式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

159 九州平定

昔、山下清と言う貼り絵を得意とする画家がおりました。その技は息を飲むほど精緻。色彩は美しく、婆は彼の絵が大好きでした。その彼が口癖にしていた言葉があります。それは「兵隊の位で言えば・・・」です。彼は、相手が偉いか、偉くないかを兵隊の位で判断していた様です。勿論、彼は相手が「大将」でも「二等兵」でも意に介さない人でしたが、この「兵隊の位で言えば」が小さなブームになった事があります。

武家社会は、この「兵隊の位」が重要な意味を持っています。それは、兵隊の位が表すピラミッド型の階層構造(ヒエラルキー)が、体制維持の根幹を成しているからです。それを崩す事は支配体制を壊す事です。キリスト教では神の前に人は皆平等であると説き、侘茶は貴賤別なく躙(にじ)り口で頭を下げさせ武士から刀を取り上げます。侘茶は武家の力の否定から始まります。

 

足利義昭の妄想

室町幕府第15代将軍・足利義昭は京都を追われてからも、全国の大名に信長打倒の御内書を発し、信長を悩ませ続けました。彼は、尾張の田舎大名の風下に立つなど誇りが許さず、ましてや本能寺の変後、何処の馬の骨とも分からぬ秀吉など「目通り叶わぬ、下がり居ろう!」の相手でした。足利義昭は将軍職を辞職もしていなければ、罷免もされておらず、現役の征夷大将軍の誇りがありました。

1585(天正13)年、義昭は毛利氏の庇護の下、備後国(とも)の浦で小さいながら幕府を開いていました。彼は、島津義久を九州の太守に任命して、義昭が京都へ上洛する時には余を手助けせよと命じ、更に大友を攻め滅ぼせと命じました。何故なら、毛利を従えて上洛するには、毛利の背後を脅(おびや)かす大友氏を排除する必要があったからです。

島津義久は、以前から持っていた九州統一の野望を実現すべく征夷大将軍足利義昭の命令という大義名分を得て、大友宗麟(おおとも そうりん)を脅かし始めました。

 

国分案(くにわけあん)

その頃、九州は群雄が割拠(かっきょ)しておりました。中でも大友氏は豊前・豊後・筑前筑後肥前・肥後の 6ヵ国を領有し、九州の北部一帯に一大勢力を誇っていました。が、1578年(天正6)年大友宗麟島津義久日向を巡って戦い(「耳川の戦い」「高城川の戦い」)、大友氏が惨敗して以降衰退し、大友氏の勢力圏は島津氏の草刈り場になっていきました。(※ 「耳川の戦い」「高城川の戦い」は、ブログ№158の「キリシタン(2)仏教徒との衝突」 2022(R4).09.19 up  を参照の事)

秀吉は、九州の各地で繰り広げられている島津と大友の衝突を止めようと

1585(天正13.10.02)、島津氏と大友氏に「九州停戦令」を発します。が、島津は成り上がり者の秀吉など関白とは認めないと公然と表明し、これを無視、大友領を侵犯して行きます。

1586(天正14.03.07)、秀吉は、弁明の為に大阪に来た島津氏の使者・鎌田政近に、侵略して得た土地の殆どを返す国分案を提示します。その国分案とは次のようなものでした。

  1. 島津氏本領の薩摩・大隅・日向半国は島津氏に安堵。 
  2. 肥後半国・豊前半国・筑後を大友氏に返還。 
  3. 肥前を毛利氏に与える。 
  4. 筑前を秀吉直轄領にする。

 

秀吉、国分令執行を決意

秀吉の提示した国分案は、毛利輝元大友宗麟も受け入れましたが、島津は反発します。九州の戦況の激化を見て、秀吉は国分案の執行を決意します。

それには先ず島津に、武力で占領した土地を放棄させなければなりません。島津が大人しく、ハイそうですかと従う訳が無いので、1586(天正14.04)年に、毛利輝元に人員・城郭の増強、兵糧の準備などの戦支度の指示を出します。島津が抵抗して毛利の「強制執行」に島津が従わない場合に対処できるように、1586(天正14.07)年に、四国勢に出陣を命じます。土佐の長曾我部元親・信親父子、讃岐の十河存保(そごう まさやす)(=三好長慶の甥・三好実休の次男)、高松城主・仙谷秀久を先遣隊として大友氏に加勢させます。その時、秀吉は四国勢3人の将に、相手の島津軍は野戦に強い故、決して城を出て戦ってはならぬと釘を刺し、豊臣軍本隊が到達するまで籠城戦で持ち堪(こた)えよ、と指示しました。

