式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

茶の湯

78 室町文化(5) 金閣寺

金閣寺 京都の北山にある金閣寺は、元はと言えば足利義満が建てた別荘でしたが、彼の死後、相国寺(しょうこくじ)に寄贈され、同寺の塔頭(たっちゅう)の一つとなりました。相国寺の境内から離れて、飛び地の様な土地に建っているお寺で、山号は北山(ほくざん)…

77 室町文化(4) 闘茶

お茶は、禅宗寺院内の茶礼が源流と言われています。 栄西禅師が宋から茶の種を日本にもたらし、九州の背振山(せふりやま)で栽培しました。それを明恵上人が分けて貰い、京都の栂尾(とがのお)でも栽培を始めました。栂尾での茶の栽培が成功し、次第に全国に茶…

76 室町文化(3) 婆娑羅(バサラ)

昔々、天竺の国にたくさんの神々がいらっしゃいました。 或る時、神々の王・インドラが、凶暴で邪悪な蛇神を斃そうと ブラフマー(創造神)に相談しました。すると、ブラフマーは、ダディーチャという光り輝く聖人の骨で棍棒を作り、それで打ち砕けば良いと教…

75 室町文化(2) 世阿弥

演劇論 大仰な身振りで、一丁先まで聞こえる様に泣き喚き、如何にも悲劇の真っ只中にあると言わんばかりの、そんな大根役者は願い下げです。また、激情のままに「聞いてくれ!俺の気持ちを」と騒音を撒き散らしながら歌う今時の歌手も、婆は苦手です。 彼等…

74 室町文化(1) 庶民の芸能

『(前略)犬田楽ハ関東ノ ホロブル物ㇳ云イナガラ 田楽ハナホハヤルナリ 茶香十炷ノ寄り合イモ 鎌倉釣リニ有鹿ト(後略)』 犬追いものや田楽は 関東を滅ぼしたものと言いながら 田楽は尚流行っています。お茶やお香の寄り合いも、鎌倉と同じ様な有様です(盛ん…

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

頼朝は芸術音痴? 源頼朝と言う男は芸術を全く理解しない朴念仁だそうだ、と京雀に嗤われたのは、東大寺大仏殿落慶の後でした。 平氏によって焼亡した大仏殿を、源氏の手によって復興しようと頼朝は決心し、東大寺復興にかなりの資金援助を提供しています。 …

72 室町時代(1) 義詮と義満

足利義詮 室町幕府2代将軍・足利義詮と、その息子の義満は育ち方がまるで違います。 義詮は幼い時から戦争に揉まれ、義満は乳母日傘で育ちました。 義詮は、元弘の乱の時に北条氏の人質として鎌倉に留め置かれました。父の尊氏が鎌倉に謀反すると、命の危険…

71 南北朝時代の年表

南北朝時代と言うのは、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた事に依り、京都の朝廷と二つに割れた1336年から、明徳の和約で南北合一する1392年までの57年間を指しますが、実際にはそれより3年前の建武の新政から数えた方が、時代区分としては分かり易い様な気がし…

70 南北朝(4) 明徳の和約

前項の「南北朝(3)」の「正平一統・和平の兆し」で、楠木正儀が北朝に寝返ったと述べましたが、そこに至る迄の間に様々な紆余曲折がありました。 南朝・後村上天皇即位 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)、後醍醐天皇が崩御されました。 後醍醐天皇の跡…

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

正平6年(1351年)11月、足利尊氏は、三種の神器の返還、政権返上、北朝の天皇・上皇を廃すると言う条件で、南朝と和議を結びました。 この和議によって今迄分かれていた南朝と北朝が、北朝が消滅する形で統一されました。 これを正平一統と呼びます。 南朝方…

68 南北朝(2) 観応の擾乱(じょうらん)

後醍醐天皇は吉野に朝廷を開いてからも、まだ覇権への望みは持ち続けます。 新田軍は越前の金ケ崎城で敗北、尊良親王と新田義顕は敗死します。新田義貞も藤島(現福井市)で討死、義貞の首は京都に運ばれて獄門に架けられたそうです。 後醍醐帝は懐良(かねよし…

67 南北朝(1) 北畠顕家

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇を批判し、堂々と真正面から諫めた人物です。『顕家諫奏文(あきいえかんそうぶん)』と呼ばれる彼の上奏文は、諸葛孔明の『出師(すいし)の表』に匹敵するのではないかと、婆は思っています。 略歴 顕家は、『神皇正…

66 建武の新政(7) 南朝樹立

第二次京都合戦 宮方の新田軍が湊川で敗れ、京都に向かって敗走して来る、しかも賊軍の足利がその後を追い駆けて来る と言う報せに、京都は上を下への大混乱に陥りました。 建武3年5月27日、後醍醐天皇は三種の神器を持って比叡山に避難します。その時、天皇…

65 建武の新政(6) 楠木正成と湊川合戦

当時の御家人は「利」を求めて走り、「利」が薄いと見るや忽ち離れます。「利」は恩賞。「恩賞」は土地。「土地」を得て一族郎党を養って行くのが生活の全てです。 その為には「利」の多い方に付くのは当然と考え、寝返りは日常茶飯事。戦の敗色が濃くなれば…

64 建武の新政(5) 箱根・竹之下合戦

新田軍は後醍醐帝の宣旨を奉じ、錦旗を掲げて 鎌倉の足利尊氏討伐に向かいました。 一方、朝敵になるのを恐れて尊氏は出家してしまいます。これに対して尊氏の弟・直義は交戦を主張、自ら軍を率いて京都に向かい西進します。 後醍醐帝側の新田軍は足利を討つ…

