式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

167 利休切腹(3) 茶の湯の覇道

町工場の社長が、巨大コンツェルンの総帥達と肩を並べて事業を展開して行くには、どうしたら良いか? いや、更に言うならば、彼等より抜きん出て上に立ち、彼等を思う様に牛耳(ぎゅうじ)りたい。

ビジネス風に譬(たと)えれば、田中与四郎の志はそこにありました。

商都・堺は豪商達か綺羅星(きらぼし)の如く犇(ひし)めいている街でした。そこで生まれた与四郎は彼等に憧れ、彼等の生き様を毎日目にして育ち、何時かは彼等の様になってやろうと、野心満々の若き日々を過ごしていました。彼は紛れもなく商人の子でした。

彼は問(とい(倉庫業→納屋衆))を家業としている家の息子でした。屋号を「魚屋(ととや)と言います。家業の商売規模がどれ程のものだったのか、婆には見当もつきませんが、どうやら余り儲かっていなかったらしいです。彼は、父親を亡くした時、満足に葬式を出す事が出来ず、一人で墓掃除をしながら泣いた、と日記にある程ですから。

 

堺は茶の湯

商家に育った彼は、息をする様に読み・書き・算盤(そろばん)は当たり前に身に着けていたでしょう。

けれど、それだけでは文化人の多い堺の豪商達の仲間内には入れません。津田宗及(つだそうぎゅう)今井宗久(いまいそうきゅう)など名だたる大商人は、連歌・和歌・茶の湯の名人達人であり、彼等と伍(ご)して話が出来る様になる為には、それなりの教養を身につける必要がありました。

堺の町は会合衆(えごうしゅう/かいごうしゅう)と言う有力商人によって自治運営されていました。会合衆は堺の町の南と北と分けて設立されていました。田中与四郎の住んでいた地区は、和泉の堺南荘で、会所(寄合場)は開口(あぐち)神社の境内(けいだい)にありました。会合衆はその会所に集まり衆議を行い、町政を仕切っていました。集まれば宴席にもなり、茶の湯も行われました。

 

宗易の師匠歴

与四郎が17歳になった時、近所の北向道陳(きたむきどうちん)という茶人の門を叩きます。

道陳は能阿弥の孫弟子に当たります。能阿弥と言う人は足利義政に仕えた同朋衆の一人で、東山文化を一身に体現した様な人物です。能阿弥は茶湯の書院飾りや台子(だいす)飾りを完成させ、点前の方式も小笠原流の礼法を取り入れて完成させました。

その能阿弥の弟子に島右京(号は空海)という者がおり、島右京に伝えられた台子点ての書院茶が、北向道陳へ伝えられました。従って、北向道陳の茶は、東山流の「台子の書院の茶」の正当な流れを汲んでいます。与四郎の茶は、ですから、最初に叩き込まれた基本は、台子点ての書院茶です。

与四郎はとても熱心に稽古をし、めきめき上達しました。上手いだけでなく、美に対する感性も並外れたものを持っていました。北向道陳は与四郎の才能を見出し、堺の茶人・武野紹鴎(たけの じょうおう)に紹介し、弟子入りさせました。

武野紹鴎は与四郎の指導を、紹鴎一の弟子・辻玄哉(つじ げんさい)に任せます。この頃、与四郎は千宗易(せんそうえき)と名乗るようになりました。(通説では千宗易武野紹鴎の弟子だった、と伝えられています。)

 

書院茶と侘茶

侘茶が興るまでは、唐物を中心とした道具を使い、台子点ての書院茶が主流でした。或いは、足利家が所有していた大名物(おおめいぶつ)などを飾って茶の湯をしていました。これ等の大名物は応仁の乱などで足利家が貧乏していた時に、売り食いした物です。こうして流出した大名物が豪商の手に渡っていたのでした。

ところが、村田珠光が普通の什器を使って茶の湯を始めると、「こんなものでもできるんだ」となり、「これでも良いかも知れない」となり、「むしろこの方が良い」となって、次第に侘茶が浸透して行きました。この動きは、近代の柳宗悦(やなぎ むねよし/そうえつ)民芸運動に似ていると、婆は思っています。美の価値観の大転換をもたらしたのです。

何よりも高額の唐物を必要としない侘茶は、手軽に茶の湯が楽しめましたので、茶の湯人口のすそ野が広がって行きました。

 

流行に乗り遅れるな

堺の豪商達も、近頃はやりの「侘茶」とやらを取り入れて、「私も侘茶ができます、ほら、この通り」と手を染めはじめました。とは言っても、彼等は従来の唐物中心の書院茶から完全に抜け出す事はできませんでした。冷え枯れて貧しそうな道具類に見えても、実はわざわざ仕様書を朝鮮や大陸に送って作らせたりした物も多かったのです。お金がかかっています。でなければ、高値で手に入れた名物だったりしました。そういう茶器を使っての侘茶でした。最早それは演出された侘茶に過ぎません。村田珠光の茶とは程遠いものでした。

