式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

149 信長年表5 包囲網(2) 幕府滅亡・長篠合戦

「式正織部流「茶の湯」の世界」と標榜しながら、武士の歴史ばかりを述べているなんて、表紙と中身が違うではないかと、お叱りを受けそうです。が、式正織部流は武家茶です。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見れば分かる様に、或いは某国の軍事独裁国家の粛清を視れば分かる様に、武家社会のトップと№2の争いは血みどろです。3位4位の争いも、49位と50位の争いも大同小異です。力対力の相剋の歴史にしばらくお付き合い下さい。利休も「武家社会」と言う軍事独裁国家の内政№2の権力者でしたから。

 

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。 〇超有名人は氏を省略する事も有り。織田信長→信長。足利義昭→義昭。武田信玄→信玄。上杉謙信→謙信。徳川家康→家康等々外にも。

 

1572(元亀3.09)     信長、足利義昭17条の異見書を突き付ける。

足利義昭織田信長の後押しを得て1568年に将軍に就いたが、4年後の1572年には二人の蜜月の関係は終わった。切っ掛けは、信長が義昭に突き付けた『異見17ケ条』だと言われている。その意見書は大変長い手紙になっている。内容は簡単に言うと次の様なものである。

1、宮中参内を怠らない様に。  2、諸大名に馬をねだるな。信長が用意する。  3、忠節の者を粗略にするな、新参者を贔屓するな。  4、宝物を二城御所から他所へ移したのは何故か? 折角御所を建ててやったのに残念である。  5、加茂神社の領地を召し上げて、岩成友通に与えるのは良くない。  6、信長に友好的な者を冷たく扱うな。  7、真面目に奉公する者への扶持は増額すべしと具申したが、未だ誰一人加給されていない。  8、若狭の代官への告訴を何時までも放置するな。  9、喧嘩で死んだ者の刀や脇差を将軍が没収したと聞いている。みっともない。 10、「元亀」の改元の費用を滞納するのは良くない。 11、烏丸光康を赦免した際、賄賂を取って許したのは嘆かわしい。  12、諸国から金銀を集めながら、公に役立てないのは何故?   13明智光秀が徴収した税収を、延暦寺領のものだと差し押さえたのは不当である。14、昨年の夏、兵糧米を換金したそうだが、将軍が商売するとは前代未聞。  15、寵童に扶持を与え、職を任じ、訴訟に肩入れすると言う悪評が有る。  16幕臣が武具や兵糧に気を遣わず貯蓄に励んでいる。それは将軍の蓄財ぶりを見て、さては将軍が出奔する積りらしい、と失業の不安に駆られるからである。  17、将軍の事を下々は「悪御所」と呼んでいる。足利義教様の例があるので、よく考える様に。

この17ケ条は公開意見書で、何枚も書写されて方々に配られた。義昭が17条の意見書に激怒した。

1572.11.08(元亀03.10.03) 武田信玄、西上作戦開始 

それ迄矛先を北の信濃へ向けていた信玄は、目を南の遠江駿河三河へ転じた。四方を山に囲まれた甲斐は、上洛するには西に立ちはだかる山脈を避けて北か南に出るしかない。信玄は信長との同盟を破棄。彼は軍を三手に分け、信玄本隊は諏訪から中央構造線上に沿った秋葉街道(塩の道・国道152号線)を南下、先遣隊の山県隊は伊那街道を通って三河へ、別動隊の秋山隊は美濃へと侵攻した。

家康は信長に救援を求めたが、信長は、浅井・朝倉、石山本願寺と対決中で、家康の要請に充分に応じられず、3,000の兵を援軍として送るにと止まった。信長、この危機に上杉謙信と同盟す。

