式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

170 織部の美

古代遺跡から出土する陶片の中に、織部焼きの様な、歪(ひず)んで、不定形で、凸凹した様な器を見たことがありません。

勿論、完全な形で発掘される陶器は稀で、大概のものは破片でしかないのですけれども、それでも、それらの破片を見る限りでは、表面が滑らかであり、原形は綺麗に成形された器であろうことは容易に想像できます。

中国から出土した物でも、ギリシャから発掘されたものでも、或いは沈没船から引き揚げられた物でも、織部焼きの沓形茶碗の様な「異様」な造形は、その例がないのです。皆どれも、壺や皿の様な丸い物は出来るだけ曲面を丸く成形しようとして磨き上げている跡があり、手びねりや手捏(づく)ねなどの手の跡を残していません。縄文土器でさえ、その文様は大胆で変化に富んでいますが、連続性や対称性を持ち、本体そのものは歪んでいません。

 

織部焼

戦乱が治まり、人々は安心して生活ができる様になりました。戦にじっと耐えていた庶民が、この時を待っていたとばかり爆発的に鬱屈を跳ね返しました。そのエネルギーが、桃山文化の基底となって、活力あふれた華やかな文化が生まれます。しかも、戦国時代を通して広がった「下剋上」は文化面にも影響を及ぼし、伝統や、規制を臆することなく破壊して行っても、顰蹙(ひんしゅく)を買わずに受け入れられる土壌が出来上がっていました。治世のトップは派手好きの秀吉。戦からの解放によって芸術は爆発だ現象が桃山期に起きたのです。

古田重然(ふるた しげなり(古田織部))は、師・千利休の「人の真似をするな」という教えに、「心得たり!」とばかり旧来の遣り方に叛旗を翻して、創造の世界に突進して行ったと思われます。砂場で子供がワクワクしながら土遊びに夢中になる様に、彼も、新しい侘茶のステージに新奇の意匠を提案して行ったのです。世間もそれを求めていました。

ただ、彼は、無闇に珍しさを求めて形や色を変てこにした訳ではありません。彼は彼なりの茶の湯の新しい展開をイメージして、創造して行ったと思われます。

 

織部焼きを読み解く

織部焼きを色別にすると、織部、黒織部織部黒、赤織部、志野織部などが有ります。

用途別で分けると、茶盌(ちゃわん)、向付、鉢、水指、花生、香炉などが有ります。

織部は茶盌などに多く、形も沓(くつ)形などの様に変わった形が多いです。

織部は懐石料理に用いる向付や手鉢などに多く見られ、形も扇面や州浜、把手付きなど変化に富んでいます。

茶盌で言うと、地が肉厚です。口縁部の山の道に上がり下がりがあります。中には口縁部が外反りしている物も有ります。正面と(正面と言っても、傷や絵柄や釉薬の垂れ具合いなどの景色の見立てで、何処を正面と見るかは人それぞれですが、婆なりに正面と思しき辺り)を見て、手に取って、正面をちょっと避けて茶を服そうとする時、その場所の形状が、唇を当てて飲むに丁度良い形になっている様に見えます。飲み易そうです。織部は無分別に器を歪めているのではなく、飲み易さの機能を考えながら、そこはその形でなければならない凹みや出っ張りを演出しているのではないかと、茶を服する立場から考えると見えてきます。美術館にある織部の茶碗そのもので茶を頂く、と言う事は絶対に有り得ないので、これは婆の想像でしかありません。本当かどうかは、さて、飲んでみなければ・・・

織部の向付けについて言えば、成程なあと、緑釉の掛かっている位置に納得してしまいます。

向付はお料理を盛る器です。煮物、焼き物、刺身・・・と向付に盛り付ける訳ですが、盛り付けた状態の向付を想像すると、緑釉は中心部を外れた周辺部にあり、図柄のメインは盛り付けたお料理に隠れる位置にあります。お料理を食べ進んで行く内に、図柄が現れて来て、器に盛った料理を平らげると、全体像が見えるという趣向です。そして、周辺部の緑釉は、料理で言えば緑の添え物です。煮物にさやえんどうを添える、ハンバーグにパセリを添える、焼き魚に青々とした笹の葉を添える、と言うように、あの緑釉はその役割を担っている様に、婆には見えます。

日本料理の盛り付けは日本庭園を造るのと同じ要領で作られます。

神仙思想に基ずく蓬莱山を遠景に、手前に鶴亀を配し、水辺を演出するという、あの手法が、料理の盛り付けに生かされています。言うなれば、向付の小さな器の中に、盆景を作り上げる様なもので、それに相応しい器を作るとなれば、矢張り、織部焼きのあの形が最も似合っているのではないかと、思います。あの形はお料理を引き立てる形です。

美術館で「あヽ、素敵だな」と眺めるのと、使い勝手を想像しながらとでは、器に対する意識が違ってきます。織部焼きはそれなりの用の美を備えています。織部焼きの用の不美は、洋式の丸皿に比べて洗いにくい、収納に場所を取るいう点だけでしょうか。

 

織部焼きの終焉(しゅうえん)

向付に見る織部焼きは、一つ一つ手作りされているように見えますが、実は、登り窯で大量生産されております。木型に粘土を嵌め込み、それを取り出してから乾燥・絵付け・釉薬・焼きと言う工程を経て作り出されています。絵付けは、モチーフのテーマは同じでも一枚一枚それぞれ違う様に描かれており、それで、量産品とは見えないような手作り感を創り出しています。

利休亡き後、天下一の茶の宗匠になった織部の許へ、天下一の宗匠の指導を仰ごうと日本各地の窯元から作品を送ってきます。織部はその一つ一つに細かく助言を与え、指導しました。その指導は、時として人々の理解を超えていたのですが、彼はへんてこな物を面白いと言い、どう見ても下手なのにそれを素晴らしいと褒め讃えましたので、人々も天下一の茶の宗匠がそう言うのだから、きっとそうに違いない、と思いました。興趣をそそるそれらの作品群は、わび茶の広がりと共に需要が増え、盛んに作られました。

織部焼きは一時期大いに持て囃され流行しましたが、織部切腹の後は急速に熱気が下がって行きました。茶の湯向けの作陶に僅かにその命脈を残していたものの、その頃になるとそう酷くは歪んだりしません。織部の弟子の小堀遠州などは、綺麗寂びと言って、利休とも違い、織部とも違い、端正な美しさを追求しています。

何故、急速に織部焼きは廃(すた)れて行ったのか?

恐らく、織部が大坂方への内通の疑いで徳川幕府から切腹を命じられた事で、彼に関係する一切のものから遠ざかり、禍(わざわい)を避けようとした為ではないかと思われます。が、そればかりではありますまい。

織部が没すると、途端に人々は賛美の追従を止めてしまいました。織部が心を砕いた「用の美」も、心底から理解した者は居らず、単に珍奇なもの、流行(はや)り物だという程度の受け止められ方だったのではないかと思います。

  

織部が指導した焼きものは、従来のものとは確かに違っています。けれど、捨てがたい面白さが有ります。

自然に習い、自然を取り込み、自然を写し、できるだけ自然に忠実であろうとすると、一直線や直角、歪みのない曲面などはむしろ幾何学的で不自然に見えて来るから不思議です。

草庵の茶室は田舎家を模したものです。土壁に小さな明り障子、庭にそよぐ風の音を耳にしながらうす暗い中でお茶を点てる・・・そんな雰囲気に包まれた部屋で、唐物道具や大名物(おおめいぶつ)の、少しの欠点も無いかっちりした茶道具を置いて茶の湯をすれば、まるで、藁苞(わらづと)で四角い桝(ます)を包むような事になり、チグハグで、違和感満載の、納まりの悪い茶室になってしまいます。

草庵には草庵の、書院には書院の「場」があり、「場」に合った「美」が有ります。「美」はそれ一つで美しいのではなく、その「場」の全ての物が互いに引き立て合って美しくなるのです。

音楽で言えばハーモニーです。ロココの宮殿に花生けの「破れ袋」を飾っても沈んでしまいます。桂離宮にマイセンの焼き物を置いたら浮いてしまうだけです。

織部の焼き物は力強く土臭いです。土俗的です。自己主張をしています。そうやって草庵の茶室に存在感を与えつつも、それでいて部屋の景色に馴染み、話題性を提供する絶妙な形や色をしています。

 

 

余談  飲み口

お抹茶を頂く時、茶碗を両手で取って左手に載せ、右手で時計回りに2度回します。そうすると茶碗の正面が90°近く左横に回ります。これが普通の頂き方です。

式正織部流では、正面を避けてお茶を喫する所までは同じですが、それを2度行うとは決められていません。要は正面を避ければよい訳で、ちょっと右回りに1回だけ動かしても十分です。というか、1回でオーケーです。服し終わったら元の位置に戻します。

本文内で、飲み口の形について述べましたが、その様な訳で流派によって飲み口の位置が違ってきますので、茶碗の形についての受け取り方は様々かと思われます。

但し、式正織部流では、沓形茶碗や歪み茶碗は用いませんので、婆の考察も的外れかも知れません。式正織部流では碗形(わんなり)や井戸形(いどなり)、天目茶碗を使います。他の形は使いません。茶碗も絵柄の描かれているものよりも無地を格上としています。なので、他流とはその辺りが少し違うかと思います。

無地茶碗を用いる時は正面が分かりません。正面を避けて回すという所作は、供された向きを正面と見なして行うもので、形ばかりのものになります。

 

 

 

 

169 佐介(織部)覚醒

人は誰でも才能を持っています。無能な人はおりません。ただ、その才能は世間的な尺度で計る才能では無く、全く別の尺度の才能です。婆が言う才能とは、好奇心の才能を言います。

生まれて間もない赤ん坊は、ベッドでじっとしていながらも、動くものに興味を示し、じっと見つめています。這い這いする頃になると、床にある小さな黒いシミや落ちているゴミに手を伸ばし、不思議そうな顔をして指でそれを掴もうとします。そして掴むと、口に持って行きます。食べられるかどうか先ず試してみます。幼稚園に入る頃になると、「これなあに」「あれなあに」「どうして」「なぜ」と親を困らせる様な質問を連発します。これが好奇心です。この好奇心は誰でも持っている才能です。

ところがどうでしょう。成長するに従ってこの好奇心は薄れ、それを追求していく熱心さを失い、ずっと心に温め続ける忍耐を無くし、平凡に常識的に生きて行くようになります。

なぜ好奇心と言う才能を失うのか・・・常識と言う衣を何枚も重ね着する様になり、常識の塊になって行くのが大人への道、赤子のように素直な好奇心を持ち続けるのは未発達だと愧(は)じ、素っ頓狂な発想を封殺してしまう様になるからです。

 

無常識の自由人

「夜になると何故暗くなるの?」と聞かれて「太陽が沈むから」と答えると、それ以上考えるチャンスを奪ってしまいます。空一面に隙間なく星々があり、その星々が輝いたとしたら、たとえ光源が小さくても、砂漠の砂の一粒一粒が全て光っていると同じ様な状態になり、太陽が沈んでも空は暗くならない筈なのに・・・

夜でも明るい筈だと言い張る子は頭がどうかしている、太陽が沈めば暗くなるのは当たり前、それが分からないなんて、この子は馬鹿だ・・・となってしまうのが常識人です。

佐介(織部)は常識の無い赤ん坊でした。人々が、自らの内に造っている常識と言う限界の垣根を持っていませんでした。一歩譲って多少はあったとしても、その垣根は難なく飛び越えられるほど低くて柔(やわ)でした。

