式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

109 桃山文化3 障壁画(2)各流派

日本の絵画史上で巨大な鉱脈の様に太く長く続いて来た狩野派ですが、その長い歴史の中にはマンネリ化などで衰退の気配などを見せたりして、結構山や坂がありました。伝統継承が得手の者は継承に力を注ぎ、飛躍を追求する者は受け継がれてきた伝統に革新をもたらし、守りと攻めが時系列上に上手く綯交(ないま)ぜになって、今日の日本画壇の基底を作って来ました。

この項では、前項で狩野派狩野永徳に触れましたので、永徳以外の狩野派の主な人々を紹介し、且つ、他派の様子などを述べたいと思います。

 

狩野派

初代・正信(1434-1530)

狩野派の祖。室町幕府御用絵師。漢画系。東山山荘の障屏画等を制作。「山水図(掛物)」「周茂叔愛蓮図(しゅうもしゅくあいれんず)(掛物)」「日野富子(掛物)」等

二代・元信(1476-1559)

正信の子。画才、経営共に優れ狩野派の基礎を築きます。花鳥・山水・人物等、また濃絵(だみえ)、淡彩、水墨等いずれも万能。「四季花鳥図」「細川澄元像」等

四代・松栄(1519-1592)

元信の三男。二人の兄が早世し、狩野家を継ぎます。狩野の画風を守り永徳へ繋ぎます。画風は柔和。「遊猿図」「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」等

山楽(1559-1635)

旧姓木村光頼。永徳の養子になり右腕として活躍。永徳が、東福寺法堂の天井画「蟠龍(ばんりゅう)」を描き掛けで病に倒れた時、それを引き継ぎ見事に完成させます。大画面の扱いは永徳似、画面は温和。「牡丹図」「車争図屏風」等

山雪(1590-1651)

山楽の婿養子。山楽と共に京狩野の中心になります。「寒山拾得(かんざんじっとくず)」「雪汀水禽図(せっていすいきんず)」「猿猴(えんこうず)」等
永納(1631-1697)

山雪長男。父の画論を纏めた著書に「本朝画史」があります。大和絵に近い平明で抒情的な画風。「春夏花鳥図屏風」「蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)屏風」

長信(1577-1654)

松栄の四男。江戸幕府御用絵師「花下遊楽図」「彦根屏風」等。(花下遊楽図は趣味切手週間の10円切手にもなっています。)

探幽(1602-1674)

永徳の次男・孝信の子。早熟の天才の誉れ高く、16歳で江戸幕府の御用絵師になります。初期は祖父・永徳の影響を受けてか覇気盛んな画風を示していますが、雪舟牧谿(もっけい)などの水墨画大和絵などと漢画の融合が見られ、何も描かない空白の地に詩情を表現、新しい境地を開きます。幕府より鍛冶橋に屋敷を賜り江戸に移住。鍛冶橋狩野家の始祖。大坂城江戸城、二条城、名古屋城、他に大寺院の障壁画を一門を率いて制作。「四季花鳥図」

 

 長谷川派

 長谷川派の始祖は長谷川等伯(1539-1610)です。等伯能登の七尾出身、初期画名は信春です。30歳頃上京。仏画などを描きながら大徳寺に出入りし、雪舟牧谿等の宋元画や、金碧障壁画などを自学自習。長谷川派を樹(た)てました。

御所造営の時、狩野永徳と受注を争い破れます。永徳亡き後、祥雲禅寺の障壁画を受注します。「桜図」「楓図(かえでず)」「松に秋草図」「松に黄蜀葵図(とろろあおいず)」などを息子・久蔵や一門と共に描きました。その時、久蔵は「桜図」を、等伯は「楓図」を描いています。等伯は他にも「武田信玄像」「利休居士像」等を描いています。

等伯は、将来を期待していた最愛の息子・久蔵を26歳で亡くしました。悲しみの内に描いたのが「松林図屏風」と言われています。寂寞(せきばく)とした無常感が漂う水墨画です。

晩年、等伯は自称「雪舟五代」と名乗っています。事故により右腕を負傷し、手が不自由になり、「松林図屏風」の絵を頂点にして、等伯の画力は次第に下降線を辿って行きます。

 

長谷川派の絵師

長谷川等伯の四人の息子の外に、等胤、等秀、等誉、等二、宋圜(そうかん)等が居ますが、等伯没後優れた指導者が現れて来ず、長谷川派はやがて普通の町絵師に埋没して消えて行きます。

長谷川久蔵(1568-1593) 

等伯嫡男。父を超える才能を持つと言われましたが早世します。智積院(ちしゃくいん)壁画全般。中でも「桜図」

 長谷川宋宅(生年?-1611) 

等伯次男。父没後後継者になるも、後継就任翌年に卒。「秋草図屏風」

長谷川宋也(生年?-1611) 

等伯三男。「柳橋水車図(りゅうきょうすいしゃず)屏風」

長谷川左近(1593-没年?) 

等伯四男。雪舟六代を自称する。「十六羅漢図」

長谷川等胤(生年?-没年?)

伊達政宗に仕える。瑞巌寺の一連の障壁画の内、「文王の間」「上段の間」「上上段の間」の障壁画

 

海北派(かいほうは)

 海北派の祖は海北友松(かいほう ゆうしょう)(1533-1615)です。父は海北綱親(かいほうつなちか)と言って浅井家三将の一人です。綱親は、友松が3歳の時に彼を京都の東福寺へ入門させます。

友松は禅の修行に励む傍ら、狩野元信に絵の手ほどきを受けました。又、禅寺にある宋元の絵に親しく接し、とりわけ宋の画家・梁楷(りょうかい)の絵に強く影響を受けました。

1573年(天正元年)、織田信長浅井長政を攻め小谷城が落城した時、友松の父や兄達も討死しました。彼は海北家を再興しようと、武術を練習、その機を窺っていました。

1583年(天正10年)、明智光秀が信長に謀反、光秀は秀吉に討たれ、その家臣だった斎藤利三が捕縛され磔刑にされてしまいます。斎藤利三は友松の親友でした。友松は槍を引っ提げ真如堂の東陽坊長盛と共に磔刑場に夜襲を掛け、斎藤利三の遺体を奪います。彼等は真如堂に利三を葬りました。この頃になってようやく画家の道を本気で歩み始めます。

禅林出身の彼の絵に金碧障壁画の数は少なく、殆どが水墨画です。金砂子の霞を刷いている絵もあります。武人魂の発露か、ド迫力の雲龍図があるかと思えば、「袋人物」と言われる様な、簡略化した丸っこい線で描いた人物画も有ります。

代表作 建仁寺障壁画全50面。「雲龍図」「雲龍図屏風」「松に叭々鳥図(ははちょうず)」「飲中八仙図」

海北派の絵師

海北友松その人が、画家たる事を恥じていたので、子の友雪に絵の手解きをしましたが、弟子は余り取りませんでした。

友雪(1598-1677)

友松の子。友雪は絵屋として絵馬などを描いて糊口を凌いでいましたが、不遇のこの時期に春日局から救済の手が差し伸べられます。春日局は、元は斎藤福と言い、磔刑で死亡した斎藤利三の娘です。友雪は徳川家光に召されて江戸に屋敷を賜ります。妙心寺や禁裏にも出入りを許され、障壁画などを狩野永徳などと共に担当します。

友竹(1654-1728)

友雪の子。友松の孫。京都御所造営や東宮御所造営の時に障壁画を担当します。

海北派は明治まで存続します。

 

 雲谷派(うんこくは)

 雲谷派を開いた雲谷等顔(うんこくとうがん)(1547-1618)は、肥前国古見(のごみ)城主・原豊後守直家の次男として生まれました。本名を原治兵衛直治、号は容膝(ようしつ)です。絵を狩野松栄(或いは永徳)に習います。

