式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

67 南北朝(1) 北畠顕家

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇を批判し、堂々と真正面から諫めた人物です。『顕家諫奏文(あきいえかんそうぶん)』と呼ばれる彼の上奏文は、諸葛孔明の『出師(すいし)の表』に匹敵するのではないかと、婆は思っています。

略歴

顕家は、『神皇正統記』を書いた北畠親房の長男で、文武両道に秀でた公家でした。頭脳明晰、眉目秀麗、早熟の天才です。3歳で叙爵、12歳で従三位参議・左近衛中将になります。15歳で従三位陸奥守に任じられ、翌年、津軽の北条氏残党を征伐、その功により、従二位になり、陸奥鎮守府将軍になります。

京都が兵乱に巻き込まれ後醍醐帝が窮地に陥ると、陸奥から京都へ5万の軍を率いて駆けつけます。それは秀吉の中国大返しの10日間で200㎞を走り抜ける速度を上回って、16日間で600㎞を走る強行軍でした。兵站は全て現地調達の略奪です。顕家の通った道筋は家も草木も残らない程の大変な被害に遭ったと記録されています。

京都を占拠した足利軍を、彼は新田と楠木と組んで京都から駆逐してしまいます。顕家は18歳で鎮守府大将軍に任ぜられます。彼は斯波氏や相馬氏を破り、利根川で足利軍の大軍を壊滅させ、鎌倉の足利義詮上杉憲顕を打ち破って鎌倉を陥落させます。

二度目の上洛の時、顕家は美濃国青野原(現岐阜県大垣市)の戦いで足利軍を破ります。それから伊勢へと進路を転じ、畿内各所で戦いました。しかし、遠征の疲れも有って勝敗は五分五分でした。

延元3年・建武5年5月22日(1338年6月10日)高師直と堺浦の石津で戦い、敗れて顕家軍は潰走。ついに顕家は討死してしまいます。享年21歳。

顕家は死ぬ一週間前の5月15日、後醍醐天皇を諫める文書を陣中で書きました。それが『北畠顕家上奏文』又は『顕家諫奏文』と呼ばれるものです。


顕家諫奏文

『顕家諫奏文』は、最初の出だしが欠落していますが、全部で七条あります。ここでは出だしの文と、6条と、結びの文を載せます。原文は太字で表しました。ふりがな等婆が補完したものは、小さい字で表しました。婆なりに意訳も付けております。

諫奏文

一条

(前文欠落)鎮将各令知分域、政令之出在於五方、因准(いんじゅん)之處似弁(わきまえる)故實、元弘一統之後、此法未周備、東奥之境纔(わずか)(なびく)  皇化、是乃最初置鎮之効也、於西府者更無其人、逆徒敗走之日擅(ほしいまま)(はく)彼地、押領諸軍再陥帝都、利害之間以此可觀、凡(およそ)諸方鼎立(ていりつ)(しこうして)猶有滞於聴断、若於一所決断四方者、萬機紛紜(ふんうん)爭救患乎、分出而封侯者、三代以住之良策也、置鎮而治民者、隋唐以環之権機也、本朝之昔、補八人觀察使、定諸道之節節度使、承前之例、不與(よ)漢家異、方今亂後之天下民心輒(たやすく)難和、速撰其人、發遣西府及東關、若有遲留者、必有噬臍(へいぜい→ほぞを噛む)悔歟、兼於山陽・北陸等各置一人之藩鎮、令領便近之国、宜備非常之虞(おそれ)、當時之急無先自此矣

1条 (意訳) 

鎮守府を置いて各区域を治めて来ましたが、元弘で統一した後はこの法は未整備です。東奥はわずかに皇化しておりますが、これは最初に鎮守府を置いて治めたからです。西(九州)にはそれが無いから逆賊が走り入って勝手に占領し、再び帝都を陥れました。どちらが得策かこれを見れば分かります。地方が鼎(かなえ)の様に立って行政が上手くいったとしても、それでも民の声を聴くのは滞ってしまいます。仮に集権的に一か所で色々なことを決断しようとすれば、よろずのことが紛々として混乱し、患難を救う事が出来るでしょうか。分権して治めるのが良策です。隋唐の昔からやっている事です。本朝も昔は観察使を置き、節度使を置いて民を治めました。漢の国も同じです。今の様に乱の後では、民心が簡単に和する事は難しいです。ですから、速やかに人を選んで西府や関東に派遣しなさい。もし、遅れる様な事が有れば、必ず臍(ほぞ=へそ)を噛むような後悔をするでしょう。ついでに、山陽・北陸に各一人ずつ藩鎮を置いて治めさせ、万一に備えるべきです。これは早急にすべきです。

 

第六条

可被厳法令事

右法者理之権衡(けんこう)、馭民之鞭轡(べんひ)也、近會朝令夕改、民以無所措手足、令出不行者不無法、然則定約三之章兮如堅石之難転、施画一之教兮如流汗之不反者、王事靡鹽民心自服焉

6条 法は厳かにする事

法は国の理(ことわり)で、基準となるものです。それによって民を馭(ぎょ)し、民を統(す)べるものです。ところが近頃では、朝に令を出し夕べにそれを改めています。そのような事をしたら、民は混乱してどうして良いのか分からないではありませんか。法令を出してもそれが行われなければ、法は無いのと同じです。ですから、三つの決まり事のように極めて簡単で良いから、ころころ転がらない様なような盤石の法令を作り、それを衆知すべきです。流れ出た汗は元に戻らないと言います。王の言葉もそうです。矢鱈と出したり引っ込めたりするものではありません。しっかりすれば、民の心は自ずから王に靡き、服するでしょう。

 

結びの言葉

以前条々所言不私、凡厥為政之道治之要、我君久精練之賢臣各潤餝(じゅんしょく)之、如臣者後進末学何敢計議、雖然粗録管見(かんけん)之所及、聊攄(りょうちょ)丹心蓄懐、書不尽言々不尽意、伏冀照 上聖之玄鑒(げんかん)察下愚之懇情焉、謹 奏

