式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

119 式正の茶碗 

前号で織部焼きの茶碗について触れましたが、式正織部流ではいわゆる「織部茶碗」と言う歪(ひず)んだ茶碗は使いません。また、織部釉(緑色)の茶碗も「織部流だから」と言って使かわばならない、と言う決まりもありません。

式正織部流で使う茶碗は、ご飯茶碗の様な形をしたもの(井戸形(いどなり))や、汁椀の様な形をした物(椀形(わんなり))、そして、天目茶碗(天目形(てんもくなり))を使います。

天目形というのは、前項でも申し上げましたが、口造りを少しすぼめて、口縁に金輪を嵌め込んだ茶碗の事を言います。大体が茶褐色か黒色で絵柄は付けず無地です。禾目(のぎめ)天目とか油滴天目と言うのも有ります。

式正織部流が用いる茶碗から察して頂ければ分かる様に、侘茶が興ってくる以前の、唐物趣味の時代の様式を残しています。

 

茶托と茶碗台

式正織部流を名乗りながら、何で織部茶碗を使わないのかと言いますと、要は歪んだ茶碗は「使ない」のではなく「使ない」のです。

事はこうです。話は「今」に飛びます。

もし、あなたの家にお客様がいらっしゃった時、先ず居間にお通ししてお茶を差し上げます。その時、あなたは湯呑のお茶をそのまま出しますか? それとも、茶托に載せてお出ししますか? 紅茶の場合はカップだけ? それともソーサー(受皿)をつけてセットでお出ししますか? 

茶托やソーサー無しの対応は、身内か、かなり気楽な友達付き合いの範囲です。茶托やソーサーが付いていると、ちょっと一目を置く相手と言う事になります。

さて、式正織部流ではお茶を必ず茶托に載せてお客様にお出しします。茶托と言っても特別仕様の茶托でして、抹茶茶碗が載る様な大振りの漆塗りの茶托です。それを茶碗台と言います。

茶碗台に載せて客様にお茶を差し上げ、決して直に畳にお茶碗を置くような事はしません。

 

茶碗台の形

そこで、織部焼きの歪んだお茶椀ですが実を申せば、あの様な茶碗は茶碗台に載らないのです。糸底が大き過ぎて茶碗台に納まりが悪かったり、腰の張った茶碗の側面が茶碗台の羽根の曲面にぶつかったり、或いは腰が張り過ぎて羽根の曲面に茶碗の腰が乗っかってしまい、高台が浮いてしまう事態になったり・・・と言う物理的な問題があって、織部茶碗は使えません。と言う訳で、式正織部流ではオーソドックスな茶碗を用いています。

茶碗台には3種類の形があります。

薄茶用茶碗台、濃茶用茶碗台、そして天目茶碗用の天目茶碗台です。

薄茶用茶碗台は、普通の茶托を大振りにしたものです。羽根の直径が135㎜、高台を置く内径が56㎜、高さが35㎜あります。

濃茶用茶碗台は、普通の茶托を大振りにしたもので、底が抜けています。真ん中の丸い窪地、つまり、高台を置く平らな場所がそっくり抜けていて、向こう側が見えています。濃茶の場合ですと、茶碗台の上に古帛紗を敷いてその上に茶碗を載せるので、中央が抜けていないと、古帛紗の厚みなどで茶碗の納まりが悪いのです。濃茶用茶碗台の大きさは、羽根の外径が135㎜、中央の抜けている部分の内径60㎜、高さ30㎜です。

天目茶碗用茶碗台は、台座の上に羽根があり、更にその上に球体の台座が付いています。球体は空洞で天地が抜けています。太鼓の、革の両面が張られていない状態です。天目茶碗は高台が低くて小さいので、倒れない様に高台をすっぽり球体の中に納め、球体の台座の縁で支える様な構造になっています。

天目茶碗で薄茶を点てる時は古帛紗を用いませんが、濃茶の時は茶碗台に古帛紗を敷きます。

天目茶碗に濃茶を点て、台座+羽根+丸い台座の三段重ねの天目茶碗台に、更にその上に古帛紗を敷いて濃茶を差し上げると、「殿様になった気分です」と皆様は喜んで下さいます。因みに、式正織部流の濃茶は練りません。薄茶同様に、細かくクリーミィに泡立てて服し(飲み)易くしています。

天目茶碗台の大きさは、羽根の外径が150㎜、球体の直径が70㎜、全体の高さが70㎜です。

 

各服点て(かくふくだて)

式正織部流では濃茶の場合でもその人の為にだけ一碗のお茶を点てます。三人のお客様ならば三回お茶を点てます。回し飲みは絶対にしませんので、安心して服して頂けます。こういうやり方を各服点てと言います。近頃感染症の話題で持ち切りですが、400年以上も前に、清潔第一にして各服点てを考案した織部も凄いと思います。

それは又、師・千利休に対する反抗の狼煙(のろし)でもあります。

利休は一座建立の精神に則(のっと)って、主客共にその場の雰囲気を作り上げ、そして、一碗を啜(すす)り合って互いの仲間意識を養い、平等を確認し合う、と言う事に意義を見出しています。

