式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

211 式正茶法って難しいの?

質問番号は前号のブログ№210に引き続きますので、Q15.から始まります。

 

お点前(てまえ)について

Q15. 式正織部流って普通のお点前より時間がかかるって聞いていますが、本当ですか? 

A  はい。本当です。丁寧にやろうとすると、どうしても時間がかかってしまいます。

 

Q16. お点前に時間がかかって、足が痺れて大変だ、と聞いていますが、そういう時はどうするのですか? 

A. そういう時は携帯用の小さい腰掛椅子を使って下さい。茶会の時などはこちらで用意しておりますが、時には足りなくなる場合も有ります。正座で無く胡坐(あぐら)をかいても構いません。式正織部流は武士の茶です。事態急変で戦闘に突入する様な事があった時、足が痺れて動けなかったら、それこそ命とりですから、胡坐もOKです。

女性の場合は胡坐をかくわけにはいきませんので、腰掛けを使ったり、もし、それが無ければ、正座しながら足の裏を時々動かしたりして、工夫をしながら席に臨む様になります。

 

Q17. 免許皆伝のお免状は3年習ったら貰えますか? 

A . 率直に申し上げます。初伝は貰えるかもしれませんが、皆伝は3年では無理です。「石の上にも三年」と申しますが、どんな場合でも三年で身に着くのは基本の基です。お稽古に促成栽培は効きません。それは他流のお稽古であっても同じです。そして、やればやる程深くなりますので、一生お稽古です。

 

Q18. そうは言っても、抹茶をお茶碗に入れて掻き混ぜるだけでしょ? 3年も有れば十分だと思うけど。 

A .  お茶は、春夏の季節には風炉で点てます。秋冬の季節は炉で点てます。ですので、どのお点前も春夏と秋冬の2シーズンを経験しなければなりません。そういう訳で1年間に習えるお点前はそう多くはないのです。

その上、薄茶と濃茶、碗形の様な普通茶碗と天目茶碗の点て方の別があります。更に香点前や炭手前などが加わりますから、なかなか3年ではマスターできません。

 

Q19. あんまりお稽古の期間が長いと、月謝を払うばかりでちっとも稼げないじゃないですか。それでは先生になって元を取ろうとしてもコストパフォーマンスが低過ぎると思うんです。3年位で教えられるようになれば、コスパが良いかな、と思ったので・・・

A. 確かに言われてみればそうですね。ご懸念はご尤もです。

巷には1ヶ月の講習会を終了すれば、とか、或いは試験に受かれば何々資格が取れる、というものが沢山あります。そして、資格が取れれば収入手段に繋がります。自動車免許や介護士を始めとする多くの資格は、ン十年も習わなくても免許が取れます。けれど、日本の伝統芸能では3年習った位では一人前とは呼べない世界です。

茶湯も伝統文化の一つなのですから。

 

空也上人と瑞阿弥

 

Q20. 古田織部の家系は断絶したと聞いております。なぜ、織部の茶が今に伝わっているのですか?

A.  古田織部の子供達は皆刑を受けて死に絶えてしまいました。けれど、古田織部の女婿(じょせい)(=むすめむこ)で、古田重続という人がおりました。彼は九州の豊後岡藩に家老として仕えておりました。彼は婿ということで幕府からの追及を受けずに助かったのです。古田家は代々織部の茶法を伝えていました。

その子孫の宗関(重名(しげな))は、1839年(天保10年)に生まれ、豊後岡藩の家老職を勤めていました。明治維新の時、廃藩置県により失職し、東京へ移住。古田織部の茶法を教えて生計を立てました。

宗関は1898(明治31)年に『茶道恩知会』を創設し、娘・咲子(素春)、岡崎淵冲、原鉄石(宗改)などへ織部の茶法を伝えました。彼は1913(大正2.)年2月11日に没しました。

 

Q21. すると、式正織部流は古田宗関から秋元家に伝わったのですか?

A. 宗関の高弟・原鉄石(宗改)から秋元瑞阿弥に伝わりました。原鉄石は、宗閑が持っていた織部の侘茶法と式正茶法の内、特に願い出て式正茶法を伝授され、それを極めた人です。それを瑞阿弥に伝えたのです。

 

Q 22, 秋元瑞阿弥って、世阿弥のようで珍しいお名前ですね。普通、お茶の先生の号は「宗」とか言う字が付く方が多いのですが、何か謂(いわ)れがあるのですか?

