式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

158 キリシタン(2) 仏教との衝突

今、旧統一教会と政治家の関係が問題視され、多くの場で議論されていますが、この問題は何も今日に限った事では無く、宗教が及ぼす政治や経済、或いは権力への影響は昔から随分言われてきました。

中世に日本にやってきた宣教師達もまた、彼等の個人的信仰心が篤く純粋であったとしても、別の視座に立って見てみれば多くの問題がありました。彼等はキリスト教内の内部抗争、つまり、カトリックや新興のプロテスタントの版図争いや母国の世界戦略などの背景を背負い、布教に寄せる熱意の裏側には、俗世の競争原理が働いていたのです。そして、その先兵となった日本のキリシタン大名も、キリスト教本来の博愛精神から逸脱して、キリスト教を広めるに急なあまり仏教徒への迫害者に変質して行きました。

 明治維新時に廃仏毀釈という悪法がまかり通って、数多くの寺が廃寺に追い込まれましたが、戦国時代のキリシタンの為政者(いせいしゃ)はそれと同じ様な事をして領内を統治しようとしたのです。

キリシタン大名は、自分が良いと思った方向に領民を導くのは「善なる事」、「善なる事」を知っている自分は、迷える人々をそこへ導く責務があると、思い込んだのでしょう。信者を増やす事は又、如何に宣教師に協力的であるかを、国内外にアピールする事にも繋がりました。

南蛮貿易を盛んにして領国を富ませようとする大名は、それで一層キリシタン化に熱を入れました。言う事を聞かない人間は捕らえたり、殺害したり、海外へ奴隷として売りました。日本人の奴隷は従順で礼儀正しく勤勉でしたので高く売れました。

 

平戸での廃仏毀釈

1550年(天文(てんぶん)19年)肥前国 (現佐賀県長崎県)にフランシスコ・ザビエルがやって来て、領主・松浦隆信(まつら たかのぶ)に宣教活動を願い出ました。隆信はポルトガルとの交易に魅力を感じていましたので、それを許可しました。以来、ポルトガル船が毎年の様に平戸に来る様になり、隆信は鉄砲や火薬などを購入する様になります。

1558(永禄元年)、隆信の重臣籠手田安経(こてだ やすつね)が洗礼を受け、生月島(いきつきしま)度島(たくしま)に教会堂を建て、島民を一斉に改宗させてしまいました。領内がキリスト教色に染まって行くに従って、お寺などとの摩擦も増えました。宣教師達は、真言宗の西禅寺の僧と宗論を行います。平戸の仏僧達は次第にストレスを溜めて行きました。

そんな時、ガスパル・ド・ヴィレラ神父が平戸に派遣されました。彼は強圧的で、ザビエルゴメス・デ・トーレス神父が築いて来た適応主義を無視し、アジア人蔑視の目線で布教を始めました。その上、ヴィレラはとんでもない事をします。彼は、仏像は偶像であると考え、平戸島に祀られていた仏像を集めて焼いてしまったのです。西禅寺を初め平戸にある寺々や神社がこれに猛烈に抗議し、一触即発の状態になってしまいました。はじめ、宣教師達を保護していた隆信も態度を硬化させ、ヴィレラを追放してしまいました。

 

宮の前事件 

1561(永禄4)その事件が起きました。

事の始まりは、平戸の七郎宮と言う神社の前で始まった喧嘩でした。宮前の露天商とポルトガル人が、絹織物(綿布との説も有り)の商いを巡って条件が折り合わず決裂してしまいます。互いに激昂し、周りも加わって大乱闘になってしまいました。そこへ武士が仲裁に入ります。

ところが武士が入って来たので、ポルトガル側はそれを日本側の加勢だと思い、対抗する為に一旦船に帰り、武装して戻って来たのです。事態は収拾するどころか火に油。結局ポルトガル側に船長以下14人の死者が出てしまいました。ポルトガル船は港を脱出しました。

松浦隆信はこの事件で日本人側を罰しなかったので、それを知ったトーレス日本教区長は平戸での出来事をインドのゴアのポルトガル総督に報告し、平戸港での貿易から撤退を決定。代わりの港を探します。この様に、宣教師は貿易の可否の決定権を握っており、布教と貿易は切っても切れない関係がありました。

平戸港を撤退した後、トーレス神父はアルメイダ神父に命じて新しい港を探させました。丁度その時、南蛮貿易に食指を動かしていた大村純忠(おおむら すみただ)が、アルメイダ神父に自領にある横瀬(現長崎県西海市)の提供を申し出たのです。1562(永禄5)年の事です。

 

横瀬浦港の焼討事件

肥前の領主・大村純忠は、本当は有馬晴純(ありま はるずみ)の次男です。晴純の次男でしたが、子供のいなかった大村家に養嗣子として迎え入れられました。ところが大村家が純忠を養嗣子に迎えた後に、大村家に庶出の嫡男・又八郎が生まれましたので、実子の又八郎を武雄の領主・後藤家の養子に出してしまいました。又八郎は後藤貴明と名乗ります。この決定は大村家の分断を招き、又八郎支持派の家臣達の中から後藤家に移籍する家臣が続出しました。

さて、大村純忠横瀬浦をポルトガルに提供し、家臣と共に洗礼を受けました。領民にも入信を奨励、大村領内だけでも6万人を超えました。この様に急激にキリシタンが増えた裏には、仏教徒神道信者への強烈な弾圧があったのです。仏教徒の居住を禁止し、寺社を破壊し、先祖の墓も壊しました。仏僧や神官に改宗を迫り、従わなければ殺害しました。仏教を信仰する住民達はキリシタンに反発します。領民の間の亀裂を捉え、後藤貴明が大村純忠を攻めました。

1563.08.15(永禄6.07.27)、貴明は大村家に残っていた貴明親派の家臣達と呼応して謀反を起こさせ、自らも出陣して横瀬浦を焼討しました。開港してわずか1年にして繁栄していた横瀬浦は灰燼に帰してしまいました。

1570(元亀元年)純忠はポルトガル人の為に新たに長崎を提供します。それまで寒村だった長崎は、皆様ご存知の日本一の港町に発展して行きました。思案橋、丸山、上町(うわまち)、下町などなど現在の長崎の地名の中には、かつて横瀬浦にあった地名をそのまま使っているものがあるそうです。

 

大友宗麟、理想郷の夢に沈む

大友義鎮(おおとも よししげ)(宗麟)は、大友義鑑(おおとも よしあき)の嫡男ですが、廃嫡されそうになり、1550(天文19.02)年、対抗馬の異母弟とその一派を粛清して、家督を継ぎました。彼は内政を固める一方、周防国(すおうのくに)大内義隆陶晴賢(すえはるかた)に討たれると、その後釜に異母弟の春英(はるひで)を送り込みました。春英は大内義長と名を改めます。

宗麟は次々と版図を広げ、豊前肥前・肥後・筑前筑後を掌中に収め、自領の豊後を含めて6ヵ国を領知しました。博多港を手に入れた宗麟は莫大な富も掌中に収めます。

宗麟は毛利氏との緊張が高まっている中、宣教師に「私はキリスト教を守っている人間だ。毛利氏はこれを弾圧する側だ。だから私の方に良い硝石をよこし、毛利氏には硝石を渡さない様に」と言う手紙を出しています。

「貿易」と「キリスト教」と「戦(いくさ)」の三題噺がこの手紙にもうかがえます

やがて、宗麟は政治に興味を無くし、1576(天正4)年、家督を嫡男の義統(よしむね)に譲って、その2年後の1578(天正6.07)年、洗礼を受けました。洗礼名はドン・フランシスコです。

1577(天正5)年、薩摩の島津義久が北上し始め、日向国(ひゅうがのくに)(現宮崎県)に侵攻しました。日向の伊東義祐(いとう よしすけ)は一時期領地がかなり拡大し、支城を48も持つ程になっていましたが、奢侈(しゃし)に溺れて人望を失い、島津家に寝返る支城が増える様になりました。島津義久は日向を攻め、義祐は敗れて大友宗麟を頼って豊後に逃亡します。そして、宗麟に援軍を頼みます。

1578(天正6)年、宗麟は義祐の頼みを承知して日向に出陣します。が、実は宗麟には戦意が余り無く、日向を乗っ取ってその地にキリスト教の理想郷を拓(ひら)くのが夢でした。その為、行軍に宣教師を連れていました。彼は理想郷を打ち立てるのに邪魔な神社仏閣を、総なめに打ち壊しながら進軍します。日向の無鹿(むしか)(現宮崎県延岡市)まで来てそこに本営を置き、滞在します。滞在して何をしていたかと言うと、教会を建設していました。それから大友軍は宗麟をそのままそこに残して、本隊は無鹿から更に南下しておよそ30㎞以上も南の耳川まで兵を進めます。耳川を挟んで北に大友軍、南に島津軍が対峙しますが、大友軍は耳川を渡河して更に高城(たかじょう)を攻めます。高城そばの高城川で大友軍と島津軍が激突します。(耳川の戦い」「高城川の戦い」「高城河原の戦い」高城川は現小丸川のこと)

総大将の大友宗麟が後方にあって指揮を執っているならば、将兵も或る程度納得しようと言うものです。が、実際は指揮どころかキリスト教ユートピア建設にうつつをぬかしていました。兵の士気が上がる訳がありません。薩摩軍は大友軍より兵員数は少なかったのですが、「釣り野伏せ」の戦法と言って伏兵や囮(おとり)作戦など戦術の限りを尽くして猛攻、大友軍は算を乱して敗走、耳川まで後退しました。薩摩軍はそれを猛追します。大友軍は耳川で溺れる者多数で、大友軍はかつてない程の大敗を喫しました。

この耳川の戦いで、大友軍は4,000の将兵を失ったと言われています。この敗戦から大友氏の凋落(ちょうらく)が始まりました。再起不能なほどの兵力を失い、与力する者が現れるどころか離反する者の方が多く、龍造寺氏(肥前)や島津氏の草刈り場になって行きました。

ついに宗麟は豊臣秀吉に援助を求める様になりました。これが秀吉の九州征伐に繋がって行きます。

九州平定後、秀吉は宗麟に九州の一国を領する様に計らおうとしますが、宗麟はそれを断り、病に伏すなか、ひたすら祈りを捧げて没したと伝わっています。直後の葬儀はキリスト教式、後に仏式で執り行われました。享年58歳。

 

 

余談  ダンテの「神曲

ルネサンス期、イタリアの詩人・ダンテは「神曲」の中で、ローマ教皇や聖職者達が地獄に落ちてもがき苦しんでいる有様を活写しています。聖職者が神に仕えているからと言って、全てが聖人君子ではありません。ダンテは、欲深き偽善の聖職者達を地獄に落として断罪しています。彼等や、宗教を利用して国を統治していた王侯貴族を痛烈に批判した為に、ダンテはフィレンツェから追放されてしまいました。

  