延元三年五月十五日従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

結び

これまで述べてきた事は私心からではありません。これは政治をする上で大切な要です。陛下は長らくこれを精錬なさり、賢臣の方々は陛下の事跡を更に豊かに実らせてまいりました。私の様な者は未だ若輩者ですので学問も未熟です。どうして議を計る事が出来ましょうや。とは言え、私の愚見を、赤心(まごころ)をもって胸に抱いていた思いを申し述べます。書は言葉を尽くす事が出来ません。言葉はいくら尽くしても思いの全てを表す事が出来ません。どうぞ、伏して冀(こいねが)います。陛下の何処までも見通す心でご照覧下さいまして、愚かな私の懇情を察して下さいますよう、謹んで奏上申し上げます。

 延元3年5月15日 従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

 

 余談  本文を載せなかった他の条

2条 3年間無税にする事。帝は奢侈を慎み、宮殿造営等は止めるべき事

3条 無能の者はリストラすべし。官位と報償の在り方を検討すべし。

4条 帝に擦り寄り禄を貪る不忠の公家や僧侶が多い。武士や雑兵の中に主人に仕えて死んで行く者がいる。その者達が不遇ならば善政とは言えない。

5条 陛下よ。行幸や宴会は止めなさい。民は苦しんでいる。

7条 人材登用の勧め。能力あるものは引き立てよ。職務を汚す者は退けよ。

 

余談  綸言(りんげん)汗の如し

勅命が一度出れば取り消せない事は、出た汗が再び元に戻らないのと同じだという事。天子には戯れの言葉は無い。

(角川 新版 古語辞典より引用)

 

余談  定約三之章(三つの法律)

6条にある「定約三之章」は『史記』に載っている法令です。

1、人を殺すな  2、人を傷つけるな  3、盗むな

人を殺せば死刑である。人を傷つけたり盗んだりしたら、それなりの罰を受ける。

 

66 建武の新政(7) 南朝樹立

第二次京都合戦

宮方の新田軍が湊川で敗れ、京都に向かって敗走して来る、しかも賊軍の足利がその後を追い駆けて来る と言う報せに、京都は上を下への大混乱に陥りました。

建武3年5月27日後醍醐天皇三種の神器を持って比叡山に避難します。その時、天皇光厳(こうごん)上皇に共に逃げようと誘います。光厳上皇は仮病を使ってそれを断ります。

光厳上皇にとって、後醍醐天皇は自分を帝位から引き摺り下ろした人物、光厳上皇は、密かに足利尊氏に「義貞討つべし」と院宣を出しています。

後醍醐帝は足利尊氏を朝敵にしました。光厳上皇新田義貞を朝敵にしました。天皇上皇の命をそれぞれ受けた二つの「朝敵」が京都でぶつかりました。

建武3年5月29日、足利軍は新田軍を追って京都に入り、都を占拠します。

6月14日足利尊氏光厳上皇を奉じて京都の東寺に入りました。

新田軍と足利軍は都を舞台に死闘を繰り広げます。

楠木正成は既に討死し、名和長年千種忠顕(ちぐさただあき)も次々と討死し、頼みの綱にしていた北畠顕家は別の戦場で足止めを食らっており、新田軍側にとって戦局は次第に不利になってきました。

後醍醐帝、新田を捨てる

足利尊氏は後醍醐帝と密かに連絡を取り、和平工作を始めました。この和平工作は新田側には知らされませんでした。ただ、新田の家臣・江田行義と大舘氏明が後醍醐方に通じていました。

10月9日、江田と大舘の行動に不信を抱いた義貞の部下・堀口貞満が、後醍醐帝に質そうと比叡山に登ると、後醍醐帝は和睦の為に山から都に降りる、正にその時でした。

「あゝ、何故あなた様は長年忠節を守って来た新田をお見捨てになるのですか。今の今まで大逆の朝敵だった尊氏に心を寄せ、あなたの為に戦って来た我らを裏切りなさいますのか」と、涙ながらに堀口は訴えました。

そこへ3000の兵と共に駆け付けた新田義貞は、怒りを懸命に堪えて事の真偽を質しました。すると、帝は新田の労を労い、これは計略であると言い繕って説明しました。

義貞は帝に、恒良親王尊良親王を推戴して北陸道へ行き再起を図りたいと願いました。帝は二人の親王を連れて行く事を許しましたので、義貞は兵を二手に分け、一手は帝の護衛に付け、もう一手は義貞が率いて北陸道を目指しました。

道中、新田義貞一行は足利軍の追撃を受け、猛吹雪にも遭い凍死者を出しながらも、金ケ崎城に入る事が出来ました。義貞側は金ケ崎城から、親王の足利追討の令旨を各地に盛んに送りましたが、反応はいま一つでした。

金ケ崎城落城

足利軍は金ケ崎城を攻撃、何度か渡り合う戦も有りました。新田勢は初めの内は優勢でした。が、やがて6万の兵に包囲されて兵糧攻めにあいます。城中の食糧は底を突き、兵達は餓えに苦しみました。人肉を食べる程の凄惨な様子だったと伝わっています。

延元2年3月5日。足利軍による総攻撃が行われ、翌6日、金ケ崎城は陥落します。尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となってしまいます。