1572.01.22(元亀3..12.19.) 徳川方の遠江北部の二俣城、武田によって陥落。

1572.01.25(元亀3.12.22)   三方ヶ原の戦い

武田信玄徳川家康領に入る。これを阻止せんと浜松城から打って出た家康は、三方ヶ原で命からがら壊走。生涯最大の敗北を喫す

1573(元亀4.02) 足利義昭、信長に対して挙兵。

信長の盟友・徳川家康武田信玄に敗れたのを見て好機到来を確信し、信長に対して挙兵する。義昭側近・細川藤孝が信長にこれを知らせる。これを知り、信長は義昭に和平を求める。

1573.03.16.(元亀4.2.13) 義昭、浅井・朝倉・本願寺・武田に御内書を下し、挙兵を促す。

1573(元亀4.03) 信長、義昭と和平を求むるも、義昭断り、信長と関係を断つ

同年4月、信長、上京に放火して脅しをかけ、義昭に和平を求むるも応じず。信長、洛外に(or上京に)放火し更に和平を求めるも、義昭応じず。ついに信長、二条城を軍勢で取り囲む。下旬、義昭と和平成る。

1573(元亀4.04初旬) 武田軍、進軍停止後甲斐に撤退開始。

1573.05.13(元亀4.04.12) 武田信玄病没。享年53歳。

1573.05.26(元亀4.04.25) 上杉謙信、越後に帰国。

武田信玄が背後の安全を確保する為に、上杉謙信越中に釘付けしていた一向一揆の首領・椎名泰胤、松倉城を1月に開城するも、謙信が帰国の途に就くと忽ち叛旗を翻す。謙信引き返し、これを駆逐、一揆勢敗走する。これより神通川以東は、謙信支配下になった。

1573.07.31(元亀4.07.03) 義昭、槙島城で再び挙兵。

1573.07.09(元亀4.07.12) 二条御所を守っていた三渕藤英、柴田勝家の説得に応じ二条御所を開城。信長、この殿舎を破却す。

1573.08.10(元亀4.07.13) 信長、毛利輝元に義昭の振る舞いを報せる。

信長は、「将軍が挙兵し天下を乱したので、将軍の代わりに自分が天下を鎮めた、将軍家の事に関しては万事相談しながら対処していきたい」と伝える。

1573.08.15(元亀4.07.18) 信長、槙島城を攻める。義昭、子の義尋を人質として投降。

1573.08.15(元亀4.07.18) 足利義昭を追放、室町幕府滅亡

1573.08.16(元亀4.07.19) 義昭、真木島城を退去。

1573.08.18(元亀4.07.21) 義昭、本願寺兵に警護され、三好義嗣の若江城に入る。

1573.08.21(元亀4.07.24) 義昭、毛利輝元吉川元春小早川隆景に援助を要請。

1573.08.25(元亀4/天正1.07.28) 元亀から天正改元

1573(元亀4.08) 謙信、越中へ出陣して、椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破。

上杉謙信、更に加賀国に足を延ばし、一向一揆の朝日山城を攻撃、越中の過半を制圧した。

1573.08.28(元亀4/天正1.08.01) 義昭、毛利輝元に援助を依頼。

1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 朝倉氏滅亡。

8月に入って信長、朝倉攻めに出陣。同月3日信長大勝。同20日朝倉義景、賢松寺で自刃。

1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 義昭、三好義継・三好康長と畠山氏との間で講和を図る。

1573.09.23(天正1.08.27) 浅井氏滅亡。

信長、浅井氏を攻め、小谷城落す。浅井久正・長政父子自害。

1573.10.02(天正1.09.07) 毛利輝元から義昭へ、挙兵拒否の返書が届く。

1573.10.19(天正1.09.24) 信長、伊勢長嶋一向一揆討伐の為岐阜を出陣。

攻撃一ヵ月に及び諸城落すが、伊勢の大湊を抑えられず撤退。岐阜に帰城する。

1573.11.28(天正1.11.04.) 信長、佐久間信盛に命じて、若江城の三好義継を攻める。

1573.11.29(元亀4/天正1.11.05) 義昭、和解の説得に応じず、城を出て堺へ行く。

信長側から羽柴秀吉と朝山日乗が義昭の下に遣わされ、毛利輝元からは安国寺恵瓊と林就長が派遣されて、義昭を和解に動く様に説得するも、和解成立せず。安国寺恵瓊、義昭へ「義昭様の西国下向は、毛利輝元様にとって迷惑である」と伝えて、帰国する。

