式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

169 佐介(織部)覚醒

人は誰でも才能を持っています。無能な人はおりません。ただ、その才能は世間的な尺度で計る才能では無く、全く別の尺度の才能です。婆が言う才能とは、好奇心の才能を言います。

生まれて間もない赤ん坊は、ベッドでじっとしていながらも、動くものに興味を示し、じっと見つめています。這い這いする頃になると、床にある小さな黒いシミや落ちているゴミに手を伸ばし、不思議そうな顔をして指でそれを掴もうとします。そして掴むと、口に持って行きます。食べられるかどうか先ず試してみます。幼稚園に入る頃になると、「これなあに」「あれなあに」「どうして」「なぜ」と親を困らせる様な質問を連発します。これが好奇心です。この好奇心は誰でも持っている才能です。

ところがどうでしょう。成長するに従ってこの好奇心は薄れ、それを追求していく熱心さを失い、ずっと心に温め続ける忍耐を無くし、平凡に常識的に生きて行くようになります。

なぜ好奇心と言う才能を失うのか・・・常識と言う衣を何枚も重ね着する様になり、常識の塊になって行くのが大人への道、赤子のように素直な好奇心を持ち続けるのは未発達だと愧(は)じ、素っ頓狂な発想を封殺してしまう様になるからです。

 

無常識の自由人

「夜になると何故暗くなるの?」と聞かれて「太陽が沈むから」と答えると、それ以上考えるチャンスを奪ってしまいます。空一面に隙間なく星々があり、その星々が輝いたとしたら、たとえ光源が小さくても、砂漠の砂の一粒一粒が全て光っていると同じ様な状態になり、太陽が沈んでも空は暗くならない筈なのに・・・

夜でも明るい筈だと言い張る子は頭がどうかしている、太陽が沈めば暗くなるのは当たり前、それが分からないなんて、この子は馬鹿だ・・・となってしまうのが常識人です。

佐介(織部)は常識の無い赤ん坊でした。人々が、自らの内に造っている常識と言う限界の垣根を持っていませんでした。一歩譲って多少はあったとしても、その垣根は難なく飛び越えられるほど低くて柔(やわ)でした。

その3つの例証を挙げれば、次の様なものが有ります。

① 利休が瀬田の唐橋の擬宝珠(ぎぼし)の話をした時に、席を抜け出して馬を飛ばして見に行ったというエピソードが有ります。普通なら、師の話を最後まで聞き、それから後日なりなんなりに見に行くのが常識人の行動です。

② 利休が秀吉の勘気を蒙って淀川を下って堺へ行くとき、細川忠興(三斎)と共に淀川に見送りに行ったという逸話があります。他の大名は秀吉を恐れて見送りに行きませんでした。権力者の機嫌を損ねたら厳罰に処せられるかもしれないと言う恐ろしさは、当時の人々の常識でした。けれども、彼は師を思う情を優先しています。

③ 方広寺の梵鐘問題が大坂両度の陣の切っ掛けとなりました。この梵鐘の銘文を書いたのが南禅寺文英清韓(ぶんえい せいかん)です。彼は、片桐且元(かたぎりかつもと)と共に徳川に釈明に行きましたが、清韓は徳川幕府に捕らえられてしまいました。後に釈放されましたが、清韓は南禅寺からも追放されました。

1614年(慶長19年8月28日)、その清韓を古田織部は茶に招き、慰めています。その為、織部徳川幕府から叱責を受けてしまいました。これは、織部切腹の約8か月前の話です。

 

織部はどうも身の危険に対するアンテナが弱そうです。危機管理をしっかりしなければならない状況下で、アンチ体制の行動がこの外にも多々見られます。

軽率と言えば軽率。不用心と言えば不用心。侍にあるまじき隙だらけの立ち姿ではありますが、権力に阿(おもね)る事無く、死を意に介せず我が道を行く生き様は、爽快でもあります。これも織部の美学かも知れません。

 

利休と佐介(=重然(しげなり))

茶の湯が嫌いで茶の湯をずっと避けていた佐介。それが40歳ぐらいになって急に茶の湯に目覚めました。これには、義弟の中川清秀の存在が有ります。

中川清秀は佐介の妻・の兄。その頃、佐介は名を重然(しげなり)と名乗っていました。

中川清秀は利休十哲と呼ばれた荒木村重を主君に持ち、家中でも名だたる剛の者。鬼瀬兵衛(おにせへい)」と言われ、数々の戦功をあげています。彼はキリスト教徒でもありました。

信長は清秀の武勇を欲し、清秀の義弟・古田重然(=佐介=織部)を動かして、荒木村重から信長方へ寝返る様に調略します。そのように、古田重然中川清秀の間柄は信長も認める程の親しい間柄でした。その清秀、主君・村重の影響か、茶の湯を嗜(たしな)み、重然を茶の湯に誘います。

重然は茶の湯嫌い、敬遠していましたが、ついに清秀に唆(そそのか)されて習い始めます。

そこで見たものは、利休の提唱していた侘茶。決まりきった唐物道具を用(もち)いる茶の湯では無く、趣(おもむき)のある道具を使い、見立てや季節感など満載の変化に富んだ茶の湯でした。まずは道具を見せ、見せる為に飾り、飾って自慢する従来の台子点てでは無く、最初から道具を飾らず、運び点前と言って道具を持ちだして使用するやり方も新鮮でした。

これは面白い!しかも、利休は「工夫せよ、先人の真似をするな」と教えているでは無いか!

マンネリを排し、創意工夫を歓迎する侘茶に、自由人・重然は忽ち惹かれてしまいます。

 

重然、茶の湯に嵌(はま)

守らなければならない所作にがんじがらめになって、同じことを唯々(ただただ)漫然と繰り返して行くだけの退屈な茶の湯、と思っていた茶の湯が、実はそうでは無く、千変万化の奥行きを持っており、通り一遍の習得では到底修めきれない世界であると気付いた重然。強烈な引力によって引き摺り込まれます。

彼は師・千利休の、「工夫せよ」「人と違う事をせよ」の教えを守って工夫の道に踏み込みます。

工夫の道は、大元のやり方を掌中に収めなければ、工夫は成り立ちません。工夫は言うなればアレンジのようなもの。変化させるには変化させる本筋を知らなければ弄(いじ)る事は出来ないのです。重然は以前とは打って変わって茶の湯の稽古に励みます。稽古に励みながら、彼なりの工夫を随所に施して行きます。

床の間に花を活けた籠を置く時、本来ならば薄板の上に置くのですが、重然は薄板を置かず直に籠を床の間に置きました。それを利休は感心して重然を褒め「こと、花籠に関しては私は重然の弟子になりましよう」と言ったそうです。利休もなかなか謙虚な人です。師の行う通りになぞるのではなく、師が行わないような事をしてもそれを容認する度量の広さが利休に在りました。そういう師に恵まれて、重然は小さな工夫を積み重ね、いよいよ独自路線を切り開いて行きます。