新田義貞はたまたまその時、弟の義助のいる杣山城へ援軍に行っていて、金ケ崎城を留守にしていました。

南朝樹立

後醍醐帝側に就いて新田軍側で戦った有力武将達が次々と討たれ、後醍醐帝の持てる武力は次第に痩せ細っていきました。

2月29日光厳上皇改元し、元号を延元とします。後醍醐帝はこれを認めず建武元号を使います。

延元元年(建武3年)8月15日(西暦1336年9月20日)光厳上皇院宣を出し、弟の豊仁(ゆたひと)親王を即位(光明天皇)させます。

延元元年(建武3年)10月10日、後醍醐帝が花山院に幽閉されます。

11月2日三種の神器が後醍醐帝から光明天皇に渡されます。

11月7日建武式目が制定されます。この制定によって足利政権が一歩前へ踏み出しました。

12月21日後醍醐天皇は幽閉先の花山院を脱出、吉野へ逃れ、そこで吉野朝廷を開きます。南朝の樹立です。

後醍醐天皇は、自分は退位をしていないと退位を否定、光明天皇の存在を否定し、更に、渡した三種の神器は偽物だったと宣言します。

 

 

余談  三種の神器

三種の神器について、後醍醐帝が偽物を北朝に渡したと言う話ですが、後の研究者によって否定され、渡したのは本物であったと言われています。その裏付けとして、正平一統の時、南朝後村上天皇北朝に渡した神器を取り戻した、という事実が有ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

65 建武の新政(6) 楠木正成と湊川合戦

当時の御家人は「利」を求めて走り、「利」が薄いと見るや忽ち離れます。「利」は恩賞。「恩賞」は土地。「土地」を得て一族郎党を養って行くのが生活の全てです。

その為には「利」の多い方に付くのは当然と考え、寝返りは日常茶飯事。戦の敗色が濃くなれば、勝ち馬に乗り換えるのが彼等の流儀です。

箱根・竹之下で大物武将が何人も寝返ったのも、足利尊氏に加担して武士の世を再び立ち上げた方が、恩賞が手厚くなるとの読みから。元弘の乱の時、後醍醐帝の恩賞の配分が余りにも不公平だった為に、武士達の心は帝から離れてしまいました。

 

第一次京都合戦

建武3年1月新田義貞を追って京都に来た足利軍は、園城寺(おんじょうじ)(=三井寺)に入り、そこを京都攻略の拠点とします。

後醍醐帝は難を避けて比叡山延暦寺に入ります。

延暦寺園城寺は昔から犬猿の仲です。延暦寺僧兵による園城寺焼き打ちは主なものだけでも10回も有りました。後に、織田信長延暦寺焼き打ちをした際、信長は本陣を坂本の園城寺に置いたと聞いています。

それはさて置き、尊氏を追って西進してきた北畠顕家と、態勢を立て直した新田軍、そして楠正成(くすのきまさしげ)軍の三軍が連携をとって足利軍を攻撃します。足利軍は敗北し、園城寺は焼き打ちされてしまいます。この時の兵火は園城寺ばかりで無く、後醍醐帝の二条富小路内裏も焼失、京都での市街戦は凡そ20日間続き、都は灰燼と化します。

宮方の軍は京都から足利軍を駆逐しましたが、北畠、新田、楠木の三軍はなおも抵抗する足利軍を豊島河原(現大阪府箕面市池田市)で破ります。

足利軍は九州へ敗走します。

 

九州多々良浜の合戦 

九州に入った足利軍は、少弐頼尚(しょうによりひさ)に迎えられます。が、宮方に付いた地元の筑前筑後・肥後の諸豪族から抵抗に遭います。その軍勢凡そ2万騎。対する足利軍は2千騎。

建武3年3月2日(西暦1336年4月13日)両軍は多々良浜(たたらはま)(現福岡市)で衝突します。足利軍が絶望的な戦力差にもかかわらず、宮方の九州勢の中から足利軍に寝返る者が続出、九州の宮方は総崩れになり、足利軍が圧勝してしまいます。

 

楠木正成

河内国の悪党と呼ばれた楠木正成は稀に見る戦巧者でした。彼の出自・出身には諸説あります。得宗被官だったらしいと言われております。

楠木正成は、幕府に反抗的な態度をとっていた渡辺党、湯浅氏、越智氏(おちし)などを平らげ、その軍事的手腕が高く評価されました。やがて彼は、幕府よりも地元の人々の暮らしに寄り添う様になり、人々からも慕われる様になります。ついには彼自身が「悪党楠木兵衛尉」と幕府側から呼ばれる様になっていました。

 

和睦の献策

後醍醐帝が討幕の狼煙を挙げてからずっと、楠木正成は宮方で戦って来ました。

彼は戦の天才でした。全く人が思いつかないような奇策を次から次へと繰り出しました。石や材木を崖から落としたり、糞尿を浴びせたり、かと思えば藁人形に鎧兜を着せた偽装兵を並べて、その陰から矢を射たりと、敵の大軍を手玉に取って大損害を与えました。

その戦上手の彼が、京都合戦で討ち漏らした足利尊氏を非常に危険視していました。

尊氏には、血筋と人間的魅力と武家棟梁としての力量の三拍子が揃っていました。その尊氏を九州に追い落としたのは、虎を野に放つ様なものでした。

楠木正成は帝に献策します。新田義貞を打ち、足利尊氏と和睦するべきだ、と。

正成のこの仰天献策は公家達に一蹴されてしまいます。彼等は言います。宮方は勝利し、敵は九州に逃げてしまったではないか、と。敗北した朝敵と何故和睦しなければならないのか?