余談  婆の思い出

婆が子供の頃、宗教勧誘の場面を見たことがあります。

私事ですが、婆の家は母子家庭でした。父と母が別れた頃、或る新興宗教の方がいらっしゃって、家庭が不幸なのは信心が足りないからだ、我が宗教を信じれば幸せになれると説教に来ました。熱心に誘うも靡(なび)かないとなると、もう少し上級の人が来たり、時には数人で押しかけてきたり、それが断続的に何か月も続きました。母はその都度論破して追い返し、仕舞いに相手側も諦めて来なくなりましたが、ご近所の家では、仏壇を庭に放り投げられてめちゃくちゃに壊され、泣く泣く入信したという話を聞きました。

その家はお子さんが病弱でしたので、ご両親は藁(わら)をもすがる思いでその宗教を受け入れたのでしょう。信心すればお子さんは元気になり、幸せになるという謳(うた)い文句は、お子さんの夭折(ようせつ)によって打ち砕かれてしまいました。信心を勧めた方は、「それはあなたの信心が足りないからだ。もっと熱心に信心すれば死なずに済んだ」と言ったそうです。

母は仕事を持っておりました。或る企業の独身寮の寮監、いわゆる末端管理職で、住み込み(婆達子供も一緒)でした。最盛期には寮生が200人を超え、倒産した時に最後まで残っていた寮生は11人。最後の人達の身の振り方を手配して母は退職しましたが、とにかく大変な激職でした。

終戦直後の、左傾化した労働組合員と生活基盤が直接接する立場でしたので、寮生活の改善やら何やらしょっちゅう団交があり、突き上げや吊るし上げがあり、理論武装した闘志達に囲まれていました。血のメーデー事件のあった日の夜など、破けた旗を持った泥まみれのシャツの寮生達が帰寮し、裸電球の灯った玄関の板敷きに、大勢がへたり込んだ光景を覚えております。母は何時も穏やかでした。キレた所を見たことがありません。

母は婆にこう申しておりました。

「勉強しなさい。考えなさい。特に哲学を学びなさい。問題解決の処方箋の様な本(今で言うハウツーもの)は読まなくてもよい。それは相手も読んでいます。同じ本を読んでいる者同士が議論したって、同じ土俵で同じ戦い方で相撲を取っているだけです。それでは解決策は見つからない。それは取りも直さず、著者の手の平の上で双方が踊っているだけですから」

母が薦めてくれた幾冊もの哲学書、不肖の娘の婆は、余り読んでいません。時間が有り余る今になって、いざ読もうとしても、年取り過ぎたせいで頭に入らず、数行読むだけで眠りの世界に入ってしまいます。高卒で就職した婆は、人は皆師と思い、耳学問、目学問、体験学問で学ぶしかありませんでした。その事を愧(は)じ、義母に申しましたら、「気にする事はありません。北政所は小学校さえ出ていらっしゃらないのだから」とにこにこと笑っておりました。

今は、母も義母も既に鬼籍に入っております。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク「地形図」「古地図」「戦国日本の津々浦々平戸」「旅する長崎学「島の館」中園成生さんインタビュー」「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)耳川の戦い」「耳川の戦い高城の画像(その内の数葉)」地域の出している情報」「観光案内」等々。

「印度学仏教学研究第三十八巻第2号「近世仏教と対キリシタン問題」高神信也」

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

157 キリシタン(1) ザビエルの道

茶の湯キリシタン、一見何の繋がりも無いように見えます。が、実は大有りです。

茶の湯を論ずるならば、先ずは禅宗でしょ、と、こう来るのが普通です。けれども、千利休が深化させた侘茶には、キリシタンの影響が多々見受けられ、避けては通れない問題です。

それは、茶湯大名の中にはキリシタンが何人もいるとか、堺の豪商にもキリシタンが居るとか、そういう表向きの関わり方ではなく、それは茶の湯の精神や所作に、全く気付かない程深く潜んでいるのです。謀叛や革命にも発展し兼ねないマグマの様なエネルギーをそれは秘めています。その危険性を察知した秀吉が、利休を賜死に処したと考えても不思議はない、と婆は考えています。

何はともあれ、そのキリスト教を初めて日本にもたらしたフランシスコ・ザビエルの歩いた道を、辿(たど)ってみたいと思います。

 

16世紀初頭のインド・東南アジアの情勢

16世紀初頭のインド・東南アジアの情勢は、香辛料航路の権益を巡って、ヨーロッパ各国が熾烈な争いを繰り広げておりました。

1509年2月3日、ディープ沖海戦があり、ポルトガルインドに圧勝しました。

ディープ沖海戦とは、インド西海岸のディープ沖で起きた海戦です。戦ったのは、ポルトガル帝国に対して、インドのスルターン朝・マムルーク朝カリカットの領主の連合軍です。このインド側にオスマン帝国ヴェネチア共和国が与(くみ)して大いに支援していました。何故なら、オスマン帝国アラビア海の貿易権益をポルトガルに奪われたくなかったし、ヴェネチアは、喜望峰周りの航路がポルトガルによって開拓されれば、地中海航路に依存してきたヴェネチアの繁栄が衰退しかねないからでした。ヴェネチアは、地中海→エジプトのカイロ→陸路→紅海→インド→東南アジアと言うルートで香辛料交易路を握っていたのです。

ポルトガルはインドに勝利し、インド西海岸にある良港・ゴアに要塞を築きました。ポルトガルはゴアをポルトガル領インドの首府とし、サンタ・カタリナ大聖堂を建設、総督府修道院など様々な建造物を建て、町を繁栄に導きました。その一方、ゴアの住民はキリスト教に強制的に改宗させられました。ポルトガルはゴアを拠点にしてマラッカを征服、更に香辛料諸島と言われるモルッカ諸島への航路を開きました。

この様な時に、フランシスコ・ザビエルがゴアに派遣されたのです。

 

ザビエルの来日

フランシスコ・ザビエルは、スペインのバスク地方にあるナバラ王国の貴族の生まれです。父はナバラ王国の宰相を務めていました。が、バスク地方はスペインとフランスの国境地帯にあった為、両国の紛争に巻き込まれてしまい、スペインに併合される形で国が滅びてしまいました。父も亡くなってしまいました。

ザビエルは信仰心が篤く、フランスのパリ大学で学んでいた時に一緒になった友人達と、世界にキリスト教を広めると言う目的でイエズス会を立ち上げ、生涯を神にささげる事を誓い合いました。

ポルトガル王は、ゴアの一層の教化を図る為に宣教師の派遣を決め、世界布教を目指していました。そして、イエズス会にその任を与えます。多少の紆余曲折(うよきょくせつ)があった後、その任にザビエルが当たる事になりました。

彼は1541年4月リスボンを出発、1542年5月にゴアに到着しました。彼はインドやマレーシアのマラッカ、インドネシアモルッカ諸島まで布教に足を延ばし、ゴアに戻りました。

ゴアで、ザビエルは日本人のヤジロウと言う人物に会います。ザビエルはヤジロウの話を聞き、日本へ渡る決心をします。

1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルは他の神父や修道士や従者達、それにヤジロウを加えてジャンク船で日本の薩摩半島坊津(ぼうのつ)に着きました。

 

誤解されたザビエル

ザビエルは許しを得て1549年8月15日に、外洋に面した坊津から錦江湾に面した祇園之洲と言う、桜島の対岸にある町に上陸します。この日は丁度カトリックでは特別の日でした。それは聖母マリアが天国に引き上げられた日(被昇天の日)だったのです。彼は来日の喜びと聖なる日の重なりを思い、日本を聖母マリアに捧げました。

ザビエルは薩摩藩主・島津貴久に謁見し、キリスト教を布教させて下さい、と許しを願います。この時、インドから連れてきたヤジロウに通訳をさせたのですが、「宣教師」も「神」も日本語の訳語が無く、ヤジロウはどうして良いか分かりません。そこで彼は、当たらずとも遠からじ、とばかり、「宣教師」は日本で言えばお坊さんの様なものだ、キリスト教の「神」は全知全能で宇宙を創成した偉い神様だから、大日如来と同じ様なものだろうと思い、「神」を「大日」と訳しました。この様にかなり適当に翻案してザビエルの話を通訳しました。

そこで、島津貴久はザビエルを「天竺からやってきた高僧であり、「大日如来」を信仰する宗派である」と理解しました。ザビエルが仏教の本場からやってきたと思い込んだ貴久は、ザビエルが島津家代々の菩提寺である曹洞宗玉龍山福昌寺に滞在できる様に取り計らい、布教を許可しました。

福昌寺は寺領1361石、最盛期には僧侶1,500人も居たと言う大寺院で、1546年、ザビエルが滞在する数年前に後奈良天皇勅願となった寺です。彼は、福昌寺の禅僧・忍室文勝(にんしつ もんしょう)と頻繁に宗教問答をしております。ザビエルは書簡の中で忍室を激賞しているそうです。

 

キリスト教は仏教にあらず

ザビエルの説くキリスト教は、新しい仏教の一派、譬(たと)えて名付ければ「天竺宗」とでも言う風に受け止められました。ところが、仏僧達と話をしていく内に、男色を容認している仏教界に対して、ザビエルの信仰しているキリスト教はそれを禁止しています。そんなこんなで次第に仏僧達との間で摩擦が増えてきました。これは仏教の一派ではない、と仏僧達は気付き始めます。

島津貴久は、仏僧(忍室かどうか不明ですが・・・)の話を聞く内に、次第にザビエルと距離を取り始めました。当初、キリシタンは仏教の一派であると誤って認識していたものが、実はそれとは全く違う別物と言う理解に至った時、それまで通りホイホイと優遇する訳にはいかなくなったのです。

ザビエルは仏僧達の反目を受け薩摩を離れる事にしました。そして、京に向かいます。

 

周防(すおう)大内義隆

日本全国に布教を展開して行くには、やはり中央に居る日本の王(天皇)の許しを得る必要があると考え、ザビエルは上京します。彼は、上京途中に各地で布教して行きます。薩摩で誤解を与えてしまった失敗を繰り返さない為に、無理やり日本語に直す事を止め、ラテン語で「神」を「デウス」と言うように、はっきりと仏教と区別しました。

1550(天文19)年8月、ザビエル達は肥前国平戸に行き、布教活動をします。そして、平戸での布教の後事をトーレス神父に託して、フェルナンデス修道士と鹿児島出身の洗礼名ベルナルド青年を連れて、10月に平戸を立ち、周防(すおう)に向かいます。周防で大内義隆に謁見しますが、義隆の不興を買い布教の許可は下りませんでした。というのも、ザビエルの様子がとても礼儀を欠いていたからです。乞食の様な汚い旅装のまま、手土産も無く、義隆の放蕩や男色を非難したり、仏教の保護を攻撃したり、これでは、義隆の逆鱗に触れるも当然でした。

 

京にて

12月に周防を立ち岩国から瀬戸内海を船でに向かいます。

ザビエル一行は堺で豪商の日比谷了珪の家に止宿します。日比谷は屋号です。何を商っていたかは分かっていません。了珪は堺奉行の小西隆佐(こにし りゅうさ)と親しく、了珪は京の隆佐にザビエルの紹介状を書きます。それを持って京に行きます。隆佐はザビエル達を歓迎し、京都滞在中の彼等の世話を何くれと面倒を見ました。因みに、小西隆佐は、あのキリシタン大名小西行長の父です。