1584年、肥前有馬の戦いで父が戦死し、原家は絶えましたが、直治は毛利輝元に召し抱えられ御用絵師になります。輝元は直治に雪舟が住んでいた雲谷庵と、雪舟が描いた「四季山水図」を下賜し、雪舟を学ぶように直治に指示します。直治は日々研鑽を積み、見事に「四季山水図」を模写、輝元は大いに満足したと伝わっています。輝元の狙いは雪舟の系統を復活させ、根付かせることでした。

直治は剃髪し「雲谷庵」から姓を雲谷、名を雪舟等揚から「等」の一字を貰い等顔と改め、雪舟の正統派の復活を目指します。等顔は茶の湯連歌も出来る文化人でした。

雲谷の絵は主に水墨画ですが、金箔の上に濃い墨で梅の枝に止まるカラスを描いたりして、金に輝く地に黒いカラスの対比が美しく、新しい試みなどもしています。また、水墨画に淡い色を要所に差したりしても居ます。

雲谷等顔は輝元の庇護を受け、雲谷派も毛利家が続く限り幕末まで続きます。

代表作 「梅に烏図」「春山夏山図屏風」

 

曽我派

 曽我派は室町時代に曽我蛇足が起こした流派ですが、桃山時代の曽我派とはあまり関係ないようです。桃山時代の曽我派は越前に興り、曽我直庵(そが ちょくあん)が曽我蛇足(室町時代の絵師)を遠祖として名乗りました。一種特異な描き方で、細部に拘り彩色にも独特な雰囲気があります。長谷川等伯が描いた仏画に曽我派の影響が多少みられます。金や黒、赤や緑などで仏の衣や宝飾などをこれでもかという位細部を描き込み、荘厳(しょうごん)しています。

曽我蕭白(そが しょうはく)は曽我を名乗っていますが、これは自称です。曽我派を自学自習し、曽我派の色彩感覚に形のデフォルメを施し、妖怪じみた異様な雰囲気を醸し出しています。

 

絵屋

流派ではありませんが、絵屋出身の俵屋宗達なども忘れてはならない絵師です。

派閥や流派を作る事により、型にはまった出来映えに成りがちですが、個人プレーだとそういうものに縛られずに、殻を打破する力を発揮できます。

 

 余談  狩野探幽

徳川家康が江戸に幕府を開いたのが1603年です。1602年生まれの狩野探幽桃山文化の括りに入れるのに迷いがありましたが、彼は狩野派の一つのピークでもありますので、過去からの継承として取り上げました。

 

 余談  祥雲禅寺と智積院

 秀吉の子・棄丸(すてまる(=鶴松))の菩提寺・祥雲禅寺は1682年焼失しました。障壁画は持ち出されて、智積院に移されました。

 

余談  叭々鳥(ははちょう)

ハッカチョウとも言い、ムクドリの一種。翼を広げた時に八の字に見え、おめでたい鳥としています。 

 

 

参考までに

 いつもご愛読いただいて有難うございます。

「前項で狩野派狩野永徳に触れましたので、永徳以外の狩野派の主な人を紹介し・・」と、この項の始めに申し上げましたが、前項の記事をご覧になる場合は、右の欄の「最新記事」の「108 桃山文化2 障屏画(1)」をクリックして頂ければ、その項に飛ぶことが出来ます。

なお、「最新記事」以外の記事をご覧になりたい場合は、次の様にして頂ければその項に飛ぶことが出来ます。

このシリーズのメインタイトルは「式正織部流「茶の湯の世界」」で、各記事毎にサブタイトルがあり、通し番号を付けております。この記事の場合、通し番号は109です。

109の番号の下に小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出て参ります。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易い程小さいです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

108 桃山文化 2 障屏画(1)

 日本史の教科書に必ずと言っていい程載っている大政奉還の場面、その時使われたあの部屋は、二条城の大書院です。大書院は、襖・長押(なげし)の上の壁、天井、床の間など全てに絵が描かれており、とても豪華な部屋です。あのような絵を障屏画(しょうへいが or しょうびょうが)、又は、障壁画(しょうへきが)と言います。

障屏画又は障壁画には、金箔や銀箔、青や緑、赤など極彩色に彩られた金碧障屏画(きんぺき しょうへいがor きんぺき しょうびょうが)又は金碧障壁画(きんぺきしょう へきが)と、水墨画のものが有り、どちらも安土桃山時代に最も輝かしく花開いた絵画です。これらの絵画は、安土桃山時代に突然湧いて出たものでは無く、平安時代からの長い積み重ねの中から生まれて来たものです。

 

大和絵

平安時代遣唐使が廃止されると日本国内に国風文化が育まれ、絵も日本風になって行きました。大和絵と言えば、源氏物語絵巻や伴大納言絵詞などが有名ですが、絵巻物以外にも多くの障屏画が描かれました。残念ながら、それらの多くは戦乱で焼失してしまいました。

大和絵に描かれる題材は、州浜松原、遠山景色など日本の名勝、松・梅や秋草など樹木・花卉(かき)類、物語、似絵(にせえ)(=肖像画)などがありました。それ等は屏風、衝立、軟障(ぜじょう or ぜんじょう)や巻物、掛物などに描かれました。

屏風などは叙任祝いなどの贈答用に盛んに作られました。大和絵の屏風に名筆家の色紙などを張ったものなどは、最高の贈り物でした。

寝殿造は間仕切りが無い為、間仕切り用のそれらの調度は必需品だったのです。

 

大和絵の描き方

大和絵は線描画に彩色したものです。大和絵の絵師になるには、先ず線描きの修行から始めます。線の太さは初めから終わりまで一定で、抑揚は無く、強弱も無く、一本迷いなく引けるようになるのが第一です。そうやって線引きした枠線内を、色ムラが無い様に同じ色で塗って行きます。

対象物に陰影をつけて立体的に見せると言う事はありません。画面構成の中に納めつつも、人物など遠近に関わりなくほぼ同じ大きさで配置します。

写実から離れ、明快で分かり易い絵です。顔料もあまり厚塗りをしません。

もう一つ、吹抜屋台という建物の描き方が特徴的です。屋根なしの室内を斜め上から俯瞰して描いたもので、柱の垂直線と鴨居の斜め平行線で構成された画面に人物を配しています。

 

唐絵(からえ)と漢画

唐絵と言うのは、中国大陸から伝来した絵の事です。大陸から禅宗が日本にもたらされ、交易が盛んになると共に大陸の文物が輸入される様になりました。その頃になると、唐絵と言えば宋や元の絵の事を指す様になります。宋の宮廷画家の絵は彩色されていますが、文人や画僧の絵には墨絵が多く、これらが、それまでの大和絵に多大の影響を与えました。

遠く霞む山、霧の中に浮かぶ樹木、近景の峩々(がが)とした岩肌の山などを、墨の濃淡によって描き分けています。人物画に於いても、風に翻(ひるがえ)る衣の袖や裾を描く線は、太さ細さ濃さ薄さの脈動する様な緩急自在の動きがあり、大和絵の線とは異にしています。

徽宗の「桃鳩図(ももはとず or とうきゅうず)」の鳩の描写は、羽のグラデーションに羽毛の柔らかさが感じられ、鳩の生身の温かさが伝わってきます。桃の花びら一つ一つにも細かい色の変化があり、立体感があります。

この様な唐絵に接した日本の絵師達は、それを自分達の画に大いに取り入れて行きました。

大陸から来た絵を唐絵と言い、それを真似て唐絵風に描いたものを漢画と言います。

 

狩野派の誕生

 戦乱の激動の時代に天下統一の光が見え始め、織田信長の様な新興勢力が現れて来ると、今までにない活気が世の中を動かし始めます。城の建設があちこちで始まり、焼失した寺院の再建があり、そういう所の内装を飾る絵画が、求められる様になりました。そう言う時代の要求をいち早く捉えて、大和絵や漢画の融合した力強い絵を提供し始めたのが、狩野元信です。

