城に場を移して続行した。

1533.11(天文2.10) 足利義晴、病に伏す。

義晴の病気で、訴訟などの審議が遅れ幕府の政務が滞る。病名は水腫。

 

信長誕生

1534.06.23(天文3.05.12) 信長誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)

尾張国織田弾正忠家の主・織田信秀と継室との間に、嫡出長子の男子が誕生。吉法師と名付けられる。信秀は正室を離縁した後、継室を迎えた。この継室は土田政久の娘で土田御前と一般的には言われているが、小嶋信房の娘だとも、六角高頼の娘などとも言われ、諸説ある。吉法師が生まれた時には既に庶出の兄・信広がいた。後に兄弟で家督を争う事になる弟の信行(=信勝=達成(みちなり)=信成)は、同母弟である。信秀には正室・継室・側室併せて6人おり、息子は12人、娘は15人居た

1534.07.18(天文3.06.08) 足利義晴近衛尚通の娘と結婚

足利将軍家摂関家から正室を迎えるのは義晴が初めてである。

1534.09.(天文3.08) 足利義晴、政務再開する。

1534.10.(天文3.09) 足利義晴、六角定頼と共に上洛する。

定頼は義晴を上洛させると直ぐ帰国し、在国しながら幕政に参加する道を選ぶ。

1535(天文4)   細川晴元三好長慶、木沢長政などが入洛、幕政に加わる。

1535(天文4)   細川晴元、義晴の偏諱を受けて「晴元」と名乗る。

細川晴元は、足利義晴偏諱を受けるまでは細川六郎と名乗っていた。このブログでは、便宜上知名度の高い「細川晴元」で通してきたが、実は、此の時を以て諱が「晴元」になる。

1535.10.16.(天文4.09.20)  丹羽長秀尾張の丹羽長政の次男として誕生。

1536.3.31(天文5.03.10)      足利義晴と御台所の間に男子誕生。

男児は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた。後の13代将軍・足利義輝である。生まれると直ぐ、義晴は菊幢丸を近衛尚通(このえひさみち(→従一位関白太政大臣))の猶子(ゆうし)にした。近衛尚通は学問や文芸に秀で、日本の「戦国時代」の呼称は、日本の騒乱状態を中国の春秋戦国時代に重ね合わせて、彼が「戦国の世の如し」と言った事から始まっている。

1536.09.12.(天文5.08.27) 義晴、将軍職を菊幢丸に譲る意向示す。

義晴は、菊幢丸を支える8名の年寄衆を指名した。指名された年寄衆は大舘恒興、大舘晴光、摂津元造(せっつ もとなりorもとみち(=摂津晴門の父))、細川高久、海老名高助、本郷光康、荒川氏隆、朽木稙綱(くつき たねつな)の8名である。

1537.03.17.(天文6.02.06) 豊臣秀吉誕生。

秀吉は尾張中村で生まれ、父は木下弥右衛門。幼名日吉丸。と言うのが通説である。が、諸説あり、秀吉の出自には不明な点が多い。下層出身である事は確かだが、日吉丸と言う武家の子の様な○○丸と付く幼名は後世の創作、と言われている。

1537.12.15.(天文6.11.13) 足利義晴に第2子の男子誕生。幼名千歳丸。

千歳丸(ちとせまる)は、菊幢丸の同母弟。後の15代将軍・足利義昭である

1538(天文7)  阿波に逼塞していた元堺公方足利義維に嫡子が誕生する。

幼名不明。初名義親(よしちか)。後の14代将軍・足利義栄(あしかが よしひで)である。義栄は、祖父は11代将軍・足利義澄、父は12代将軍・義晴の実弟・義維(よしつな)である。従って、義晴の子・菊幢丸(=義輝)とは従兄弟に当たる。義親(=義栄)の母は大内義興の娘。

1538年頃からか?  足利義維・三好実休、堺の豪商と交流頻繁。

義維と義栄の側近と三好実休は、しばしば堺の豪商の茶会に出席する。

1540.07.12.(天文9.06.09)  三好長慶の家臣・松永久秀の名が寄進の書状に初めて登場する。

松永久秀は、三好長慶の右筆(ゆうひつ)として活躍し始めていたと見られる

1541.01.23.(天文9.12.27)  松永久秀、堺豪商・樽井甚左衛門尉の購入地安堵添え状を発給。

1542(天文11)            松永久秀、三好軍の指揮官として大和国人残党討伐に携わる

1542.04.02.(天文11.03.17) 太平寺の戦い。木沢長政討死。

幕府の追討軍(三好長慶三好政長・遊左長教(ゆさながのり)連合軍)8,000と、木沢長政7,000が太平寺で対戦。結果、連合軍側が勝利。木沢長政は討死する。

1542.(天文11.03)    木沢長政討死を機に、義晴、近江朽木(くつき)から京へ帰還。

太平寺の戦いが始まる前に義晴は朽木に避難していたが、事態が落ち着いたので戻った

1542.12.26.(天文11.11.20)  千寿丸、興福寺一乗院に入室。法名を覚慶(かくけい)と名乗る。

此の時千寿丸は6歳。入室に当たり、母の実家である近衛尚通の嫡男・近衛種家の猶子に成る。出家理由は、既に兄・菊幢丸(=義輝)が居たので、武家の慣例に従った。

1543.01.31(天文11.12.26) 徳川家康誕生。

三河国松平氏松平広忠の嫡男として岡崎城で誕生。幼名松平竹千代。「徳川」姓は、徳川家康が創始した名字であり、家康直系と御三家のみに許されている。他の松平家は徳川を名乗れない。

1543.08.25.(天文12.07.25)   細川氏綱細川晴元打倒の挙兵をする。

細川氏綱は、元管領細川高国の養子である。1531年(享禄5年)、高国が大物(だいもつ)で細川晴元に敗れ(「大物崩れ」)て敗死した後、養子の氏綱は、養父高国の仇を討つ機会を狙っていた。本来ならば細川京兆家(細川本家)の家督を継ぐべき氏綱は、晴元にその地位を奪われていた。氏綱は、高国実弟達や恩顧の者、反晴元派を糾合して戦ったが、晴元に敵対し得る戦力は無かった。

1543.09.23.(天文12.08.25)  種子島に鉄砲伝来

大隅国種子島に中国船が漂着した。(漂着した時期については、南浦文之(なんぽぶんし)著の鉄炮記(てっぽうき)』による。他にアントニオ・ガルヴァオ著の『新旧世界発見記』とジョアン・ロドリゲス著の『日本教会史』では1542年の事とあり、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』では1544年となっている。)

漂着したその中国船にポルトガル人が3人居て、2挺の火縄銃を持っていた。彼等は島主・種子島時堯(たねがしまときたか)の前で試し打ちの演武をした所、時堯はその威力に驚き、武器としての有効性に着目し、一挺2千両(現在価格約2千万円~1億円か? )でその火縄銃を2挺購入した。そして、家臣・篠川小四郎に火薬の製法を学ばせ、美濃国関から優秀な刀鍛冶・八板金兵衛を招聘(しょうへい)し、銃の複製を命じた。金兵衛は殆どを完成させたが、筒を塞ぐネジの製法が分からなかった。金兵衛の娘・若狭はネジの製法を知る為にポルトガル人と結婚したと言う伝説がある。

1544(天文13)  薩摩で根占(禰寝(ねじめ))戦争

種子島氏は、1542年に薩摩藩の国人・大隅の禰寝氏(ねじめし)に屋久島を略奪されていたが、その屋久島を取り戻すべく、禰寝氏を攻撃した。その時、この火縄銃を使った。種子島氏は禰寝氏を敗北させ、屋久島を取り戻したが、鉄砲の性能は悪く、不発や暴発が相次いだ。とは言え、殺傷能力は旧来の武器に比べて比較にならない程凄かった。