 

新田軍苦戦

3月、後醍醐帝は新田義貞を総大将として足利尊氏追討の軍を九州に差し向けます。

新田軍は播磨国で、足利側の赤松則村を攻めますが、なかなか勝敗はつかず長引いてしまいました。そんなこんなで時間を取られている間に、九州から足利軍が攻め上ってきました。勢いづく赤松軍。新田軍は撤退を始めます。撤退を始めると早速寝返りが大量に出て来ました。新田軍はその数を急速に減らしてしまいます。

尊氏が京都に攻め上って来る、宮方の新田軍は押されて敗退している、という報せが帝の下に届きます。帝は楠木を呼び出し、新田軍の救援に向かう様命じます。

 

湊川(みなとがわ)の決戦

正成はそこで提案します。敵軍を都に誘い入れ、新田、北畠、楠木の三軍や、宮方に付く者達と共に都を包囲し、四方より攻めれば足利軍を殲滅できる、と。その間、帝には比叡山に難を逃れていて欲しい・・・しかし、この提案は退けられてしまいます。正成は止む無く出陣します。

建武3年5月3日、九州から東進して厳島まで来た足利尊氏の下に、光厳上皇から使者が到着し、「新田義貞追討令」の院宣が伝えられました。これは、箱根・竹之下で勝利した尊氏が密かに光厳上皇と連絡を取り合って実現したものです。これで、尊氏は朝敵の汚名を逃れる事が出来るようになりました。こうなると現金なもので、足利軍に我も我もと加わる者が増えてきます。

建武3年5月24日新田義貞楠木正成は兵庫で合流します。その晩二人は、どう考えても勝ち目の無い戦を前に、酒を酌み交わしながら話し合います。

建武3年5月25日、足利軍は九州・四国の水軍10万を引き連れ、湊川に着きます。陸路から東進してきた足利直義軍もそこに加わります。総勢30万とも50万とも・・・

対する新田軍は約4万、楠木正成軍は身内で固めた700騎。

開戦は午前8時頃、船と陸からの矢合わせから始まりました。上陸してくる雲霞の様な敵。衆寡敵せず、果敢な突撃を繰り返しても正成は味方の数を減らすばかりでした。ついに、正成軍は73騎にまで減ってしまいました。正成は弟・正季(まさすえ)らと共に村の民家に入り、そこで刺し違えて自害し、家臣達も皆自害しました。

新田軍からは、敵方への投降やお定まりの寝返りが続出。新田義貞は残る兵を纏めて激戦の死地から退却し、京都へ戻ります。

後醍醐帝は官軍敗北の報せに、三種の神器をもって比叡山に登りました。

 

 

余談  楠木正成の旗印

楠木正成の旗印は『非理法権天』です。理よりも法が勝り、法よりも権が勝り、権よりも天が勝るという意味だそうです。

 

余談  桜井の別れ

楠木正成が子の正行(まさつら)と桜井で分かれた話は有名です。何人もの画家が桜井の別れを画題にして描いていますし、銅像も建っている様ですが・・・実は太平記の創作だったのではないかと言われています。正成の子・正行はその頃は既に青年だったと言う話です。正行は、当時は余り考慮されなかった戦争の基本・兵站、情報などにも力を入れ、父に勝るとも劣らない武将になったとか。彼は父と同じ様に南朝方で戦っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

64 建武の新政(5) 箱根・竹之下合戦

新田軍は後醍醐帝の宣旨を奉じ、錦旗を掲げて 鎌倉の足利尊氏討伐に向かいました。

一方、朝敵になるのを恐れて尊氏は出家してしまいます。これに対して尊氏の弟・直義は交戦を主張、自ら軍を率いて京都に向かい西進します。

後醍醐帝側の新田軍は足利を討つべく東進し、矢矧川(愛知県)で直義軍とまみえ、これを撃破。更に手越河原(静岡県)で足利軍を破り、敗走する直義軍を追尾して、新田軍は三島(静岡県)に到着します。義貞は行軍で伸びた戦列を三島で整え集結させます。

追い詰められた足利尊氏は、弟・直義の説得も有り、出家を辞めて出陣します。尊氏が出陣する、と聞いて足利軍の士気が高まりました。

天下の嶮での布陣

新田義貞は軍を二手に分けます。

弟・脇屋義助(よしすけ)を副将軍にして、尊良親王や公家達など7千騎を付けて足柄峠に向かわせ、義貞自身は7万騎を率いて箱根に布陣します。

義貞が軍を二手に分けた理由はこうです。義貞軍主力が足利軍主力の正面に立ち向かい、弟・義助軍が足利軍の搦手(からめて(弱点))の背後に回って攻める作戦でした。

他方足利軍は、足利直義が主力軍を率いて箱根に向かい、足利尊氏が足柄山に控えて後方を守るという陣形です。

箱根・竹之下合戦

12月11日、両軍は箱根と竹之下の二ヵ所で向き合い、戦端を開きます。

新田義貞軍(官軍)は足利直義軍に対して優勢に戦いを進め、箱根の戦いで大勝します。

弟・義助軍と足利尊氏軍は足柄山の麓、芦ノ湖の北にある開けた平地・竹之下で激突。尊氏参戦で士気が上がった足利軍は勢いを増し、義助軍は苦戦を強いられます。

義助軍には名目上の総大将・尊良親王や中将の二条為冬、武官の公家や北面の武士達が居ます。義助が上将を差し置いて指揮を執るのはかなり難儀だったでしょう。誇りばかり高い公家達は、快進撃してきた延長戦のまま搦手攻めを担当したので、楽勝気分だったかも知れません。義貞にしても、一品の君の尊良親王や公家達を、激戦が予想される正面攻めに投入するのは遠慮があったと思われます。

12月12日、竹之下の戦場では、思わぬ事態が発生します。義助軍から大友貞載(さだとしorさだのり)と塩屋高貞(えんやたかさだ)の二人が、足利軍に寝返ったのです。義助軍は総崩れになり、敗走します。二条為冬も討死しました。

この報せが義貞に届くと、義貞はすぐ箱根口を退きます。

義貞はこの時大勝していましたが、義助の敗走を追って足利軍が来た場合、潰走して雪崩れて来る軍を支えるのは大変です。一旦後退して態勢を立て直そうと引いたのですが、更に思わぬ誤算が生じます。

新田軍に敗色が出ると、義貞と共に戦っていた佐々木道誉が、新田軍の形勢不利と見て足利軍側に寝返りました。義貞軍は混乱、総崩れになってしまいます。

軍を立て直す暇も無く新田軍は敗走し、其のまま東海道を西進、京都まで逃げ帰ってしまいました。

太平記

『箱根・竹之下合戦の事』(抜粋) 

