式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

156 武野紹鴎と今井宗久

人間万事金の世の中と申しましょうか、戦に次ぐ戦で戦費増大する中、結局勝つのは経済力のある陣営です。勝つ為に、富を手に入れる、その富が堺に蓄積されている・・・信長は真っ先に堺に注目します。

1557(弘治3.09.15) 織田信長津田宗及の茶会席に初めて使者を遣わします。それは、信長がまだ海のものとも山のものともつかない尾張の「うつけ」の時代でした。その頃、信長は弟・信行との確執がくすぶっておりました。茶会に使者を派遣した2ヵ月後、信長は弟を清洲城に呼び寄せ殺害します。桶狭間の戦いはその茶会席の約2年半後の1560年です。そんな早い時期から堺を意識していた信長は、恐るべき慧眼の持ち主です。この時の堺の代官が松永久秀。堺は三好一族支配下に在り、三好氏に推戴されていた堺公方(平島公方)・足利義維(あしかが よしつな)の幕下にありました。また、信長が堺に2万貫の矢銭を課したのは11年先の1568(永禄11)年の事です。

(ブログ「143 会合衆 茶の湯宗匠」2022(R4).04.14upで取り上げた内容とかなり重なる部分がありますが、少し視点を変えてお金の面から考えてみたいと思います。)

 

武野 紹鴎 (たけのじょうおう)

武野紹鴎(1502-1555)が大和国に生まれた時は、将軍・足利義澄管領細川政元が対立し、極めて政局が不安定な時期でした。細川政元自身が修験道に凝り、女人を遠ざけた為に子が出来ず、三人の養子を取ったのですが、政元が「永生(えいしょう)の錯乱」で暗殺されてしまいましたので、これにより養子三人による後継者争いが勃発し、より一層の戦乱の世に突入してしまいます。

若狭武田の流れを汲む紹鴎の祖父は戦死、父は放浪し、武田の名を汚さぬ為に改姓します。武田を下野したとの意味で、武野と名乗りました。放浪の末、堺に辿り着き、そこで皮屋(皮革商)を営みます。時あたかも戦時。鎧などの武具・馬具に使用する皮革は必須の軍需物資です。商売が当たり、紹鴎の父は巨万の富を築きます。

紹鴎は、連歌師をしながら茶の湯藤田宗里に習い、その後、宗里の師である村田宗珠(むらた そうしゅ)に習いました。ブログ№137で紹介した侘茶の始祖・村田珠光(むらた じゅこう)の養子、それが宗珠です。そういう訳で、紹鴎は珠光の孫弟子に当たります。

やがて、紹鴎は父の商売の隆盛をバックに京都に上り、そこで学問と趣味の世界に入ります。趣味と言っても単なるお遊びではなく、京都での地歩を固め、上昇する為の手掛かりをそこに求めます。紹鴎は、父祖の地に縁がある若狭国守護・武田元信と親交のあった三条西実隆(さんじょうにし さねたか)に入門し、和歌・古典・連歌・茶などを学びます。

当時の三条西家は、戦乱と言う事も有り荘園からの実入りは少なく、経済的に困窮していました。古典の書写や指導で細々と暮らしを立てていましたが、紹鴎が来る度に持ってくる十分過ぎる礼銭や立派な手土産は、他の多くの公家達が貧窮に追われて地方へ都落ちする中で、それをせずに京都で暮らして行けるだけのものがありました。紹鴎は、実隆を通じて人脈を広げて行きます。朝廷にも近づいて献金を行い、因幡守に任ぜられました。

紹鴎は父亡きあと堺に戻り、大徳寺大林宗套(だいりん そうとう)が開山した南宗寺(なんしゅうじ)で禅の修行に励み、茶禅一味の茶の湯を実践して行きます。

当時の「わび茶」は新興の茶の湯。正統派と言われて京都で行われていたのは、足利義政が東山山荘で行っていた台子点前の書院茶・東山殿の様式でした。

紹鴎は名物を60種も持っていました。侘茶は、紹鴎が広めたと言われていますが、紹鴎の侘茶は本格的なものでは無く、東山殿様式に、唐物では無く和物の高価な名物茶道具を取り合わせた折衷(せっちゅう)型のもの「侘茶もどき」だったと思われます。

 

鉄砲の伝来

1543(天文12.08.25)年、種子島倭寇所有の中国船が漂着し、乗船していたポルトガル人からマラッカ式火縄銃がもたらされました。島の主・種子島時堯(たねがしま ときたか)は1挺2千両で2挺買い求め、鍛冶職人の八板金兵衛に鉄砲を、笹川小四郎に火薬の製造を命じます。

それからわずか半年後に近江国国友で鉄砲の研究が始まり、1544年7月には国友鍛冶が鉄砲2挺を将軍に献上しました。更に1545年には紀伊国根来(ねごろ)で鉄砲が製造され始め、伝来から2年後には種子島で鉄砲の作り方を学んだ堺の商人・橘屋又三郎が国元に戻り、堺で鉄砲製造を始めました。こうして瞬く間に全国に広がり、上記の国友・根来・堺の外、阿波、備前、薩摩、米沢、仙台でも鉄砲鍛冶が興りました。勿論、種子島も製造を始めます。

