2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧
諸行無常の風の前に平家は滅び、貴族達は戦乱の坩堝(るつぼ)に投げ込まれます。運命に翻弄されながらも、万葉の昔から老若男女貴賤の別なく、人々はその時々の心を歌に詠んできました。平家や源氏の武人達も又、多くの歌を残しております。そして、歌をこよ…
笏より重いものを持った事の無い優雅な人達から、鎧を着て刀を振り回す武闘系の人達の世に移ると、書の雰囲気も変わってきます。優美で流れるような書体から、力に満ちた書体になって行きます。 元との交流 1293年、鎌倉地震が発生し、建長寺の倒壊炎上を切…
茶掛けに盛んに禅語を用いるようになったのは、千利休が活躍した安土桃山時代ですが、鎌倉時代は禅宗そのものが日本に定着した時期でもありますので、ここで、茶掛けによく使われる禅語の一部を紹介したいと思います。茶掛けと言うのは、茶室の床の間に掛け…
禅寺では、お庭に楓の木を良く植えます。それは、春に芽吹き、夏に涼やかな木陰を作り、秋に紅葉して散って行く、その移ろいの無常を知る為と聞いたことがあります。人生の盛りもやがては死に向かうとの提示とか。東福寺の燃えるような紅葉にカメラを向けな…
律令制度から封建制度へ、貴族社会から武家社会へと歴史は移って行きます。 『行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・』と「方丈記」の中に書かれている通り、平安時代末期から400年以上に亘って激動の時代が続きます。宗教も又、旧来の…
祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理を表すにしては、なんと多くの人々の血が流れたことか。末法到来の噂に庶民は怯え、兵乱と病と飢餓からの救済を求めて、ひたすら仏に祈る日々。 平安時代、貴族は極楽浄土を求めて盛んに寺院造営を行いました。財力を注げば注…
後醍醐天皇隠岐へ配流 1331年4月29日、六波羅探題に後醍醐天皇の側近・吉田定房から後醍醐帝に謀反の動き有りと密告がありました。 吉田定房は従一位の内大臣で、後醍醐天皇を幼い時から養育した乳父です。つまり「爺や」です。帝を諫めても聞く耳を持たなか…
正中の変 1324年10月7日に、「正中の変」と言う討幕未遂事件が起きました。 幕府は事件の真相を調べましたが証拠が出ず、疑われた後醍醐帝は無罪、首謀者と言われる日野資朝と日野俊基の内、資朝だけが佐渡へ流罪、他はお構いなしの判決になりました。 首謀…
1297年、貞時が、御家人救済に満を持して発布した永仁の徳政令が失敗に終わり、更に1299年、再び元から朝貢を求める国書が届きます。 国内外に難問を抱えた貞時は、酒浸りの毎日になって行きます。 貞時は引退し出家します。息子がまだ小さいので、中継ぎに…