式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

179 二人織部(1) 重勝のこと

古田織部には二人の人物が居ます。一人は皆さまが良くご存知の茶人・本物の古田織部正重然(ふるた おりべのかみ しげなり)、もう一人は、松坂藩藩主・古田兵部少輔重勝(ふるた ひょうぶしょうゆう しげかつ)です。司馬遼太郎もこの二人を混同しておりまして、話が少しややこしくなっております。当ブログでは時々目立たない様に松坂藩の重勝をチラッチラッとチョイ出しておりまして、それとなく露出させておりました。

何故そのような余計な事を?と思われるかもしれません。実は、当時の重勝流古田家には三人の兄弟が居りまして、それが豊臣方と徳川方に二つに割れ、身内同士で戦っております。

前のブログ「茶史(6) 織部全盛~切腹」の項で

1603.02.23(慶長8.01.13) 古田重勝古田重然(織部)の茶会に正客で招待される。

と述べました。二人が会ったと言う記録があるのはこの時のたった1回だけです。記録に無い接触があったのかどうかは分かりません。二人が会ってから約3年5ヵ月後の1606年に重勝は46歳で病没しました。織部切腹したのは重勝病没より更に9年後の1615年です。この時織部73歳です。

 

古田織部と古田重勝は従兄弟同士と言われ(叔父と甥の関係との説も有り)ます。織部が豊臣側に内通の嫌疑を受けて切腹したと言う事実と、重勝流古田家が東西二手に分かれて戦った、と言う事実があります。婆はこの二つの関連性に興味があり、すこし、立ち入って触れてみたいと思います。

これから述べる婆の話には、一次資料や二次資料に基づく学術的な裏付けはありません。ただ、そうは申しましても全くの虚構では無く、事実の事も多々あります。事実と事実の間を空想で繋ぎ合わせながら物語ろうと思います。

その前に、記録として残っている基本情報は、下記の通りに押さえておきたいと思います。

              基  本  情  報

 

古田重然(織部)                   

①戦国時代後期-江戸時代初期   ②生没年  1543‐1615   ③名前   景安、左介、通称・織部 通字は「重」  ④出身   美濃   ⑤戒名   金甫宗屋禅人    ⑥墓所   京都三玄院/興聖寺   ⑦官位   従五位下織部正(or 織部助)   ⑧主君   信長-秀吉―秀頼―家康-秀忠   ⑨領地   南山城古河市大和 10,000石   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋   丸に三引両   ⑫父母   古田重定・養父古田重安、母不明   ⑬兄弟   重然   ⑭妻   中川清秀妹・せん   ⑮子   重行(九郎八)、重広、重尚、小三郎、重久、古田重次室、鈴木左馬介室、新宮行朝室   ⑯その他   茶の宗匠         

 

重勝流古田三兄弟

古田重勝

① 戦国時代後期・江戸時代初期  ②生没年  1560 ‐1606   ③名前   吉左衛門 通字は「重」   ④出身   美濃   ⑤戒名   國泰寺殿天関道運大居士   ⑥ 墓所   江戸の泉岳寺/正覚院   ⑦官位   従五位下・兵部少輔   ⑧主君   秀吉-秀頼-家康   ⑨藩    伊勢松坂藩藩主 55,000石   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋 表紋は丸に三引両、奥紋は五三桐   ⑫父母   古田重則 母無筋目   ⑬兄弟   重勝・重忠・重治   ⑭妻   石河杢兵衛光政の女(むすめ)   ⑮子   重恒と養子の重良(重忠長男)   ⑯その他 朝鮮戦役で渡海。関ケ原の戦いでは東軍

 

重忠 (重則次男・重勝)

①戦国時代 ②生没年  ?-1615   ③名前   半左エ門 通字は「重」   ④出身 美濃  ⑤戒名   古剳玄霜   ⑥墓所    -   ⑦官位 ?   ⑧主君   秀吉-秀頼   ⑨藩 -   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋   表紋は丸に三引両、奥紋は五三桐   ⑫父母   古田重則・母無筋目   ⑬兄弟   重勝重忠、重治   ⑭妻   滝川豊前守法忠の女(むすめ)   ⑮子   重良(重直)、重昌(重広)   ⑯その他   秀頼に仕え大坂城落城の際、城内で戦死

