茶の湯
昔、婆は牧野富太郎博士に心酔し、植物採集に夢中になっていたことがありました。小学校出の人が東京帝国大学の先生になったという話に感動し、身近な植物へ目を向ける様になったのです。そこいら辺の空き地にわんさか茂っている草花を、採取しては新聞紙に…
令和6年1月1日、能登半島にマグニチュード7.6の大地震が襲いました。 能登は、今は亡き義母の故郷です。今からおよそ40年前、義母と共に私達家族が能登を訪れた事がありました。親戚廻りのご挨拶に或る家を訪ねた時の事、玄関の下駄箱の上に「ねこじゃらし」…
前号ブログ№202の不具合は容量オーバーと当方のミスにより発生いたしました。そこで、ブログ№202の全内容を、№202と№203に分割します。№202は7月8日に既にup済ですので、その後半を№203としてここにupします。 さ サガギク(嵯峨菊) キク科 キク属 ※参照 当ブ…
この茶花総覧は、花の開花を基に四季に分けております。が、自然界の事ですので、竹を割ったように季節が分かれる訳でもありません。春に咲き始め、立夏を過ぎて梅雨の終わり頃に枯れるものや、又、北と南では、同じ花でも咲く時期が大きく異なって参ります…
先日、千葉県市川市にある市川万葉植物園に行ってきました。植えられている植物が如何にも地味なものばかりですので、訪れる人は余りいません。けれども、利休が花活けに入れたかも知れないような草木が、その小さな公園につつましく一叢(ひとむら)ずつ咲い…
よく見れば ナズナ花咲く 垣根かな 芭蕉 ナズナはよく見ないと見落としてしまうほど地味な花ですが、とても可愛らしく、捨てがたい味わいが有ります。春から秋にかけて、何処にでも咲いている花なので、昔なじみの友達の様な親しみを覚えます。 先日、桜で有…
茶花(ちゃばな)シリーズも早くも夏に入ります。記載の約束事は今までと同じです。 草花の名を列挙して行くにしても、有毒植物のなんと多い事か。これ等の化学物質は、紫外線・虫の食害・カビ・ウィルス・渇水・生存競争などの、植物にとって過酷な戦いに打ち…
春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ 野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人 古人の若菜摘みの様子が目に浮かぶようです。そんな風に心のままに野に遊んでみたいものだと憧れていると、夫が「すみれ」はすみれさんかもしれないよ、と・・・うむー。オトナの解釈!…
春。草木は芽生え、鳥たちは恋をし、虫は活発に動き始めます。茶花(ちゃばな)の世界も多種多様に広がり、その数も爆発的に増えています。ここでは、伝統的な茶花ばかりでなく、茶花に向かないのではないか、と思われる異質の草木まで取り上げたいと思います…
いま、都会に空き地が少なくなりました。なかなか山野草なるものを手に入れるのは難しくなりました。ベランダでのプランター栽培にしても場所が限られ、幾種類に分けて季節ごとに栽培するのには限界があります。茶花(ちゃばな)を専門とする花屋でさえ、田舎…
明けましておめでとうございます。 いつもご愛読下さいましてありがとうございます。 これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。 昨年の最終稿は「古田織部百ヶ条」でした。その余韻を引いて、婆なりの茶席のイロハを綴り、年の初めの書初めにしたいと思い…
織部百ヶ条と言うものがあります。古田織部が大野修理大夫治長に宛てた巻物と言われております。原本は、あて先が誰だか分らないように削られているそうですが、墨筆なのでその痕跡が残っており、それで大野修理宛と分かったそうです。 噂(うわさ)によれば、…
ここでは、国立国会図書館所蔵の「宗甫公古織江御尋」の1冊目と2冊目を取り上げております。前号ブログ№192 古田織部茶書(1)で、市野千鶴子氏校訂の「古田織部茶書」に通し番号を振り、国会図書館本の原書「宗甫公古織江御尋書」と対比しながら、思いつくま…
古田織部の茶の湯を知るには、織部が弟子にどのように教えていたかを知るのが一番の早道です。 そこで、先ず「宗甫公古織へ御尋書」と言う書を取り上げてみたいと思います。 宗甫とは小堀遠州の事。古織とは古田織部の事。つまり、弟子の小堀遠州が、師の古…
武士の死に対する覚悟が、最も分かり易いのが辞世の句ではないでしょうか。そこで、辞世を取り上げてそれを考えると共に、現実に看取った義母の病床から天寿を全うするまでの様子を、重ね合わせて行きたいと思います。 かかる時さこそ命の惜しからめ かねて…