その3つの例証を挙げれば、次の様なものが有ります。

① 利休が瀬田の唐橋の擬宝珠(ぎぼし)の話をした時に、席を抜け出して馬を飛ばして見に行ったというエピソードが有ります。普通なら、師の話を最後まで聞き、それから後日なりなんなりに見に行くのが常識人の行動です。

② 利休が秀吉の勘気を蒙って淀川を下って堺へ行くとき、細川忠興(三斎)と共に淀川に見送りに行ったという逸話があります。他の大名は秀吉を恐れて見送りに行きませんでした。権力者の機嫌を損ねたら厳罰に処せられるかもしれないと言う恐ろしさは、当時の人々の常識でした。けれども、彼は師を思う情を優先しています。

③ 方広寺の梵鐘問題が大坂両度の陣の切っ掛けとなりました。この梵鐘の銘文を書いたのが南禅寺文英清韓(ぶんえい せいかん)です。彼は、片桐且元(かたぎりかつもと)と共に徳川に釈明に行きましたが、清韓は徳川幕府に捕らえられてしまいました。後に釈放されましたが、清韓は南禅寺からも追放されました。

1614年(慶長19年8月28日)、その清韓を古田織部は茶に招き、慰めています。その為、織部徳川幕府から叱責を受けてしまいました。これは、織部切腹の約8か月前の話です。

 

織部はどうも身の危険に対するアンテナが弱そうです。危機管理をしっかりしなければならない状況下で、アンチ体制の行動がこの外にも多々見られます。

軽率と言えば軽率。不用心と言えば不用心。侍にあるまじき隙だらけの立ち姿ではありますが、権力に阿(おもね)る事無く、死を意に介せず我が道を行く生き様は、爽快でもあります。これも織部の美学かも知れません。

 

利休と佐介(=重然(しげなり))

茶の湯が嫌いで茶の湯をずっと避けていた佐介。それが40歳ぐらいになって急に茶の湯に目覚めました。これには、義弟の中川清秀の存在が有ります。

中川清秀は佐介の妻・の兄。その頃、佐介は名を重然(しげなり)と名乗っていました。

中川清秀は利休十哲と呼ばれた荒木村重を主君に持ち、家中でも名だたる剛の者。鬼瀬兵衛(おにせへい)」と言われ、数々の戦功をあげています。彼はキリスト教徒でもありました。

信長は清秀の武勇を欲し、清秀の義弟・古田重然(=佐介=織部)を動かして、荒木村重から信長方へ寝返る様に調略します。そのように、古田重然中川清秀の間柄は信長も認める程の親しい間柄でした。その清秀、主君・村重の影響か、茶の湯を嗜(たしな)み、重然を茶の湯に誘います。

重然は茶の湯嫌い、敬遠していましたが、ついに清秀に唆(そそのか)されて習い始めます。

そこで見たものは、利休の提唱していた侘茶。決まりきった唐物道具を用(もち)いる茶の湯では無く、趣(おもむき)のある道具を使い、見立てや季節感など満載の変化に富んだ茶の湯でした。まずは道具を見せ、見せる為に飾り、飾って自慢する従来の台子点てでは無く、最初から道具を飾らず、運び点前と言って道具を持ちだして使用するやり方も新鮮でした。

これは面白い!しかも、利休は「工夫せよ、先人の真似をするな」と教えているでは無いか!

マンネリを排し、創意工夫を歓迎する侘茶に、自由人・重然は忽ち惹かれてしまいます。

 

重然、茶の湯に嵌(はま)

守らなければならない所作にがんじがらめになって、同じことを唯々(ただただ)漫然と繰り返して行くだけの退屈な茶の湯、と思っていた茶の湯が、実はそうでは無く、千変万化の奥行きを持っており、通り一遍の習得では到底修めきれない世界であると気付いた重然。強烈な引力によって引き摺り込まれます。

彼は師・千利休の、「工夫せよ」「人と違う事をせよ」の教えを守って工夫の道に踏み込みます。

工夫の道は、大元のやり方を掌中に収めなければ、工夫は成り立ちません。工夫は言うなればアレンジのようなもの。変化させるには変化させる本筋を知らなければ弄(いじ)る事は出来ないのです。重然は以前とは打って変わって茶の湯の稽古に励みます。稽古に励みながら、彼なりの工夫を随所に施して行きます。

床の間に花を活けた籠を置く時、本来ならば薄板の上に置くのですが、重然は薄板を置かず直に籠を床の間に置きました。それを利休は感心して重然を褒め「こと、花籠に関しては私は重然の弟子になりましよう」と言ったそうです。利休もなかなか謙虚な人です。師の行う通りになぞるのではなく、師が行わないような事をしてもそれを容認する度量の広さが利休に在りました。そういう師に恵まれて、重然は小さな工夫を積み重ね、いよいよ独自路線を切り開いて行きます。

 

 

 

 

168 佐介(織部)は茶の湯嫌い

明けましておめでとうございます。

当地では風も無く、明るい日が差す穏やかな元日の朝を迎える事が出来ました。有難い事でございます。

さて、このブログ、「古田織部はウニのようです」と書き始めて1年と9か月になります。

古田織部はウニのようです。

海に住んでいるウニに良く似ています。

いえ、彼の面相がウニに似ていると言っているのではありません。ウニの様にあらゆる方向に針が向いていて、一方向だけではとても捉えきれないのです。

その捉え切れない古田織部を、いよいよ捕まえに行こうと思います。

 

ウニの棲む海は、疾風怒濤の荒海でした。徳川幕府が開かれて安定政権が生み出される以前の武士の時代は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の映像で綴られました様に、血で血を争う果てしの無い権力闘争に明け暮れていました。何時、何が理由で死ぬか分からない世の中でした。

古田織部は、海の底にじっと閉じこもり、激浪と無縁の暮らしを望んでいたと思われます。茶の湯を嫌い、40歳を過ぎるまで茶の湯とは距離を置いていた、と知るに及び、成程と思いました。

 

茶の湯はゴルフ

茶の湯は、今で言えば社用ゴルフのようなもの。付き合い、接待、人脈作り、情報取得手段、時には密約・・・そして、お金がかかるのも茶の湯と一緒です。そのような煩わしい事に関わりたくない、と思う武将の一人や二人、居ても不思議はありません。彼はその内の一人でした。

黒田孝高(=官兵衛=如水)もその内の一人でした。彼は茶の湯を馬鹿にしていました。茶を飲むだけでどうしてそんなにみんなが夢中になるのか、理解出来ませんでした。ところが、茶室が持つ密議の効用を知り、途端に茶の湯に嵌(はま)ってしまいます。彼は茶の湯の「利」に誘われました。

古田織部はどうか? 織部が使い番や交渉役として活躍していた所を見ると、茶室での会話に長(た)けていたと思われます。が、それは後年の事。茶の湯に嵌った最初の切っ掛けは、利休の演出した茶室のコーディネイトや茶道具の美に心を奪われたからだと思います。織部は「美」に捉われたのです。

 

古田織部の名前

古田織部の「織部」、実はそれは役職名でして、初名は景安、通称は佐介、後に重然(しげなり)と名乗ります。

もともと佐介は父親の古田重定から茶の湯を仕込まれていました。重定は勘阿弥と称していたそうですが、還俗して重定と名乗ったと伝わっていますので、阿弥衆(あみしゅう)の僧だったと思われます。阿弥衆と言えば、観阿弥世阿弥、能阿弥、芸阿弥、相阿弥、と名立たる芸術の天才達が所属していた僧侶集団がおります。

僧侶と言っても、有髪の人も居れば剃髪の人もいます。お能観阿弥世阿弥などは有髪で、法名観阿弥陀仏、世阿弥陀仏です。法名や戒名は今では死後に付けると思われていますが、本来は生前に受戒をしてそれを戴きます。婆の義父と義母は結婚した時に戒名を戴いております。でも、子供達は一度も何々院様と呼んだことはありません。

義母が102歳で亡くなり、お坊様から戒名のお話が出た時、実はこれこれしかじかで既に戒名を持っておりますと、戒名を書き付けた紙をお見せしたところ、お坊様は「あゝ、これは父の字です」と吃驚(びっくり)なさいまして、感慨に耽っていらっしゃいました。

ちょっと身内の話へ脱線してしまいましたので、阿弥衆の話に戻しましょう。

勘阿弥はその阿弥衆の内の一人だったのでしょう。勘阿弥は茶の湯を能くすると評判だったようですので、もしかしたら、そういう芸に生きていた人だったのかも知れません。因みに、現式正織部流の家元・秋元瑞燕先生の先々代は瑞阿弥とおっしゃいまして、僧侶でした。布教の為の鉦鼓(しょうこ)や特殊な杖などの道具が先生のお宅のお仏堂にあり、空也上人がそこにおわします様な雰囲気です。ただ、先生の御祖父様のお写真を拝見するとなかなかの好男子ですので、康勝(こうしょう(運慶の四男))作「木造空也上人立像」の雰囲気とは大分違いました。

 

佐介の茶の湯嫌い

もし、勘阿弥が阿弥衆で、芸能(茶の湯)に長けた人物ならば、当然のことながら佐介も父から手解(てほど)きを受けていた事と思われます。勘阿弥の茶の湯はその名からして能阿弥が確立した台子点ての書院茶でしょう。佐介が最初に触れた茶の湯は、伝統的な書院茶だったと婆は推測しています。ここまで全て「もし」「思われます」「でしょう」と言う風に、推測の推測を重ねて話を進めておりますので、反論されれば、一次資料的証拠にお目にかかってないので、全く以って言い返す事はできません。恥ずかしい限りですが、父が子に、自分持てるものを伝えたいと思うのは自然の理でして、そう考える次第です。なにしろ茶の湯は、当時の武士にとって一般教養みたいなものでして、出世の糸口になる資格の一つと考えられていました。茶の湯の能者といわれた勘阿弥は、自分と同じ様なレベルを求めて息子を仕込んだと思わます。

で、重定は佐介をどう教育したか・・・を考えますと、恐らく一所懸命仕込もうとしたのだと思います。例えば、ピアノのお稽古の様に・・・余程子供が音楽好きでない限り、幼少期に厳しく仕込みますと、ビアノ嫌いになってしまいます。それと同じ様な事が起きたのではないかと思います。台子点ての書院茶は厳格な様式美を持っております。その奥行きを知らないと退屈なものになってしまいます。ビアノの練習曲の「バイエル」や「ハノン」を毎日練習させられる様なものでしょう。創意と工夫が有れば、練習曲と言えども音楽的に奏でる事が出来ますし、上達の尺度が自分なりに体得できますので、嵌ると面白いのですが、そこに至るまでが大変です。

婆の姉はヴァイオリニストでした。毎日スケールを2時間練習してから、それから演奏曲の数小節ごとの部分練習を5時間以上もやっていました。曲の最初から最後まで通すのは最後に1回から2回ぐらいでした。食べる、寝る、トイレ、多少の休憩時間、それ以外が全て練習、それが姉の一日でした。そして、何か月もそうやって同じ曲を練習していました。お蔭様で、門前の小僧の婆は、ヴァイオリンの曲なら大抵の曲の、細かいディテールの一音一音まで覚えてしまいまして、あゝあそこは姉が引っ掛かり易い難しいテクニックの所だ、とか、ここはメロディーを泣かせる為に弓をこういう風に動かしているところだとか、左脳で聞く様になってしまいました。正直言って、こうなると、音楽は面白くありません。あ、また脱線してしまいました。