1573.12.03(元亀4/天正1.11.09) 義昭主従20人、畠山氏の勢力下の紀伊に下る。

1573.12.10(元亀4/天正1.11.16) 信長、光秀・細川藤孝若江城攻撃を命ず。

義継家臣達と織田側が内通。三好義継敗北。義継は一族を殺害し、自害。

1574.01.03(元亀4/天正1.12.11) 義昭、畠山氏の重臣・湯川直治に自分への協力を命ず。

1574.01.04(元亀4/天正1.12.12) 義昭、上杉謙信武田勝頼北条氏政加賀一向一揆と講和し、自分への協力を命ず。

1574(天正2.01) 信長、越前一向一揆討伐の為、羽柴秀吉を派遣。

1574.01.23(天正2.01.01) 信長の重臣達が年始の祝賀の為に岐阜城登城。

1574.02.07(天正02.01.16) 義昭、紀伊への動座を六角義賢に報せ上洛に協力を命ず。

1574(天正02.01下旬)      武田勝頼、美濃明知城を攻める。

1574(天正02.02.) 義昭、熊野本宮の宮司に対し、上洛に協力する様に命ず。

1574(天正02.02) 信長、明知城救援に向うも間に合わず、明知城落城。

1574(天正02.03) 謙信、関東の膳城、女渕城、深沢城、山上城、御覧田城を落とす。

1574(天正02.03) 信長、従三位に叙任する。

1574(天正02.03) 織田信長上杉謙信洛中洛外図屏風を贈る。

1574.04.11(天正02.03.20) 義昭、信長包囲網を画策し、武田勝頼北条氏政上杉謙信三者に対し、講和を呼びかけた。

1574.04.18(天正02.03.27) 信長、勅許を得て、東大寺正倉院の名香・蘭奢待を賜る。

1574.05.04(天正02.04.14) 義昭、島津義久武田勝頼の進出を伝え上洛協力を命ず。

1574.05.04(天正02.04.14) 信長、石山本願寺を攻撃。

1574(天正2.05~2.06.18) 第一次高天神城の戦い。

武田勝頼 vs 小笠原長忠(信興)(徳川方)  信長の救援間に合わず、城は降伏開城。

1574(天正2.06~09)信長、伊勢長嶋一向一揆討伐。一揆勢男女2万人を焼き殺す。

伊勢長嶋は揖斐川木曽川が伊勢湾に注ぐ河口に位置し、両河原に広がる中州のような七つの島(七島)が訛って長嶋と呼ばれる様になった地域である。輪中のこれらの島は一向宗徒で固まっており独立性が強く、信長のような俗世領主に対して反抗的だった。信長は、第一次、第二次と派兵したが、一向一揆勢の武力は強く、信長、6月23日に大動員令を掛け、12万の兵をもって伊勢長嶋の一向一揆征伐に出陣、第三次総攻撃を仕掛けた。進撃開始は7月14日である。陸上・海上ともに蟻の出る隙もない程に取り囲み力攻めをした。幾つもの城を攻め落とし、残るは五つの城になった。攻城と兵糧攻めを併せて行い、餓死者が相当数出るようになった。一揆側は命乞いをし、降伏開城したが、信長は船で退城する門徒衆を一斉に射撃、討ち取った。一揆側はこれに怒り、猛烈な反撃を行い、織田側にも名立たる武将にかなりの戦死者が出た。信長、残る2城を取り囲み四方から火を放った。焼死者2万人と言われている。