千宗易はそこに目を付けました。侘茶には市場開拓の余地が広がっていました。国産の茶器類を活用し、茶の湯の世界を侘茶で凌駕(りょうが)できれば、茶の湯人口を爆発的に増やす事ができ、茶人の頂点に立てる、と。

彼は、茶の世界を侘茶一色に染めようと、ひたすら修行に励み、深めて行きます。

審美眼を養い、鑑識眼を肥やし、展示方式の台子点てから道具持ち出し方式(運び点前)に変え、所作を洗練させ、道具の置き合いを工夫しました。性来の才能がこれらの研鑽によって開花して行きます。

 

秀吉の茶堂へ

草庵の茶室の三次元の空間をどのように飾ったら最高に美しく荘厳できるか・・・

千宗易はその問いに「飾らない」という逆転の発想を答えに出します。

無駄を削って削って極限まで削って、刀の切っ先のような鋭い緊張感のある空間を創り出します。そして、薄暗い洞の様な茶室に、炭の温もりが有り、湯が沸き、一輪の花が活けてある、小さな明り取りの窓から柔らかな光がさす、それで十分。

宗易が完成させた侘茶は新たな美を創り出しました。それまで「侘び」の真似事だった茶の湯が、本格的な侘びの美に昇華されて行きました。その見事さに人々は驚き、注目する様になります。武野紹鴎はもとより今井宗及、津田宗及も、千宗易に着目します。

やがて織田信長足利義昭を擁立し上洛、時流は信長へと流れて行きます。信長は茶湯を政治に利用、茶の湯は政道の最も重要な柱の一つとなりました。

1569(永禄12) 千宗易は、今井宗久、津田宗及と共に信長の茶堂になり、4年後の1573(天正元年)相国寺の茶会で宗易が信長に濃茶を献茶する栄に浴しました。その時の薄茶は今井宗久が務めています。1574(天正2.03)年、信長は堺の豪商10人を招き相国寺で茶会を開きました。その10人の中に千宗易も混ざっておりました。この頃には宗易は堺の会合衆の一員となっております。

と言う具合いに、宗易は次第に信長の茶湯御政道に組み込まれて行きます

1582.06.21(天正10.06,02)本能寺の変が勃発します。その10日後、羽柴秀吉明智光秀を倒し、本能寺の変の25日後に清須会議が開かれ、天下は秀吉の手へと動いて行きます。

国内の動揺冷めやらぬ中、同じ年の10月8日千宗易は秀吉の茶堂になり、11月には大坂城内に茶室を作る様に命じられました。半年後に完成したのが「待庵(たいあん)です。

こうして本能寺の変から1年余りで千宗易は名実ともに天下一の茶の宗匠に伸(の)し上がってきました

 

先鋭化する拘(こだわ)

宗易は侘茶への自信を深め、自分のやり方を広く普及させようとします。そこに妥協はありませんでした。時には旧来のやり方を全否定するかの様な言動をし、自分のやり方を通そうとします。彼は今迄の茶の湯を破壊し、新しい茶の湯を創造しようとしていました。その過激なやり方に、山上宗二(やまのうえの そうじ)が師の千宗易を、「山を谷、西を東と茶の湯の法度を破り、物を自由にす」と批判しています。

宗易は、貴賤を問わず相手が誰であれ、自分が良しとする道へ導き、それを習わせます。武士から刀を取り上げ、財力や権力の象徴である高価な茶道具などを排し、床の間に結界を演出して冥界を思わせ、その前で皆が坐して茶を飲むようにしました。そして、茶の湯とはただ湯をわかし 茶を点ててのむばかりなることと知るべし」と説いたのです。

宗易は禅宗に帰依していました。しかし、禅の教えの「執着を捨てよ」からも「無一物」の境地からも程遠く、自分の会得した茶湯の奥義に拘っていました。融通無碍にはなりきれていませんでした。手持ちの茶道具は高価なものでした。

彼が参禅して会得(えとく)したものは、解脱(げだつ)の悟りでは無く、究極の美の有り様(よう)だったのだと、推察しています。

 

水平と垂直

秀吉の権威も権力も否定するかのような平等の精神を、宗易は侘茶の中に持ち込みました。

(にじ)り口を小さくして侍に頭を下げさせました。和敬清寂と言って互いに敬い合うのが侘び茶ですと表向きの理由の裏に、「殿下も威張っていないで頭を下げて謙虚になりなさい」と権力の増長を抑え込むような暗喩(あんゆ)を仕込んで、利休は秀吉のマウンティングを否定したのです。

それは「人間皆平等」の理念に立脚しています。堺の商人だった利休は、会合衆の合議制をごく自然に受け入れておりました。

この平等思考は、信長や秀吉達武士が営々と築いて来た垂直構造の支配体制を、根幹から突き崩すものでした。武士達が考える安定した政治と言うものは、ピラミッド型の支配構造でした。それが上手く機能する様にするのが武士の政治でした。

 

