式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

146 信長年表2 初陣~桶狭間

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 ※ 年表表記について

〇  西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇  元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)   〇  年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

年表

1547.01.11(天文15.12.20)    足利義藤(=義輝)、室町幕府13代将軍に就位。

義藤、僅か11歳で将軍宣下を行う。細川家の内紛、細川家家臣で軍事的実力者の三好氏の内紛など、糾合離反、向背の動きが激しく、義晴も、新将軍・義藤(義輝)もその度に逃げ、近江と京を何回も行ったり来たりしている。

1547.08.06.(天文16.07.21)  舎利寺の戦い。

(細川晴元陣営)三好長慶+六角定頼+三好政長 対  (細川氏綱陣営)細川氏綱+畠山政国+遊佐長教(ゆさながのり)の戦いである。大物崩れで自刃した管領細川高国の養子・細川氏綱が、敵将・細川晴元勢力に挑んだ戦いで、三好長慶側が圧勝。

1547(天文16)  信長(14)初陣。

今川勢力下にある西三河の吉良大浜(現愛知県碧南市)の長田重元の留守を狙って、織田側が仕掛けた戦い。今川の侵攻を止める狙いと、大浜の港の権益に食指を動かし、総大将を信長(兵力800)にして攻めたが、長田は織田側の動きにいち早く帰館。長田の兵力は2,000。伏兵などの陣立てをして信長を迎え撃った。信長、大浜に放火をして那古屋に帰るも、死傷者を大勢出し、地元伝承では大敗と伝わる。『信長公記』では無事帰陣とだけ書かれている。

1547.09.15.(天文16.08.02.)  松平竹千代(6歳)、人質になる。

松平竹千代は後の徳川家康である。竹千代は今川氏の人質となったが、護送途中に立ち寄った田原城戸田康光の裏切りにより、尾張織田信秀の下に送られた。その後2年間尾張国熱田の加藤藤盛の屋敷に留め置かれた。

1548(天文16.12) 堺公方足利義維、阿波に逼塞。

足利義維(あしかが よしつな)を推戴していた細川晴元が、主君を足利義晴・義藤に鞍替えした為に、後ろ盾を失った義維は堺から阿波へ没落した。

1548(天文17) 織田信長(16)斎藤道三の娘(濃姫)と結婚

1548(天文17.07)     武田晴信塩尻の戦いで小笠原長時軍を撃破した。

1548(天文17.08.12 ~ ) 三好長慶三好政長討伐に動く。

1532年飯森山城の戦いで、三好元長は、ライバル三好政長と管領細川晴元の策謀に嵌(はま)り敗死。息子の三好長慶はそれを知らず、晴元や三好政長の為に粉骨砕身して戦って来た。ところが、敵の遊佐長教と長慶が和睦し、長慶が遊佐の娘を娶ってから、三好政長こそ長慶の親の仇だと知り、長慶は晴元から離れ、晴元の対抗馬の細川氏綱側に寝返る。長慶は1549年の江口の戦い三好政長を討ち取り、細川晴元を京から追い落とす。長慶は氏綱を奉じて上洛し、京を制圧。三好政権を樹立。畿内を治めて長慶は天下人となる。これが三好長慶派と細川晴元派の争乱の底流となり、やがて将軍・足利義輝の暗殺や、足利義昭の流浪の発端となって行く。

1548(天文17.12.30.) 越後の長尾景虎(19)春日山城主になる。

1549年  キリスト教伝来。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。布教開始

1549(天文18.10.18)     足利義晴、築城に励む。

敵対勢力を警戒した義晴は、慈照寺の裏山に中尾城と将軍山城を、翌年北白川に城砦を築く。

1550(天文19.02,)    長尾景虎(上杉謙信)、越後の守護の代行になる。

越後国守護・上杉定実、嗣子無く死去。将軍・足利義輝長尾景虎に越後守護の代行を命ずる。

1550(天文19.05.04)    足利義晴、水腫の病により薨去。享年40

1550.07.14(天文19.07.1411.21) 中尾城の戦い 

細川晴元、義輝を擁立して京都奪回を試みるも不成功。鉄砲による死者一人記録される。

1550(天文19.09.09.10.01) 信濃砥石(といし)崩れ。

信濃国砥石城(村上義清)での戦い。攻め手の武田晴信(武田信玄)大敗を喫す。

1550(天文20.01) 越後。坂戸城の戦い。

長尾景虎(上杉謙信)、坂戸城長尾政景と戦いこれを制し、越後を統一する。(22歳)

