式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

152 本能寺に消えた茶道具

形あるものは壊れ、生きるものは滅し、会うは別れの始まりとか。

俗人の悲しさ、この教えに頷くも執着を拭い去れず、本能寺の猛火に消えた数々の茶道具が、今もし目にする事が出来るならば、どれほどの眼福に浸れるものかと、唯々残念でなりません。

信長が京都で茶会を開く目的で、安土から本能寺に運び込んだ茶道具類は、『仙茶集』に記録されております。その数38点。焼け跡から助け出された茶道具はたったの二点ですが、『仙茶集』に挙がった茶道具の銘を辿りながら、どのような物だったのか空想してみたいと思います。

茶道具の銘

1. 九十九茄子(つくもなす) or 附藻茄子(つくもなす)

茄子と言うのは茄子の形をした茶入の事を言います。茶入れは抹茶を入れる陶器製の小さい壺型の容器です。九十九茄子と言う茶入は唐物の茶入れです。「九十九」の銘の由来は伊勢物語から来ています。

百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬつくも(九十九)髪 

                                                    われを恋うらし面影に見ゆ

百から一引くと白になり九十九(つくも)。白髪のおばあさんが私に恋しているようだの意。

本能寺の変で九十九茄子は火を浴びて肌が荒れて見るも無残になりました。焼け跡から見つけ出した後、秀吉に献上されますが、大坂城落城の時に再び炎に包まれて破損。家康の命により探し出され、破片を拾い集めて繋ぎ合わせ、漆で地肌を整えて元の姿に戻します。修復したのは藤重藤元。家康は藤元にこの九十九茄子を与えました。現在は静嘉堂美術館が所蔵しています。

    (参照 ブログ№106「信長、茶の湯御政道」  2021(R3).06.30up )

 

2. 珠光茄子(じゅこうなす)

村田珠光が愛した茄子形の茶入です。九十九茄子よりも少し小ぶりだったようです。滝川一益が、甲斐武田征伐の時の恩賞に珠光茄子を望んだところ、願いが聞き届けられず、代わりに関東管領を命じられた、と言う事で、がっかりしたという話が伝わっています。

(参照  ブログ№137 「村田珠光」  2022(R4).02.27 up)

 

3. 円座肩衝(えんざ かたつき)

肩衝(かたつき)と言うのは、肩が張っている壺の様な形のものを言います。

円座と言うのは、丸く編んだ敷物の事を指します。ここで言う、円座肩衝とは、円座の上に乗った様な形をした茶入という意味になります。畳に置いた所を見ると、茶入れの底、つまり畳付(盆付)が、本体の底の直径より僅かにはみ出していて、それが円座の上に据えた様に見える事から円座肩衝と呼んでいます。

 

4. 勢高肩衝 (せいたか かたつき)

勢高(=背高)肩衝は唐物大名物です。背が高い肩衝茶入の意味で、高さが8.8cmあります。本能寺の炎に焼かれて地肌が荒れてしまいましたが、焼け跡から救い出されました。

最初の持ち主は畠山家臣・飯盛山城主・安見宗房(=遊佐宗房)。それから住吉屋の手に渡り、織田信長所有となります。信長から秀吉へ、更に利休七哲と呼ばれた武将・芝山監物(=宗綱)が所持。その後古田織部が手にし、織部はこの茶入を愛用したそうです。織部から家康に移り、徳川将軍家に代々に伝承されました。8代将軍徳川吉宗の代の時、伊勢神戸藩主にして茶人の本多忠統(ほんだただむね)が勢高の持ち主になります。明治以後、藤田財閥の総帥・藤田傳三郎(=香雪)が蒐集。その後、大阪の幸福銀行の穎川(えいかわ)徳助が穎川美術館を設立し、そこにこの茶入が収められました。が、銀行が経営破綻し、美術館は解散しました。現在は兵庫県立美術館西宮穎川分館に移管されている筈です。

 

5. 万歳大海(ばんぜいたいかい)

大海と言うのは、大ぶりな陶器製の茶入れの事です。形は、扁平の球体で、およそ直径が8.5cm~9.5cm、高さがおよそ4.5cm~5.5cm位で、丁度温州みかんの様な形をしています。万歳大海もこの様な形をしていたと思われます。

 

6. 紹鴎白天目(じょうおう しろてんもく)

