式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

165 利休切腹(1) 木像事件

利休の突然の賜死は多くの謎を含んでおり、未だに解明されておりません。謎を解き明かそうと、多くの方が説を唱えております。それらを読む内に、一つ気が付いた事があります。それは当時の人の人権意識が、現代人とは全く違う事を、見落としている点です。

気に喰わなければ殺し、疎(うと)ましければこの世から退場させ、頭(ず)が高いと思えば首を落す。邪魔だと思えば消し、勢力が有り過ぎる奴は一族滅亡に至るまで探索して始末する・・・そういう人命軽視の有り様を、この「式正織部流「茶の湯」の世界」で、延々と述べて参りました。

実は、利休切腹、引いては織部切腹の起きた背景を描きたいが為に、戦史や武将の人生や権力の相剋などなどを飽きもせず連綿と書き綴って来た訳です。当時の恐ろしい時代に軸足を置いて利休切腹を見ると、謎解明のどの説を読んでも切腹やむなしと納得してしまうことが多いのです。

要は秀吉の胸三寸、虫の居所一つ、その虫の居所に忖度する忠実なる家臣の存在があります。

某大統領や某将軍様の国では、処刑や暗殺は日常茶飯事。理由なく命を奪われるそういう国と、表向きの理由を示されて賜死される秀吉の時代とは、五十歩百歩の差でしかないのかも知れません。

 

大徳寺山門木像事件

この事件は、千利休の木像を大徳寺の山門・金毛閣に置いた事に端を発する一連の事件です。

大徳寺の門は、時には天皇や貴人達も潜(くぐ)る門です。その頭上に利休の雪駄履きの像を置くなど以ての外、まるで貴人達を上から見下ろし足蹴(あしげ)にしている様ではないかと、僭上不遜の罪を利休は問われ、また、茶道具を売買して法外な利益を上げた、という罪も加えられ、秀吉より切腹を仰せ付けられました。

西暦1591.04.21(天正19.02.28)、上杉家の兵3千に囲まれた京都の葭町(よしやまち)の自宅で、利休は秀吉に謝罪することなく、静かに切腹したと言う話です。この話を、婆はしっかりと聞いています。間違いなく、利休は切腹し、亡くなったと信じておりました。

ところが、この話、記録者の中に実際に目撃した人は居ない、と言う事です。その時に生きていた人でも、野次馬になって利休屋敷の騒ぎや、戻り橋の磔された木像の現地を見に行った人の話では無く、人づてに聞いた話を「今日、こんなことがあった」と伝聞で書かれた日記がすべての元になっています。当初の公家の日記、僧侶の日記、侍の日記など、一致している所も有れば、違う所もあり、しかも、次第に物語化され、年月が経つ内に随分と話が膨らんできたようです。ごく初期の記録では、利休が切腹したと言う話は一言も書かれていないそうです。

 

利休は死んでいない

そもそも、利休は死んでいない、と言う説が近年浮上してきました。かなり有力な説の様です。

その証拠となるのが、秀吉が九州の名護屋に滞陣していた際、大坂の大政所(秀吉の母)宛ての書状で、『きのふ、りきうかちやにて御せんもあかり、おもしろめでたく候』(「昨日、利休が茶にて御膳もあがり、面白くめでたく候」)と書かれている事を挙げています。この書状は1592年に出されています。?????  つまり、利休が切腹したとされているのは1591年です。利休が死んでから後に、秀吉が自分の母に、利休の茶を飲んで御膳も食べ、とても満足したと書いている書状なのです。利休の幽霊が茶を点てた? ふむーー。おかしいです。耄碌秀吉、夢でも見たか・・・

 

