式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

175 茶史(3) 待庵~北野大茶湯

およそ家を建てる時は、建築家は施主の意を汲み、幾度も話し合いを重ねて施主の思いを形にしていきます。待庵の場合はどうなのでしょう。やはり、茶室を作れと依頼した施主・秀吉の意向を取り入れたものなのでしょうか。

草庵の茶室は周囲から隔絶された庭にあり、言うなれば陸の孤島。高い気密性があります。天下取りの策謀を巡らしたい秀吉は、余人を交えず密談できる場所が欲しかった筈。

山里の田舎家を模した草庵の茶室は、独立した密室という意味で秀吉の眼鏡に叶っていました。又、狭い空間に入ると周囲の壁に守られている様な気がして落ち着くと言う効果もあり、親密度も増します。侘び仕様の室内は興奮した気分を沈静化します。様々な理由から、秀吉は密室を茶室のコンセプトにして、侘茶の旗手・千宗易(利休)に待庵の設計依頼をしたのではないかと、思われるのです。

宗易は、秀吉の想像を超えて遥かに卓越しており、そこに侘びの極致を具現化し、躙(にじ)り口という本邦初の設備を施して、人皆平等の思想をそこに込めたと思われます。頭を下げたくない秀吉が躙り口に不満を述べても、「この方が密室度は高まります」と言えば、秀吉とて納得してしまいましょう。

 

今回は、秀吉が天下を制してから、北野大茶湯までを扱います。

 

               茶   史

織部が直に関係した件は黒字、茶史などその他に関しては青字で記します。

 

1582.06.22(天正10.06.02) 本能寺の変

1582.06.24(天正10.06.05) 上田重安(宗箇(そうこ))津田信澄の首級を挙げる。

津田信澄(=織田信澄)は信長の甥である。昔、信長は弟の信勝(=信行)謀反の動きを見て仮病を使い、信勝を清洲城に呼び寄せ謀殺した事がある。信澄はその信勝の嫡男である。そして、信澄の正室明智光秀の娘である。光秀が本能寺の変を起こしたので、その娘を娶っている信澄も共謀しているのではと疑われた。なにしろ、信澄の親の仇は信長なのだから。

信長が安土に居て秀吉が中国攻めをしている間、信長は丹羽長秀の人柄に全幅の信頼を置いて大坂城を守らせていた。大坂城全体の守将は長秀だったが、大坂城は余りにも大きく、郭(くるわ)毎に区分けをして各武将に割り当てて守らせていた。津田信澄はその内の千貫櫓(せんがんやぐら)を守っていた。丹羽長秀は、津田信澄明智側に寝返って城内叛乱を起こすのではないかと恐れ、信澄の守る千貫櫓を攻めた。長秀家臣の上田重安、その時、一番槍の功名を取りに、単独で攻めに行って信澄の首を討ち取った。

1582.07.02(天正10.06.13) 古田重然中川清秀と山崎の合戦に出陣。

山崎の合戦(天王山の戦い)とは、本能寺の変の後、中国大返し畿内に戻って来た秀吉と明智光秀が、山崎(現京都府長岡市乙訓郡大山崎にかけての一帯)で激突し、雌雄を決した戦いである。その戦いに古田重然中川清秀と共に秀吉に従って出陣した。

1582.07.16(天正10.06.27) 清須会議

信長後継者を巡って重臣達の会議が清洲城で開かれた。出席者は柴田勝家丹羽長秀池田恒興堀秀政羽柴秀吉の5人である。会議の結果、事前に根回しをしていた秀吉の推す信長嫡孫・三法師に決まる。秀吉は清須会議を制してから、権謀術数を駆使して天下制圧への道を歩み始める。

