式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

148 信長年表4 包囲網(1) 姉川合戦・比叡山焼打

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)  〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

前号で、足利義栄が病没(享年31)し、義昭が将軍就任。義昭就任早々の翌年1569.01.31(永禄12.01.05)に本圀寺の変が起こった事までを記しました。信長はこの為、将軍御所の防備を万全にすべく、二条城を造り直しました。

1568(永禄11) 若狭武田氏、朝倉義景の侵攻を受ける。

若狭武田氏の当主・武田元明は、内紛に乗じて朝倉氏に侵攻され、朝倉義景により越前一乗谷に拉致された。元明の母は足利義昭の妹である。つまり、義昭と元明は伯父と甥の関係になる。義昭は将軍就任前に縁を頼って若狭へ赴いた。が、若狭武田氏の内紛の最中で支援を得られず、止むを得ず越前の朝倉を頼ったと言う経緯がある。信長の朝倉征討は、信長の上洛命令に従わない朝倉氏を討伐すると言う目的もさることながら、義昭の元明救済の願いにも拠っている。

1568~1571(永禄11.12~元亀2.12) 武田信玄駿河侵攻。北条氏と全面戦争。

武田信玄が北条と長期にわたり争った。この為信長包囲網形成の時、武田の一画が手薄となった。信長としては軍事的にも時間的にもこれによって余裕が生まれ助かった面がある。

1569.01.30(永禄12.01.14) 信長、殿中御掟の9ヶ条を義昭に承認させる。

殿中御掟(でんちゅうおんおきて)は1月14日に9ヶ条、更に同月16日に追加7ヶ条、再々度追加5ヶ条が出され、計21ヶ条の政治を行う上での方針が示された。これは、従来から室町幕府が行って来た政府内秩序を保つための規範を纏めたもので、政治初心者の義昭にとって指針となるものであった。

1569(永禄12.03) 上杉謙信と北条氏が同盟。

北条氏と同盟して関東の憂いを除いた上杉謙信は、越中の椎名康胤(しいなやすたね)の城を攻囲する。

1569.03.18(永禄12.03.01) 朝廷は信長を副将軍にする勅旨を下すが信長応えず。

1569.04.30(永禄12.04.14)  室町幕府の政庁の二条城が出来上がる。

1569(永禄12.05.) 家康、今川氏真を降(くだ)

家康、今川氏真を降し、遠江(とおとうみ)を支配下に置いた。

1569(永禄12.10.) 信長、北伊勢を平定する。

伊勢国・大河内城(おかわちじょう)の北畠具徳(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)親子と戦い、信長次男・茶筌丸(信雄)を養嗣子にする事、城を明け渡すことを条件に、義昭の仲介で和睦した。義昭、この条件に不快感を持っていた。(この時より7年後の1576年(天正4年)に、北畠一族は信長と信雄の手により皆殺しにされた。北畠親房を先祖に持つ村上源氏の名門・北畠氏はここに滅亡する。→三瀬の変)

1570(永禄13/元亀1)  上杉政虎、出家して不識庵謙信と号する

1570(永禄13/元亀1) 家康、浜松城を築き、今川氏真を庇護する。

1570.02.08~1570.03.03(永禄13.01.04~13.01.27) 信玄、武田水軍を編成する。

信玄、今川の花沢城 (現焼津市)を降伏させ、海に面した地を手に入れ、水軍を作る。

1570.05.24(永禄13.04.20) 信長、越前の朝倉義景への討伐軍を発す。

信長、朝廷や将軍への御用を務める為に上洛せよと、各大名に命令を出した。朝倉義景はこれを無視した。朝倉氏の不服従行動が波及する事を恐れた信長は、義昭の甥の若狭・武田元明領内の内紛を鎮圧する名目で、越前へ征討軍3万の兵を起こす。

