式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

180 二人織部(2) 関ケ原の戦い

豊臣 対 徳川の戦いの時、真田家は家の存続を賭けて、どちらかが生き残れば良いという考えの下、意図的に敵味方に分かれたと言われています。織田家長益(=有楽=如庵(信長弟))が徳川方につき、織田秀信(=三法師(信長嫡孫))・信包(のぶかね(信長弟))が豊臣側に就きました。織田家の場合は意図的に割れたと言うよりも、信条に基づいて分かれたのかも知れません。

重勝流古田家の三兄弟の場合ではどうかと言いますと、時の流れに従って東西に分かれた、と言う方が当たっているでしょう。

 

行きはよいよい 帰りは・・・

簡単に言えば、家康上杉討伐軍を率いて会津に向かった時、古田重勝もそれに従って従軍しました。重忠大坂城に居て「兄上、行ってらっしゃい」と見送りましたが、東征した筈の徳川軍が小山評定から昨日の敵は上杉で、今日の敵は石田三成と、矛先を真逆に変えて引き返して来たので、上杉討伐軍に居た重勝は、東軍所属になってしまいました。と、まあ、簡略化して言えばそういう事なのです。

ただ、この話には誇張があります。

重勝は単騎で東征軍に参加した訳では無く、自軍を率いての参陣ですから、松坂で軍勢を整えて征かなければなりません。そして、徳川軍に合流した筈です。という流れを考えれば、重忠は大坂城の窓から手を振って「兄上、行ってらっしゃい」と見送ったと言うのは、あくまで理解の手助けにと、図になる様に描いた話です。

 

重勝、出陣か or 籠城か

重勝徳川家康の号令に従って会津へ出陣した様に書きましたが、これには異説が有ります。実は重勝は出陣せず、松坂城に籠城していたという話です。

『戦国合戦大辞典(5)岐阜・滋賀・福井』に載っている関ケ原合戦布陣圖を見ますと、古田重勝徳川家康本陣が置かれた桃配山の前衛に、織田有楽、金森長近、生駒一正と共に轡(つくわ)を並べて陣取っております。ところがその異説によりますと、桃配山前衛にいる古田重勝は実は重勝ではなく、重然(織部)だと言うのです。

ここでも、織部重勝との混同が見られます。

異説の論拠は、関ケ原の時に重勝松坂城で籠城していたから、本戦に参陣できる筈もない、というものです。

確かに、古文書に「籠る」と言う言葉が出てきますが、籠城していたのは津城の富田信高。重勝の項に「籠城」の言葉はありません。

婆が最も信頼している幕府の公式記録寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)を見ますと、重勝は外出(外征)先から急を聞いて駆けつけ、敵掌中に落ちた自城を攻撃して奪取しています。古田重勝の項の、その時に当たる部分にはこう書かれています。

 

寛政重修諸家譜

『(前略) 東照宮上杉景勝御征伐のときしたかいたてまつり下野国小山にいたるのところ石田三成叛逆のきこへあたるにより暇たまハりて領地に帰る居城に敵いまた寄さりしかハ富田信濃守信高か籠れる津城に500余の兵を分けてこれを援けしはしは賊徒を挑戦して軍忠を抽のち二万石を加へ賜ハりて(後略)』

ずいよう超意訳

(東照宮(家康)、上杉景勝御征伐の時、従い奉り下野国小山に至ったところ、石田三成が謀反したと報告が有ったので、(家康から)お許しを得て(皆様よりお先に)暇を頂き、(小山から)松坂の領地に帰りました。(敵掌中に落ちた我が)居城を攻撃し、また、(その城を奪取して)寄って(依拠して)安濃津城の富田信濃守信高が籠城している津城に兵を500ばかり分けて富田信高を援け、幾度も賊徒(西軍)に戦いを挑んで忠義を表しました。この軍忠により2万石を加増して頂きました・・・)

 

重勝流古田家の系図には、重勝の当時を次の様に書いております。

 

重勝流古田家家系図抜粋

(前略) 慶長五年石田三成企叛逆仍西國之魁首九鬼大隅守等来勢州襲津城肆重勝遣雑兵五百餘人為津城後詰既得逢彼手厥后於濃州関ケ原御合戦猶抽忠戰依其功従 源家康公加給二萬石之地都合五萬五千石領知焉(後略)

ずいよう超意訳

(慶長五年、石田三成謀叛を企て西国の魁首((かいしゅ)=首領)の九鬼大隅守などが伊勢国に来て津城を襲い勝手放題の肆(ほしいまま)にした。重勝、雑兵500余りを津城の為に遣わして後詰し、彼の手に城を取り戻した。その後、美濃の関ケ原の合戦になお参陣し忠戰を表した。その功に従い、源家康公は二万石の地を給い、今迄の分と併せて五万五千石を領知した。

 