1582(天正10.07)                 上田重安、近江高島郡の代官になる。

丹羽長秀津田信澄を討った功により、本拠地若狭に加えて近江を賜った。長秀は信澄を直接討った上田重安を近江高島郡の代官として大溝城へ入城させた。(後に、丹羽長秀は賤ケ岳の戦いや北の庄上の戦いで戦功をあげ、越前国加賀国を賜り123万石の大大名になる)

1582(天正10.08)                  千宗易、茶室『待庵』を造る。

秀吉は、光秀を破った後、天王山に山崎城を築き、居城とした。秀吉は千宗易に命じて山崎城内に茶室を建てた。それが2畳隅炉の躙り口付き茶室で、現在国宝の『待庵』である。待庵は慶長年間に解体され、山崎にある臨済宗東福寺派の妙喜禅庵(妙喜庵)に移築された。

1582.09.13(天正10.08.27) 千宗易の妙喜庵宛書状に古田佐介の名前が初見される

1582.12.09(天正10.11.14) 千宗易、秀吉から「迷惑な事」を依頼される。

宗易から薮内紹智(やぶのうちじょうち)(=剣仲(けんちゅう)=藪中斎(そうちゅうさい))に宛てた書状で、「迷惑成ること」を秀吉から頼まれた、と記している。宗易は秀吉から茶堂を命じられていた。この頃秀吉は、信長の葬儀を7日間にも及ぶ盛大な葬儀を勝手に行うなど、信長の後継者たる振る舞いをし始め、尊大になっていった。

1583.01.24(天正11.01.01) 古田重然滝川一益攻めの秀吉軍に従軍。

滝川一益柴田勝家側につき、秀吉と敵対する。秀吉、7万の大軍を持って一益の伊勢長島城(現三重県桑名市長島町)を攻略する。

1583.06.11(天正11.04.21) 古田重然賤ヶ岳の戦いに参陣す。

賤ヶ岳の戦いは、羽柴秀吉(兵力5万~7万)柴田勝家(兵力3万)が戦った合戦である。

古田重然中川清秀と共に秀吉側に参陣する。重然はこの戦で軍功を挙げたが、中川清秀は討死した。重然、清秀の長男・秀政の後見役となる。

1583(天正11.05)          千宗易、秀吉の坂本城の茶会で初めて茶堂を勤める。

1584(天正12)                       千宗易大坂城に2畳の茶室を作る。

2畳の茶室と言うと、「待庵」を思い浮かべるが、大坂城の2畳茶室はそれとは別で、新たに大坂城内の山里曲輪(くるわ)に建てたものである。山里曲輪には外にもタイプの違う茶室があったと言われている。

1584(天正12)                      山上宗二、秀吉の怒りを受け浪人し、前田利家に仕える。

1584.11.17(天正12.10.15)   秀吉、大坂城内座敷で茶会を催す。

この時、堺の茶人や武将が招かれた。千宗易今井宗久、津田宗及(そうぎゅう)など堺の茶人の錚々たるメンバーを始め、万代屋(もずや)宗安、今井宗薫, 住吉屋宗無、千紹安(しょうあん(=道安)宗易長男)山上宗二、 重宗甫(じゅうそうほ)、 山上道七などの堺衆や、武家では、松井友閑、細川幽斎芝山宗綱(監物)藤田平右衛門、佐久間忠兵衛、高山右近古田左介(=重然=織部)、中川秀政、松井新介(康之)牧村利貞(兵部)等々である。

1584.12.22(天正12.11.21) 秀吉、従三位(じゅさんみ)権大納言に叙任される。

1585(天正13)                        小堀作助(=政一=遠州)の父、豊臣秀長の家老になる。

作助の父・正一は主君・豊臣秀長大和郡山に移封された時大和に移住。秀長は茶湯を好み、千宗易から茶の指導をうけ、又、山上宗二を招き、大和郡山を茶湯の盛んな土地にした。作助は元服し政一と名を改め、小姓として仕える。黒田孝高(=如水)やその子の長政などとの知己を得る。

