マウントを取りに来る相手に反撃、スカッと・・・と言うような話題がネットによく上がっています。人は誰でも、人の上に人を作られると嫌な思いをするようです。
自分が中心になって全てを回していると思っている太閤秀吉。威厳を示し、贅美を尽くし、人々の上に君臨したい気持ちは、誰にも増してうずうずとしていた事でしょう。その彼が利休にマウントを取られる、と言う事は、余程の師弟関係がしっかりしていないと無理があります。
師弟関係、と言うか、師の考えに全幅の信頼を置いてそれに全面的に従う気持ちが無いと、と言う意味です。それがないといずれは破綻(はたん)してしまいます。
秀吉は、かつての主君・信長公が行って来た茶湯御政道が政に有益であった事を知っています。信長は茶器などを領土代わりに家臣に与え、茶の湯を許可制にしました。茶の湯が出来ると言う事は、当時もの凄いステイタスでした。
信長亡き後、秀吉は茶の湯を人々に解放します。そして、茶の湯を信長とは違うやり方で御政道に利用します。人脈作り、交際、主従の固め、祝祭、陣営の結束、資金集め、人気取りなどなど、数々の茶のイベントを通して行政に生かそうとします。古代ローマ人の『パンとサーカス』的発想と通底しています。
茶の湯には師匠・利休が説く「侘び・寂び」だけでは無い遣(や)り方が外にもある。秀吉はそう確信します。師は言います。「他人とは違うやり方をせよ」と。
武家茶創始への始動
1585年(天正13年10月07日) 秀吉は禁中菊見の間に黄金の茶室を設(しつら)えて、正親町天皇へ御茶を献じました。黄金の茶室など、「わび」の精神からすればとんでもないイベントですが、秀吉は堂々と天皇の前で自分が創り出した「美」を披露します。
卑賎出身の秀吉。けれど、無学無教養ではありません。当代一流の先生に就いて学んでいます。茶の湯は勿論千利休、文学を古今伝授の細川幽斎(=藤孝)、連歌を連歌界の第一人者にしてこれも古今伝授の里村紹巴(さとむら じょうは)、能楽を金春安照(こんぱる やすてる/あんしょう)に師事しています。能楽は秀吉自身も演じました。能の曲も数曲創っています。能好きが高じ、天覧の場で秀吉は前田利家と徳川家康と共に舞ったそうです。お能の曲を創ったり、舞ったりするには、そんぞょそこらの教養では追いつきません。現代の東大卒でも無理でしょう。
辞世の「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」という句は、辞世の中でも傑出した句だと思います。彼を、単に百姓生まれの男だと蔑(さげす)む事は出来ません。
秀吉は、利休の茶の湯に対して、これは儂が望んでいる茶の湯では無い、と感じていました。利休の茶の湯は、商人の発想から練り上げられた茶の湯。武家には武家に相応しい茶の湯がある、との思いが強くなってきたのです。そこで、利休の高弟である古田織部に、武家に相応しい茶の湯を創始せよ、と命じます。
武家茶の歴史
古田織部は秀吉からの大命を模索し始めます。彼は、利休以前に行われていた柳営の書院茶湯に範を採り、彼独自の工夫を加えて行きます。
武家茶は秀吉が考え付くよりずっと大昔から存在していました。
鎌倉時代、明菴栄西が2代将軍・源頼家に二日酔いの薬にお茶を献じた頃から、お茶は武家の間に浸透して行きました。その遣り方は禅林の遣り方の踏襲でした。
鎌倉末期、後醍醐天皇が闘茶の会を開いておりますが、室町時代に入ると闘茶が更に流行り始めました。佐々木道誉などバサラ大名達が盛んに闘茶の会を開いています。
それが、室町幕府8代将軍・足利義政の代になると、博打の要素の強い闘茶は次第に「お茶」とは見做(みな)されなくなり、衰退していきます。そして、落ち着いた茶の湯の文化が芽生え始めます。縁側の茶などの様に気楽に茶を振る舞う様にもなりました。
参照 : №127絵で見る茶の湯(1厩図) 2021(R3).12.11 up
№128絵で見る茶の湯(2)調馬図 2021(R3).12.19 up
将軍家の柳営茶湯を大成したのが、義政に仕えていた能阿弥です。能阿弥は書院茶における台子点(だいすだて)を完成させました。
当時、茶湯と言えば、唐物茶器や大名物を使ったこの書院茶の事を指し、斎藤道三や織田信長、武井助直(=夕庵(せきあん))などがこの系統の茶の湯をしていました。堺の豪商・今井宗久、津田宗及、武野紹鴎なども、新しく興った侘茶に追随しながらも、用いる道具立ては書院茶そのままでしたので、彼等の侘茶への意識改革は道半ば、と言う状態でした。
村田珠光が始めた侘茶を引き継ぎ、千利休が侘茶を完成させました。
侘茶は高価な茶道具を必要とせず、茶を飲む事一つに特化したものでしたので、それ迄上級武士達の嗜みであった高根の花の茶の湯が、広く浸透して行き、誰でも嗜めるようになりました。