1570.05.27(永禄13.4.2/元亀1.04,23) 改元元号が永禄から元亀(げんき)になる

1570.05.29(元亀1.04.25) 織田・徳川連合軍、越前の朝倉義景領を侵攻し、朝倉側の城を攻撃

1570.05.30(元亀1.04.26) 信長の朝倉攻めに対して六角義賢が挙兵。

1570.05.30(元亀1.04.26) 織田・徳川連合軍、金ケ崎城を降(くだ)す。

信長、落城した金ケ崎城に木下秀吉を入れる。

金ケ崎の戦い

世に名高い「金ケ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」と言われる撤退戦である。信長の若狭攻めは順調に勝ち進んでいた。信長は、妹「お市」が嫁いでいる浅井家と硬い絆で結ばれている、と思い込んでいたが、浅井家の裏切りにより、朝倉と浅井に挟撃される危機に陥った。それと察した信長は、直ちに撤退した。殿(しんがり)を務めたのは木下藤吉郎明智光秀池田勝正と言われている。松永久秀や朽木元網(つくきもとつな)の援護により、信長は4月30日に無事京都に帰還した。

1570.06.24(元亀1.05.21) 信長、21日岐阜到着

兵を立て直す為、信長、京都から更に岐阜を目指す。ルートは六角氏や浅井氏の勢力が及ぶ関ケ原を避け、近江から鈴鹿山脈の雨乞岳を越えで伊勢四日市に出る千種街道を通り、揖斐川長良川沿いに北上、21日に岐阜へ到着する。信長挟撃を朝倉・浅井が琵琶湖東岸で仕掛けようとし、六角軍も待ち構えていたが、信長はそこに柴田勝家佐久間信盛を配置して押さえた。六角軍は柴田や佐久間に攻撃され敗退する。この千種(ちぐさ)街道の山中で、信長は杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)という鉄砲の名手に狙撃されるという事件が起きた。岐阜到着から約1か月後、改めて浅井攻撃のため岐阜を進発し、関ケ原ルートを通って近江に向かう。

1570.07.21(元亀1.06.19) 信長、浅井討伐に出陣。

近江と美濃の国境の城・長比(たけくらべ)城を事前の調略により、進発その日に陥落させた。

1570.07.23(元亀1.06.21) 信長、小谷城の目前の虎御前山(とらごぜやま)に布陣。

城下を焼く。

1570.07.26(元亀1.06.24) 信長、姉川の南にある横山城を包囲。

信長は竜ケ鼻に布陣。徳川家康、竜が鼻に着陣し信長と合流。

1570.07.30(元亀1.06.28) 姉川の合戦 (織田・徳川 vs 浅井・朝倉)

信長・家康連合軍29,000 対 浅井・浅倉連合軍13,000が姉川を挟んで激突。徳川軍は朝倉軍の脇を突いて朝倉軍を敗走させ、織田軍と戦っていた浅井軍も潰走した。横山城も降伏。信長、横山城に木下秀吉を城番として入れる。

1570(元亀1.07) 信長、戦勝報告の為上洛

1570.09.19(元亀1.08.20) 三好三人衆、四国より渡海し、摂津の野田城・福島城で挙兵する。

義昭、この事態に信長に出陣を要請。河内・紀伊・和泉にも動員を掛け、義昭自身も出陣した。

1570.10.11~(元亀1.09.12~) 石山本願寺顕如(けんにょ)、三好三人衆に呼応して蜂起。

1570.10.15~ (元亀1.09.16 ~ ) 志賀の陣。

信長の摂津出兵の留守に乗じて、浅井・朝倉連合軍が、織田の琵琶湖西岸の拠点・宇佐山城に迫った。城将・森可成(もりよしなり)、これを阻止すべく坂本で街道を封鎖。兵千をもって敵軍3万と戦い、これを押し戻すも、石山本願寺の要請で延暦寺の僧兵が連合軍に加勢、奮戦空しく織田信治(信長弟)・森可成(森蘭丸の父)・青地茂綱(蒲生氏郷の叔父)が討死。が、将無くも家臣達が戦いを続行、落城は免れた。

1570.10.15(元亀1.09.23) 信長、志賀の陣の報せを聞き、摂津の戦線を撤収し、坂本に救援に駆けつける。

1570.10.15(元亀1.09.25) 浅井・朝倉軍比叡山に逃げ込む 

1570.11.01(元亀1.10.04) 石山本願寺門徒衆に檄文を飛ばし、その煽動で西岡や宇治で一向一揆発生。義昭、徳政令を出す。

1570(元亀1.11)  伊勢一向一揆が、尾張小木江城を落す。織田信興(信長弟)自害。

1570(元亀1.11.) 浅井・朝倉、比叡山延暦寺に立て籠もる。

1570(元亀1.11.) 信長、敵対勢力と次々と講和する。

11月11日六角氏と講和。 同13日本願寺と講和。 同18日三好三人衆と講和。松永久秀と篠原長房との間で人質交換する。 同28日信長、義昭に朝倉氏へ講和説得を依頼する。