茶の湯でこれと同じ様な練習をさせられたら、大概の人は茶の湯なんて大嫌いになってしまうでしょう。佐介(織部)は恐らくこうして茶の湯が嫌いになったのではないかと、愚考する次第です。

 

佐介が生まれた時の時代背景

古田佐介は1543年(天文12年)か或いは1544年(天文13年)に生まれた、とされています。

1543年ですと、丁度徳川家康が生まれた年です。鉄砲が種子島に伝来した年でもあります。

夏には細川氏綱細川晴元打倒の兵を挙げています。日吉丸(=秀吉)はその頃お寺に預けられていました。また、前年の1542年には武野紹鴎松屋久政など3人を招いて、唐物名物「松島の茶壷」を用いた茶会を開いています。

誕生が1544年(天文13年)ですと、山上宗二(やまのうえのそうじ)が堺に生まれています。越後の長尾景虎栃尾城の戦いで初陣を飾り、国友が鉄砲2挺を将軍・足利義晴に献上しました。三好長慶が台頭し始め、長慶と細川氏綱が戦っております。この年、23歳の千利休が、松屋久政を招いて、珠光茶碗を用いて茶会を開いています。

政治の面で言えば将軍は影の薄い存在で、管領が牛耳っていました。合戦の面で言えば、細川吉兆家の家督相続を巡る権力闘争が激しく、国政をそっちのけで私闘に明け暮れていました。

茶の湯では、武野紹鴎千利休が茶会を開きました。まだまだ侘茶も本格的とは言えませんでした。

 

 

余談  スケール

スケールと言うのは音階練習で、低音からド♯ドレ♯レミファ♯ファソ♯ソラ♯ラシド・・・と続けて天辺の音まで行ったら同じ様にして高音から低音に戻って来る練習でして、ヴァイオリンの運弓運指の基本練習です。これが出来ないとヴァイオリンは弾けません。

 

余談  バイエルとハノン

バイエルは人の名前です。彼はピアニストで教師でもありました。彼は、ピアノに初めて触れる人の為の入門書を書き、それがバイエル教則本として世界で使われる様になりました。初心者用のピアノ教則本は他にも多々ありますが、此のバイエル教則本が一般的です。

ハノンはピアノの運指の練習曲です。指のタッチの正確さ、音揃え、速さなどを訓練する曲で、音階をひたすら上り下りする曲ばかりです。

 

 

 

 

167 利休切腹(3) 茶の湯の覇道

町工場の社長が、巨大コンツェルンの総帥達と肩を並べて事業を展開して行くには、どうしたら良いか? いや、更に言うならば、彼等より抜きん出て上に立ち、彼等を思う様に牛耳(ぎゅうじ)りたい。

ビジネス風に譬(たと)えれば、田中与四郎の志はそこにありました。

商都・堺は豪商達か綺羅星(きらぼし)の如く犇(ひし)めいている街でした。そこで生まれた与四郎は彼等に憧れ、彼等の生き様を毎日目にして育ち、何時かは彼等の様になってやろうと、野心満々の若き日々を過ごしていました。彼は紛れもなく商人の子でした。

彼は問(とい(倉庫業→納屋衆))を家業としている家の息子でした。屋号を「魚屋(ととや)と言います。家業の商売規模がどれ程のものだったのか、婆には見当もつきませんが、どうやら余り儲かっていなかったらしいです。彼は、父親を亡くした時、満足に葬式を出す事が出来ず、一人で墓掃除をしながら泣いた、と日記にある程ですから。

 

堺は茶の湯

商家に育った彼は、息をする様に読み・書き・算盤(そろばん)は当たり前に身に着けていたでしょう。

けれど、それだけでは文化人の多い堺の豪商達の仲間内には入れません。津田宗及(つだそうぎゅう)今井宗久(いまいそうきゅう)など名だたる大商人は、連歌・和歌・茶の湯の名人達人であり、彼等と伍(ご)して話が出来る様になる為には、それなりの教養を身につける必要がありました。

堺の町は会合衆(えごうしゅう/かいごうしゅう)と言う有力商人によって自治運営されていました。会合衆は堺の町の南と北と分けて設立されていました。田中与四郎の住んでいた地区は、和泉の堺南荘で、会所(寄合場)は開口(あぐち)神社の境内(けいだい)にありました。会合衆はその会所に集まり衆議を行い、町政を仕切っていました。集まれば宴席にもなり、茶の湯も行われました。

 

宗易の師匠歴

与四郎が17歳になった時、近所の北向道陳(きたむきどうちん)という茶人の門を叩きます。

道陳は能阿弥の孫弟子に当たります。能阿弥と言う人は足利義政に仕えた同朋衆の一人で、東山文化を一身に体現した様な人物です。能阿弥は茶湯の書院飾りや台子(だいす)飾りを完成させ、点前の方式も小笠原流の礼法を取り入れて完成させました。

その能阿弥の弟子に島右京(号は空海)という者がおり、島右京に伝えられた台子点ての書院茶が、北向道陳へ伝えられました。従って、北向道陳の茶は、東山流の「台子の書院の茶」の正当な流れを汲んでいます。与四郎の茶は、ですから、最初に叩き込まれた基本は、台子点ての書院茶です。

与四郎はとても熱心に稽古をし、めきめき上達しました。上手いだけでなく、美に対する感性も並外れたものを持っていました。北向道陳は与四郎の才能を見出し、堺の茶人・武野紹鴎(たけの じょうおう)に紹介し、弟子入りさせました。

武野紹鴎は与四郎の指導を、紹鴎一の弟子・辻玄哉(つじ げんさい)に任せます。この頃、与四郎は千宗易(せんそうえき)と名乗るようになりました。(通説では千宗易武野紹鴎の弟子だった、と伝えられています。)

 

書院茶と侘茶

侘茶が興るまでは、唐物を中心とした道具を使い、台子点ての書院茶が主流でした。或いは、足利家が所有していた大名物(おおめいぶつ)などを飾って茶の湯をしていました。これ等の大名物は応仁の乱などで足利家が貧乏していた時に、売り食いした物です。こうして流出した大名物が豪商の手に渡っていたのでした。

ところが、村田珠光が普通の什器を使って茶の湯を始めると、「こんなものでもできるんだ」となり、「これでも良いかも知れない」となり、「むしろこの方が良い」となって、次第に侘茶が浸透して行きました。この動きは、近代の柳宗悦(やなぎ むねよし/そうえつ)民芸運動に似ていると、婆は思っています。美の価値観の大転換をもたらしたのです。

何よりも高額の唐物を必要としない侘茶は、手軽に茶の湯が楽しめましたので、茶の湯人口のすそ野が広がって行きました。

 

流行に乗り遅れるな

堺の豪商達も、近頃はやりの「侘茶」とやらを取り入れて、「私も侘茶ができます、ほら、この通り」と手を染めはじめました。とは言っても、彼等は従来の唐物中心の書院茶から完全に抜け出す事はできませんでした。冷え枯れて貧しそうな道具類に見えても、実はわざわざ仕様書を朝鮮や大陸に送って作らせたりした物も多かったのです。お金がかかっています。でなければ、高値で手に入れた名物だったりしました。そういう茶器を使っての侘茶でした。最早それは演出された侘茶に過ぎません。村田珠光の茶とは程遠いものでした。

千宗易はそこに目を付けました。侘茶には市場開拓の余地が広がっていました。国産の茶器類を活用し、茶の湯の世界を侘茶で凌駕(りょうが)できれば、茶の湯人口を爆発的に増やす事ができ、茶人の頂点に立てる、と。

彼は、茶の世界を侘茶一色に染めようと、ひたすら修行に励み、深めて行きます。

審美眼を養い、鑑識眼を肥やし、展示方式の台子点てから道具持ち出し方式(運び点前)に変え、所作を洗練させ、道具の置き合いを工夫しました。性来の才能がこれらの研鑽によって開花して行きます。

 

秀吉の茶堂へ

草庵の茶室の三次元の空間をどのように飾ったら最高に美しく荘厳できるか・・・

千宗易はその問いに「飾らない」という逆転の発想を答えに出します。

無駄を削って削って極限まで削って、刀の切っ先のような鋭い緊張感のある空間を創り出します。そして、薄暗い洞の様な茶室に、炭の温もりが有り、湯が沸き、一輪の花が活けてある、小さな明り取りの窓から柔らかな光がさす、それで十分。

宗易が完成させた侘茶は新たな美を創り出しました。それまで「侘び」の真似事だった茶の湯が、本格的な侘びの美に昇華されて行きました。その見事さに人々は驚き、注目する様になります。武野紹鴎はもとより今井宗及、津田宗及も、千宗易に着目します。

やがて織田信長足利義昭を擁立し上洛、時流は信長へと流れて行きます。信長は茶湯を政治に利用、茶の湯は政道の最も重要な柱の一つとなりました。

1569(永禄12) 千宗易は、今井宗久、津田宗及と共に信長の茶堂になり、4年後の1573(天正元年)相国寺の茶会で宗易が信長に濃茶を献茶する栄に浴しました。その時の薄茶は今井宗久が務めています。1574(天正2.03)年、信長は堺の豪商10人を招き相国寺で茶会を開きました。その10人の中に千宗易も混ざっておりました。この頃には宗易は堺の会合衆の一員となっております。

と言う具合いに、宗易は次第に信長の茶湯御政道に組み込まれて行きます

1582.06.21(天正10.06,02)本能寺の変が勃発します。その10日後、羽柴秀吉明智光秀を倒し、本能寺の変の25日後に清須会議が開かれ、天下は秀吉の手へと動いて行きます。

国内の動揺冷めやらぬ中、同じ年の10月8日千宗易は秀吉の茶堂になり、11月には大坂城内に茶室を作る様に命じられました。半年後に完成したのが「待庵(たいあん)です。

こうして本能寺の変から1年余りで千宗易は名実ともに天下一の茶の宗匠に伸(の)し上がってきました

 

先鋭化する拘(こだわ)

宗易は侘茶への自信を深め、自分のやり方を広く普及させようとします。そこに妥協はありませんでした。時には旧来のやり方を全否定するかの様な言動をし、自分のやり方を通そうとします。彼は今迄の茶の湯を破壊し、新しい茶の湯を創造しようとしていました。その過激なやり方に、山上宗二(やまのうえの そうじ)が師の千宗易を、「山を谷、西を東と茶の湯の法度を破り、物を自由にす」と批判しています。

宗易は、貴賤を問わず相手が誰であれ、自分が良しとする道へ導き、それを習わせます。武士から刀を取り上げ、財力や権力の象徴である高価な茶道具などを排し、床の間に結界を演出して冥界を思わせ、その前で皆が坐して茶を飲むようにしました。そして、茶の湯とはただ湯をわかし 茶を点ててのむばかりなることと知るべし」と説いたのです。

宗易は禅宗に帰依していました。しかし、禅の教えの「執着を捨てよ」からも「無一物」の境地からも程遠く、自分の会得した茶湯の奥義に拘っていました。融通無碍にはなりきれていませんでした。手持ちの茶道具は高価なものでした。

彼が参禅して会得(えとく)したものは、解脱(げだつ)の悟りでは無く、究極の美の有り様(よう)だったのだと、推察しています。

 