1544.(天文13) 再度、中国船が種子島に漂着。

乗船していた人の中に鉄砲の製法に詳しいポルトガル人が居た。金兵衛は彼から正式な鉄砲工法を学び、ネジの切り方を教わり、国産銃が完成した。年内には数十挺を製造した。

堺の橘屋(たちばなや)又三郎は鋳物工である。また、九州や琉球とも交易をしている貿易商でもあった。又三郎は鉄砲の情報を得ると直ぐ種子島へ赴き、1~2年鉄砲を学んで熟知、その技法を堺へ持ち帰った。

1544(天文13.02) 國友で鉄砲製造が始まる。

種子島時堯から島津義久の手に鉄砲が渡った。島津義久はその鉄砲を将軍・足利義晴に献上した。将軍・義晴は管領細川晴元に銃の複製を命じた。細川晴元は、優れた刀鍛冶集団が居る北近江の国友村へ、銃の製作を命じた。國友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫らが承って、村あげて制作に取り掛かった。幸いな事に、近くを流れる姉川流域は鉄が採れた。「鉄糞岳(かなくそだけ)(→金糞は鋼滓(こうしorこうさいの事。スラグ)」「金居原(かないはら)」「たたら」など鉄にまつわる地名がある程である。若狭湾に近く、海路で出雲の鉄も入手し易くかった。

1544(天文13.08.12)  國友、鉄砲2挺を将軍に献上した。

1545(天文14)   紀州の根来で鉄砲の製作が始まる。

紀州国の吐前城(はんざきじょう)の城主にして、根来寺の僧兵の総帥・津田監物算長(つだけんもつかずながor さんちょう)(=杉ノ坊算長)は、種子島時堯に会いに行き、種子島銃1挺を買い求めた。そして、刀鍛冶の芝辻清右衛門に銃の複製を依頼した。

1546(天文15) 吉法師、古渡城にて13歳で元服。織田三郎信長と名乗る。

元服の後見役は平手政秀。それ迄吉法師の教育係だった沢彦宗恩は信長の参謀となる。吉法師は小さい頃より好奇心旺盛で、科学的であった。合理的なものは積極的に取り入れた。その行動は当時の人々の理解を越え「うつけ」として映った。彼は鷹狩や野駆けで領地の隅々まで地形や植生や農地の状態を把握した。野山を駆け回るのに、若様然の立派な着物を着ていられるか? いや、木に引っ掛けて着物を破き、湿地に足を踏み入れて泥だらけになるのがオチ。鉄砲玉入れの袋や、水筒の瓢箪、食料の干し柿などを荒縄に縛り付け腰に巻く。動き易く、働きやすい格好が何より。決して「うつけ」を演じて敵を油断させていた訳でも、本物の「うつけ」であった訳でもない、彼なりの合理的な振る舞いであったと婆は見ています

 

余談  鉄砲伝来

種子島に漂着した船は密貿易の倭寇で、倭寇の首領の王鋥(おうとう)(=王直(おうちょく))の所有する船だった。王鋥は明の海禁政策の法をかいくぐって密貿易を行い、肥前守・松浦隆信の招きで1542年に日本の平戸に根拠地を移した。その配下の船が台風に遭い、種子島に流れ着いたという事であり、漂着船はポルトガル船では無い。漂着の経緯は、村の地頭と乗船していた明国の五峰と名乗る者との筆談で判明した。彼等は種子島に半年くらい滞在していた。

 

 

 

 

144 信長と天下布武

天下布武」とは穏(おだ)やかではない。全く、信長は自分を何様だと思っているのか、天下を統(す)べるのは俺様だ、俺以外いない、とでも思っているのか、と咬みつきたくなる様なこの言葉。彼の戦歴や成し遂げた事業を列挙してみると、成程そう思っても仕方がない、と納得してしまう所があります。

けれど、本当にそうなのか、と立ち止まって考えますと、そこに腑に落ちないものが有ります。信長が「天下布武」の印章を使い始めたのは、まだ覇業の始まる前の初期の頃です。それは、覇業どころか、周辺国に圧し潰され兼ねない程の小国の信長が、美濃の斎藤龍興を打倒した頃に使い始めた印章なのです。

 

岐阜城

信長が足利義昭の要請を受けて上洛を援ける為には、どうしても美濃を通らなければなりません。通る為には美濃の斎藤龍興を退(ど)かさなければならず、旧来からの紛争も有って、両者は激突します。結果、信長は龍興を討ち倒して勝利します。

信長は義龍の居城の稲葉山城に入り、城の名前も地名も「岐阜」と改称しました。改称の際、どういう名前にしたら良いかを相談したのが、沢彦宗恩(たくげん そうおん)という禅宗のお坊さんでした。沢彦和尚は信長の教育係でした。和尚を教育係に選んだのは、信長の傅役(もりやく)だった平手政秀です。信長から、地名と城の改称の相談を受けた沢彦和尚は、中国古代の周王朝の立国の地・岐山「岐」と、孔子生誕の地である曲阜(きょくふ)から「阜」の文字を採用し、「岐阜」と名付けたと、言われています。そして、更に信長から、発給文書に押印する判子の言葉を何にしたら良いかの相談を受け、天下布武の文字を提案したと言われています。

周の文王(ぶんおうorぶんのう)(紀元前1125‐紀元前1052)は、岐山の麓に「周」を開き、儒教に基づいた仁政を行い、聖王として長く尊敬されている人物です。孔子は言わずもがなの聖人です。聖王、聖人のそれぞれゆかりの地の一字を取り、「岐阜」と名付けた沢彦和尚。それを採用した信長。その二人が善(よ)しとした「天下布武」の四文字が、「天下を征服してやるぞ」の意志表示と受け取るのは、みそ汁にとんかつソースを入れた様な気分になり、どうも不味くて呑み込めません。

(沢彦宗恩は平手政秀の菩提寺・政秀寺の開山。後に、臨済宗妙心寺の第39世住持になります)

 

七徳の「武」

武は戈(ほこ)を止める、と書きます。「武」という漢字は、武器を収めて戦いを止める事を意味します。

天下布武」を、武力を以って天下を制する、と婆は理解していました。ところが、よくよく調べてみると、そうでは無さそうです。

天下布武」は「七徳の武」と一緒にして語られる事が多いようです。「武」には七つの徳があって、「武」を布(し)く事は善政である、と言う風に受け取るのが、本来の意味である、とか・・・えっ本当っ ウソでしょ

という訳で、「七徳の武」の出典とされる『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)『宣公』の章の『12年』を見てみました。

 

『春秋左氏伝』

国立国会図書館デジタルコレクションに『春秋左氏伝』が収められています。

『春秋左氏伝・上』の内、問題の箇所は『宣公12年』の項で、コマ番号にして254、該当文章があるのはコマ番号264です。原文は各頁の上段に、書き下し文は下段に載っています。

さて、そこで『春秋左氏伝』の武の七徳と言われる箇所の書き下し文を、下記に転載します。旧漢字が見つからない場合は、新漢字や平仮名に置き換えています。また、旧仮名遣いで書いてある箇所は( )内に現代仮名遣いを併記しています。ふりがなも( )内に書いているので、煩雑になってしまって、ごめんなさい。

 

紀元前700年頃~紀元前300年頃迄の春秋戦国時代と言われる中国の話です。

が戦争をして、楚が勝ち晋が敗けました。楚子(そし)の家来の潘黨(はんとう)が楚子に聞きました。「どうして敗者の屍を積み上げて塚(京観)にしないのですか? 塚をつくれば敵に勝った証(あかし)を子孫に示す事が出来るのに」と言うと、楚子は「お前の知る所ではない。武と言う文字は戈を止めると書く。昔、周の武王「商」と言う国に勝った時、頌(しょう)を作ったことがある・・・

以下、読み下しの本文(太字)

 

『潘黨曰(いわ)く、君いづくんぞ武軍を築きて晋の尸(し(=屍))を収めて以て京観を為(つく)らざる。臣聞く、敵に克(か)ちては必ず子孫に示して以って武功を忘るヽこと無からしむと。楚子曰く。汝が知る所に非(あら)ざるなり。夫(そ)れ文に戈(くわ(か))を止(とど)むるを武と為す。武王商に克(か)ち、頌を作りて曰く。載(すなわ)ち干戈(かんくわ(かんか))を をさめ、すなは(わ)ち弓矢(きうし(きゅうし))をつつむ。我れ懿徳(いとく(→良い徳))を求めて、つひ(い)に時(ここ)において夏(おほい(おおい)(→盛ん))なり。允(まこと)に王として之(これ)を保てりと。又武を作る。其卒章に曰く、汝の功を定むることをいたすと。其三に曰く、鋪(し)きて時(こ)れ繹(たず)ぬ。我れ徂(ゆ)きて惟(これ)定まらんことを求むと。其六に曰く、萬邦を緩(やす)んじて屢(しばしば)豊年なりと。()れ武は暴を禁じ兵を戢(おさ)め、太(たい)を保ち功を定め、民を安んじ衆を和(やわ)らげ、財を豊にする者なり。 (以下略)

 

アンダーライン部分の原文 夫武禁暴戢兵。保太定功。安民和衆。豊財者也。

 

天下布武」の成語由来は?