『(前略)義貞の兵の中に、杉原下総守、高田薩摩守義遠、葦堀七郎、藤田六郎左衛門、川波新左衛門、藤田三郎左衛門、同じき四郎左衛門、栗生左衛門、篠塚伊賀守、難波備前守、川越三河守、長浜六郎左衛門、高山遠江守、園田四郎左衛門、青木五郎左衛門、山上六郎左衛門とて、党を結んだる精兵の射手16人有り、一様に笠符(かさじるし)を付けて、進むにも同じく進み、また引く時もともに引けるあひだ、世の人これを16騎が党とぞ申しける。

(途中省略) 馬の蹄を浸す血は、混々として洪河の流るるが如くなり。死骸を積める地は、累々として屠所の如くなり。無慙と言うもおろかなり』

 

 

余談  古田氏の始まりは・・・

古田織部の古田氏は、上記の太平記に出て来る高田薩摩守義遠の子孫ではないかと、婆は思うのですが・・・この高田義遠の子孫に、美濃に在所して古田を名乗る武将が出て来ます。以下その系図です。

源頼政   従三位上 大内守護 兵庫頭 美濃守 治承四庚子五月廿六日高倉宮奉勧合戦負於宇治平等院扇芝自害歳七十六

頼兼 大内守護 住于美濃国高田庄故号高田 高田四郎 源蔵人大夫 

頼茂 従五位下 大内守護 後鳥羽院ノ勅勘ヲ蒙テ仁壽殿二走入火ヲ放チ自害ス (承久の乱) 高田右馬頭 

頼氏 大内守護 父ㇳ一所二自害ス於此嫡流 (承久の乱) 

頼保 従五位下 高田兵庫頭 依君命相續祖頼政或有之賜上野國甘楽郡

頼明 従五位下 高田民部少輔

頼遠 従五位下 高田弾正少弼 在鎌倉 

政春 従五位下 高田伊豆守 

義遠 従四位下少将 高田薩摩守 元弘ノ乱屬宮方度々有軍功焉 

遠春 従五位下 高田美濃守 建武ノ乱足利新田取合ノ刻於遠州白坂同薩埵山三州矢矧或駿河竹下相州箱根山富士川岩淵等合戦何レモ得利運矣 元弘以来永和年中四十八箇年間一度無二心為 宮方勵忠勤而無隠天下

政行 従五位下 高田飛騨守

頼春 従五位下 高田下野守

友春 古田靭員佐 住于濃州古田郷依子孫為名字 

重頼(古田大膳亮) → 重隆(古田左衛門尉) → 重次(古田吉内将監) → 重則(古田吉左衛門・秀吉公登庸之士) → 重勝(古田重勝・松坂藩藩主) → 重治(古田重治・浜田藩藩主) → 重恒(古田重恒・浜田藩藩主) → 御家改易 (以下略)

これによると、源頼兼の時に高田を号し、友春の時に名字を古田に変えています。

上記系図は婆が嫁いだ先の古田家の系図です。ただ、重則以前の系図が本当かどうか確かめようがありません。

『尊卑文脈』では、承久の乱の時、頼茂(よりもち)の息子・頼氏で系が絶えています。

太平記に出て来る高田義遠は建武の乱での活躍なのに、古田系図では義遠は元弘の乱での活躍になっています。そして、建武の乱の箱根で活躍したのは義遠ではなく、古田系図では息子の遠春になっています。

友春の代から名字を古田にしています。この時から名前の通字(とおりじ)が「」に変わっています。それ迄は頼政の「」が通字、或いは親や先祖の一字などを貰って付けています。何故友春の代から「」に変わったか謎ですが、多分、友春の時に官位を失っていますので、それを恥て先祖の名を通字にしなかったのかと、これは婆の推測です。

古田織部然は安土桃山時代に活躍した美濃の人です。ひょっとしたら古田織部は「住于濃州古田郷依為名字」の流れかもしれません。違うかも知れません。本当は分りません。

 

余談  『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』

『尊卑文脈』は左大臣洞院公定が著した家系図です。そこには各公家・各武家嫡流と支流の血筋が書かれております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

63 建武の新政(4) 矢作川合戦 

新しい御代が始まり意気盛んな帝を戴いて、陽気にお祭り騒ぎと思いきや、綸旨に追われて右往左往。世間様を上から下まで、聖から俗まで見渡して、鋭いまなこで軽やかに笑い飛ばして描き切る当世風刺の傑作の、二条河原に落首が一つ。この頃都にはやるもの夜討ち 強盗 にせ綸旨・・・そんな無頼の世の中に大乱軍馬の音が迫ります。

尊氏、鎌倉を動かず

足利尊氏は鎌倉から北条時行を駆逐したまま鎌倉に居座ってしまいました。

そして、鎌倉に御所を建て、軍功の者に恩賞を与えるなど勝手な振る舞いを始めました。なんと、尊氏が与えた恩賞の中には、新田義貞の所領も含まれていました。尊氏は義貞の領地の一部を勝手に取り上げて恩賞にしてしまったのです。

讒訴(ざんそ)合戦

恩賞授与は後醍醐帝の専権事項です。尊氏の振る舞いは越権行為そのもの。帝の怒りは頂点に達します。帝は、足利尊氏に京都に帰還する様に命じます。尊氏はそれを無視。逆に尊氏は新田義貞を讒訴します。北条時行を成敗したのは足利であり、新田義貞は戦功も無いのに功を横取りしている奸臣だ、故に義貞を討伐すべきだ、と。そして、尊氏は全国に檄を飛ばし、兵を集めます。