 

今井 宗久

今井宗久(1520-1593) が生まれたのは、細川京兆家 (ほそかわ けいちょうけ(=細川本家) 家督管領職を巡って、細川高国細川澄元が争い、京都で等持院の戦い」という市街戦が勃発している時期でした。

宗久は大和国の今井村で生まれました。彼は出世を夢見てこの村を出て堺に行きます。堺で倉庫業を営んでいる豪商・納屋宗次宅に身を寄せます。そして、仕事を覚える傍ら、武野紹鴎に茶湯を習います。堺で商人としてやって行くには、茶湯は必須の教養でした。

やがて、宗久は納屋宗次から独立して薬種業を始めると共に、茶の師匠・紹鴎に気に入られて紹鴎の娘婿(じょせい or むすめむこ)になります。

薬種と言うとすぐ漢方薬を思い浮かべます。国内産の薬草ばかりではなく、外国から輸入する動物の角や骨、朝鮮ニンジンなどの植物系の薬など様々あります。中でも重要だったのは、鉄砲の火薬に使う硝石、玉に使うでした。硝石は日本では採れない原料です。どうしても輸入に頼らざるを得ませんでした。

宗久は、戦国の世の需要を見込んで積極的に商売に打って出ます。

1548年、宗久は硝石の独占買占めをします。

1552年、宗久は鋳物師を集めて鉄砲の分業生産を開始、品質にバラツキのない火縄銃を大量生産します。その為、種子島時堯の時は1挺2千両(現代価格にして1,000万円ぐらい(ネット「刀剣ワールド」より))したものが、量産により1挺9石(約100万円(「刀剣ワールド」より))ぐらいまで下がりました。堺の銃は安定した性能を持っており、大名達の注目を集めました。時流を見抜き、打つ手の素早さと的確さが富を呼び寄せ、茶会を通じての人脈作りも功を奏して、会合衆(えごうしゅう or かいごうしゅう)の仲間入りを果たします。

1555(天文24/弘治1.10.29)年、宗久の師でもあり、義父でもあった武野紹鴎は、6歳の嫡子(後の宗瓦(そうが))を遺して54歳で世を去りました。宗久は義弟に当たるこの子の後見人になり、養育します。そして、紹鴎の茶道具類やその他の遺産を管理します。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568(永禄11)年、信長は堺に2万貫の矢銭(軍資金)を課しました。矢銭を課したのは堺ばかりではありませんでした。石山本願寺に5,000貫や法隆寺に1,000貫を課しました。( 2万貫について、現代の価値に直すと幾らになるかと調べてみましたら、人によってそれぞれ条件や換算率が違い、20億円から60億円まで幅があり、はっきりとは分かりませんでした。)

堺では信長の理不尽なこの要求を呑むべきではない、との意見が会合衆の大勢になります。堺には元々町を防衛する為の自前の武力を持っており、更に浪人を雇い入れて強化。壕を深くして信長の侵攻に備えました。それに加えて、昔から縁の有った三好一族の武力を借りて信長に徹底抗戦すれば、信長なぞ撥ねつけられる、と結論づけました。

ところが、その2万貫を要求してきた時期は、丁度信長が義昭を奉戴して上洛を開始した1568(永禄11)年に重なり、破竹の勢いは誰も止める術がありません。

同年9月7日に進軍開始からわずか18日後の9月25日、信長が大津まで進軍すると、大和に進駐していた三好三人衆の内、先ず岩成友通 (いわなり ともみち)が信長に降伏。同じく同月30日には細川昭元三好長逸(みよし ながやす)が城を放棄。10月2日篠原長房阿波国へ落ち延び、池田勝正も信長に降伏する、と言う具合で、バタバタと敗退し、三好軍の強さは信長の前では歯が立たなかったのです。

信長と戦ったら敗ける、と今井宗久は見たのでしょう。1568(永禄11.10.02)信長が上洛した機を捉えて、宗久も単身上洛して信長に会い、名物の茶入れ「紹鴎茄子」と茶壷「松島」を献上して信長と話し合います。講和への道筋をつけ、宗久は堺に戻って会合衆達を説得し、2万貫支払いを受け入れて堺滅亡の危機を回避します。

年を越して翌1569(永禄12)年の1月5日、三好三人衆は京都に入った義昭を襲撃します。「本圀寺(ほんこくじ)の変」です。これは信長に対する三好氏の反撃です。

1569(永禄12)年1月9日、「本圀寺の変」の4日後、堺は信長へ2万貫を支払います。

これにより、今井宗久は信長に気に入られ、多くの特権を手にしました。堺北荘と堺南荘の代官を務めていた今井宗久の代官職をそのまま安堵、摂津の塩の徴収権淀川の通行権、生野銀山の支配(長谷川宗仁と共同)などが、その特権の中身です。そして、今井宗久津田宗及(つだ そうぎゅう)千利休と共に信長の茶頭を務めました。

 