狩野元信は、将軍・足利義政の御用絵師だった狩野正信の子として生まれました。彼は才能と才覚に恵まれ、大画面で豪華な障壁画の需要に応える為に、大勢の弟子を育成し、それらを受注して行くようにします。弟子達の画力が高いレベルに達する様、また、彼等の画力が同質であるよう、徹底的に個性の発露を禁じ、師が描いた絵手本を学ばせます。この様に弟子を教育し、時の権力者と結びつき、盤石の絵師集団・狩野派を作りました。狩野派はその後400年以上もの間、日本の絵画史に影響を及ぼし続けました。

 

狩野永徳

狩野派の中でも特に不世出の天才と言われたのは4代目・狩野永徳です。安土城や二条城、聚楽第大坂城等の障壁画は永徳とその弟子達によって描かれました。さぞかし見事なものだったでしょう。残念ながら、安土城と二条城は本能寺の変で、大坂城大坂夏の陣で炎に包まれ落城、聚楽第は破却され今に残っていません。

それでも、狩野永徳の絵で残っているものがあります。

洛中洛外図屏風(上杉本)」「檜図屏風」「花鳥図」「唐獅子図屏風」 等々がそれです。

「檜図屏風」は荒々しい幹肌をドーンと屏風に鎮座させた豪壮な構図で、余計なものをこそげ落しており、生命力が樹神となって屹立しています。

「花鳥図」は聚光院(じゅこういん)にある障壁画で、墨で描かれています。聚光院は三好長慶の菩提を弔う為に、子の義継が建立したお寺です。大きく描かれた梅の樹を見ていると婆には、根方から立ち上がる幹の姿が、悍馬がいななきながら棹立ちする姿に見えてしまいます。稀有の武人・三好長慶への思い入れでしょうか。文人画の梅墨図と違って、筆に早さがあり、鋭く、力強く、エネルギッシュな動きがあります。

 

もしもそこで暮らしたなら 

極彩色の金碧障壁画に囲まれて暮らすなんて、どんな気持ちになるでしょう。きっと婆の様な野育ちの者は、雰囲気に圧倒されて委縮してしまうに違いありません。婆は小さい時、よく部屋の中を駆けずり回って障子を破って叱られました。御殿で暮らす若様や姫様は、襖を破いたことなど無いでしょう。きっときちんと躾けられてお行儀良くしていたに違いありません。また、そこに居る人達も無頼な振る舞いをせず、作法に則った立ち居振る舞いをしていたでしょう。だからこそ無傷で今日まで作品が残っているのです。

そうです。最高の芸術作品はその場の空気を支配します。住まう人の行動を規制し、威厳を与えます。来訪者を威圧し、襟を正させ、大人しく恭順させてしまいます。逆に言えば、何より支配者の権威を示す為に、絵のそういう効果を狙って描かせた、と言ってもいいでしょう。

 

余談  軟障(ぜじょう・ぜんじょう)

 軟障は襞(ひだ)の無いカーテンの様なものです。絹布などに松や吉祥の絵、花や景色などを描き、紫色の布を額縁の様にその布の四辺に付けて、上部に紐を付け、御簾の内側などに掛けます。

令和天皇大嘗祭の時、大饗の儀で、天皇様のお座りになる背後に、まるで緞帳(どんちょう)の様な巨大な松の絵の軟障が掛けられました。

 

余談  障壁画と障屏画

障壁画には、襖絵や天井画、壁張り付け絵、杉戸絵があります。

障屏画と言うのは、それらに屏風絵や衝立絵を加えたものを言います。障屏画の方が含む範囲が広いです。なお、掛け軸などは含みません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

107 桃山文化 1 城郭建築

 桃山文化の謂(いわ)

安土桃山時代と言うのは、1573年(元亀4年)、織田信長室町幕府を倒してから1603年(慶長8年)、徳川家康豊臣氏を倒すまでを言います。その間、たったの30年です。

信長が築いた安土城、秀吉が築いた伏見城跡地を桃山と呼んだのに因んで、安土桃山時代と言います。が、安土城は完成して4年後に落城したので、文化面では安土桃山文化とは言わず、単に桃山文化と言う様になっています。

 

文化区分

時代区分は割と線引きをし易いのですが、文化と言うものはそうはいきません。そこに至るまでの胎動の時期があり、胎動すれば萌芽の期間があり、花開き、爛熟の時を迎え、やがて衰退して、終焉の道を辿ります。衰退期には次の文化の土壌が出来上がりつつある、と言う具合で、なかなか何年から何年迄を区切る、と言う訳には参りません。

例えば、南北朝時代に活躍した佐々木道誉はバサラ大名の巨魁ですが、約250年後の安土桃山時代こそバサラ全盛だったと言っても過言ではありません。と言う訳で、桃山文化と表題にしたものの、織豊期とは厳密に限らず、時代を行ったり来たりしつつ、考えて参りたいと思います。

 

二階建て以上について

桃山文化と言うと、二条城や姫路城などの豪壮、華麗な城郭建築が先ず思い浮かびます。

天に聳える天守閣や御殿、御殿の金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)や彫刻群。そして、縄張りの複雑さ。それ等の見事さは、図録、観光、映像、美術書、城郭研究、文学などの広い分野で多くの人が語っております。婆はそれ故、別の切り口から考えてみたいと思います。

大体日本では、二階建てと言う建物そのものが発達していませんでした。宮殿、寺社建築など殆どが平屋建てです。木造軸組工法で重層建築を造ると言うのは今でこそ在来工法として一般的ですが、鎌倉・室町時代武家屋敷では、政庁や将軍御所は寝殿造り、プライベート空間は書院造と言う具合で、そこには二階建てを造ると言う発想がありませんでした。

宮殿や寺社建築の建物は屋根が大きいので、屋根裏部屋や二階が造れそうですが、元来そういう大きい家に住む人は、とても「偉い人」か仏様です。その上に人が住む空間を造るなんて、恐れ多くて出来ない相談でした。

それが、安土桃山時代になると、天守閣の様な重層建築が現れてくるのです。

 

高層建築は金閣が初?

民家などでは、遠慮しなければならない様な「偉い人」が居ませんから、二階建てを造っても良さそうですが、いや、そんな事をしなくても当時は土地がいっぱいありましたし、平面的に増殖していけばいい話です。 洛中洛外図屏風を見ても民家らしき家はみんな平屋建てです。

そう言う時代環境に在って、安土城の天主閣の様に、居住階を二層、三層、四層と七層まで階を積み重ねる建造物が現れるのは奇跡で、非常に革新的です。古くは、五重塔や楼門に重層の建造物が見られますが、居住性から言えば、人の住めるようなものではありません。

最初に重層建築が現れたのは、足利義満が作った鹿苑寺金閣です。創建当時の金閣は、一階は客殿的役割を果たす部屋、二層目には観音像を祀り、三層目に阿弥陀如来と25菩薩が安置されていたとか。矢張り、人の上に仏様以外の人を住まわせない様になっていました。(千利休木像事件はこの日本的常識を犯してしまった、と言えます)

 

多門城(たもんじょう)  or  多門山城(たもんやまじょう)

 松永久秀が大和の東大寺近くに建てた多門城は、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも、ルイス・アルメイダの書簡文として紹介されています。(以下抄意訳。原文の翻訳文を見ると20行ぐらいの長文です。)

美しく真っ白に輝く壁、立派な瓦、壁に歴史画や花が描かれ、絵画の地は全て金、まるで天国の様に美しく、世界中の宮殿を比べても、これほど善美なものはない・・・故に、これを見る為に日本全国から見物者が来る、と。