新田義貞は尊氏の讒訴に対して直ちに反論。護良親王を殺害したのは足利直義である事など個々の具体例を挙げて帝に訴えます。

尊氏は、護良親王殺害の罪を義貞になすり付けようとしましたが、目撃証人が現れて嘘がバレてしまいます。

足利討伐軍進発

建武2年11月9日、後醍醐帝は足利尊氏追討を新田義貞に命じ、錦旗を授けます。

帝は新田義貞尊良親王(たかよししんのう)を付けます。尊良親王後醍醐天皇の第一皇子で一品(いっぽん)の君。次期皇太子候補でしたが、持明院統量仁(かずひと)親王(後の光厳天皇)とポストを争い、破れてしまいました。その尊良親王が足利討伐軍の上将軍(総大将)になります。新田義貞はその下に位置する将軍です。戦いに疎い公家の上将軍と実戦経験豊富な武家将軍の組み合わせが、やがて作戦と指揮命令系統に支障をきたす様になります。

征討軍は三手に分けられました。

新田義貞尊良親王を戴いて京都から鎌倉へ向かって東海道を東進します。

洞院実世(とういんさねよ)による追討軍が同じく京都から東山道を通って鎌倉に向かいます。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)が北の陸奥将軍府から南進して鎌倉に向かいます。

三軍の挟撃によって鎌倉に居る足利尊氏を攻撃する手筈でした。

矢作川(やはぎがわ)の戦い

建武2年11月25 日新田義貞率いる官軍と足利軍(足利直義高師泰(こうのもろやす))が、三河国矢作川(現愛知県岡崎市にある川)を挟んで対峙します。新田義貞は川の西岸に陣を構えます。足利軍は東岸に布陣します。義貞は、長浜六郎左衛門を呼んで大軍が渡河できそうな浅瀬を探させます。彼はただ一騎で最適な場所を探します。そして、丁度良い場所は三か所あるが何処も対岸が屏風の様に立っていて、しかも敵が矢を揃えて狙っている、と報告します。

義貞は作戦を変え、敵を川におびき出す事にします。彼は中州に射手を配置し、矢を盛ん射かけます。敵はその手に乗って上流の浅瀬を渡河し始めます。義貞は渡河中の彼等を狙って襲います。

以下、太平記から矢作川の合戦を抜粋します。

 

太平記 (矢作川合戦抜粋)

さる程に、11月25日の卯の刻に、新田左兵衛督義貞。脇屋右衛門佐義助、6万余騎にて、矢矧川(やはぎがわ)に押し寄せ、敵の陣を見渡せば、その勢20~30万騎もあるらんとおぼしくて川より東、橋上下30余町に打ち囲みて、雲霞の如く充ち満ちたり。左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼びて「この川いづくか渡りつべき所ある。くはしく見て参れ」とのたまひければ、長浜六郎左衛門ただ一騎、川の上下を打ち回り、やがて馳せ帰って申しけるは、「このかわの様を見候に、渡りつべき所は三箇所候へども、向かひの岸高くして、屏風を立てるが如くなるに、敵鏃(やじり)をそろへて支へて候ふ。」(途中略)

わざと、敵に川を渡させんと、河原面に馬の懸け場を残し、西の宿の端に南北20余町にひかへて、射手を川中の洲崎へ出だし、遠矢を射させてぞおびきける。案に違はず吉良左兵衛佐、土岐弾正少弼頼遠佐々木佐渡判官入道、かれこれその勢6千騎、上の瀬を打ち渡って、義貞の左将軍、堀口、桃井、山名、里見の人々に討って懸かる。

作戦が当たり、新田軍(官軍)は足利軍に快勝します。敗走する足利軍を追って新田軍は更に東へ進撃します。

建武2年12月5日昼、安部川河口の手越河原(現静岡県静岡市)で再度足利直義新田義貞は激突。新田は夜襲を仕掛けて成功し、足利軍を潰走させます。この時、淵辺義博(護良親王を殺したと言う人物)が足利直義の身代わりとなって殺されます。その隙に直義は逃げる事が出来ました。

 

 

 余談  佐々木佐渡判官入道

太平記に出て来る佐々木佐渡判官入道は、佐々木道誉の事です。彼はバサラで有名です。華道、香道、茶道などでも達人と知られています。この手越河原の戦で足利軍側で戦っていましたが、負けると官軍側に寝返り、鎌倉攻めに加わります。

 余談  土岐弾正少弼頼遠

土岐弾正少弼頼遠は土岐家系図の人ですが、当古田家系図にも出てくる人物です。当古田家系図の頼遠は、土岐系図と同じ弾正少弼と言う役職で、在鎌倉と書かれています。ただ、頼遠の父親の名前が、古田家系図では頼明、土岐系図では頼貞、尊卑文脈では別の名前になっています。

余談  新田義貞の家格

新田義貞の家は足利尊氏より低い家柄だったと言われています。けれど、足利尊氏新田義貞も、同じ源頼国を祖としています。新田は頼国の嫡流です。足利は頼国の次男の流です。ただ、新田は軍役を課せられても静観する事が多く、諸事不運にも見舞われ、頼朝から疎んぜられていました。結局無位無官。常に足利氏の後塵を拝し、建武の頃は、完全に足利氏に従属していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

62 建武の新政(3) 中先代の乱

武士は恩賞の為に戦います。一所懸命です。土地に命を懸けるのです。それが、朝敵から領地を没収する筈のものが諸国平均安堵令によって御破算になり、北条氏の所領のみの没収と言う事になったので、没収された土地の面積はぐっと減ってしまいました。

その少なくなった土地から恩賞をくれると言うのですから、一人宛ての土地は当然少なくなります。しかも、帝の覚え目出度い者には手厚く、それ以外のものには薄く、という傾斜配分ですから、恩賞に対する不満は武士の間に鬱積して行きました。

20分の1税

自分には立派な御殿が必要であると、後醍醐帝は思いました。そして、大内裏(だいだいり)造営の計画を立てました。帝は、大内裏の造営費を賄う為に、二十分の一の新税を掛ける、と綸旨を出します。思い立ったら吉日と申しましょうか。思うと直ぐ口にし、綸旨にします。今時のツイッター政治に似ています。