 

島津軍、緒戦は破竹の勢い

1586(天正14.06.18)、島津当主・島津義久の本隊が鹿児島進発し、7月2日(旧暦)に肥後八代に到着すると早速に肥前勝尾城肥前鷹取城を攻撃して陥落させました。

島津軍は島津義久を総大将に、義弘、家久、歳久、忠長と島津一門の諸将、各所で大友方の諸城を陥落させて行きます。落城、降伏、開城などなど大友側には良い知らせが無ないまま、じり貧の状態に陥りますが、秀吉が大友宗麟・義統(よしむね)父子と立花宗茂に書状を送って黒田孝高(くろだ よしたか(=官兵衛))・宮城豊盛らの出陣を伝えると、少しは元気が出て来て、更に、豊臣軍の先遣隊諸将が九州に入ると、形勢が次第に逆転して行きます。

 

秀吉のマウンティングの闘い

秀吉には九州出兵する前にすることがありました。それは1584(天正12)年に起きた小牧長久手の戦い後の、徳川家康との関係修復でした。

1586(天正14)年、秀吉は妹の旭姫徳川家康正室として送り込みます。更に同年、生母の大政所を人質として家康へ差し出し、代わりに10月27日に家康を大坂城に呼び出して謁見、臣下の礼を取らせ、諸大名の前で臣従させます。

同年旧暦9月9日、朝廷から豊臣の姓を賜り、更に同年の同じく12月25日太政大臣に登り、官位は従一位・関白太政大臣になりました。

こうなると従三位権大納言征夷大将軍足利義昭は、秀吉に位負けしてしまいます。あの秀吉が、源姓平姓と同等の朝廷から賜った豊臣姓になりました。最高位の公卿にして武人の秀吉自らが、国分令を仕置する為に大軍を率いて島津討伐をすると言う事は、それが天皇の意志だと言う事です。豊臣軍は朝廷軍なのです。秀吉に逆らえば朝敵になってしまいます。

義昭の手の平返しが始まりました。義昭は、島津義久に講和に動く様に説得にかかります。

 

豊臣秀吉、九州へ動座

1586(天正14.12.01)年、秀吉は翌年の3月に自ら軍を率いて島津を征討する事を宣言し、全国の37ヵ国に対して計20万の兵を大阪に集めるように命令します。また、軍勢30万人分の兵糧米を1年分馬2万匹の飼料の1年分の調達を、堺豪商・小西隆佐(こにし りゅうさ(=小西行長の父))や、摂津尼崎の代官で物流に通じている建部寿徳(たけべ じゅとく)などほか2名合わせて4名に当たらせ、石田三成、大谷吉嗣、長束正家の3名を兵糧奉行に据(す)えて、輸送に当たらせました。又、小西隆佐には船舶を徴発して兵糧10万石分赤間ヶ関(現下関)への輸送も命じました。

1587.02.08(天正15.01.01)、秀吉、新年の年賀の席で九州征伐を伝え、諸大名にそれぞれの部署を割り当て、軍令を下します。

同年旧暦1月15日、宇喜多秀家九州へ向け出陣。2月10日、豊臣秀長出陣と各武将支度が整い次第続々と九州に向け進発。福島正則細川忠興丹羽長重池田輝政蒲生氏郷前田利長黒田孝高蜂須賀家政毛利輝元小早川秀秋等などその他にも名だたる武将達も合わせてざっと50名。兵員合わせて20万~27万の大軍勢が九州に集結します。

豊臣軍は肥後(熊本)から西海岸沿いに南下する部隊と、日向(大分)側から東海岸沿いに南下する部隊に分かれ、秀吉本隊が到着する前に絨毯進撃を開始、島津討伐に取り掛かります。

1587(天正15.03.01)、豊臣秀吉本隊が大坂を出陣。その出陣を勅使や公家衆が見送ったそうです。正に官軍の出発でした。

 