水平と垂直

秀吉の権威も権力も否定するかのような平等の精神を、宗易は侘茶の中に持ち込みました。

(にじ)り口を小さくして侍に頭を下げさせました。和敬清寂と言って互いに敬い合うのが侘び茶ですと表向きの理由の裏に、「殿下も威張っていないで頭を下げて謙虚になりなさい」と権力の増長を抑え込むような暗喩(あんゆ)を仕込んで、利休は秀吉のマウンティングを否定したのです。

それは「人間皆平等」の理念に立脚しています。堺の商人だった利休は、会合衆の合議制をごく自然に受け入れておりました。

この平等思考は、信長や秀吉達武士が営々と築いて来た垂直構造の支配体制を、根幹から突き崩すものでした。武士達が考える安定した政治と言うものは、ピラミッド型の支配構造でした。それが上手く機能する様にするのが武士の政治でした。

 

宗易から利休へ

宗易の唱える侘茶は、上下関係を否定するような危険な思想を含んでいました。封建制度をいきなり民主主義に転換してしまうような革命的な思想を内包しておりました。

秀吉が黄金の茶室を御所に持ち込み、正親町(おおぎまち)天皇に献茶した時、宗易は利休居士と言う号を賜って献茶に奉仕しました。これによって利休の名は盤石なものになり、利休の行う侘茶が権威を得て、他へ文化的な影響を与えて行くようになります。

「わび」と「平等」は別物です。「わび」は美の分野の話です。それが利休の侘茶では「わび」と「平等」が一体化していました。「わび」の平等主義に、キリスト教の神の下に人は皆平等であると言う教義が溶け込めば、反体制的な火種に成長する危険性を孕んでいました。何時、誰がそれに気付くかが問題でした。既に、利休が「殿下」を「殿下」とも思わない様な態度を取り始めていました。秀吉にとっては立場の逆転は許し難いことでした。

茶と言えば利休の侘茶。大名も町衆も、公家も武士も、何の疑いも無く躙り口で身を屈めて茶室に入り、回し飲みをしました。身分の上下の無い茶室内は心地よく、刀を亭主側に預けた無腰の侍は怖くはありませんでした。安価な茶道具でも善しとする侘茶は取り付き易く、燎原の火の様に人々の間に広がって行きました。

 

利休排除

茶の湯を介して平等意識が常識化して行く事を、秀吉は恐れました。折角築き上げたピラミッドを土台から崩され兼ねないのです。しかも利休は次第に内政に顔を利かせはじめ、傲岸不遜になってきていました。口出しも多くなり、「内々の事は利休にきけ」と言わざるを得ない様な隠然たる力を持って来ました。こうなっては利休に退場して貰うしかない・・・

どう退場させるか?  辞任?   隠居? 政治を壟断(ろうだん)した罪で追放?  or  流罪?  or 死罪?

退場させる理由を何にするか?  木像事件?  私腹を肥やしたから?  朝鮮出兵に反対したから?   娘を差し出さなかったから?  茶の湯の路線違い?  石田三成の讒言(ざんげん)?

何時それを行うか? ブレーキ役の弟・秀長が亡くなった後が、その時だったのかも・・・

理由が何であれ、万人が納得するような分かり易い理由が良い。それには、大徳寺の山門に木像を設置した事件が最も視覚的にも分かり易い事件ではないのか・・・貴人が通る山門の上に木像を置くなど不遜の至りとすれば、多くの者を得心させる事ができる筈。木像設置は2年も前の話ですが、今更ながらにその件を持ち出して糾弾の名目にしたのではないか・・・

糾弾の申し開きと謝罪を待っていた秀吉、その謝罪の内容によっては処罰の仕様があるものを・・・

けれど、秀吉のその期待は裏切られ、賜死の命を下さざるを得ない立場に追い込まれてしまった、と、婆は見ています。

 

辞世

「式正織部流『茶の湯』の世界」シリーズのブログ「№143 会合衆 茶の湯三大宗匠(2022(R4)04.14 up)で利休の辞世を取り上げています。ここに改めてその時に示した辞世の遺偈(ゆいげ)を載せます。

遺偈

       人生七十 力囲希咄    人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)

       吾這寳剱 祖佛共殺       吾がこの寳剱 祖佛ともに殺す

       提我得具足一太刀          ひっさぐ我が得具足(えぐそく)の一太刀

       今此時天抛                今この時 天に投げ打つ

     (※ 力囲希咄は、エイヤ―――ッ!と言うような掛け声)

「ずいようぶっ飛び超意訳」人生七十年、エエエ―イッ!こん畜生!この宝剣で先祖も仏も何もかも皆殺しにしてやるわい。手にした武器の一太刀、今、この時に天に投げ打ってやるッ!

 

この遺偈からは利休の爆発的な怒りが見えてきます。茶の湯の世界で天下を取ってやろうという覇気満々の野心が一瞬にして崩れ去り、潰(つい)えてしまった無念さが、ひしひしと伝わってきます。頂点まであともう一歩だったのにと、激烈に悔しがる利休の人間臭さが、なんとなく愛おしく感じられて来るのです。

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

・千家開祖-抛筌斎千宗易(利休)「罪因」-茶堂本舗

・利休切腹の謎 我部山民樹 

・「千利休人間性 利休を考える~どんな人間だったのか 武井宗道

・日本史の基本105(23-4堺・博多・京都)

・十六世紀 キリシタン需要の構図 前田秀一

ウィキペディア」 「刀剣ワールド」 「ジャパンナレッジ国史大辞典、日本大百科全書、改訂版世界大百科事典」 「地域の出している情報」 「観光案内パンフレッド」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

今年もあとわずかになりました。この一年間、ご愛読本当にありがとうございました。

来年からはいよいよ古田織部の時代に入って行きたいと思います。どうぞ、今後とも御贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。

皆様のご健勝とご多幸を心より祈り申し上げております。

 

 

 

166 利休切腹(2) 売僧(まいす)

昭和末期から平成の初期、日本はバブル景気に沸きました。

東京の都市再開発で不動産バブルが沸き起こり、地上げ屋が跋扈(ばっこ)しました。有り余った資金は投資に流れ株式が高騰、ゴルフ会員権、高級乗用車、果ては女性達があられもない衣装をまとって、お立ち台とやらの舞台で扇子を持って踊り狂うと言う、出雲の阿国も赤面するような、まことに前代未聞の世相に染め上がりました。

絵画や骨董の分野でもバブル景気で、ゴッホのひまわりの絵を57億円もの値段で落札したとかで、ニュースになったほどです。それがそれなら他も同じで右へならえ、絵も骨董品もべら棒に高くなり、骨董品一つで家が何軒も建つ様な値段で取引されました。

利休の生きていた時代、同じ様なバブルがあったのではないかと、思います。

利休の売僧(まいす)疑いもさることながら、茶道具のみ単独で発生したバブルではありますまい。経済のバブルは一業種だけで起こるものではありません。日本経済の沸騰が、それを引き起こすのです。

 

お金の流れ

利休切腹1591(天正19)です。その頃、出雲の阿国は20歳前後。九州平定、小田原平定、奥州平定と次々と各地が平定され、惣無事令が成り日本全国が平和になって参りました。

そこで、考えてみます。

九州平定の為に20万人分の兵站のオペレーションがありましたが、そのお金の出所と支払いはどうなっていたのでしょう?

兵糧などをただで召し上げ?或いは対価を払った? そのお金の出所は秀吉自身の懐? 諸将の分担? 支払先は誰? 諸将が大坂の秀吉の下へお金を払い、一括して購入したのか、或いは諸将が自ら調達して現物を三成の管轄する集積地に運んだのか、結局お金はどう流れて誰の懐に入ったのか、その辺の事情は?

小田原攻めの軍費は各将持ち? 支払ったお金の先は誰の懐に?

唐入り費用の莫大な予算執行はどういう風に行われたの? その財政の裏付けは?

名護屋城の造営や諸将の滞在費は誰が負担し、そのお金の行く先は誰の懐に?

朝鮮へ渡海する船の建造費は幾らで、支払いしたお金は誰れの懐に?

大口の発注ばかりでなく、動員された兵が個人的にも、鎧を新調したり刀を買ったり、馬具を整えたり、草鞋を何足も履き替えたりと、俸禄からこまごまとした出費をした筈ですが、そのお金は誰の懐に入ったでしょう?

これ等を考えると、軍需景気が起こり、世の中にじゃぶじゃぶにお金が溢れ、どう考えてもインフレーションになって行くような気がしてなりません。一方、軍需景気に取り残された庶民や農民達は窮乏して行きます。懐の寒い大名の領地では、農民が年貢の重税に苦しんだでしょう。金持ちと貧乏人の格差が広がり、いびつな好景気が巨大化します。

戦は消耗の公共事業です。社会資産は生みません。そして、そのお金は巡り巡って商人の懐に入ります。

 

桃山期のバブル

豊臣政権が用意した軍資金は金山・銀山・貿易・商業振興策で得た収入、直轄領年貢等の由来が考えられます。各大名は石高に応じて兵員と軍資金を負担しました。それらに加えて、豪商からの戦費拠出金などがかなりの額を占めます。商人から矢銭(軍資金)を巻き上げる事は、溢れかえったお金を政権がバキュームで吸い上げる様なもの。極端なインフレを押さえる効果がどのくらいあったか疑問ですが、商人だって軍資金を取られるばかりじゃ面白くありません。取られてもなお商売が成り立つぐらい儲けます。お金を取られるくらいなら、余ったお金を骨董や名物を買ってしまえ、となるのも人情です。豪華な衣装を誂えたり、数寄を凝らした屋敷を建てたり、正に、桃山文化の花盛りです。秀吉と言う派手好きがトップに立ったから皆も派手になった、という見方もありますが、そればかりでなく、経済の活況がそれを後押ししていました。

 

腐敗への取締り

この時期、平和になりつつあると言っても完全に安定しては居ませんでした。それでも、全国規模でしっちゃかめっちゃかに戦っていた応仁の乱よりは戦いの数がぐっと減ってきていました。戦による破壊は復興の建設に拍車をかけ、築城や神社仏閣の造営も盛んで、建築資材なども値動きが激しくなっています。

前項の 「ブログ№165 利休切腹(1)  木像事件」に載せた年表で、

1589.01.21(天正16.12.05) 秀長、木材事件の監督責任を秀吉から問われる」という条を書き入れておりますが、それは、秀長の配下の吉川平介(きっかわ へいすけ)という山奉行が、秀長の命で熊野の木材2万本以上を伐採し、大阪で売ったお金を着服してしまった事件の事を指しております。吉川は処刑獄門、秀長は責任を問われて大坂城出入り禁止処分となっています。

この翌年の年賀の時、秀長は秀吉に太刀を献上しています。登城禁止なのにこれは?と思う所です。本人が登城して拝謁の上そうしたのか、それとも使者を遣わしてそうしたのか、ちょっと分かり兼ねます。秀吉は右腕と頼む弟でさえも、結構お金には厳しい所があるようで、切腹を命じないまでも、出社禁止処分のような断を下しています。

政権の腐敗は体制の土台を崩す元凶です。材木が菌やシロアリに犯される様なもの。商人同士の商習慣で行うのなら当人同士の問題ですし、業界内の事ですから秀吉側は我関せずでしょうが、政権に関わっている人間がそれでは見過ごす訳にはいかないでしょう。利休は秀吉に深くかかわり、そして、商人でした。

 