上記アンダーラインを基に、「武に七徳あり(武有七徳)」の成語が出来たようです。
1. 暴を禁ず。 2. 兵を戢(おさ)む。 3. 太を保つ 4. 功(こう)を定む。 5. 民を安んず。 6. 衆を和(やわ)らぐ。 7. 財を豊かにす。

この七つの徳目が挙げられています。が、「天下布武」の様な四文字の成語は、春秋左氏伝にはどこにも書かれていませんでした。

戈を止めるという文字を合成すると「武」。ならば、この二文字を並べて書くとどうなるかと調べてみましたら、「止戈(しか)」と読み「戦争を止めること」と、辞書に出ていました。因みに「止」は、歩くのをやめてそこに留まっている足首から下の、足の象形文字だとか。いや、面白いです。「武」が平和的な意味を持つとは、夢にも思いませんでした。コペルニクス的逆転の発想です。

天下布武」の出典を求めてその他を検索してみましたが、「天下布武」の四字熟語そのものを見つける事は出来ませんでした。中国の古典を精査して読めばどこかにあるのかも知れません。が、ここ迄が婆の限界、お手上げです。

 

天下布武とは?

天下布武」の出典元が分からないので、婆は大胆に妄想します。これはきっと、沢彦和尚が「武」の徳目を善しとして、それを天下に広める事を願って造語したのではないかと。

七つの徳目の中で、婆が注目したのは、「保太」です。

「太」って何? 「太」って「大」を二つ重ねた字です。大ヽ←繰り返し記号のチョン点が大の中に入ってしまっている字です。大よりももっと大きい事を表します。太平洋、太陽、太白(=金星)、太河(=黄河)、太極(→宇宙の根源)・・・と辿(たど)って来ると、「太」を保つ、と言う事は、余程大きい事を保つ、維持すると言う事だろうと、想像する訳です。

宇宙や大地を保とうとしても、それは人間がどうのこうのして保てるものではありませんから(治山治水を除いて)、保つものは人間世界の事でしょう。そこから考えられる事は、国を保つ、国家を保つ、体制を維持する、或いは、治安を保つ、乱れた世を正し平和な世を保つなどなど連想ゲーム式に色々な言葉が浮かんできます。

 

天下静謐(てんかせいひつ)

1567に、信長が稲葉山城岐阜城と改め、「天下布武」の印章を用い始めましたが、その時より遡ること90年前の文明9年(1477年)11月20日応仁の乱終結を祝い、「天下静謐の祝宴」室町幕府によって開かれました。西軍の山名宗全が病死、東軍の細川勝元も病死し、次世代の山名政豊細川政元の間で和議が成立しました。厭戦気分の各武将も本国へ引き上げ、乱を起こした首謀者が誰だかうやむやの内に処罰される者も無く、何となく治まった「天下静謐」でした。

足利義尚が政務を執り始め、義政が隠居して東山に山荘を建て、平和が訪れたかに見えましたが、権力闘争はまたぞろ頭を擡(もた)げ始め、争いは止む事を知りません。室町幕府凋落の果てに、最後の将軍となった足利義昭が頼ったのは、織田信長でした。

信長が自分の印章に「天下布武」の文字を用いたのは、天下静謐を願っての事かも知れません。義昭を援(たす)け、足利将軍家を中心にした秩序ある武家社会を打ち立てようと軍務に忙殺されている間に、将軍と信長との間にある権力の二重構造にヒビが入り、義昭は信長に叛旗を翻しました。義昭を駆逐して後の信長は、次第に力の信奉者になって行き、仕舞には自身を「魔王」とまで自称する様になって行きます。

沢彦和尚はひょっとして「武」の持つ平和と武力の二面性を喝破して、天下布武の文字にそれを仕込んだのかも知れません。戈を止めて戦いを無くすには、戈を止める武器が必要です。でなければ、無手勝流の真剣白刃取りで立ち向かうしかありません。人徳で靡(なび)かせ、交渉術で歩み寄り、慰撫して陣営に取り込み、皆の憧れの国を築いて我も我もと押し寄せて来る様な、そういう国を造れば・・・うーん、大変なこっちゃ!

 

 

 

143 会合衆 茶の湯三宗匠

婆が若い頃、会合衆を「えごうしゅう」と読むと学校で習いました。今は、「かいごうしゅう」と読むのですね。検索して初めて知りました。このごろ時々、昔習った言葉が今では通用しなくなったという事態に遭遇します。昭和は昔に成りにけりです。やれやれ、です。

 

会合衆

戦国時代、町の商人達が、寄合によって自分達の地域を治め、領主に頼らず自治を行っている所がありました。や、宇治山田・大湊などの町がそれです。そこの自治を担っていた人達を会合衆と呼びました。会合衆は、その土地に住んでいる者なら誰でも成れるものでは無く、その土地の特権的な有力者などが就いていました。

 

堺の歴史

会合衆で最も有名なのは堺の会合衆です。

堺は鎌倉時代の頃からの漁港として栄えていましたが、室町時代足利義満により勘合貿易が開かれ、博多から遣明船が出る様になりました。外航貿易は主に博多、長崎、平戸など九州の各港が関わっていました。堺もそれに絡まる様に、九州琉球と活発に交易をしました。1474年には室町幕府の命により堺港から遣明船が出航しています。堺は大変な賑わいを見せる様になりました。

1521年室町幕府10代将軍・足利義材(あしかがよしき(=義稙(よしたね))が政争に敗れ都落ちし、堺から沼島へ渡り、1523年阿波国撫養(むや)(現鳴門市)で没します。義稙(=義材)を後押ししていた細川澄元とその家臣の三好一族は、阿波讃岐に地盤を持っていました。三好一族は、11代将軍・足利義澄の実子にして10代将軍の義稙の養子・義維(よしつな)を将軍に推戴(すいたい)し、彼等が四国から都へ上る時の通り道として出入港していた堺に、幕府を打ち立てます。義維は堺公方となり、京都の将軍・足利義晴と対立します。その後の歴史の推移は、明応の政変永正の錯乱流れ公方、大物崩れ(だいもつくずれ)永禄の変と目まぐるしく変わって行きますが、何時でも堺と三好一族は繋がりが深く、堺は彼等の軍事力を頼みにしていました。

交易によって財力を得た堺商人達は、その富を狙われない様に開港口を除いて三方に濠を巡らし、自警団を養い、万全の態勢を備えましたが、世は戦国時代真っ只中。尾張の小国・織田信長が台頭、強大な軍事力を見せ付けながら堺に触手を伸ばして来ました。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568年(永禄11年)織田信長は堺に2万貫の矢銭(=軍用金)を要求してきました。

2万貫は現代ではどの位の金額なのかを調べましたら、人によって算出基準が違い、かなりのバラつきがありました。6億円、24億円、30億円、60億円、500~600億円とあり、中には8000億円、と言うのもありました。

堺の会合衆は、三好一族の力を背景に徹底抗戦を構え、これを断ります。が、今井宗久は密かに堺を抜け出し、信長と面会しました。そして、帰ってから会合衆を説得しました。結局、堺は信長に屈して2万貫を支払い、この難局を乗り超えました。同じ様な要求を受けた尼崎ではこれを拒否して焼き打ちに遭い、代表者達は処刑されてしまいます。

