式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

188 侘茶・式正・桂の茶

式正織部流「茶の湯」の世界を書き始めておよそ3年半になります。

鎌倉幕府が開かれ、武士の世が到来した頃から書き始め、天下分け目の戦いの大坂の陣まで書き通して参りました。そして、武士とは何か、武士の間に広がった茶の湯とは何かを、権力闘争や文化など、余りにも多方面にわたって触れてきたせいで、焦点がぼけてしまった感があります。

古田織部はウニのよう、と書き始め、ウニの棲む海の世界を描き、ウニの正体を暴(あば)こうとして参りました。いやいやどうして、なかなか一筋縄ではいきません。あと、もうひと踏ん張りと意を新たにした今、数寄屋書院の傑作と言われる桂離宮の項に至り、千利休古田織部の生き様とは全く違う別世界の、まるで月に住んでいる様な人達に出会いました。それは貴族という一握りの文化人達です。

 

桂離宮の茶亭に見る喫茶去(きっさこ)

桂離宮に現存する茶亭は四つあります。それらを見てみると、千利休の茶室や織部の茶室とは明らかに違っております。

何が違っているかと言うと、先ず開放的な事です。密室にはなっておりません。と言う事は、狭い空間で膝を突き合わせて、一座建立と言って亭主・客共々心を合わせてその場の雰囲気を盛り上げようとする意図が、その間取りから抜け落ちている様に感じられます。仲間内で結束を固めるとか、交流を図って人脈を広げるとか、謀議を図るとか、そういう目的意識は全くなく、そこには「お茶でも飲んで楽しもう」という気楽な雰囲気があり、誰でもウエルカムの姿勢が伺えます。

勿論、離宮が殿上人の別荘である以上、そこに集(つど)う人達はそれなりの地位か、文化的に高い教養のある方々でありましょう。誰でもウエルカムと言っても、それなりの範囲はあります。それにしても、躙(にじ)り口を備えた茶室は松琴亭一つのみで、その他の茶亭にはありません。茶室のセオリーを無視した造りです。つまり、頭を下げさせなくても良い仲間内の茶室と言う事になります。

 

桂離宮の躙り口と飛び石

ならば、何故松琴亭に躙り口があるのか、というと、多分「庶民がすなる躙り口といふものを、吾もしてみむとて・・・」の遊び心ではないかと、思われます。遊園地のびっくりハウスに入る様なドキドキ感を演出する罠(わな)に、笑い戯(たわむ)れながら自ら引っ掛かってみる、それもまた一興と。

山家の草庵を念頭に造られた侘茶の茶室は、如何にも自然らしいと思わせる為に、茶亭までの露地に自然石の飛び石が配されております。けれど、桂離宮では人工的に手を加えた延段(のべだん)という敷石を敷き、歩きやすくしております。

桂離宮の主人も客もお公家さん。履物は浅沓(あさぐつ)でしょう。草履(ぞうり)ではありますまい。山里を装って自然石を並べるよりも、離宮の庭が山里そのものなのですから、歩きやすさを優先して石を加工し、表面を平に削り、玉石の平らな面を上にしてびっしりと敷き込んだ「あられこぼし」の道の方が、御身を気遣っての最高のお持て成しになります。

 

桂離宮での点前は?

建物の造りや間取りから、婆の妄想は果てしなく膨らみます。開放的な茶室で点てる茶は、自ずと利休の侘び茶や織部の茶とも違って来るかと思われます。

月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒のいずれを見ても、炉が有り、棚がありますので、此処に四方棚(よほうだな)や台子を持ち込まなくても、お茶は点てられそうです。

間取から見て、月波楼では少し人数が増えてもお茶会は出来そうですが、他の茶亭ではお客様をお呼びできる人数は1人~3人ぐらいかと思われます。多分お客様は直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)のゆったりした着物や僧服をお召しでしょうから、余り席を詰め合わせられないでしょう。と、考えると、ここでは本当に気心の知れた方々の和気藹々(わきあいあい)とした茶湯が行われていたのだろうなぁ、と想像してしまいます。

各茶亭の建て方を見ると、権威ぶった重々しさよりも軽(かろ)みが勝(まさ)った造りです。こういう造りは、茶湯に親しみ、連歌に興じ、月を愛でる公達(きんだち)「遊びをせんとや生まれけむ」と集(つど)うに相応しい舞台装置のような気がします。

 