ザビエルはインド総督とゴアの司教の親書を持参していました。彼は、その親書と共に、後奈良天皇と将軍足利義輝に拝謁を願い出ますが、贈り物を持参していなかったので門前払いを喰らってしまいました。彼は京都で願いが叶わなかったので、献上品を取りに一旦平戸に戻ります。

 

再び大内義隆に会う

献上品が無いと相手にもして貰えないと思い知ったザビエル。また、日本では外見が大事だと学んだザビエル。みすぼらしい服装だと馬鹿にされ、歯牙(しが)にもかけて貰えないと知ったザビエル。ラテン語の件と言い、贈物と言い、服装と言い、一つ一つ日本人を学びながらザビエルは日本に受け入れられる様に努力しました。そして、平戸に置いていた献上品を携え、再び取って返して山口に足を踏み入れます。勿論その時、一行は美々しく着飾り、天皇に奉呈する筈だった二通の親書の外、沢山の西洋の珍しい文物を贈り物として携え、大内義隆に謁見を申し入れます。

贈り物は鏡、メガネ、望遠鏡、置時計、ギヤマンの水差し、書籍、絵画、小銃、洋琴 (ピアノの様な形をした楽器。ザビエルの頃の洋琴はチェンバロハープシコードなどかと思われます)などです。

義隆は大いに喜び、ザビエルに宣教しても良いと許可を与え、信仰の自由を認めました。おまけに大道寺という、空き寺をザビエル達に与えました。

贈物作戦は大成功! (こんな風だから今でも贈収賄事件が絶えないのですね)

ザビエルは大道寺をキリスト教の教会堂に建て直します。日本最初の教会堂です。またこの建物は宣教師達の住居も兼ねました。

彼はこの教会堂で毎日2度の説教を行いました。一人の盲目の琵琶法師が、彼の説教を熱心に聞いていました。後に、この琵琶法師はロレンソ了斎となり、イエズス会には無くてはならない重要な宣教師になります。

ザビエルのこの教会堂での活動で、信者は実に600人にも上ったそうです。

 

大友宗麟との出会い

ザビエルは周防で宣教活動を継続していましたが、インドの情報が得られず、とても気になっていました。そんな時、ポルトガル船が豊後国にやって来た、とのニュースが入りました。ザビエルは教会堂の事はトーレス神父に任せ、彼自身は豊後の日出(ひじ)に向かいます。日出は国東(くにさき)半島別府湾側の付け根にあり、天然の良港でした。ポルトガルの入港地でもあり、ポルトガル人のコミュニティもありました。

1551(天文20.09)、豊後の日出(ひじ)(現大分県速見郡日出町(ひじまち))にザビエルが着いた時、沖に停泊していたポルトガル船が祝砲をあげ、その大砲の轟音に大友宗麟は度肝を抜かれた、と伝わっています。宗麟はザビエル達を招きました。ザビエルは、船長の用意した見事な衣装を着て、楽人達と共に街を練り歩き、宗麟に会ったそうです。

ザビエルとの出会いは、宗麟に大いにインパクトを与えましたが、その2か月半後の11月15日には、ザビエルは日出を出航し、インドのゴアに向かいました。

この時、大友宗麟はまだ洗礼を受けていません。宗麟が洗礼を受けたのは27年後の1578年のことです。

 

最期

日出を出航する時、ザビエルは4人の日本人留学生を連れていました。ベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオという洗礼名を持つ若者4人は、ゴアでパウロ学院に入学しますが、マテオは現地で病死、ベルナルドは更に学問を修めにヨーロッパまで留学します。

1552年9月、ザビエルは再びゴアを出発して中国へ向かいます。日本で布教するには、日本に大きく影響を与えている中国にキリスト教を根付かせるのが一番と、考えたからです。

けれども、上川島(じょうせんとう)(現広東省台山市の沖合)に辿り着いたものの、明の海禁政策により外国人は大陸側に上陸できず、大陸本土に渡る日を待っていました。

1552年12月3日、ザビエルは上川島で病気に罹り、そこで亡くなりました。享年46。

 

 

156 武野紹鴎と今井宗久

人間万事金の世の中と申しましょうか、戦に次ぐ戦で戦費増大する中、結局勝つのは経済力のある陣営です。勝つ為に、富を手に入れる、その富が堺に蓄積されている・・・信長は真っ先に堺に注目します。

1557(弘治3.09.15) 織田信長津田宗及の茶会席に初めて使者を遣わします。それは、信長がまだ海のものとも山のものともつかない尾張の「うつけ」の時代でした。その頃、信長は弟・信行との確執がくすぶっておりました。茶会に使者を派遣した2ヵ月後、信長は弟を清洲城に呼び寄せ殺害します。桶狭間の戦いはその茶会席の約2年半後の1560年です。そんな早い時期から堺を意識していた信長は、恐るべき慧眼の持ち主です。この時の堺の代官が松永久秀。堺は三好一族支配下に在り、三好氏に推戴されていた堺公方(平島公方)・足利義維(あしかが よしつな)の幕下にありました。また、信長が堺に2万貫の矢銭を課したのは11年先の1568(永禄11)年の事です。

(ブログ「143 会合衆 茶の湯宗匠」2022(R4).04.14upで取り上げた内容とかなり重なる部分がありますが、少し視点を変えてお金の面から考えてみたいと思います。)

 

武野 紹鴎 (たけのじょうおう)

武野紹鴎(1502-1555)が大和国に生まれた時は、将軍・足利義澄管領細川政元が対立し、極めて政局が不安定な時期でした。細川政元自身が修験道に凝り、女人を遠ざけた為に子が出来ず、三人の養子を取ったのですが、政元が「永生(えいしょう)の錯乱」で暗殺されてしまいましたので、これにより養子三人による後継者争いが勃発し、より一層の戦乱の世に突入してしまいます。

若狭武田の流れを汲む紹鴎の祖父は戦死、父は放浪し、武田の名を汚さぬ為に改姓します。武田を下野したとの意味で、武野と名乗りました。放浪の末、堺に辿り着き、そこで皮屋(皮革商)を営みます。時あたかも戦時。鎧などの武具・馬具に使用する皮革は必須の軍需物資です。商売が当たり、紹鴎の父は巨万の富を築きます。

紹鴎は、連歌師をしながら茶の湯藤田宗里に習い、その後、宗里の師である村田宗珠(むらた そうしゅ)に習いました。ブログ№137で紹介した侘茶の始祖・村田珠光(むらた じゅこう)の養子、それが宗珠です。そういう訳で、紹鴎は珠光の孫弟子に当たります。

やがて、紹鴎は父の商売の隆盛をバックに京都に上り、そこで学問と趣味の世界に入ります。趣味と言っても単なるお遊びではなく、京都での地歩を固め、上昇する為の手掛かりをそこに求めます。紹鴎は、父祖の地に縁がある若狭国守護・武田元信と親交のあった三条西実隆(さんじょうにし さねたか)に入門し、和歌・古典・連歌・茶などを学びます。

当時の三条西家は、戦乱と言う事も有り荘園からの実入りは少なく、経済的に困窮していました。古典の書写や指導で細々と暮らしを立てていましたが、紹鴎が来る度に持ってくる十分過ぎる礼銭や立派な手土産は、他の多くの公家達が貧窮に追われて地方へ都落ちする中で、それをせずに京都で暮らして行けるだけのものがありました。紹鴎は、実隆を通じて人脈を広げて行きます。朝廷にも近づいて献金を行い、因幡守に任ぜられました。

紹鴎は父亡きあと堺に戻り、大徳寺大林宗套(だいりん そうとう)が開山した南宗寺(なんしゅうじ)で禅の修行に励み、茶禅一味の茶の湯を実践して行きます。

当時の「わび茶」は新興の茶の湯。正統派と言われて京都で行われていたのは、足利義政が東山山荘で行っていた台子点前の書院茶・東山殿の様式でした。

紹鴎は名物を60種も持っていました。侘茶は、紹鴎が広めたと言われていますが、紹鴎の侘茶は本格的なものでは無く、東山殿様式に、唐物では無く和物の高価な名物茶道具を取り合わせた折衷(せっちゅう)型のもの「侘茶もどき」だったと思われます。

 

鉄砲の伝来

1543(天文12.08.25)年、種子島倭寇所有の中国船が漂着し、乗船していたポルトガル人からマラッカ式火縄銃がもたらされました。島の主・種子島時堯(たねがしま ときたか)は1挺2千両で2挺買い求め、鍛冶職人の八板金兵衛に鉄砲を、笹川小四郎に火薬の製造を命じます。

それからわずか半年後に近江国国友で鉄砲の研究が始まり、1544年7月には国友鍛冶が鉄砲2挺を将軍に献上しました。更に1545年には紀伊国根来(ねごろ)で鉄砲が製造され始め、伝来から2年後には種子島で鉄砲の作り方を学んだ堺の商人・橘屋又三郎が国元に戻り、堺で鉄砲製造を始めました。こうして瞬く間に全国に広がり、上記の国友・根来・堺の外、阿波、備前、薩摩、米沢、仙台でも鉄砲鍛冶が興りました。勿論、種子島も製造を始めます。

 

今井 宗久

今井宗久(1520-1593) が生まれたのは、細川京兆家 (ほそかわ けいちょうけ(=細川本家) 家督管領職を巡って、細川高国細川澄元が争い、京都で等持院の戦い」という市街戦が勃発している時期でした。

宗久は大和国の今井村で生まれました。彼は出世を夢見てこの村を出て堺に行きます。堺で倉庫業を営んでいる豪商・納屋宗次宅に身を寄せます。そして、仕事を覚える傍ら、武野紹鴎に茶湯を習います。堺で商人としてやって行くには、茶湯は必須の教養でした。

やがて、宗久は納屋宗次から独立して薬種業を始めると共に、茶の師匠・紹鴎に気に入られて紹鴎の娘婿(じょせい or むすめむこ)になります。

薬種と言うとすぐ漢方薬を思い浮かべます。国内産の薬草ばかりではなく、外国から輸入する動物の角や骨、朝鮮ニンジンなどの植物系の薬など様々あります。中でも重要だったのは、鉄砲の火薬に使う硝石、玉に使うでした。硝石は日本では採れない原料です。どうしても輸入に頼らざるを得ませんでした。

宗久は、戦国の世の需要を見込んで積極的に商売に打って出ます。

1548年、宗久は硝石の独占買占めをします。

1552年、宗久は鋳物師を集めて鉄砲の分業生産を開始、品質にバラツキのない火縄銃を大量生産します。その為、種子島時堯の時は1挺2千両(現代価格にして1,000万円ぐらい(ネット「刀剣ワールド」より))したものが、量産により1挺9石(約100万円(「刀剣ワールド」より))ぐらいまで下がりました。堺の銃は安定した性能を持っており、大名達の注目を集めました。時流を見抜き、打つ手の素早さと的確さが富を呼び寄せ、茶会を通じての人脈作りも功を奏して、会合衆(えごうしゅう or かいごうしゅう)の仲間入りを果たします。

