茶の湯
前号では、室町幕府滅亡、浅井・朝倉滅亡、伊勢長嶋一向一揆討伐、長篠の戦いで織田・徳川連合軍勝利、そして、1576年3月25日(天正4年2月25日)に信長が安土城に入ったところまでを年表にしました。 今号は、手取川の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦い、高松…
「式正織部流「茶の湯」の世界」と標榜しながら、武士の歴史ばかりを述べているなんて、表紙と中身が違うではないかと、お叱りを受けそうです。が、式正織部流は武家茶です。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見れば分かる様に、或いは某国の軍事独裁国家の…
前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。 ※ 年表表記について 〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが…
前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。 ※ 年表表記について 〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分…
前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。 ※ 年表表記について 〇 西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇 元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇 年だけ…
織田信長と言えば、知名度抜群の戦国武将です。学校で習うのは勿論の事、小説で、映画で、テレビのドラマで、そしてゲームで、頻繁に取り上げられています。彼の生涯についてはそれ故、御存じの方が大勢いらっしゃいますので、ここでは敢えてそれを書かず、…
「天下布武」とは穏(おだ)やかではない。全く、信長は自分を何様だと思っているのか、天下を統(す)べるのは俺様だ、俺以外いない、とでも思っているのか、と咬みつきたくなる様なこの言葉。彼の戦歴や成し遂げた事業を列挙してみると、成程そう思っても仕方…
婆が若い頃、会合衆を「えごうしゅう」と読むと学校で習いました。今は、「かいごうしゅう」と読むのですね。検索して初めて知りました。このごろ時々、昔習った言葉が今では通用しなくなったという事態に遭遇します。昭和は昔に成りにけりです。やれやれ、…
みわたせば花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ 藤原定家 晩秋を詠んだこの歌を思い出す時、ふっと、もう一つの詩を思い浮かべる事があります。それは、フランスの詩人・ヴェルレーヌの詩の「落葉」です。上田敏の名訳で、ご存知の方が大勢いらっ…
茶の湯や茶道には色々な流派があります。どういう流派があるかをご紹介します。 ここでは流名のみで、流内にある各派は省略し、また、明治以降に興った流派も省略し、古い順から並べました。 珠光流(じゅこうりゅう)・小笠原家茶道古流・志野流・紹鴎流(じょ…
茶の湯は禅寺を母源としています。それだからでしょうか。茶人と呼ばれる人達の多くは禅宗の寺に入って修行する様です。村田珠光(むらた じゅこう)は一休禅師の下で禅の修行をしたと言われていますし、武野紹鴎(たけの じょうおう)も千利休も堺の南宗寺に参…
何事も夢まぼろしと思い知る 身には憂いも喜びも無し 足利義政の辞世 露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢 豊臣秀吉の辞世 位人臣を究め、天下の栄華を掌中に収めたかと思われた人が、私の人生は夢まぼろしであったと申されるとは、どん…
初期の頃の茶の湯は、別室でお茶を点ててお客様の下に運ぶ形式になっておりました。 (参照 : 「127 絵で見る茶の湯(1) 厩図」、「128 絵で見る茶の湯(1) 調馬図」) それはきっと、水屋仕事は汚れ物などを扱うので人目に付く場所でするものでは無い、という考…
侘茶の創始者は村田珠光(むらた じゅこう or しゅこう)と言われております。彼が行った侘茶とはどのようなものだったのか、彼以前の茶の湯はどうだったのかを、少しひも解いてみたいと思います。 さて、ここに茶道具が描かれた一つの絵巻物が、サントリー美…