茶湯(ちゃのゆ)の四流

茶湯には大雑把に言って四つの流れがあります。

一、茶礼

先ずは原点の禅林における茶礼です。大陸からもたらされた茶は、健康長寿や二日酔いの薬として、また、座禅の眠気を払う飲み物として大切に扱われました。

二、柳営茶湯

政治に倦(う)んだ足利義政が、無聊(ぶりょう)を慰める為に東山第を造営し、能阿弥はじめ同朋衆(どうぼうしゅう)らと共に茶湯を追求、完成させました。その頃、世の中には闘茶が流行っておりました。

三、侘茶

村田珠光が侘茶を創始します。堺で茶湯が流行り、多くの茶人が現れました。その中の一人・千利休が侘茶を完成させ、侘茶の時代に入ります。力を握った武士達の間に空前のブームが起こり、侘茶が柳営茶湯を席捲(せっけん)、政治に利用されるようになります。

四、式正茶湯

古田織部による式正の茶湯です。式正の茶湯は武家社会の儀式で行う正式の茶湯です。その本歌を柳営茶湯に取り、規矩(きく)を明確にした武士に相応しい茶に改編しました。

儀式の茶湯とは、将軍御成の時などに行われる茶湯です。

 

この様に分類してみましたが、桂離宮を知った今、それに「桂の茶」を加えたいと、婆が勝手に思っております。自由の茶、興趣の茶と申しましょうか、天上の茶と申しましょうか、おおらかな茶湯があっても良いのではないかと考える次第です。

自由で大らかな茶と申しましても、そこは貴人の茶湯。野放図で乱暴に崩した茶道では無く、それなりの心得を持った人達の優雅なものに違いないと、想像しております。

 

侘び茶

茶の湯とは ただ湯をわかし 茶を点てて のむばかりなる ことと知るべし』とは言いながら、躙り口を設け、ソーシャルディスタンスを破る程の狭い空間を造る事から見ても分かる様に、そこには利休の考える理念があり、その理念の枠に客を押し込んで従わせようとする強烈な意思があります。桂離宮の茶亭にはそれが見られません。そういう束縛から解き放されています。

千利休は商人の視座から茶の在り様を発信しました。商業仲間の「座」の考えを基底として平等を解き、武器を持つ侍の恐ろしさを無力化する為に、躙り口で頭を下げさせ、刀を取り上げ、「和敬静寂」「一座建立」を提言して茶の世界を席捲しました。そこに刀の無い平和な空間がありました。密室であり、謀議に都合の良い空間であるという特性は、武将達の心を捉えました。加えて、茶湯(ちゃのゆ)は自分磨きの道でもあるとして、禅宗と共に素養を高める術(すべ)となって行ったのです。

「侘び」「寂び」を唱え、茶室内では平等を皆に求め、自らも実践して行った利休。しかしながら、利休は秀吉の権力の中枢に居て政道の片翼を担う様になり、矛盾を抱えたまま秀吉のブレーンになって行きます。利休が地位にまとわりつく利益に手を染めて巨利を得るようになって、利休の影響力が爆上がりして行くのを見て、秀吉は利休排除に舵を切ります。

秀吉の人の心理を見抜く嗅覚は、動物以上に鋭敏です。頭も明晰です。そして、それを覆い隠す道化の振る舞いも天下一品です。最下層に生きた人間にのみ備わる人間観察力と処世術、それが秀吉の最大の武器です。その武器を、秀吉は利休に向けました。

 

利休の生涯はそこで終わりますが、彼が完成した侘茶はその後も脈々として受け継がれ、今日まで途切れずに続いております。

利休が茶湯に求めた人間社会の階層の変革は成りませんでしたが、求めてやまなかった侘びの世界の美の追求は、その輝きを失わず、日本の美の真髄を世界に発信し続けています。

 

織部の抜かり

古田織部の視座は勿論武士の側に立っています。彼は「左様」「しからば」の武士の属性に生き、体制のピラミッドを構成する一員として生活の基盤を得ながら、心は武士的な発想よりも芸術家の好奇心に支配されていました。その為、山城国の一領主でありながら内政を家臣に任せ、茶の湯一筋にのめり込んでしまいました。

もし、充分に領内の政治に目を行き届かせ、家臣の掌握に努めていたならば、重臣の木村宗喜の京都放火未遂の所業や、息子の動きに足元を掬(すく)われる事なく、天寿を全うしたであろうと思われます。木村宗喜を早期に処断し、関係者を一掃し、謀叛への関与を知らぬ存ぜぬで押し通し切れば、御家安泰を図れたかもしれまません。鎌倉時代から戦国時代迄の武将ならば、当然やったであろう果断なる領内統制を、しかし、彼はそれをしませんでした。監督不行き届の責任と、彼自身の大坂寄りの心情を黙したまま、最後は武士らしく切腹したのです。