只でさえ、恩賞が少なく生活が苦しい上に、この上新税を課せられたら耐えられません。武士達の不満が一層つのりました。人材登用策の影響で、代々の家職を失った公家達も憤懣やるかたない口惜しさが有りました。

後醍醐帝暗殺計画

この様な状況の中、西園寺公宗(さいおんじきんむね)が、後伏見法皇を奉じて後醍醐帝の暗殺を計画します。

西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に後醍醐帝をお招きして、そこで暗殺する計画でしたが、謀は発覚します。公宗は捕らえられ、出雲に流されます。が途中で殺害されてしまいます。

西園寺公宗北条泰家(14代執権北条高時の弟)を匿(かくま)っていました。泰家は逃亡し、各地を巡って挙兵を呼びかけます。

北条時行、拉致さる

泰家は、北条蜂起の旗印として北条時行に目を付けます。北条時行は14代執権北条高時の遺児です。北条高時の側室・二位局の子です。泰家は家来に、母親から時行を奪って来いと命じます。家来は、信濃に身を隠していた二位局に会い、強引に子供を連れ去ってしまいます。

彼女は東照寺の凄惨な地獄から幼い時行を守って脱出し、信濃諏訪頼重を頼って落ち延びて来ました。諏訪頼重は北条氏の御内人信濃守護でした。頼重は母子を迎え入れ、時行を我が子の様に育てました。ようやく安心の地に辿り着いたと彼女が思ったのも束の間、戦の旗印に、と奪われてしまったのです。彼女は嘆き悲しみの余り、入水自殺をしてしまいます。(「44 鎌倉幕府滅亡」の項参照)

時行挙兵

建武2年(1335年)7月14日、時行は諏訪頼重、諏訪時継、滋野氏、保科氏などに擁立されて挙兵します。時行この時10歳です。

時行起つ、の報せに各地に居た北条氏の残党や不満を抱えた武士達が、時行の下に馳せ参じ、たちまち大軍勢になりました。その勢いに乗って信濃から鎌倉を目指して進軍、次々と強敵を撃破して鎌倉に迫りました。

7月22日武蔵国町田村(現町田市)で時行軍は、迎撃に出て来た足利直義と正面衝突、足利軍を撃破します。

7月23日足利直義は、鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害し、鎌倉から逃げ出します。

護良親王は囚人と言えども元征夷大将軍。敵方の手に渡れば敵軍の総大将として襲って来るに違いないと思ったのでしょう。或いは第二次鎌倉幕府開設の中心人物になる可能性がある、と考えたのかも知れません。将来の禍根は断つに限ると、親王の命を奪いました。

7月25日、時行、鎌倉に入ります。

更に、時行は逃げる直義を追撃します。

足利尊氏出陣

鎌倉陥落の報せに、京都にいた足利尊氏は弟の直義を助けに北条時行討伐軍を起こします。尊氏は京都進発に当たり、後醍醐帝に征夷大将軍の肩書と、総追捕使の役目を要求しますが、帝は許可しません。

8月2日、尊氏は許可のないまま出陣します。帝は仕方なく、出陣した後から足利尊氏を征東将軍に任じます。

尊氏は、落ち延びて来た直義と合流し、反撃に転じます。足利軍は怒涛の様に時行軍に向かって行き、遠江(とおとうみ)の橋本、小夜(さよ)の中山(現掛川市)、相模国相模川北条時行軍を破り、尊氏はついに鎌倉を奪還します。

諏訪頼重は自害し、北条時行は逃亡します。中先代の乱はここに終息します。

中先代とは、先代の北条氏、後代の足利氏の間にある代という意味で、中先代と言います。

が、これが更なる争乱の発端となって行きます。

足利尊氏は、鎌倉に居座り続け、この戦いの功労者達に恩賞を与え始めます。

尊氏のこの行為に後醍醐天皇は激怒、尊氏と天皇の間に深刻な亀裂が入り始めます。

 

 

余談  護良親王伝説

足利直義が鎌倉から敗走して逃げる時、家臣の淵辺義博(ふちべよしひろ)に護良親王を殺す様に命じました。淵辺は護良親王を命ぜられた通りに殺しましたが、殺された時の、親王の余りの形相の凄まじさに怖気づいて、首級を草むらに放り出して逃げてしまったと言われています。

護良親王が鎌倉の土牢に幽閉されていると聞いた親王の寵姫・雛鶴姫(ひなづるひめ)は、供の者と共に鎌倉に来ましたが、時すでに遅し、親王が殺された後でした。雛鶴姫は親王の首級を抱き、鎌倉を脱出します。追っ手を逃れ、甲斐から京都に向かいますが、山また山の険しい道中、妊娠中だった雛鶴姫は山中で産気づき、落ち葉をかき集めたしとねの上で皇子を産みます。けれど、姫も皇子も力尽きてそこで亡くなってしまいます。供の者達は二人の亡骸を近くに葬り、護良親王の御首と錦旗を石船神社に祀ります。その後、村人により、雛鶴神社が建てられたそうです。

そういう話がある一方、こういう話も有ります。

実は、護良親王を殺す様に命じられた淵辺義博は、親王を害し奉るなど恐れ多くて出来ませんでした。足利直義が一目散に退却した事を幸いに、彼は時行軍が鎌倉に入る直前に親王を伴って脱出。船で陸奥を目指し、石巻に行ったと言うのです。「御所の浦」「御所入り」「吉野町」と親王にゆかりの名前が地名に残っており、「熱田神社」「朝臣(あそん)の宮」と言う建物も有り(3.11の津波で被災流出)、また親王の家臣だった姓を持つ旧家が何軒か今も残っているそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

61 建武の新政(2) 綸旨乱発

元弘3年(1333年)6月5日後醍醐天皇は京都に帰ると、スピード感を持って矢継ぎ早に様々な政策を打ち出します。

現・光厳帝を排し、荘園改革に抵抗勢力になりそうな関白・鷹司冬教(ふゆのり)を解任しました。同時に、先帝が公卿たちに与えた官位なども剥奪し、閑職に居た者を元に戻します。

