式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

134 武家茶人 略列伝(4) は行

梅是百花魁 (梅これ百花のさきがけ)と申します。住宅街のあちこちの庭にちらほらと梅のつぼみを見る様になりました。日陰の霜柱も心なしか低い様な・・・

古田織部はウニのよう」と書き始めたこのブログは、4月で丸2年を迎えます。ようやく織部が生きていた時代に差し掛かって参りました。ウニを取り巻く海に譬(たと)えて、織部が生きた武士世界の人間群像を見ますと、商人や職人達の市井(しせい)の人々、農民達などとは違った生き様が浮かび上がって参ります。

 

は行

長谷川宗仁 (はせがわそうにん)(1539‐1606) 武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子

堺の町衆の一人。後、武士になり織田信長に仕える。当時、中国地方では毛利氏、尼子氏が争い、山名氏も内紛を抱えて分裂していた。そのような時、山名祐豊(すけとよ)が但馬(たじま)生野に銀山を発見する。今井宗久と長谷川宋任は山名祐豊を助け、織田家の力を引き込み、織田家の銀山を確保、但馬の生野銀山経営に手を伸ばす。秀吉の代にはフィリピン貿易の責任者となり、「ルソンの壺」の買い上げ独占を行う。関ケ原では西軍側に立ち、細川幽斎の田辺城を包囲。後、徳川家康に仕える。武野紹鴎の門人。『古瀬戸肩衝茶入(長谷川肩衝)』を所持。茶人にして絵師。享年68歳。

 

蜂須賀家政 (1558-1639)

家政は蜂須賀小六正勝の子で、尾張の宮後城(みやうしろじょう)で生まれた。織田信長羽柴秀吉に仕えた。山崎の戦いや賤ケ岳の戦いの功で、播磨国の内、3千石を得る。その後、紀州征伐、四国攻めなどで武功を挙げた。それにより阿波18万石の大名となる。一宮城の主となり、更に徳島城を築城。城の竣工を祝って領民に「好きに踊れ」と促して始まったのが「阿波踊り」の原点だと言う。その後も九州、朝鮮の役で活躍。家康の会津征伐には息子の至鎮(よししげ)を派遣。家政自身は大坂城に居て豊臣側を監視した。が、大坂城に入った毛利輝元に逼塞させられ、阿波は毛利軍の侵攻を受ける。関ケ原の戦いで至鎮所属の東軍が勝利した事に因り、阿波は家康により安堵された。戦後家督を至鎮に譲り、隠居。が、至鎮が35歳で夭折したので孫の忠英(ただてる)を後見する。享年81歳。

 

花井吉成 (生年不詳-1613) 古田織部の弟子

初め徳川家康の近習として仕え、後に、家康6男の忠輝が川中島藩の藩主になり、海津城に入った時、付け家老として忠輝に仕える。忠輝が越後国高田藩の藩主になり、川中島藩と兼務する様になると、花井吉成は海津城の城代になってその地を治めた。北国街道の整備、犀川(さいかわ)水系の治水、用水路や水田開発など民政に力を注ぎ、領民から感謝された。花井神社として、息子と共に祀られている。

 

林 秀貞 (1513-1580)

佐渡守秀貞。織田信長の後見役。信長とその弟・信行(=信勝)が対立し、柴田勝家や林通具(はやし みちとも(秀貞の実弟で林美作(はやしみまさか)守))がお家騒動を起こし、稲生(いのう)で衝突した時、これを静観。戦後、秀貞と勝家は赦され、織田家宿老に復帰する。晩年、突如信長より追放処分を受け、京都に隠棲。追放2か月後卒。享年68歳。

 

平手政秀(1492‐1553)

織田信秀に仕える。織田信長の傅役(もりやくorふやく)。次席家老を務める。信長と斎藤道三の娘・濃姫との縁組を決めた。信秀の死から約1年後、若き日の信長の行状を諫める為に切腹。文化人。茶の湯や和歌に通じていた。享年62歳。

 

