式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

137 村田珠光

侘茶の創始者村田珠光(むらた じゅこう or しゅこう)と言われております。彼が行った侘茶とはどのようなものだったのか、彼以前の茶の湯はどうだったのかを、少しひも解いてみたいと思います。

さて、ここに茶道具が描かれた一つの絵巻物が、サントリー美術館にあります。「おようのあま」という御伽草子の物語で、法師が女に騙されると言う、まことに滑稽な物語です。何はともあれ、当時のお茶のセッティングの様子を知る為に、おようのあまの物語を紐解いてみましょう。

 

「おようのあま」

昔、「おようのあま」と呼ばれる老女が、日用品を風呂敷に包んで頭に載せ、売り歩いておりました。或る日、歩き疲れて見すぼらしい庵に立ち寄り、少し休ませてもらいました。庵の主の法師はおようのあまにお茶を点てて持て成しました。おようのあまは、、法師の暮らしぶりを見て同情して、こう言いました。「あなた様の世話をする人は居らんのかね。それなら娘を世話するから待っときなせ。」

やがて或る晩のこと、待望の娘御が被り物をかぶり恥ずかし気にやって来ました。二人はその夜結ばれました。翌朝、法師が嫁様の顔を見たら、なんと、あの「おようのあま」でした。

さてさて、その後の二人はどうなったかと言いますと、まぁ、仏縁と申しましようか、末永く連れ添ったそうです。

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上図は、「おようのあま」の絵巻物を婆が模写したもの。おようのあまは「御用(およう)はありませんか」と物を売り歩く女の事を意味します。前置きで申し上げました様に、その絵の中には茶道具のセットが、押し入れらしき戸の横隣りにある引っ込んだ空き場所に、何気なく置かれています。ひょっとして、この空いた場所は物置代わりの板の間で、庶民の床の間の前身かも・・・

この絵に描かれている茶道具セットが侘茶の原点と言われております。

長板の上に朱塗りの盆があり、盆の上に何かが置いてあります。茶碗か、茶筅か、棗か、判然としません。長板の真ん中に風炉風炉の上に鉄瓶、その右手に曲げ物の水桶、水桶の中に柄杓が無造作に入っています。

侘茶の創始者と言われる村田珠光というお坊さんの茶の湯は、この様な形だったのではないかと言われております。

 

村田珠光(1423‐1502)

村田珠光は、足利義政が将軍位に就く20年前に奈良で生まれました。

11歳の時、奈良の浄土宗の称名寺に入り珠光と言う法名を頂きました。修行に励んで寺を任されるまでになりましたが、やがて寺を出奔、放浪の末、京都にやって来ます。彼はそこで禅宗に出会い、大徳寺の真珠庵で一休宗純の下で禅の修行を始めたそうです。

一休宗純足利義満の代に活躍した禅僧で、生まれは後小松天皇の御落胤一休さんのお墓は酬恩庵(在京田辺)にあります。「宗純王墓」の名で宮内庁が管理しており、陵墓になっています。お墓は塀に囲まれ、入り口の門には菊の御紋が入っています。一般人は参拝できません。

という訳で大変やんごとない御身分ですが、ご本人はハチャメチャ坊主で、肉食妻帯、薄汚れたよれよれの墨染の衣に朱鞘の木刀を指して街中を闊歩していた、とか。「釈迦と言ういたずら者が世にいでて おほくの人をまよわするかな」や、「世の中は起きて稼いで寝て喰って、後は死ぬを待つばかりなり」「女をば法の御蔵(みくら)と云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む」等々説いておりました。権威や常識や慣習などを、屁とも思わず破ってしまう御仁です。

村田珠光は、その一休宗純の膝下で禅を修行したと言われ、茶の湯の教えも受けたと伝え聞いていますが、どうでしょうかね。一休の生き様を見ると、師と弟子で相対して真面目に教える様な関係性があったのかどうか、いささか疑問です。禅の印可状さえ、弟子の誰一人にも与えていないのですから。

むしろ珠光は、禅林の清規に則った茶礼を日々経験している内に、茶の心に達したのではないかと、愚考する次第です。

 

禅林の茶

禅林の清規(しんぎ)に則(のっと)ったお茶の礼とは、明菴栄西が宋から持ち込んだ禅寺の規律の中の一つで、お茶に関しての作法です。

茶礼(されい)には色々あって、大別して日常の茶礼と大切な儀式の時の茶礼があるようです。

日常の茶礼は、朝昼夕の食事の時と、午前・午後の作務の休憩時間のお茶の時に行われます。その時は修行僧が僧堂に集まり、揃って番茶やほうじ茶などを頂くそうです。先ずは本尊にお茶を捧げ、お茶の入った薬缶を捧げ持った係りの僧が、各自の手持ちの湯飲み茶わんにお茶を注ぎ分けて行き、全員に配り終わったら一斉に頂く、と言うのが日常の茶礼だそうです。「一つ薬缶のお茶を分け合って飲む」という所がミソで、これが、侘茶の「一碗を分け合って飲む」作法に通じている様です。