A. 秋元瑞阿弥師は東京で秋元商会を立ち上げ商売をしておりましたが、出家なさっています。瑞阿弥は法号です。空也上人の宗派です。布教師としての資格を持ち、街に出て布教して歩いておられたと、当代から伺っております。秋元家の御仏堂に瑞阿弥師が布教に用いられた法具の、鹿の角の付いた杖や鉦(かね)と撞木(しゅもく)、瓢箪などが飾られていました。彫像や絵で見ていたそれがこれなのか! と 目の当たりにして、何とも言えぬ尊いオーラを感じ、感慨深く拝見させて頂きました。

 

Q 23. 空也上人と言えば、空也上人像が有名ですが・・・あの、口からお坊様が何人も出て来る不思議な像の?

A . そうです。あの空也上人の宗派です。あの像の口から出ているのは、阿弥陀様6体です。「南無阿弥陀仏」の六つの文字の一つ一つが仏様に変化する事を表しています。

阿弥の称号は阿弥陀仏の略です。ですから、瑞阿弥は瑞阿弥陀仏とも申します。

話は脱線しますが、観阿弥世阿弥も、正式には観阿弥陀仏・世阿弥陀仏と申し上げます。時には略して観阿とか世阿とかいう事も有ります。

 

Q 24. そうすると、空也上人の宗派は芸術家が信仰する宗派ですか?

A . いえ、芸術家専門の宗派と言う訳ではありません。空也上人は、浄土宗を開いた法然上人よりも230年以上前の人です。空也の教えは、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われると説きましたので、殿上人から下人に至るまでの信仰を集めました。只管(ひたすら)念仏を唱え、信仰の法悦をもって人々を極楽に導くという行動的な宗派です。念仏踊りでも知られています。実は、空也信仰は武士と深い関係がありまして、切っても切れない間柄でした。

 

Q 25. どういう関係ですか? イメージが湧きません。武士と言えば禅宗だと思っておりました。

A. 空也上人とその弟子達は色々な場面で活躍しました。道普請、橋掛け、灌漑(かんがい)工事等々色々ありました。戦場での彼等の働きも見逃せません。死に行く人に寄り添って極楽へ行ける様に引導を渡したり、戦死した兵士を埋葬したり、言わば戦場の宗教者としての仕事です。彼等は戦場に身を投じ、宗教者としての役割を果たしていましたので、対立する双方の陣から、陣地フリーパスの恩典を得ておりました。

 

明治以後の茶湯

 

Q 26. 式正織部流が千葉県の無形文化財に指定されるほど希少な流派だそうですが、もっと多くの人に知って貰ったら如何ですか?

 A. 有難うございます。そう言って頂けると端くれの婆でも嬉しくなって元気が出ます。式正茶の良さをもっと知って貰えたら・・・との思いでこのブログを書いているのですが、なんとも、ハァ、力不足で・・・

 

Q 27. 大体、ひょうげもんの織部が式正茶法をやるなんて、おかしいじゃないですか。いくら秀吉から『武家に相応しい茶を創始せよ』と命じられたって、織部が拓(ひら)いた織部独特の創造の世界と式正茶は真逆の世界ですよ。まるで、ピカソにダビンチ風に描けって命令する様なものです。そうじゃありませんか?

A. あ、成程。そういう風に考える方もいらっしゃるのですね。婆はその辺の事に全く気付かず、織部の茶法の二刀流の矛盾を、何の疑念も無く当たり前に呑み込んでいました。

婆はこう考えていたのです。散歩をする時は靴を履きます。家に上がる時は靴を脱ぎます。それと同じで、「場」が違えば、対応も違ってくるのだと。

将軍・秀忠の時代は、秀忠が古田織部の弟子であり、又、秀忠が織部に心酔していた事も有って、大名達は織部の茶法・特に式正の茶法を身に着けていました。それは、単に上様に忖度して「右へ倣(なら)え」だけの理由では無く、式正の向かう方向が彼等の地位と感性にマッチしていたからだと思っております。それに、将軍御成などの時に恥を掻かない為にも、式正茶法は必須教養だったのです。となれば、その家老たちも学ぶようになります。上級武士達の間にこうして式正茶法は広く浸透していました。

ところが、明治維新徳川幕府が瓦解(がかい)すると、かつての秩序は崩壊し、権威は地に墜ちました。式正茶法もそれを支える人達が世の中から退場してしまいましたので、すっかり行われなくなりました。

それに、明治維新後、茶の湯は式正茶だけでなく衰退の危機を迎えた時期がありました。

(※ 『武家に相応しい茶を創始せよ』と織部に命じたのは、太閤秀吉では無く、二代将軍・秀忠だった、という説が最近浮上しています。)

 

Q 28. 衰退? どういうことですか?

