これから古田織部編に入って行こうと思いますが、その前に今までの歴史、特に茶の湯に関しての歴史を振り返り、一旦整理したいと思います。村田珠光以後の茶史での重要な出来事や、織部を取り巻いていた環境、関わった人達の状況なども遡(さかのぼ)って取り上げ、幅の広い年譜にしていきたいと思います。
茶史(1)では、村田珠光誕生から織田信長による蘭奢待(らんじゃたい)の茶会までの時代を扱います。
茶 史
織部が直に関係した件は黒字、茶史などその他に関しては青字で記します。
1422(応永29 or 30) 村田珠光(むらた じゅこう)、大和国奈良で出生。
1486.09.21(文明18.08.24) 村田珠光、『山科家礼記』に珠光坊の名で初出。
珠光は11歳の時浄土宗の称名寺で出家。一時還俗したとの話があるが、山科(やましな)家の記録には「坊」と記述されているので還俗はしていないと推測される。後年、東大寺近くの田園に庵を結んでいた。
1502(文亀2) 武野紹鴎(たけの じょうおう)、大和国吉野郡で出生。
1502(文亀2.05 or 2.07) 村田珠光、晩年京都に移住。そこで卒 享年80
1520(永正17) 今井宗久(いまい そうきゅう)、大和国高市今井村で出生。
1522(大永2) 田中与四郎(=千宗易(利休)、和泉国堺で出生。
1525(大永5) 武野紹鴎、京都室町に住まう。
1526.10.18(大永6.09.13) 武野紹鴎、連歌会に参加
1528(大永8/享禄1 ) 武野紹鴎、三条西実隆に弟子入りし、古典や和歌を習う。
1531(享禄4.06) 武野紹鴎、山科本願寺へ行く。8月に帰京。
1532(享禄5.02) 武野紹鴎、臨済宗大徳寺で出家。法名紹鴎を授かる。
この頃法華宗徒と一向宗徒が犬猿の仲になり、山科本願寺が法華宗に焼き尽くされた。紹鴎は一向宗徒だったらしく、身の危険を避ける為、禅宗に帰依したと言われている。
1533(天文2) 法華一揆と一向一揆が大阪や京都で衝突する。
1534.06.23(天文3.05.12) 織田信長、尾張国守護代の嫡嗣子として出生。
1537.03.17(天文6.02.06) 豊臣秀吉、尾張国中村で出生。
1542.05.17(天文11.04.03) 武野紹鴎、松屋久政の他3人を茶会に招待。
松屋久政は奈良の塗師(ぬし(漆芸家))。その時『松島の茶壷』を用い、玉潤(ぎょくかん(南宋の禅僧画家))の水墨画『波図』を飾る。
1543(天文12) 古田佐介(重然・織部)、古田観阿弥の子。美濃で出生
観阿弥の兄は国人領主・古田重安である。佐介は後に重然(しげなり)と名乗り、古田織部として知られる。(但し、1544(天文13)に誕生の説も有り)
1544(天文13.02.27) 千宗易、松屋久政等を客に招き、茶会を催す。
この茶会が宗易の茶会として初めて記録された茶会である。用いられたのは珠光茶碗。この珠光茶碗を、宗易は三好実休に千貫で売った。
1549.03.12(天文18.02.13) 武野紹鴎、津田宗達などを招き茶会。茄子茶入使用
1550(天文19.02) 武野宋瓦(たけのそうが)、武野紹鴎の子として堺に出生
1551.02.06(天文20.01.01) 神谷宗湛(かみやそうたん)、博多で生まれる
1551.12.14(天文20.11.17) 堺の津田宗達の茶会に、三好実休と家臣などが出席。
1553(天文22.) 津田宗達の茶会、広間の茶会が多くなる。