紹鴎と言うのは堺の茶人・武野紹鴎の名前から来ています。紹鴎が所持していた白天目茶盌という意味です。

天目茶碗には、禾目(のぎめ)天目、油滴(ゆてき)天目、曜変(ようへん)天目等があり、べっ甲天目(飴色)、木の葉天目等もあります。日本では瀬戸の菊花天目や、美濃の白天目があります。

白い色は清浄の象徴ですので、白天目茶碗は神仏への献茶の時に用いる事が多いようです。龍刻堆朱の天目茶碗台に白色天目茶盌を載せる、と想うだけで、華やかな気分になります。

  (参照: ブログ№117 「桃山文化11焼物(2)・茶の湯」 2021(R3).09.17 up)

 

7. 犬山灰被(いぬやま はいかつぎ)

灰被と言うのは、灰被天目茶盌の事と思われます。灰被天目と言うのは、茶盌を焼く時、薪の灰を被ってしまい、それが茶盌の地肌に付着して雪のむら消えのような独特な模様を創り出し、侘び茶の世界では珍重されています。「犬山」と冠しているので、美濃の産と思われます。

 

8. 珠光茶盌(じゅこうちゃわん)

珠光茶碗は村田珠光が愛用していた茶盌で、「わび」茶の典型的な素朴な茶盌だったと思われます。珠光は貧乏だったので、銘碗など極上の茶盌などは買えず、格落ちして撥ねられた茶碗を買って愛用していました。ただ後になると、「珠光が使った」茶碗と言う事で、値段は目の飛び出る程高くなったようです。

   (参照  ブログ№137 「村田珠光」  2022(R4).02.27 up)

 

9. 松本茶盌(まつもとちゃわん)

最初の所持者は松本珠報です。それから大内義興・義隆へ行き、京都の町衆茶人・藤田宗理の手へと渡って行きます。それから何人かの手を経て安宅冬康、天王寺屋宗伯(津田宗伯)、住吉屋宗無と経て、織田信長が入手します。そして、本能寺の変で焼失してしまいます。

 

10. 宗無茶盌

宗無茶碗は、住吉屋宗無(すみよしやそうむ)が持っていた茶碗です。

宗無は堺の商人の一人で、名は久永と言います。信貴山城城主・松永久秀庶子と言われております。茶は武野紹鴎、剣を上泉伊勢守秀綱に学び、信長・秀吉とも深い交流を持っていました。

 

11. 高麗茶盌(こうらいちゃわん)

高麗茶碗は朝鮮半島で焼かれた茶碗で、庶民が日常で使っていた茶碗の事を言います。当時の朝鮮の貴族は、庶民向けに作られた茶碗などには見向きもせず、中国から輸入した青磁など姿かたちが整った食器を使っていました。それに対して、日本では侘茶の流行が相まって、高麗茶碗の素朴で力強い造形が持て囃される様になりました。中でも、井戸茶碗が珍重され、他に三島、粉引(こひき)、刷毛目(はけめ)などがあり、日本からの発注で作られた御所丸や伊羅保(いらぼ)などがあります。

 

12. 数の台二つ

恐らく、数ある台の内の二つ、と言う意味でしょう。台とは、茶碗を載せる茶碗台(茶托の様なもの)の事と思われます。大寄せ茶会などで大勢のお客様にお出しする「数茶碗」と同じで、「数の台」と言ったのだと思います。

 

13. 堆朱(ついしゅ)の龍の台

堆朱(ついしゅ)の龍の台も、茶碗台の事と思われます。ただ、造りが堆朱で出来ていると言う事ですので、超豪華な茶碗台だった事でしょう。堆朱と言うのは、朱漆を厚く塗り重ねてから模様を彫り出したものです。彫られている絵が「龍」。龍の爪が5本指ならば、中国皇帝専用のもの。3本指ならば、皇帝以外の貴人用か、単なる目出度い文様。白色天目茶碗を堆朱の茶碗台に載せて、客人にお茶を勧めるシーンが目に浮かびます。白と朱の、大変華やかな茶席の雰囲気が伝わって来るようです。

   (参照:ブログ№115「桃山文化9 漆工芸」 2021(R3).09.01 up )

   (参照:ブログ№119「式正の茶碗」    2021(R3).10.01 up )