A. 明治維新になると、政府は先頭に立って西洋化に走り出しました。その影響で古き良き日本文化は顧(かえり)みられなくなり、多くの伝統文化が否定される様になりました。それまで文化の支え手であった大名達は没落し、表舞台から消えて行きました。爵位を得て活躍した大名達も、鹿鳴館に代表される洋風の風に踊る有様です。茶湯界は生計を立てるのに随分と苦労する様になりました。茶人の職業は政府により「遊芸稼ぎ人」に分類されたそうです。

これではならじ、と立ち上がった三千家は、京都府に上申書を提出したそうです。(※ 三千家表千家裏千家武者小路千家)

千宗屋著『茶 利休と今をつなぐ』によりますと、上申書では茶湯が単なる遊芸ではなく、礼儀忠孝を重んじる道であると説いております。彼等は、大名に頼らず財閥へとシフトし、更に、一般大衆に広く浸透して行くように活動して行きます。

茶道は良妻賢母に育てるに相応しいものであると、女子教育に取り入れる学校が出て来ました。花嫁修業の一環として一部の学校で取り入れられると、それが人気になり、以後、女性の教養に必要なアイテムとなって行ったのです。

一部の学校で女子教育に茶道が取り入れられると、それまで男性のものだった茶湯が、女性全盛の時代に突入していきました。財界では、茶湯は相変わらず男性のものとして残っていましたが、それも、戦後の財閥解体後は次第に影を潜めて、代わりにゴルフなどが流行る様になりました。

  

お稽古について

 

Q 29. 古田織部と言うと、織部焼きが有名ですが、お稽古を始めるには、織部焼きの茶碗を自分で用意しなければなりませんか? 

A. それは必要ありません。

式正織部流では、織部焼きに代表されるような歪んだお茶碗は使いません。形の整った茶碗を使います。ご自宅での練習用に買い求めるのでしたら、ご飯茶碗や汁椀の様な形をした抹茶用の茶碗を買い求めて下さい。

 

Q 30. お家元推奨の茶碗や書画骨董などを買った方が、お店で自分好みのものを勝手に買うより良いですか

A. 織部桔梗会は特定のものを特別に推奨する、と言う事は行いません。元々誰それ様お好みの・・と云う様な個性的な茶碗は使用しませんので、そういうものを斡旋する必要はないのです。短冊や掛け軸、水指なども同様です。

 

Q 31. もし、入門するとしたら、事前に準備する物は何ですか?

A. 最低限に「懐紙」と、「くろもじ」又は「菓子切」を用意した方が良いでしょう。その上で、それを入れる懐紙入れがあれば十分です。

袱紗も必要ですが、それはお教室に入門してから買います。市販の袱紗は使ません。何故なら、当流の袱紗は七つ桔梗の紋入りです。その袱紗を捌いて、折り紙のように折ると、その折り方によって表に現れる模様が変化します。それが見せ場でもありますので、他所の袱紗では具合が悪いのです。

※ 因(ちな)みに、当流の袱紗さばきや折り方には次のようなものが有ります。

草折り、行折り、真折り、短冊折り、兜(かぶと)折り、衣文(えもん)折り、烏賊(いか)折り、包み折り、屏風畳み等があり、柱結びでは蝙蝠(こうもり)、蝉(せみ)、鶴、昇り龍、下り龍などなどがあります。

 

Q 32. 事前に何も用意しなくても大丈夫ですか?