1555(天文24/弘治1.10.29)年、宗久の師でもあり、義父でもあった武野紹鴎は、6歳の嫡子(後の宗瓦(そうが))を遺して54歳で世を去りました。宗久は義弟に当たるこの子の後見人になり、養育します。そして、紹鴎の茶道具類やその他の遺産を管理します。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568(永禄11)年、信長は堺に2万貫の矢銭(軍資金)を課しました。矢銭を課したのは堺ばかりではありませんでした。石山本願寺に5,000貫や法隆寺に1,000貫を課しました。( 2万貫について、現代の価値に直すと幾らになるかと調べてみましたら、人によってそれぞれ条件や換算率が違い、20億円から60億円まで幅があり、はっきりとは分かりませんでした。)

堺では信長の理不尽なこの要求を呑むべきではない、との意見が会合衆の大勢になります。堺には元々町を防衛する為の自前の武力を持っており、更に浪人を雇い入れて強化。壕を深くして信長の侵攻に備えました。それに加えて、昔から縁の有った三好一族の武力を借りて信長に徹底抗戦すれば、信長なぞ撥ねつけられる、と結論づけました。

ところが、その2万貫を要求してきた時期は、丁度信長が義昭を奉戴して上洛を開始した1568(永禄11)年に重なり、破竹の勢いは誰も止める術がありません。

同年9月7日に進軍開始からわずか18日後の9月25日、信長が大津まで進軍すると、大和に進駐していた三好三人衆の内、先ず岩成友通 (いわなり ともみち)が信長に降伏。同じく同月30日には細川昭元三好長逸(みよし ながやす)が城を放棄。10月2日篠原長房阿波国へ落ち延び、池田勝正も信長に降伏する、と言う具合で、バタバタと敗退し、三好軍の強さは信長の前では歯が立たなかったのです。

信長と戦ったら敗ける、と今井宗久は見たのでしょう。1568(永禄11.10.02)信長が上洛した機を捉えて、宗久も単身上洛して信長に会い、名物の茶入れ「紹鴎茄子」と茶壷「松島」を献上して信長と話し合います。講和への道筋をつけ、宗久は堺に戻って会合衆達を説得し、2万貫支払いを受け入れて堺滅亡の危機を回避します。

年を越して翌1569(永禄12)年の1月5日、三好三人衆は京都に入った義昭を襲撃します。「本圀寺(ほんこくじ)の変」です。これは信長に対する三好氏の反撃です。

1569(永禄12)年1月9日、「本圀寺の変」の4日後、堺は信長へ2万貫を支払います。

これにより、今井宗久は信長に気に入られ、多くの特権を手にしました。堺北荘と堺南荘の代官を務めていた今井宗久の代官職をそのまま安堵、摂津の塩の徴収権淀川の通行権、生野銀山の支配(長谷川宗仁と共同)などが、その特権の中身です。そして、今井宗久津田宗及(つだ そうぎゅう)千利休と共に信長の茶頭を務めました。

 

武野宗瓦(たけの そうが)について

今井宗久から養育されていた武野紹鴎の嫡子・武野宗瓦は、長ずるに及んで父・紹鴎の財産を返還する様に宗久に要求しました。紹鴎の茶道具も何もかも宗久が管理しており、と言うより私物化しており、奪われたも同然の状態になっておりました。

宗瓦は父・紹鴎の遺産を巡って姉婿の宗久と争い、信長に裁定して貰いました。ところが、信長と宗久の結び付きは強く、ずぶずぶの関係です。宗瓦は敗訴し、おまけに信長の意に背いたと言う理由で追放されてしまいます。信長亡き後も秀吉からは石山本願寺に内通していたとの嫌疑で追放され(宗瓦の室が石山本願寺の縁者)、不遇は続きました。最晩年の1611(慶長16)年家康の命で豊臣秀頼に仕えましたが、その3年後亡くなります。享年64。

 

宗久、戦場の趨勢を握る

1548年、宗久は硝石の独占買占めをしたと前述しましたが、これはとても重要な出来事です。戦いの仕方が弓矢から鉄砲に移り、火縄銃の性能、その数、使いこなしの熟練度、用兵の仕方などで、随分と軍隊の強さが違って参ります。

堺が2万貫を支払って信長の軍門に下り、堺の火縄銃が信長の掌中に握られた時、信長に敵対する大名達は火縄銃の火薬に不可欠な硝石を入手出来なくなってしまいました。何故なら、硝石は今井宗久が独占輸入しており、宗久と信長の強い互恵関係から、信長のみに硝石が納められる様になってしまったのです。この為、他の大名達は別のルートを開拓して硝石を得るか、自前で生産するしかありませんでした。

日本では硝石は産出されません。ではどうするかと言うと、古土法、培養法、硝石丘法などと言う方法で、糞尿などに含まれる窒素と土壌のバクテリア、灰に含まれるカリウムを反応させて硝酸カリウムKNO₃(硝石)を作り出していました。

古土法は、古い家の床下の土と木灰を水に溶いて煮出し、溶液を煮詰めて硝酸カリウムの結晶を取り出す方法です。(硝石は水に溶けやすいので雨がかからない床下の土が良い、と言われています)

培養法は、蚕小屋の床下に蚕の糞と草を混ぜて何年も寝かせ、土と灰汁を混ぜて作る方法です。

硝石丘法は、人間や家畜の糞尿を野外に積み上げて何年も寝かせ、土と灰汁で反応させて作ります。

硝石を入手できなかった武将は、この様な方法で硝石を手に入れざるを得ませんでした。

1548年以降、宗久の硝石の取引先は宗久の胸三寸にあり、1569年信長が堺を制圧すると、更に入手困難になりました。1570年姉川の合戦、1575年の長篠の戦など大きな合戦だけでなく、大小様々な戦いが、日を空ける事無く続いていた時代、甲斐武田は硝石の入手にかなり苦労していたようです。火薬は戦場で使うだけでなく、訓練用の試し打ちにも必要です。潤沢な火薬があってこそ、練度も上がると言うものです。

 

北野大茶湯

1582(天正10.06.02)年本能寺の変で信長が自害すると、世の主役は羽柴秀吉に移ります。

秀吉は今井宗久を茶人として遇しますが、力を持ち過ぎた宗久をそのまま重用する、と言う事はしませんでした。時の権力者に深入りした者は、次の権力者で失脚するのが世の習い。茶の湯という拠り所を持っていた宗久は、御伽衆として秀吉に仕える事が出来ましたが、主たる茶堂は千利休に代わり、あからさまな冷遇は受けなかったものの、かつての権勢は在りませんでした。

1587.11.01(天正15.10.01)、 秀吉は北野天満宮北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を催しました。老若男女、貴賤卑賤問わず、衣服の善し悪し問わず、唐人などの国籍問わず、しかるべき茶道具無き者は代替悪しからず、と言う触れを出したものですから、大盛況になりました。

この時、千利休、津田宗及(つだ そうぎゅう)今井宗久の3人が茶堂を務めました。

今井宗久の人生にとって一番華やかな一幕だった事でしょう。

1593年、その生涯を閉じました。享年73。

 

余談   今井村

今井宗久の出身の大和国高市郡今井村は、堺と同じく自治を行っていた特殊な村でした。巾3間の壕を3重に巡らし、掘り上げた土で土塁を築き、9つの門を設け、浪人を養って武力を蓄えていました。幾多の戦乱に抗して耐え、破壊を免れて現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されております。

  

余談   土壌と窒素肥料

当ブログの「11 お茶を知る(1) 旨味成分」(2020(R2).05.16 up)で、お茶の旨味には窒素肥料が関係している、と書きました。同時に、窒素肥料による硝酸性窒素亜硝酸性窒素の生成の弊害も述べました。硝石の生産は、この現象と似ています。

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「年表」「地形図」「古地図」「戦国期のお金に関するこぼれ話」「Kyoto Love. Kyoto伝えたい京都、知りたい京都」「Wedge ONLIN 織田信長の資金調達法 家計は火の車でも上洛できる」「なにわ大坂をつくった100人・足跡を訪ねて」「地域の出している情報」「観光案内」等々。その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

155 日吉丸

末は博士か大臣かと、男の子だったら期待もされたでしょうに、オギャーと生まれて「何だ、また女か」と言われた婆。お生憎(あいにく)様、女で悪かったねぇと、心の中で啖呵(たんか)を切りながら、それなら男の子になってやろうと、お小遣いで金槌と鋸を買って木工作をしたり、お転婆して得意がったり、男の子の振る舞いを婆は真似たものです。

今の世の中はいいですね。男女共同参画の時代。まだまだ完全な男女平等ではありませんが、婆の時代と比べると隔世の感があります。金槌と鋸で男の子に成ろうとした少女時代の勘違いは御愛嬌ですが、安土桃山時代まで遡ると、男と女の差別どころか、身分や門地、格式の差別があって、最下層に生まれた者が伸し上がって行くのは並大抵な努力では出来ませんでした。ガラスの天井どころか、鋼(はがね)の天井でした。

歴史上断トツの出世頭・豊臣秀吉はその鋼の天井をぶち破った男です

 

不詳の出自

彼の幼名は日吉丸。ところが、この「日吉丸」、実は名前が違うらしいのです。卑賎出身の秀吉が「丸」の付く名前である筈がない、と言う説があります。牛若丸(義経)や森蘭丸といったような「丸」の付く名前は、身分の有る人や侍の子に許された名前だそうです。当時の名付けのルールから言って、下賤の子にその名前は有り得ない、と言う訳です。

貧農の子、失職した足軽の子、身分ある人の御落胤説、生母「なか」が最初に結婚した木下弥右衛門との間に出来た子、そうでは無く再婚相手の竹阿弥との間にできた子、いやいや「なか」は何度も男と結ばれているので父親は誰だか分からない説など、日吉丸の父親からしてあやふやなのだそうです。

通説では、秀吉の生母「なか」が、最初の夫・木下弥右衛門との間に「秀吉」と「とも」を産んで、その後、弥右衛門が亡くなったので、子連れで二番目の夫「竹阿弥」と再婚、再婚相手との間に「秀長」と「朝日」が産まれた、となっています。これも怪しい説で、よくよく時系列に並べて研究してみると、矛盾点が出て来るのだとか・・・

 

虐待されて

秀吉の少年時代は、継父からかなり邪魔者扱いにされていたようです。

日吉丸は(秀吉の本当の名前が分からないので、ここでは講談でお馴染みの日吉丸にします)、顔が猿に似ていて、赤ら顔で、醜くて、右手の指が6本あって、背が低くてという様な異形の子供でした。竹阿弥は日吉丸を「こいつは俺の子じゃない。先夫の子だ」と思うと、変顔の日吉丸に一層憎らしさが募り、いじめ抜きました。そういう継父・継子の関係は良好な筈もなく、日吉丸は新しい父親に反抗します。日吉丸の扱いに手を焼いた竹阿弥は、近所のお寺に日吉丸を放り込んでしまいました。出家して学問をすれば、少しは増しな人間になるだろうという思惑があったのかどうか分かりませんが、日吉丸から見れば、それは継父から捨てられたも同然の仕打ちでした。そっちがそう来るならこっちだって考えがある、坊主なんかになるもんか、侍になりたいと、お寺を直ぐに飛び出してしまいます。彼は亡くなった実父の遺産を母から幾らか貰い、家出をしました。