船越景直(ふなこしかげなお) (1540-1611) 古田織部小堀遠州の弟子

水軍を率いて、三好長慶の弟・安宅冬康に仕えた。三好滅亡後、信長の旗下に入り、信長亡き後秀吉の直臣に成る。各地の戦いに参陣し武功を挙げる。関ケ原の時には東軍に属し、摂津や河内、大和等を合わせて最終的に6千石を領する様になる。茶席で使う古帛紗などの織物に、船越間道と言う布があるが、これは彼の使っていた織物(明代の製作)に由来する。享年72歳。

※ 間道(かんとう)とは織物の柄の名前で、縦縞、横縞、格子縞など、縞模様の事を云う。

 

船越永景(ふなこしながかげ) (1597-1670) 古田織部小堀遠州の弟子

父は船越景直。父の跡を継ぎ、摂津・河内・大和の6千石の江戸幕府旗本。普請奉行。片桐石州との交流あり。享年74歳。

 

古市澄胤 (ふるいち ちょういん)(1452-1508) 村田珠光弟子

興福寺衆徒。古市播磨法師と呼ばれ、大和に勢力を拡大。山城国一揆を鎮圧。博打好き。茶の湯・謡・連歌などに通じ文化人。茶人・村田珠光(むらたじゅこう)の第一の弟子。山上宗二から「和州古市澄胤 茶の名人」と讃えられている。澄胤の弟子に松屋久行が居る。澄胤は河内国高屋城主・畠山尚順(はたけやま ひさのぶ or ひさより)を攻撃し、敗走途中で自害する。享年57歳。

参考:117桃山文化11 焼物(2) 茶の湯  古市澄胤

 

古田重然(しげなり)(織部)(1544-1615) 利休七哲の一人

安土桃山時代から江戸初期にかけての部将にして茶人。生国美濃。名は佐介、景安、重然。通称織部(おりべ)。古織(こしょく)。信長の配下になり、使番(つかいばん→伝令や使者)になる。信長の仲介で中川清秀の娘・せんと結婚。山城国久世荘の代官となる。信長に従い数々の戦に出陣、荒木村重謀叛の時、舅・中川清秀を説得し信長側に引き戻す。信長没後は秀吉に仕える。賤ケ岳の戦いで清秀が戦死した為、清秀の息子の秀政の後見役に成る。小牧・長久手紀州や四国攻め等に中川秀政と共に参陣。従五位下織部助に叙任され、山城国西岡に3万5千石を与えられ大名になった。小田原の陣では千利休と交流を持ち、竹花生けを作る。この頃から、頻繁に奈良衆を招き茶会を開く様になる。時には、利休と熱海で温泉につかったりしたが、利休が秀吉の勘気を蒙り追放された時、細川三斎(忠興)と共に淀川で見送った。文禄の役では肥前名護屋に詰めた。関ケ原の戦の前に佐竹義宣を調略、功により家康から1万石を加増された。

家督を重広に譲り、隠居料3千石を得て茶三昧の生活に入る。朝廷、公家、寺社、堺や博多・大阪などの富豪層、各地の窯元の職人達への作陶指導などと、その人的交流も広くなり、利休亡き後の茶の湯界の頂点に立った。太閤秀吉の筆頭茶堂になり、徳川秀忠の師匠にもなった。

大坂夏の陣の時、織部の家老・木村宗喜が豊臣側に内通し謀反の疑いが有るとの理由で、織部切腹を命じられた。彼は一言も弁明せずそれに従った。享年73歳。

  参考:「115 桃山文化9 漆工芸                    2021(R3).09.01  up

             「117 桃山文化11 焼物(2)・茶の湯   2021(R3).09.17  up

             「118 桃山文化12 焼物(3)・織部焼      2021(R3).09.23  up

             「119 式正の茶碗」                                 2021(R3).10.01  up

 

古田重勝 (1560-1606) 古田織部の弟子

伊勢松坂藩藩主(5万5千石)。従五位下兵部少輔重勝古田織部の従兄弟。しばしば古田織部と混同される。重勝の父・古田重則は秀吉の腰母衣衆の一人。重則の子に、嫡男・重勝(徳川方)、次男・重忠(豊臣方)、三男・重治(徳川方)がいる。重則は三木城の戦いで討死。嫡男重勝家督を継ぎ、重勝も秀吉に仕える。