津田宗達は生涯に390回近く茶会を催している。息子の宗及の茶会は1,000回を超えると言う。その茶会は、少人数の時も有れば大人数の時もあり、使う部屋も人数に応じて小座敷から大座敷、お茶専用の別棟の建物、果ては野外のお堂(辻堂)と様々であったらしい。少人数の時は四畳半なり六畳を使い、そこで茶会と会席料理を兼ねて行う場合もあったようだが、大体は茶湯と会席を分け、茶湯の時は別棟の茶屋で行い、会席の時は座を座敷へ移して行った様である。津田家(天王寺屋)は貿易商なので、唐物茶器は難無く手に入り豊富にもっていた。その為、唐物茶器を主に用いた台子点ての書院茶湯が行われていた。また、息子の宗及の代の後半になると、書院で行う茶湯が俄然多くなり、更に、本能寺の変以後になると、茶屋や四畳半を使った茶の湯が多くなって来る。
1553.01.12(天文22.12.09) 武野紹鴎、津田宗達らを茶会に招待。茄子茶入使用。
1554(天文23) 今井宗久、大徳寺大僊院(だいせんいん)に170貫を寄贈。
1555.12.12(弘治1.閏10.29) 武野紹鴎急死(享年54)
武野紹鴎には幼い息子・宗瓦(そうが(通称新五郎))がいた。宗瓦が幼かった為、宗瓦の姉婿(あねむこ)の今井宗久に養われた。紹鴎が亡くなった後、紹鴎の遺産は全て今井宗久の手に渡った。宗瓦は紹鴎の遺産について信長に訴えたが、信長と今井宗久との結び付きが強く、負けてしまう。こうして、紹鴎が持っていた数々の茶道具の名器や財産を宗久は手に入れた。一方、宗瓦は不遇な人生を送る。40歳過ぎてから徳川家康の執成しにより豊臣秀頼のお伽衆になる。
1558.12.11(永禄元年11.02) 信長、弟・勘十郎信勝(信行)を討ち尾張国を固める。
1563(永禄6) 上田重安(上田宗箇)、尾張国愛知郡星崎村で出生。
1567(永禄9) 古田佐介、細川藤孝(幽斎)の使い番になる。
1568(永禄11) 信長、堺に矢銭(やせん)2万貫を要求
1568(永禄11.09.07)から始まった信長の上洛戦にかかった費用などを、堺から2万貫を召し上げて賄おうとした。この2万貫が現代の貨幣価値にすると幾らになるか調べると、研究者によって米を基準にする人、兵士の日当から迫る人、日常品を基に換算する人様々で、4千万円~60億円と数字が幅広くバラけていた。
堺の会合衆は信長からの矢銭2万貫を拒否、堺の守りを固め、浪人達を雇った。堺が信長の要求を拒否したのは、四国を本拠地とする三好一族と昔から強い結び付きがあったので、その軍事力を当てにしていた為である。
1568.10.22(永禄11.10.02) 信長、摂津西成郡芥川の陣中で今井宗久と会う。
宗久、名物の『松島の葉茶壷』や『紹鴎茄子』などを信長に献上。足利義昭から宗久は大蔵卿法印の位を授かる。これを機に宗久は信長と深く結びつき、数々の権益を得る。今井宗久は武器商人である。堺で鉄砲を製造販売する一方、鉄砲に必要不可欠な火薬の硝石を独占輸入、莫大な利益を上げた。
1568.10.02(永禄11.09.12) 古田織部、信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参陣。
1568.10.22(永禄11.10.02) 松永久秀、信長に恭順する。
恭順に際し、久秀は「吉光」と「九十九髪茄子(つくもかみなす)(→茶入の銘)」を差し出した。
1568.11.07(永禄11.10.18) 足利義昭、信長に奉戴され上洛、征夷大将軍になる。
中川清秀は摂津の池田勝正の家臣だったが、主家衰退後、荒木村重や高山右近などと共に独立。村重が信長より摂津の国主に任命されると、村重の家臣となる。高山右近と清秀は従兄弟同士。信長が攻めて来た時は右近と共に、信長に与(くみ)する。また、村重は利休十哲の一人であり、清秀も茶湯巧者と言われていて、村重と清秀は趣味で繋がっている。村重謀叛の時、清秀も右近も説得に赴くが不調に終わり、村重と袖を分かつ。