政商

秀吉の財政の一部分を支えたものに堺や博多の豪商達が居ます。いわゆる政商です。彼等は鉱山や貿易などで大儲けをしました。武器や、鉄砲に必要不可欠な硝石などの火薬の輸入も手掛け、武器商人の顔も併せ持っていました。彼等が鉱山開発に乗り出し、灰吹法(不純物除去の方法)の導入などで一層銀が増産され、富はますます豪商達の下に集まって行きました。

これ等の鉱山所在地を我が物にしようと、大名達の熾烈な戦が起こっています。最終的には天下を取った者が支配する様になりますが、そういう過程で、如何に商人達を抱き込むか、という戦略も見え隠れします。その戦略の一つに茶の湯が有ります。茶の湯を以って彼等に近づくは、手っ取り早い方法の一つです。

鉱山と言えば、但馬の生野(いくの)銀山(現兵庫県朝来(あさご)市)出羽国延沢(のべさわ)銀山(現山形県尾花沢市)、そして、2007年に世界遺産に登録された石見(いわみ)銀山(現島根県大田市)の三大銀山が有名です。

佐渡の金山は後発鉱山で、江戸時代に入ってからのものです。

安土桃山期の政商の幾人かをリストアップしてみます。

 

神谷寿貞(かみや じゅてい)

石見銀山は、博多の豪商・神谷寿貞が発見しました。1526年の事です。寿貞は領主の大内義興の支援の下、隣接する出雲國の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、採掘に必要な人達を率いて入山し銀の採鉱を開始、莫大な利益を得ました。更に7年後、朝鮮から灰吹法の技師を移住させて技術革新を図り、銀の採掘量は格段に増えて行きました。博多の三傑と呼ばれた茶人・神谷宗湛(かみや そうたん)は、神谷寿貞の曾孫です。

 

島井宗室(=宗叱) (しまい そうしつ(=そうしつ))

博多の三傑の島井宗室は神谷宗湛の親戚です。島井家は大内氏に接近、大内氏が始めた東シナ海の貿易を独占するとそれに食い込み、携わります。宗室の代に大友宗麟と結びつき、数々の特権を手に入れます。また、堺の千宗易(=利休)津田宗及などと茶の湯や貿易を通じて親しく交流しています。

大友宗麟が衰退し、博多が島津氏の勢力に呑み込まれそうになると神谷宗湛と島井宗室の二人は、信長に庇護を求めて上洛します。神谷宗湛は「博多文林」と言う茶入れ(日本の1/2の領土に値するという名物茶器)を持ち、島井宗室は天下三肩衝と呼ばれる「楢柴肩衝を所持、信長はそれが欲しくてたまりませんでした。信長は二人の上洛に合わせて本能寺で茶会を開きます。その夜、2人は本能寺に宿泊しましたが、運悪く本能寺の変に巻き込まれてしまいす。二人は這(ほ)う這うの体(てい)で逃げ出しましたが、その時、燃え盛る炎から宗湛は牧谿『遠浦帰帆図』を、宗室は空海千字文を救出しました。

 

大賀宗九(おおが そうく)

博多の三傑の最後の一人は、大賀宗九と言って、金融業、貿易業、そして武器商人でした。彼は博多の町づくりや築城などに資金を出しており、今の博多の基礎を築いております。

 

今井宗久

生野銀山(いくのぎんざん)摂津(現兵庫県朝来(あさご)市)にあり、古くは平安時代からその存在を知られていたと言われています。本格的に採鉱し始めたのは戦国時代に入ってからで、山名祐豊(やまな すけとよ)の手に依っています。銀の産出量も多く京の都にも近かったので、織田信長が目を付けてそこを支配、その後豊臣秀吉の手に入り、後に徳川家康が直轄地として所有し、財源としました。

茶人の今井宗久は信長から課せられた矢銭2万貫を、堺衆を説得して献上、一早く信長に接近し、1570年には長谷川宗仁と共に生野銀山の支配を任されました。彼は鉄砲鍛冶や火薬製造などの事業も起こし、銀鉱山の経営と共に軍事産業にも手を広げ、巨万の富を得ます。千宗易(利休)は信長に鉄砲の玉を送っています。今井宗久は津田宗及や千宗易と共に信長の茶頭を務めました。

 

延沢銀山

延沢銀山は、室町時代に、名山巡礼者が出羽の白山神社にお参りした時に、変わった石を発見した事に端を発しております。発見者は儀賀市郎左衛門と言い、彼は生野銀山へ赴き石を鑑定して貰いました。その結果、銀鉱石と判明。それから採掘がはじまります。その後、延澤氏のものとなり、更に最上氏のものとなりました。江戸時代になると鳥井忠政→保科正之と管轄者が変わって行きます。

延沢銀山では、中央政権に食い込んで政商となった様な人物は見当たりません。幕府直轄領として繁栄して行きます。

 

ルソンの壺

ルソンの壺の事件は、利休が関わったようによく言われますが、実は利休とは関係がありません。ルソンの壺が呂宋(ルソン)助左衛門から太閤秀吉に献上されたのは1594年7月の事、利休は1591年に亡くなっております。

秀吉はルソンの壺を見て形・色艶・焼などに惚れ込み、茶葉の保存にも良いと、べた褒めに褒めて大名達の購買意欲を煽り、目の玉が飛び出る様な高値で売り捌(さば)きました。これ等の事は、宣教師の報告書に書き表されているそうです。

秀吉はフィリピン国王に対し臣従せよと高圧的に命令し、その上、貿易に携わっている者達にルソンの壺を一つ残らず探し出し、その中の良品を日本に送れと指示します。また、ルソンの壺を秀吉が独占販売する為に、日本に入港した船を一つ一つ長崎奉行が乗船して臨検し、隠されている壺が無いかを探し出すと言う程の徹底ぶりだったそうです。

大坂城の広間に50個ものルソンの壺を並べ、それを大名達に売ったというエピソードがあり、高値にもかかわらず全て売れてしまったとか・・・後で、ルソンの壺は現地では便器だったとか言う噂が流れ・・・ルソンの壺の熱狂は醒めて行きました。

実は、ルソンの壺はルソン(フィリピン)で作られたものでは無く、中国大陸で焼かれた陶器です。中国から南方に輸出され、フィリピンなどで生活雑貨として用いられていました。現地では安物だったそうです。

 

茶器の鑑定と売買

不思議なもので、同じ物であっても値段が安い物と高い物とでは受ける印象が大分違います。

例えば、町の瀬戸物屋さんに出来損ないの青磁の茶碗があったとしましょう。色は空色どころか枯れた竹の様な茶色い色をしており、焼むらがあり、ろくろ挽きが下手な、そういう茶碗に1,000円の値段がついていたら、あなたは買いますか? それとも、出来の悪いこんな茶碗に千円も払うのは勿体ないと、買わずに通り過ぎますか?

今度はその全く同じ茶碗を、絹の仕覆で包み、桐の箱に入れ、有名鑑定家が箱書きに村田珠光のものと極めを書き、5千万円で売りに出したならば、買い手がつくでしょうか? この場合は町の瀬戸物屋さんという訳にはいきませんので、勿論サザビーズのオークションに出品しますが・・・

侘茶の祖・村田珠光は貧乏でした。高価な茶碗が買えませんでした。そこで、出来損ないのB級かC級の安物の青磁茶碗を買って茶の湯に使用していました。珠光亡き後、それを千利休が手に入れ、それを「村田珠光遺愛の茶碗」として1千貫文で三好実休に売りました。三好実休亡き後、織田信長がそれを収蔵し、結果、本能寺で焼亡してしまいました。

モノの値段なんてものは、その様なものです。高ければ有難がって購買意欲をそそり、安ければ食指も動かしません。千利休は、その辺の人の心理を良く心得ていたようです。

彼は茶の湯名人として天下に聞こえ、抜群の鑑識眼を持っていると言う事で絶大な信頼を得ておりました。その信頼に乗っかって高値を好む人の心理を利用し、高額鑑定を出し、鑑定手数料を得ていました。日本全国引きも切らずに鑑定依頼が届き、また、彼自身も茶器類を積極的に売った事でしょう。三好実休に珠光茶碗を1千貫文で売ったくらいですから、彼の査定額はかなりの値段になったと思われます。また、彼が売った茶器類も、三好実休の場合を踏襲した様な値付けで行われたと思われます。

秀吉はそれを咎(とが)めます。後年、秀吉はルソンの壺でがめつさを発揮しますが、自分の事は不問でも、人がやっているのは許せないのです。独裁者の我儘です。

儂の禄を食(は)みながら、商売に邁進するとは何事ぞ! という思いがあったのではないかと、婆は勘繰っています。同時に、初めは利休が内政を仕切るのを容認していましたが、次第に口出しが多くなり、大陸遠征に反対するほど利休が大物になってきて、彼の存在が疎(うと)ましくなって来たのではないかと推測しています。

今井宗久が財閥化して巨大化すると、北野大茶湯を区切りに秀吉は宗久を遠避けて冷遇し、その代り新興の使い勝手の良い千利休を取り立てる様になります。それと同じ様な気持ちが秀吉の中に働いて、そろそろ利休を退場させようかという気分になっていたのかも知れません。利休に売僧の評判が立ったのを機に処断に動いた、とも考えられます。

 

 

余談  日本の鉱山

鉱山には金・銀・銅の鉱山も有れば、石炭や石灰岩の鉱山も有ります。砂鉄や珪藻土を採る鉱山も有ります。日本で採られたそれら全ての鉱山を、昔から現代迄にどれほどあったのかを調べてみました。かつては資源立国とも言える程の鉱山数を誇っていましたが、その90%以上が閉山しています。

今、主に採掘されているのは石灰石で、その他に陶土、カオリナイト、珪石、珪藻土類です。金・銀・銅・鉛・亜鉛などは僅かに産出していますが、資源枯渇や公害問題、坑内の出水問題、採算の問題などの多くの課題を背負い、かつての面影はありません。因みに、現在の鉱山の数を地方別に表示します。

「総鉱山数」は昔(およそ室町時代)から現在までに開かれた鉱山の数です。

「操業中」は現在操業している鉱山の数です。

「現在産出している物」は、現在操業している鉱山が採掘している鉱物の名前です。(ウィキペディア「日本の鉱山の一覧」を参照にしました。)

  地方名    総鉱山数 操業中 閉山数               現在産出している物

北海道     301     10        291  金、銀、鉛、亜鉛、水銀、銅、砒素、錫、鉄、硫黄

                                                                       石炭 、マンガン、 ニッケル、クロム、チタン等

東北地方   425    25        400  石灰石マンガン金・銀・銅・亜鉛・ウラン(研究

                      用)、ベントナイト、ゼオライト、珪砂、石炭、沸石

関東地方   195       32        163  石灰石、ベントナイト

中部地方  276      36        240  金、銀、鉄、鉛、亜鉛、陶石、珪藻土、亜炭、

                      カリ オナイト、石灰石天然ガス等々

近畿地方  332      19         313    石灰石、長石、けい砂、蠟石

中国地方  167      27         140    砂鉄、モリブテン、ゼオライトカオリナイト

                                                                          セリサイト、石灰石

四国地方  157      6         151  石灰石ドロマイト

九州地方  341     27        314         金、銀、銅、錫、アンチモン石灰石、珪石、

                      陶石、カリオナイト

 計    2,194     182       2,012

ベントナイトは粘土で。陶器や建築資材・洗剤・食品・農薬などに使われます。

ゼオライトは細かい多孔質のもので、イオン交換や触媒、吸着剤などに用いられます。

カオリナイトは粘土で、磁器を作るのに用いられます。長石や蠟石由来のものです。

セリサイトは、絹雲母(白雲母)の微細な粒子で、化粧品やセラミックの素材等に使われます。

ドロマイトは、セメント・ガラス・肥料・電子部品などの原料、食品添加物などに使われます。

 