関白秀次事件で伊勢松坂藩の服部一正が連座して切腹した後を受け、松坂城に入る。家康の会津征伐に従い、関東まで行くが、石田三成謀叛の報せと共に、松坂城、津城が三成方の手に落ちたとの知らせを受け、家康の許しを受け、津藩の富田信高と共に折り返し本国に馳せ帰り、これを奪還する。関ケ原時、東軍に立つ。なお、重勝の三人兄弟の内、重忠は豊臣秀頼付の側近である。大坂の陣では兄弟が東西に分かれて戦う事になる。大坂夏の陣前に、重勝は病没しているので、大坂城の重忠に対峙したのは末弟の重治である。重勝享年47歳。

 

古田重治 (1578-1625)

松坂藩、浜田藩の藩主。上に、重勝、重忠の兄がいる。

秀頼側近の重忠は、関ケ原合戦後に、二人の息子を兄・重勝と弟・重治にそれぞれ分けて養子に出す。重勝没後、重勝遺児希代丸(まれよまる(後の重恒))が4歳故に家督を継ぐに堪えられずと見た家康が、重治に兄の跡を継ぐ様に命じる。重治は、それは希代丸が継ぐべきとして固辞したが、家康は重治を、兄の「兵部少輔」の役職を空席にし、「大膳大夫」の役職にして松坂藩藩主に任じた。更に石見国浜田藩(5万4千石)に転封。初代浜田藩藩主にする。

大坂の陣に重治は東軍側で出陣、大坂方の重忠は落城の前日に城内で討死する。希代丸改め重恒が成人すると、重治は家康に願い出て家督を重恒に譲り、空席だった兵部少輔を重恒に就け、浜田藩2代藩主とした。又、重忠遺児・重良と重昌の二人を徳川直参旗本にした。重治自身は隠居して、隠居料も土地も、茶道具類なども財産全てを重恒に渡して江戸に出る。「其身は物寂しきさまにて在江戸に侍(はべり)き」と『太閤記諸士之伝記』に書かれている。家康は、重治を称して「今世(きんせい)まれなる者かな」と絶賛した。が、この家督の流れが、後の古田騒動の遠因になっていく。重治、江戸にて没。享年48歳。

 

北条氏盛 (1577‐1608) 古田織部の弟子

北条氏規(うじのり)の長男。正室はこの項でも取り上げている船越景直の娘。秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、氏盛は父・氏規と従兄弟の氏直と共に高野山に上ったが、約2年後に赦免された。氏盛は、氏直の養子となり、氏直没後下野(しもつけ)4千石を与えられた。朝鮮の役の時は肥前名護屋に詰めた。又、父の遺領・河内国狭山7千石を継ぎ、都合1万1千石の大名になった。初代狭山藩主。享年31歳。

 

保科正光 (ほしな まさみつ) (1561-1631) 古田織部の弟子

武田氏滅亡の時、武田の人質になっていたのを救出され、徳川に従う。高遠城(たかとおじょう(現長野県伊那市))を預かり、小牧・長久手の戦い小田原征伐の時も徳川傘下で戦う。下総国の多胡(たこ)に1万石を領する。文禄・慶長の役でも家康傘下、関ケ原も東軍と立場は一貫していた。内政に力を注ぎ、功により高遠藩2万石になる。徳川家からの信頼殊の外篤く、秀忠の内諾を得て、秀忠の隠し子・幸松丸(後の正之(まさゆき))を養子にする(秀忠正室お江の嫉妬が激しく、秀忠の手元で育てるのは危険だった)。その後の種々の功績により、加増され、最終的には3万石の大名になった。享年71歳。

 