多門山城には、城壁上に土塀替わりにウナギの寝床の様に長く続く建物がありました。そこは武器・武具・兵糧等の倉庫の役割と、武者走りと言って戦闘時に武者が詰めて攻撃する役割を持っていました。その長屋の要所に四層の櫓(やぐら)がありました。これを多門櫓と言います。この構造は、後に他の城でも大いに取り入れられました。

この多門櫓が後の天守閣へと発展して行った、と言われています。桃山時代に見る城郭建築がこのころすでに出現していた、と言えます。

 

築城のコストダウン

征服した城の石垣の石や建物を解体して、自分の城造りに再利用すると言う手法は大いに行われていました。そればかりか、墓石を石垣に転用したり、寺の庭石などを奪ったり、石臼など使える石は何でも使いました。

城の白壁もコストダウンの一つの手法です。塗籠づくりの白壁は、土蔵造りと同じです。柱で骨格を作り、竹を編んで壁にして、そこに藁(わら)などを練り込んだ土を張り、その上から漆喰を塗って丈夫な壁に仕上げます。塗り壁の利点は、火矢にも鉄砲にも風雨にも強いことが挙げられます。それと共に、骨格となる木材に「良材」を選ばなくても良い点があります。城郭の骨格を決める構造材や室内に見える柱などは、樹齢何十年、何百年と言った杉材や檜材、松、栗などを選びに選んで、適材適所に使いますが、塗り壁の中に使用する材木は間伐材などで十分間に合います。

 

解放されたゼネコン

戦争が頻繁に起き、砦造りや築城の需要が非常に多くなり、従来の大和大工、京大工と言った工匠組織・座だけでは手が足りなくなりました。地方の田舎大工も建設に組み込まれ、大いに活用されました。これによって技術も地方へ伝搬して行きました。

信長検地によって荘園を失い、財力が衰えた寺社は、匠達を丸抱え出来なくなっていました。匠達の中には雇い主の束縛を離れて自由になる者も多くいました。人的交流が盛んになり、古くからの約束事から解かれて創意工夫が活発になりました。建築の自由度が増しました。建築界のルネサンスがはじまったのです。重層階の建設も難なく進みます。

初め、天守閣は望楼の為に建てました。そこに籠城や最終決戦の場としての役目が加わると、食糧を溜め、武器庫になり、指令本部として滞在出来る様に多少の居住性も加味され、今ある様な天守閣に発展して行きました。

信長が御殿の様な部屋を七層に積み上げて天主閣を造営したのは、戦争では無く平和の城の在り方、権力の在り方を、仰ぎ見る様な形で示したものかも知れません。

 

私的書院から公的書院への変貌

銀閣寺に東求堂と言う建物があり、そこに同仁斎と言う4畳半の部屋があります。同仁斎は書院造の原形と言われております。

違い棚と出窓の様になった文机(書院)があり、書院に文房具などを置き、読書や書き物などをする部屋として主人は気ままに使っていました。親しい友人などは書院に通し、茶などを点てて持て成し、客人など気を遣う相手は対面所の部屋に通して接客していました。

下剋上が進み、世の秩序が混乱して来ると、上下関係を明確にして相手にそれを思い知らしめる必要が出てきました。そして、部屋の設えを上下の身分が分かる様に対面所を書院化し、豪華な演出をする様になりました。

上段の間の上座に、書院の違い棚や床の間、付け書院を一括してまとめて設置しました。容易に上段に近付けない様に、下段の間から上段の間までに段差を付けたりしました。天井も上段の間は格天井(ごうてんじょう)にしました。金碧障壁画の襖を巡らし、来訪者を圧倒しました。

同仁斎が生まれた時代から、応仁の乱や戦国時代を経て来ると、書院は、個人の書斎から権威を示す謁見の間に変化して行ったのです。

 

 

余談  多門山城 或いは 多門城

1573年(天正元年12月)、織田軍に攻められた松永久秀は和議を申し込み、多門城没収を条件に許されました。松永久秀信貴山城に移ります。

1574年(天正2年3月27日)、信長は多門城に入城、翌28日、正倉院に伝わる蘭奢待(らんじゃたい)を多門城に運ばせ、そこで1尺8寸を切り取りました。

松永久秀信貴山城で織田信忠に攻められて落城と共に自害したのが1577年。15代将軍・足利義昭が信長によって追放され、室町幕府が倒れて4年後の事です。多門城は信長の命で破却されました。城は解体され旧二条城に移築されました。石などは筒井城に運ばれたようです。

なお、旧二条城は本能寺の変の時、信長嫡男・信忠の宿所になった為、焼失してしまいました。

なおなお、多門山城と「山」がついていますが、30mばかりの高さの丘に建つ平城です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

106 信長と茶の湯御政道

平蜘蛛の釜を所望した信長は、平蜘蛛ばかりでなく、他の茶道具にも目が無く、これぞと思うものを片端から手に入れようとしました。「名物狩り」と言われるその所業、はなはだ迷惑な行為ですが、信長にとってそれは領地拡大に匹敵する重要な案件でした。

 

信長の出自

織田信長尾張の小さな領主の家に生まれました。尾張守護は斯波氏(しばし)です。斯波氏の家臣の守護代の、そのまた家臣の一人が信長の父・信秀です。

織田信秀が亡くなり、信長は19歳で家督を継ぎましたが、家中の信任極めて薄く、柴田勝家や家老の林秀貞などが弟の信勝(=信行)を担いで謀反を起こす始末でした。そこを何とか切り抜けて織田家の内部統一に力を注いでいる最中、今川義元に攻められてしまいます。

 1560年6月12日(永禄3年5月19日)、彼は桶狭間今川義元を斃しました。尾張の大うつけが今川義元を討ち取ったというニュースは、それまで無名の武将だった信長を一気に世間に押し出しました。

 

恩賞の茶道具

戦国勝ち抜き競争で、信長が勝ち馬になるだろうと予想がつけば、その馬券を買うのがギャンブルの王道です。堺の商人達も公家も旗色を決めかねている武将も、信長の趣味が「茶の湯」とあれば、信長の許に茶道具を献上してその後の誼を宜しくと願うのは、世渡り術のイロハです。

献上品や名物狩りで、茶道具は信長の許に続々と集まりました。そうなると世の中に出回る名物茶器が品薄になり、茶道具バブルが起き、高騰しました。茶入れ一つが一国一城に匹敵するとまで言われる様になりました。

 戦功ある家臣に与える土地に代わるものが、茶道具でした。その茶道具に価値が有ろうが無かろうが、「よくやった!褒美にこれを取らす」となれば、その茶道具は領土代わりに有難く頂戴する様になります。

 

戦の根源は土地問題

源氏、北条、建武親政、足利政権と縦覧してみると、戦の原因の根底にあるのは、土地問題だと言う事が分かります。 

鎌倉時代の戦は、将軍はお飾りで、執権の地位争いと各守護達の土地争いでした。

 建武親政の戦は、公家・寺社と武士の間の土地再配分の争いでした。後醍醐天皇の意向で、公家に手厚く土地が配分されましたので、武士は不満を募らせました。

室町時代の戦は、幕府内の主導権争いと、守護大名家の家督相続争いが全国を巻き込んで行われました。お通夜の席の遺産相続争いと同じです。誰が跡目を継ぐか、跡目即財産継承ですから、それはもう武力を持った者同士、切った張ったの血を見ます。

 

荘園制度の限界

それまで荘園は公家や寺社のもので、それを武家側の守護や地頭と呼ばれる管理人がその荘園を管理し、管理手数料を貰って生活をしていました。守護は荘園の警備係、地頭は年貢徴収係です。管理面積が広ければそれだけ収入も増えました。相模守や摂津守と名乗って広域の国を武士が差配する様になっても、荘園領主にしてみれば荘園を守る犬でしかありません。