利休は死んだ

古文書などでは、利休が切腹して死んだと言う話になっています。色々な人がそう書いており、切腹の時の様子など、まるで見てきたように詳しく書かれているものもあります。切腹した日は雷鳴とどろく嵐の日だったとか、切腹の使者に茶を一服点てて、それから切腹し、介錯の合図を送った、とかも言われています。茶室の床の間に腰かけて十文字に切腹し、はらわたを投げつけて絶命した、という話もあります。利休を慕う弟子達が利休を取り返しに来るのではないかと警戒して、上杉勢が3千の兵で屋敷を固めた、と言う話も有名です。

こうした話を、婆はずっと信じて来ました。利休生存説を知った今でも、「本当かしら」と言う疑念があり、なお、死亡説に心が残ります。何故なら、利休亡き後、一切の消息が途絶え、生きていた痕跡が、名護屋からの秀吉書簡以外どこにも見当たらないからです。

変な譬えですが、義経ジンギスカン伝説がある様に、利休が九州から大陸、あるいはルソンに渡ったと言うような噂話があっていもいいと思うのですが、一向にそういう言い伝えが出て来ません。人間一人、神隠しに在った様に全く消えてしまうのは、極めて困難です。大覚寺義昭の様に、逃亡に逃亡を重ねても九州で発見された例があります。利休ほどの茶人なら、いくら隠そうとしてもその人品骨柄に顕れる気品は、ド田舎の野人でさえ目を止めるでしょう。そういうおとぎ話が聞こえてこないのは、矢張り、この世に存在しないのではないかと、婆は思うのです。

 

利休の切腹は身分違い?

利休は商人です。武士ではありません。罪を咎められて死罪ならば処刑が妥当です。切腹は武士にとっての名誉の死です。商人に対して切腹の形での賜死は有り得ないと多くの人が言っております。当時の人も「おかしなこと」と言っております。更に異常なのは、利休が切腹するより前に、利休の木像を橋の袂(たもと)に磔(はりつけ)にしている点です。一貫性の無いこれ等の措置、秀吉の身に成り代わって考えてみますと、何となく分かる様な気がします。

なんせ秀吉は、茶堂として利休に3,000石の知行を与えていますので、利休は自分の家臣に準じています。しかも、天皇から利休と言う居士号を下賜された人物です。今後、朝廷との良好な関係を保つには、天皇の機嫌を損ねてはなりません。その辺りを徒(あだ)や疎(おろそ)かに扱えない為に、切腹と言う名誉ある死を与えたのではないかと推測しています。

 

不思議なタイムラグ

そして、これはもう一つ突っ込んだ話ですが、実は、秀吉は、利休に切腹を申し付ける気など当初は無かったのではないかと思われるのです。何故なら、木像を磔(はりつけ)にしてから切腹するまで3日間のタイムラグがあるからです。

普通の手順から考えると、切腹を申し付けた時、事前に、或いは同時進行で木像を山門から引きずり降ろし、利休の死を見届けてから、首桶を秀吉の下に運び、首実検をしてから(秀吉は首桶の蓋を開けるのを拒否したそうです)、それから一条戻り橋に運び、木像も同時に同所に運んで、その首を踏みつける形で木像を橋に縛り付けるのが、普通の段取りだと、婆は思うのです。

ところが、先ず木像の磔が行われました。それから切腹が行われました。利休の首を踏みつけにする形で「展示」するには、もうひと手間かかります。首を据える台を新たに作り、利休の首を橋の袂に運んで行って、新設の台に首を置き、首を踏みつけにする形で木像を設置し直し、縄を縛り直して磔の形に整えなければなりません。初めから死を想定しているならば、当初からそのつもりで設置の順序を考えたでしょう。

石田三成の様な能吏ならば、一度磔にしてから、もう一度縄をほどき、改めて二度手間の磔はしないと思います。何しろ三成は九州征伐の時、20万もの大軍の兵站オペレーションを手際よく陣頭指揮した切れ者です。木像磔と利休梟首の二重手間の不手際などしますまい。

このタイムラグは如何にもやっつけ仕事の結果の様に見え、計画的ではないのです。ということは、利休切腹は秀吉の突発的な命令の様な気がします。

 