継父から虐待されて捨てられて、まるで仁王の足の下の邪鬼のように、踏みつけられていた少年・日吉丸。彼は顔を地べたに押し付けられながら、上目遣いに上を見上げました。彼が見たものは相手の顔では無く、顔の向こうにある無限の青い空でした。

彼が恃(たの)むのは裸一貫の身一つ。知恵と才覚と健康と強気、僅かばかりの餞別を元手に、商売の旅に出ます。針を売り歩いたのもその一つです。売り歩きながら、世の中の情報を集め、自分を活かせる雇い主を探し求めました。

 

処世術

世渡りを上手にしていくには何よりも笑顔が大切です。

世間に於いて身に降りかかる危機のかなりの部分は、笑顔によって回避できます。なぜなら、笑顔に出会って、悪い気になる人が少ないからです。それも、本物の笑顔で無ければなりません。冷笑や侮蔑の笑い、少しでも翳りの有る笑いだと、危機を回避するどころか、身の安全を脅かす事態を招きかねません。

日吉丸は行商をしながら、そういう人の心を敏感に学んで行ったと思われます。また、その裏返しに、満面の笑みで擦(す)り寄って来る人物の危険性も、皮膚感覚で読み取ったと思います。彼は自分の本心を隠すために、ピエロを演じました。相手の心を鷲掴みにする為に、マウントを取らず、従属的な態度を取りながら相手を三方(さんぽう)の上に載せました。そして、その三方を両手で恭しく捧げながら思う方向に持って行く術を身に着けました。

( ※「三方」は神様に捧げ物をする時にお供え物を載せる台。正月の鏡餅を載せる台)

 

就職

日吉丸は放浪をしながら世間情勢を見極め、今川氏ならば就職先に申し分ないだろうと、今川領にやってきます。彼は、今川氏の家臣の、そのまた家臣の松下嘉兵衛之綱に仕える事になります。彼は腰を低くしマメに働きました。どのような仕事でも嫌がらず、創意工夫を凝らして成果を上げました。主君の嘉兵衛もそういう彼を愛で、読み書きやら何やら何かと面倒を見たようです。この時期に、嘉兵衛の手により元服をして、木下藤吉郎と名前を変えました。

この様に、主人から可愛がられれば可愛がられる程、朋輩の妬みを買い、居難くなり、結局そこを辞めてしまいました。

彼は、織田信長に出会い、信長の草履取りという仕事にありつきました。彼は陰日向なく全力でその仕事を努め、信長から重宝されました。そこからが彼の出世の始まりです。周りにはひょうきんな態度で笑いを取り、愛されキャラを演出し、頭の良さを隠し、敵を作らない様に一層の気配りをします。身に染み着いた演技は、持って生まれた性質の如くに彼の「人格」を作り上げました。

 

劣等感

彼の晩年は、善人の好々爺然として語り継がれています。が、彼が心の奥底に隠している出自に関する劣等感、その黒い琴線に触れた者は、皆、悲惨な目に遭っています。

1587(天正15)年、秀吉の異父兄弟と名乗る男が家来を何人も従えて、秀吉に面会を求めて大坂城にやって来ました。秀吉は母の大政所に「こういう人物を知っているか」と尋ね、大政所が「知らない」と言うと、直ちに一行全員の首を撥ね、晒し首にしました。その年内に、今度はわざわざ尾張の国まで行って異父姉妹を探索させ、「秀吉が大出世したから、大阪に行けばいい目にあえる」とだまし、そのつもりで大阪に来た異父姉妹とその身内の女性達を、これも直ちに斬首しました。彼は、貧民の出である事実を完全に隠蔽しようとしたのです。

 

秀吉と明の洪武帝(こうぶてい)

秀吉の人生を見る時、或る人物と非常に似ている事に気付かされます。

それは、明の初代皇帝・洪武帝(こうぶてい)(=朱元璋(しゅげんしょう)です。洪武帝も極貧の生まれで顔が極めて特異でした。彼の肖像画は、威厳に満ちて描かれたタイプと、奇妙にバランスを欠いた顔の、二通りのタイプがあります。

彼の父親は洪水で命を落とし、残された母親や家族は極貧に喘いで飢え死にしてしまいます。彼はお寺に入り、乞食(こつじき)(=托鉢)をしながら各地を放浪します。時あたかも紅巾の乱が吹き荒れ、彼はこの乱に身を投じて頭角を現して出世、ついに皇帝にまで上り詰めます。

 

朱元璋の後継者

朱元璋(洪武帝)には王子が26人居ました。彼は皇太子を長男の朱標(しゅひょう)に定めましたが、38歳で急逝してしまいます。洪武帝は朱標の子・朱 允炆(しゅ いんぶん)を皇太孫に定めます。幼い皇太孫を心配した洪武帝は、将来皇太孫の脅威になる様な人物達を粛清、丞相を務めた様な経験豊富な大臣や、建国の大将軍、有能な官吏などを何らかの理由を付けて一族諸共皆殺しにし、その数は3万を超えたと言われています。

朱允炆が帝位に着き、建文帝となった時、建文帝の手元に残ったのは事なかれ主義の凡庸な廷臣と、無能な軍人ばかりでした。

洪武帝が皇太孫の脅威になりそうな臣下をことごとく殺してしまった結果、建文帝の周りには有能な人材が居なくなってしまいました。その弱点を突き、洪武帝の4男で、北方の「燕」を治めていた燕王・朱棣(しゅてい)が、やすやすと甥の建文帝を攻め滅ぼしてしまったのです。これが3代皇帝・永楽帝(=朱棣)です。

 

秀吉の場合

秀吉は、一粒種の秀頼を心配し、将来の禍根となり得る関白秀次の妻妾や子供達を皆殺しにしてしまいました。その上、この関白秀次と親しくしていた者や、関白と言う仕事上の付き合いで関係していた者達にも連座の罪が及び、大名や公家、町人の中に、死罪や改易、流罪。追放、蟄居などかなりの数の処分が出たのです。関白秀次事件はとても根が深い事件です。

これによって、豊臣政権の永続性が秀頼一本の細い糸に集約されてしまい、結局秀頼の死によって豊臣の世は短く終わったのでした。

この場合、秀次を生かしておいた方が豊臣政権としての命脈は長続きしたかも知れません。ただ、秀次か秀頼かのどちらかが片方に大人しく従っていれば長命政権でいられたかもしれませんが、そうでなかった場合、それぞれの勢力が拮抗しているので、将来的には両者の間での戦は必須だったと思われます。そうなると、天下分け目の大戦になり、漁夫の利は誰の手に落ちるのやら・・・

 

 

154 名物狩りと松井友閑

生きるか死ぬかは運次第の戦国乱世。きつい・汚い・危険の3Kの最たる職業の武士達。

血塗られている日常で得られるわずかな平穏の中に、己を取り戻そうとする時、彼等はそこに心の平安を求めるのでした。それが禅であり、茶の湯であり、能や連歌や諸芸の世界でした。

よく、「明日地球が滅亡すると分かった時、あなたはそれまでの時間に何をしますか?」と言う問いが出される事があります。その様な前提で作られた映画やドラマが数多くあります。それぞれの状況で答えは千差万別ですが、戦国武将達にとって、その問いは常に喉元に突き付けられている刃の切っ先でした。

藤堂高虎「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。」と言ったそうです。

そういう人達にとって、平安の時は至高の一瞬でなければなりません。

 

真善美の茶の湯

大名の茶の湯と言うのは、唐物趣味で、高価な茶道具を集めて自分の財力と権力を誇示し、およそ茶の精神とはかけ離れた成金趣味と、誹(そし)られる風があります。もっと言えば、道具自慢の茶の湯であって、名物を見せびらかして自慢し合っているだけだ、と。そこに精神性も奥深さも何も無い。秀吉の黄金の茶室などその最たるものだ、キンキラキンのピッカピカではないか、と言われます。特に「侘茶が命」の方々にはその傾向が強いです。

が、少し立ち止まって考えてみて下さい。その時代が産んだもの、その国が一国の精華として世に送り出したものを集めて、生死の合間に愛玩したいと思う心は、決して成金趣味ではありません。彼等はその為に作法を磨き、無駄の無い美しい挙措(きょそ)に心を砕き、それらの道具類に相応(ふさわ)しい態度を養おうと自分を律して修練して、真善美の極致に身を置こうとします。

大名茶(書院茶武家茶)は「侘び」「寂び」とは無縁の茶の湯です。そこにあるのは「善美」の喜びです。良いものに触れて喜び、眼福を愉しみ、明日の死を忘れて夢中になれる様な一刻を求める茶なのです。

加藤泰と言う槍術自慢の殿様が、金森重近(=宗和→宗和流茶道の創始者)に茶会を開いて欲しいと頼み、茶席に臨(のぞ)みました。隙あらば・・・と点前の綻(ほころ)びを窺(うかが)っておりましたが、最後まで一点の隙も無く、その見事さに感服したと言う話が伝わっています。

 

謎の人物・松井友閑

信長に「人間五十年・・」の幸若舞を教えた松井友閑は、明智光秀がそうであったように、信長に仕えて頭角を現すまでの前半生は謎に包まれています。友閑は後に信長の懐刀として辣腕を振るい、優れた鑑定眼によって名物狩りの主導的役割を果たしました。

ウィキペディアでは、『友閑は、京都郊外の松井城で生まれ(中略)、12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、(中略)永禄の変で義輝が三好三人衆らによって殺害されると、後に信長の家臣になった』と紹介されています。Japanese Wiki Corpusでは信長公記の記載により尾張国清洲の町人出身と推定されている。しかしルイス・フロイスは友閑のことを「以前に仏僧であり」と記しており・・』と書かれており、また、能楽師だったと言う説も有ります。

 

友閑とは何者?