1551(天文20.03) 織田信長(18歳)、父死去に伴い家督を継ぐ。

1552(天文21.01) 三好長慶足利義輝が和睦。義輝上洛。細川晴元出家。細川氏綱が細川京兆家の当主に成る。

1522(天文21.01.) 上杉憲政長尾景虎に庇護を求める。

関東管領上杉憲政北条氏康に攻められて景虎の下に逃げ、長尾と北条が敵対関係になる。

1552.09.04(天文21.08.16) 尾張。萱津(かやづ)の戦い (=海津の戦い)

尾張の当主になった若い信長を不安視する家臣が続出。鳴海城主・山口親子が今川に寝返り(赤塚の戦い)、清洲城家老の酒井大膳らが、松葉城・深田城を占領、叛旗を翻した。信長は叔父織田信光と共に駆け付け、清洲方と海津で激突、別の戦場でも交戦が行われ、清洲城方はほぼ壊滅。信長は清洲城を奪還する。信長19歳

1552(天文21.08.) 長尾景虎、関東に派兵。侵攻した北条軍を押し戻す。

北条方の手に落ちた関東管領上杉憲政の居城・平井城(現群馬県藤岡市)と、平井城詰城の金山城(現群馬県太田市)を、景虎が奪還。北条長綱は上野(こうずけ)国から撤退し、武蔵国松山城へ逃亡。

1552(天文21.11.27) 『甲駿同盟 』が結ばれる

今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)と武田晴信の嫡男・武田義信が結婚。(嶺松院の母は武田信虎の娘で、武田晴信の姉である。つまり晴信の息子義信と嶺松院はいとこ同士になる。 後に、武田晴信により義信が廃嫡される。)

1553(天文22.03.08) 東山霊山城の戦い。(ひがしやま りょうぜんじょう の たたかい)

対抗勢力の脅威に対し、足利義晴と義輝父子は、1549年頃から築城に励んだが、霊山城は築城間も無く三好長慶に攻められ自焼した。1552年、義輝と長慶の間で和睦が成立。義輝は細川晴元に備えて再び霊山城を築城。が、長慶との和睦が決裂して、今度は、義輝は細川晴元と手を結び、1553年に霊山城で長慶と戦う事になる。結果、長慶側勝利。義輝・晴元側壊滅し、近江に逃亡。義輝による京都奪還は不首尾に終わる。

1553(天文22.04) 織田信長斎藤道三尾張国境付近の聖徳寺で会見

この時信長、「うつけ」から大変身する。道三驚嘆。自分の息子達が信長の軍門に降る事を予見する。

1553(天文22.04~) 第一次川中島の戦い

武田軍は村上義清の葛尾(かつらお)城を落すが、5月、更科八幡の戦いで葛尾城を奪還され、9月、武田軍は塩田城を落された。上杉謙信信濃領内に侵攻、荒砥城、虚空蔵山城を落した。

1554.2.25(天文23.01.24) 信長、村木城の戦いに勝利。

西三河知多半島の水野氏は今川勢力と織田勢力の緩衝地帯にあり、元々は織田に与していた。が、織田信秀今川義元の和議の話し合いで、水野氏は今川方に組み入れられた。信秀の跡を継いだ信長はその和議を破棄。今川氏に敵対する。水野氏も織田方に復したので、今川勢が水野を討ちに出陣し、織田方の重原(=鴫原(しぎはら))城を落し、水野信元の近くの村木に城を築く。水野からの救援要請に信長は直ちに行動を起こす。舅・斎藤道三那古屋城の留守を預け、嵐の中、熱田から20里の海路を1時間で渡海。鉄砲攻めで村木城を落す。この報告を聞いた斎藤道三は「恐ろしい男よ。隣に住みたくないものだ」と言ったそうである。

なお、水野信元は、徳川家康の生母・於大の方の異母兄である。

1554(天文23.07) 尾張守護・斯波義統(しば よしむね)暗殺さる。

尾張守護・斯波義統が、清洲城主で守護代織田信友に暗殺された。義統の息・斯波義銀(しばよしかね)は落ち延びて織田信長を頼った。織田信長の家は、守護代織田信友の下位に就く三奉行の一つ・弾正忠(だんじょうちゅう)家である。信長は、信友を「主殺し」としての大義分を得て信友誅殺の為に出陣し、信友一統の重臣達を討つ。

1554(天文23.07) 駿相同盟なる。

今川義元の嫡子・氏真と北条氏康の娘・早川殿が結婚。ここに、1552に結ばれた『甲駿同盟』 と併せて『甲駿相三国同盟』が成る。この同盟は相互不可侵条約であって、軍事同盟ではない。これによって、今川は背後を突かれる憂いが無くなって上洛できるようになり、武田も安心して越後を攻められるようになる。