15689月、信長は6万の大軍を率いて足利義昭を奉じて上洛を開始、1569(永楽12年)、三好長逸(みよし ながやす)は織田軍を桂川で迎え撃ち、敗北してしまいます。三好勢は阿波へ退却し、四国で態勢を立て直して信長軍に向かおうとしますが、三好方の松永久秀や三好義嗣などが寝返りし、織田軍側についてしまい、次第に三好勢は衰退して行きました。

堺は信長の直轄領になり、信長の下で繁栄して行きます。

 

茶の湯宗匠

 

茶の湯を語る上でどうしても避けて通れないのが、茶の湯宗匠と呼ばれる津田宗及、今井宗久千宗易(利休)の三人です。いずれも堺の会合衆です。

 

津田宗及(つだ そうぎゅう)(生年不詳-1591)

津田宗及は堺の天王寺屋の4代目です。茶湯の天下三宗匠の一人でもあります。宗及は、堺の豪商・武野紹鴎の弟子であった父・宗達から教えを受けました。

家業は九州や琉球との交易です。又、石山本願寺の御用も務めていました。

彼は、臨済宗大徳寺大林宗套(おおばやしそうとう)が開山した堺の南宗寺(なんしゅうじ)に参禅、茶禅一味を学びました。この南宗寺は三好長慶(みよし ながよし)が父・三好元長の菩提を弔う為に建てた寺です。その点からも、堺と三好氏の繋がりは深く、信長から2万貫の矢銭を要求された会合衆は、三好氏と敵対する信長のどちらに就くか大いに迷いました。会合衆の結論は支払い拒否でしたが、武器商人の今井宗久が密かに信長と面会し、その流れを「支払う」方へ導きます。こうした策が、信長の蹂躙(じゅうりん)を免れて、更に南蛮貿易への発展に繋がりました。堺の商人達はいよいよ儲け、余ったお金が、茶道具類への投機へと向かわせます。

津田宗及も唐物の茶道具を150点ほど所持していたと伝わっています。天王寺屋の屋敷ではしばしば茶会が開かれ、柴田勝家佐久間信盛など百人ほどが招かれ、宴を張った事もあったとか・・・。また、宗及は岐阜城に唯一人招かれ、信長の茶道具を拝見する事が出来、その上ご馳走されたとも伝わっています。天王寺屋初代・津田宗伯は古今伝授を受けたほどの文化人で、子孫の宗及も和歌・連歌香道・華道を究め、刀の鑑定も優れていたそうです。

宗及の嫡男・宗凡(そうぼん)は茶人として活躍していましたが、子が無く、天王寺屋は宗凡を以って断絶してしまいました。宗凡の弟が出家して江月宗玩(こうげつそうがん)と名乗り、大徳寺龍光院に住していました。そして、宗及の遺した茶道具が宗玩に渡りました。その中に後に国宝となった曜変天目茶碗があります。

津田宗達-宗及-宗凡江月宗玩の親子三代にわたって書き綴られた茶会記天王寺屋会記』全16巻は、1548年(天文17年)~1616年(元和2年)まで記録されております。そこには自家茶会のみならず他会記の記録まで含まれており、大変貴重な資料となっています。

 

今井宗久(いまいそうきゅう)(1520-1593)

大和国寺内町今井出身。堺の納屋宗次の家に身を寄せ、商売のコツを学びました。(納屋(なや)と言うのは、倉庫業や金融業を言います)。そして、堺衆の必須の素養として、武野紹鴎に入門し茶の湯を学びます。紹鴎の弟子にはそれなりの人物が大勢いましたが、宗久は紹鴎に気に入られ娘の婿に納まります。

宗久は武野家の商売である皮屋を継ぎ、納屋宗次の下から独立、皮革製品の販売を始めます。皮革製品は軍需物資です。馬具や鎧を作るのになくてはならない物で、これによって大いに儲けました。

種子島鉄砲が伝来すると一早くその有効性を見抜き、鉄砲鍛冶を堺に興しました。当初の鉄砲は非常に高額でしたが性能が極めて低かったことから、宗久は分業による大量生産と品質保持の両立を図りました。努力の甲斐あって、堺産の鉄砲は評判が良く、戦国武将達からの注文を大量に受ける様になりました。信長が堺に2万貫の矢銭を課した時、宗久は信長と手を結びます。信長は堺を直轄領とし、宗久を堺の代官に任命します。

宗久は鉄砲を作ると同時に、火薬の原料である硝石を独占的に輸入する権利を得、硝石と鉄砲を抱き合わせで売りました。信長が堺を直轄領にした為に、武田信玄上杉謙信は鉄砲も硝石も入手困難になり、戦いに不利になりました。

更に生野銀山の開発などの権利や数々の特権を得て、今井宗久は信長と結びついた政商・武器商人として巨万の富を築きました。また、武野紹鴎死後、紹鴎の持っていた茶器類は宗久が受け継ぎました。後に、武野紹鴎嫡子・武野宗瓦(たけの そうが)との間に遺産相続争いが起きます。この争いは信長の裁定により宗久が勝訴。武野宗瓦は徳川家康に見出されるまで歴史に埋もれて行きます。

宗久は、黄梅庵と言う数寄屋造りの茶室を持っていました。八畳敷の広間と小間と水屋からなっています。彼は83回もの茶会を開いたと記録があります。宗久の全盛は信長の本能寺の変で翳(かげ)りを見せ始め、羽柴秀吉が台頭してくると千宗易(利休)が表舞台に立ち、宗久の活躍の場は次第に消えて行きます。

 

千宗易(せん そうえき)(利休)(1522‐1591)

利休は茶湯の天下三宗匠の内の一人で侘茶を大成し、茶聖と言われています。

堺の商人。幼名・田中与四郎。法名千宗易。号は抛筌斎(ほうせんさい)。後に、「利休」の号を朝廷より勅賜されました。

利休の祖父は山城国の出身で、将軍・足利義政同朋衆で、田中専阿弥と名乗っていました(義政の同朋衆だったという点については時代が合わないとの疑問が呈されています)。

その専阿弥が一大決心をして職を辞し、泉州堺にやって来ます。専阿弥の子の与兵衛はこの時名字を専阿弥のセンの音をとって「千」に改め、商売を始めます。塩魚などを扱う問屋(といや)で、屋号を魚屋(ととや)と言いました。堺商人の中では新参者でした。

千与兵衛の子・与四郎(後の利休)は堺商人の倣(なら)いに従い、17歳の時に茶の湯北向道陳(きたむき どうちん)の弟子になって習い始めます。身に合っていたのか彼は茶の湯にのめり込んでいきます。与四郎は更に辻玄哉(つじ げんさい)の下で茶の湯を学び始めます。 

(南方録(なんぼうろく)では宗易は武野紹鴎に師事したとなっていますが、山上宗二は、宗易は辻玄哉に習ったとあります。南方録は利休の100年後に書かれたものと言われていますので、利休の弟子の山上宗二が書いた記録の方を信用して辻玄哉としました。)

ところが与四郎は19歳で父を亡くしました。更にその後を追う様に祖父も亡くなってしまいました。家督を継いだ与四郎は途方に暮れてしまいます。豪商が掃くほど居る堺の町では、与四郎の「魚屋」は中小企業でしかなく、祖父の七回忌の時にお金が無くて法要が出来ず、涙を流しながら墓掃除をした、と日記に残しているそうです。

恐らくこの経験が、与四郎(利休)をして侘茶に向かわせたのだと、婆は考えます。茶道具を投機的に扱い、ビジネスの道具やステイタスの証として茶の湯に奔る人々を、貧乏と言う別の視座から眺めてみると、「お茶って、そうではないだろう。もっと別の何かがある筈だ」という視点が生まれてきます。与四郎が、一国を動かす程の豪商のボンボンだったら、恐らく侘茶は生まれてこなかったと、婆は妄想します。