1570(元亀1.12) 正親町天皇勅命により、信長、浅井・朝倉両氏と和解

9月からの志賀の陣は、約3か月で一区切りついたが、火種は依然燻(くす)ぶり続けている。

1571(元亀2) 義昭、各地有力大名に御内書を出す。

1571.01.27(元亀2.01.02) 信長、大坂と越前を結ぶ道と海上の交通路を封鎖する。

1571(元亀2.02) 交通路封鎖により孤立した佐和山城(浅井方)が信長に降伏する。

1571(元亀2.02) 義昭、豊後の大友宗麟に安芸の毛利氏との和睦を命じる。

1571(元亀2.02) 徳川家康、新年を賀して上杉謙信に太刀を贈る。.

1571(元亀2,02~03) 上杉謙信、第五次越中出兵。越中大乱。

上杉謙信越中に出兵し、松倉城、新庄城、富山城、など椎名康胤(しいなやすたね)や一向一揆勢の城を軒並み落し、越中東部・中部・西部まで進撃した。が、武田信玄が再び関東や東海地方に出兵した為、謙信は越後に帰還する事になり、越中攻略は中途半端に終わった。

上杉謙信は、武田信玄のもぐらたたきゲームに付き合わされるような形で、常に振り回されていた。武田が関東に侵略する時は、謙信を越後や越中に釘付けにする必要があった。その為、越中で騒動を起こした。逆に上杉と、越中にいる武田勢力が戦う時は、武田勢力が有利になる様に信玄が関東で戦を始め、上杉を関東に引き付ける、という作戦を採り続けた。

これが可能になったのは、武田信玄石山本願寺の強い結びつきがあったからである。石山本願寺顕如正室・如春尼の実姉は武田信玄正室・三条夫人、つまり、顕如武田信玄は義兄弟である。信玄は石山本願寺一向宗徒を動かし易い立場にあった。

1571(元亀2.02~05) 武田信玄遠江三河侵攻を始める。

1571(元亀2.04) 武田勝頼加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中一揆勢が協力して上杉謙信に反攻する様に求めた。

1571(元亀2.05) 浅井と一向一揆軍が姉川に再び出陣。秀吉、国人領主・堀秀村を援けこれを退ける。 

1571.06.04(元亀2.05.12) 信長、5万の兵を率いて伊勢に出動。長嶋一向一揆の村を焼き払う

1571.07.11(元亀2.06.19) 三好義継・三好三人衆が結託。畠山攻めを開始。義昭から離反する。

1571.08.24(元亀2.08.04) 松永久秀、義昭・信長に叛旗を翻すが、辰市城で筒井氏に大敗す。

1571.09.07(元亀2.08.18) 信長、小谷城浅井長政を攻める。

1571.09.17(元亀2.08.28) 松永久秀三好三人衆、摂津の和田貞興を討ち取る。

1571.09.19(元亀2.09.01) 柴田勝家佐久間信盛に命じて、六角勢と一向一揆勢の拠点の城(志村城・小川城)を攻めさせる。志村城は全滅して落城。小川城は投降。

1571.09.25.(元亀2,09.07) 天台座主・覚恕(かくじょ)(=正親町天皇の弟)、朝廷に参内して相談。

1571.09.27(元亀2,09.09) 覚恕、参内して重陽(ちょうよう)節句に参加。

1571.09.29(元亀2.09.11) 信長、三井寺まで進軍し、三井寺の中に本陣を置く。

 信長と比叡山延暦寺は、寺領を巡って争っており、関係が悪化していた。

1569(永禄12)に比叡山は、信長が寺領を横領したと言って朝廷に訴え、その返還を求めていた。朝廷は寺領を元に戻す様に信長に綸旨を下したが、信長はそれに従わなかった。そんな経緯がある中、浅井・朝倉軍が比叡山に逃げ込んだのである。

信長は延暦寺に浅井・朝倉軍を引き渡す様に要求し、山全体を包囲した。そして、信長は寺側に3つの条件を出し、その内のいずれかを選ぶように申し渡した。その条件とは、1,織田に味方をする。 2.中立を保つ。 3.浅井・朝倉方を支持する。の3つだった。そして、もし、浅井・朝倉を支持するのなら、寺を焼き討ちすると通告した。寺はその通告を無視、返事をしなかった。