1569.01.21(永禄12.01.05) 本圀寺(ほんこくじ)の変。
阿波に居た平島公方・足利義栄(あしかがよしひで(11代将軍・足利義澄の孫))を正統な将軍として擁立していた三好三人衆(三好長逸(みよしながやす)、三好宗渭(みよしそうい)、岩成(石成)友道(いわなりともみち))が、室町幕府第15代将軍になったばかりの足利義昭を襲撃した事件。この時すでに、阿波公方・足利義栄は朝廷より将軍位を廃され、しかも病没していた。為に、後顧の憂いが無くなった信長は、義昭が将軍に襲位したのを見届けて岐阜に帰ったが、その留守中に彼等は義昭を襲撃した。
将軍警護の為に京都にいた細川藤孝・明智光秀・荒木村重など2,000の兵は、三好方の10,000の軍勢に対抗、岐阜に戻っていた信長が急行した。この時、義昭側に与していた松永久秀(かつて三好側)も信長と共に京都に駆けつけている。
本圀寺の戦いで三好勢が敗北した事で、堺会合衆に占めていた信長への徹底抗戦策が崩れ、結局2万貫を上納する事になった。これには今井宗久の説得が効(き)いていた。
1569(永禄12) 今井宗久、摂津五か庄の塩などの徴収権などを得る
宗久は徴収権を得ると共に代官職にも就き、淀川の通行権も得た。
1569.1.25(永禄12.01.09) 堺会合衆、信長に銭2万貫を上納する。
1569.3.15(永禄12.02.28) 信長、矢銭を拒否した尼崎を兵3千で焼き討ちす
1569(永禄12) 今井宗久・津田宗及・千宗易、信長の茶堂となる
1569(永禄12) 信長家臣、津田宗及屋敷にて終日宴会す。
柴田勝家、佐久間信盛など織田家家臣100人余が宗及の屋敷で終日宴会をした。
1569.9.11(永禄12.08.01) 信長、但馬に出兵、生野銀山を支配下に置く。
1570(元亀1) 信長、長谷川宗仁と今井宗久に生野銀山支配を任す
1570(永禄13/元亀1.) 信長、松井友閑を堺の政所に任命する。
1572(元亀3.11) 信長、京都妙覚寺で茶会す。津田宗及接待を受ける
1573.03.06(元亀4/天正1.02.03)信長、津田宗及を岐阜城に招待。
津田宗及、岐阜城で信長所持の茶道具の名器を拝見、歓待を受ける。
1573.08.15(元亀4/天正1.07.18)足利義昭、信長に投降し室町幕府実質滅亡
足利義昭は、信長を排除すべく信長包囲網を築いたが、頼みにしていた武田信玄が病没、また、毛利輝元へ兵糧費用を要求したが、輝元は信長との対決を回避する為、義昭の要求に応じなかった。義昭は槙島城(現京都府宇治市牧島町)で挙兵。義昭方兵力3,700、信長方70,000。結果は義昭降伏。これを以って、室町幕府は実質滅亡した。
但し、義昭は征夷大将軍の職位を手放していなかったので、本当に室町幕府が消滅したのは、義昭自らが朝廷に征夷大将軍職を返上した時、即ち、1588(天正16.01.13)年のことである。
これには豊臣秀吉が関白太政大臣になって義昭の頭上に秀吉が君臨した事が大きく影響を与えている。関白の意向は即ち朝廷の意志であり、征夷大将軍は朝廷の意に添わなければならない。相手が信長の場合は、信長の方が位負けしているので、義昭は将軍としての振る舞いを貫き、備後国の鞆(とも)に御所を建てて鞆幕府として全国に命令を発していた。関白秀吉にはこれが通じなかった。
1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 信長、朝倉氏を滅ぼす。
1573.09.26(元亀4/天正1.09.01) 信長、浅井氏を滅ぼす
1573.12.17(元亀4/天正1.11.23) 信長、妙覚寺で茶会を催す。