 

重治 (重則三男・重勝)

安土桃山時代・江戸時代前期   ②生没年  1578‐1625   ③名前  -   通字は「重」   ④出身 美濃   ⑤戒名   江雲院殿古山道輝大居士   ⑥墓所   江戸の海禅寺   ⑦官位   従五位下・大膳大夫   ⑧主君   家康-秀忠   ⑨藩   伊勢松坂藩藩主、石見浜田藩初代藩主   ⑩氏族   古田氏   ⑪家紋   表紋は丸に三引両、奥紋は五三桐   ⑫父母   古田重則・母無筋目   ⑬兄弟   重勝、重忠、重治   ⑭妻   丹羽長秀(むすめ)(円光院)   ⑮子   養子の重昌(重忠次男)、古田重恒正室、重延、青木直澄正室   ⑯その他   大坂冬・夏両度の陣で徳川方につく

 

 表紋(おもてもん)は男子装束の紋。旗印・幕紋など。 奥紋(おくもん)は女性の紋。

 

寛政重修諸家譜 (かんせいちょうしゅうしょかふ)

江戸時代の大名や旗本を調べるには、寛政重修諸家譜と言う本を頼るのが一番確実です。『寛政重修諸家譜』は徳川幕府が編纂した職員名簿です。そこには、幕府を構成する全ての家の系譜が蒐集されており、全部で1,535巻もある、という膨大なものです。

寛政重修諸家譜』は、御三家(尾張・水戸・紀州)、御三卿(田安・一橋・清水)、御家門(徳川氏の分家)を除く、全国の大名と旗本の系譜を全て網羅しています。古田家の系図はこの中の938巻目に載っています。但し、そこに載っているのは古田織部の家の系図ではありません。古田重勝系図です。

寛政重修諸家譜』はその名の通り寛政11年から文化9年迄の14年間を掛けて編纂されたものですので、江戸初期に断絶してしまった織部系図は収録されなかったのでしょう。その代り、古田織部系図田畑喜右衛門吉正が著した『断家譜』の方に収録されています。さて、『寛政重修諸家譜』を基に、重勝流古田家に伝わる系図も参考にしながら、古田三兄弟が東西に分かれて戦った経緯を辿ってみたいと思います。

 

                         重勝流古田三兄弟の物語

 

古田重則のこと

古田家には重勝、重忠、重治という三兄弟がおりました。彼等の父は重則と言って、若い時に美濃を出て近江へ行き、羽柴秀吉長浜城下で仕官の口を求めます。彼は幸いにも秀吉の直属の旗本として採用されました。

重則の主君・羽柴秀吉は、織田信長の下知の通りに各地を転戦、重則も席を温める暇もなく戦いに明け暮れしていました。

播磨の三木城を攻囲していた1579年9月29日(天正7年9月9日)の夜のこと、毛利の大将・生石中務少輔雑賀衆を率いて秀吉側の平田砦を急襲、大混乱に陥りました(平田砦の戦い)。明けて翌10日、戦場は三木城により近い大村で合戦が始まります(大村合戦)。秀吉はすぐ駆け付けましたが、重則は乱戦の中で討死しました。享年51。法名は道乾です。三木城の戦いには、古田重然(織部)も従軍しておりました。

 

重勝のこと

父の訃報を受け取った時、長男の重勝は、前野将右衛門(前将)に随(したが)い、姫路城下に居ました。織田信長征西御動座に備え、秀吉の命により路次の宿駅の整備、宿所手配、兵糧の備えなどの準備に働いていました。三木城が落ち、備中高松城の水攻めがそろそろ仕上げに入る頃、姫路に本能寺の変の急報が届きました。前野隊に動揺が走りますが、中国大返しで戻って来る羽柴秀吉軍を迎えます。そして、山崎の合戦へと突入します。重勝は山崎合戦の功により秀吉から近江国の日野に所領を得ました。