この様に彼も武士と芸術家の二束草鞋の矛盾を抱えていました。

 

式正の茶

織部の茶湯は二通りの遣り方に分かれています。師・利休から受け継いだ侘び茶と、式正の茶湯です。式正の茶湯は、武士に相応しい茶湯を創始せよとの秀吉からの命令で創始された茶の湯です。

利休の侘茶全盛の時に求められた武士の茶とは何か? の答えを、織部は過去を遡って東山文化の柳営茶湯に求めました。式正の茶湯は、従って全く新しい茶湯では無く、古風を掘り起こして当世に合わせて改編したもの、と婆は考えています。いわば、伝統の復活です。

室町時代の初期の頃は、水屋に造りつけた棚にお道具を並べ、そこでお茶を点ててから客がいる書院へ運びました。それが、造り付けの棚が台子になり、隣の部屋で陰点てして書院の客に茶を献ずるようになります。更に進化し、台子を書院に運び込んで客の前で点てる様になりました。こうなると、お点前の腕を客の前に晒すようになりますので、所作に一段と磨きが掛かり、見せる茶湯の要素が強くなっていきます。

織部は、侘茶では盛んに創作茶碗を使用しました。水指も「これは」と思う様な変な器などを好んで使っていました。

ところが、式正織部流では、天目形(てんもくなり)や碗形(わんなり)、井戸形(いどなり)などを用います。沓形(くつなり)や楽焼に見られる半筒形(はんづつなり)などは用いません。

侘茶では陶磁器製の水指、蓋置、杓立等を主に使用しますが、式正織部流では唐銅(からかね)製のものを多用しています。風炉は唐銅製で鬼面風炉が決まりです。炉の縁は漆塗りが必須です。木地のままや透き漆の炉縁は使いません。と言う様に、同じ織部が作った茶流であっても、様相が違ってきます。

 

武道と能と

式正織部流の所作(しょさ)は、一つ一つ折り目を付けながらの動作になります。これがなかなか難しい。動きは総じて武士の動きに準じていまして、ちゃんとできれば隙の無い所作になり、見た目も美しくなります。

例えば正座から立ち上がる時を書いてみますと、次の様になります。

先ず、正座の状態の時、丹田に重心を落し、側面から見た場合、頭頂から耳-腰まで下ろした垂線が一直線になる様にします。顎は引きます。両膝は拳一つぐらい開けます(男性の場合。女性はぴったり付けます)。両手は軽く膝の上に置きます。

正座から腰を少し浮かせます。頭を揺らしません。両足の踵を上げて爪立ちし、跪座(きざ)の構えになります。重心を安定させ、いざと言う場合でも即応できる様な構えです。次に上体を足に載せたまま左足を後退させ、右足を後退させ、左足又は軸足ですっと立ちます。立った時、足が前後になっていますので、それを揃えます。揃えてから自然体の姿勢になります。客より遠い足から一歩目を踏み出します。摺り足です。と言う様に、一つの動作を完結してから次の動作に移ります。かといってギクシャクした動きではなく、淀みない流れに乗るようにして、お点前をしていきます。

一事が万事、武道かお能かと思う様な所作で進行していく訳です。日本のお稽古事は形を覚える事から始まる、と言われています。式正茶湯も様式美を大切にしています。それでこそ将軍御成の茶湯が成り立ちます。

 

各服点て

式正の茶は儀式の茶湯ですから、茶室には躙り口はありません。立ったまま入る貴人口の御成書院の茶室になります。帯刀も有りです。亭主と客の上下関係ははっきりしています。何故なら、将軍御成は君臣の結び付きを強くするために行う行事なのですから。

臣下は馬や太刀などを献上して臣従の証(あかし)を示し、将軍はそれなりの物を返礼として御下賜して、本領安堵を約束する、そういう儀式の式次第が数寄屋御成には組み込まれています。

こう言う茶湯ですから、一座建立、人皆平等の考えは無く、茶碗の回し飲みはしません。勿論、根底には清潔を保つ、という大前提があります。上様が口をお付けになった茶盌を回し飲みして、陪席の人物がそれを飲むなど恐れ多くて以(もっ)ての外です。陪席の人物と言えども、それなりの地位のある方ですから、やはり、一人一人独立峰の如く敬い、一客一碗の各服点てになります。

秀吉が織部に「武家に相応しい茶湯を創始せよ」と命じたのは、利休の侘び茶では、このような場面では用が足りないからだったと思われます。

 