 身代わり木像

これは多分、秀吉が利休に「言う事を聞かないとこういう目に遭わせるぞ」と言う脅しだと思います。身代わり木像のパフォーマンスをして、その罪を公に晒す刑に処したにのだと思います。今ならば炎上処刑でしょうか。ところが利休は脅しに屈しませんでした。謝りにも来ませんでした。秀吉は「儂の言う事が聞けぬか!」とイライラし始め、ついに「それなら勝手にしろ」とばかり感情を爆発させます。目を掛けていた分憎さも百倍、「あ奴は切腹じゃ、切腹させろ」とわめきます。天下様の命令は直ちに実行に移されました。(タイムラグから想像した婆の勝手なストーリーの内の一つです。論拠は全くありません。)

ここで思い出すのは、三好長慶の末路です。長慶は畿内を掌中に収めて一時期天下人になり全盛期を築きました。我が世の春は一瞬で、坂を転がる様に不幸が続きます。1561年(永禄4年)に3番目の弟の十河一存(そごう かずまさ/かずなが)が急死、1562年にすぐ下の弟の三好実休(みよし じっきゅう)が久米田の戦いで討死、1563年に嫡嗣子・三好義興が早世し、毎年身内を亡くしてしまいます。長慶は気鬱になり、次第に気が狂って行きました。そして、あろうことか、最後に残った2番目の弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)を城に呼び寄せて殺害してしまったのです。その裏には松永久秀の讒言があったと言われていますが、不確かであり、久秀にそれをする利がありません。長慶は冬康を殺してから55日後に病死してしまいます。近親者の死は相当のダメージを与え、判断力を失なわせてしまう事例です。利休が賜死したのは、秀吉が右腕と頼む弟・秀長を失った直後です。

 

利休切腹前後の動き

利休が秀吉の怒りを買い切腹に追い込まれたのが余りにも突然なので、その切っ掛けが何処にあるのかと、およそ5年前から探ってみました。直近の出来事としては、2ヵ月前に豊臣秀長の死亡がありますので、秀長の動きも視野に入れました。

と言うのも、家康の教唆により利休が秀長を毒殺したのではないか、という説があるからです。利休が秀長に毒を盛った為に、秀吉は有無を言わさず利休に切腹を仰せ付けた、という説です。いや、本当の毒殺の狙いは秀吉だった、と言う説もあります。逆に、秀吉が家康を毒殺する様に利休に命じた、と言う説も有ります。

どこに不都合があったか、1586年から1592年迄の年表を作ってみます。

1586.03.27(天正14.02.08) 豊臣秀長、病気療養で有馬温泉行く。

1586.05.23(天正14.04.05) 大友宗麟、秀吉に救済を求めて上洛。この時、秀吉は宗麟に「内々の儀は宗易に、公儀の事は宰相(秀長)存じ候。いよいよ申し談ずべし」と伝える