幕臣、僧侶、町人、能楽師という四つの言葉のどれが本当の友閑の経歴なのか、分かりません。が、永禄の変の時、将軍義輝と共に討死した侍の中に、松井新三郎と言う武士が居て、新三郎の兄に友閑と言う名前がありますので、松井家が幕臣だった、というのは間違い無い様です。

友閑が元は僧侶であった、と言うルイス・フロイスを信じれば、松井家が幕臣だった事と考え併せて、義政の時代の三阿弥の様に、芸術・芸能の分野で幕府を支えていたのかも知れません。或いは文官として事務方を担っていたとも考えられます。(※ 三阿弥は能阿弥・芸阿弥・相阿弥の父子孫三代で、芸能を持って幕府に仕えた人達)

どの様な経緯で友閑と信長が結びついたのか、その辺の事情は想像を働かせる外は在りませんが、多分、友閑は三好長慶が支配している京都を逃れ、尾張清洲に流れ着いたのではないかと思います。彼はそこで、市井(しせい)に身を置きながら茶の湯能楽を教えて暮らしていたのではないかと、婆は想像しています。

 

「うつけ」と友閑

そういう友閑に、年がら年中領内をほっつき歩いていた「うつけ」の信長が目を止めます。二人は意気投合。信長は友閑から幸若舞を習いながら彼の深い教養に惚れこみ、急接近したのではないかと、話を組み立ててみました。

信長の父・信秀も、傅役(ふやくorもりやく)平手政秀も一流の文化人で、茶の湯や能、連歌などに達者な人でした。そういう環境に育った信長は、親を見てそれなりの下地が出来ていた、と思いたいのですが、いやいやどうして、彼は親や傅役の言う通りに育つような素直な子では無く、反抗期真っ盛り、傅役の政秀が諌死(かんし)する程のうつけ者でした。

それが、1553年(天文22年4月)、尾張国境付近の聖徳寺斎藤道三と会見の時、信長はそれまでの異様な風体を脱皮して、いきなり威儀を正し、他を圧倒する様な立ち居振る舞いをしました。普通の人では出来ない事です。付け焼刃の礼儀など、5分もすれば馬脚を現します。信長の変身は本物でした。だからこそ人物を見抜く目をもった道三を唸らせたのだと思います。その礼儀作法は友閑仕込みだったに違いありません。もし、婆の想像通りなら、友閑は幕府中枢の将軍御所にいた筈ですから、本家本元の礼儀作法を信長に伝授していたのでしょう。

 

友閑登用

信長が桶狭間の戦いで名を上げ、更に、足利義昭を奉じて京都に入洛するという意思を表明すると、足利幕府再興を願っていた友閑は、舞の師匠と弟子の関係を家臣と主君という関係に改め、彼は全力で信長を支える様になりました。

義昭の上洛を成功させた信長は、一躍注目を浴び、多くの人が信長の下に寄ってきました。彼等は、信長が茶の湯に傾倒していると知ると、進んで茶道具を献上しました。また、信長に恭順を示す証(あかし)に秘蔵の茶器を差し出す者もいました。それは信長の茶道具愛を更に増長させ、ついには「あの人は名物を持っている」と噂があると、その者達へも触手を伸ばす様になりました。

信長は、松井友閑と丹羽長秀を堺へ派遣し、大文字屋宗観から「初花」の茶入れを、祐乗坊所持の茶入れ「富士茄子」をと言う具合に、堺の豪商達から幾つもの茶道具を強引に手に入れて行きます。勿論、タダで巻き上げたのでは無く、金・銀・米などで対価を払ったのですが、このように盛んに名物狩りを行いましたので、信長の下に茶道具が一極集中。なので、市中で茶道具が品薄になり、道具の高騰を招きました。

それらの品を鑑定したのが松井友閑です。友閑は信長の御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)の推進役でした。信長はそれを土地の代わりの恩賞として武将達に与えました。

 

信長の懐刀

松井友閑は、信長に右筆(ゆうひつ)に任じられました。文書発給などの政務に携わる傍ら、信長政権の財務を担当し、堺の代官にも任じられています。また、敵対している勢力との外交交渉などにも当たっています。

例えば、石山本願寺との戦いの一環で高屋城の攻防の時、三好康長の降伏を仲介し、許されています。信長は石山本願寺攻めをなおも継続しますが、武田勝頼が西進して長篠に迫ったとの報に接し、信長は戦を中止して長篠へと向かいました。その時を捉えて本願寺側は松井友閑と三好康長に頼んで和睦を申し入れ、これを成立させます。尤も、この和睦はすぐ破られ天王寺の戦いへと続きます。本願寺戦の最中、荒木村重松永久秀の謀反が勃発、友閑はその説得も携わっています。

有岡城荒木村重を説得しに行ったのは、1回目は福富直勝佐久間信盛2回目に説得に赴いたのは村重の妻が明智光秀の娘だったので、明智光秀羽柴秀吉、万見重元、そして松井友閑。それでも駄目だったので黒田官兵衛が単独説得に向かいます。結局この時の説得は成功しませんでした。松永久秀の時も上手くいきませんでした。

そういった政務の合間に信長が開く茶会の茶頭を務めたり、東大寺蘭奢待の切り取りの時の9人の奉行の内の一人になりました。

(※ 蘭奢待9人の奉行:松井友閑(宮内卿法印・正四位下)、武井夕庵(助直:二位法印)、菅谷長頼(すがや ながより)塙直政(ばん なおまさ=原田直政)、佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀、蜂谷頼隆、荒木村重。以上に加えて外に津田坊)

堺の代官に任じられたことから、堺の豪商や茶人達とも交流があり、津田宗及とも親しく交わっていました。

本能寺の変の時は堺で徳川家康一行を接待しておりました。本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えました。が、1586年(天正14年)突然「不正」を理由に秀吉から罷免され、政治の表舞台から消えてしまいます。その後の消息は不明です。

そして、それから5年後、またもや一人の傑出した茶人がこの世から退場させられました。千利休です。利休が秀吉から切腹を命じられたのは、1591年4月21日(天正19年2月28日)のことでした。

 

 

余談  松井友閑と武井夕庵 (たけい せきあん)

松井友閑をNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出て来る人物に譬(たと)えれば、将軍・源頼朝を文官として支えた大江広元に相当します。広元は頼朝に次ぐ官位の正四位下に任じられており、13人の御家人達の誰よりも位が上でした。

松井友閑の官位も正四位下で信長に次ぐ位であり、織田信忠と同等です。他の家臣の追随を許していません。ただ、信長が友閑に全幅の信頼を置いていたか、という視点で見ると、どうもそうでは無い様な気が、婆はしています。

友閑と同じ右筆で、武井夕庵と言う人物がいます。

夕庵が仕えた主君は、土岐氏斎藤道三、義龍、龍興、織田信長の5人です。信長の右筆であり、茶人です。毛利氏との交渉や朝廷との取次など重要な案件を任されました。蘭奢待を切り取る勅許を得て、正倉院に赴いた奉行の一人でもあります。二位法印となり、安土城の夕庵邸は織田信忠に次ぐ好立地を与えられました。

また、茶席の席次では信忠(正客)の隣(次客の席)に夕庵が座りました。この時に点前をしたのが松井友閑ですから、友閑が次客席に座る事は出来ませんが、功臣綺羅星の如くの席で、次客席に座ると言うのは、厚遇この上ない事です。

夕庵は癇癖性の信長に恐れも無く諫言できる唯一の人物であり、信長から絶大な信頼を得ていました。本能寺の変後は隠退し、逼塞しました。

 

余談  宮内間道(くないかんとう)

宮内間道とは、裂地(きれじ)の模様の名前です。間道と言うのは縞模様の事を言います。

宮内間道は幅広の縞と細い筋の縞が交互に織り出されており、幅広の縞は細かい幾何学模様や唐草模様が織り込まれ、赤・茶・緑・黄色など多彩な色糸が使われているにもかかわらず、全体的に見ると落ち着いた赤茶色系に纏められています。この裂地は堺奉行・宮内法印・松井友閑が所持していたので、裂地銘に宮内間道と言う名前が付けられました。

 

 

153 人間五十年 下天の内を・・・

人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 

一度(ひとたび)生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか

 

ご存知、信長の愛した幸若舞「敦盛」の一節です。

桶狭間への出陣を前にして、人の寿命は五十年、この世にオギァーと生まれたからには、必ず死ななければならない、と謡い、人生の儚(はかな)さを舞う信長に、齢80の婆が痺れてしまうのですが・・・ちょいと待て! そう単純ではないと押し止(とど)める声が聞こえてきます。

 

「にんげん」と「じんかん」

冒頭の「人間」を「にんげん」と読むか、「じんかん」と読むかで、諸説分かれています。

普通は「にんげん」と読んでいます。「じんかん」と読んだら、それは間違いだと訂正され兼ねません。漢音読みと呉音読みの違いだから別に拘(こだわ)る必要など無いと考える方もいらっしゃいます。皆んな「にんげん」って言っているから、「にんげん」って読めばいいじゃないか、考える必要ないよ、と言う人も居ます。けれど、「人」と表現する場合と、「にんげんと読む「人間」」と「じんかんと読む「人間」」とでは意味合いが違ってきます。

「あの人は・・」「この人は・・」と話し始める時と、「あの人間(にんげん)は・・」「この人間(にんげん)は・・」と話し始める時では、その後に続く話の内容が違って来るように思います。発音の響きが「人間(にんげん)」と言った方が少し堅苦しく、ちょっと学が有りそうに聞こえます。加えて、「あの人」は個人を指しているのに対し、「あの人間は」と言った場合、その人の個性や人格をステレオタイプ化して、或る属性に嵌め込もうとする心が見え隠れしますし、話す人と噂される人との間の親密度に距離を感じます。

では、「人間(じんかん)」と言った場合、何が違うのか、と言いますと、「人」個人を指しているのでは無く、「人」と「人」との間、間合い、つまり人が構成している世の中、人間関係、社会、或いは人間世界を指して言っていることになります。

 

下天(げてん)

天上界には六道と言う世界があるそうです。六道と言うのは、天上界(人間の世界より苦が少ない)人間界(四苦八苦がある世界)修羅界(怒りと争いの世界)畜生界(獣や鳥、虫等の弱肉強食の世界)餓鬼界(嫉妬や我執や欲望の世界)地獄界(もっとも苦しみの多い世界)という世界です。下天と言うのは、その中の最下層の地獄の世界を指すそうです。

人は死ぬと、閻魔様の裁判を受け、その罪に応じて天界のどれかの世界に振り分けられるそうです。そして、そこで一生を終えます。終えたらそれで輪廻転生の無い極楽浄土に行けるか、と言うとそうでは無いそうです。又、別の六道の世界に生まれ変わる、と仏教では説いております。これが、六道輪廻です。

例えば仮に、人が死んで閻魔様によって修羅道の世界に振り分けられたとします。修羅道で「つとめ」を終えて寿命が尽きたら(あの世でも死ぬそうです)、次には餓鬼道や地獄道などの別の世界に転生するそうです。そこでも「つとめ」終えて、やれやれいよいよ極楽浄土に行けるかと言うと、更に別の世界に生まれ変わるそうです。そうやって、ランダムに、ぐるぐると六道を回って永遠にそこから抜け出せないのが輪廻の世界だそうです。唯一、そこから救い出してくれるのが地蔵菩薩だと、聞いたことがあります。

 

あの世の時間

浦島太郎は竜宮城で楽しく3日間を過ごしました。彼が竜宮城から地上に戻ってみたら、住んでいた家も村も無く、知らない人ばかりの世の中になっていました。竜宮城の3日間は、地上では300年に相当したのです。十年一日どころか百年一日だったのです。

下天の1日は人間界の50年で、しかも下天での寿命は500年と言われています。この伝で行くと下天で500歳になり転生の時を迎えたならば、人間界では何百万年も経っている事になります。