これからはレアアースの時代と思われます。資源枯渇を嘆かないで、新しい鉱物を探しましょう。日本は造山活動が盛んだった国です。火山もいっぱいあります。きっと日本のいたるところにそれらが存在しているのではないかと、婆は夢を見ています。夢はでっかい方がいいです。

 

 

 

165 利休切腹(1) 木像事件

利休の突然の賜死は多くの謎を含んでおり、未だに解明されておりません。謎を解き明かそうと、多くの方が説を唱えております。それらを読む内に、一つ気が付いた事があります。それは当時の人の人権意識が、現代人とは全く違う事を、見落としている点です。

気に喰わなければ殺し、疎(うと)ましければこの世から退場させ、頭(ず)が高いと思えば首を落す。邪魔だと思えば消し、勢力が有り過ぎる奴は一族滅亡に至るまで探索して始末する・・・そういう人命軽視の有り様を、この「式正織部流「茶の湯」の世界」で、延々と述べて参りました。

実は、利休切腹、引いては織部切腹の起きた背景を描きたいが為に、戦史や武将の人生や権力の相剋などなどを飽きもせず連綿と書き綴って来た訳です。当時の恐ろしい時代に軸足を置いて利休切腹を見ると、謎解明のどの説を読んでも切腹やむなしと納得してしまうことが多いのです。

要は秀吉の胸三寸、虫の居所一つ、その虫の居所に忖度する忠実なる家臣の存在があります。

某大統領や某将軍様の国では、処刑や暗殺は日常茶飯事。理由なく命を奪われるそういう国と、表向きの理由を示されて賜死される秀吉の時代とは、五十歩百歩の差でしかないのかも知れません。

 

大徳寺山門木像事件

この事件は、千利休の木像を大徳寺の山門・金毛閣に置いた事に端を発する一連の事件です。

大徳寺の門は、時には天皇や貴人達も潜(くぐ)る門です。その頭上に利休の雪駄履きの像を置くなど以ての外、まるで貴人達を上から見下ろし足蹴(あしげ)にしている様ではないかと、僭上不遜の罪を利休は問われ、また、茶道具を売買して法外な利益を上げた、という罪も加えられ、秀吉より切腹を仰せ付けられました。

西暦1591.04.21(天正19.02.28)、上杉家の兵3千に囲まれた京都の葭町(よしやまち)の自宅で、利休は秀吉に謝罪することなく、静かに切腹したと言う話です。この話を、婆はしっかりと聞いています。間違いなく、利休は切腹し、亡くなったと信じておりました。

ところが、この話、記録者の中に実際に目撃した人は居ない、と言う事です。その時に生きていた人でも、野次馬になって利休屋敷の騒ぎや、戻り橋の磔された木像の現地を見に行った人の話では無く、人づてに聞いた話を「今日、こんなことがあった」と伝聞で書かれた日記がすべての元になっています。当初の公家の日記、僧侶の日記、侍の日記など、一致している所も有れば、違う所もあり、しかも、次第に物語化され、年月が経つ内に随分と話が膨らんできたようです。ごく初期の記録では、利休が切腹したと言う話は一言も書かれていないそうです。

 

利休は死んでいない

そもそも、利休は死んでいない、と言う説が近年浮上してきました。かなり有力な説の様です。

その証拠となるのが、秀吉が九州の名護屋に滞陣していた際、大坂の大政所(秀吉の母)宛ての書状で、『きのふ、りきうかちやにて御せんもあかり、おもしろめでたく候』(「昨日、利休が茶にて御膳もあがり、面白くめでたく候」)と書かれている事を挙げています。この書状は1592年に出されています。?????  つまり、利休が切腹したとされているのは1591年です。利休が死んでから後に、秀吉が自分の母に、利休の茶を飲んで御膳も食べ、とても満足したと書いている書状なのです。利休の幽霊が茶を点てた? ふむーー。おかしいです。耄碌秀吉、夢でも見たか・・・

 

利休は死んだ

古文書などでは、利休が切腹して死んだと言う話になっています。色々な人がそう書いており、切腹の時の様子など、まるで見てきたように詳しく書かれているものもあります。切腹した日は雷鳴とどろく嵐の日だったとか、切腹の使者に茶を一服点てて、それから切腹し、介錯の合図を送った、とかも言われています。茶室の床の間に腰かけて十文字に切腹し、はらわたを投げつけて絶命した、という話もあります。利休を慕う弟子達が利休を取り返しに来るのではないかと警戒して、上杉勢が3千の兵で屋敷を固めた、と言う話も有名です。

こうした話を、婆はずっと信じて来ました。利休生存説を知った今でも、「本当かしら」と言う疑念があり、なお、死亡説に心が残ります。何故なら、利休亡き後、一切の消息が途絶え、生きていた痕跡が、名護屋からの秀吉書簡以外どこにも見当たらないからです。

変な譬えですが、義経ジンギスカン伝説がある様に、利休が九州から大陸、あるいはルソンに渡ったと言うような噂話があっていもいいと思うのですが、一向にそういう言い伝えが出て来ません。人間一人、神隠しに在った様に全く消えてしまうのは、極めて困難です。大覚寺義昭の様に、逃亡に逃亡を重ねても九州で発見された例があります。利休ほどの茶人なら、いくら隠そうとしてもその人品骨柄に顕れる気品は、ド田舎の野人でさえ目を止めるでしょう。そういうおとぎ話が聞こえてこないのは、矢張り、この世に存在しないのではないかと、婆は思うのです。

 

利休の切腹は身分違い?

利休は商人です。武士ではありません。罪を咎められて死罪ならば処刑が妥当です。切腹は武士にとっての名誉の死です。商人に対して切腹の形での賜死は有り得ないと多くの人が言っております。当時の人も「おかしなこと」と言っております。更に異常なのは、利休が切腹するより前に、利休の木像を橋の袂(たもと)に磔(はりつけ)にしている点です。一貫性の無いこれ等の措置、秀吉の身に成り代わって考えてみますと、何となく分かる様な気がします。

なんせ秀吉は、茶堂として利休に3,000石の知行を与えていますので、利休は自分の家臣に準じています。しかも、天皇から利休と言う居士号を下賜された人物です。今後、朝廷との良好な関係を保つには、天皇の機嫌を損ねてはなりません。その辺りを徒(あだ)や疎(おろそ)かに扱えない為に、切腹と言う名誉ある死を与えたのではないかと推測しています。

 

不思議なタイムラグ

そして、これはもう一つ突っ込んだ話ですが、実は、秀吉は、利休に切腹を申し付ける気など当初は無かったのではないかと思われるのです。何故なら、木像を磔(はりつけ)にしてから切腹するまで3日間のタイムラグがあるからです。

普通の手順から考えると、切腹を申し付けた時、事前に、或いは同時進行で木像を山門から引きずり降ろし、利休の死を見届けてから、首桶を秀吉の下に運び、首実検をしてから(秀吉は首桶の蓋を開けるのを拒否したそうです)、それから一条戻り橋に運び、木像も同時に同所に運んで、その首を踏みつける形で木像を橋に縛り付けるのが、普通の段取りだと、婆は思うのです。

ところが、先ず木像の磔が行われました。それから切腹が行われました。利休の首を踏みつけにする形で「展示」するには、もうひと手間かかります。首を据える台を新たに作り、利休の首を橋の袂に運んで行って、新設の台に首を置き、首を踏みつけにする形で木像を設置し直し、縄を縛り直して磔の形に整えなければなりません。初めから死を想定しているならば、当初からそのつもりで設置の順序を考えたでしょう。

石田三成の様な能吏ならば、一度磔にしてから、もう一度縄をほどき、改めて二度手間の磔はしないと思います。何しろ三成は九州征伐の時、20万もの大軍の兵站オペレーションを手際よく陣頭指揮した切れ者です。木像磔と利休梟首の二重手間の不手際などしますまい。

このタイムラグは如何にもやっつけ仕事の結果の様に見え、計画的ではないのです。ということは、利休切腹は秀吉の突発的な命令の様な気がします。

 

 身代わり木像

これは多分、秀吉が利休に「言う事を聞かないとこういう目に遭わせるぞ」と言う脅しだと思います。身代わり木像のパフォーマンスをして、その罪を公に晒す刑に処したにのだと思います。今ならば炎上処刑でしょうか。ところが利休は脅しに屈しませんでした。謝りにも来ませんでした。秀吉は「儂の言う事が聞けぬか!」とイライラし始め、ついに「それなら勝手にしろ」とばかり感情を爆発させます。目を掛けていた分憎さも百倍、「あ奴は切腹じゃ、切腹させろ」とわめきます。天下様の命令は直ちに実行に移されました。(タイムラグから想像した婆の勝手なストーリーの内の一つです。論拠は全くありません。)

ここで思い出すのは、三好長慶の末路です。長慶は畿内を掌中に収めて一時期天下人になり全盛期を築きました。我が世の春は一瞬で、坂を転がる様に不幸が続きます。1561年(永禄4年)に3番目の弟の十河一存(そごう かずまさ/かずなが)が急死、1562年にすぐ下の弟の三好実休(みよし じっきゅう)が久米田の戦いで討死、1563年に嫡嗣子・三好義興が早世し、毎年身内を亡くしてしまいます。長慶は気鬱になり、次第に気が狂って行きました。そして、あろうことか、最後に残った2番目の弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)を城に呼び寄せて殺害してしまったのです。その裏には松永久秀の讒言があったと言われていますが、不確かであり、久秀にそれをする利がありません。長慶は冬康を殺してから55日後に病死してしまいます。近親者の死は相当のダメージを与え、判断力を失なわせてしまう事例です。利休が賜死したのは、秀吉が右腕と頼む弟・秀長を失った直後です。

 

利休切腹前後の動き

利休が秀吉の怒りを買い切腹に追い込まれたのが余りにも突然なので、その切っ掛けが何処にあるのかと、およそ5年前から探ってみました。直近の出来事としては、2ヵ月前に豊臣秀長の死亡がありますので、秀長の動きも視野に入れました。

と言うのも、家康の教唆により利休が秀長を毒殺したのではないか、という説があるからです。利休が秀長に毒を盛った為に、秀吉は有無を言わさず利休に切腹を仰せ付けた、という説です。いや、本当の毒殺の狙いは秀吉だった、と言う説もあります。逆に、秀吉が家康を毒殺する様に利休に命じた、と言う説も有ります。

どこに不都合があったか、1586年から1592年迄の年表を作ってみます。

1586.03.27(天正14.02.08) 豊臣秀長、病気療養で有馬温泉行く。

1586.05.23(天正14.04.05) 大友宗麟、秀吉に救済を求めて上洛。この時、秀吉は宗麟に「内々の儀は宗易に、公儀の事は宰相(秀長)存じ候。いよいよ申し談ずべし」と伝える