1585.03.14.(天正13.02.13)  古田佐介、堺衆を招き茶会を催す。

1585(天正13.03)                秀吉、大徳寺で大茶会を催す。

1585.04.09.(天正13.03.10) 秀吉、正二位・内大臣に叙任される。

1585.05.15.(天正13.04.16) 丹羽長秀、死去。享年51歳。

丹羽長秀は信長の宿老であり、信長横死の後も秀吉に仕え、秀吉を支え続けた重臣である。彼は幾多の戦場で功を挙げ、取り分け消耗戦の激しい戦場でその力を発揮、秀吉に勝利をもたらして来た。晩年「積寸白」という病に侵され激痛に苦しんだ。「積寸白」と言う病気は多分回虫だったとのではないかと言われている。こぶし大の石亀に似た白い塊で嘴(くちばし)があったそうである。癌か結石だったのではないかとも言われている。彼は、秀吉の役に立たなくなった我が身を愧(は)じ、秀吉にわび状を書いて腹を切ってしまった。直接の死因は、余りの激痛に耐えかねて自分で腹を切って手術したことに拠る。彼は自分の手で病巣を取り出して放り出したそうだ。彼は2日後に亡くなった。長秀の治めていた123万石の領地は前田利家に与えられ、加賀百万石の誕生の切っ掛けとなった。また、長秀の嫡男・長重は父祖の領地を召し上げられ、5万石に減封されてしまった。

長秀の娘の一人は、古田重勝の弟・重治の正室となっている。(古田重勝古田織部と間違えられている人物で、松坂藩藩主である)。また、長秀の家臣・上田宗箇は、主君の丹羽家領地減封のあおりを受けて失業、秀吉の直臣になった。

1585.08.06.(天正13.07.11) 羽柴秀吉、関白に叙任された。

秀吉が関白になるについてはかなり強引な手を使っており、関白職を巡って争いが起きた(関白相論)。関白職は元来五摂家(近衛、九条、鷹司、二条、一条)出身の公卿がなるべき職であった。時の関白・二条昭実(にじょうあきざね)へ、近衛信輔(=信尹(のぶただ)(近衛前久の嫡男))が関白職を譲るように要求して争っていたところ、秀吉は近衛前久の猶子になって、信尹にそれを諦めるように迫り、昭実は諦めて関白を辞職、秀吉に職を譲ったのである。信尹は無念の思いを「言上書」という書状に書き、切々とした思いを「悲嘆の紅涙双袖に染む」と認(したた)めている。秀吉による朝廷内の官位を巡る混乱は一時的なものであり、秀吉の跡は再び五摂家に戻されるとの約束であったが、秀吉は関白職を秀次に譲って豊臣家の恒久的な職位とする道を開いてしまった。秀次が賜死した後も秀頼がその職位の後継を望み、徳川家康が豊臣家を滅ぼすまで混乱の影響が続いた。家康が天下を取ると、関白職など朝廷の官位を旧来の五摂家の継承に改め、1615年(元和元年)『禁中並公家諸法度』の制度を敷いた。

1585(天正13.07)           古田重然紀州征伐、四国征伐に参陣。

この時、中川秀政(中川清秀嫡男)と共に参陣する。

1585(天正13)                         古田重然山城国西岡3万5千石の城主となる。

この頃、関白になった秀吉より従五位下(じゅごいげ)織部(おりべのかみ)に叙せられる。

1585.08.20(天正13.07.25)  長曾我部元親、秀吉に降り、四国平定成る。

1585(天正13.09)                    千宗易、居士号「利休」を勅賜される。

秀吉が禁中で茶会を開くと言うので、それに伴い無官の千宗易も居士号を賜った。宮中へ上がるには無位無官は参内(さんだい)する事が出来なかった。そこで僧侶の扱いで「利休」という「居士」号を貰い、奉仕する事になった。

