茶界の巨星墜つ、正に千利休の死はそう言うに相応しい出来事でした。利休が亡くなり、それを追う様に津田宗及が亡くなり、今井宗久が亡くなりました。三宗匠といわれた三人が相次いで3年以内に亡くなった事で、それまで二軍に控えていた古田織部が躍り出て来ます。
織部は家督を嫡子・重広に譲り、伏見の屋敷に「凝碧亭(ぎょうへきてい)」という茶亭を設け、茶湯三昧に耽(ふけ)って行きます。
茶 史
織部が直に関係した件は黒字、茶史・その他政治史・戦史に関しては青字で記します。
織部は家督を重広に譲り、隠居領として3,000石を貰う。そして、此の頃伏見の屋敷に三畳台目(さんじょうだいもく)の茶室「凝碧亭」を建てる。
1598年、醍醐で盛大な花見をした秀吉は体調を崩した。彼は自分の死期を悟ると、幼い秀頼を残して逝かねばならない事を心配、徳川家康をはじめ、前田利家など諸大名を集め、くれぐれも秀頼を頼むと幾度も念を押して頼み、伏見城で生涯を閉じた。享年62。秀吉が薨去(こうきょ)すると、彼の遺言により、翌1599年に秀頼は大坂城に入る。
1599.02.14(慶長4.01.19) 徳川家康、問罪使を受ける。
家康が、大名家同士は公の承認を得ずして勝手に婚姻してはならない、という禁止事項を破って、伊達家、福島家、蜂須賀家、水野家、保科家と次々と婚姻関係を結んだ。また、家康は、細川忠興、島津義弘、増田長益と盛んに交流し、多数派工作とも取れる勢力拡大策を採っていた事も有って、それを問題視する前田利家や石田三成が、堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。しかし、家康は吉晴を追い返した。
1599.03.17 (慶長4.02.21) 織部、伏見で茶会を開く。客は奈良衆
1599.03.17 (慶長4.02.21) 上田重安(宗箇)、茶会を開く。
重安、午後の茶会を催し、松屋久良など奈良衆4人招待する。
1599.03.23 (慶長4.02.27) 古田織部、神谷宗湛宛に書状。
古田織部が留守中、神谷宗湛(かみや そうたん)が訪ねて来た。織部は留守中だった事を侘び、明日の朝、お茶を一つ差し上げたいが如何?と手紙を出す。
1599.03.24(慶長4.02.28) 古田織部の朝の茶会を開く。
客は神谷宗湛・毛利秀元・小早川秀包(こばやかわ ひでかね(=毛利秀包))である。その時、宗湛が織部の茶碗を視て、日記に「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と記している。これが織部の焼き物が「へうげもの」と呼ばれる様になった元である。
1599.04.27(慶長4.閏03.03) 前田利家、病没。享年62(満60)
1599.04.27(慶長4.閏03.03) 石田三成、襲撃される。
豊臣の七将(福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)の武断派の面々は、朝鮮出兵の蔚山城(うるさんじょう)での戦いの恩賞査定に不満を抱き、大阪屋敷に居た石田三成を討ち取ろうと襲撃する。襲撃の情報は事前に漏れ、三成は佐竹義宣の屋敷に逃げ込む。七将は逃げた三成を探すべく、大阪城下の諸大名の屋敷を探索、それを知った佐竹は三成を女輿に乗せて宇喜多秀家の屋敷に送った。最終的には3月4日に三成は大坂から伏見城内にある自邸に逃げ帰る事が出来た。伏見に居た徳川家康がこの争いを裁定した。家康は三成を退任させ佐和山城に蟄居させた。この裁定は事前に高台院(北政所・ねね)の耳にも入れており、高台院も了承した公正な裁きと認識されている。家康は三成を佐和山城までの護衛に結城秀康(→家康の次男)を当て、幕引きを図った。
