式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

95 応仁の乱(6) 終結への道

全てのものには始まりが有れば終わりが有ります。けれども、何時の世でも、戦争ほど始めるのは易く、終わらせるのが難しいものは他には有りません。 畠山家の家督争いから始まった応仁の乱は、参戦者のそれぞれの思惑が絡んで様々な様相を見せる様になります…

94 応仁の乱(5) 開戦

畠山家の家督を巡り、義就 (よしひろ(orよしなり))と弥三郎政久との間で熾烈な戦いが繰り広げられてきました。弥三郎が亡くなった後も、その弟の政長との争いが続き、ついに京都の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)で対決する事になりました。(御霊合戦(ごり…

93 応仁の乱(4) 乱の前夜

室町幕府の政治体制はピラミッドの様な三角形をした支配体制の形ではありません。言うなれば、頂上がなだらかな丘の様になっていて、三管領四職の大名や重臣達の評議制の上に成り立っていました。将軍は一見その上に君臨している様には見えますが、将軍職と…

92 応仁の乱(3) 序章

汝(な)れや知る都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり) あがるを見ても落つる涙は 飯尾常房(いいお つねふさ) 応仁の乱で焼け野原になった都。婆の目には、終戦直後疎開から帰って来た時の東京の景色が、朧気ながら重なって目に浮かびます。 飯尾常房は細川成之(ほそ…

91 応仁の乱(2) 続・お家騒動

前項で、富樫氏、小笠原氏、六角氏、畠山氏、斯波氏を取り上げました。 ここでは土岐氏、赤松氏、山名氏を取り上げたいと思います。 土岐氏の場合 1342年(康永元年) バサラ大名・土岐頼遠(とき よりとお) が、光厳(こうごん)上皇の牛車に無礼を働いて捕らえ…

90 応仁の乱(1) お家騒動

応仁の乱は複雑過ぎて全体像を理解するのがなかなか難しいです。 そこで、こんがらかった糸を解きほぐす為に、それぞれの各守護大名の家庭の事情を集めたいと思います。その上で、それらがどの様に絡み合って行くのかを、見てみたいと思います。 先ずは富樫(…

89 趣味天下を制す 足利義政

室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、無気力で優柔不断、将軍としての実績を残さなかったばかりか、都を戦火で荒廃させた無能の将軍と誹(そし)られる事が多いのですが、どうしてどうして、彼の創造した「わび」「さび」の世界は、その後の600年…

88 足利義教(2) くじ引き将軍

宗教界の最高位の人が俗的権力を手にした時、往々にして暴走する事があります。まして神託によって選ばれたという自負がある場合、神が憑依(ひょうい)したかのように生死与奪の権を思いのままに振る舞い勝ちです。万人恐怖と言われた足利義教(あしかが よし…

87 足利義教(1) 将軍暗殺さる

嘉吉元年(1441年)6月24日、6代将軍・足利義教(あしかが よしのり) が、赤松家の西洞院二条邸に於いて催された猿楽の席で、暗殺された。義教は即死、随伴の守護大名の中に死傷者多数、現場は混乱を極めた。 [ 続報 ] 元侍所頭人・赤松満祐(あかまつ みつすけ)…

86 足利義持と上杉禅秀の乱

トップの座に据えるべき人物を選ぶのは大変です。最新のニュースでも、或る団体のトップ交代を巡る一騒動がありました。ましてや、帝位や将軍位にまつわる人事では、国を争乱に巻き込むような事態に発展する例が後を絶ちません。 足利義持 室町幕府4代将軍・…

85 元滅亡と朱元璋

日本の文化は、大陸の影響を受けながらも、それらを取り入れつヽ島国と言う器の中で独自に消化し発展してきました。 1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度の蒙古襲来を受けてから、大陸との交易が険悪になっていました。 この辺りで大陸の事情を探って…

84 室町文化(11) 武家礼法

式正織部流の茶の湯は武家の茶です。従って所作は武家礼法が基本になっています。清潔に、折り目正しく美しく、心を込めて敬い持て成すのを旨としています。 人は誰でも、雑な対応をされると不愉快になります。ぞんざいに丼物のご飯をにゅっと出されて、ドン…

83 室町文化(10) 連歌

連歌の始まり 倭建命(やまとたけるのみこと)が東北の遠征から帰る途中、供の者にお訊ねになりました。 『新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』(新治 筑波を過ぎて何日経ったのだろうか?) 御火焼(みひたき=篝火を焚く人)の翁が歌ってこう申し上げました…

82 室町文化(9) 東山御物

東山御物(ひがしやまごもつ)と言うのは、室町幕府八代将軍・足利義政が東山山荘に集めた書画文物の事を言います。これ等の蒐集品は義政が集めた物ばかりでなく、歴代の将軍達が集めた物も入っております。 東山御物の蒐集品群は、宋・元・明との交易によって…

81 室町文化(8) 水墨画

空山不見人 空山人を見ず 但聞人語響 ただ聞く 人語の響き 返景入深林 返景 深林に入り 復照青苔上 また青苔の上を照らす この詩は、王維が作った『鹿柴(ろくさい)』という有名な詩です。教科書か何かで一度は目にした事があるのではないでしょうか。王維は…