ところが、これは武家社会では相容れない仕草です。何故なら、武家社会は軍隊組織。命令系統が上意下達(じょういかたつ)の完全ピラミッド型です。つまり、垂直思考です。

平等思考はピラミッドを根底から覆(くつがえ)す原動力になり得ます。その思想を秘めた茶道が、公家・大名・武士・町衆に至るまで無邪気に持て囃されて全国に蔓延する危険性は、キリスト教と同じ位危険なものと、秀吉の目には映った事でしょう。

秀吉は、利休の水平思考に危うい臭いを嗅ぎ取って、古田織部に「武家に相応しい茶を創始せよ」と命じました。その言葉を裏返せば、利休の茶は武家に相応しくないお茶であると、秀吉は断じたのです。

 

利休切腹の背景

今迄このブログでは、茶道の話題に余り触れてきませんでした。武士の勃興から天下大乱の歴史に重点を置き、大部分の頁をそこに割(さ)いて参りました。その意図は、武家政権内の権力の相克(そうこく)を焙(あぶ)り出し、武士とは何かを探る旅でした。武士の世界では、お山の大将は唯一人でなければならず、二人は要らないのです。

利休は逆に、皆が平等になり、和敬清寂を実践すれば天下に平和がもたらされると、考えます。

利休が切腹を命ぜられた根底には、この水平思考が潜(ひそ)んでいると、婆は見ています。大徳寺の木像事件があろうが無かろうが、いずれは秀吉から退場させられる運命にあった、木像事件はたまたまの口実に過ぎないと、婆は考えます。

これは秀吉と利休の、思想と思想の激突です。ですから、互いに言い訳もしなければ、許しもせず、命乞いもしません。木像の不始末を謝っても、それは明後日(あさって)の方向違いですから、解決にも何もならなかったと思います。周りはそれが分からないから混乱し、利休に「頭を下げて謝りなさい」とか、太閤に「許してあげなさい」と忠告を繰り返すばかりです。いずれ、これについては項を改めて取り上げる積りです。

 

 

余談  井戸形(いどなり)

井戸形というのは、井戸茶碗の形をした茶碗の事を言います。

井戸茶碗と言うのは、朝鮮の庶民が使ったご飯茶碗の様な焼物です。朝鮮では大した焼き物では無いと思われていましたが、日本の茶人達がそこに興趣を覚え、珍重しました。

井戸茶碗の特徴は、土の地肌をした素朴なもので、ビワ色の釉薬を掛け、高台とその周辺に梅花皮(かいらぎ)というブツブツが湧いている点です。

梅花皮と言うのは、元は刀の柄(つか)に巻く鮫の皮の鰄(かいらぎ)から来ています。白い小さな丸いブツブツが梅の花に似ているので、鰄に梅花皮の当て字をしてそう呼んでいます。

 

 

余談  大谷吉嗣(刑部)と茶会

或る時、大坂城内で茶会が開かれ、集まった豊臣の武将達はお茶の回し飲みをしました。大谷吉嗣もその席にいましたが、彼は重い病に罹っており、常に白い頭巾で顔を隠していました。吉嗣の飲んだ茶を受けるのを誰しも嫌った中で、只一人・石田三成だけがそれを受けて美味しそうに飲んだそうです。大谷吉嗣は三成に感激し、関ケ原の戦いで西軍側に付いたと、言われております。

これは有名なエピソードです。が、婆は疑り深いですから、ホントかいな、と信じていません。

回し飲みについて

回し飲みは、例えばお客様が30人居れば、30人分のお茶を一つの茶碗に点てるのか、と言うと、そうではありません。そんな事をしたら茶碗は鍋の様な大きなものになってしまいます。

回し飲みの場合、小丼位の大きさの茶碗を幾つか用意し、何人分かずつ一纏めにしてお茶を差し上げます。3人ずつ一纏めにする事も有れば、5人ずつ分ける事も有ります。例えば、正客-次客-三客を一括(くく)り、次正客-次次客-次三客で二括りと言う風にして、正客や次正客など、何正客と名のつく正客ごとにお茶を差し上げます。そして、そのグループ内での回し飲みをするのです。大谷吉嗣が客人に来ていれば、彼をグループ内の最後の席次にすればいい訳で、そうすれば彼の後を受けて続けて飲む人はおりません。そう言う配慮を、亭主はする筈です。

この時の亭主は誰が務めたか分かりませんが、亭主が回し飲み推奨の利休なら、グループ分けして行うでしょうし、織部なら各服点てをするでしょう。秀吉か、或いは別の人であっても、いずれも利休か織部の弟子。そうするに違いありません。

茶会は、お茶を運ぶ人や陰点ての人など裏方のスタッフを合わせると結構な人数を要します。総指揮を執る亭主は万事に目配せして、落ち度のない様に取り計らいます。病気の人が居れば、互いに嫌な思いをしない様に、それとは気付かれない様に配慮します。それが茶人です。お持て成しです。

大坂城の茶会なら草庵の茶会では無く、書院の茶です。各服点てが本筋です。と、婆は考えますので、大谷吉嗣と石田三成のこのエピソードは、作り話ではないかと疑っているのです。