足利高氏鎮守府将軍に任命し、13日には自分の息子の護良(もりよし)親王征夷大将軍にします。武装蜂起に備えた布石と思われます。

6月15日、後醍醐帝は旧領回復令、寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令を発布します。

天皇位に返り咲いて京都に戻ってからわずか10日間にこれらの人事を行い、法令を発布しました。後醍醐帝にとって、土地問題は真っ先に解決したい課題でした。

旧領回復令とは、幕府に敗北して所領を失った者の旧領を回復する、という法律です。

寺領没収令とは、鎌倉幕府が建てたお寺の所領を没収する、という法律です。

朝敵所領没収令とは、鎌倉幕府側で戦った者達の所領を没収すると言う法律です。

誤判再審令とは、かつて鎌倉幕府の時に行われた訴訟の再審をする、という法律です。

 

訴人殺到

このお触れを知った人々は、我も我もと京都に押しかけてきました。

幕府と戦って失った土地のみならず、爺様の爺様のそのまた爺様の、ずっと昔の話まで持ち出して、訴え出て来る者が居ました。戦いで失った土地だけではありません。借金で土地を失ったり、賭けで敗けて土地をを巻き上げられたりした者も押しかけました。それどころか、偽造した証文を持って、あわよくばとやって来る者もいました。

後醍醐帝は天皇親政を理想としていましたから、既存の事務方を使いながら自分で全てを決済する積りでしたが、訴えの余りの多さに次の一手を打ちます。

 

改革後退「諸国平均安堵令」

7月、諸国平均安堵令と言う法律を発しました。これは旧領回復令と朝敵所領没収令を大幅修正したものです。幕府側で戦った者と言うと対象が広範囲になります。それでは大変なので、範囲を狭めて、北条氏の所領のみ没収、としたのです。

帝は目先の困難を乗り切る為に、法令を現実に合わせて変えてしまいました。臨機応変と言うか、朝令暮改と言うか、兎に角これは、訴訟現場に更なる混乱を巻き起こしました。

 同月恩賞方を設置します。後醍醐帝は足利高氏にご自身の名前の「尊」を与え、高い官職に任じました。そして、足利尊(高)氏に30ヵ所、弟の直義には15ヵ所の所領を与えました。天皇側について戦った武士達にも、北条氏から召し上げた所領を分け与えました。が、それは払った犠牲に比べると微々たるものでした。

 

 各役所の設置と拡充

 8月5日、叙任・除目(じもく or じょもく)を行います。叙任・除目は位階の授与と役職の任官の事です。後醍醐帝は公卿・武士関係なく、また、家柄に関係なく有能な者達を集めます。長年携わって来て仕事を熟知している者達も勿論そのまま任用します。

9月中旬、記録所を設置し、雑訴決断所を拡充します。武者所も設置します。

記録所と言うのは、書類上きちんとした荘園の届け出がなされているかどうか、不正の有無を調べ、不正ならば荘園を没収すると言う仕事をしている役所です。

雑訴決断所と言うのは、土地に関する紛争を扱う役所です。鎌倉幕府が採っていた訴訟専門機関・引付を後醍醐帝もそのまま利用していましたが、訴えの多さに組織を拡充。公卿・法学者・武士合わせて107人の構成にしました。彼等は八つの班(番)に分かれて担当区域を決めました。例えば1番は畿内、2番は東海道と言う具合です。そして、偏りがないように各班(番)とも公・法・武の人員をバランスよく配置しました。

武者所は内裏の警備をする処です。

10月に陸奥将軍府を設置。

12月に鎌倉将軍府も設置して、軍政を整えます。

翌1月29日(西暦1334年)元号を元弘から建武改元します。

 

行政の停滞

全ての行政の決まりごとは綸旨が無ければ効力がない、としましたから、事務方から上がって来た書類は全て後醍醐帝の下に集中します。帝は裁定を与え、綸旨を発します。

けれども、いくら後醍醐帝が優秀であっても、膨大な案件を一人で処理し切れるものではありません。天皇親政を掲げ綸旨万能の方針は、早々に破綻してしまいます。

 

護良親王征夷大将軍を解任さる

左遷されたり解任されたりした公卿、殆ど恩賞に与れなかった武士達。彼等の不満は深く静かに沈潜して行きます。 

 そのような時、正二位中納言万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が世を儚んで突然出家してしまいます。藤房は雑訴決断所などの要職を務め、重要な人物でした。後醍醐帝には憚る事なく諫言をしていました。けれど、帝は聞き入れる事は殆どありませんでした。万里小路藤房は、平重盛楠木正成と共に日本三忠臣と言われています。

そういった中で、後醍醐帝と護良親王の間に亀裂が入り始めました。

後醍醐帝は足利尊氏を重用します。護良親王足利尊氏を信用していません。危険人物と見ています。

源氏の足利尊氏、武士達の間に人気があり、時を得れば幕府を樹立できる実力を持っています。諸国平均安堵令を後醍醐帝に出させたのも、事務処理能力を超えたこともさることながら、尊氏の圧力に屈したから、と親王は見ています。

護良親王は父帝に足利尊氏を遠ざける様に進言します。しかし、父帝は耳を貸しません。

一方尊氏は策略を巡らせ、後醍醐帝の寵妃・阿野廉子(あのれんし)に「護良親王は帝位を狙っている」と吹き込みます。阿野廉子は自分の息子・義良親王(後の後村上天皇)を天皇にしたいと思っていましたので、後醍醐帝に「護良親王は謀反を企てている」と讒言します。帝は烈火の如く憤り、まともに調べないまま親王征夷大将軍の職を剥奪して捕縛、足利尊氏に身柄を預け、鎌倉に流してしまいます。

世は不穏な動きを始めます。

北条時行が北条氏残党を糾合して乱を起こします。

中先代(なかせんだい)の乱の勃発です。