武士の素養

数寄屋御成の儀式の茶湯は、織部後を受けた小堀遠州片桐石州、上田宗箇などが出てきて時代に合う様に変化して行きます。太平の世の到来に、鋭い侘びの美意識にもゆとりが生まれます。織部の革新性も影を潜めます。そして、そこに雅(みやび)さや平凡さ、言い替えれば誰でも受け入れやすい普遍性が生まれてきます。

上が行えば下も見習うと申しますが、正にその通りで、将軍-大名だった儀式の茶湯は上層から下士達へと広がって行き、やがて武士の基本素養になって行きます。

武家の男子は、武術はもとより、論語四書五経軍学等の学問、そして、茶湯によって行儀作法と素養を身に着けなければなりませんでした。

八尾嘉男氏小堀遠州武家の茶湯」の研究に依れば、小堀遠州が催した寛永16年2月7日(1630.03.11)の朝の茶会に、松平越前守、織田左衛門佐、道安と共に、数え年6歳の松平万助(忠俱(ただとも))が参会しています。

万助は掛川藩主・松平忠重の嫡嗣子。これが彼の御砂場デビューならぬ外交デビューになりました。が、この5日後、父・忠重は死去、万助は直ちに家督を継ぎます。そして、藩は移封され、幼くして信濃国飯山藩の藩主になりました。

 

桂の茶

侘び茶は「侘び」に捉われた茶、式正の茶は格式と様式に捉われた茶、何にもとらわれずにただ茶を飲んでたのしむ茶湯は桂の茶でしょうか。

桂離宮には茶亭が幾つも有ります。きっとそこで幾多の茶会が開かれたでしょうに、そこで行われた茶会記は後世に伝わっておりません。勉強不足で断定するのも烏滸(おこ)がましいのですが、親王様達は、書くまでもない事として、さらっと流していたのではないかと、勝手に考えております。

茶会記は、用いられた茶碗の銘や、お道具の名前、掛物の作者などなど、その時に出された諸々の物や参加者の名前を記録しております。お蔭様で茶会記によって、当時の茶会の様子などを知る事が出来ます。茶入れや茶碗の銘を知り、凄い茶会だったらしいと後の世の人々が感心したりするのですが・・・物欲が無いと申しましょうか、顕示欲が無いと申しましょうか、茶会記を記さなかった親王様達は、お手持ちのお道具に心を奪われることなく、日常の什器のように何気に使っていらっしゃったのではないかと思われます。羨ましい茶の境地です。

 

 

余談  天目形・井戸形・碗形

茶湯で「形」という漢字が出てきたら、それを「なり」と読みます。「かたち」とは読みません。普通の会話で「あの人は身形(みなり)が良い」と言うのと、同じ感覚です。

天目形は天目茶碗の姿をしている茶碗です。代表的なのは国宝「曜変天目茶碗」です。

井戸形は、朝鮮半島で焼かれた普段使いの茶碗の形で、ご飯茶碗の様な形をしています。

碗形は、味噌汁椀の様な形をしています。

古田織部は、織部焼きと言って歪(ゆが)んだ茶碗などを好んで使っていました。ただ、正式な儀式で用いる茶盌は、神に捧げる器の様に歪みの無い茶碗を吉祥としていましたので、式正織部流茶湯では天目形や碗形などの様に、型崩れしていない茶碗を使う様になっています。尤も、形の歪(いびつ)な茶碗は、茶碗台に安定させて載せる事が出来ないという、物理的な理由もあります。

 

 

 

この記事を書くに当たり、下記のようなネット情報を参考に致しました。

仏教大学 徳川将軍家の茶湯と大名茶人個 小堀遠州武家の茶湯 八尾嘉男

奈良大学リポジトリ 徳川和子の入内と藤堂高虎 久保文武

「第2部 茶道上田流」<上>流祖の美学 剛健な武、風雅さ宿す

「第2部 茶道上田流」<下>上田屋敷再現 武家の風格漂う空間

遠州茶道宗家 十三世家元 不傳庵小堀宋実-大和ハウス工業

日本文化と禅 石州流の成立とその特色 小田守

茶の湯入門 さあさ一服」④茶の湯の歴史  

長野義嗣 茶道家現代美術家 武道茶道上田宗箇流製享受者

月波楼-桂離宮 waseda.ac.jp

京都の四季 桂離宮 その4 書院 月波楼 さすがに美しいです。

笑意軒|京都奈良文化財保護サイト

桂離宮 月波楼  けんちく探訪

この外にウィキペディア」、「コトバンクなどなど多くのサイトを参考にさせていただきました。有難うございました。