彼は堺の南宋に参禅し、南宋寺の本山・京都の大徳寺にも参禅して茶の奥義を窮(きわ)める道を進みます。一方、商売も手抜かりなく、堺の大旦那である三好氏を顧客に得て、順調に伸ばして行きます。

1544年(天正13年)2月27日、宗易は堺に奈良の松屋久政などを招き、初めて茶会を開きます。松屋久政は奈良の塗師(ぬし)で、村田珠光侘茶を継承している人です。久政は松屋三名物の「徐熙の鷺の絵」「松屋肩衝」「存星(ぞんせい)の盆」を持っていました。

これを手始めに、宗易は茶会を頻繁に行う様になりました。彼は幾度か珠光茶碗を使って茶会を開いています。この頃には既に与四郎改め宗易と名乗る様になっています。

   (参考:137 村田珠光 2022(R4).02.27   up)

   (参考:139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ 2022(R4).03.15   up)

珠光茶碗は言うなれば出来損ないの青磁の茶碗です。それを三好実休に1000貫で売りつけるなど、商売人の顔をも持った宗易は、茶の人脈を最大限に生かし、堺の会合衆にまで上り詰めます。彼は、津田宗及や今井宗久と並び、信長に茶堂として取り立てられる様になります。宗易は信長の為に鉄砲の玉を用意したりして、何かと信長の便宜を図っていましたが、

天正10年6月2日(1582年6月21日)本能寺の変が勃発し、信長は自刃してしまいました。

天下は、明智光秀を討った羽柴秀吉の手に渡り、宗易も秀吉に仕える様になりました。宗易は秀吉の依頼で茶室「待庵(たいあん)」を作り、更に翌々年、大坂城内に茶室を作ります。

1585年(天正13年)10月、秀吉による正親町天皇へ献茶に、宗易は宮中に上がって奉仕します。この時、無位無官の町人の宗易が宮中に参内(さんだい)するのは如何か、と言う話があり、「利休」居士号を賜ります。黄金の茶室を設計したり、北野大茶湯をプロデュースしたり、大活躍をしますが、突然秀吉の勘気に触れ、閉門蟄居を命ぜられます。北政所や弟子、大名達が助命に動きますが、ついに切腹を命ぜられます。享年70歳。

下記は利休辞世の句です。

遺偈(ゆいげ)

人生七十 力囲希咄   人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)

吾這寳剱 祖佛共殺   吾がこの寳剱 祖佛ともに殺す

堤我得具足一太刀    ひっさぐ我が得具足(えぐそく)の一太刀

今此時天抛       今この時 天に投げ打つ

( 力囲希咄は、エイヤーッ!と言う様な掛け声)

[ずいようぶっ飛び超意訳} 人生70年、エエエーイッ! こん畜生! この宝剣で先祖も仏も何も皆殺しにしてやるわい。手にした武器の一太刀、今、此の時に天に投げ打ってやるーーツ!

遺偈とあるので禅の問答の様です。本当の意味する所はもっと別の事かも知れません。他の方の訳を見ると、解釈が色々あります。切腹に臨んでの利休の心境がなんとなく推し量れるような・・・

 

余談  宇治山田と大湊(おおみなと)会合衆

宇治山田と大湊の会合衆について、前置きで少し触れましたが、宇治山田という所は、宇治の平等院のある京都では無く、伊勢の国に在ります。

宇治と言う地域は伊勢神宮天照大神を祀っている内宮の有る所、山田は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っている外宮(げくう)の有る所です。伊勢神宮は昔からお伊勢参りで大変賑わっておりました。門前町の両地区は、中世の頃から自治を始めていました。

大湊と言う地名は全国に3ヵ所あります。日本海側の青森県北東部と新潟県で、両方とも北前船の寄港地です。残りの一か所の大湊は、伊勢湾の出入り口にあります。太平洋側の沿岸航路の拠点の一つで、伊勢神宮の外港の役割も果たし、廻船問屋達が会合衆による合議制を取り入れていました。大湊は造船業も盛んで、北条早雲などの大名達の軍用船を受注したり、秀吉の朝鮮出兵などにも大量の船を供給したりして、武家社会とも密に関わっておりました。

 

余談  存星の盆

存星」と言うのは黒地や赤地や黄地の漆を塗った上に、別の色漆を使って模様を描き、細い線彫りを施して、その線の溝の中に金泥を埋め込んだもの。(沈金に似ていますが色漆などが使われますので華やかです))

 

 

 

142 茶の湯(4) 紹鴎の茶

みわたせば花ももみぢもなかりけり  浦のとまやの秋の夕暮れ   藤原定家

 

晩秋を詠んだこの歌を思い出す時、ふっと、もう一つの詩を思い浮かべる事があります。それは、フランスの詩人・ヴェルレーヌの詩の「落葉」です。上田敏の名訳で、ご存知の方が大勢いらっしゃると思いますが、敢えてご紹介します。

 

            落 葉

1   秋の日の         2 鐘の音に       3 げにわれは

 ヴィオロンの        胸ふたぎて        うらぶれて

 ためいきの         色かへて         ここかしこ

  ひたぶるに        涙ぐむ          さだめなく

  身にしみて           過ぎし日の        とび散らふ

 うら悲し。         おもひでや。       落葉かな。

 

この和歌と詩には、それぞれが醸し出す寂し気な気配があり、心打たれます。ただ、口に出してみて漂う音の語感からは、かなり印象が違っています。その違いが何処にあるかと申しますと、「言う」か「言わない」かの違いだと思います。

和歌では「ためいき」も「悲しい」も「胸ふさぐ」も「涙」も、そういう心情を直接的に表す言葉を一切使わずに、秋の静かな佇(たたず)まいを写生しています。写生していながら、それを読む者の胸深くに、静かなもの寂しさを呼び覚ましています。言わず語らず、静寂の余韻に全ての想いを籠めています。

 

言葉の余白

実は、武野紹鴎(たけの じょうおう)は、定家のこの「みわたせば・・・」の歌でお茶の真髄に触れ、悟りを開いたと伝えられています。

言葉を尽くして思いを表現する方法と、言外の余白に心情を吐露する技があります。その二つの内、どちらが読者の心を捉え感動させる事が出来るのかと問われれば、それを受け取る人の人生や文化の背景、その時の心の状態によって違うので、一概にこうだと決められません。けれども、お茶で言えば、微に入り細に入る説明的な装飾を一切こそげ落し、あるがままの自然を写して、そこから広がる宇宙を五感で味わう事こそお茶の極意だと、紹鴎は感じたのではないでしょうか。

それは言葉の世界だけではなく、絵画でも同じです。

 

絵画の余白

古典派の西洋絵画では、四角いカンバスの上下左右の隅から隅までの背景を、まるで空白恐怖症の様に細かく埋め尽くして描き切り、その場のシチュエーションや画中の人物の心の動き、時には小さな小道具に秘められた比喩(ひゆ)なども提示します。宗教画・神話画・人物画・静物画などなど皆そうです。それを破ったのが、ジャポニズムに触れた近世の画家・エドゥアール・モネが描いた「笛を吹く少年」です。この絵は、何百年も続いた西洋絵画に衝撃を与え、革命を起こしました。何故なら、少年の背景には何も描かれなかったからです。背景は無地でも良い、という認識が、この記念碑的作品によって西洋の画壇に生まれました。

長谷川等伯の松林図を見ると、冥界に誘い込むような鬼気迫る空白を墨で描いています。牧谿にしても雪舟にしても余計な加筆は無く、必要最低限の運筆で対象物を描き切っています。

   (参考:室町文化(8) 水墨画    2021(R3).01.30.  up)

 

茶席の余白

春」をテーマに茶会を開きたいと思い、古今集の春の歌の掛け物を飾り、梅の花を活け、鶯(うぐいす)を模(かたど)った香合(こうごう)を使い、「初花」写しの茶入れを用い、梅花のお菓子をお出しし、仁清風の梅模様の茶碗を用いたら、最高の「春」の演出になると思うのですが・・・一寸待って下さい。それではあまりにも「春」が満載し過ぎて煩わしくなります。余情を誘う余白、想像を遊ばせる余地が失われ、却って食傷気味になってしまいます。