秀吉が明智光秀を斃して天下を取ったとはいえ、まだ道半ば。秀吉は更なる国内統一を目指して戦い続けます。中国攻めの後、大きなものだけでも賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・紀州攻・富山役・九州征伐とありました。小さなものを挙げれば、切りがありません。重勝は数々の戦績を重ね、佐和山城の守将なども任せて貰える様になりました。小田原征伐の時も軍功を挙げました。秀吉の野望は暴走し始めます。秀吉は唐攻めへと突き進んでいきます。

1592(天正20/文禄1)年、文禄の役が始まりました。織部名護屋に出陣、同地で守備に当たります。重勝は渡海し、彼の地で奮戦して戦功を挙げます。帰国してから後、1595年(文禄4年)、秀吉より恩賞として伊勢国松坂に封を与えられ、3万5千石を領し、重勝松坂城城主になりました。その上、霊昭女花籠(れいしょうじょの はなかご)驢馬香爐(ろばこうろ)を賜りました。

この年は関白秀次切腹すると言う大変な事件が勃発した年です。松坂城の前任城主・服部一忠は、桶狭間の戦いの時、今川義元に一番槍を付けた剛の者で、信長の代にも秀吉の時にも紛れもなく忠臣でしたが、関白秀次事件に連座して上杉家にお預けになり、賜死により切腹しました。重勝はその後釜に据えられたのでした。この時重勝34歳です。

 

重忠のこと

重勝のすぐ下の弟・重忠は、兄と同じく秀吉に仕えていました。彼の仕事は軍事では無く、内勤でした。戦功を挙げて出世すると言うポジションではありませんでした。

朝鮮戦役の最中の1593年(文禄2年)、淀殿お拾い様(後の秀頼)が誕生しました。すると、人事異動が発せられ、重忠はお拾い様付の近習になりました。太閤様のご嫡子付き、と言う晴れがましいポストに抜擢され一層勤務に励んでおりました。同じ様に、お拾い様近習になった古田九八郎という者が居りました。九八郎は古田織部の長男でした。同族で同輩の二人、かなり親しく交流していたのではないかと思われます。

淀殿が秀頼を産んだのは1593年です。重忠の没年と享年から逆算して重治はこの時26歳になっていたと思われます。秀吉付から秀頼付へと人事異動があったのが何時だったのか分かりませんが、少なくとも立派な成人男子になっています。

(当初、重忠が秀頼に近侍したのが何歳の頃だったか見当がつきません、と申し上げましたが、色々調べて年齢がわかりましたので、お詫びして訂正いたします。訂正年月日2023.06.10)

太閤様御嫡子付になって、喜んだのも束の間、怪しい雲行きになってきました。既に太閤の後継者として活躍している関白秀次と、太閤実子の秀頼の間に権力闘争の様な動きが起こり始めました。原因は、太閤の心変わりです。実子が可愛くて、関白職を秀次にくれてやったのを後悔し始めたのです。

 

関白秀次の存在

秀吉の甥・秀次は、幼い頃から叔父の秀吉によって、たらい回しの様に人質に出されました。初めは浅井長政の家臣・宮部継潤の人質です。次に三好康長の養嗣子となりました。そして、最後に子供のいなかった秀吉の養子になります。幸いな事に、継潤も康長も相当な文化人でしたので秀次はその薫陶を受け、高い教養を身に着けていました。

秀次は日頃、古典の蒐集に努め日本文化の保存と継承に心を砕いていました。日本書紀』『日本後紀』『続日本後紀などの歴史書『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)の様に平安時代初期の弘仁から延喜までの三つの法令集などなど多くの書籍を朝廷に献上し、また源氏物語の写本なども持っていました。茶の湯連歌能楽にも秀でていました。そして、秀次の事を「万人から愛される性格」で「穏やかで思慮深い性質である」とルイス・フロイスが評していた様に、彼を慕う多くの人々がおりました。

秀次が極悪非道の悪人という後世の評価は、秀次一族を滅ぼした理由を正当化する為に、彼を徹底的に貶(おとし)めようとした結果だと思われます。そういう色眼鏡を掛けていない外国人の評価の方が、むしろ真の秀次の姿ではないかと、婆は思います。