九州平定

秀吉は、圧倒的な大軍と物量をもって天下様の軍の威容を示し、九州入りをします。その噂は九州各地の諸将に恐怖を与えました。そのタイミングに合わせる様に、黒田孝高(くろだ よしたか)(=官兵衛))は秀吉進軍の事前工作として、「関白様に味方すれば本領安堵し、逆らえば討伐する」との調略の書状を配りました。秀吉が軍馬を進めると、事前の調略が効いたのか、国人領主達の旗色がオセロゲームの様に帰順色に代わって行きました。幾つかの抵抗戦があったものの、月とスッポンほども違う豊臣軍の物量と、百戦錬磨の武将達にかかっては、さしもの戦場の猛者(もさ)・島津軍の反撃は絶望的でしかなく、困難な退却戦をしながら潮が引く様に九州南部に押し戻されて行きました。

1587(天正15.04.12)、島津義久足利義昭の使者に会い和睦の意志を伝え、4月17日に高城(たかじょう)の戦い、根白坂の戦い等で島津の抵抗を示したものの力尽き、

1587(天正15.05.08)、川内(せんだい)(現鹿児島県川内市)の泰平寺に本陣を構えていた秀吉の下に、島津氏当主・島津義久が剃髪して訪れ、降伏しました。

 

バテレン追放令、九州帰途に発す

島津義久が降伏し、九州平定の目的を達した豊臣秀吉は、大坂に戻るべく九州を北上し、帰路に就きました。途中九州の実情を視察しつつ筑前の筥崎に本陣を構え、そこで20日間ばかり滞在しました。滞在中大規模な茶会などを催し、骨休めなどをしていましたが、本来の目的は物見遊山では無く、唐入りへの野望を実現する為に、博多港の港湾の状態や、後に築城する事になる名護屋城の土地の下見などがその目的だったようです。

実際の文禄の役は、「異国(いこくに(1592))出兵文禄の役」で暗記した様に、1592年ですから、九州平定の1587年より5年先の事です。かなり前から、秀吉は唐入りを計画していたのです。年取って耄碌して気が狂って朝鮮出兵を思い付いた訳では無く、彼は本気で唐へ行くつもりだったようです。

秀吉は九州平定に出陣する1年前の1586(天正14.03)年大坂城イエズス会宣教師コエリョを引見して、国内を平定したら次に唐国を征服するから、堅固なポルトガルの軍艦が2隻欲しいと頼み、斡旋を依頼しています。そして、儂が中国を征服したら、中国で宣教活動をしても宜しいと、コエリョに許可を与えています。

1587(天正15)年、九州の地を踏んだ秀吉は、バテレンが寺社を破壊し、日本人を奴隷として「貿易品」の一つとして売買している事を、薬院全宗(やくいんぜんそう)を通じて知りました。また、大村純忠が長崎と茂木(もぎ)イエズス会に寄進し、イエズス会領になっている事も知り、植民地化の危険性に気付きました。彼は、筥崎滞在中の1587.07.24(天正15.06.19)に、バテレン追放令を出します。但し、この時の追放令は後世の禁教令とは違って、宣教師のみの追放でしたので、かなり緩いものでした。

 

 

余談  楢柴肩衝(ならしばかたつき)

筑前国人領主秋月種実は、居城の岩石城(がんじゃくじょう)で秀吉軍と戦ったが、僅か1日で落とされてしまった。彼は古処山(こしょさんじょう)に退却、そこで籠城した。次の日の夜、城から下を眺めたら周りは火の海になっていた。夜が明けると、一夜城が忽然と現れていた。種実は負けたと思い、剃髪し、茶器「楢柴肩衝という大名物(おおめいぶつ)の茶入と「国俊の刀」及び娘竜子を秀吉に差し出して降伏した。実は、火の海と思ったのは、秀吉が村人に篝火を焚かせたものであり、城は、種実が破却した城に和紙や障子を張って見せかけたものであった。

(楢柴肩衝は抹茶を入れる茶入れの名前です。足利義政が所持した天下一品の茶器と言われ、織田信長もこれを盛んに欲しがったが本能寺の変で実現しなかった。楢柴肩衝の持ち主の遍歴は、足利義政―島井宗室―秋月種実―豊臣秀吉徳川家康-明暦の大火で破損―修復後行方不明)