1555(天文24.03.)   松平竹千代、今川義元の下で元服

竹千代、名を次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・瀬名(築山殿)を娶(めと)る。

1555(天文24/弘治1.04) 第二次川中島の戦い

川中島で武田軍と上杉軍が200日対陣(上杉川の記述では5ヵ月間とも)した。今川義元の仲介で、景虎と晴信は和睦。

1555(弘治1.04) 信長、清洲城城主となる。

織田信友は、1554年に尾張守護・斯波義統暗殺に成功したものの、信長との戦いで敗れた。劣勢を挽回すべく織田信光を新たに清州の城主に傀儡として据え、勢威を存続しようとした。信光は、信友の策に嬉々として乗って手勢を率いて清洲城に入城する。が、信光、ここで主殺しの信友を取り囲んで退路を断ち、切腹させてしまった。これは、事前に信長と信光が謀議して筋書を書き、信友をその気にさせて罠に誘い、嵌めたものである。信長はこうして清洲城を奪取。清洲城を改修して信長の居城とする。那古屋城織田信光に譲る。

1556(弘治2.04) 斎藤道三戦死

信長の舅・美濃の斎藤道三は、嫡子・義龍を嫌い、次男の孫四郎、三男の喜平次を偏愛していた。道三と義龍の関係は険悪化し、ついに義龍は弟二人を殺し、道三に歯向かって挙兵する。道三と義龍は長良川で交戦。道三に従う家臣は少なく、信長が駆けつけた時は討死していた。享年63

1556.09.27.(弘治2. 08.24?) 稲生(いのう)の戦い 

信長23歳の時、信長の同母弟の信勝(=信行)を、織田弾正忠家当主にと願う家臣達が、信長に叛旗を翻した戦いである。信勝軍には柴田勝家林秀貞、林美作(はやし みまさか)(=通具(みちとも)が従い、兵力1,700。対して信長軍は、佐久間盛重、森可成(もり よしなり)、前田利家、織田信房、丹羽長秀を合わせて兵力700。信長側は初め劣勢だったが、盛り返して信勝軍を崩し、敗走させた。

1557(弘治3)     大内氏滅亡 (防長経略)

毛利元就が大内義永を討った。元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を掌中に収めた。

1557(弘治3.04 ) 第三次川中島の戦い

信濃の飯山城主の高梨政頼は、武田の脅威を長尾景虎に訴え、救援を要請していたが、豪雪で景虎は動けなかった。景虎は4月に入って出陣し、武田勢力の城を落しながら善光寺に進んだが、武田晴信景虎との正面衝突を避け続けた。

1557(弘治3) 将軍・足利義輝から甲越和睦のご内書が下る。

1558(弘治4.02)  正親町(おおぎまち)天皇即位。

1558(弘治4/永禄1) 元号を弘治から永禄に改元。義輝これを知らず。

1558(弘治4/永禄1) 信長、弟・織田信勝(=信行)暗殺。

1556年に稲生の戦いで信長に叛旗を翻した同母弟の信勝は、再び信長に謀反する兆しを見せ始めた。信勝付重臣柴田勝家は、稲生の戦いで反信長派の信勝に従い大活躍をしたが、信勝の謀反の動きを察知した勝家は、その事を信長に密告。信長は「病気」になり、清洲城に病気見舞いに来た信勝を暗殺した。

1558~1559(永禄1~2 ) 信長、岩倉城の織田信賢(おだ のぶかた)を破る

織田信賢嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の出身で、弾正忠家出身の信長に対抗していた。信長は1558年、浮野(現愛知県一宮市⦆の戦いで信賢を撃破した。翌1559年、岩倉城に籠城していた信賢を、信長は降伏させ、尾張統一を果たした。

1559(永禄2) 永禄の飢饉発生。

旱魃(だいかんばつ)によって飢饉発生。北条氏政、徳政をもってこれに対処する。他の領主達無策。戦争に明け暮れ、戦費調達の為に重税を課すばかりである。

1559(永禄2) 甲斐国に大規模水害発災

1559(永禄2)  信長(26歳)、上洛して将軍足利義輝に拝謁する。

斎藤義龍長尾景虎も相次いで上洛し義輝に拝謁。長尾景虎正親町天皇にも拝謁している。

1559(永禄2.02) 武田晴信出家。徳栄軒信玄と号す。

1559(永禄2.05) 松永久秀筒井順慶の城を陥落させ、十市(とおちorといち)氏を破る。

1559(永禄2.09) 毛利氏、尼子氏に大敗す。

大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山に手を伸ばし、出雲の尼子晴久と戦った。1558年の忍原(おしばら)(現島根県太田市)で毛利氏は忍原崩れと呼ばれる程の大敗北を喫し、1559年の山吹城(やまぶきじょう)攻略の時、降露坂(ごうろざか)の戦いで、再び毛利は壊滅的な大敗をした。(山吹城は石見銀山の傍にあり、銀山を守る為だけに築かれた城)