1586.12.06(天正14.10,26) 徳川家康、秀吉に対面の為上洛し秀長邸に泊る

1586.12.07(天正14.10,27) 秀吉、大坂城にて家康と謁見

1586~1587(天正14~15) 九州征伐 

1587.06.28(天正15.05.23) 大友宗麟、病死。享年58

1587.07,24(天正15.06.19) 豊臣秀吉筑前箱崎にてバテレン 追放令発布

1587.11.01(天正15.10.01) 北野大茶会。今井宗久、津田宗及、千利休担当

1587(天正15)                   北の茶会後、津田宗及、茶頭の地位解任

1587(天正15)                  千利休、3,000石の知行を賜る。

1587(天正15)                   利休、完成した聚楽第内に屋敷を賜る。

1588(天正16.01)             足利義昭征夷大将軍職を返上。室町幕府滅亡

1588(天正16)                  秀吉、堺環濠を埋め戻し命令を出す。

1588(天正16)                   山上宗二、『山上宗二記』の自筆写本を配布

1588(天正16.04.14)        聚楽第後陽成天皇行幸

1589.01.21(天正16.12.05) 秀長、木材事件の監督責任を秀吉から問われる

1589.02.15(天正17.01.01) 秀長、秀吉に祝賀の太刀進上後大坂へ出仕せず

1589.(天正17.01)              利休、大徳寺で亡父50回忌に永代供養料寄進。

1589.(天正17.12.05)         利休、大徳寺へ寄進の山門が落慶

1590(天正18.01)              秀長、病状悪化。小田原征伐に参陣できず

1590(天正18)                   千利休、秀吉の小田原征伐随行する

1590(天正18)                   千利休、陣中で竹花筒の銘「園城寺」を製作

1590.05.13(天正18.04.10) 利休の仲裁で、山上宗二、秀吉との面会

1590.05.14(天正18.04.11) 山上宗二、太閤の怒りに触れ打首になる。

1590.08.04(天正18.07.05)  秀吉、北条氏の小田原城を降伏させ.る。

1591(天正19)                  津田宗及卒。葬・堺の南宋

1591.02.15(天正19.01.22)  秀長、郡山城で病没。享年52

1591.03.19天正19閏1.24.)  利休、家康一人を招いて茶会 

1591.04.06(天正19.02.13)  秀吉、利休を堺へ追放。利休、即堺へ下る

1591.04.19(天正19.02.25)  利休木像、京都一条戻り橋の袂で磔にされる

1591.04.19(天正19.02.25)  利休、辞世をしたためる

1591.04.19(天正19.02.26)  利休を京都へ護送。京都葭屋町の自宅に入る。

1591.04.19(天正19.02.27)  利休の弟子達、利休を救う為に奔走。

1591.04.21(天正19.02.28)  利休切腹

1592                              名護屋の秀吉から大政所宛に利休の茶に言及

 

秀長毒殺説について

秀長は亡くなる4年ほど前に、病気療養で有馬温泉に行っております。その後九州出陣をしていますが、1590年の小田原征伐には体調不良で参陣していません。そして、翌年の1591年2月に亡くなっています。これを見ると、病気は長期間にわたっていることが分かります。

ヒ素による毒殺(いわゆる石見銀山鼠殺し)ならば、激烈な急性中毒症状が直ぐに現れる筈で、利休がその場から逃げる間も無く、家臣達に取り押さえられていたでしょう。朝鮮王朝では死刑に砒素化合物の賜薬を使っていました。和歌山毒物カレー事件で亡くなった方々の症状から推測しても、密かに毒殺するのは実行不可能です。

けれども、慢性ヒ素中毒ならば、有り得る話です。現在でも、飲み水の汚染によって慢性ヒ素中毒に侵され、悲惨な暮らしを強いられている方々がいらっしゃいます。飲み水ばかりでなく、美白化粧水や絵の具の顔料にも含まれています。ナポレオンの遺体からヒ素が検出されたので、砒素を長期にわたり盛られて毒殺されたと結論づけられていましたが、必ずしもそうでは無く、壁の塗料にヒ素が含まれていてそれに暴露し、皮膚から吸収されたのだ、と言う説や、セントヘレナ島の土壌に自然にそれが存在していた、と言う説も有ります。ゴッホの晩年の精神異常も、絵の具の化合物のヒ素や鉛の影響と言う人もいらっしゃいます。

もし、秀長が何らかの環境汚染でヒ素中毒に罹っていたならば、秀長だけでは無く、家臣や領民にも同様の症状が現れ、風土病的な状況になっていたでしょう。そういう話は何処にも出て来ませんので、環境汚染は考え難いです。

昔、秦の始皇帝の時代に、不老不死の薬や健康長寿の薬として、神丹、仙丹、金丹、君薬などがありました。大変高価な薬でしたが、その成分は硫化水銀に鉛、ヒ素などを配合したとんでもない物だったのです。宋の時代になるとその毒性が認識され始め、製造が下火になりました。けれど、梅毒の薬としてそれを含んだ薬を用いていました。当時の日本では舶来の薬として珍重されていたかも・・・

秀長が病気に罹っていた事は確実なので、ひょっとして当代の名医・曲直瀬玄朔(まなせ   げんさく)が診ているかも知れないと、彼の診療記録である『医学天正記』を紐解いてみましたが、『豊臣秀長様』もしくは『大和大納言秀長様』という項目を見つける事は出来ませんでした。代わりに『内大臣秀頼公御母』という項目を見つけました(知ってる名前を見つけて、一寸嬉しくなりました)。婆も老眼で目がしょぼしょぼしていますので、秀長の名前を見落としたかも知れません。

と言う訳で、秀長毒殺説にはどうも納得いかないものがあります。

 

 

余談  韓信(かんしん)の股(また)くぐり

韓信と言う人は、劉邦(りゅうほう)の国を興した時に、大いに活躍した大将軍で、軍師の張良(ちょうりょう)、丞相の蕭何(しょうか)と並んで、漢の三傑と呼ばれた人物です。

韓信が若い頃は大変な怠け者で、人の家に勝手に居候をしては食べさせて貰っていました。彼はいつも長い刀を持って徘徊していましたので町の嫌われ者でした。

或る時、若者が韓信を捕まえて、「やい、そんな長い刀を持ちやがって、本当は臆病者なんだろ。おいらが斬れるかい。斬れないなら、おいらの股ぁくぐれ」と挑発します。

韓信は刀に手を掛けますが、「いや待て。恥は一時のもの。ここで人を斬って罪を犯したら仇持になるだけではないか」と我慢して、韓信は若者の股をくぐります。

天下で活躍したいという大望を抱く韓信が、目先の屈辱に耐えて大出世をしたと言うお話は日本人にも大いに受け、この「股くぐり」の場面が歌舞伎の助六や、忠臣蔵などに取り入れられております。

「股くぐり」は人に対する最大の侮辱とされ、一方「股くぐり」で出世したのだからめでたい事だとも言われ、人によって受け取り方は様々です。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

『医学天正記2巻』 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/曲直瀬玄朔(まなせげんさく)著

高千穂町土呂久地区における公害健康被害慢性砒素中毒症)について 宮崎県

アジア砒素ネットワーク

ぎふ保環研だより第38号ヒ素について~食品に含まれるヒ素の話~

・「Academic Achievements和歌山毒物カレー事件における22年間の活動:小児と成人での急性ヒ素中毒の症状に違いに関するヒ素代謝の解明」

食品中のヒ素に関するQ&A-農林水産省

ヒ素~嫌われ元素の代表格~にまつわる話 神和夫

・「千利休切腹の状況及び原因に関する一考察----関係資料の分析・検討及び切腹原因に関する諸説の批判的検討------福井幸男」

表千家不審庵:利休の茶の湯とその流れ:晩年の利休

茶の湯の極意は自由と個性なり [あの人の人生を知ろう~千利休]

秀吉は謝って欲しいだけだった?千利休切腹事件の謎に迫る!

茶室の密室を悪用?!「千利休」が秀吉に切腹されられた・・・堀江宏樹

千利休切腹の理由を7つまとめてみた。

利休木像|茶の湯覚書歳時記-Amebaブログ

利休切腹の謎 我部山民樹

千利休切腹の背景伊達政宗徳川家康 前田秀一

「資料から読み解く新たな真実・ノジュール 河合敦の日本史の新常識第16回」

「古径宗陳」-千利休の師となる大徳寺の禅僧 武田鏡村

ウィキペディア」 「刀剣ワールド」 「ジャパンナレッジ国史大辞典、日本大百科全書、改訂版世界大百科事典」 「地域の出している情報」 「観光案内パンフレッド」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

 

 

 

164 権力の相剋

釜の前に独り坐し、有るか無きかの幽かな風を、立ち昇る湯気の揺らぎに感じながら、何時も通りの手順で茶を点てて行く。呼吸が整い、心が鎮まり、一盌を服して瞑目。明日は戦場ぞ・・・

人付き合いの茶の湯では無く、武将が内面で求めていた茶の湯は、そのようなものではなかったのかと、想像を巡(めぐ)らしている婆です。

およそ、戦は、地位や領地の奪い合いが元になっています。彼等の多くは禅に傾倒し、執着を捨てよの教えを耳にしている筈ですが、現実は執着の塊になって命を死線に晒しています。親子・兄弟・同僚であっても、主君と家臣であっても、隣国であっても、執着に突き動かされたその動きは変わりません。

武家社会、或いは軍政下の国では、ピラミッド型の支配構造こそ安定した社会を生み出すのであり、上意下達の縦の仕組みこそ、社会が上手く機能して行くと、考える傾向があります。

社会の安定と平和の為にピラミッドを造ろうと、「オレが」「アイツが」とお山の大将の登頂争いを繰り広げ、結局際限なく戦にのめり込んでしまいます。登頂争いに負けて屈服し、雌伏を余儀なくされた者は、その者と、その者に従う多くの人々に不幸な隷従を強いるのが、歴史の習いです。そうはさせじと、彼等は自身を奮い立たせ、戦場に向かって行くのです。

 

ナンバー2は殺される

天下麻の如く乱れた時代が長く続きました。領土の争い、家督の争い、ポストの争い、それらのどれもこれも当事者にとってみれば弱肉強食のコロッセウムであり、生存を賭けた必死の戦いでした。将軍家、大名家、武将、国侍等どのレベルの組織に於いても、トップと№2の争いは枚挙にいとまがありません。現在進行形のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、その辺のすさまじさが描かれております。

ナンバー2は殺される、とショッキングな小見出しを付けましたが、全てが全てそうとは言い切れないまでも、似たような状況がかなりの場合に見られます。殺されるか没落するか、逆転の下剋上を成し遂げるか、という際どい展開が繰り広げられているのです。

トップが秀吉で、№2が秀長で、家宰的役割を果たしていた利休が№3でしたが、秀長亡き後、№2に繰り上がった利休。家康や前田利家は表舞台の別勘定の№2。石田三成などは有能な官僚スタッフと言う所でしょうか。とにかく、権力に近づく時は、よほど注意しないと怪我をします。その様な例が数知れない程いっぱいあります。

因みに、歴史に名を残すようなトップと№2の争いを下記にざっと列挙してみました。

 

№1と№2の争い

記述は、対立者・両者の関係・勝敗の順です。括弧内は騒動・乱の名前です。

 

鎌倉時代

源頼朝 vs 源義経   

兄と異母弟。兄は将軍、弟は指揮官。頼朝、朝廷寄りの義経を討伐。義経敗死。

北条時政 vs 比企能員(ひき よしかず) 

執権と将軍頼家の乳母父。勢力争い。比企一族滅亡(比企能員の変)