テーマに沿って満艦飾(まんかんしょく)に飾りたい気持ちは分かりますが、その心を抑えて、何処かに別の雰囲気のものを入れた方がいい様な気がします。その方が「秘すれば花」の奥床しさが滲み出てきて影が現れ、奥行きのある茶席になります。これは、落ちこぼれ弟子の婆の主観です。もっともっと良い工夫があると思います。工夫せよ、稽古せよ、が紹鴎の教えです。

 

紹鴎の「侘しき」と「寂しき」

絵画を視る目で茶室などを見る時、二次元の余白は三次元の空間の間合いに置き換わります。露地の景色、中待合、蹲(つくばい)、遠景、茶室の佇まい、床の間、お道具の置き合いなど、余白の工夫の余地は、立体だけに無限に広がります。

又、意外な事に、紹鴎が使っていた「わび」「さび」の言葉の意味は、利休が説いた「わび」「さび」とは異なり、非常に具体的な物を指して言っている様です。

紹鴎の「わび」は、「侘しい」と言う形容詞の略では無く、「侘敷(わびしき)」の事だそうです。「侘敷」とは名詞で、どうやら畳の敷き具合を言っている様です。

「侘敷」は3畳半や二畳半の小さい間取りの部屋の事を言うそうです。同様に、

「寂敷(さびしき)」は4畳半以上の間取りを言うそうです。

今回、これを書くに当たり調べて行く内に、ウィキペディアでそれを発見しました。

「侘(わび)しい」には「心細い」「貧しい」というイメージがあります。「侘敷」を婆流に言い換えると、狭くて心細くて貧乏ったい部屋だ、と言う所でしょうか。

「寂(さび)しい」には、「心細い」「悲しい」「満たされない」と言うイメージがあり、貧乏のイメージはありません。宮殿に住んでいても寂しい気持ちは湧きます。人それぞれで、決め付ける事は出来ませんが、「寂敷」は、もうちょっと広い方がいいけど、ま、これでも良いか、と言う妥協点の広さの部屋ではないかと、婆は受け取りました。独身者用アパートの最低限の間取りは四畳半か六畳の一間が一般的。それを考えると、「寂敷」の広さは丁度いい塩梅(あんばい)の部屋かと思います。同仁斎の部屋も四畳半です。これが書院の原形です。

「寂敷」は四畳半以上の広さ、と言う事ですので、お客さんの人数をある程度呼べますし、空間をかなり自由に使えます。

紹鴎は「寂敷」の部屋で、唐物を使った書院の茶の湯を行っていた、と思われます。

 

利休の「わび」と「さび」

武野紹鴎の弟子の千利休は、この「侘敷」と「寂敷」を、「侘しい」「寂しい」に置き換えてしまいました。そこから、単なる部屋の広さだったものが、精神論に替わって行きました。そこに禅宗的な修行の道が持ち込まれ、「わび」「さび」の究極を求める道の「茶道」へと突き進んでいくようになります。そして、「わび」「さび」が審美の一つの基準になり、そこから日本独自の文化が生まれ、今日に至っています。

(式正織部流では「書院の茶」「公の茶」を旨としています。ですので、季節を取り入れたりはしますが、この「わび」「さび」を余り意識していません。)

 

三次元の余白

全ての余計な物を捨て去って精髄だけを残し、「冷え枯れた」極致の場に居住まいを正して座る時、なんだかぞくぞくっとする寒気に襲われる事があります。緊張します。婆の人間が不出来な為に、恐ろしくなってしまうのです。そして、要らんことを考えてしまいます。

例えば、床の間に「無」と言う禅語を掛けたとしましょう。「無」と書いた墨蹟を掛けるならば、極端な話、何も書かれていない白紙を表具して掲げても良いのではないか、いやいや、それなら掛物さえいらず、床の間に何も掛けず、花も置かず、究極、床の間さえ無くても良いのではないかと、ひねくれ婆は妄想します。

何もない茶室・・・となると、野原にゴザを敷いて点てる野点がそれに近いのかしら? とも思えてきます。季節は野の草花が教えてくれ、光と風が時の移ろいを教えてくれます。正に「日日是好日」です。生きていてよかった!と思える一瞬です。が、野点は、無駄を削ぎ落して突き詰めた世界では無く、ゴザ一枚の上に森羅万象が押し寄せてる雑多な世界です。蟻んこが足元を歩き回り、蚊が飛んできて刺し、1/fの気まぐれな風が時には埃や塵を運んでくる。有り余る空間には間の抜けた緩みがあり、その雑多な世界に温もりがある、安らぎがある・・・

茶室という「わび」「さび」に縛られた狭い空間に客人を招き入れ、同じ世界観を共有しようとするのは、亭主のエゴではないか、と落ちこぼれ弟子の婆は悩んでいます。

 

141 茶の湯(3)  利休以前

茶の湯や茶道には色々な流派があります。どういう流派があるかをご紹介します。

ここでは流名のみで、流内にある各派は省略し、また、明治以降に興った流派も省略し、古い順から並べました。

珠光流(じゅこうりゅう)小笠原家茶道古流・志野流・紹鴎流(じょうおうりゅう)・瑞穂流(みずほりゅう)表千家裏千家武者小路千家・松尾流・南坊流・式正織部流・織部流・石州流・有楽流(うらくりゅう)御家流・薮内流(やぶのうちりゅう)・鎮信(ちんしん)流・久田流・遠州流・三斎流・宗箇流・不昧流(ふまいりゅう)・庸軒流(ようけんりゅう)・古市流・小堀流・大口樵翁流(おおぐちしょうおうりゅう)・三谷流・宗偏流(そうへんりゅう)中宮寺御流・渭白流(いはくりゅう)・不白流・速水流・・・

茶の世界の流派には百花繚乱の趣があり、流派の名前を数えるだけでもお茶の隆盛が思われ、頼もしい限りです。

この様に沢山の流派がありますが、初期の頃の茶の湯を大雑把に分けますと、京都派、奈良派、堺派、武将派に分類できます。

 

京都派

京都派は、公家衆の間で行われていたものや、東山山荘などで能阿弥が主導していた茶の湯で、これ等は殿上の茶の湯、いわゆる書院茶(大名茶)です。京都の町人などが行っていた茶の湯も、侘茶が流行る前は堂上衆の茶の流れを汲んでいました。

 

奈良派

奈良派は、興福寺を中心とした寺院、塔頭(たっちゅう)などで行われていた茶の湯で、村田珠光古市澄胤(ふるいち ちょういん)などがその代表でしょう。村田珠光は初め浄土宗の僧侶でしたが、京都に出て禅宗に帰依し、後に古巣の奈良に戻って東大寺近くの田園に庵を結び、侘茶を始めます。

古市澄胤興福寺の僧侶(衆徒)で武将でした。古市澄胤は、淋汗(りんかん)茶の湯を盛んに行いました。淋汗茶の湯と言うのは、一度に何十人もの客を呼び、客にお風呂(蒸風呂)を振る舞い、湯上りに御馳走し、唐物の道具類の展示会を催すと言う様な、ど派手な茶の湯の事ですが、珠光に諭されて侘茶へと変わって行きます。

大和郡山豊臣秀長が入封すると、秀長は千利休山上宗二を招いたりしてお茶を盛んにしました。

   (参考:「137 村田珠光)

 

堺派

堺は海外との貿易で繁栄した港町です。日本の経済を動かす程の豪商達が多く、自治をもって町を運営していました。この自治を行っている商人の組織を会合衆(えごうしゅう)と言い、会合衆の集まりには茶会がよく利用されました。堺の茶会は単なる趣味の集まりではなく、自治会の会議の様相を呈していました。信長が堺の財力を狙って戦費(矢銭(やせん))供出を強要しますが、その可否の話し合いも茶会で行った様です。と言う事は、堺の商人ならばお茶の心得が無いと除(の)け者に成り兼ねず、「お茶が出来る」は必須条件だったようです。堺は武野紹鴎(たけの じょうおう)津田宗及(つだ そうきゅう)今井宗久千利休など、茶史に残る錚々(そうそう)たる茶人達を輩出しています。