細川忠興(三斎) (1563-1646) 利休七哲の一人。千道安にも学ぶ。

細川藤孝(幽斎(ゆうさい))の嫡子。忠興は初め織田信忠(信長嫡男)に仕える。信長の意により明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚。光秀は信長に忠勤に励んでいたが、突然謀叛を起こし本能寺で信長を殺した。忠興は父・幽斎と共に剃髪し、玉を幽閉した。父・藤孝は隠居して丹後南半国だった領国を忠興に譲る。忠興は光秀側に就いていた丹後の北半国の一色氏を明智光秀と連携して滅ぼし、丹後一国を平定。秀吉より丹後一国の領有を許された。その後、九州征伐小田原征伐などを戦い、朝鮮の役にも渡海。関ケ原では東軍に与した。為に、妻の玉は三成の人質になるのを拒否、殺害される道を選ぶ。関ケ原の功により、豊前国中津に転封、豊後杵築(きつき)と合わせて39万9千石に成る。小倉城を築城し、居城とした。大坂夏の陣に参陣後、熊本藩54万石になった三男の忠利に家督を譲り、隠居料9万5千石を貰って悠々自適の暮らしをする。著書に『細川三斎茶書』がある。和歌・能楽・絵画、更には医学に関心を持っていた。茶の湯では利休七哲に数えられる程の達人だった。なお、利休が秀吉から追放された時、古田織部と共に淀川を下る利休を見送っている。享年83歳。

 

細川藤孝(幽斎) or 長岡藤孝(1534-1610) 武野紹鴎の弟子

室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えていた。義輝が非業の最後の後、足利義昭を将軍にと明智光秀を通じて信長に働きかけ、実現する。義昭と信長の間はやがて冷却、義昭は信長によって追放される。藤孝は信長に就く。信長配下の武将として各地を転戦、功を挙げ、山城国長岡の知行を許される。信長の仲介で光秀の娘・玉と藤孝嫡男・忠興との婚儀が成る。本能寺の変の時、剃髪。幽斎玄旨(ゆうさい げんし)と名乗って隠居。家督を忠興に譲る。

藤孝は、文武両道に優れていた、和歌、連歌、茶道、囲碁、将棋、猿楽などに造詣が深かった。特に、和歌を三条西実枝(さんじょうにし さねき)に学び、古今伝授の唯一の伝承者である。

家康の会津征伐の時、細川家の主力軍が参陣して留守中、手薄の丹後田辺城が石田方の軍勢1万5千の兵に攻囲される。幽斎は籠城戦を敷いたが、手勢は500。寄せ手の中にも藤孝の歌の弟子達が居て、攻撃が鈍(にぶ)り勝ちだったが、なにしろ多勢に無勢で戦う事3か月。この時、細川藤孝を死なすなと、八条宮智仁親王後陽成天皇が動いた。我が国唯一の古今伝授者である藤孝を失っては、日本の和歌が失われてしまう、と言う訳で、勅使が田辺城に遣わされ、勅命により講和がなされた。幽斎悠々自適の暮らしの後、京都で没す。享年77歳。

 

余談  古田三兄弟の動き

古田織部の従兄弟とされる古田重勝・重忠・重治三兄弟の動きは不思議です。

大坂方にいる重忠が、二人の息子の両方とも徳川に与している兄と弟に養子に出してしまいました。何故?

武士の家では家系断絶を最も嫌います。本家嫡流はもとより分家であっても、分家なりの家系を繋げる為に努力します。重忠は自分の大切な継嗣を手放した上に、継嗣に代わるべき次男をも養子に出してしまいました。

重忠は、豊臣側の内情を深く知る立場に居ました。彼は内実を良く知っていたが為に、豊臣の将来を見限ったのではないか、その為に息子を手放すという挙に出たのではないか、と思えてくるのです。養子を迎え入れた兄と弟は、その辺の事情を知っていたのではないかと・・・

古田織部に、大坂方と内通したとの嫌疑が掛けられました。織部茶の湯を通じて大坂側の内部情報を良く知っていたと思われます。その情報元の一つに重忠がいたかどうか、重忠が討死してしまったので分かりません。織部重臣・木村宗喜が逮捕された事件は京都の伏見で起きました。その時、重忠は大坂城に居たのですから、この事件との直接的な繋がりは無いと思いますが、なんとも気になる動きです。なお、古田三兄弟は美濃出身で、家紋は織部と同じ「丸に三両引」。通字は「重」です。