1574(天正2.10) 信長、尾張国内の道路・橋・水道等のインフラ整備を命じる。

1574(天正2.12.) 尾張国の分国中の道路・橋・水道などの整備が整う。

これによって領民が暮らし易くなったが、もう一つ重要な事がある。それは、軍事行動を素早く展開できるようになった事である。

1575(天正3) 信長、越前・加賀一向一揆を鎮圧する。

1575(天正3.04.06~) 信長、高屋城(義昭側)の三好康長と石山本願寺の攻略に出陣。

1575(天正3.04) 武田勝頼、大軍を率いて三河に侵攻す。

1575.06.20(天正3.05.12) 信長、長篠城救援の為出陣。その後家康と合流。

1575.06.22(天正3.05.14) 長篠城の500人、救援要請の密使を岡崎城に派遣。

密使・鳥井強右衛門(とりいすねえもん)夜陰に紛れて城脱出。岡崎城で信長・家康軍38,000の出撃寸前を知り、取って返すも敵手中に落ち、死を賭して長篠城に救援到来を伝える。城側意気回復。

1575.06.26(天正3.05.18) 信長軍、設楽原(したらがはら)に着陣。

信長、土塁や馬防柵など野戦用の砦を構築。

1575.06.28(天正3.05.20) 信長、鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を強襲させる。

信長、長篠城を包囲している鳶ケ巣山砦を落す為、酒井忠次を呼び別動隊を組織。武田陣を大きく迂回してその背後に回り、武田陣後方奥にある鳶ケ巣山の砦を全て落とし、長篠城を解放。武田軍は全面に信長・家康連合軍、後方に酒井隊に挟撃される形になる。

1575.06.29.(天正3.05.21)  長篠の戦いで織田・徳川連合軍が圧勝する。 

長篠の戦の主戦場となったのは、長篠城からおよそ3㎞離れた連吾川(れんごがわ)沿いの細長い丘陵地だった。信長は大軍を擁していたにもかかわらず、兵の配置を隠した寡兵弱小を装った作戦により、勝頼は織田・家康軍を一気に潰そうと設楽原におびき出され、術中に嵌って大敗した。

1575(天正3.07) 信長、正親町天皇の昇叙の勧めを辞退。

1575(天正3.08) 信長、越前一向一揆を討伐

1575(天正3.10) 信長、京都妙覚寺で茶会を開く。千利休が茶頭を務める

1575.11.23(天正3.10.21) 石山本願寺光佐、和睦を願う。信長これを承諾。

1575(天正3.11.04) 信長、権大納言に叙任。3日後右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼任。

1575(天正3.11.28) 信長、嫡男・信忠に尾張・美濃を与え、家督を譲る。信長42歳。

1576(天正4.正月) 安土城建設に取り掛かる。信長の京都屋敷の造営が始まる。

1576(天正04.02) 義昭、紀伊を出て毛利輝元を頼り、備後国の鞆(とも)に動座。

1576.03.08(天正04.02.08) 義昭、吉川元春に、輝元が幕府再興をする様に御内書を出す。

1576.03.25(天正4.02.25) 信長、安土城に移る。 

 

 

余談  長篠の戦いの真実は?

長篠の戦いで信長は、武田騎馬軍団に対して3千挺の鉄砲を三段撃ちにして集中砲火を浴びせ、勝利した、と言われております。ところが、最近の研究では、どうも違うらしいという話が出て参りました。そもそも武田騎馬軍団と言われる様な組織化された馬部隊は、武田には無かったそうです。また、織田側にも3千挺の鉄砲は無かったそうで、三段撃ちも後世の創作と言われ始めました。

これ等の話は、江戸時代に書かれた小瀬甫庵(おぜ ほあん)小説信長記」に基ずいたもので、太田牛一の「信長公記」にはそのようには書かれていないそうです。

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「織田信長の歴史年表」「御館様 織田信長の年表」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。