式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

151 姫路の狼狽(本能寺の変)

「光秀謀反」「上様討死」の驚天動地の報せは、全国に激震をもたらしました。

戦国期から江戸時代初期までの様子を著した本に「武功夜話(ぶこうやわ)」があります。その中に「明智日向守謀反の事」という条があり、その混乱振りが書かれています。

その部分は或る任務を帯びて姫路城下に滞在していた一隊の記録です。彼等は姫路城下で兵糧、馬草の準備をし、宿所の手配を行い、凸凹道が無い様に道普請などに励み、信長公動座が円滑に進むように、秀吉の命によって派遣された先遣隊でした。もし、中国大返しが無かったならば問題視しないのですが、秀吉の電光石火の大返しにそれが何らかの役に立っていたとしたら・・・仮に事前に変事を見越してそのような手を打っていたのだとしたら・・・そこにきな臭さを感じてしまいます。

ここに、新人物往来社発行 『武功夜話』前野家文書 吉田蒼生全訳の内の「明智日向守謀反の事」の条を引用します。

 

明智日向守謀反の事』

『一、天正壬午六月二日、亥の刻四つ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部殿(前野長康)、兵部大輔よりの密書を見られ候いて、愕然として声無し。その場に居合い候者、前野三太夫(宗高)、石崎頼母、武藤惣佐衛門、上坂勘解由左衛門、二宮右近大夫、前野清助門(義詮)丹波より夜中の御使者に候えば、上方において異変の出来如何なる急変なるや一座罷り居り候衆、およそ測り難く前将様の顔色を窺い暫時の間聞き糺す者とて無く候。前将様また無言蒼顔なりややあって気息相調え、兵部少輔(細川藤孝)よりの一書の趣申し語られ候なり。「明智日向守(光秀)逆心、洛中の御宿所本能寺に人数差し向け不意を討ち、御運拙く御最期の注進に候なり」、一座の者天下の大事、気転倒して徒に戸惑いなす術を知らずなり。思わず三太夫(前野宗高)口早に謂曰く、「明智の大軍日を追って播州乱入は必定、これを支うるに相抱えの人数慮るに播州これなく候。筑前様は備中表に罷り在り、姫路在番の人数と我等一千足らず、播州の進退殿には如何に御思案候哉」と、膝乗り出し詰め寄り候。その場の御詰めの者他に意見申す者これなく候。ただ魂魄を奪われ呆然、自らを失い様体浅間敷く候なり。この場において下知候事。

一、「兵部少輔殿よりの注進、よもや相違いある間敷く候。明智日向殿へ同心これなきの覚悟明白、斯くなる上は悪戯に逡巡して、天下後世にそしりを招く、これ武者の本意にあらざるなり。本能寺の出来、急度備中陣の筑前様に注進の事」

一つ、直ちに此処に散在の者ともを呼び寄せ、陣用申し付けるべき事。

一つ、姫路御在番、真野右近(助宗)の元までこの旨至急注進の事。

一つ、手利(てきき)の者撰び摂津表へ罷り立ち、諸将の動き細作候て、上方の明智日向の進退見究めの事。

一つ、右の如く前将様御指図なされ、御具足を御守備先罷り出で候者、明けて三日寅七ツ半の頃合いに候なり。素走りの前野九郎兵衛(行宗)、古田吉左衛門備中おもてへ罷り立ち候は卯六ツ刻に候。酉四ツ刻までには御馬場先に参集の人数、二百有余人急変出来に付き眠る事も能わず詰め居り候。

一、大坂摂津表罷り立ち候者。

上坂勘解由左衛門   児玉左衛門

小野木重之衛門    前野伝左衛門

田尻右近大夫

右の者ども首(かしら)にて十三人、身支度調え卯の下刻出で立ち候。

                              (以下略)』      

※ なお、「出来」は「しゅったい」と読みます。

 

この後、摂津表に放った上坂勘解由左衛門はじめ斥候達が戻って来て現地の報告があったり、前将様が指示を出そうにも、陪臣の身で勝手に動くわけにもいかず、筑前様へご注進したもののその返事を待つまでの間、徒(いたずら)に時間が過ぎて行くのを口惜しがったりしている描写が続きます。又、国元の領国に一揆蜂起があったらどうしようとか、播州一千の人数では明智軍の侵攻を支えきれないが、兎にも角にも武備を怠らず警戒を最大限にと・・・切羽詰まった様相が書き綴られています。

 

武功夜話」について   

武功夜話』は、研究者の中には偽書の疑いの目で見る人も有り、第一級資料としては見なされていない様です。

武功夜話』は、尾張国丹羽郡前野村の庄屋・吉田雄翟(よしだ かつかね)が、家に伝えられてきた前野家文書を整理・編集したもので、織田信長豊臣秀吉の頃の事情が書かれています。