塩屋宗悦、松江隆仙、津田宗及が茶会に招かれる。信長は正装。その際の茶頭は京都の茶人・不住庵梅雪(村田珠光流)。不住庵梅雪は斎藤道三の茶の師匠だった。
1573.12.18(元亀4/天正1.11.24) 信長、相国寺で茶会を開く。
2日連続しての茶会は、今度は相国寺で開く。招いた客は昨日と替わり松井友閑、今井宗久、千宗易、山上宗二である。千宗易が濃茶を、今井宗久が薄茶を点て、信長に献茶した。
1574(天正2.03.23) 信長、東大寺正倉院にある蘭奢待を所望した。
塙直正(ばんなおまさ or はなわなおまさ)と筒井順慶を使者に立てて、東大寺に申し入れた。
1574.04.15(天正2.03.24) 信長、相国寺で堺の会合衆を招き、茶会を開く。
(招かれた者以下の通り) 茜屋宗佐(あかねや そうさ)、油屋常琢(あぶらや じょうたく)、今井宗久、塩屋宗悦、千宗易、津田宗及(つだ そうぎゅう)、高三(たかさぶ)隆世、松江隆仙(まつえ りゅうせん)、紅屋宗陽(べにや そうよう)、山上宗二(やまのうえの そうじ)。
1574.04.19(天正2.03.28) 信長、『蘭奢待(らんじゃたい)』を賜る。
『蘭奢待』を得る勅許を得た信長は、東大寺の近くにある多門山城に入り準備万端を整えた。多門山城は松永久秀によって築城された城で、土塁、石垣、多門櫓などそれまでの城には無かった先進的な造りであった。また、建物そのものも壮麗で素晴らしく、ルイス・デ・アルメイダの書簡によると、世界中どこを探してもこの城の如く美麗で善目美なるものは無い、都の宮殿も及ばないとべた褒めに褒めている。
信長は、この多門山城に蘭奢待を運ばせて、ここで截香(せっこう(→香木を截る事))している。信長の側近中の側近で文官の武井夕庵(たけいせきあん)はじめ9人の奉行が、威儀を正して蘭奢待を迎え、截香を執り行ったと言われている。
『蘭奢待』は東大寺正倉院に伝わる名香木である。勅許を得て1寸角2個を切り取り、一つは正親町天皇に献上し、残りの一つを信長が賜った。
1574.04.23(天正2.04.03) 信長、蘭奢待の為の茶会を開く。
信長は相国寺で蘭奢待の香を楽しむ茶会を開き、堺の会合衆を招いた。点前は不住庵梅雪。切り取った香木を分け、その場で千宗易と津田宗及に下賜した。又、村井貞勝にも下賜した。
この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。
「よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇」 広島県立美術館
「封建制の確立と堺の豪商」豊田武
「戦国期のお金に関するこぼれ話」 千葉県行政書士会葛南支部 小浦泰之
「織田信長の資金調達法 家計は火の車でも上洛できる」Wedge ONLINE 橋場日月
「国立国会図書館レファレンス協同データベース」「三好家武将名鑑with堺・会合衆」
「なにわ大坂をつくった100人 足跡を訪ねて」
「豪商津田宗達・宗及親子の茶屋」山岸多加乃
「中世都市堺成立過程における都市民の変容 開口神社を中心に」高橋素子
「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」
「大阪平野における戦国時代の環濠自治都市に関する研究」 大阪工業大学石黒正俊、大阪大学大学院工学研究科赤松貴史、大阪工業大学工学部岩崎義一
この外に「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「地図」「地域の出している情報」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。
有難うございます。