1571.09.30(元亀2.09.12) 信長、全軍に比叡山総攻撃を命ずる。

1571.10.01(元亀2.09.13) 午前9時頃、信長、後始末は明智光秀に任せ、自身は現場を離れて上洛する。

 

 

余談  比叡山焼き打ちについて

信長は、比叡山を火の海にして僧俗老若男女の区別なく虐殺した、と言われています。が、実は現代ではその話は盛大に盛られた文学的誇張ではないか、と考えられる様になってきました。

太田牛一の「信長公記」や、「言継(ときつぐ)卿日記」の山科言継や、「御湯殿上(おゆどののうえ)日記」を書いた宮中の女房達にしても、それを書いた人は、野次馬の様に実際に比叡山炎上を現地で見て書いた訳では無く、後々に伝聞したものを書いている訳です。記述の正確さを割り引いて考える必要があります。

最近の発掘調査では、焼土層の状態から信長の時代に焼けたと明確に分かるのは、根本中堂と大講堂だけだそうで、それ以外に信長時代と思われる大規模火災の痕跡は見当たらず、また、人骨などの物的証拠も見つかっていないそうです。その他の地域にある焼土層は時代が更に古い地層だった、と報告されているそうです。

比叡山延暦寺は、宗祖を最澄とする天台宗のお寺です。仏教の大学の様な所で、多くの高僧を輩出してきました。けれども、時が経つに従って、傲慢不遜(ごうまんふそん)の振る舞いが目立ち始め、白河法皇をして「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆かせたほどです。又、延暦寺園城寺(おんじょうじ(=三井寺))と仲が悪く、園城寺延暦寺から攻撃されて数十回も焼き打ちに遭っています。その内、全山焼失したのが10回もあります。

延暦寺も、信長が焼き打ちする前に2度焼失しています。足利義教の時、義教の仕置に抗議して僧侶達が焼身自殺しました。その火が元で全ての堂宇が焼失しました。更に管領細川政元延暦寺を攻めて焼き討ちをしています。その為か、比叡山を発掘すると、三つの焦土の地層が出て来るそうです。

朝廷にも幕府にも従わない延暦寺は、治外法権の独立国家の様な存在でした。信長が、ピラミッド型の武家政権を確立しようとする時、治外法権延暦寺の存在は、支配体制内に出来た癌の様なものです。仏罰を恐れ祟りに震える当時の人々にとって、その問題に手を付ける事は出来ませんでした。信長が現れて初めて可能になりました。彼は比叡山だけでは無く、一向一揆を操(あやつ)石山本願寺も、討滅の対象としました。

因みにこの時の天台座主の覚恕は、重陽節句の行事に参加する為に、たまたま宮中に参内(さんだい)していたので、被害に遭わずに済みました。

 

余談  大規模火災について

大規模火災の場合、例えば、1955年(昭和30年)10月に発生した新潟の大火や、1976年(昭和51年)10月の酒田の大火では、懸命な消火活動のお蔭で大体半日で鎮火しています。最近では2016年(平成28年)12月に発生した糸魚川市大規模火災では、他県の消防隊の応援を得て、消防車235台や様々な支援を投入して、組織的に懸命な消火に当たり、30時間で鎮火しました。

延暦寺焼き打ちでは、積極的な消火活動は行われなかっただろうと思われます。又、山の上で水利が無かったと思われます。巨大な木造建築群の火災であるにもかかわらず、信長が一晩明けたら現場を離れた、という事から考えると、火の範囲は限定的だったのではないかと、婆は考えます。もし、伝承されている様に、比叡山塔頭(たっちゅう)全てに火を放てば、木造建築物だけでは無く、山林にも燃え広がったでしょうし、そうなると、熱で生じた上昇気流が琵琶湖から吹き上げる風を呼び起こし、それこそ大規模な森林火災を引き起こしてしまったでしょう。カルフォルニアの森林火災やオーストラリアの森林火災の様に手が付けられなくなってしまう可能性がありました。

比叡山延暦寺が何日間も燃え続けていたと言う記述が何処にも見当たらないので(婆の検索不足かも知れませんが)、多分、巷で言われている程では無かったかと、勝手に想像しています。

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。