雄翟(かつかね)の祖父は、元の名を前野宗吉と言っていましたが、母の実家である吉田城主・小坂家の跡を継いで小坂孫九郎宗吉と名乗りました。その後、織田信雄(のぶかつ)に仕え、雄の偏諱(へんき)を賜って雄吉(かつよしorおよし)となります。雄吉は、太田孫左衛門(=太田牛一(『信長公記』の著者))とも昵懇の間柄だったそうです。

雄翟の父は、小坂助六雄善(こさか すけろく かつまさ)と言って、織田信雄に仕えていました。その後、松平家に仕えますが浪人します。浪人の身分を恥じ、武門の名を汚さない為に名前を小坂から吉田に変えます。父・雄吉(かつよし)が書き残した覚書、伝記、系図、証文などを子の雄善(かつまさ)が整理し纏めますが、完成を見ず志半ばで倒れ、その志を孫の雄翟(かつかね)が受け継ぎました。家に残された「前野家文書」を子々孫々に伝えるべきものとして編集し、纏めたのが「武功夜話」です。まだ、家に仕えていた古老が存命だった事も有り、夜物語に聞いた彼等の話なども取り入れたりなどしたので、「夜話」という表題になったと思われます。

この作業は関ケ原の戦いから34年後の1634年(寛永11年)に、雄善が着手し、雄翟に受け継がれました。公家の日記と違い、その日に書いたという同時制がありませんが、祖父がその時々の覚書や証文などを書いたものを基に、子孫が「武功夜話」として纏めたと言われていますので、元になった基礎資料には同時制があったと思われます。

編集作業は年月が経ってから行われたという点、編纂の過程で創作的な加筆が有ったらしいという疑点などで、信頼度が今一つ足りないと言われています。「武功夜話」の資料的価値について否定的な意見もあれば、肯定的な意見も有り、研究者の間で、侃々諤々(かんかんがくがく)の様相を呈しています。

 

光秀、なぜ謀反を?

本能寺の変のおよそ1年前から直近までの日本中の動きを見てみますと、信長麾下の武将達の動きや対抗勢力の動きなどは一刻として留まっておらず、同時多発的に、実に複雑に流動しています。この全体像を把握し、人員の配置などの指令を次々と飛ばして統括している信長って、なんて凄い人なのだろうと、感心してしまいます。

光秀は、初め将軍義昭に仕えていました。彼は義昭の「信長を倒せ」の檄に呼応して信長を討ったのでしようか? 婆はそうとは思いません。何故なら、光秀が義昭から信長へ主君替えをした時に、既に彼は義昭を見切っていたと、婆は見ています。信長の出した17ヶ条の意見書の話半分だとしても、到底義昭が将軍の器に値するとは思えません。義昭は旧習に固執した名誉欲の塊です。御神輿の鳳凰に祭り上げるには打って付けですが、統治能力は皆無に近いのです。義昭を傀儡政権にして光秀が力を伸ばしたとしても、いずれは将軍の我欲と能吏の光秀は衝突します。義昭と信長が敵対した様に、同じ権力の相剋が再現されたでしょう。

この事件には、恨み説、野望説などを基にした単独犯説、主犯が何処かに居て彼等に踊らされた黒幕説、共謀説等々諸説50を超えるほどあり、謎の解明は未だもって成し遂げられていません。

 

もしも婆が光秀ならば・・・彼の心を探って

光秀は、本能寺の変を起こす丁度1年前の6月2日、明智家の「明智家法」の後書きに「信長様への奉公を忘れてはならない」と書いているそうです。と言う事は、1年前までは謀叛を考えていなかった、と言う事になります。尤も、それを忘れそうになるから戒めとしてスローガンの様に提示する場合も有りますが・・・婆が注目したのはそう書いてから2か月後に「御ツマキ」が亡くなった事です。「御ツマキ」とは「御妻木の方」或いは「御妻木殿」と呼ばれていた信長の愛妾で、光秀の妹 or 義妹です。彼女は奥向きでかなりの力を持っていたらしいです。光秀と共に興福寺東大寺の争いを調停したり、公家衆も彼女に贈り物などをしています。信長と光秀の間がギクシャクしても、彼女が潤滑油か接着剤の役目をして上手くバランスを保っていたのではないかと思います。

ところが、彼女が亡くなってしまいます。『言経(ときつね)卿日記』によると、光秀は彼女の死に「比類なく力を落した」そうです。「いたく悲しむ」なら理解できますが「比類なく」と言う表現は尋常ではありません。光秀は重大な精神的ショックを受け、全てを悲観的に捉える様になってしまったのではないでしょうか。三好長慶が良い例です。長慶は肉親を立て続けに3人失い、鬱病に罹り、気が狂って弟を城に呼び出して殺してしまいました。自分の罪に自暴自棄になり、落胆の余りその一か月半後病死してしまいます。