1585.11.28(天正13.10.07) 正親町天皇への禁中茶会に、千利休奉仕。

この時、豊臣秀吉が禁中茶会の為に造らせた黄金の茶室が宮中に持ち込まれ、秀吉はそこで天皇に茶を点てて献じた。黄金の茶室は組み立て式である。建具の全てに金箔が張られ、畳は猩々緋(深い真紅)、障子紙の代わりに赤の紋紗(もんしゃ)(地織のある布で、セミの翅の様に透けた薄い生地)が張られていた。そして、台子(だいす)は黄金で作られており、用いた道具は黄金の皆具(かいぐ)(皆具とは水指・杓立・蓋置など全ての意匠が統一されている物の事を言う)だったと言われている。

1586(天正14)                       千宗易の指導で楽長次郎が楽茶碗を焼くようになる。

楽茶碗には赤楽茶碗と黒楽茶碗があり、ろくろでは無く手捏(てづく)ねで造形された茶碗である。低温で焼成され、如何にも土を焼いたという風情の侘び感あふれる作風である。

1586(天正14)                       山上宗二、秀吉の怒りに触れて高野山に逃げる。

山上宗二は、正しいと思った事は正しいと主張し、間違っている事に対しては相手が誰であろうと忖度なしに鋭く指摘する様な人物だった。妥協をせず、自分の審美眼を信じて押し通す生き方をしていた為に、秀吉は彼を嫌っていた。

1586(天正14.11)                   神谷宗湛『宗湛日記』を書き始める。

宗湛の書いたこの日記は、四大茶会記と呼ばれ、当時を知る上での一級資料である。四大茶会記とは、津田宗及の天王寺屋会記』今井宗久今井宗久茶湯書抜』、松屋久政の松屋会記』と、『宗湛日記』の合わせて四つである。神谷宗湛は古田織部の茶碗の事を「セト茶碗ヒツミ候也 ヘウケモノ也」と評した。

1586~1587(天正14~天正15) 古田織部(重然)、秀吉の九州征伐に従軍する。

九州に於いて大友氏と島津氏が争いを起こしていた為、秀吉は九州停戦令を命令したが、島津氏は従わなかった。秀吉は当初、毛利や小早川、長曾我部などの九州近隣の大名を動員して島津攻めに当たらせた。秀吉本人が出兵したのは翌年の1587(天正15)年の3月1日になってからである。古田織部(重然)はこの九州征伐に従軍する。

1587(天正15)                        利休、津田宗及、今井宗久の三人、3,000石の禄を賜る。

1587(天正15)                        利休、完成した聚楽第内に屋敷を賜る。

1587(天正15.01)                   大坂城の大茶会で利休第一席を担当。

1587.06.13(天正15.05.08)    九州平定成る

1587.11.01.(天正15.10.01)    北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)が開催される。

今井宗久、津田宗及、千利休が担当し、利休が主管になる。この茶会をもって津田宗及、茶頭の地位を解かれた。北野大茶湯は、豊臣秀吉が京都北野天満宮の境内で開いた茶の湯の一大イベントである。開催期間は10月1日から10日間、貴賤も老若男女も茶の湯好きなら誰でも参加でき、茶道具が無い者は替わりになるものを持って来ても良いからと、7月下旬に公家や諸大名など各所各位に案内状を出した。更に7月28日に京都の五条に触書を出し、大いに宣伝した。遠国にいる者への配慮で、旅程を考慮し、10日間という長い期間を設けたのである。博多の神谷宗湛にも招待状を出した。会場設営は9月から始めたという。中央会場は北野天満宮の拝殿で、その中に黄金の茶室も設えられていた。

開催初日、大勢の客がやって来て盛況を見た。が、どうした訳か次の日は開催されず、たったの一日開いただけで中止になってしまった。理由は諸説ある。①九州で一揆が発生したので秀吉が機嫌を損ねた。 ②老人の気まぐれ ③秀吉が1日で草臥(くたび)れてしまった ④蓋を開けたら思ったより参加者が少なかった  等々が挙げられている。