ところが、次第に武士達が荘園を押領しはじめ、ここは先祖伝来の土地だと言わんばかりにその土地に根付き始めると、荘園領主と守護達によるそれ迄の二重支配が崩れ出しました。荘園領主達は追い出され、武士達による一重支配に移行して行きました。

 

戦国の農地改革

信長は、幾重にも権利が重なっている土地を正確に実測し、有名無実の所有者を廃し、実際に耕作している農民を登録して一地一作人とした事によって、荘園制度を根本的に崩してしまいました。荘園領主の殆どは土地を失いました。

土地の所有の形を変える事によって、戦の火種を消す・・・それには既得権益を力づくで潰さなければならない・・・潰す作業は、ブルドーザーで全国を地均(じなら)ししてゆく感覚です。彼の天下布武の発想の根源です。

彼の事業は部下の羽柴秀吉に受け継がれ、太閤検地に結実しますが、それにしても、天下布武を実行していくには、先兵になって戦う武将達に与える恩賞が無い。

 

茶器が活躍の場を広げる

 如何に高額な茶器類であっても、それがそこに存在するだけでは意味がありません。信長は茶器類に意味を持たせました。それが、茶の湯を開いてもよろしい、という許可です。

これは利きます。何故なら、人一倍猜疑心の深い信長が、茶会の許しを与える、と言う事は、人と会っても良い、と言う事に他ならないからです。信長の家臣は、主君の猜疑心に絶えず晒されていました。酒席に呼んだ某が怪しい、とあれば追放、領国召し上げ、切腹も強要され兼ねません。

茶器は武辺の働き以上に活躍の場を広げられる道具です。今風に言えば、ゴルフの様なものです。

親交を深める、情報を得る、相手の本心を確かめる、調略する、堺の旦那衆を相手に資金調達をするなどなど、茶の湯を介して非常に多くの活躍の場が得られるのです。それは織田家の外交官になる様なものです。信長から茶道具を賜ると言う事は、そういう事が出来ると言う事です。信長から茶道具が下賜されないと言う事は、茶会が開け無い、と言う事です。手足をもがれた状態の様になる事です。

一国一城に匹敵する茶道具というのは、それを現金化すれば領土と同じ値段になる、と言う事ではありません。美術品として値踏みをすると想像を絶する程の高額になる、と言う意味でも有りません。美術的価値、骨董的希少性で計る値踏み以外の、活躍量と有用性に、その真の値打ちが有ります。

目の肥えた武将や公家・豪商を呼ぶに相応しい茶器を出して茶会をひらく、それこそステイタスです。ヘボ茶道具で茶会を開いても、そういう人達を集められませんもの。

 

余談  九十九髪茄子の運命

 九十九髪茄子(つくもかみなす or つくもがみなす)は唐(から)から渡来した大名物(おおめいぶつ)の茶入です。

本能寺の変の時、信長は多くの茶器類を安土から持って来ていました。本能寺が焼亡した時にそれらの多くは失われてしまいましたが、辛くも助かった茶器類の一つがこの九十九髪茄子です。

九十九髪茄子は初め足利義満が所有していました。それが家臣に下賜されて巡り巡って質屋に入りました。松永久秀がこれを1千貫で買い受け愛玩していましたが、信長の軍門に降る時、九十九髪茄子の茶入れと薬研通吉光(やげんとおしよしみつ)の短刀を献上し、その代りに大和一国を安堵して貰ったと言われております。

信長の手に入ったこの茶入は、本能寺の火を浴びて地肌が荒れ、見る影も無くなってしまいました。焼け跡から発見されて、豊臣秀吉に献上されます。秀吉は見すぼらしくなった九十九髪茄子を好まず、それを家臣の有馬則頼に与えます。則頼没後、再び大坂城に戻されますが、大坂夏の陣で再び戦火を浴びてしまいました。

徳川家康の命により、焼け跡からこの茶入が探し出されましたが、無残に割れていました。破片を集め、漆でつなぎ合わせて元の形に調え、地肌荒れを漆で修復して、見事に蘇りました。家康はこの作業を完璧に行った藤重藤元にこの九十九髪茄子を与えて、以後藤重家に伝来。明治になって岩崎弥之助の手に渡りました。

現在は、静嘉堂美術館が収蔵しています。

 

余談  九十九髪茄子のエピソード

 九十九髪茄子と言う不思議な銘は、伊勢物語から来ています。

女が近頃御無沙汰の男の家へ行き、陰からそっと覗いていると男が歌を詠みました。

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも髪  我を恋うらし面影にみゆ

(百から一引くと白(つまり九十九))。白髪の女が私を恋しいと言って訪ねて来たよ。あれは幻か)

それから男が女の家を訪ねる気配なので、慌てて女は家に戻って寝て待っていました。

さむしろに衣(ころも)片敷(かたしき)今夜(こよい)もや  恋しき人にあわでのみ寝む

 (敷物の上に片方の袖だけ掛けて待っていたけど、今夜も会えずに寝るだけなのかしら)

と女が詠みました。男が哀れに思って、その夜は泊って行きましたとさ・・・

(「伊勢物語  第63段 つくも髪」より抄意訳)

(なお、「茄子」は茶入れの形がナスに似ているから)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

105 平蜘蛛の釜

「平蜘蛛の釜」と言うのは茶釜の銘です。その姿が蜘蛛が這いつくばった形に似ていた事から、「平蜘蛛」と名付けられたと言われています。

織田信長は「平蜘蛛の釜」の所有者・松永久秀に、その釜が是非とも欲しいと幾度も懇願したそうですが、彼は絶対に信長に渡そうとしなかったそうです。それならば力づくで、と久秀の居城・信貴山城を攻囲し、平蜘蛛の釜を渡せば命は助けてやる、と条件を出しました。

久秀はその条件を蹴り、平蜘蛛を叩き割ってから自害したとか、爆薬を釜に詰め、それを腹に抱えて城もろ共に爆死したとか、久秀と平蜘蛛の釜の最期には、強烈な話題がまとわりついています。

 

噂の出所

久秀が平蜘蛛の釜を爆砕してしまった、と言う話は『川角太閤記(かわすみたいこうき)などの後世の書物に書かれています。山上宗二記』では、平蜘蛛は失われた、とだけ書かれています。松屋名物集』では平蜘蛛の釜の破片を集めて復元した、と書かれているそうです。

1577年(天正5年10月10日)、松永久秀信貴山城で自害し、城に火を掛けさせました。彼の首は安土へ送られ、遺体は筒井順慶が達磨寺に葬ったそうです。と言う事は、彼の遺体は形を留めていた訳で、爆砕して亡くなったと言うのは、全くの虚構になります。

 

鉄釜は脆い?