2万石の加増

寛政譜には重勝関ケ原に参陣した記述はありません。一方、重勝流古田の記録には関ケ原に行った事に言及しております。

重勝は家康に従って下野国(栃木県)小山(おやま)まで行きました。そこで家康は石田三成挙兵を知り、小山で評定を開き、諸将団結して徳川に従い豊臣に反旗を翻します。

石田三成側が伊勢松坂を攻めたとの知らせに、重勝は家康の許しを得て急遽伊勢の松坂に戻りました。皆が結束して団体行動をしている時に先行してそこを離脱し、西に奔(はし)って帰ったのですから、見方を替えれば、徳川に離反して豊臣側へ逃げたとも受け止められます。叛意を疑われても仕方のない状況です。重勝には秀頼付の弟・重忠がいるのですから、猶更です。

東海道を行く家康と、真田と言う難敵の居る中山道を行く秀忠が、関ケ原で合流するまでにはかなり時間がかかるだろうと思われ、それ迄になんとか松坂の事態を解決しなければ、と重勝は先を急ぎました。彼が皆と別れて先行して走った分だけ時間の余裕が出来、また、家康が江戸に何日も滞在して動かなかった事、秀忠が真田に手古摺って時間を浪費した事も幸いして、彼は松坂城を攻撃してわが手に奪還する事が出来ました。

重勝が自城を奪還した後、関ケ原に行くには、再び自城を留守にしなければなりません。それでは再度城を敵に奪われる危険があります。しかし、小山をいち早く離れた時、別心ありと勘繰られたかも知れない状況下で、寝返り疑惑を放置して自城に固執するよりも「家康様御為」と動いた方が、叛意の疑惑は払拭(ふっしょく)される筈です。武将にとって疑われる事は討死する事よりも危険で怖い事なのです。討死には名誉が有ります。謀反の疑惑で処刑されれば、末代までの恥がつき纏(まと)います。

重勝は、本戦で徳川方が勝てば松坂が安堵されると踏んで、賭けに出たのではないでしょうか。彼は関ケ原に行ったと思います。その戰功が恩賞2万石の加増になって表れたと婆は推測しています。

 

織部のポジション

織部関ケ原の功で2千石の加増を頂き、従来と併せて1万石になりました。恩賞の軽重で全てを判断する事はできませんが、恩賞の高はそれなりの公平さを保っていると思われます。あれやこれやの状況から、関ケ原の本戦の時、家康の馬前に織田有楽らと共に布陣していたのは、古田織部ではなく、古田重勝だったと婆は結論づけています。

では、関ケ原で東軍に居たという織部は、何処にいたのか・・・

用兵の要(かなめ)は適材適所。家康は交渉事や調略を得意とする織部を、家康本陣の傍らに置いたのかも知れません。或いは、茶人の細川忠興金森長近、織田有楽の部隊に混ざったのかも知れません。古田重勝部隊ならば、その隣に織田有楽の部隊や金森長近の部隊がいるので、そこに混ざればおさまりが良いようにも見えます。

家康は織部をどこに配置したのか、家康の身になって作戦を立て、布陣図を書いてみるのも面白いと思います。

 

仮面の平和

1600年(慶長5年)、東西勢力が関ケ原で激突し、家康が勝利しました。

この時、家康が戦った相手はあくまでも石田三成です。家康が関ケ原の戦いを制して凱旋したとしても、表向きは秀頼に謀叛を起こした訳では無く、秀頼の忠実なる臣下として心得違いの三成を排除しただけの話、という筋書きになります。

家康は、石田三成安国寺恵瓊小西行長を葬(ほうむ)り、 彼らに与(くみ)した多くの大名の所領を減額した上で、 その分を戰功の在った大名達に恩賞として再配分しました。こうして、家康は秀頼寄りの一派を没落させました。

3年後の1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に就任します。征夷大将軍武家の棟梁。こうなると、武士たる者すべては将軍の言う事に従わなければなりません。家康の専横化が次第に露(あらわ)になってきます。

表向きには、家康は秀頼の御為に忠戰を尽くした形になっています。とは言え、秀頼を将軍の下に置いて統制しようとする家康に、大坂城内では次第に反発の気運が高まってきます。こういう微妙な空気の中でも、此の頃は古田重勝と弟・重忠は敵味方に分かれていた訳ではありませんでした。何故なら、家康が秀頼さま御為に三成を成敗したのならば、それに動員された重勝も秀頼さま御為に働いたことになりますから。

ごまかしの論法であれ正論であれ、天下分け目の戦いで家康が勝ったという事実は動かしようもなく、表面上平穏が保たれていました。

 

天下統一への道

家康は次々と天下統一の布石を打ち始めます。

先ず、天下普請を始めます。

伏見城、二条城、名古屋城江戸城、姫路城などなど多くの城の普請を各大名に割り当て、大名が所有している財力を削ぎ落としにかかります。5万5千石の小藩・古田重勝も、佐和山城の普請を命ぜられた後、それが出来上がると更に江戸城の石垣を割り当てられています。