 

 

余談  丹羽長秀の別れの書状(遺書)

丹羽長秀豊臣秀吉へ別れの手紙を書いて自死しました。以下はその文面です。

(わずら)いの儀ニついて、度々(たびたび)仰せ下さるるの趣(おもむき)、承(うけたまわ)り届き候。先書に申し上げ候ごとく、煩(わずらい)(つい)に験(げん)これなきにつきて、罷(まかり)(のぼ)り候事、遠慮いたし候。殊に五三日(ごさんにち)以前は、此の頃罷り上るべしと申し上げ候へ共、二三日いよいよおもり(重り)、枕もいさヽかあがらず候条、猶(なお)五三日見合はせ、路次にて相果て候とも罷上るべきと存じ候。誠に日来は、自余に相替わり御目にかけられ、いか程の国をも仰せ付けられ候ところ、御用にも立ち候はで口惜(くちお)しく候へ共、それもはや是非に及ばず候。跡目の儀は、せかれ(倅)共、ならびに家中の者共なども御覧じ合はされ、其(そ)れに随(したが)って仰せ付けられ候て下さるべく候。この式いかがに候へ共、あらみ藤四郎の脇差。大かう(剛)の刀、市絵、進上仕(つかまつ)り候。我等と思召(おぼしめし)候様こと存じ候。委細、成田弥左衛門、長束藤兵衛申し上げるべく候。                                                               恐惶

卯月14日        惟住(これずみ)越前守長秀

秀吉様

   参る人々御中

 

(ずいようぶっとび超意訳)

私の病気の件につき、「惟住はどうしている」と度々仰せ下さって心配して下さっているご様子を、周りの者から承って知っております。先の手紙でも申し上げました様に、病気はついに治る様子も無く、伺候する事は遠慮申し上げます。殊に、5日から3日前までは、お伺い致しますと申し上げておりましたが、2日から3日前になると、いよいよ病が重くなり、枕も少しも上がらなくなりました。なお、更に5日から3日様子を見て日延べして、お伺いする道の途中で死んでも良いからなんとか罷り上がるべきだと思っております。誠に日頃から殊の外お目にかけて頂き、どれ程の大きな国の領知をも仰せ付けられておりますのに、御用にも立てず口惜しく存じておりますが、それも最早どうしようもない事でございます。私が亡くなった後の跡目の事は、息子共、並びに家中の者などの人物や器をご覧になられて、その判断に従って殿下の思う様に差配して下さいませ。この様な事は如何かと思いますが、あらみ藤四郎(鎌倉時代名工藤四郎吉光作の短刀)、大剛の刀、市絵(洛中洛外図の様な絵画か? or 地図か?)を進上致します。それを私の形見と思って下されば、と思っております。詳しい事は、成田弥左衛門(成田道徳・越前勝山城主)と長束藤兵衛(長束直吉・伊賀守)が殿下の下に伺って申し上げます。恐惶

 4月14日     惟住越前守長秀

秀吉様

  殿下のお傍に仕える方々へ

 

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

『没後400年 古田織部展』 NHKプロモーション

『よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇』展 広島県立美術館

『戦国武将の手紙を読む 乱世に生きた武将の鮮烈な心情』 二木謙一

tyanoyu.net 二畳(にじょう)

『宗湛日記』の世界 神谷宗湛と茶の湯 小澤富夫

キリシタン受容の構図―『茶会記』に見る茶湯政道 堺から 前田秀一

大坂城 山里丸-O-TUBE』

『豊臣時代大坂城指図』(中井家所蔵)をめぐるノート 仁木宏・家治清真

『宗湛日記に見る茶の湯の空間と所作の総合研究』 (公財)文化財建築物保存技術協会顧問 伊藤延男 研究代表

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」

この外に「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「地図」「地域の出している情報」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。