茶釜は鉄製の鋳物です。鋳物鉄の強度というものは、通常の力で叩いて割れるものなのかどうか、やってみた事が無いので、婆は分かりません。

錆の腐食が進んでいれば叩けば割れるかも知れませんが、でも、茶人・久秀が愛した釜です。錆び付かせるかなぁ? いや、錆び付かせないでしょう。いやいや待てよ。逆に発想を変えて、真っ赤に錆び付かせてしまったので、人に見せるのが恥ずかしく、信長の要求に応えられなかった・・・とか。うむ~それも有り得るかも。大切に使い過ぎて普段使いせず、錆びてしまったというシナリオが・・・

 

「窶(やつ)れ」

茶釜には「窶(やつ)れ」と言う特殊な状態のものが有ります。

「やつれ」と言うのは、古びて錆び付いて、何処かが壊れている釜の状態を指します。

 「やつれ」の釜は、うら寂しい冬枯れを「やつれ」に託して味わう、と言う趣向に用います。茶の正月(11月)や年の暮れなどが「やつれ」の出番です。平蜘蛛の釜が「やつれ」だったら、叩いて壊す事も出来るかも知れません。

鉄は熱に弱いです。城の炎上の熱で鉄が溶ければ、釜の破片を集めて復元した、と言う話も怪しくなります。それとも、砕いた破片を家臣が城外に捨てた後に、城を焼いたか・・・

平蜘蛛の釜が密かに久秀家臣の手によって持ち出され、権力者の目に触れる事無く、永遠に秘匿のまま現在も眠り続けていると、いいですね。その場合、錆の塊になって崩壊しているかも知れませんが、それも鉄の天寿。如何に強いものでも形あるものは滅びます。

 

余談  お釜の話 1

松永久秀愛用の「平蜘蛛の釜」には、「古天明」と言う言葉がついています。「古天明平蜘蛛の釜」と言う具合です。「天明(てんみょう)」は産地の名前です。天明で作られた古い釜と言う意味です。

茶の湯のお釜のルーツに、蘆屋釜(あしやがま)と言うのが有ります。福岡県の遠賀郡蘆屋(おんがぐんあしや)の砂鉄で造られ、和銑(わくず)と言う非常に純度の高い鉄を使っている為、500年経っても錆びない、と言われています。蘆屋釜の鉄の厚さは2㎜しか無く、丈夫で軽いそうです。その製法・技法には謎が多く、現代の技術を持ってしても解明できず、未だに完全に復元できないと言われております。

蘆屋釜の庇護者だった西国の大大名・大内氏が滅ぼされると、工人達は各地に散って行きました。彼等は土着したそれぞれの土地の名を冠して、○○蘆屋釜と名乗るようになりました。

現在、重要文化財に指定されている茶の湯釜の9口(くorこう)の内、8口が蘆屋釜です。

一方天明釜(天命、天猫とも書きます)ですが、下野国(しもつけのくに)佐野郡天明(現栃木県佐野市)で16世紀中頃まで生産されていました。野趣あふれる地肌のものが多いようです。信長が柴田勝家に天猫姥口(うばくち)の茶釜を与えたと言う、その茶釜が藤田美術館に所蔵されています。(お釜の数え方は口(くorこう)と数えます)

 

余談  お釜の話  2

茶釜の形は色々あります。真形(しんなり)釜、万代屋(もずや)釜、阿弥陀堂釜、広口釜、姥口(うばくち)釜、肩衝(かたつき)釜、筒釜、富士釜、そして、平蜘蛛の釜などなどです。

真形釜は羽釜です。胴の腰回りに羽が、土星の輪の様なツバがついています。他のは羽落ちして、ツバがありません。平蜘蛛の釜は、丁度マカロンに羽を付けたような形です。

「やつれ」の釜と言うのは前述したように、古びていて何処かが壊れたようなお釜の事を言いますが、壊れている、といっても、ひびが入っていたり、底に穴が開いている様なものでは、勿論ありません(水漏れしてお湯が沸かせません)。

どういうものかと言いますと、羽が損傷している様な釜の事を言います。つまり、羽が綺麗な円周では無く、リアス式海岸の様になっている物です。「やつれ」の釜の殆どが平蜘蛛形の釜です。

近頃では「やつれ」の釜を通販で売っているようです。リアス式海岸の様に成形した鋳型に鉄を流し込んで制作されたものです。不規則に羽の縁がギザギザしていて、それなりにそれらしく見えますが・・・

400年経った本物の「やつれ」を見たことが有りますが、破断面が結構鋭いです。それに、内側に赤錆がびっしり。余程何回もお湯を沸かして錆を除去しないと、お湯に金気の味が出てしまいそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変 

三好三人衆

三好三人衆と言うのは、三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友通(しわなりともみち)の三人を指します。いずれも三好長慶(みよしながよし or みよしちょうけい)の家臣でした。三人衆は、三羽ガラスとかトリオとかの同類の意味です。

三好三人衆が主君と仰いだ三好長慶は、三好之長ー長秀ー元長ー長慶と続く三好本家嫡流の生まれの人です。三好家は代々細川京兆家(ほそかわ けいちょうけ)(細川本家)に仕えて来ましたので、長慶もまた、父・元長亡き後、細川晴元に仕えました。

将軍、晴元、長慶、三人衆の上下関係を>で表すと、将軍>晴元>長慶>三好三人衆と言う形になります。ところが、江口の戦いで、長慶は父の仇の晴元を敗北させ、没落させてしまいました。

晴元は長慶の主君ですが、長慶の父・元長はその晴元によって死に追い遣られたと言う経緯があります。

長慶は主君・晴元を追い払い、将軍>長慶>三好三人衆と言う形に持って行きました。但し、長慶が将軍として推戴していたのは、京都と近江を頻繁に往復していた12代将軍・義輝では無く、堺公方義維でした。

 

義維(よしつな) 

堺公方・義維は、11代将軍・義澄の子で、義晴より2歳年上の異母兄です。何故、長子たる義維が将軍を継がずに、次男の義晴が12代目を継いだのか分かりませんが、義晴の子・義輝から見れば伯父に当たる人です。

武家の習いで義晴は播磨の赤松義村の家で育てられ、後に浦上村宗の手に渡りました。村宗にしてみれば、義晴は戦略上の重要な切り札になります。

一方、義維は阿波の細川之持(ほそかわ ゆきもち)の家で育てられました。細川氏にしてみれば義維は大切な掌中の珠です。

明応の政変で失職した義稙(よしたね)が京に戻り、11代将軍・義澄を近江に追い落として再び将軍になりました。義稙は再任なので12代目とはならず、10代将軍と数えます。

義稙には後継ぎが無かったので、病没した義澄の二人の遺児・義維と義晴を養子にします。

義稙は2回目の将軍職を13年間勤めましたが、管領細川高国と仲が悪くなり京都を出奔,四国の阿波に逃れて病没します。この時、義稙は義維を連れて阿波に落ち延びました。

義維は幼少期に過ごした阿波に戻りました。阿波は義維の故郷の様なものです。そして、細川晴元はじめ三好氏一統や地元の者達から擁立されて、堺に幕府を樹立し、堺公方となります。

 

三好政

義維の家臣・細川晴元は京都政権を打倒すべく、義晴に挑み続けます。晴元の命に従い、三好勢は幾多の合戦に出陣、三好元長討死の跡を継いだ嫡男・三好長慶も、数々の戦に晴元の手足になって働きますが、やがて親の仇が晴元だったと知ります。長慶はかつての敵・細川高国の後継者・細川氏綱の方に寝返り、晴元を攻撃し始めます。江口の戦いで晴元の股肱(ここう)の臣で同族の三好政を討滅します。長慶の追撃を恐れた晴元は、元将軍・足利義晴と13代将軍・義輝を連れて京都を脱出、近江の坂本へ逃亡します。

長慶は主君・細川氏綱を奉じて入洛します。長慶は京都の治安や行政を取り仕切るようになり、次第に京都に足場を築いていきます。その実力は氏綱の影が薄くなるほどでした。長慶は「将軍」と言う旗を立てずに、京都を統治し始めました。

 

義輝 対 長慶

義晴は三好氏の脅威に備えて、銀閣寺の裏山に中尾城を築きます。しかし、義晴は築城途中で病没、その遺志を継いで義輝が受け継ぎ、城を完成させます。

中尾城の戦いは小規模に終わりました。長慶が松永長頼(松永久秀の弟(=内藤宗勝))の別動隊を近江に向かわせ、攪乱しましたので、義輝は中尾城を焼却して撤退します。この戦いで初めて鉄砲が使われ、足軽の一人が死亡したと記録が有ります。

相国寺の戦いでは、長慶・松永軍4万に対して、義輝・晴元側は三好政香西元成を将として3千で向かいます。圧倒的不利の戦いで、義輝・晴元側軍は敗走し、相国寺は炎上してしまいます。