このブログのシリーズで、最初の項から「135武家茶人 略列伝 ま行や行」までに取り上げた武士達を数えてみると、580名おります。 記事として大きく扱った武士だけでは無く、1回でも名前が出て来た人物を含めての数です。そこで、これ等の集大成として、彼等…
今回は、次の武将達を紹介します。 前田利長、牧村利貞、松井康之、松井友閑(徳庵)、松平定綱、松平正綱、松永久秀(弾正)、水野忠元、三好実休(みよし じっきゅう)、三好政長(宗三)、三好康長(咲岩(しょうがん))、村井貞勝、毛利秀包(もうり ひでかね=小早…
梅是百花魁 (梅これ百花のさきがけ)と申します。住宅街のあちこちの庭にちらほらと梅のつぼみを見る様になりました。日陰の霜柱も心なしか低い様な・・・ 「古田織部はウニのよう」と書き始めたこのブログは、4月で丸2年を迎えます。ようやく織部が生きてい…
戦国時代から江戸時代初期までで、武人の茶の湯に限って取り上げますと、その母集団に偏(かたよ)りがある為、古田織部の弟子達の名前が頻繁に挙がる様になります。 今でも社長がゴルフ好きなら、部下達もゴルフをやる様になります。取引先がそうならば、営業…
大学入学共通テストの初日、東大前の路上で刺傷事件が起きました。東京大学の医学部に入りたいと言う高校2年生が、成績不振を苦に、テスト受験生を無差別に刺したそうです。成績不振から、どのように考えたら他人を傷つける行動へと結びつくのか、何とも理解…
武士がお茶を嗜(たしな)んでいたからと言って、その人が茶人と言えるかどうか判断が難しいのですが、茶の湯を趣味としていた武士達がこんなにも居た、と言う証として、その名前をピックアップして列挙してみました。 但し、取り上げるのは戦国時代後半から江…
昔々のその昔・・・ 昔々のその昔、お茶の色は茶色でした。それが今では緑色に代わっています。そこには茶葉の製造方法に大きな変化がありました。 唐の時代、8世紀の頃、茶祖・陸羽(りくう)がその著書『茶経(ちゃきょう)』の中で、お茶は滋養や体調回復に良…
前項、前前項の「絵で見る茶の湯」の中で、馬の絵をダシにして茶の湯の話へ進めました。 馬と言えば、武士と切っても切れない縁があります。馬の善し悪しは、武士の生死を左右すると言ってもいい程ですので、もう少し馬の話をしてみましょう。 三大始祖 婆達…
『調馬図』 滋賀県に多賀大社(たがたいしゃ)という神社があります。そこに重要文化財の六曲一双の屏風があります。 『調馬図・厩馬図(ちょうばず・きゅうばず)』と言って、左隻に厩舎に繋がれている六頭の馬が描かれており、右隻には騎乗して馬を走らせてい…
何時の時代でも何々自慢と言う者はいるもので、武士であれば先ず自慢するのが「馬」。刀剣自慢も「馬」に劣らずおりますが、絵画に描かれているのは圧倒的に「馬」です。厩(うまや)図屏風は数多く描かれています。神社にある「絵馬」も馬ですし、加茂神社の…
近頃では、ペンを取って便箋に手紙を書く、と言う行為はすっかり廃(すた)れてしまっています。スマホに顔文字や記号を駆使して伝えるのが今の流行ですが、婆の若い頃は、遠くにいる相手に伝えるのは固定電話や手紙が主流。少しでも良い印象を与えようと、言…
七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき 鷹狩の時に俄雨にあい、近くにあった貧しい家に立ち寄り、雨具を貸して欲しいと頼んだ太田道灌。その家の女は黙って八重咲の山吹の一枝を差し出しました。その意味が分からず腹を立てた道灌は、館に帰…
お茶会が始まる時「お床拝見」をします。その時、他の流派では床の間の正面に座り、膝前に扇子を置いて拝礼し、拝見しますが、式正織部流では、拝礼はしますが膝前に扇子を置きません。 利休は床の間を「神聖な場所」或いは「冥界」と見立てています。ですか…
家系を繋ぐと言うのは何時の世でも大変な困難を伴います。足利将軍家は正にその典型でした。 男子が生まれない、生まれても大人になる前に病死してしまい満足に育たない、健康ならばそれで目出度いかと言うとそうでも無く、兄弟が死闘を繰り返す・・・徳川幕…
室町幕府は守護大名の寄合所帯です。足利将軍はその上に乗っかている御神輿の鳳輦(ほうれん)に過ぎません。足利家は御神輿の安定化を図る為に担ぎ手の守護大名の背丈を揃えようと、強大な守護大名を狙い撃ちにしては内紛を起こさせて弱体化を図り、挑発し…
南北朝の動乱の中、足利家で一つの悲劇が同時進行しておりました。それは、日本史最大の兄弟喧嘩とも言える「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」の始まりです。 室町幕府初代将軍・足利尊氏には正室との間に生まれた義詮(よしあきら)と言う男子と、無筋目の…