宗易から利休へ

宗易の唱える侘茶は、上下関係を否定するような危険な思想を含んでいました。封建制度をいきなり民主主義に転換してしまうような革命的な思想を内包しておりました。

秀吉が黄金の茶室を御所に持ち込み、正親町(おおぎまち)天皇に献茶した時、宗易は利休居士と言う号を賜って献茶に奉仕しました。これによって利休の名は盤石なものになり、利休の行う侘茶が権威を得て、他へ文化的な影響を与えて行くようになります。

「わび」と「平等」は別物です。「わび」は美の分野の話です。それが利休の侘茶では「わび」と「平等」が一体化していました。「わび」の平等主義に、キリスト教の神の下に人は皆平等であると言う教義が溶け込めば、反体制的な火種に成長する危険性を孕んでいました。何時、誰がそれに気付くかが問題でした。既に、利休が「殿下」を「殿下」とも思わない様な態度を取り始めていました。秀吉にとっては立場の逆転は許し難いことでした。

茶と言えば利休の侘茶。大名も町衆も、公家も武士も、何の疑いも無く躙り口で身を屈めて茶室に入り、回し飲みをしました。身分の上下の無い茶室内は心地よく、刀を亭主側に預けた無腰の侍は怖くはありませんでした。安価な茶道具でも善しとする侘茶は取り付き易く、燎原の火の様に人々の間に広がって行きました。

 

利休排除

茶の湯を介して平等意識が常識化して行く事を、秀吉は恐れました。折角築き上げたピラミッドを土台から崩され兼ねないのです。しかも利休は次第に内政に顔を利かせはじめ、傲岸不遜になってきていました。口出しも多くなり、「内々の事は利休にきけ」と言わざるを得ない様な隠然たる力を持って来ました。こうなっては利休に退場して貰うしかない・・・

どう退場させるか?  辞任?   隠居? 政治を壟断(ろうだん)した罪で追放?  or  流罪?  or 死罪?

退場させる理由を何にするか?  木像事件?  私腹を肥やしたから?  朝鮮出兵に反対したから?   娘を差し出さなかったから?  茶の湯の路線違い?  石田三成の讒言(ざんげん)?

何時それを行うか? ブレーキ役の弟・秀長が亡くなった後が、その時だったのかも・・・

理由が何であれ、万人が納得するような分かり易い理由が良い。それには、大徳寺の山門に木像を設置した事件が最も視覚的にも分かり易い事件ではないのか・・・貴人が通る山門の上に木像を置くなど不遜の至りとすれば、多くの者を得心させる事ができる筈。木像設置は2年も前の話ですが、今更ながらにその件を持ち出して糾弾の名目にしたのではないか・・・

糾弾の申し開きと謝罪を待っていた秀吉、その謝罪の内容によっては処罰の仕様があるものを・・・

けれど、秀吉のその期待は裏切られ、賜死の命を下さざるを得ない立場に追い込まれてしまった、と、婆は見ています。

 

辞世

「式正織部流『茶の湯』の世界」シリーズのブログ「№143 会合衆 茶の湯三大宗匠(2022(R4)04.14 up)で利休の辞世を取り上げています。ここに改めてその時に示した辞世の遺偈(ゆいげ)を載せます。

遺偈

       人生七十 力囲希咄    人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)

       吾這寳剱 祖佛共殺       吾がこの寳剱 祖佛ともに殺す

       提我得具足一太刀          ひっさぐ我が得具足(えぐそく)の一太刀

       今此時天抛                今この時 天に投げ打つ

     (※ 力囲希咄は、エイヤ―――ッ!と言うような掛け声)

「ずいようぶっ飛び超意訳」人生七十年、エエエ―イッ!こん畜生!この宝剣で先祖も仏も何もかも皆殺しにしてやるわい。手にした武器の一太刀、今、この時に天に投げ打ってやるッ!

 

この遺偈からは利休の爆発的な怒りが見えてきます。茶の湯の世界で天下を取ってやろうという覇気満々の野心が一瞬にして崩れ去り、潰(つい)えてしまった無念さが、ひしひしと伝わってきます。頂点まであともう一歩だったのにと、激烈に悔しがる利休の人間臭さが、なんとなく愛おしく感じられて来るのです。

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

・千家開祖-抛筌斎千宗易(利休)「罪因」-茶堂本舗

・利休切腹の謎 我部山民樹 

・「千利休人間性 利休を考える~どんな人間だったのか 武井宗道

・日本史の基本105(23-4堺・博多・京都)

・十六世紀 キリシタン需要の構図 前田秀一

ウィキペディア」 「刀剣ワールド」 「ジャパンナレッジ国史大辞典、日本大百科全書、改訂版世界大百科事典」 「地域の出している情報」 「観光案内パンフレッド」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

今年もあとわずかになりました。この一年間、ご愛読本当にありがとうございました。

来年からはいよいよ古田織部の時代に入って行きたいと思います。どうぞ、今後とも御贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。

皆様のご健勝とご多幸を心より祈り申し上げております。