これを見た六角定頼は両者の中に入って和睦交渉を始めます。定頼が亡くなると、その後を息子の六角義賢(ろっかく よしかた)が引き継ぎ、交渉を進めます。

和睦に同意しない晴元はなおも義輝を巻き込んで戦い続け、東山霊山(ひがしやまりょうざん)で戦い、結局、城は陥落、長慶の勝利に終わり、義輝は近江の朽木(くつき)へ落ち延びました。

長慶は、「義輝に従う者の領地は没収する」と通達を出した為、義輝に従った大半の者達は京都に戻ってしまい、義輝に味方する者が無くなってしまいました。長慶の通達に従う者が多かったと言う事は、既に長慶の実効支配がかなり確立していたと言えます。

1558年(弘治4年2月)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)即位に伴う改元は、前例に倣えば幕府との協議で決められていましたが、義輝が朽木に逼塞(ひっそく)していた為にそれがなされず、協議は長慶との間で行われました。近江に居た義輝はそれを知らず蚊帳の外でした。

当時の天下が畿内の範囲を指していた事を思えば、長慶は正に天下取り第一号と言えます。

 

将軍親政

1558年(永楽元年11月)、長慶と義輝の間に和睦が成り、義輝は朽木から5年ぶりに京都に戻りました。義輝は将軍御所に入り、政治に直接関わる様になります。

義輝は三好長慶を幕府の御相伴衆に取り立てました。長慶の嫡男・義長(義興)松永久秀を御供衆に加えました。長慶は政権の中でも中心的役割を果たし、益々権勢は盛んになりましたが、そうなるにつれて旧来の家臣との摩擦も増え、畠山高政六角義賢、伊勢貞孝など、また細川晴元の残党などが反抗しました。三好一族や松永久秀などがそれらを平らげ、幕府に安定をもたらします。

全ては順風満帆の様に見えましたが、長慶に不幸が続き、彼の心が折れてしまいます。長慶の弟・十河一存(そごう かずまさor そごう かずなが)が病死、同じく弟・三好実休(みよしじっきゅう)が戦死し、長慶の一人息子・義興(よしおき(=義長))が22歳で病死してしまいます。長慶は戦死した弟・十河一存の嫡嗣子・重存(しげまさ(=義継))を養子にします。更に主君・細川氏綱が病死、長年ライバルだった晴元も病死し、心のハリを失ってしまいました。

そして、気でも狂ったのか、唯一生き残っていた弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)を長慶の居城・飯森山城に呼び出して自害させ、冬康に随伴して来た家臣も殺害してしまいます。

当時、松永久秀の讒言によって殺したと噂されましたが、今では、その説も含めて、鬱病説や死出の道連れ説、養子・義継の将来の禍根を断つ目的説など多々あります。

長慶は弟殺害を酷く後悔し、その2か月後、冬康の跡を追う様に亡くなりました。享年43歳。

跡を継いだ三好重存、改め義継は、三好長逸三好宗渭岩成友通のいわゆる三好三人衆と、三好家重臣松永久秀の後見を得て三好家を背負って行きます。

 

永禄の変

三好長慶の死によって、将軍親政を目指す義輝にとっては好機が訪れました。義輝は盛んに外交努力を重ね、上杉謙信武田信玄朝倉義景などに上洛を呼びかけました。義輝は又、三好氏や反対勢力を警戒、二条御所の屏や壕などを造り変え要塞化に着手します。

御神輿を担ぐ方としては、御神輿の鳳凰が上に君臨して担ぎ手を指図する様では、担ぎずらくて困ります。大人しく黙って担がれている将軍こそ、彼等が考える最上の将軍です。

三好三人衆にしても、将軍の権威がいや増す義輝よりも、彼等が本来的に擁立しようとしていた堺公方の義維の方を選択しても不思議はありません。

彼等を纏めていた三好長慶、その下で頭角を現してきた松永久秀は、将軍・義輝を頂点とする国内秩序の回復に、幕府と一体になって努力していました。が、彼等三人衆の目には将軍・義輝の懐刀と成り下がったとしか見えませんでした。長慶死後、三人衆の暴発を押えていた重し蓋が外れてしまいました。

1565年6月17日(永禄8年5月19日)、松永久秀が大和に行って京都を留守にしている間に、三好義継松永久道(久秀嫡男)と三好三人衆は1万の軍勢を率いて、義輝の二条御所を襲います。

剣豪将軍と呼ばれたさしもの義輝も、1万の兵を相手には勝ち目がありません。奮戦空しく御所に居た家臣全員が討死、彼もその生涯を閉じました。享年30歳(満29歳)。

 

殺害理由は? 婆流解釈 

義輝殺害については、訴訟のこじれで偶発的に起きた説などの色々な説が出ています。けれど婆は、これは計画的で、初めから義輝の血統を根絶やしにする意図を含んだもの、と見ています。何故なら殺害が女子供まで及んでいるからです。

武家の家では、武士のDNAになる程に骨髄に染みて伝えられている話が有ります。それは平清盛が鬼若丸(=源頼朝)や牛若丸(=源義経)を助命したばかりに、平家が滅亡してしまった、という史実です。

豊臣秀吉が秀次を自害させても未だ飽き足らず、秀次の妻妾と子供や乳母など39名を斬首したのも、秀次の血統を絶やす為です。妊娠していようがいまいが関係無く、それは実行されました。義輝の場合も、子孫根絶やしの考えがあったと、婆は見ています。

そうすれば、彼等が推す堺公方の子・義栄(よしひで)は、安心して将軍職に就くことができますから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)

木沢長政

三好元長は希代の戦の巧者でした。主君・細川晴元の命ずるままに、何時も命懸けで戦ってきました。晴元の強敵・細川高国を大物崩れで討滅し、戦功大いにあった元長。ところが彼に対抗する人物が現れます。木沢長政です。

木沢長政は、守護・畠山義尭(はたけやま よしたか)に従属する土豪です。木沢長政はこうもり的性格で、常に自分に有利な方へと泳ぐ人でした。彼は義尭を離れて細川晴元に接近、京都の守備に就きますが、高国が攻めて来ると京都守備を放棄して行方不明。お蔭で、高国は京都を奪還する事が出来ました。その3か月後に再び現れて大物崩れで戦功を挙げます。その長政が、元長の対抗馬にのし上がってきました。元長にとってそれは我慢のならない事でした。

 

細川晴元、功臣・三好元長を討つ

ここにもう一人我慢のならない人物が居ました。畠山義尭です。

木沢長政は、畠山義尭を差し置いて細川晴元に取り入り、堺政権で勢力を増し重要な位置を占めるようになると、義尭の河内国を乗っ取ろうと謀反に動きます。

1532年(天文(てんぶん)元年5月)、三好元長と畠山義尭は手を結び、長政の飯盛山(いいもりやま)城を攻囲します。木沢長政は晴元に援軍を要請、晴元は要請に応じて、山科本願寺証如(しょうにょ)に依頼、一向一揆を起こさせ、元長・義尭の背後から襲わせます。

1532年(天文元年6月15日)、一揆軍は敗走する畠山義尭を追い、6月17日に自害に追い込み、6月20日、和泉顕本寺(けんぽんじ)に逃げ込んだ三好元長(32歳)を殺害しました。

その頃、細川晴元は、近江公方・足利義晴と義輝父子と和解の方向に舵を切っておりました。堺公方・義維(よしつな)をあくまで守り通そうとして、晴元の心変わりを言葉を尽くして諫める元長を、晴元は疎ましく思っておりました。晴元にとって、三好元長は既に用済みでした。用済みならば、今後の益々の台頭を排除する意味でも、切り捨てるのが彼の流儀です。

 

三好長慶(みよし ながよし)