63 建武の新政(4) 矢作川合戦 

新しい御代が始まり意気盛んな帝を戴いて、陽気にお祭り騒ぎと思いきや、綸旨に追われて右往左往。世間様を上から下まで、聖から俗まで見渡して、鋭いまなこで軽やかに笑い飛ばして描き切る当世風刺の傑作の、二条河原に落首が一つ。この頃都にはやるもの夜…

62 建武の新政(3) 中先代の乱

武士は恩賞の為に戦います。一所懸命です。土地に命を懸けるのです。それが、朝敵から領地を没収する筈のものが諸国平均安堵令によって御破算になり、北条氏の所領のみの没収と言う事になったので、没収された土地の面積はぐっと減ってしまいました。 その少…

61 建武の新政(2) 綸旨乱発

元弘3年(1333年)6月5日、後醍醐天皇は京都に帰ると、スピード感を持って矢継ぎ早に様々な政策を打ち出します。 現・光厳帝を排し、荘園改革に抵抗勢力になりそうな関白・鷹司冬教(ふゆのり)を解任しました。同時に、先帝が公卿たちに与えた官位なども剥奪し…

60 建武の新政(1) 荘園制度からの考察

国衙領(こくがりょう)と荘園 権力者は富を欲し、富者は権力を望みます。 上皇や摂関家をはじめ貴族達は荘園を沢山持っていました。有力者の荘園は税金を免れていましたので、少しでも土地を持っている者達は税金を逃れようと、有力荘園に自分の土地を寄進し…

59 鉄と刀

製鉄事始め 天下五剣を生んだ背景には「鉄」の存在があります。 縄文時代の長崎小原下遺跡や、弥生時代中期の福岡県赤井手遺跡に鉄を作った形跡があるそうです。当時は朝鮮半島から鉄鉱石を輸入して鉄を作っていたそうです。 562年、任那(みまな)日本府が新…

58 天下五剣

伝説の名刀「小狐丸(こぎつねまる)」 「これは一条の院に仕え奉る橘の道成(みちなり)にて候。さても今夜帝不思議のお告げましますにより、三条の小鍛冶宗近を召し、御剣を打たせられるべきとの勅諚にて候ふ間・・・」 これは、能「小鍛冶(こかじ)」に出て来…

57 鎌倉文化(13) 工芸(織・漆)

舶来ものを珍重する気風は時代を問わず日本人にはあるようです。 元寇の後に途絶えていた大陸との交易も、幕府公認の貿易が再開されました。 日本の輸出品は、金・銀・真珠・水晶・琥珀・絹織物・硫黄・水銀・銅・鉄等々です。 元からの輸入品は、香木・漢方…

56 鎌倉文化(12) 肖像画・宋画

肖像画 鎌倉時代の肖像画で最も有名なのは、教科書にも載っている「伝源頼朝」像です。 これは「神護寺三像」と言って、神護寺で所有している三幅「伝源頼朝」「伝平重盛」「伝藤原光能(みつよし)」の肖像画の内の一幅です。三幅とも国宝です。 実は、これら…

55 鎌倉文化(11) 仏画

絶え間ない戦乱、飢餓、疫病に加えて元寇と言う国難、それに追い打ちを掛ける経済の破綻の中で、人々の間に末法思想が更に強く深く広がって行きました。この時代は、多様な宗派が出現した時代です。信仰も様々な形が共存し始めます。 念仏宗と美術 極楽往生…

54 鎌倉文化(10) 絵巻物

歌を詠み管弦の遊びに興じる大宮人から、軍馬を駆り雄叫びを放つ武士の世に変わると、光華やぐ昼から光が消え、芸術も急に陰った様な感覚に襲われます。 けれどそれは、外出先から帰って玄関に入った時に感じる一時の暗さであって、目が慣れると、そこに様々…

53 鎌倉文化(9) 歴史書・他

愚管抄(ぐかんしょう) 愚管抄は天台座主・慈円が書いた七巻にのぼる歴史書です。神武天皇から仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)(廃帝)までの天皇の歴代の年代記を書き、三巻目からは『物ノ道理ヲノミオモヒツヅケテ』歴史を、漢字とカタカナで書き綴っています…

52 鎌倉文化(8) 物語

前項「51 鎌倉文化(7) 日記・随筆」で方丈記を取り上げましたので、余談として「利休とあさがお」についても触れました。この時代の文学作品には茶飲み話によさそうなおもしろい話が沢山あります。 今昔物語 『今は昔・・・』で始まる今昔物語は、インドや中…

51 鎌倉文化(7) 日記・随筆

日記 日本人は日記を書くのが好きです。定番三日坊主はお愛嬌としても、古くは西暦935年に書かれた「土佐日記」を初めとし、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」と続きます。日記は個人史でありながら、その時代を映す大切な記録です。 鎌倉期に出た…

50 鎌倉文化(6) 和歌と五山文学

諸行無常の風の前に平家は滅び、貴族達は戦乱の坩堝(るつぼ)に投げ込まれます。運命に翻弄されながらも、万葉の昔から老若男女貴賤の別なく、人々はその時々の心を歌に詠んできました。平家や源氏の武人達も又、多くの歌を残しております。そして、歌をこよ…

49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

笏より重いものを持った事の無い優雅な人達から、鎧を着て刀を振り回す武闘系の人達の世に移ると、書の雰囲気も変わってきます。優美で流れるような書体から、力に満ちた書体になって行きます。 元との交流 1293年、鎌倉地震が発生し、建長寺の倒壊炎上を切…