式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

184 小堀遠州

公の茶、書院の茶と言われる式正織部流。私の茶・草庵の茶と言われる利休の侘茶。その二つにはどんな違いがあるのですか?

簡単に言えば、「公の茶」「書院の茶」と言われる式正の茶は、儀式で執り行われる茶湯(ちゃのゆ)です。将軍御成りなどの公式行事に組み込まれた歓迎式典の一環で、そこで供される茶湯の事を指します。

「公」の字には大勢の人々を対象にしたイメージがあります。公園とか公開講座とか、そこから、大寄せ茶会の様に多くのお客様をお招きして茶会を催すのも「公」の部類に入ると思いがちです。ところが「公」は、政府や国家、朝廷、幕府、役所などを表す言葉ですので、いくら大人数を集めた大寄せ茶会でも、その茶会を「公の茶会」とは呼びません。

「公」の茶会とは、将軍が臣下の家を訪ねて君臣の固めを行うような、政治的行事の茶会なのです。

 

将軍御成りを行うに当たり、それを受ける側は大変な準備が必要だったと言われています。

将軍・秀忠は生涯に29回の御成をしたそうです。家光などは300回を超えたとか。最初の内は家光も秀忠に倣(なら)って御大層な格式で御成をしたのでしようが、300回ともなると、当初の主従の固めの目的は無くなり、単なる遊び、鷹狩の帰りにちょっと休憩に立ち寄るとかいった軽い訪問になって行ったようです。東京の品川駅そばにある御殿山は御成御殿があった事から名付けられたものだそうです。

 

それはさて置き、江戸時代初期は、政権がまだしっかりと固まっていませんでした。それ故、将軍が大名の江戸屋敷を訪ねて臣下の礼を取らせ、服従させたと天下に見せつける必要がありました。

豊臣政権では徳川と肩を並べた五大老の一人・上杉景勝。彼は関ケ原の戦いで徳川に敵対して破れ、徳川に帰順しました。その様な過去があり、上杉の米沢藩は、「服従させた」を見せつける為の格好の標的にされてしまいます。

将軍秀忠の家臣・本多正信が上杉家に赴(おもむ)き、御成りの内示を伝えます。上杉家は内示された半年後の時期・12月を目指して突貫工事を行い、御成御殿を建てました。

加賀藩は将軍家光の御成りの為に3年の歳月を掛けて御成御殿を造ったそうです。あの東京大学にある三四郎池は、その時に加賀藩邸に造成された庭園の名残りと聞いています。

薩摩の島津藩は御成御殿を造るのに2年かかったそうです。

御成御殿を新築し、数寄屋書院を建て、茶庭を造園し、能舞台を造り、将軍への饗応の食材の産地・品質の吟味に取り掛かり、将軍に付き従う直臣や陪臣・共揃えの従者達ざっと数百人分、御成りの規模によっては数千人分の食事を手配しなければなりません。御成は何十万両もの莫大な費用が掛かりました。

献上品・御下賜品の遣り取りの儀式や、三献の儀、能楽、椀飯振舞(おうばんふるまい)、別座敷へ移動して高ぶった気持ちをクールダウンした後、外露地・中露地を経て数寄屋書院へ行き、茶湯を振る舞い・・・という歓待フルコース。こうなると御成は迷惑至極の筈ですが、それを名誉と捉え、将軍の信頼を勝ち得てお家存続に繋がるとの思いから、大名達は全力を挙げてこの行事に取り組みました。

 

茶湯は、その中でもお能などと共に御成りの式次第に重要な役割を占めています。

式正茶湯はそれ故、室町時代の柳営茶湯を土台にして、利休の茶の理念を取り入れつつ、さて、それ以上の持て成しをどうするのかに、その本領があります。

そういうことを考えると、規模の大きさから言って、狭小の茶室で行う侘茶の作法をそのまま儀式の茶に当て嵌(は)めるには無理があります。秀吉古田織部に、武家に相応しい茶を創始せよと命じたのは、その辺に事情もあったのではないかと思われます。

(にじ)り口から腰をかがめて頭を下げて入るなどと言う事を、例えば正親町天皇の禁裏での茶湯で行えましょうか。わざわざ黄金の躙り口を設置したとしても、出来ますまい。例えば信長明智光秀に命じて家康を歓待させた時に、家康に頭を下げさせ、腰刀を外させられましょうか?