北条時政 vs 源頼家  

執権と将軍。時政は頼家を暗殺し、また、頼家嫡嗣子・一幡を殺害、代わりに娘が乳母を務めた頼家の弟・実朝を将軍にする。

北条時頼 vs 三浦泰村 

執権と御家人最大氏族。泰村は三浦義村の次男。三浦泰村一族滅亡。(宝治合戦)

平頼綱 vs 安達泰盛  

得宗家家宰(執事)と執権北条貞時の外祖父。貞時14歳に付き、外祖父泰盛が後見。元寇後の幕政改革に着手するも公家・寺社の反対にあい、家宰頼綱の謀により安達氏滅亡(霜月騒動)

平頼綱 vs 北条貞時  

得宗家家宰と執権北条貞時安達泰盛排除に成功の平頼綱、政を壟断し恐怖政治を敷く。貞時、頼綱を警戒し、鎌倉大地震の混乱に乗じて頼綱を討伐(平禅門の乱)

新田義貞 vs 足利尊氏

中先代の乱で鎌倉陥落の報に、足利尊氏、鎌倉救援に向い、そのまま居座る。後醍醐天皇激怒。新田義貞を官軍の総大将にして足利討伐軍を発す。足利軍壊走し九州へ落ちる。

新田義貞楠木正成(くすのきまさしげ) vs 足利直義(あしかが ただよし)足利尊氏

義貞・正成の朝廷軍と、足利軍の直義(陸軍)・尊氏(水軍)。九州に落ちていた足利軍が東進、それを朝廷軍が湊川(現神戸市)で迎え撃つ。多勢に無勢で朝廷軍敗北、楠木正成自刃し、新田義貞敗走。足利軍勝利(湊川の戦い)

 

室町時代

足利尊氏 vs 足利直義(あしかがただよし) 

同母兄弟。将軍と補佐役。双方車の両輪の如き関係だったが、次第に路線が離れる。尊氏、直義を幽閉暗殺 (観応の擾乱)

足利義満 vs 懐良(かねよし)親王 

将軍と「日本国王良懐」。懐良親王後醍醐天皇の第8皇子にして征西大将軍。九州に在って日明貿易を司る。義満、日明貿易権争奪を仕掛ける。懐良敗走没落。

足利義満 vs 足利義持 

親と子。3代将軍と4代将軍。父義満は嫡嗣子義持よりも四男の義嗣を偏愛。義持、将軍就位後父の政治路線を否定し明と国交を断絶。金閣寺を除き鹿苑寺を破却。義嗣を殺害する。

土岐康行 vs 土岐滿貞 

兄と弟。康行は美濃・伊勢の守護。滿貞、将軍義満と密議し尾張守護になり土岐家の家督相続を図る。康行激怒し挙兵、義満これを討伐。康行没落す。(土岐康行の乱)

足利持氏 vs 上杉氏憲(禅秀) 

鎌倉公方関東管領鎌倉公方足利持氏関東管領上杉氏憲が対立し、持氏、氏憲を更迭。これに反発し氏憲謀叛。室町幕府は持氏を救援す。氏憲(禅秀)敗北自害(上杉禅秀の乱)

足利義持 vs 足利義嗣 

将軍と異母弟。上杉禅秀の乱の失敗の報に義嗣出奔。これにより禅秀の乱に呼応して、義嗣が反義持派の旗頭としての謀叛の計画が発覚。義持、義嗣を捕縛殺害。

足利義教 vs 大覚寺義昭 

将軍と異母弟。義昭(ぎしょう)大覚寺門跡。義昭、猜疑心の強い義教から逃れ寺を抜け出す。その行動に義教は義昭の謀叛を疑い、義昭を指名手配。九州で捕獲し自害に追い込む。

畠山持国 vs 畠山持永 

兄と弟。将軍義教、畠山氏の台頭を阻止すべく、結城合戦出陣拒否を理由に持国を隠居させ、弟の持永に家督を与える。嘉吉の乱で義教死亡すると、持国、直ちに持永を討ち、家督を奪う。

畠山持富 vs 畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)

養子と庶子。持富は管領・畠山滿家の子にして畠山持国の養子。義就は持国の実子だが母は遊女。持国、義就を溺愛し家督を義就に譲る。家臣これに反対。持冨病没。(応仁の乱)

畠山弥三郎政久・政長兄弟 vs 畠山義就  

弥三郎政久・政長兄弟は病死した畠山持冨の子。彼等と義就が対立。畠山家の家臣団は家督者・義就を納得せず、弥三郎・政長を擁立して争う。 (応仁の乱)

斯波義廉 vs 斯波義敏 

一族。斯波氏は足利家一門の筆頭で武衛の家柄。家督を奪い合い、義廉(よしかど)←→義敏の間を家督が行ったり来たりする。義廉は山名宗全を頼り、義敏は細川勝元を頼る。(応仁の乱)

 山名氏清・滿幸 vs 山名時煕・氏幸 

山名氏、全国66ヵ国の内11ヶ国を領有、六分の一殿と呼ばれる。山名氏勢力弱体化意図の幕府、山名氏内部の家督争いに介入、謀略を以って同士討ちを仕掛け、没落させる。かつての山名氏所領の内、8か国が諸大名に分配され、山名氏は3ヵ国の領有のみになる。 (明徳の乱)

山名宗全 vs 細川勝元 

舅と婿。初め友好的。畠山氏、斯波氏など各地で勃発する家督争いに各々支援、支持、庇護等により二大派閥が形成される。将軍家でも将軍弟養子・義視と将軍実子・義尚誕生の二つの対立軸が生まれ、対立抗争になる。宗全西軍総大将。勝元東軍総大将。両雄病没(応仁の乱)

足利義視 vs 伊勢貞親 

将軍弟養子と将軍実子義尚扶育の政所執事。貞親、義視の存在が将来的に義尚の脅威になると危惧。義視殺害を図る。が、失敗し失脚、後に復権(文正の政変)

足利義材(よしき) vs 細川政元 

将軍と管領。10代将軍・義材、畠山政長の要請で畠山基家(義豊)討伐の為親征。政元、畠山氏一本化で勢力拡大を恐れ、親征留守中、義材を追放し義澄を11代将軍にする(明応の政変)

茶々丸 vs 足利義澄

堀越公方嫡男と異母弟。茶々丸は品行不良にて廃嫡され幽閉される。異母弟(義澄)は上洛して出家、清晃と名乗る。父・堀越公方足利政知死後、茶々丸牢番を殺害して脱獄、二番目の弟と継母を殺し家督を奪取、重臣を殺害。明応の政変で清晃、還俗して義澄となり、11代将軍になる。義澄、伊勢新九郎(=宗瑞=北条早雲)を茶々丸討伐に向かわせ(伊豆討入)、茶々丸を自害させる。なお、茶々丸元服せず幼名のまま。

足利義稙(=義材) vs 細川高国 

将軍と管領。義稙(よしたね(=義材))、管領細川澄元を追放し、細川高国管領に据える。更に11代将軍の義澄を排除、10代将軍に返り咲いた。義材改め義稙と称したが、将軍代位は12代とはならず、10代のままである。後柏原天皇即位式直前、義稙、役目を放棄して京都を出奔。天皇激怒し、高国は義稙追放を決める。代わりに義澄の遺児・亀王丸(義晴)を将軍に迎える。義稙、淡路に落ち、落胆の余り病没。

 [細川澄之・香西元長・薬師寺長忠] vs [細川澄元・三好之長] vs [細川高国]

澄之、澄元、高国の三人とも細川政元の養子。他は家臣。細川京兆家(嫡流)家督争い。澄之、継嗣から外されるを恨み、家臣・元長・長忠と謀り細川政元を暗殺。(永正の錯乱)

細川尹賢 vs 香西元盛 

同僚。尹賢(ただかた)、羽振りの良い元盛を陥れ自害に追い込む。元盛の無実明白になり元盛の兄弟、自害を命じた管領細川高国に叛旗。

細川晴元 vs 細川高国 

元盛事件に呼応して細川晴元、義維(よしつな)を擁立し、打倒将軍義晴&高国を旗印に起つ。細川高国敗北し自害。(大物(だいもつ)崩れ)

細川晴元 vs 三好元長 

主君と家臣。晴元、義維推戴から義晴推戴に鞍替えするを機に、晴元の為に粉骨砕身して戦った元長を用済みにし、謀略にかけ戦場で元長を殺害。 (山科本願寺一向一揆)

三好長慶 vs 細川晴元 

家臣と主君。長慶は三好元長の嫡嗣子。長慶、父殺害の真犯人が晴元と知り、主君を晴元から細川氏綱に替える。晴元、長慶を恐れ足利義晴と13代将軍・義輝を連れて近江に逃亡。長慶、京都を掌握し天下を取る。

足利義輝 vs 三好長慶 

将軍と実質将軍。義輝・晴元軍3,000対三好軍40,000で戦い義輝敗北(相国寺の戦い)。この戦いに前後して幾度も交戦している。長慶没後、義輝将軍続投も、三好三人衆が義輝を殺害。(永禄の変)

 

戦国時代

武田信虎 vs 武田晴信(信玄) 

父と子。父信虎が嫡男晴信より次男信繁を偏愛。又、信虎暴君にして家臣領民迷惑。晴信、クーデターを起こし、父を駿河の国に追放。                                                                                                                                                                    

長尾晴景 vs 長尾景虎(=上杉謙信)

長男と四男。晴景は病弱、景虎は武勇に優れる。家臣に擁立されて四男の景虎家督を継ぐ。晴景は景虎を養子にして隠居。

足利義昭 vs 織田信長 

将軍と覇者。信長支援の下、義昭将軍になるも対立。義昭、信長討伐の命令を頻繁に出す。信長没後、義昭は秀吉に恭順。

豊臣秀吉 vs 豊臣秀次 

伯父と甥。養父と養子。太閤と関白。 小谷城攻めの時、調略上の都合で、秀次4歳の時、秀吉によって敵側の宮部継潤に養子(人質)に出された。その後、四国攻略の時には三好康長の養子に出され、最後に男子の居ない秀吉の養子になる。秀吉が隠居して太閤になり、秀次は関白になったが、その後に秀頼が生まれた。

秀次、関白就任により任官の人事権を手にする。諸大名、贈答品を携え秀次詣でに人が集まり始め、娘を献上する者も多かった。秀次も人事権を行使して叙任や役職を与えた。文化人も集まりだし、一大勢力が築かれつつあった。秀次増長。

太閤秀吉は、自身の許しなく人事権を行使した秀次を咎め、秀頼の将来を案じ、秀次討滅へと動く。秀次の悪評を流し、故に以って成敗するという形で切腹させる。併せて妻妾共々全て処刑す。秀吉、禍根の根絶やしを目論み、妻妾のみならず、秀次により任官されたもの全て連座させ、賜死の者、配流の者、失脚者多数(関白秀次事件)

 

この様に、浜の真砂は尽きるとも、世に争いの種は尽きまじと言えるほど、争いは絶えません。

平和な世になれば麒麟が来るそうですが、封建社会麒麟を呼ぶには、上記で述べましたように安定したピラミッドを築くのが一番の方法です。その為に、徳川家康は、2代秀忠の後継ぎの3代目を決める時、家督相続を実力主義や親の偏愛では無く、長幼の序を重んじ男子の嫡出長子が継ぐ様に手本を示しました。これによって畠山政久兄弟と畠山義就のような軍を動かしての紛争が激減し、せいぜい大名家内でのお家騒動に留まる様になりました。