また、財力がある人達が競って茶を行った副作用として、茶器名物の蒐集(しゅうしゅう)に奔(はし)る様になりました。手元不如意の足利家から売りに出される大名物や名物を買い、交易で唐物の道具を入手し、侘茶の先駆と言われる村田珠光の弟子や、その影響を受けた者達が多くいるにもかかわらず、堺の茶は侘茶から程遠いいものになっています。

   (参考:「 79 室町文化(6) 銀閣寺」)       2021(R3).01.20   up

   (参考:「111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲」)     2021(R3).08.07   up

   (参考:「112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響」)     2021(R3).06.14   up

   (参考:「117 桃山文化11 焼物(2)・茶の湯」)    2021(R3).09.17   up

   (参考:「118 桃山文化12 焼物(3)・織部焼」)    2021(R3).09.23   up

   (参考:「119 式正の茶碗」)                                  2021(R3).10.01   up

 

 

武将茶

武将茶には二つの流れがあります。

一つは、足利将軍家が行っていた書院茶の流れを受けた茶で、美濃の斎藤道三武井助直(=夕庵(せきあん))などです。夕庵は斎藤道三・義龍・義興に右筆(ゆうひつ)として仕え、その後、信長の右筆になった有能な文官で武士です。魔王と恐れられていた信長に、度々諫言をした唯一の人物と言われています。

もう一つは、千利休古田織部などの弟子になった武将達が、その後自分なりの一流を立てたもので、武家茶を創始した古田織部や、その弟子の小堀遠州遠州流上田宗箇(うえだそうこ)の宗箇流など数多くの流派が派生しました。

 

利休以前の茶人達

 

藤田宗里(生没年不詳)

茶の湯の系譜を辿って行くと、藤田宗里という人物が浮かび上がってきます。どういう人物だったのか、調べてもなかなか分からず、壁に突き当たってしまいましたが、武野紹鴎の師だったとも言われており、放って置く訳にもいきません。

宗里の生没年は不詳です。京都に住んでいて、茶歴としては元々書院茶の流れを汲んでいた人の様です。宗里は侘茶の村田珠光の弟子だったと言われています。村田珠光は1423年から1502年の人で、晩年になってから京都に出たそうですから、宗里は京都時代の珠光に弟子入りしたのかも知れません。宗里は竹の蓋置を作ったと言われております。

 

鳥居引拙(とりい いんせつ)(生没年不詳)

引拙は村田珠光の高弟で、堺の豪商の天王寺屋の縁戚の人です。天王寺屋と言えば、天下三宗匠の一人・津田宗及がいます。

引拙は村田珠光の弟子です。武野紹鴎と並び称される程の達人だったとか。特に目利きに優れていて、名物茶器を多く所持していました。代表的なものに「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」「初花肩衝」「引拙茶碗」「緑桶水指」等があります。それらの多くは豊臣秀吉の手に渡ったそうです。

彼は引拙棚を作り、それを愛用したと言われています。引拙棚と言うのは、茶器などを飾る飾り棚です。台子大の大きさ位で、引き違い戸が付いた地袋があり、地袋に水指を仕舞っておきます。また、道幸(=洞庫)と言う小さな押入れを点前座の傍に造り、そこに点前に必要な物を入れて置き、点前の助けにしたと言われています。後に、武野紹鴎が引拙棚を改良して、袋棚を作ったと言われています。

   (参考:81 室町文化(8) 水墨画)

   (参考:82 室町文化(9) 東山御物)

 

荒木道陳(あらきどうちん)(北向道陳)(1504-1562)

堺出身。医師、或いは商人だったとも言われています。家の造りが北向だった事から、北向道陳と称していました。

道陳は、足利義政に仕えていた能阿弥の弟子・空海(本名・島右京と言い、弘法大師空海とは別人)から東山流の茶法を習いました。道陳は武野紹鴎と近所付き合いをしており、その縁で自分の弟子だった千宗易(利休)を紹鴎に紹介しました。そして、宗易を紹鴎の弟子に推薦します。こうして宗易は、最初に道陳の弟子になり、次に紹鴎の弟子になります。

道陳は能阿弥の孫弟子で「書院の茶」「台子の茶」の流れを受け継いでいました。彼は多くの名物を所持していました。

 

辻玄哉(つじげんさい)(生年不詳-1576)

玄哉と書いて「げんさい」と読みます。堺の辻家に養子に入り、後、京都で禁裏御用を務める呉服商になりました。連歌師で茶人です。

玄哉は武野紹鴎の一の弟子で、紹鴎から小壺(唐物茶入)の秘伝を授かっています。そしてまた、千利休はその玄哉に師事して、台子の点前の相伝を受けたそうです。つまり、小壺と台子の点前は、武野紹鴎 → 辻玄哉 → 千利休と伝わりました。辻玄哉はお茶の松尾流の始祖です。

 

十四屋宗伍(or宗悟)(生年不詳-1552)

室町時代末期の茶人で京都の人。村田珠光の弟子で、武野紹鴎に茶法を伝授したと言われています。人物についての詳しい事はよく分からないのですが、大徳寺に宗伍像があるそうです。

 

余談  天下三宗匠

天下三宗匠とは、千利休今井宗久、津田宗及の事です。

 

余談  肩衝(かたつき)とは

肩衝と言うのは茶入の事で、肩が張った様な形をした物を言います。(肩衝の外に、茶入には茄子の形をした物や、下膨れをした文林と言う形のものもあります。)

「楢柴肩衝「初花肩衝、それに「新田肩衝(にったかたつき)の三つを天下三肩衝と言い、それぞれ名立たる人達が所有し、数奇な運命を辿(たど)っています。

楢柴肩衝の来歴  足利義政村田珠光-鳥居引拙-芳賀道祐-天王寺屋宗伯-神屋宗伯-鳥井宗室-信長(信長の手に渡る予定でしたが本能寺の変が勃発し実現せず)-秋月種実-豊臣秀吉徳川家康-明暦の大火で焼損-修復-行方不明

初花肩衝の来歴  伝楊貴妃の油壷-足利義政-鳥居引拙-疋田宗観-信長-信忠-松平親宅-家康-宇喜多秀家―家康-松平忠直-松平備前守-綱吉-柳営御物-徳川記念財団所蔵

新田肩衝の来歴  新田義貞村田珠光三好政長-信長-大友宗麟-秀吉-秀頼-大坂夏の陣で焼損-修復-家康-徳川頼房(水戸)-彰考館徳川博物館所蔵

 

 

140 茶の湯(2) 侘茶への道

茶の湯は禅寺を母源としています。それだからでしょうか。茶人と呼ばれる人達の多くは禅宗の寺に入って修行する様です。村田珠光(むらた じゅこう)一休禅師の下で禅の修行をしたと言われていますし、武野紹鴎(たけの じょうおう)千利休も堺の南宗寺に参禅しました。

お茶の文化は、栄西禅師がお茶を日本に持ち込んだ事から始まりましたが、それにしても、禅と茶人の結びつきがその後もずっと続いているのは何故なのか、不思議に思います。

禅の修行をし、人間本来無一物と思い至っても、なお、物への執着から離れられない茶人達が大勢います。茶道具の来歴(らいれき)云々誰それ様のお好み、お値段の詮索、季節に沿った演出、季節に合わせた茶碗や花入れやお軸など、その為に必要なお道具の数々、それ等の購入費用・・・茶席の格がそれで決まってしまうような風潮が、「侘茶」の世界に漂っています。

珠光が愛用した珠光茶碗を、利休は三好実休(みよし じっきゅう)に1,000貫文で売っています。三好十休は久米田(くめだ)の戦いで討死し、名物狩りを行った信長は、多くの茶器と共に本能寺で滅びてしまいました。これ等の動きを見ると、まるで船底にびっしりこびり付いたフジツボの様に、俗世の欲を削ぎ落すのは困難なのではないかと、思う様になってしまいます。茶禅一味の本質は何処にあるのか、それを見抜く透徹した目が欲しいです。