四国攻めの時、長曾我部を調略するにも和平に持ち込むにも、必要欠くべからざる手駒として斎藤利三(さいとう としみつ)を、稲葉一鉄から引き抜いて自分の家臣にします。ところが、一鉄はそれに抗議して信長に訴えます。信長は利三を一鉄に返す様に命じますが、光秀はそれを拒否します。光秀は内心こう思ったでしょう。「四国攻めに最適の人材を得たのに、それを手放せと言うのか?それが出来ぬのなら、利三を殺せと? 利三を抜擢したのはこの儂だ。利三に何の顔向けができようか?」光秀の拒否が信長の逆鱗に触れ、信長は利三に切腹を命じてしまいます。しかも、光秀が命ぜられたのは四国攻めではなく、備中に居る秀吉への援軍です。

斎藤利三の異父妹は長曾我部元親の正室です。四国征伐の渡海の予定日が6月2日。事態は切迫していました。事態を悪い方へ悪い方へとネガティブ思考に転がり落ちる光秀。逃げ場のない隘路(あいろ)の先に見たのは、信長の身辺の軍事的空白・・・万に一つも無い奇跡のエアポケットの出現です。

 

戦場の棋譜

戦国時代の武将と言うものは、戦場を将棋の盤面を見る如くに何十手先を読んだ上で、今の一手を打ちます。例えば、武田信玄上杉謙信が戦った川中島の妻女山の戦いです。相手の心理を読み、その裏を搔いて行動しています。三方ヶ原の戦いの末に家康が「空城の計」をもって信玄を翻弄させた話などはそのいい例です。

秀吉は、乱世を生き抜き天下の頂点に立った人物です。AIコンピューターの棋士の様に、先のあらゆる手筋を読んでいたでしょう。

信長が僅かな供回りで京都にやってきて京都に軍事的空白が生まれました。そのエアポケットの危険性を秀吉は十二分に承知していたと思われます。何しろ義昭が狙われた「本圀寺(ほんこくじ)の変」という前例があります。義昭の兄・義輝が殺された「永禄の変」もあります。将軍の警備が手薄だった、と言う点では万人恐怖の義教の「嘉吉の乱」があります。光秀特定でなくても、三好氏、六角氏、一向宗丹波衆など、虎視眈々と狙っている勢力がありました。

京都の信長に万一があった場合にすぐ備中から引き返せるように、姫路城下に兵糧などの備蓄をさせたり、道路工事をさせたりしたのかも知れません。いやいや、もっと秀吉の腹の中を探れば、エアポケットの罠を仕掛け、そこに誰かが嵌る事を念頭に、次の一手でソイツを倒すことくらい考えていたかもしれません。謀反人襲撃に持ち堪(こた)えて上様がご無事ならば、一番に駆けつけた秀吉は「でかした!」と褒められるでしょう。もし上様御最期ならば、ソイツをやっつければ天下を望む事が出来ます。また、何事もなく平穏無事ならば、上様御動座恙なく誠に大慶至極で「愛(う)い奴」と覚え目出度い事でしょう。秀吉は、両面作戦どころか多方面作戦を打ったのではないかと、婆は邪推しています。

 

秀吉は腹黒

秀吉は腹黒い人物です。稀代(きだい)の「人たらし」と呼ばれる程腹は真っ黒です。人たらしは、つまり表面はお人よしで真面目で如才無く見えますが、腹の中は極上の策士です。そして、策士は名優も驚くほどの名演技をします。

「敵の総大将・毛利輝元が間も無く出陣」と信長に報告し、秀吉は信長の出陣を要請しました。つまり、動座を促して京都に軍事的空白を創り出したのは秀吉です。その空白の罠に嵌ったのが光秀。秀吉は教唆(きょうさ)も何もせずに、光秀を自発的に動かしました。勿論、光秀が謀反に動くかどうかは確率の問題。全く動かなかったとしても、秀吉にとっては何の痛痒(つうよう)も無く、目出たい事なのです。

と、まあ、これは婆が妄想して描いたシナリオです。感情面だけで推理したものなので、論拠は穴だらけ。お笑い下さい。

 

余談  春日局

斎藤利三本能寺の変の後、捕らえられ、処刑されました。利三の娘・福は、稲葉一鉄(良通)の外孫です。利三が処刑された後、稲葉家は福を引き取り育てました。後に、稲葉家の親戚の三条西家に預けられ、公家の教養を積みます。そして、徳川竹千代(=家光)乳母として出仕し、竹千代を三代将軍に就ける様に努力します。徳川幕府盤石の礎を築いた功は大きく、朝廷から春日の局の名号を賜ります。