 

14. 趙昌(ちょうしょう)筆の菓子の絵

趙昌は五代・北宋の画家で、花鳥画を得意とし、写生に新しい描写法を確立し、後の世の画風に多大な影響を与えた人物です。ただ、『君台観左右帳記(くんだいかん そうちょうき)にその名を探しましたが見つからず、東山御物には入っていない様です。なお、『君台観左右帳記』に乗っている絵画の殆どが、山水や花鳥や人物画で、「菓子」を描いたものはありません。日本には重要文化財として趙昌筆「竹虫図」東京国立博物館に収蔵されております。また、畠山記念館に収蔵されている同画家の「林檎花図」が国宝に指定されています。趙昌が描いたお菓子の絵と言うのはどのような物だったのか、今となっては知る由もありません。

 

15. 古木(こぼく)の絵

古木と言って思い浮かぶのは松か梅です。室町時代になると、梅図が持て囃され随分と輸入されました。また、日本人絵師も好んで梅の図を描きました。そんなこんなを思い合せて、「古木」は梅ではないかと思ったり、旧暦6月の季節を考えると、松の図かなぁ~と迷う所です。

「松樹千年翠(しょうじゅ せんねんのみどり)」や「松無古今色(まつに ここんのいろなし)」などの禅語があることですし・・・火焔の中に消えた古木の絵は何の木だったのでしょう。

 

16. 小玉澗(しょうぎょくかん)の絵

玉澗と言う画家は何人か居るらしいです。一番有名なのが『君台観左右帳記』にも載っている画僧の玉澗若芬(ぎょくかん じゃくふん)です。猛玉澗と言う名前もそこに載っておりますが、猛の絵は下の部に分類されております。

『君台観左右帳記』の面白い所は、作品の出来不出来を上中下に分類して評価している点で、玉澗若芬の『山水草花竹』図は上の部に入っております。本能寺に持ち込まれたのはこの絵かもしれません。左右帳に載っている絵で上の部に入っている絵は、現在、国宝や重文に指定されているものが多いので、もしそうならば、国宝級の作品を失った事になります。

 

17. 牧谿(もっけい)筆くはいの絵

18. 牧谿筆ぬれ烏の絵

牧谿南宋から元にかけての画僧です。彼は臨済宗の高僧・無準師範の膝下で画業に励み、数々の優れた水墨画を世に送り出しました。牧谿の画風は日本の水墨画界に多大な影響を与え、長谷川等伯などもその例に漏れません。

ところが日本での高い評価にもかかわらず、本国・中国では見向きもされませんでした。原因は、宋や元では水墨画と言えば神仙思想に裏打ちされた、深山幽谷の峩々(がが)とした山に仙人が住む構図が持て囃されていたからです。牧谿の絵は、それとは対照的に、穏やかな、湖水や丘陵地帯の、どちらかと言うと日常的な風景を写生したものが多く、人々に受け入れられませんでした。で、価格も安かったのです。留学僧や渡来僧達が手土産にそういう安い牧谿などの絵を日本に持って来ました。湿潤で穏やかな空気感を漂わす彼の風景画が、日本人の心を掴んだのは言うまでもありません。侘び茶の勃興も相まって、牧谿は日本の水墨画の神様的存在になりました。今、中国では牧谿の作品は一点も無く、殆どが日本に在るそうです。

牧谿筆の『柿図』『栗図』の二図(重要文化財)から、『くわい図』を想像するに、さぞかし美味しそうに生き生きと描かれていた、と思わずにはいられません。また、雨に濡れたカラスを想像するだけで、しょぼくれながらも凛とした野生の姿が目に浮かぶようです。

なお、『君台観左右帳記』には上の部に僧牧渓『山水人物龍虎花鳥』がリストアップされています。

(参照:ブログ№56「鎌倉文化(12)肖像画・宗画」  2020(R2).10.19   up )

(参照:ブログ№81「室町文化(8)水墨画」  2021(R3).01.30  up )

 

19. 千鳥香炉

千鳥香炉と言うのは、聞香(もんこう)用の香炉で、その足に特徴があります。

聞香と言うのは、俗っぽく言えば匂いを嗅ぐ事です。香道では、「嗅ぐ」を「聞く」と言います。香炉を掌の上に載せて、鼻を近づけてくんくん嗅ぐ事ですが、それでは余りにも身も蓋も無い表現です。心静かにしてお香が醸し出す世界と対話し、お香が語り掛けて来る話に耳を傾ける、そう言う意味で、お香を嗅ぐ事を「香を聞く」と申します。