これが下から二番目の化天(けてん)餓鬼界(欲の世界)になると、1日が人間界の800年になるそうで、そこの寿命が8,000歳だそうですから、1日800年で1年365日として8,000歳まで計算すると、人間に直すと何十億歳になるのかなぁ・・・

永遠に輪廻転生を繰り返すあの世の時間に比べれば、人間界に生きている50年と言う時間はほんのわずかにしか過ぎません。

こう考えて来ますと、人間を「にんげん」か「じんかん」かの読みを考える時、「下天」の時間に比べて人間に流れる時間を言っているのですから、対する言葉は個々人の寿命を言っているのでは無く、「人の世」、つまり、「じんかん」の言葉の方が、文脈としては合っています。

輪廻転生の生と死を永遠に繰り返して行くのが、生きとし生けるものの定めならば、人間に転生したその時間はほんの一瞬。ならば、その一瞬を生き切って見せようと、信長はこの一節を愛したのかも知れません。

人生五十年だから、何時死んでも五十歩百歩、そう諦観し切って桶狭間に出陣したのではなく、人間の姿をして生きている時間は一瞬だからこそ、全力投球して戦いに臨んだのだと、婆は思います。

 

 

 

152 本能寺に消えた茶道具

形あるものは壊れ、生きるものは滅し、会うは別れの始まりとか。

俗人の悲しさ、この教えに頷くも執着を拭い去れず、本能寺の猛火に消えた数々の茶道具が、今もし目にする事が出来るならば、どれほどの眼福に浸れるものかと、唯々残念でなりません。

信長が京都で茶会を開く目的で、安土から本能寺に運び込んだ茶道具類は、『仙茶集』に記録されております。その数38点。焼け跡から助け出された茶道具はたったの二点ですが、『仙茶集』に挙がった茶道具の銘を辿りながら、どのような物だったのか空想してみたいと思います。

茶道具の銘

1. 九十九茄子(つくもなす) or 附藻茄子(つくもなす)

茄子と言うのは茄子の形をした茶入の事を言います。茶入れは抹茶を入れる陶器製の小さい壺型の容器です。九十九茄子と言う茶入は唐物の茶入れです。「九十九」の銘の由来は伊勢物語から来ています。

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも(九十九)髪 

                                                    われを恋うらし面影に見ゆ

百から一引くと白になり九十九(つくも)。白髪のおばあさんが私に恋しているようだの意。

本能寺の変で九十九茄子は火を浴びて肌が荒れて見るも無残になりました。焼け跡から見つけ出した後、秀吉に献上されますが、大坂城落城の時に再び炎に包まれて破損。家康の命により探し出され、破片を拾い集めて繋ぎ合わせ、漆で地肌を整えて元の姿に戻します。修復したのは藤重藤元。家康は藤元にこの九十九茄子を与えました。現在は静嘉堂美術館が所蔵しています。

    (参照 ブログ№106「信長、茶の湯御政道」  2021(R3).06.30up )

 

2. 珠光茄子(じゅこうなす)

村田珠光が愛した茄子形の茶入です。九十九茄子よりも少し小ぶりだったようです。滝川一益が、甲斐武田征伐の時の恩賞に珠光茄子を望んだところ、願いが聞き届けられず、代わりに関東管領を命じられた、と言う事で、がっかりしたという話が伝わっています。

(参照  ブログ№137 「村田珠光」  2022(R4).02.27 up)

 

3. 円座肩衝(えんざ かたつき)

肩衝(かたつき)と言うのは、肩が張っている壺の様な形のものを言います。

円座と言うのは、丸く編んだ敷物の事を指します。ここで言う、円座肩衝とは、円座の上に乗った様な形をした茶入という意味になります。畳に置いた所を見ると、茶入れの底、つまり畳付(盆付)が、本体の底の直径より僅かにはみ出していて、それが円座の上に据えた様に見える事から円座肩衝と呼んでいます。

 

4. 勢高肩衝 (せいたか かたつき)

勢高(=背高)肩衝は唐物大名物です。背が高い肩衝茶入の意味で、高さが8.8cmあります。本能寺の炎に焼かれて地肌が荒れてしまいましたが、焼け跡から救い出されました。

最初の持ち主は畠山家臣・飯盛山城主・安見宗房(=遊佐宗房)。それから住吉屋の手に渡り、織田信長所有となります。信長から秀吉へ、更に利休七哲と呼ばれた武将・芝山監物(=宗綱)が所持。その後古田織部が手にし、織部はこの茶入を愛用したそうです。織部から家康に移り、徳川将軍家に代々に伝承されました。8代将軍徳川吉宗の代の時、伊勢神戸藩主にして茶人の本多忠統(ほんだただむね)が勢高の持ち主になります。明治以後、藤田財閥の総帥・藤田傳三郎(=香雪)が蒐集。その後、大阪の幸福銀行の穎川(えいかわ)徳助が穎川美術館を設立し、そこにこの茶入が収められました。が、銀行が経営破綻し、美術館は解散しました。現在は兵庫県立美術館西宮穎川分館に移管されている筈です。

 

5. 万歳大海(ばんぜいたいかい)

大海と言うのは、大ぶりな陶器製の茶入れの事です。形は、扁平の球体で、およそ直径が8.5cm~9.5cm、高さがおよそ4.5cm~5.5cm位で、丁度温州みかんの様な形をしています。万歳大海もこの様な形をしていたと思われます。

 

6. 紹鴎白天目(じょうおう しろてんもく)

紹鴎と言うのは堺の茶人・武野紹鴎の名前から来ています。紹鴎が所持していた白天目茶盌という意味です。

天目茶碗には、禾目(のぎめ)天目、油滴(ゆてき)天目、曜変(ようへん)天目等があり、べっ甲天目(飴色)、木の葉天目等もあります。日本では瀬戸の菊花天目や、美濃の白天目があります。

白い色は清浄の象徴ですので、白天目茶碗は神仏への献茶の時に用いる事が多いようです。龍刻堆朱の天目茶碗台に白色天目茶盌を載せる、と想うだけで、華やかな気分になります。

  (参照: ブログ№117 「桃山文化11焼物(2)・茶の湯」 2021(R3).09.17 up)

 

7. 犬山灰被(いぬやま はいかつぎ)

灰被と言うのは、灰被天目茶盌の事と思われます。灰被天目と言うのは、茶盌を焼く時、薪の灰を被ってしまい、それが茶盌の地肌に付着して雪のむら消えのような独特な模様を創り出し、侘び茶の世界では珍重されています。「犬山」と冠しているので、美濃の産と思われます。

 

8. 珠光茶盌(じゅこうちゃわん)

珠光茶碗は村田珠光が愛用していた茶盌で、「わび」茶の典型的な素朴な茶盌だったと思われます。珠光は貧乏だったので、銘碗など極上の茶盌などは買えず、格落ちして撥ねられた茶碗を買って愛用していました。ただ後になると、「珠光が使った」茶碗と言う事で、値段は目の飛び出る程高くなったようです。

   (参照  ブログ№137 「村田珠光」  2022(R4).02.27 up)

 

9. 松本茶盌(まつもとちゃわん)

最初の所持者は松本珠報です。それから大内義興・義隆へ行き、京都の町衆茶人・藤田宗理の手へと渡って行きます。それから何人かの手を経て安宅冬康、天王寺屋宗伯(津田宗伯)、住吉屋宗無と経て、織田信長が入手します。そして、本能寺の変で焼失してしまいます。

 

10. 宗無茶盌

宗無茶碗は、住吉屋宗無(すみよしやそうむ)が持っていた茶碗です。

宗無は堺の商人の一人で、名は久永と言います。信貴山城城主・松永久秀庶子と言われております。茶は武野紹鴎、剣を上泉伊勢守秀綱に学び、信長・秀吉とも深い交流を持っていました。

 

11. 高麗茶盌(こうらいちゃわん)

高麗茶碗は朝鮮半島で焼かれた茶碗で、庶民が日常で使っていた茶碗の事を言います。当時の朝鮮の貴族は、庶民向けに作られた茶碗などには見向きもせず、中国から輸入した青磁など姿かたちが整った食器を使っていました。それに対して、日本では侘茶の流行が相まって、高麗茶碗の素朴で力強い造形が持て囃される様になりました。中でも、井戸茶碗が珍重され、他に三島、粉引(こひき)、刷毛目(はけめ)などがあり、日本からの発注で作られた御所丸や伊羅保(いらぼ)などがあります。

 

12. 数の台二つ

恐らく、数ある台の内の二つ、と言う意味でしょう。台とは、茶碗を載せる茶碗台(茶托の様なもの)の事と思われます。大寄せ茶会などで大勢のお客様にお出しする「数茶碗」と同じで、「数の台」と言ったのだと思います。

 

13. 堆朱(ついしゅ)の龍の台

堆朱(ついしゅ)の龍の台も、茶碗台の事と思われます。ただ、造りが堆朱で出来ていると言う事ですので、超豪華な茶碗台だった事でしょう。堆朱と言うのは、朱漆を厚く塗り重ねてから模様を彫り出したものです。彫られている絵が「龍」。龍の爪が5本指ならば、中国皇帝専用のもの。3本指ならば、皇帝以外の貴人用か、単なる目出度い文様。白色天目茶碗を堆朱の茶碗台に載せて、客人にお茶を勧めるシーンが目に浮かびます。白と朱の、大変華やかな茶席の雰囲気が伝わって来るようです。

   (参照:ブログ№115「桃山文化9 漆工芸」 2021(R3).09.01 up )

   (参照:ブログ№119「式正の茶碗」    2021(R3).10.01 up )

 

14. 趙昌(ちょうしょう)筆の菓子の絵

趙昌は五代・北宋の画家で、花鳥画を得意とし、写生に新しい描写法を確立し、後の世の画風に多大な影響を与えた人物です。ただ、『君台観左右帳記(くんだいかん そうちょうき)にその名を探しましたが見つからず、東山御物には入っていない様です。なお、『君台観左右帳記』に乗っている絵画の殆どが、山水や花鳥や人物画で、「菓子」を描いたものはありません。日本には重要文化財として趙昌筆「竹虫図」東京国立博物館に収蔵されております。また、畠山記念館に収蔵されている同画家の「林檎花図」が国宝に指定されています。趙昌が描いたお菓子の絵と言うのはどのような物だったのか、今となっては知る由もありません。

 

15. 古木(こぼく)の絵

古木と言って思い浮かぶのは松か梅です。室町時代になると、梅図が持て囃され随分と輸入されました。また、日本人絵師も好んで梅の図を描きました。そんなこんなを思い合せて、「古木」は梅ではないかと思ったり、旧暦6月の季節を考えると、松の図かなぁ~と迷う所です。

「松樹千年翠(しょうじゅ せんねんのみどり)」や「松無古今色(まつに ここんのいろなし)」などの禅語があることですし・・・火焔の中に消えた古木の絵は何の木だったのでしょう。

 

16. 小玉澗(しょうぎょくかん)の絵

玉澗と言う画家は何人か居るらしいです。一番有名なのが『君台観左右帳記』にも載っている画僧の玉澗若芬(ぎょくかん じゃくふん)です。猛玉澗と言う名前もそこに載っておりますが、猛の絵は下の部に分類されております。