 

  余談  岩屋城の戦い

「岩屋城の戦い」は、大友氏側の岩屋城城主・高橋紹運(たかはしじょううん)(=立花宗茂の父) 以下763名の城兵が、秀吉が九州に来るまでの時間稼ぎの為に、2万から5万の島津勢を引き付けて奮戦、半月も持ち堪(こた)えて紹運自刃の上全員討死し、陥落した戦いを言う。紹運享年39

  

余談  戸次川(へつぎがわ)の戦い

戸次川の戦い」は、1587.01.20(天正14.12.12)、戸次川で島津軍25,000と、豊臣軍四国勢+大友勢6,000が戸次川で戦い、豊臣軍四国勢大友勢が惨敗した戦い。秀吉は島津軍が野戦に強い事を念頭に、「決して城を出て戦ってはならぬ。豊臣軍本隊が到達するまで籠城戦で持ち堪(こた)えよ」との厳命を仙谷秀久・長曾我部元親・十河存保四国勢に下したが、軍監だった仙谷が島津家久の誘(おび)き出し作戦にうかうかと乗ってしまった。この時、長曾我部元親の嫡男・信親(享年22)と十河存保(享年33)が討死、豊臣四国勢6,000名の内、4,000名を越える戦死者を出し、壊走。秀吉は激怒して仙谷を改易してしまった。。

(戸次川というのは、大分県を流れる一級河川・大野川の一部で、河口付近の流れの呼称です。大野川は阿蘇の外輪山から竹田―大分を経て別府湾に注いでいます。)

 

余談  足利義昭

足利義昭は九州平定に於いて、島津義久への降伏交渉に多大に貢献したとして、秀吉からその功を認められ、京都への帰還を許された。1587(天正15.02)年、義昭は毛利氏に護衛されて京都に戻り、同年10月、義昭は大坂の秀吉の下に行き秀吉に臣従し、秀吉より山城国の槙島(まきしま)に1万石の領地を与えられた。そして、翌年の1588(天正16.01.13)に、秀吉と共に参内し、将軍職を辞し朝廷に返上した。ここに、足利義昭は将軍ではなくなり、室町幕府も正式に滅亡した。

 

余談  施薬院全宗(やくいんぜんそう)

薬院全宗は冒頭の「施」の字を読まないのを正式とします。比叡山の僧籍だったが還俗し、曲直瀬道三(まなせどうさん)に師事、漢方医学を極めた。秀吉の知遇を得て彼の侍医となり、取次役なども務めた。後に、800年前に光明皇后が始めた慈善病院「薬院(せやくいん)」の復興を願い出て朝廷より許され、施薬院使に任命される。

 

 

余談  旧国名について

大和国」「尾張国」「三河国などの昔の国の名前は割と馴染みがありますが、その他の国名となると、それが何処の場所が思いつかないことが多々あります。この項で出てきた国名を現在の県名に置き換えてみました。なお、昔の国の名前で「前」「後」と付いているのは、京の都に近い方が「前」それより遠い方が「後」となります。

摂津(せっつ)      大阪府北中部と兵庫県南東部

備後(びんご)    広島県東半分

  (因(ちな)みに備前(びぜん)岡山県南東部。備中(びっちゅう)岡山県西部)

讃岐(さぬき)      香川県

土佐(とさ)         高知県

豊前(ぶぜん)    福岡県東部と大分県北西部

豊後(ぶんご)    大分県

筑前(ちくぜん)    福岡県北部

筑後(ちくご)    福岡県南部

肥前(ひぜん)    長崎県佐賀県

肥後(ひご)       熊本県

日向(ひゅうが)   宮崎県

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク」「地形図」「古地図」「長崎キリシタン考(4)禁教時代から復活まで 長崎史談会幹事村崎春樹」「ジャパンナレッジ伴天連追放令」「西南大学博物館 海を渡ったキリスト教東西信仰の諸相」「Laudate 日本キリシタン物語 結城了悟(イエズス会司祭)」「地域の出している情報」「観光案内」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。