1586.12.06(天正14.10,26) 徳川家康、秀吉に対面の為上洛し秀長邸に泊る

1586.12.07(天正14.10,27) 秀吉、大坂城にて家康と謁見

1586~1587(天正14~15) 九州征伐 

1587.06.28(天正15.05.23) 大友宗麟、病死。享年58

1587.07,24(天正15.06.19) 豊臣秀吉筑前箱崎にてバテレン 追放令発布

1587.11.01(天正15.10.01) 北野大茶会。今井宗久、津田宗及、千利休担当

1587(天正15)                   北の茶会後、津田宗及、茶頭の地位解任

1587(天正15)                  千利休、3,000石の知行を賜る。

1587(天正15)                   利休、完成した聚楽第内に屋敷を賜る。

1588(天正16.01)             足利義昭征夷大将軍職を返上。室町幕府滅亡

1588(天正16)                  秀吉、堺環濠を埋め戻し命令を出す。

1588(天正16)                   山上宗二、『山上宗二記』の自筆写本を配布

1588(天正16.04.14)        聚楽第後陽成天皇行幸

1589.01.21(天正16.12.05) 秀長、木材事件の監督責任を秀吉から問われる

1589.02.15(天正17.01.01) 秀長、秀吉に祝賀の太刀進上後大坂へ出仕せず

1589.(天正17.01)              利休、大徳寺で亡父50回忌に永代供養料寄進。

1589.(天正17.12.05)         利休、大徳寺へ寄進の山門が落慶

1590(天正18.01)              秀長、病状悪化。小田原征伐に参陣できず

1590(天正18)                   千利休、秀吉の小田原征伐随行する

1590(天正18)                   千利休、陣中で竹花筒の銘「園城寺」を製作

1590.05.13(天正18.04.10) 利休の仲裁で、山上宗二、秀吉との面会

1590.05.14(天正18.04.11) 山上宗二、太閤の怒りに触れ打首になる。

1590.08.04(天正18.07.05)  秀吉、北条氏の小田原城を降伏させ.る。

1591(天正19)                  津田宗及卒。葬・堺の南宋

1591.02.15(天正19.01.22)  秀長、郡山城で病没。享年52

1591.03.19天正19閏1.24.)  利休、家康一人を招いて茶会 

1591.04.06(天正19.02.13)  秀吉、利休を堺へ追放。利休、即堺へ下る

1591.04.19(天正19.02.25)  利休木像、京都一条戻り橋の袂で磔にされる

1591.04.19(天正19.02.25)  利休、辞世をしたためる

1591.04.19(天正19.02.26)  利休を京都へ護送。京都葭屋町の自宅に入る。

1591.04.19(天正19.02.27)  利休の弟子達、利休を救う為に奔走。

1591.04.21(天正19.02.28)  利休切腹

1592                              名護屋の秀吉から大政所宛に利休の茶に言及

 

秀長毒殺説について

秀長は亡くなる4年ほど前に、病気療養で有馬温泉に行っております。その後九州出陣をしていますが、1590年の小田原征伐には体調不良で参陣していません。そして、翌年の1591年2月に亡くなっています。これを見ると、病気は長期間にわたっていることが分かります。

ヒ素による毒殺(いわゆる石見銀山鼠殺し)ならば、激烈な急性中毒症状が直ぐに現れる筈で、利休がその場から逃げる間も無く、家臣達に取り押さえられていたでしょう。朝鮮王朝では死刑に砒素化合物の賜薬を使っていました。和歌山毒物カレー事件で亡くなった方々の症状から推測しても、密かに毒殺するのは実行不可能です。

けれども、慢性ヒ素中毒ならば、有り得る話です。現在でも、飲み水の汚染によって慢性ヒ素中毒に侵され、悲惨な暮らしを強いられている方々がいらっしゃいます。飲み水ばかりでなく、美白化粧水や絵の具の顔料にも含まれています。ナポレオンの遺体からヒ素が検出されたので、砒素を長期にわたり盛られて毒殺されたと結論づけられていましたが、必ずしもそうでは無く、壁の塗料にヒ素が含まれていてそれに暴露し、皮膚から吸収されたのだ、と言う説や、セントヘレナ島の土壌に自然にそれが存在していた、と言う説も有ります。ゴッホの晩年の精神異常も、絵の具の化合物のヒ素や鉛の影響と言う人もいらっしゃいます。

もし、秀長が何らかの環境汚染でヒ素中毒に罹っていたならば、秀長だけでは無く、家臣や領民にも同様の症状が現れ、風土病的な状況になっていたでしょう。そういう話は何処にも出て来ませんので、環境汚染は考え難いです。