80 室町文化(7) 庭園

日本の作庭の基本は、自然の姿を写し取り、違和感なく住いに取り込む事に有ります。 自然信仰 古来の日本人は、八百万(やおよろず)の神が自然のあらゆるものの中に居る、と信じて来ました。神様は磐座(いわくら)や見事な大木を憑代(よりしろ)として降臨する…

79 室町文化(6) 銀閣寺

通称銀閣寺と呼ばれるお寺は、正式には東山(とうざん)慈照寺と言い、相国寺の飛び地にある塔頭(たっちゅう)の一つです。このように飛び地にある塔頭を境外塔頭と呼びます。金閣寺も相国寺の境外塔頭です。 銀閣寺の建っている場所は京都市左京区にあり、大文…

78 室町文化(5) 金閣寺

金閣寺 京都の北山にある金閣寺は、元はと言えば足利義満が建てた別荘でしたが、彼の死後、相国寺(しょうこくじ)に寄贈され、同寺の塔頭(たっちゅう)の一つとなりました。相国寺の境内から離れて、飛び地の様な土地に建っているお寺で、山号は北山(ほくざん)…

77 室町文化(4) 闘茶

お茶は、禅宗寺院内の茶礼が源流と言われています。 栄西禅師が宋から茶の種を日本にもたらし、九州の背振山(せふりやま)で栽培しました。それを明恵上人が分けて貰い、京都の栂尾(とがのお)でも栽培を始めました。栂尾での茶の栽培が成功し、次第に全国に茶…

76 室町文化(3) 婆娑羅(バサラ)

昔々、天竺の国にたくさんの神々がいらっしゃいました。 或る時、神々の王・インドラが、凶暴で邪悪な蛇神を斃そうと ブラフマー(創造神)に相談しました。すると、ブラフマーは、ダディーチャという光り輝く聖人の骨で棍棒を作り、それで打ち砕けば良いと教…

75 室町文化(2) 世阿弥

演劇論 大仰な身振りで、一丁先まで聞こえる様に泣き喚き、如何にも悲劇の真っ只中にあると言わんばかりの、そんな大根役者は願い下げです。また、激情のままに「聞いてくれ!俺の気持ちを」と騒音を撒き散らしながら歌う今時の歌手も、婆は苦手です。 彼等…

74 室町文化(1) 庶民の芸能

『(前略)犬田楽ハ関東ノ ホロブル物ㇳ云イナガラ 田楽ハナホハヤルナリ 茶香十炷ノ寄り合イモ 鎌倉釣リニ有鹿ト(後略)』 犬追いものや田楽は 関東を滅ぼしたものと言いながら 田楽は尚流行っています。お茶やお香の寄り合いも、鎌倉と同じ様な有様です(盛ん…

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

頼朝は芸術音痴? 源頼朝と言う男は芸術を全く理解しない朴念仁だそうだ、と京雀に嗤われたのは、東大寺大仏殿落慶の後でした。 平氏によって焼亡した大仏殿を、源氏の手によって復興しようと頼朝は決心し、東大寺復興にかなりの資金援助を提供しています。 …

72 室町時代(1) 義詮と義満

足利義詮 室町幕府2代将軍・足利義詮と、その息子の義満は育ち方がまるで違います。 義詮は幼い時から戦争に揉まれ、義満は乳母日傘で育ちました。 義詮は、元弘の乱の時に北条氏の人質として鎌倉に留め置かれました。父の尊氏が鎌倉に謀反すると、命の危険…

71 南北朝時代の年表

南北朝時代と言うのは、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた事に依り、京都の朝廷と二つに割れた1336年から、明徳の和約で南北合一する1392年までの57年間を指しますが、実際にはそれより3年前の建武の新政から数えた方が、時代区分としては分かり易い様な気がし…

70 南北朝(4) 明徳の和約

前項の「南北朝(3)」の「正平一統・和平の兆し」で、楠木正儀が北朝に寝返ったと述べましたが、そこに至る迄の間に様々な紆余曲折がありました。 南朝・後村上天皇即位 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)、後醍醐天皇が崩御されました。 後醍醐天皇の跡…

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

正平6年(1351年)11月、足利尊氏は、三種の神器の返還、政権返上、北朝の天皇・上皇を廃すると言う条件で、南朝と和議を結びました。 この和議によって今迄分かれていた南朝と北朝が、北朝が消滅する形で統一されました。 これを正平一統と呼びます。 南朝方…

68 南北朝(2) 観応の擾乱(じょうらん)

後醍醐天皇は吉野に朝廷を開いてからも、まだ覇権への望みは持ち続けます。 新田軍は越前の金ケ崎城で敗北、尊良親王と新田義顕は敗死します。新田義貞も藤島(現福井市)で討死、義貞の首は京都に運ばれて獄門に架けられたそうです。 後醍醐帝は懐良(かねよし…

67 南北朝(1) 北畠顕家

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇を批判し、堂々と真正面から諫めた人物です。『顕家諫奏文(あきいえかんそうぶん)』と呼ばれる彼の上奏文は、諸葛孔明の『出師(すいし)の表』に匹敵するのではないかと、婆は思っています。 略歴 顕家は、『神皇正…

66 建武の新政(7) 南朝樹立

第二次京都合戦 宮方の新田軍が湊川で敗れ、京都に向かって敗走して来る、しかも賊軍の足利がその後を追い駆けて来る と言う報せに、京都は上を下への大混乱に陥りました。 建武3年5月27日、後醍醐天皇は三種の神器を持って比叡山に避難します。その時、天皇…