 

唐物(からもの)

足利将軍家の書院には唐物の超一級品が飾られていましたが、これには朝貢(ちょうこう)貿易が関わっています。日本の特産品を山ほど積んで、中国の皇帝に貢(みつ)ぎますと、皇帝は日本の臣従を愛(め)で、皇帝の力を見せつける為に立派な品々を、お返しに下賜します。「属国」を靡(なび)かせ、繋ぎ止める為の国策ですから、ヘボなお宝は寄こしません。下賜されたものは、献上した貢物の数倍から数十倍もする様なお宝の品々でした。その為に、朝貢貿易の正式の相手は朝貢使節を派遣できる国王にのみにその資格を与えたのでした。使節の乗った船は倭寇では無く正式の船である、と言う証拠に「勘合符」を持っていました。

日本国王と名乗ったのは、初めは後醍醐天皇の八の宮・懐良(かねよし)親王です。彼は日本国王・良懐と名乗り、日明貿易を行いました。足利義満日明貿易がもたらす莫大な利益に目を付け、日本国王の称号が欲しくて懐良親王を滅ぼし、「国王」を僭称しました。そして、足利氏は、その中でも選りすぐりの物を手元に置いて、それ以外の物を十倍にも二十倍にもして日本国内で売り捌いていきました。こうして室町幕府は財を成し、現代にも残る国宝級の宝物を数多(あまた)手に入れたのです。

(参考:「82   室町文化(9) 東山御物」       2021(R3).02.04   up)

(参考:「122 武将の人生(3)」の内、足利義満足利義持今川了俊菊池武光)

                               2021(R3).10.23   up)

 

話は脇道に逸れますが

話は脇道に逸れますが、婆の母方の祖母の話をします。

祖母は明治30年代に東北地方に生まれました。家は貧しい小作農でした。働き者で、田畑の仕事をまめにやり、糸取り(繭から糸を取る事)が上手、機織りも名手だったそうです。何々小町と呼ばれる程の美人だったそうです。或る日、赤い腰巻姿で田植えをしていた時、旧家の三男坊に見初められたのが縁で、嫁に行ったそうですが・・・いやはや大変だったとか。何しろ、行儀作法の躾がなっていないと、何かにつけて「がさつ者」と言われたそうです。戸はピシャンと閉めるし、茶碗を洗えば時々ガチャン、と言う訳で機織り名手も小町美人も形無しだったと、後年祖母は笑いながら話していました。祖母のお姑さんは、所作(しょさ)が美しく、どこにいるか分からない位に静かなのに、てきぱきと家の中を取り仕切っていたそうです。

婆は「がさつ者」の孫。野育ちの伝統にどっぷりと浸かっていました。それだからでしょうか。お茶を習い始めて気付いたことがあります。お茶の所作には、安全に美しくお道具を扱うノウハウがたくさん詰まっている、と。

 

所作(しょさ)

茶の湯での所作は、何事も大切に、丁寧に扱う事から始まります。

室町時代の頃、南宋皇帝から下賜された最高傑作の芸術品の数々、又、渡来の禅僧や留学生がもたらした多くの作品群など、優れた絵画、墨蹟、陶器、工芸品に対して、尊敬の念を込めて手厚く扱うように、所作の一つ一つの動き方が定められます。これは、禅宗寺院で行われている厳格な作法の影響を受けているのかも知れません。或いは、日本的に全ての物に神が宿ると言う考えにより、何事も徒(あだ)や疎(おろそ)かにしない所から来ているのかも知れません。兎に角、相手は無機質の物なんだからどうでも良いでしょ、とばかり、ヒョイと置いたり、ザザザァーと置き並べる様な事はしません。

どうすれば、お道具に対して失礼のない様に取扱えるのか、その為には、何処に何を置き合い、どのような所作が理に適っているか、を考えます。漫然と平面に道具を並べても、美しくありません。空間構成の緊張感が緩んでしまって間の抜けた雰囲気になり、折角のお道具の良さが台無しになってしまいます。考え無しに無駄な動作を繰り返せば、道具類を引っ繰り返したり破損したりし易くなります。

無駄が無く合理的で美しい動線・体の移動・足の動き・手の動きは、能を連想させます。今風に置き換えれば、フィギアスケートや床運動に通じる所があります。体の傾きや指先の角度、安定した体幹、乱れの無い動き、隙の無い演技の構成、それらは見る人を感動させます。洗練された美しい振る舞いは一つの芸術作品にもなり、一碗の茶と同じく御馳走にもなるのです。

 

能阿弥と茶の湯

能阿弥(のうあみ)が生まれた1397年は、足利義満が北山山荘(後の鹿苑寺・通称金閣寺)を造営した年でした。

彼は初め朝倉氏の家臣になりましたが、後に室町幕府足利義教に仕えました。彼は墨絵を能くし、阿見派という一派をなしました。そればかりか連歌に大いに才能を発揮、宗祇などの文化人とも交流を持ち、また、表装の腕も良く、幕府が所有する絵画や墨蹟に対しても優れた鑑定をしました。その彼が、書院の飾り方や、茶の湯の台子飾りなどを定め、点前のやり方も、武家作法を取り入れながら定めて行きました。 

これは凄い事です。実際に点前をやってみると分かるのですが、何処か一か所順序を間違えてしまうと、それから先の手が交差したり、所作が混乱したりして後が続かなくなってしまうのです。婆の失敗に、お釜の蓋が開いていないのに、柄杓を取ってお湯を汲もうとしたことがありました。その他の失敗は数知れず・・・と言う訳で、実に合理的に点前の流れが組み立てられています。

その能阿弥が、奈良に村田珠光というお坊さんが茶の湯をやっていると聞き、彼を招いて交流したと言われています。

連歌師心敬(しんけい)(1406-1475)が著した「心敬僧都庭訓」には、「雲間の月を見る如くなる句がおもしろく候。八月十五夜のつきなるは、面白からず候」とあるそうですが、この美意識を村田珠光も共有していたとか。又、同じく心敬が「言わぬところに心をかけ、冷え侘びたるかたを悟り知れりとなり。境に入り果てたる人の句は、この風情のみなるべし」と言った事に対して、武野紹鴎もその通りだと共感していたそうです。

色々調べて行くと、彼等のお茶の共通項に「連歌」というキイワードがあるようです。

 

余談  連歌の七賢人

連歌の話が出てきましたので、連歌の七賢人を列挙してみます。

宗砌(そうぜい)(生年不詳-1455)

大和の出身で山名宗全の家臣。俗名を高山時重と称し、村田珠光と親交がありました。

宗伊(そうい)(1418-1486)

足利義政の近習をして仕えていました。俗名・杉原賢盛

心敬(しんけい)(1406‐1475)

天台宗の僧侶。和歌と連歌の達人。主著「ささめごと」「老いのくり言」「ひとりごと」があり、連歌集・歌集に「心玉集」や「心敬僧都十体和歌集」があります。侘茶の村田珠光に影響を与えています。

行助(ぎょうじょ)(1405-1469)

比叡山の僧侶。連歌を宗砌に学びました。「連歌口伝抄」の著書があります。

専順(せんじゅん)(1411-1476)。

柳本坊、春陽坊とも号します。連歌師にして華道家池坊(いけのぼう)26世

能阿(のうあ)(1397‐1471)

能阿弥の事。室町幕府に仕えました。同朋衆。絵師、連歌師、鑑定家、表具師、茶人

智薀(ちうん)(生年不詳-1448)

俗名・蜷川親当(にながわ ちかまさ)。雅名・智薀(ちうん)。通称・新右衛門。アニメ「一休さん」に出て来る「新右衛門さん」で有名になりましたが、室町幕府の政所の役人です。

宗祇(そうぎ)(1421-1502)

号・自然斎。宗砌、専順、心敬に連歌を学びました。室町幕府の奉公衆で、和歌の二条流の弟子でもある東常縁(とう つねより)から、古今伝授を受けました。

(参考:「83 室町文化(10) 連歌」        2021(R3).02.07   up)