昔、秦の始皇帝の時代に、不老不死の薬や健康長寿の薬として、神丹、仙丹、金丹、君薬などがありました。大変高価な薬でしたが、その成分は硫化水銀に鉛、ヒ素などを配合したとんでもない物だったのです。宋の時代になるとその毒性が認識され始め、製造が下火になりました。けれど、梅毒の薬としてそれを含んだ薬を用いていました。当時の日本では舶来の薬として珍重されていたかも・・・

秀長が病気に罹っていた事は確実なので、ひょっとして当代の名医・曲直瀬玄朔(まなせ   げんさく)が診ているかも知れないと、彼の診療記録である『医学天正記』を紐解いてみましたが、『豊臣秀長様』もしくは『大和大納言秀長様』という項目を見つける事は出来ませんでした。代わりに『内大臣秀頼公御母』という項目を見つけました(知ってる名前を見つけて、一寸嬉しくなりました)。婆も老眼で目がしょぼしょぼしていますので、秀長の名前を見落としたかも知れません。

と言う訳で、秀長毒殺説にはどうも納得いかないものがあります。

 

 

余談  韓信(かんしん)の股(また)くぐり

韓信と言う人は、劉邦(りゅうほう)の国を興した時に、大いに活躍した大将軍で、軍師の張良(ちょうりょう)、丞相の蕭何(しょうか)と並んで、漢の三傑と呼ばれた人物です。

韓信が若い頃は大変な怠け者で、人の家に勝手に居候をしては食べさせて貰っていました。彼はいつも長い刀を持って徘徊していましたので町の嫌われ者でした。

或る時、若者が韓信を捕まえて、「やい、そんな長い刀を持ちやがって、本当は臆病者なんだろ。おいらが斬れるかい。斬れないなら、おいらの股ぁくぐれ」と挑発します。

韓信は刀に手を掛けますが、「いや待て。恥は一時のもの。ここで人を斬って罪を犯したら仇持になるだけではないか」と我慢して、韓信は若者の股をくぐります。

天下で活躍したいという大望を抱く韓信が、目先の屈辱に耐えて大出世をしたと言うお話は日本人にも大いに受け、この「股くぐり」の場面が歌舞伎の助六や、忠臣蔵などに取り入れられております。

「股くぐり」は人に対する最大の侮辱とされ、一方「股くぐり」で出世したのだからめでたい事だとも言われ、人によって受け取り方は様々です。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

『医学天正記2巻』 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/曲直瀬玄朔(まなせげんさく)著

高千穂町土呂久地区における公害健康被害慢性砒素中毒症)について 宮崎県

アジア砒素ネットワーク

ぎふ保環研だより第38号ヒ素について~食品に含まれるヒ素の話~

・「Academic Achievements和歌山毒物カレー事件における22年間の活動:小児と成人での急性ヒ素中毒の症状に違いに関するヒ素代謝の解明」

食品中のヒ素に関するQ&A-農林水産省

ヒ素~嫌われ元素の代表格~にまつわる話 神和夫

・「千利休切腹の状況及び原因に関する一考察----関係資料の分析・検討及び切腹原因に関する諸説の批判的検討------福井幸男」

表千家不審庵:利休の茶の湯とその流れ:晩年の利休

茶の湯の極意は自由と個性なり [あの人の人生を知ろう~千利休]

秀吉は謝って欲しいだけだった?千利休切腹事件の謎に迫る!

茶室の密室を悪用?!「千利休」が秀吉に切腹されられた・・・堀江宏樹

千利休切腹の理由を7つまとめてみた。

利休木像|茶の湯覚書歳時記-Amebaブログ

利休切腹の謎 我部山民樹

千利休切腹の背景伊達政宗徳川家康 前田秀一

「資料から読み解く新たな真実・ノジュール 河合敦の日本史の新常識第16回」

「古径宗陳」-千利休の師となる大徳寺の禅僧 武田鏡村

ウィキペディア」 「刀剣ワールド」 「ジャパンナレッジ国史大辞典、日本大百科全書、改訂版世界大百科事典」 「地域の出している情報」 「観光案内パンフレッド」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。