三好長慶三好元長の嫡嗣子です。父・元長が戦死した時、長慶は10歳でした。彼は、父・元長以上に軍事の才能が有り、また、若くして老練でした。

晴元と木沢が焚きつけた一向一揆の暴走は、留まるところを知らず10万にまで膨れ上がり、大和まで侵攻するようになりました。その勢いは証如の制止さえ利かなくなり、享禄・天文の変へと拡大して行きます。一向宗徒は仏敵・興福寺の堂塔伽藍を焼き討ちし、春日大社の鹿などを食べ尽くしたと言われております。

長慶は当時千熊丸と言って12歳でしたが、三好家当主としてその立場をいかんなく発揮、晴元と本願寺の証如の間に入って和睦の交渉をして、成功させます。彼は、本願寺との和睦に従わない一部の一向一揆軍を撃破、彼等の拠点としていた越水(こしみず)城を奪います。この頃、彼は元服して孫次郎利長と名乗ります。が、婆は分かり易い長慶の名前で通したいと思います。

 

「十七か所」の争い

 長慶は晴元に要求します。父が代官職をしていた河内にある十七か所の荘を、三好政長から自分に替えてくれないかと・・・元長戦死後、その土地の代官は政長に取って代わられていましたので、元に復する事を望んだのです。晴元はその要求を拒否します。長慶は幕府にこの件を訴えます。幕府では、長慶の訴えは正しいと裁定しました。長慶が訴え出た「幕府」は堺公方・義維の「幕府」では無く、義晴の方の「幕府」でした。

12代将軍・義晴は、晴元と長慶に和議を斡旋しますが、不調に終わります。長慶は2千の兵を率い、本願寺の証如の後ろ盾を得て入洛、一方、晴元は細川一族を高尾に呼び集めたので、一触即発の様相を呈しました。義晴は畿内の大名に出兵を命じ、正室と義輝を八瀬(やせ)へ避難させます。万一に備えて軍を配備した中で行われた交渉でしたが、結局、長慶は「十七か所」の代官職を得る事無く妥協して和睦を受け入れます。

彼は本拠地阿波に帰らず越水城に入り、この城を居城と定めて勢力を伸ばしていきます。

 

長慶、主君を替える

 長慶は、細川晴元家臣として畠山氏や遊佐氏と共に、木沢長政を討滅します。(太平寺の戦い)

更に、長慶は六角定頼と共に、細川氏綱と遊佐長教連合軍と戦いました。氏綱は故高国の養子で、残存勢力の中心となって晴元を度々脅かしていました。(舎利寺の戦い)

舎利寺の戦いの勝敗は決せず、和睦します。この時、三好長慶は、敵方の遊佐長教の娘と結婚します。この結婚により、長慶は、遊佐長教から父・元長の死の真相を聞きます。

飯盛山城の戦いの時、元長は背後から一向宗徒に襲われて敗北して自害した事、一向宗徒の一揆を起こさせたのは細川晴元だった事、それを策謀したのは三好政長だった事などを知ります。今まで、細川晴元の手先として働いて来た長慶は、主君を晴元から細川氏綱へ乗り換えます。

1549年(天文18年6月12日)、摂津江口城(現大阪市東淀川区)に於いて、三好長慶三好政長を攻撃、長慶は政長を敗死させます。(江口合戦 or 江口の戦い)

政長を支援していた細川晴元は長慶を恐れ近江坂本まで避難、その時、足利義晴と13代将軍・足利義輝を連れて逃げます。

三好長慶は、細川氏綱と共に上洛し、京都を掌中に納めます。

 

終わりのない戦い

将軍と管領管領と元管領、守護と守護、守護と守護代、兄と弟、実子と養子 等々の間で、大小様々な合戦が毎日どこかで行われていました。義輝が将軍在位期間中、数え切れない程の戦がありました。主なものだけでも、

[ 奥州 ]  伊達氏の父と子の争いが家臣や奥州諸侯を巻き込み、戦争をしています。

[ 関東 ]  里見氏の本家と分家が争い、そこに北条氏が絡みます。この戦いは南総里見八犬伝のネタ元になっています。

[ 関東甲信越 ]  甲相駿三国同盟を結んだ武田氏が上野(こうずけ)(現群馬県)に侵攻、上杉政虎(=謙信)が関東諸将の要請を受けて出陣、途中古河御所(こがごしょ)を制圧し、北条氏側の足利義氏を放逐して代わりに足利藤氏を迎えます。上杉政虎小田原城を包囲しましたが、武田信玄川中島の陽動作戦によって小田原城包囲を解き、帰国します。

[ 東海 ]  駿河の今川と三河の徳川が、尾張の織田と争い、桶狭間で織田が勝利します。桶狭間の戦いは、義輝が暗殺される5年前に起こりました。

[ 北陸 ]  加賀の一向一揆が猛威を振るい、上杉謙信が鎮静に出陣しています。

[ 近畿 ]  将軍を巻き込んで細川、三好、松永、畠山などそれぞれが、同族内で分裂、同盟、裏切りなどを繰り返して戦っていました。

 [ 中国 ]  大内氏が尼子氏を破った後、大内義隆に対して守護代陶隆房(すえ たかふさ)(=陶晴賢(すえはるかた))が謀反を起こし、義隆を自害させました。義隆の子も殺され、大内氏に寄寓していた京都の公家達も殺されました。毛利元就はこれを期に徐々に勢力を伸ばしていきます。 

 [ 四国 ]  四国は細川氏と三好氏の本拠地です。両氏は水軍を保有しており、中央で活躍する細川管領家や三好氏の軍兵供給地にもなっていました。阿波が10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね)の終(つい)の棲家となった事により、義稙の養子であり11代将軍・義澄の実子でもある義維(よしつな)を擁して、前将軍・義晴や13代将軍・義輝に対抗し得る強力な権威ある切り札を保持していました。

 [ 九州 ]  少弐氏は大内氏の侵攻を受け、次第に衰退していきます。そして、少弐氏は家臣・竜造寺の謀反に遭い、滅亡して行きます。大友氏では、嫡子・義鎮(よししげ)(=宗麟)と庶子・塩市丸との後継者争いが有り、庶子派は嫡子派を次々と殺害、嫡子派は主君・義鑑(よしあき)と塩市丸とその生母を殺害しました。義鎮(宗麟)は生き残りました。

 

義輝の治世の太刀

 将軍とは言え、家臣の手を逃れて近江に落ち延びている父の姿を見て育った義輝は、いざと言う時は己を守るのは己のみと覚悟し、武術の稽古に励んだことと思われます。その稽古は若様の手遊(てすさ)びでは無く、真摯なものだったに違いありません。京流剣法を学び、その腕前はかなりの域に達していたと思われます。義輝は剣聖・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)から新当流の剣の奥義を授かりました。その奥義とは人を殺傷する剣術では無く、戦わずして勝つ剣です。その奥義は正に義輝が受け継ぐのに相応しいものでした。

無手勝流をもって治世に活かす方法は、既に卜伝に会うより前に、義輝が編み出していました。それは戦う前に相手の戦意を喪失させる方法です。

例えば、1558年(永禄元年12月28日)、義輝は三好長慶相伴衆に加え、三好義興松永久秀を御供衆にしました。これは破格の扱いでした。何しろ、三好長慶も義興、久秀にしても、将軍の家臣の細川家の、そのまた家臣の身分です。直接口を利いたら「頭が高い、下がり居ろう!」と一括され兼ねない立場です。それが、幕府の地位や役職を与えられたのです。そうやって義輝は三好長慶松永久秀を自分の陣営に取り込む事が出来ました。
また、上記の「終わりのない戦い」で述べた様に、全国で勃発する戦の調停にも乗り出したりしました。そう言う外交努力をし、更に、偏諱を与えたり、相手の官位を申請したりして、宥和の道を懸命に探りました。

けれども、そういう努力が通じない相手も居ます。三好三人衆です。