儀式の茶礼は格別で、本尊や開山の頂相(肖像画)の前に設えを整え、お香を炷(た)き、お経を上げます。それから、係りの僧が、天目台に載った天目茶碗(その中には抹茶がすでに入っています)を正客や相伴衆に配り、そのあとから、これも係の僧が浄瓶(じょうびん)という薬缶のお湯を注いで行きます。注ぐ時、その係りの僧は、手に持った茶筅でその都度攪拌して行きます。日常の茶礼も儀式のそれも、簡単に言うとこの様な形だそうです。

そこには色々と作法があるようですが、要するに、一つお湯を分かち合う事、それが修行に挫けそうになる心を一つにして「一緒に頑張りましょう」と言う励みになる事、そして、お茶の薬効で眠気覚ましと気分転換や爽快な心持になる事などが狙いで、禅宗では無くてはならない礼の一つです。

 

珠光の茶

村田珠光が、東大寺の近くの田舎に庵を結び、訪ねて来る人にお茶を点てて持て成したと言われています。その様子は正に「おようのあま」の絵にある通りだったようです。

茶道具類は、さほど広くもない部屋に、仕舞もせず隠しもせず、常に手近に置いておき、客が訪ねて来れば、まぁとにかく茶を飲んで帰れ「喫茶去(きっさこ)」と、珠光茶碗に茶を点てて振る舞ったとか。

珠光茶碗は、珠光が使っていた抹茶茶碗の事を指し、中国の同安窯で作られた普段使いの茶碗です。還元焼成青磁に成る筈の仕上がりが、技術不足で青磁になりそこない、茶色ともひしお色とも、オリーブ色とも土色とも、何とも言えない微妙な色に焼き上がってしまった物です。珠光はその茶碗を手に入れて、それで茶を点てていました。同安窯製と見られる陶片が、福岡での発掘調査では結構いっぱい出土しているようで、普及品だったように見受けられます。

山上宗二の記録によれば、珠光はそのような茶碗を4碗持っていたそうです。珠光はその外にも唐物の逸品を沢山持っていたそうですが、逸品についてはどうも眉唾の話らしいです。侘茶の祖・村田珠光が愛した茶碗というと、それだけで値が吊り上がるようです。小山雅人氏によると千利休は、所持していた珠光茶碗を、三好実休に1千貫文で売ったそうです。因みに現在国宝になっている「曜変天目茶碗」は、珠光茶碗より十分の一の100貫文だったとか。値段と言うのは、何が値打ちか、婆にはさっぱり分かりません。

 

心の文

村田珠光が一の弟子・古市澄胤(=古市播磨)に宛てた手紙があります。以下がそれです。

この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。また、当時、ひえかるると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。かるるということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。ただ、我慢我執が悪きことにて候。または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。

ずいよう ぶっとび超意訳

お茶の道で悪い事は、第一に増長し、我に捉われる事です。そして、上手な人を嫉み、初心者を馬鹿にする事です。そんな事をするなんてとんでもなく畏れ多い事です。達人には近づいて教えを乞い、また、初心の人がいたら育ててやるべきです。お茶の道で一番大切な事は、和のものも中国のものも分け隔てなく用いて、混然一体としてその境目を無くすのが肝要で、そこに心を用いるべきです。また、「冷え枯れる」と言って初心の人が備前信楽の焼物を使い、人も許さない様な馬鹿な使い方をするなど言語道断です。「枯れる」と言う事は、良い道具を持ち、その道具の味わいを良く知り、心の豊かさや厚みによってそれなりに到達した境地こそ、「冷え痩せ」た世界であり、面白いものです。また、そうは言っても、一向に上達しない人は、道具に拘(こだわ)ってはいけません。どんなに上手になったように見えても、教えを嘆願するのが肝要です。天狗になったり我(が)に捉われてはいけません。けれども、誇りも矜持も求道(ぐどう)の心も全く無くして、ぼんやり過ごしていては、茶の道は大成しません。名言に「自分の意志で自分の心を高みに導きなさい。自分の心に隷従してそれに流されてはいけません」と古人も言っています。

 

余談  三好実休(みよし じっきゅう)

父は三好元長。兄に三好長慶がいます。武野紹鴎(たけの じょうおう)の弟子で茶人。父が敗戦して自害後、兄に従い阿波の軍勢を率いて歴戦。畠山高政と久米田(現岸和田市)で戦い討死しました。

 

余談  古市澄胤(ふるいち ちょういん)

古市澄胤興福寺の宗徒で武将です。古市播磨法師の名で細川陣営に属し、畠山尚順(はたけやま ひさのぶor ひさより)と戦って敗走、自害しています。