武野宗瓦(たけの そうが)について

今井宗久から養育されていた武野紹鴎の嫡子・武野宗瓦は、長ずるに及んで父・紹鴎の財産を返還する様に宗久に要求しました。紹鴎の茶道具も何もかも宗久が管理しており、と言うより私物化しており、奪われたも同然の状態になっておりました。

宗瓦は父・紹鴎の遺産を巡って姉婿の宗久と争い、信長に裁定して貰いました。ところが、信長と宗久の結び付きは強く、ずぶずぶの関係です。宗瓦は敗訴し、おまけに信長の意に背いたと言う理由で追放されてしまいます。信長亡き後も秀吉からは石山本願寺に内通していたとの嫌疑で追放され(宗瓦の室が石山本願寺の縁者)、不遇は続きました。最晩年の1611(慶長16)年家康の命で豊臣秀頼に仕えましたが、その3年後亡くなります。享年64。

 

宗久、戦場の趨勢を握る

1548年、宗久は硝石の独占買占めをしたと前述しましたが、これはとても重要な出来事です。戦いの仕方が弓矢から鉄砲に移り、火縄銃の性能、その数、使いこなしの熟練度、用兵の仕方などで、随分と軍隊の強さが違って参ります。

堺が2万貫を支払って信長の軍門に下り、堺の火縄銃が信長の掌中に握られた時、信長に敵対する大名達は火縄銃の火薬に不可欠な硝石を入手出来なくなってしまいました。何故なら、硝石は今井宗久が独占輸入しており、宗久と信長の強い互恵関係から、信長のみに硝石が納められる様になってしまったのです。この為、他の大名達は別のルートを開拓して硝石を得るか、自前で生産するしかありませんでした。

日本では硝石は産出されません。ではどうするかと言うと、古土法、培養法、硝石丘法などと言う方法で、糞尿などに含まれる窒素と土壌のバクテリア、灰に含まれるカリウムを反応させて硝酸カリウムKNO₃(硝石)を作り出していました。

古土法は、古い家の床下の土と木灰を水に溶いて煮出し、溶液を煮詰めて硝酸カリウムの結晶を取り出す方法です。(硝石は水に溶けやすいので雨がかからない床下の土が良い、と言われています)

培養法は、蚕小屋の床下に蚕の糞と草を混ぜて何年も寝かせ、土と灰汁を混ぜて作る方法です。

硝石丘法は、人間や家畜の糞尿を野外に積み上げて何年も寝かせ、土と灰汁で反応させて作ります。

硝石を入手できなかった武将は、この様な方法で硝石を手に入れざるを得ませんでした。

1548年以降、宗久の硝石の取引先は宗久の胸三寸にあり、1569年信長が堺を制圧すると、更に入手困難になりました。1570年姉川の合戦、1575年の長篠の戦など大きな合戦だけでなく、大小様々な戦いが、日を空ける事無く続いていた時代、甲斐武田は硝石の入手にかなり苦労していたようです。火薬は戦場で使うだけでなく、訓練用の試し打ちにも必要です。潤沢な火薬があってこそ、練度も上がると言うものです。

 

北野大茶湯

1582(天正10.06.02)年本能寺の変で信長が自害すると、世の主役は羽柴秀吉に移ります。

秀吉は今井宗久を茶人として遇しますが、力を持ち過ぎた宗久をそのまま重用する、と言う事はしませんでした。時の権力者に深入りした者は、次の権力者で失脚するのが世の習い。茶の湯という拠り所を持っていた宗久は、御伽衆として秀吉に仕える事が出来ましたが、主たる茶堂は千利休に代わり、あからさまな冷遇は受けなかったものの、かつての権勢は在りませんでした。

1587.11.01(天正15.10.01)、 秀吉は北野天満宮北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を催しました。老若男女、貴賤卑賤問わず、衣服の善し悪し問わず、唐人などの国籍問わず、しかるべき茶道具無き者は代替悪しからず、と言う触れを出したものですから、大盛況になりました。

この時、千利休、津田宗及(つだ そうぎゅう)今井宗久の3人が茶堂を務めました。

今井宗久の人生にとって一番華やかな一幕だった事でしょう。

1593年、その生涯を閉じました。享年73。

 

余談   今井村

今井宗久の出身の大和国高市郡今井村は、堺と同じく自治を行っていた特殊な村でした。巾3間の壕を3重に巡らし、掘り上げた土で土塁を築き、9つの門を設け、浪人を養って武力を蓄えていました。幾多の戦乱に抗して耐え、破壊を免れて現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に認定されております。

  

余談   土壌と窒素肥料

当ブログの「11 お茶を知る(1) 旨味成分」(2020(R2).05.16 up)で、お茶の旨味には窒素肥料が関係している、と書きました。同時に、窒素肥料による硝酸性窒素亜硝酸性窒素の生成の弊害も述べました。硝石の生産は、この現象と似ています。

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「年表」「地形図」「古地図」「戦国期のお金に関するこぼれ話」「Kyoto Love. Kyoto伝えたい京都、知りたい京都」「Wedge ONLIN 織田信長の資金調達法 家計は火の車でも上洛できる」「なにわ大坂をつくった100人・足跡を訪ねて」「地域の出している情報」「観光案内」等々。その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。