で、千鳥香炉の事ですが、香炉の高台が、香炉を支えるべき足より背高に作られており、足は地に着いておりません。宙に浮いております。つまり、足は飾りです。足が着いていない事から、千鳥が片足を上げて浮かせている姿に似ているので、こういう型式の香炉を千鳥香炉と呼びます。徳川美術館にある『銘・千鳥』という千鳥香炉は青磁の香炉で、南宋の龍泉窯の産です。今川氏真から秀吉へ、秀吉から家康へ受け継がれたものです。

この千鳥香炉には面白いエピソードが有ります。石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだ時、千鳥香炉の蓋にあしらわれていた千鳥が鳴いて発覚、捕らえられて釜茹での刑になってしまった、という話です。

本能寺で焼失した千鳥香炉は、徳川美術館に収蔵されている銘「千鳥」とは別物でしょう。(ところで、現在本能寺の宝物館に「三足(みつあし)の蛙」香炉が展示されています。この香炉にも、蛙が鳴いて変事を知らせたという伝説があります。)

 

20. 二銘の茶杓

二銘の茶杓と言うのは、二つの名前を持った一本の茶杓という事でしょうか。

それとも、「二銘」と言う名の一本の茶杓でしょうか。

それとも、それぞれ銘を持った二本の茶杓と言う事なのでしょうか。はてさて、ややこしい。

多分、二本の茶杓だと思うのですが・・・

 

21. 珠徳作の浅茅茶杓

珠徳は村田珠光の弟子です。その珠徳が作った茶杓です。山上宗二記によれば、珠徳の茶杓は惣見殿(=織田信長)の時に火災に遭って失われた、と書かれています。茶杓の材質は「竹」だとか。銘は「浅茅」かと推察します。宗二記によれば、その茶杓の値は千貫だったとか。

 

22. 相良高麗火筋(ひばし)同鉄筋(てっぱし)

 

23. 開山五徳の蓋置

五徳は、火鉢や炉などで炭を扱う時に必要な器具です。炭火に縁がない生活をしていても、ガスコンロに使われている四角や丸型の4~6本足(爪)の器具が五徳ですので、馴染みがあるかと思います。開山五徳の蓋置と言うのは、本能寺を開山した時から使われていた五徳の形をした蓋置、と言う意味でしょうか。詳しくは分かりません。

 

24. 開山火屋(ほや)香炉

火屋と言うのは、篝火(かがりび)を入れる鉄製の笊(ざる)のようなものです。映像などで、戦の時に城や砦の庭に火屋を何基も置いて、盛大に篝火を焚く場面が出てきますが、あれが火屋です。火屋香炉とは、火屋の形をした香炉という意味です。勿論、茶席に使う香炉ですから、あの様な武骨な姿では無く、もっと芸術的です。

 

25. 天王寺屋宗及旧蔵の炭斗(すみとり)

炭斗は、炭や火箸や釜敷など、炉や風炉周りに必要な物を一纏めに入れて置く箱や笊です。

 

26. 貨狄(かてき)の舟花入

貨狄とは、中国の神話に出て来る舟の神様です。彼は中国の伝説上の黄帝(こうてい)に舟を造って献上しました。その貨狄の舟を模した花入れという事でしょう。

なお、貨狄尊者と言って、栃木県佐野市にオランダの人文学者・エラスムスの木像があります。国宝です。これは、ウイリアム・アダムス(=三浦按針)が乗って来たリーフデ号の船尾を飾っていた木像です。リーフデ号が日本に到達したのは1600年です。信長が本能寺に斃れたのが1582年の事ですから、信長死後18年後の事になります。なので、貨狄の舟花入れはエラスムス木像とは関係ありません。

 

27. 蕪(かぶら)なし花入

蕪無の花入れというのは、中国の青銅器の酒器・觚(こorくorかどorさかずき)を模した形の花入れで、室町の頃は古銅(金属)製でしたが、後に青磁器製も使われる様になりました。形は、上に向かって開いたラッパ型をしています。花瓶の首が上に向かって素直に曲線を描いて開いており、根本や途中で膨らんでおりません。もし、蕪の様にまるく膨らんでいれば、それは「蕪有り」です。ただ、重心を安定させる為に、畳付辺りが少し末広がりになっています。