義父の頑固一徹の根底にあるのは「朝令暮改を戒(いさ)むる」の信念です。将棋の棋譜を読むような塾考熟慮の末に打った一手は、頑として動かさない、それが彼の矜持(きょうじ)でした。 また、こうも申しておりました。「好き嫌いを言ってはならない」とも。そ…
婆の義父は武士の末裔(まつえい)を誇りにしていた人です。平成になっても、厳格な家父長制度を具現した様な暮らしを守っていましたので、そういう事などを含めて我家を例に取って語って行けば、武士の暮らしの理解の助けになるかと思って筆を執ってみました…
式正織部流「茶の湯」の世界を書き始めておよそ3年半になります。 鎌倉幕府が開かれ、武士の世が到来した頃から書き始め、天下分け目の戦いの大坂の陣まで書き通して参りました。そして、武士とは何か、武士の間に広がった茶の湯とは何かを、権力闘争や文化…
山紫水明 白砂青松 の風景は、400年前の日本ではごく当たり前に見られたことでしょう。須磨や住吉の浦、近江八景、和歌の浦、三保の松原、天橋立などと思(おぼ)しき大和絵の、名所を描いた屏風絵に、色紙の和歌を散らして眺めて愉しむばかりでなく、その景色…
月のすむ 川のをちなる 里なれば 桂の影は のどけかるらむ これは帝が光源氏へ送った歌。それに対して光源氏はこう返します。 久方の 光に近き 名のみして 朝夕霧も 晴れぬ山里 源氏物語18帖 松風より [ずいよう意訳] 帝の御物忌みが明ける日に、源氏の君が…
桂離宮は数寄屋書院の最高傑作と言われています。 タテ・ヨコ直角に交わる幾つもの柱と梁、それが紡(つむ)ぎ出す方形の面の数々。研ぎ澄まされた線と、その緊張をいや増す四角い壁や障子が、心地よいリズムを奏でています。そして、柔らかさを醸し出す杮(こ…
公の茶、書院の茶と言われる式正織部流。私の茶・草庵の茶と言われる利休の侘茶。その二つにはどんな違いがあるのですか? 簡単に言えば、「公の茶」「書院の茶」と言われる式正の茶は、儀式で執り行われる茶湯(ちゃのゆ)です。将軍御成りなどの公式行事に組…
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」」 魔王と呼ばれ、合理的で新しもの好きで、芸術や茶を政治に利用した信長が退場しました。 派手好きの秀吉は、桃山文化を花咲かせました。 その跡を受けた家康、彼は芸術や茶に興味が無く、黙々…
織部内通の件に関して、もう一つ気になることが有ります。それは、織部の古田家と重勝流古田家の間に何かしらの交流があったのではないか、と言う疑念です。何度も申し上げました様に、重勝流古田は東西に分かれて戦っていますので、どうしてもその点が気に…
二人織部の古田重然と古田重勝。「古田重 」までは名前が同じですが、その人生は違っています。古田織部は大坂方に内通した嫌疑で捕えられ、切腹を命ぜられました。 内通と言うからには、そこには必ず人との接触が有る筈です。 「類は友を呼ぶ」「友達を見れ…
豊臣 対 徳川の戦いの時、真田家は家の存続を賭けて、どちらかが生き残れば良いという考えの下、意図的に敵味方に分かれたと言われています。織田家も長益(=有楽=如庵(信長弟))が徳川方につき、織田秀信(=三法師(信長嫡孫))・信包(のぶかね(信長弟))が豊…
古田織部には二人の人物が居ます。一人は皆さまが良くご存知の茶人・本物の古田織部正重然(ふるた おりべのかみ しげなり)、もう一人は、松坂藩藩主・古田兵部少輔重勝(ふるた ひょうぶしょうゆう しげかつ)です。司馬遼太郎もこの二人を混同しておりまして…
太閤秀吉が古田織部に「武士に相応しい茶の湯を創始せよ」と命じ、織部はそれに応えました。秀吉は、今、世の中で行われている茶の湯は町人の茶である、武士がやる様な茶では無い、と思っていたのでしょう。 侘茶の、余計な装飾を一切省き、冥界を思わせる様…
茶界の巨星墜つ、正に千利休の死はそう言うに相応しい出来事でした。利休が亡くなり、それを追う様に津田宗及が亡くなり、今井宗久が亡くなりました。三宗匠といわれた三人が相次いで3年以内に亡くなった事で、それまで二軍に控えていた古田織部が躍り出て来…
「歌 連歌 乱舞 茶の湯を嫌う人 育ちの程を知られこそすれ」と細川藤孝(幽斎)が言っていたそうです。 当時の武人達の教養には上の四つの習い事は欠かせなかったとか。その藤孝、和歌の教養で命拾いをしたというエピソードを持っています。ところが、お茶では…