秀次は、関白の職責として官位・叙任の専権事項の人事権を持っていました。彼は、その権利を使って、人事を行いました。栄華の権力者に娘を献上する親も続出しました。そういう秀次の下に人が群れ集まって来るのは世の常。いつしか、秀次の周りに大きな派閥が出来ていました。それが、秀吉の勘に触りました。「儂の許しを得ずして勝手に人事権を行使するな。いい気になりおって!」と。

秀吉は次第に秀次に脅威を感じる様になっていました。お拾い(秀頼)は余りにも幼く、か弱い存在でした。それに比べて秀次の勢力は肥大化し、公家にも大名にも深く根を張り、ちょっとやそっとでは倒せそうもないほどの勢いを持っていました。

 

秀次切腹

秀吉は焦りました。儂が亡くなった後、秀頼はひとたまりもなく捻り潰されてしまうだろう、と。老人の疑心暗鬼は留まる所を知らず、ついに、秀次排除へと舵を切ります。

秀次は切腹しました。近頃では、彼は賜死を受けて切腹したのではなく、死を以って身の潔白を証明する為に切腹した、と言う説が有力になっています。

もしかしたら、自分の人生をいいように操って来た叔父への抗議であり、最後の抵抗だったのかも知れません。更に勘繰れば、自殺して秀吉を罰したかったのかもしれません。無実の罪の者を死に追いやったという自責の念で、一生後悔し続ける地獄の責め苦を与えたかったのかも知れません。それが、秀次なりの復讐だったのかも・・・

老人は目先の事象に目を奪われて、秀吉は秀次の種を根絶やしにしようとしました。正に、洪武帝(=朱元璋(しゅげんしょう))と同じです。彼は皇太孫・朱允炆(しゅいんぶん)可愛さの余り身内も忠臣も将来強敵になりそうな者の全てを、粛清か追放してしまい、無能なイエスマンばかり朱允炆の周りに残したのです。結局、朱允炆は帝位を維持できず朱棣(しゅてい)(=永楽帝)に簒奪(さんだつ)されてしまいます。

秀吉は、秀次の妻妾や子供達併せて39人を皆処刑してしまいます。更に、秀次により取り立てられた大名達を粛清してしまいます。服部一忠もその一人でした。彼は松坂城主に抜擢されて3万5千石を与えられ、秀次麾下に組み入れられました。彼は連座の罪で所領没収の上、上杉家にお預けの身となり、切腹を命ぜられました。

服部一忠と同じ運命の大名が他にも居ました。熊谷直澄、前野長康景定父子、木村重玆(きむらしげこれ)父子など16名、改易や流罪・追放など16名、蟄居など5名と言う大規模な処断になったのです。殉死も5名いました。秀次切腹と言う事件は、秀次一人の切腹で済んだ訳では無く、想像以上に根深く広がっていました。

秀次事件によって、秀次のみならず将来秀頼を支えるべき秀次の子供達までをも秀吉は一掃してしまいました。もし、秀吉が権力の継承に執着せず、秀頼が秀次の風下に立ってもそれで善(よし)と構えて、文化人の道でも長閑(のどか)に歩ませていれば、後の悲劇は起きなかったでしょう。間が悪い事に、豊臣秀長加藤清正前田利長などの重臣も次々と病死してしまい、気が付けば、秀頼は激流に揉まれる一本の葦の様に、心許ない状況に追い込まれてしまっていたのです。

 

重勝流古田家の跡継ぎ問題

豊臣家の跡継ぎ問題が関白秀次事件へと発展し、世を震撼させましたが、重勝流古田でも跡継ぎ問題は深刻でした。

何時まで経っても、重勝夫婦に子供が出来ませんでした。

重勝は戦、戦、いくさに明け暮れて家を留守にし続けます。留守がちの重勝にもう一つ問題が有って、どうも女性に興味が無い様な・・・うむぅ~~と家臣一同が困っていました。嗣子が無いとお家の存続は危うくなります。後継ぎの男子が生まれなければ、絶家です。絶家、改易、家臣一同失業の憂き目と、悪い妄想は次第に膨らんできます。