A. はい。ただ、お稽古が具体的に始まるまでに、「懐紙」と、「くろもじ」or「菓子切」を用意して置きます。

婆は長い間少ない道具しか持たず、自宅での練習はイメージトレーニングのエアーで殆ど行って参りました。恥ずかしながら未だに風炉も釜も台子も持っておりません。

もし、あなたが当初から先生を目指すのでしたなら、或る程度上達した時点で、段階を進むごとに少しずつ道具を買い揃えて行った方が良いでしょう。いっぺんに買おうとすると負担が大変です。

式正織部流には他流には無いお盆・茶碗台などの独自のものがあります。真台子は形が他流と全く同じですが、サイズが一回り大きいので矢張り他流との兼用は無理で、注文制作になります。(お稽古が進み奥伝になると、お盆や天目茶碗などを幾つも載せる様になります。そうなると普通サイズの真台子では載せ切れなくなりますので、どうしても特注品になってしまうのです。) 真台子点てはずっと後になって習いますので、入門時にすぐ必要は無く、その頃に用意してもよいかと思います。但し、これはあくまでも先生を目指す方へのアドバイスですよ。婆みたいに、無手勝流の者も大勢いらっしゃいます。

 

Q 33, お稽古に着物を着なければなりませんか? 着物について、なにかアドバイスが有れば教えて下さい。

A. 男性も女性も、お稽古は洋服で大丈夫です。動きやすいものがいいでしょう。タイトな服だと動き難いですし、足が痺れ易いです。それから、金属や石のアクセサリーは(腕時計も含めて)お稽古中は外す事。香水や芳香剤は控える事。

女性の方へ

着物のことですが、お手持ちにお母様やお祖母様のお着物があるのでしたら、わざわざ作らずにそれをお召しになったら素敵だと思います。

もし、お茶会用に初めて着物をつくるのでしたら、一つ紋の色無地か江戸小紋の着物の、どちらか1枚を作るといいでしょう。紋入りの色無地はフォーマルですし、季節に関係なく着られます。色の指定はありません。江戸小紋江戸城登城の時の裃(かみしも)の柄ですので、格式があり、色無地同様に季節に関係なく着られます。

一般的な小紋には色々の柄があります。大きな花柄ですと、描かれている花によっては着用季節が限定される場合がありますので、花柄を選ぶのでしたらオールマイティになるように、小柄なものを選ぶと無難です。

訪問着は略礼装で格があり選択肢の中に入ります。茶席に相応しいと薦めるお店の方もいらっしゃるでしょう。最初の一枚を作る時は色々迷うでしょうが、どのような季節でも場でも通用する様なものを用意するのが良いでしょう。

式正織部流は武家の茶湯なので、武家の奥方か娘の装いが目安です。華やかさよりも質実剛健を旨とし、お客様より控え目にします。また、茶道具より着物が際立って華やかで目立つものは、お客様の注視を着物が集めてしまって茶道具の影が薄れてしまいますので、その辺も考慮に入れた方が良いでしょう。くれぐれも他人と比べて着物の優劣を競ってはなりません。

男性の方へ

お稽古は普段お召しになっているもので大丈夫です。女性の方にも申し上げましたが、お稽古中はネックレスや時計などの金属類は外します。髪の毛などが散らからないように蓬髪(ほうはつ)は控え、きちんと整えて置きます。

茶席の点前やスタッフなどに臨む時は、紋付・袴になります。着流しはしません。

女性にしても男性にしても、入門して直ぐ着物を作るのではなく、しばらく様子を見てからの方が良いでしょう。お茶会などでは、担当する役割によって着物を着用しなければならないポジションと、そうでも無いポジションがあり、それはその時になってどういう役割に割り振られるのか分かりません。ですから、余り着物の事などに捉われず、ひたすらお稽古に励んでください。

 

Q 34. もし、あなたがこれから式正織部流を習う人にアドバイスをするとしたら、どんなアドバイスをしますか?