ただ、書院の茶湯から侘茶に変化した事で、大きく変わったことが有ります。
千利休が田舎家を模し、草庵の茶室を創り出した事によって、それまでになかった設備―すなわち躙(にじ)り口という構築物が付け加えられたのです。
新しい武家茶
室町時代の茶の湯、特に慈照寺(通称・銀閣寺)で行われていた茶の湯は、会所や常(つね)の御所などで行われていたと言われています。今では会所も常の御所も無くなってしまい、現存する建物から往時を偲ぶしかありませんが、東求堂の同仁斎(四畳半)にも炉を切った跡があったとか。が、いずれも、躙り口など無く、身を屈めて頭を下げる必要はありませんでした。
誇り高き秀吉は、躙口などで強制的に頭を下げさせられるのは苦痛だったでしょう。
1584(天正12.10.15)年、秀吉は、29人の客を招いて茶会を催しました。招いた客は、細川幽斎をはじめ高山右近、松井友閑、牧村長兵衛、古田佐介(織部)など大名・武将に加えて、堺衆の今井宗久、津田宗及、千宗易、山上道七などなどその他大勢の人達です。
こうなると、大坂城内に建てた草庵の茶室では物理的に人数を収める事が出来ず、城内の大座敷で茶湯をする仕儀となります。そして、もう一つ、この状態では出来ないものが有ります。「侘び・寂び」の冷え枯れた雰囲気の演出が出来ないのです。大坂城内の座敷であれば、二条城と似た様な部屋の造りだったと思われます。金碧障壁画に囲まれた部屋で茶会を開くとなれば、これはもう冷え枯れた世界ではありません。黄金の茶室に似た豪華な「茶室」になってしまいます。
こういった環境や大勢を相手の茶会では、利休の草庵の茶湯のやり方では用が足りないのです。織部はこの様な需要に対して、昔の会所で行われていた書院茶を下敷きにして、当世に合った書院茶を編み出しました。これを儀式などの時に行う公の茶、書院の茶として正式の茶湯にしたのです。
こうして古田織部は二つの茶の流派を生み出しました。一つは利休から学んだ「侘び・寂び」を立てた草庵の茶であり、もう一つは武家仕様に創られた式正の茶です。
式正の茶
式正の茶には、武士の作法が随所に見られます。
利休は茶席では刀を禁止しましたが、殿中では武士の正装として必ず左腰に腰刀を差します。なので、茶席でも刀は必帯です。(現在は刀の代わりに扇子で代用しています)。
左腰に刀が有るので、袱紗は右腰に付けます。
平点前(ひらでまえ)で、柄杓を持ってこれからいよいよ始めるという段の時、丹田にうむッと力を込め、右膝の上に置いていた右手の拳をぐっと腹に引き寄せます。利休の茶には無い動きです。これは侍の何の動作を所作に取り入れたのだろうと考えていますが、分かりません。それでも、なんだか切腹の所作に似ていなくも無いなどと、内心ちゃちゃを入れながら稽古に励んでいます。
柄杓の扱いは、矢を番(つが)える様に柄杓を取り、そして、弓を引くようにして右手に持ちます。柄杓扱いには、その他に色々なやり方が有ります。
扇子を刀と見なしていますので、扇子を膝前に置いてご挨拶をする事はありません。扇子を膝前に置くのは、相手との間に一線を画す為と聞いています。
余談 パンとサーカス
『パンとサーカス』は、古代ローマの詩人・ユウェナリス(AD60年~128年)の詩の中に出て来る言葉です。彼はその中で、パン(→食料)とサーカス(→娯楽)を民に与えれば治世はうまくゆく、と謳い、撫民政治・愚民政治を暗に皮肉っております。
また、別の詩の中に超有名な警句があります。
『健全な精神は健全なる身体に宿る』
これは今でも教育理念の一つになっております。それ故、体育の重要性を説き、スポーツをやっている子供は健全な心が培われるので、横道に逸れたり、反社会的な態度を取ったりしないと言うような効用が喧伝されています。スポーツが盛んな学校はこれを校是に近い位置づけにするほどです。が、しかし、これは間違っています。
正しくは
『健全な精神は健全なる身体に宿るのが望ましい』
と彼は言っているのです。正確に最後まで訳すべきです。
ユウェナリスは、当時のスポーツ界では賄賂を贈って勝を譲って貰ったり、脅迫したり、ライバルを事前に傷つけたり殺したりすることが日常的に行われていました。彼はそれを嘆き、スポーツのあるべき姿を示したのです。『~のが望ましい』と・・・
ところが、その言葉を日本で翻訳する時に『~のが望ましい』が省略されてしまい、あたかもスポーツをすれば健全になる、と言う様に逆さまに解釈される様になりました。
現代でも、オリンピックを初め諸々のスポーツ大会に於いて、ドーピング問題や不公正な判定、八百長など多くの問題が噴出しております。子供のスポーツでも、いじめや万年ベンチ入りの理由なき冷遇、先輩後輩の絶対服従等々人としてのあるまじき行為が、普通に存在しています。
『望ましい』と言わなければならない状態が、ユウェナリス以降2千年も続いているのです。