ついに真ん中の重忠が動きます。

「兄上、私の息子を兄上の養子に差し上げましょう」

と。

重忠はしかも、2人の息子を二人とも養子に出すと言うのです。長男重良(寛政譜では重直)を兄の重勝へ、次男の重昌(寛政譜では重弘)を弟の重治へと分けて養子に出すと言うのです。

えッ? 何故? 本家の重勝の家が絶家して仕舞えば、それはそれで大変な事態になります。が、重忠にも分家としての存続が必要です。二人の息子を両方とも養子に出してしまえば、重忠の嗣子が居なくなり重忠流の分家支流は途絶えてしまいます。それは有り得ないです。武士は何よりも家が大事。自分の家を継ぐ者を必ず確保するのが武士の家の習いです。子供二人の内二人とも手放すなんて、絶対有り得ません。長男か次男のどちらか一人を養子に出し、残った一人を自分の後継ぎにするのが賢明なやり方です。

この重勝流古田家のやり方をみていると、ある疑念が湧いてきます。

重忠は何故自分の系を断とうとしたのか、と。二人の息子を養子に出してしまえば、自分の系はそこで途絶えてしまうのに、何故そんな事をしたのか?

 

重忠は、秀頼の近くに仕え、淀殿はじめ豊臣政権の中枢部に居て、その実態を良く知っていたのではないか、と思います。穏健派に武闘派、淀殿を取り巻く近江派とそれ以外の人達との確執、一枚岩に見えて実は何枚にも割れている岩の脆さを、重忠は冷静に分析していたのではないでしょうか。そして、東西戦った場合に、豊臣には未来が無いと見通して、我が子二人を徳川方の兄と弟に託したのではないかと考える次第です。

この養子の案は実行されました。

重忠長男は重勝の養子になり、次男は重治の養子になりました。これで重勝家に後継ぎが決まり、家臣達は皆ほっと一安心したのですが、しかし・・・・

養子を迎えてすぐに、重勝家に男子が生まれました。なんてこったッ!!!!!

秀吉と秀次と秀頼の相似形が、古田家にも生まれてしまったのです。

その子は希代丸(まれよまる)と言います。後の3代古田重恒(しげつね)です。

 

 

余談   霊昭女花籠(れいしょうじょのはなかご)

中国は唐の時代に霊昭という貧しい娘がおりました。彼女の家は竹篭を編んで、それを売り歩いて生計を立てていました。実は、霊昭女の家は元々大富豪の家でした。ところが、彼女の父が禅宗に凝ってしまい、「人間本来無一物」「執着を捨てよ」の教えに従い、全ての財産を投げ出してしまったのです。そのお蔭で極貧に陥ったのですが、霊昭女はそれに文句を言う事なく父に随い、生計を立てる為に親子共々竹の花籠を編んでそれを売り歩いていました。花籠は丁寧に編まれていてとても評判でした。その花籠の形は、一度にいっぱい持ち運べるように、持ち手を大きく弧にしており、その弧に腕を通して運ぶと言う、そういう作りでした。

或る時、いつもの様に父と一緒に花籠を売り捌(さば)いて家路についた時、父はあぜ道で転んでしまい、下に落ちて泥だらけになりました。霊昭はそこでおかしな行動を取ります。彼女は父に手を差し伸べて助け起こそうとはせず、彼女も父の傍らにゴロンと横になったのです。親子はそこで一緒に道端で横になりながら空を見上げ、顔を見合わせて拈華微笑(ねんげみしょう)したとか。拈華微笑とは言わず語らず以心伝心で悟り合い、微笑むことですが・・・なぜ、霊昭女は父を助け起こさずに一緒になって寝転んだのか、これは禅問答の一つです。

霊昭女の絵は美しい女性の立ち姿として禅画に良く描かれています。霊昭女も父も禅を極めていました。

霊昭女の花籠を模(かたど)った花籠は、お茶席でも使われます。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

寛政重修諸家譜  堀田正教・林述斎 徳川幕府  国立国会図書館

断家譜  続群書類従完成会

重勝流古田家家系図

豊臣時代の聯句  国立研究開発法人 科学技術振興機構 小高敏郎

この外に「ウィキペディア」「コトバンク」などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。