『君台観左右帳記』の面白い所は、作品の出来不出来を上中下に分類して評価している点で、玉澗若芬の『山水草花竹』図は上の部に入っております。本能寺に持ち込まれたのはこの絵かもしれません。左右帳に載っている絵で上の部に入っている絵は、現在、国宝や重文に指定されているものが多いので、もしそうならば、国宝級の作品を失った事になります。

 

17. 牧谿(もっけい)筆くはいの絵

18. 牧谿筆ぬれ烏の絵

牧谿南宋から元にかけての画僧です。彼は臨済宗の高僧・無準師範の膝下で画業に励み、数々の優れた水墨画を世に送り出しました。牧谿の画風は日本の水墨画界に多大な影響を与え、長谷川等伯などもその例に漏れません。

ところが日本での高い評価にもかかわらず、本国・中国では見向きもされませんでした。原因は、宋や元では水墨画と言えば神仙思想に裏打ちされた、深山幽谷の峩々(がが)とした山に仙人が住む構図が持て囃されていたからです。牧谿の絵は、それとは対照的に、穏やかな、湖水や丘陵地帯の、どちらかと言うと日常的な風景を写生したものが多く、人々に受け入れられませんでした。で、価格も安かったのです。留学僧や渡来僧達が手土産にそういう安い牧谿などの絵を日本に持って来ました。湿潤で穏やかな空気感を漂わす彼の風景画が、日本人の心を掴んだのは言うまでもありません。侘び茶の勃興も相まって、牧谿は日本の水墨画の神様的存在になりました。今、中国では牧谿の作品は一点も無く、殆どが日本に在るそうです。

牧谿筆の『柿図』『栗図』の二図(重要文化財)から、『くわい図』を想像するに、さぞかし美味しそうに生き生きと描かれていた、と思わずにはいられません。また、雨に濡れたカラスを想像するだけで、しょぼくれながらも凛とした野生の姿が目に浮かぶようです。

なお、『君台観左右帳記』には上の部に僧牧渓『山水人物龍虎花鳥』がリストアップされています。

(参照:ブログ№56「鎌倉文化(12)肖像画・宗画」  2020(R2).10.19   up )

(参照:ブログ№81「室町文化(8)水墨画」  2021(R3).01.30  up )

 

19. 千鳥香炉

千鳥香炉と言うのは、聞香(もんこう)用の香炉で、その足に特徴があります。

聞香と言うのは、俗っぽく言えば匂いを嗅ぐ事です。香道では、「嗅ぐ」を「聞く」と言います。香炉を掌の上に載せて、鼻を近づけてくんくん嗅ぐ事ですが、それでは余りにも身も蓋も無い表現です。心静かにしてお香が醸し出す世界と対話し、お香が語り掛けて来る話に耳を傾ける、そう言う意味で、お香を嗅ぐ事を「香を聞く」と申します。

で、千鳥香炉の事ですが、香炉の高台が、香炉を支えるべき足より背高に作られており、足は地に着いておりません。宙に浮いております。つまり、足は飾りです。足が着いていない事から、千鳥が片足を上げて浮かせている姿に似ているので、こういう型式の香炉を千鳥香炉と呼びます。徳川美術館にある『銘・千鳥』という千鳥香炉は青磁の香炉で、南宋の龍泉窯の産です。今川氏真から秀吉へ、秀吉から家康へ受け継がれたものです。

この千鳥香炉には面白いエピソードが有ります。石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだ時、千鳥香炉の蓋にあしらわれていた千鳥が鳴いて発覚、捕らえられて釜茹での刑になってしまった、という話です。

本能寺で焼失した千鳥香炉は、徳川美術館に収蔵されている銘「千鳥」とは別物でしょう。(ところで、現在本能寺の宝物館に「三足(みつあし)の蛙」香炉が展示されています。この香炉にも、蛙が鳴いて変事を知らせたという伝説があります。)

 

20. 二銘の茶杓

二銘の茶杓と言うのは、二つの名前を持った一本の茶杓という事でしょうか。

それとも、「二銘」と言う名の一本の茶杓でしょうか。

それとも、それぞれ銘を持った二本の茶杓と言う事なのでしょうか。はてさて、ややこしい。

多分、二本の茶杓だと思うのですが・・・

 

21. 珠徳作の浅茅茶杓

珠徳は村田珠光の弟子です。その珠徳が作った茶杓です。山上宗二記によれば、珠徳の茶杓は惣見殿(=織田信長)の時に火災に遭って失われた、と書かれています。茶杓の材質は「竹」だとか。銘は「浅茅」かと推察します。宗二記によれば、その茶杓の値は千貫だったとか。

 

22. 相良高麗火筋(ひばし)同鉄筋(てっぱし)

 

23. 開山五徳の蓋置

五徳は、火鉢や炉などで炭を扱う時に必要な器具です。炭火に縁がない生活をしていても、ガスコンロに使われている四角や丸型の4~6本足(爪)の器具が五徳ですので、馴染みがあるかと思います。開山五徳の蓋置と言うのは、本能寺を開山した時から使われていた五徳の形をした蓋置、と言う意味でしょうか。詳しくは分かりません。

 

24. 開山火屋(ほや)香炉

火屋と言うのは、篝火(かがりび)を入れる鉄製の笊(ざる)のようなものです。映像などで、戦の時に城や砦の庭に火屋を何基も置いて、盛大に篝火を焚く場面が出てきますが、あれが火屋です。火屋香炉とは、火屋の形をした香炉という意味です。勿論、茶席に使う香炉ですから、あの様な武骨な姿では無く、もっと芸術的です。

 

25. 天王寺屋宗及旧蔵の炭斗(すみとり)

炭斗は、炭や火箸や釜敷など、炉や風炉周りに必要な物を一纏めに入れて置く箱や笊です。

 

26. 貨狄(かてき)の舟花入

貨狄とは、中国の神話に出て来る舟の神様です。彼は中国の伝説上の黄帝(こうてい)に舟を造って献上しました。その貨狄の舟を模した花入れという事でしょう。

なお、貨狄尊者と言って、栃木県佐野市にオランダの人文学者・エラスムスの木像があります。国宝です。これは、ウイリアム・アダムス(=三浦按針)が乗って来たリーフデ号の船尾を飾っていた木像です。リーフデ号が日本に到達したのは1600年です。信長が本能寺に斃れたのが1582年の事ですから、信長死後18年後の事になります。なので、貨狄の舟花入れはエラスムス木像とは関係ありません。

 

27. 蕪(かぶら)なし花入

蕪無の花入れというのは、中国の青銅器の酒器・觚(こorくorかどorさかずき)を模した形の花入れで、室町の頃は古銅(金属)製でしたが、後に青磁器製も使われる様になりました。形は、上に向かって開いたラッパ型をしています。花瓶の首が上に向かって素直に曲線を描いて開いており、根本や途中で膨らんでおりません。もし、蕪の様にまるく膨らんでいれば、それは「蕪有り」です。ただ、重心を安定させる為に、畳付辺りが少し末広がりになっています。

 

28. 玉泉和尚旧蔵の筒瓶(つつへい)青磁花入

玉泉和尚が持っていた筒形の青磁の花瓶で、読んで字の通りのものだと思います。

 

29. 切桶の水指

水指とは、お点前の時に使う水を入れて置く器です。水指には色々な形の物が有り、又、材質も唐銅(からかね)・磁器・陶器・木製など色々です。

さて、「桶」と言うと木製の桶を想像しますが、懐桶(だきおけ)といって銅の桶や、鬼桶といって陶器製の水指もあります。これ等を見ると、もしかして「桶」と言うのは木製とは限らず、瓶や壺、盥(たらい)や樽の様な形状で、水を入れる容器の事を言うのかも知れません。

 

30. かへり花水指

返り花? 狂い咲きの花の事? 遊女の出戻り? それとも、仏様の蓮華座の事かしら? 蓮華座の一番下の反り返った蓮の花びらを返り花と言うらしいけれど、それと水指の形状と結びつかないのですが・・・お手上げです。ごめんなさい。どういう物か分かりません。

 

31. 占切水指(しめきりみずさし)

占切と言うのは南蛮渡来の器で、焼き締めて作られたものです。赤茶色に焼けた土肌で、釉薬は掛かっていません。また、胴回り全周に細い糸状の線が刻まれています。レコード盤の様な模様です。

 

32. 柑子口(こうじぐち)の柄杓立(ひしゃくたて)

柑子(こうじ)と言うのは、古来からあったミカンの一種で、温州みかんより小さく、種が多く、酸味が強いミカンです。

柑子口の柄杓立と言うのは、鶴首の花瓶の天辺が丸く膨らんでいて、その様子が丁度柑子を鶴首の瓶の上に載せた様な格好に見えるので、そう呼びます。花瓶を柄杓立に見立てています。

 

33. 天釜

天釜は、下野国佐野郡天明で作られた天明(てんみょうがま)の略でしょうか。確信は持てません。(天明釜は天命釜とも天猫釜とも書きます。発音は同じです)。もし、天釜が天明釜ならば、九州で作られた蘆屋釜(あしやがま)と並び称される程の名品中の名品です。

   (参照:ブログ№106「平蜘蛛の釜」  2021(R3).06.25 up)

 

34. 田口釜

お釜の形状の名前です。田口釜というのは、釜口の周辺の肩が張っているのですが、水平に張っているのではなく、少し凹んで張っています。

 

35. 宮王釜

さて、宮王釜ってどんなお釜なのか・・・ごめんなさい。これも分かりません。

 

36. 天下一合子水翻(みずこぼし)

合子と言うのは、小さい蓋付の入れ物の事です。大体が手の平に載る位の大きさです。香合や、京紅などの化粧品入れに使われます。

けれども、こと茶道に於いて言う合子建水(=水翻)は、それとは違います。蓋はありません。大きさは小振りの南瓜(かぼちゃ)位です。材質は、唐銅、佐波理、陶磁器、木製などです。「天下一」と謳われた建水ですから、唐銅に精緻な象嵌が施されている様な物ではないかなぁと、想像を逞しくしています。

 

37. 立布袋(たちほてい)香合

香合と言うのは、お香を入れて置く合子の事です。

「立ち布袋」と有りますので、その香合の蓋に立った布袋様が描かれているか、或いは、蓋の上に立った布袋像が乗っているかのどちらかだと思います。婆的には、布袋像が蓋の上に載っている方が面白そうだ、と思うのですが・・・

 

38. 藍香合

藍色の香合です。染付で絵柄が描かれているものなのか、細かい柄で全体的に藍色に見えるのか、その辺は分りません。

 

 

余談  茶碗の「碗」と「盌」

「ちゃわん」には「茶碗」と言う字と「茶盌」と言う字があります。「碗」と「盌」のどちらが正しいかと言うと、どちらも正しいです。一般的には石へんの「碗」が用いられることが多いのですが、漢字の謂れから言えば、石へんの無い「盌」が元の字で、「碗」はその異字体です。