A. 少しずつ、倦(う)まず弛(たゆ)まず、一歩一歩歩みなさいと申し上げたいです。

それと、健康に心掛け、体幹を鍛えなさい、と。

立つも座るも歩くにしても、重心を丹田に落として動きを滑らかにし、姿勢を正して美しい所作をするには、体幹がしっかりしていないと務まりません。インナーマッスルを意識して、強靭かつ柔軟な筋肉と、しっかりした骨を持つように心掛けましょう。

猫背にならない様に、類人猿の歩き方にならない様に、顎が上がらない様にと、姿勢については色々注文がありますが、式正茶に於ける心構えとしては、能舞台に立つような気構えでお茶に臨んで下さい。

婆も80歳を越えて否(いや)が応(おう)にも年を取り、随分姿勢が悪くなりました。他人様に言えた義理では無いのですが、己の反省を込めて申し上げます。

 

 この記事を書くに当たり、下記の様な本やネット情報を参考に致しました。

茶 利休と今をつなぐ  千宗屋  新潮社

古田織部14世 宗閑居士百年忌記念 古田宗関 パンフレッド 宮下玄覇著

秋元瑞阿弥と空也念仏 -「織部桔梗会」創始者と関東空也の接点を探る 早乙女牧人

流祖・古田織部正と其茶道/秋元瑞阿弥

明治期東京株式取引所の株式取引制度 日本取引所グループ

東京国立博物館 特別展「空也上人と六波羅蜜寺

ウィキペディア 

ウィキランド 

織部流の概要-わかりやすく解説Weblio辞書 

茶道式正織部流-千葉県

文化財(県指定) 茶道 式正織部流 | 市川市公式Webサイト

伊藤先生インタビュー(1)-伝統文化資料室-g00

ひょうげみん|茶の湯こぼれ噺

季節と時節でつづる 戦国おりおり へうげもの古田織部切腹の余波 橋場日月

織部は大名じゃなかった可能性も!? 東京大学・本郷教授の「歴史キュレーション」

古田織部 | 朋庵・茶噺-FC2

一遍 いっぺん いつぺん(1239‐1289 ) 空也 くうや(903‐972) おどりねんぶつどりねんぶつ・をどりねんぶつ  はてなブログ

古田織部 | 朋庵・茶噺-FC2

この外にも書き切れない程の沢山の情報を利用させて頂きました。心から御礼申し上げます。

  

後記

いままで、「式正織部茶の湯の世界」をブログに書き綴って参りましたが、そろそろこの辺で筆を置きたいと思います。

2020年4月から書き始めたこのブログ、長きにわたりご愛読ありがとうございました。皆様方が読んで下さっていると思うと、毎日パソコンに向かうのが励みになり、生き甲斐にもなっておりました。ただ、近頃視力も聴覚も衰え始め、物忘れも多くなり、この辺が潮時かと思う様になりました。

駄文のつれづれ、お見苦しい点も多々あったかと思われますが、歳に免じてお許しいただきたく、ご容赦下さいますよう、伏してお願い申し上げます。

先輩諸先生方や、同僚茶友の皆様方のお支えを頂きまして、この上ない幸せ者でございました。端くれ者の婆のたわごとを、寛大にも御容認して下さった皆々様に心より感謝申し上げます。

また、このブログが書き綴られてこられましたのも、先達方々の叡智の結晶である論文や、書籍のお蔭であり、婆独りでは何も出来ませんでした。ネットで情報を開示して下さった方々がいらっしゃらなければ、それからそれへと話を進める事も出来なかった事でしょう。

仰ぎ見る方々へ、微輩の老婆から深甚より御礼を申し上げます。誠に有難うございました。

80年間の時代の進歩は凄いものです。若い頃は会社帰りに日比谷図書館に通い詰めて、書架から本を取り出しては、必要な頁をノートに鉛筆で書き写していました。ところが今ではインターネットで以前よりずっと知識が手に入り易くなりました。その恩恵に浴せる我が身が嬉しく、これからは机上の図書館を相手に楽しんで参りたいと思います。

長々と申し述べて参りましたが、向寒の折、くれぐれもお風邪を召しませんように、皆様のご健康と御多幸を切に祈り申し上げております。

               皆様のご活躍を念じて    かしこ

          2024(令和6)年12月1日

                         古田瑞陽

 

著者来歴 昭和18年東京生まれ。都立八潮高校卒。安田火災海上(株)就職。電算機室勤務。27才で結婚退職。二男一女の母。60歳の時、式正織部流の竹寶庵に入門、秋元瑞燕師・秋元瑞芝師の両氏に師事。茶湯歴20年。式正織部流教授。弟子をとらず専ら研鑽に励み現在に至る。(昭和18年生は届出年。実は17年生)

作品「おんばの話」 1992年第43回コスモス文学新人賞(童話部門)受賞。

著書「ガリバー君の特派員報告」。 1999年発行 絶版