豊臣方へは、以前から秀吉追善供養の為に神社仏閣の作事をしていた淀殿や秀頼に、「それは良い事だ」と大いに容認しています。その時、手掛けた寺や神社には東寺金堂、延暦寺横川中堂、熱田神宮石清水八幡宮方広寺大仏殿などがあります。

そして、家康は秀次切腹により空位になっていた関白職に、五摂家の一つである九条兼孝を就けてしまいます。農民の秀吉が関白に就いたという異常事態が、ようやく平安時代からの伝統に戻りました。関ケ原の合戦の翌年の1601年(慶長5年)の事です。

これによって秀吉→秀次と続いた関白職を秀頼が継承する道は閉ざされてしまいました。おまけに秀吉の出身が出身だけに秀頼が源氏の棟梁になれる訳は無く、秀頼は征夷大将軍になる道も失いました。

(もし、秀頼が関白職を継いていたならば、その権力を使い、財力を投入し、系図を改ざんすれば、将軍に成れる可能性はあったかも知れません。家康も源氏に繋がるように系図改ざんしていますので)

家康は秀頼の将軍への道を閉ざした上で、1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に就任しました。

酷い仕打ち! と家康のマウント取りを非難するのは容易です。しかし、民主主義の無い時代、支配のピラミッドを盤石にするには止むを得ない行程ではなかったかと、思います。

足利義昭織田信長は、義昭が将軍と言う上位に在った為に、信長は義昭による信長包囲網という煮え湯を飲まされ続けました。

義昭豊臣秀吉の関係性はというと、秀吉が義昭より上位の関白に就いた途端、義昭は秀吉に擦り寄り、猫の様に大人しくなりました。九州平定では義昭は島津との間に立って和平への交渉役を買って出、はたまた煌びやかな軍装を整えて唐入りの拠点・名護屋まで出陣し、君前の労を取ろうとアピールしています。

 

しかし、こうした家康のやり方を、大坂方が是認していた訳ではありません。

無理筋の圧力に対して秀頼側の応力が次第に限界に近づき、様々なひずみを引き起こしました。そのひずみが百家争鳴の意見となって、大坂方は四分五裂して行きます。

 

 

余談   寛政重修諸家譜

寛政重修諸家譜は、寛政11年から文化9年(1799年―1812年)の14年間かけて、徳川幕府が国家事業として若年寄堀田正教に命じて作らせたものです。

初め、1620年代の寛永年間に、幕府は大名・旗本から家系譜を提出させ、それを集大成したものを作りました。これが寛永諸家系図伝です。その後、寛政の年に続編を編纂する事になりましたが、『寛永諸家系図伝』を見直す内、元々が自己申告の呈譜で作られていた為、かなり信頼度に疑問が出て来る様になり、全面的改定を迫られる様になりました。

堀田正教は、大学頭の林述斎屋代弘賢などの学者をはじめ専任スタッフ50人を集め、編纂に取り組みました。『寛永諸家系図伝』の前例が有るので、事実の吟味に重点が置かれ、江戸幕府成立後の記述は極めて正確だと言われています。

ただ、その時々に同時性をもって書かれた日記とは違って、年月が経ってからの編纂事業だった為、残念ながら一級の一次資料としての評価は得られていません。

 

 

余談  移動速度

今なら東京 ― 大坂2時間半  昔なら何日間かかるかと思って調べてみました。

東海道中膝栗毛(弥次さん・北さん)  江戸―伊勢                  14日間

徳川家康、江戸から関ケ原迄行軍  江戸―赤坂(岐阜県大垣市)   13日間

足利尊氏、討伐軍を率いて東下り  京都―遠江橋本(静岡県湖西市)  7日間

北畠顕家足利尊氏を追撃。途中合戦有り 奥州―鎌倉―近江愛知川 20日

幕府公用継飛脚 宿場でリレー式  江戸―京都 492㎞      3~4日間

古田重勝が小山を先発してから関ケ原開戦まで50日間の余裕が有るので、これならば松坂城を奪還してから関ケ原に駆けつける余裕はありそうです。

 

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

系図研究の基礎知識 第三巻近世・近代  近藤安太郎著

寛政重修諸家譜 堀田正教 林述斎他 徳川幕府 国立国会図書館

重勝流古田家家系図

織田信長家臣人名辞典 吉川弘文館(株)  高木昭作監修 谷口克広著

三百藩藩主人名辞典(4) 新人物往来社

姓氏家系歴史伝説大辞典

『戦国合戦大辞典(5)岐阜・滋賀・福井』 戦国合戦史研究会編 新人物往来社

「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川関ケ原でまけていた 本郷和人

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「漢字検索」「地図」「地域の出している情報」「観光案内」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。