1560(永禄3) 松永久秀興福寺を破り、大和国を統一

1560(永禄3.03.29.) 上杉謙信、富山城を陥落させる。

富山城主・神保長職(じんぼうながもと)は、武田信玄と誼(よしみ)を通じながら、一向一揆軍と手を結び、信玄が信濃へ北進する時には、神保は越中で陽動作戦を行って上杉軍の背後を脅かし、上杉が武田軍に集中できない様にしていた。謙信は、その神保を攻め勝利する。神保との戦いはこれで終わらず、数年続くことになる。

 

今川、上洛の機、熟す

『甲駿相三国同盟』は相互不可侵条約である。これにより、今川義元は背後や脇腹を突かれる心配がなくなった。武田は信濃攻略に野心を燃やし、越後の上杉は武田に備えながら越中の神保に気を配らなければならず、南下どころではない。相模の北条と言えば、当面の関心事は内政の充実であり、今川にとって安心して良い相手だった。

 

織田、迎撃態勢道半ば

尾張は、東に三河、北に美濃、西に伊勢に国境を接している。東は今川義元、北は斎藤義龍、西は村上源氏の名門・北畠氏の支配地である。力と力が三方から押し合い、丁度隙間が出来た三角形の土地、それが尾張である。尾張濃尾平野の肥沃な土地であり、木曽川揖斐川長良川の大河を抱え水運の便が良く、伊勢湾に港を幾つも擁している。非常に豊かなこの国に食指を動かさない戦国大名はいないであろう。しかも、上洛に都合のいい街道筋にある。

常に狙われている国を存続させて行くには、先手必勝とばかり、信長の父・信秀は、1532年、謀略を以て今川方の那古屋城を乗っ取った。その後も、松平竹千代人質事件などで見られる様に、絶えず隣国、特に三河と美濃の間で摩擦があった。その解決が無いまま、家督がうつけの信長に継がれ、尾張国内は分裂し、まとまりを欠いた状態になった。

1547年、西三河の長田重元(松平氏方)と戦い、1552年萱津の戦い、1554年の村木城の戦い、1555年、清洲城乗っ取り、1556年稲生の戦いを経て、1558年弟・信勝を暗殺、1558年岩倉城攻めを行い、ようやく尾張を統一する事が出来た。軍制を改革し、鉄砲隊を強化し、親衛隊の馬廻衆を創設して機動力をつけ、敵の迎撃に万全を期す筈であったが、今川軍と対決した時は、後ろ盾だった斎藤道三を失って、防御の壁に想定外の大穴が開いてしまっていた。 

1560(永禄3.05) 今川義元、上洛を決意し、松平元康に先鋒を命ずる。

1560.06.11.(永禄3.05.18) 松平元康、大高城救援の兵糧を運び込む。

松平元康(徳川家康)は、鷲津城と丸根砦の敵地を突破して小荷駄隊を大高城に運び入れ、無事に引き上げた。

1560.06.12(永禄3.05.19.  3:00頃) 今川軍、丸根砦と鷲頭砦に攻撃を開始。

此の時の攻め手は松平元康と朝比奈泰朝である。

1560.06.12(永禄3.05.19.  4:00頃) 信長、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣す。

この時直ぐに従った者は小姓数人のみ。外の者は慌てて主君の後を追った。

1560.06.12(永禄3.05.19.  8:00頃) 信長、熱田神宮に到着。戦勝祈願をする。

1560.06.12(永禄3.05.19. 10:00頃) 信長、善照寺砦に入り、軍勢を整える。

この頃、信長側の丸根砦、鷲津砦が陥落。

1560.06.12(永禄3.05.19. 12:00頃) 信長側の中島砦の部隊敗れる

1560.06.12(永禄3.05.19. 13:00頃) 豪雨

1560.06.12(永禄3.05.19.) 桶狭間の戦い

今川義元、服部一忠と毛利新介によって討ち取られる。義元享年42 

此の時信長は27歳

 

 

 

お断り

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」「日本の災害防災年表」その外、戦国時代の領国支配や経済のレポート、地域の出している情報、観光案内などなど、ここには書き切れない程の多くのものを参考にさせて頂きました。有難うございます。