 

28. 玉泉和尚旧蔵の筒瓶(つつへい)青磁花入

玉泉和尚が持っていた筒形の青磁の花瓶で、読んで字の通りのものだと思います。

 

29. 切桶の水指

水指とは、お点前の時に使う水を入れて置く器です。水指には色々な形の物が有り、又、材質も唐銅(からかね)・磁器・陶器・木製など色々です。

さて、「桶」と言うと木製の桶を想像しますが、懐桶(だきおけ)といって銅の桶や、鬼桶といって陶器製の水指もあります。これ等を見ると、もしかして「桶」と言うのは木製とは限らず、瓶や壺、盥(たらい)や樽の様な形状で、水を入れる容器の事を言うのかも知れません。

 

30. かへり花水指

返り花? 狂い咲きの花の事? 遊女の出戻り? それとも、仏様の蓮華座の事かしら? 蓮華座の一番下の反り返った蓮の花びらを返り花と言うらしいけれど、それと水指の形状と結びつかないのですが・・・お手上げです。ごめんなさい。どういう物か分かりません。

 

31. 占切水指(しめきりみずさし)

占切と言うのは南蛮渡来の器で、焼き締めて作られたものです。赤茶色に焼けた土肌で、釉薬は掛かっていません。また、胴回り全周に細い糸状の線が刻まれています。レコード盤の様な模様です。

 

32. 柑子口(こうじぐち)の柄杓立(ひしゃくたて)

柑子(こうじ)と言うのは、古来からあったミカンの一種で、温州みかんより小さく、種が多く、酸味が強いミカンです。

柑子口の柄杓立と言うのは、鶴首の花瓶の天辺が丸く膨らんでいて、その様子が丁度柑子を鶴首の瓶の上に載せた様な格好に見えるので、そう呼びます。花瓶を柄杓立に見立てています。

 

33. 天釜

天釜は、下野国佐野郡天明で作られた天明(てんみょうがま)の略でしょうか。確信は持てません。(天明釜は天命釜とも天猫釜とも書きます。発音は同じです)。もし、天釜が天明釜ならば、九州で作られた蘆屋釜(あしやがま)と並び称される程の名品中の名品です。

   (参照:ブログ№106「平蜘蛛の釜」  2021(R3).06.25 up)

 

34. 田口釜

お釜の形状の名前です。田口釜というのは、釜口の周辺の肩が張っているのですが、水平に張っているのではなく、少し凹んで張っています。

 

35. 宮王釜

さて、宮王釜ってどんなお釜なのか・・・ごめんなさい。これも分かりません。

 

36. 天下一合子水翻(みずこぼし)

合子と言うのは、小さい蓋付の入れ物の事です。大体が手の平に載る位の大きさです。香合や、京紅などの化粧品入れに使われます。

けれども、こと茶道に於いて言う合子建水(=水翻)は、それとは違います。蓋はありません。大きさは小振りの南瓜(かぼちゃ)位です。材質は、唐銅、佐波理、陶磁器、木製などです。「天下一」と謳われた建水ですから、唐銅に精緻な象嵌が施されている様な物ではないかなぁと、想像を逞しくしています。

 

37. 立布袋(たちほてい)香合

香合と言うのは、お香を入れて置く合子の事です。

「立ち布袋」と有りますので、その香合の蓋に立った布袋様が描かれているか、或いは、蓋の上に立った布袋像が乗っているかのどちらかだと思います。婆的には、布袋像が蓋の上に載っている方が面白そうだ、と思うのですが・・・

 

38. 藍香合

藍色の香合です。染付で絵柄が描かれているものなのか、細かい柄で全体的に藍色に見えるのか、その辺は分りません。

 

 

余談  茶碗の「碗」と「盌」

「ちゃわん」には「茶碗」と言う字と「茶盌」と言う字があります。「碗」と「盌」のどちらが正しいかと言うと、どちらも正しいです。一般的には石へんの「碗」が用いられることが多いのですが、漢字の謂れから言えば、石へんの無い「盌」が元の字で、「碗」はその異字体です。