侘茶の作法を、歓待饗応の茶湯の席にそのまま求めるのは、不適切と申せましょう。公式の茶湯は、外交の戦場。些(いささ)かも礼儀に歪(ひずみ)があってはならないのです。

 

武家茶の伝承者達

武家に相応しい茶湯を創始せよ」と命ぜられた古田織部は、幕府より内通の科(とが)を受けて自刃してしまいました。その為に、世間を憚(はばか)織部の茶は無名となって深く武家社会に沈潜(ちんせん)して行きます。

織部の下(もと)からは優れた弟子達が数多(あまた)輩出しました。彼等は利休に習い、更に織部に習い、直弟子・孫弟子とその近縁などなど枝葉は広がり、今に繋がる流派を形作っていきます。

上田宗箇(重安(上田宗箇流))織田有楽斎(おだ うらくさい)(長益(→有楽流))片桐石州(貞昌(→石州流))金森宗和(重近(→宗和流))小堀遠州(政一(遠州流)) 佐久間将監(実勝・宗可(→宗可流))清水道(→石州清水流・仙台藩茶堂)、服部道巴(はっとりどうは)(熊本藩茶堂)細川宗立(忠興・三斎(→三斎流))などなどが、それぞれの思いに工夫を託しながら衣鉢(いはつ)を受け継いでいきます。

その影響力は様々ですが、中でも、作事奉行だった小堀遠州は卓越した力量を作庭に発揮しました。また、利休の侘び茶を基にして織部武家茶を取り入れた流派を興しました。利休ほど侘び枯れてはおらず、端正(たんせい)で美しい茶風は一世を風靡(ふうび)しました。

 

小堀政一(こぼり まさかず)(遠州)(1579-1647)

小堀政一は、1579年(天正7年)、小堀正次の嫡男に生まれました。幼名は作助、後に政一(正一)と改めます。遠州は通称で、遠江(とおとうみのかみ)になった事からその様に呼ばれております。彼の父は豊臣秀長に仕えていました。

政一の父・正次は、主君が大和郡山城に入城すると、それに従って大和に移住し、家老になります。息子の政一はこの時7歳、彼も一緒に大和郡山へ移り住みました。そして、ここで10年間過ごすことになります。少年から青年への最も多感な時期に、彼は優れた人物達に接し、その才能が育まれて行きます。

 

大和国と茶湯 (ちゃのゆ)

大和国は昔から茶湯が盛んです。茶葉の栽培も弘法大師の頃から始まりました。

茶人と言えば、まず第一に奈良出身の侘茶の先達(せんだつ)村田珠光が挙げられます。珠光は武野紹鴎今井宗久千利休に多大な影響を与えました。もし、珠光が居なかったならば利休は侘茶に嵌(はま)らなかった、と言っても過言ではないでしょう。

その珠光一の弟子が興福寺古市澄胤(ふるいち ちょういん)です。澄胤は元々淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)を行っていましたが、師の珠光から『心の文(ふみ)』を送られ侘茶へ傾倒していきます。

松屋会記』を書いた奈良の豪商漆屋の松屋は代々茶人であり、三代120年間にわたって茶会記を記録しています。それは茶史の貴重な一級資料になっています。

大和国戦国大名松永久秀武野紹鴎に師事していますし、古田織部は奈良衆との茶会を頻繁に行っていました。大和国は堺や京に負けず劣らず茶湯の盛んな土地でした。

 

小堀政一が仕えていた主君・秀長も茶湯に熱心でした。秀長は千利休と親しく、茶湯を利休に習っています。利休の弟子・山上宗二1586年(天正14年)、秀長に呼ばれて大和郡山で茶会を開いています。

政一は、少年の頃、秀長の推しで秀吉の茶会の給仕を務めて、大いに面目を施しました。彼は茶湯に親しむ機会に恵まれていました。

 

勇将の下(もと)に弱卒(じゃくそつ)無し

秀長は、兄・秀吉の傍に居て多くを学びました。軍師・竹中半兵衛黒田官兵衛に身近に接して軍略を学び、兄の人使いの巧みさを学び、何時の間にか百姓の倅(せがれ)で秀吉の弟という立場から大化けに化けて、不敗の武将に成長します。彼は奢(おご)ることなく謙虚で温和、人の話をよく聞き、忍耐強く、表向きの事は秀長に、内々の事は利休に聞けと言われるほどであり、他の大名達から絶大な信頼を得ていました。

秀長の下には優秀な家臣が集まります。築城の名手・藤堂高虎中井正清などもその内です。

中井正清は大工の棟梁です。大建築を建てる時は区画別に棟梁を置き、作事奉行も数人居て、プロジェクトチームを組んで取り掛かりますが、中井はその中でも総合リーダー的役割を果たしていました。正清は二条城、江戸城駿府城名古屋城知恩院方広寺増上寺久能山東照宮日光東照宮春日神社、それから内裏など、天下普請の作事に大いに関わっていました。その外に茶室や数寄屋書院なども沢山作っております。

 

政一、主君変転

政一は、秀長が没した後、その養嗣子・秀保に仕えます。が、秀保も17歳で亡くなってしまった為、その後は秀吉に仕えました。政一は大和郡山を離れ、伏見に引っ越します。そこで、古田織部に師事し、茶湯を習いました。また、黒田官兵衛(如水)・長政父子とも生涯の交流が始まりました。

秀吉が薨去(こうきょ)すると政一は父・正次と共に徳川家康に仕えました。父は関ケ原の功で備中松山城城主になります。政一は父亡き跡その遺領を継ぎました。政一29歳の時、駿府城普請奉行になり、1609年(慶長14年)、従五位下遠江(とおとうみのかみ)に任じられます。以後、次々と役職を歴任、多くの作事を成ました。

後陽成天皇御所の造営をはじめ、将軍上洛時の宿所御殿や、妙心寺南禅寺大覚寺大徳寺などなどの大寺院の塔頭(たっちゅう)、茶室、庭園を数多く手がけました。中でも、金地院東照宮茶室(重文)、大徳寺塔頭龍光院(りょうこういん)密庵席(みったんせき)(国宝)が有名です。同じ大徳寺塔頭孤蓬庵(こほうあん)の庭や修学院離宮の庭などに優れた建築や庭を数多く残しました。

(※ 龍光院黒田如水(孝高・官兵衛)の菩提寺です。ここにも遠州と如水の親交が伺えます。)

 

 

余談  城郭建築

ブログ№183の大阪戦後の世相で、城郭建築などは造られなくなり・・と書きましたが、それは大名達の武備に通じるものは建造されなくなっただけで、大名達の財を削減させる為の建築・例えば天下普請や、政治的思惑の絡んだ御成御殿などは大いに造られました。また、御成りの対象でない様な小藩の大名家でも、江戸藩邸には持て成しの外交の場として、茶室や数寄屋書院などを建てるのがブームの様になって、盛んに建てられました。

残念な事に、それらは明暦の大火でかなりが焼失。江戸の華は火事と喧嘩と言われる様な土地柄でしたので、その後、新たに建て直される事は余りありませんでした。

それに、大名達の懐具合が寒くなっていたのと、幕府の倹約令が行き渡っていた為でもあります。

 

 

余談  定家流の書

小堀遠州定家流の書を能(よ)くした、と言われています。下記の書状は小堀遠州里村昌琢(さとむら しょうたく)に宛てた書状です。その書状は定家流という書き方で書かれています。

連歌の発句の添削をお願いしている文面で、御手隙きならば25日には必ず必ずお出で下さるようお持ち申し上げております、と結んでいます。文章の最後に出て来る式部と言うのは松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)の事です。

これを見ても分かる様に、小堀遠州は多様な文化人達との交流がありました。

 

たち花のうた之事、やすき御事、懸御目候。

併御添削頼存候。次手なから発句懸御目申候。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

初巻にもなり可申様ニ候ハヽ、重テ被仰テ可給候。

あし曳の山たちはなれゆくくもの

やとりさためぬ世にこそありけれ

発句

夏の日に色こき山や雲のかけ

お隙に候ハヽ、廿五日ニハかならす(繰り返し記号)御入来待申候。

一會申度候。式部も被参候。恐惶謹言。

十五日

昌琢様御報 小堀遠江

 

[注釈]

※ 里村昌琢:里村紹巴の孫。連歌界の重鎮。古今伝授継承者

※ 式部(松花堂昭乗):真言宗の僧侶。寛永の三筆。書道・絵画・茶道に優れる。

松花堂弁当の名前は彼の名を冠して付けられたもの。

※ 語句;『次手なから』 → ついでながら  『山たちはなれゆくくもの』→ 山 立ち離れ行く雲の  『やとりさためぬ』→ 宿り定めぬ  『雲のかけ』→ 雲の影  『候ハヽ』→ 候(そうら)はば  『かならす』→ 必ず

 

定家流は藤原定家始めた字の書き方で、書道の流派の一つです。

藤原定家はお公家さんです。けれど彼の書く字は、お公家さんが得意とする連綿書(れんめんがき)という、壁を伝う雨水の様に曲がりくねって何処までも続いていく書体とは違っています。高野切(こうやぎれ)源氏物語などの書は、如何に美しく芸術的な作品に仕上げるかという事に眼目が置かれています。三筆・三蹟などは手習いのお手本中のお手本です。それらと定家の書いた『明月記』を比べると、定家流は今で言う「ヘタウマ」です。定家流は、形を気にせず、一字一字分離していて分かり易い草書体で書かれています。なんとなく禅僧の墨蹟に近いように見えます。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

世界美術全集9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

書道全集  平凡社22 日本9 江戸Ⅰ

寛永7年島津邸御成における御殿の構成と式次第 藤川昌樹 日本建築学会計画系論文集

鈴木亘著『書院造と数寄屋考』 川本重雄

近世武家住宅における数寄屋風書院について 大名屋敷の殿舎構成と数寄屋風書院 北野隆

近世武家住宅における数寄屋風書院について 大名屋敷の数寄屋風書院の平面と機能 北野隆

建築業界ニュース 数寄屋建築を解説します[京都に残る古い数寄屋や現代の事例も紹介]

大名屋敷への「将軍の御成」と庭園の造成。それは政治的イベントだった! 安藤優一郎

遠州流茶堂 秀長

数寄屋大工の技術とは? 大貫雄二郎一級建築士事務所

goobl0b 窯元日記復活

戦国日本の津々浦々 山上宗二薩摩屋宗二)

品川歴史館開設シート 品川御殿      

インテリアのナンたるか 数寄屋造とは?代表的な特徴と書院造との違いを画像で解説

好奇心散歩考古学「将軍御成」とは?前田家「御成御殿建造費未払」水戸家「音絵里抜け御成」・・

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」、ネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。