別の説がある。それは、そもそも襲撃など無かった、と言う説である。三成に不満を抱いた武将達が、唐入りの失敗の責任を取って三成は切腹すべしと要求した、と言うもので、家康はそれを三成の隠居と言う形で収めた、という説である。
又、小説やドラマなどで、石田三成は襲撃されて徳川家康の屋敷に逃げ込んだというの話があるが、それは後世の創作である、と言われている。
1599.04.01 (慶長4.03.06) 織部、吉野で大花見挙行。
秀吉が薨去して半年後にして、また、利休が切腹してから2年後の命日に近い春の日、織部は、小堀政一(遠州)、金森可重(かなもり ありしげ/よししげ)、石川貞道、京衆、堺衆併せて30余人を引き連れ、吉野へ花見に繰り出した。その時荷い茶屋(にないぢゃや)に茶道具一式を担いで行き、「利休妄魂」の額を掲げて茶会を開いたと、言う。
1599.4.17(慶長4.03.22) 多門院日記に織部の吉野行が記される。
この日の条に「伏見より織部と言う茶の湯名人が来る」と多聞院日記に記録される。多門院日記は、興福寺塔頭の多聞院の僧侶が三代にわたって140年間書き綴った日記である。内容は多門院での業務日誌の様なもので、毎日の記録や畿内の様子などを日々書き留めている。
1599.07.14(慶長4.05.22) 古田織部、法諱(ほうき)「金甫」を授かる。
大徳寺111世・春屋宗園(しゅんおくそうえん)国師より法諱「金甫」の号を授かる。
古田重然と上田重安はほぼ同じ時期に大徳寺に参禅、春屋宗園の膝下(しっか)でその謦咳(けいがい)に接していた。春屋より織部に法諱を授けられた時期は、宗箇と同じ頃と思われる。
1599(慶長4.夏) 上田重安、法諱「宗箇」、道称「竹隠」を授かる。
上田重安、大徳寺三玄院の春屋宗園国師より法諱「宗箇」、道称「竹隠」を授かる。宗箇に与えられた春屋禅師の法諱授与書の日付には仲夏下浣(ちゅうかげかん)と有る。仲夏とは、初夏・仲夏・晩夏の内の真ん中の月を意味し、下浣は下旬の意味なので、仲夏下浣は旧暦5月下旬、即ち、新暦に直すと7月上旬の事になる。
1599.10.27(慶長4.09.09) 家康、大坂城に登城し、秀頼に重陽の節句の祝いを述べる。
この時、五奉行の内の増田長盛と長束正家の二人から、前田利長、浅野長政、大野治長、土方雄久の四名が家康暗殺を企てている、と密告があった。
1599.10.30(慶長4.09.12) 家康、石田三成の兄・石田正澄の屋敷に移る。
1599.11.15(慶長4.09.28) 家康、大坂城西の丸に移り、政務を執る。
石田三成が佐和山城に隠居すると、家康は留守居役として大坂城西の丸に入城した。家康が伏見城から大坂城に移ったので、それに伴って諸大名も大阪に移転、伏見城下は次第に寂れて行った。
1599.11.19(慶長4.10.02) 家康、浅野長政を隠居させ、武蔵国府中に蟄居させる。
1599.11.19(慶長4.10.02) 家康、大野治長を下総国の結城秀康に預ける。
1599.11.19(慶長4.10.02) 家康、土方雄久(ひじかたかつひさ/おひさ)を追放する。
家康は土方雄久を水戸の佐竹義宣の下に追放する。そして、前田利長に謀叛の疑いがありと討伐の動きに出る。利長は生母・芳春院を江戸に人質として差し出して事を収める。
1599.12.04(慶長4.10.17) 織部、伏見で茶会を開く。
1600.05.13(慶長5.04.01) 家康、上杉景勝の下へ問罪使を派遣。
会津の上杉景勝が神指城(こうざしじょう)を築城し、軍事力の増強を図っている事を知り、家康はそれを咎めた。謀反の心が無いのならば、上洛して釈明せよ、との内容である。上杉は重臣・直江兼続の書状(直江状)を以ってこれを拒否する
1600.07.12(慶長5.06.02) 徳川家康、関東の諸大名に対して会津征伐の号令を出す。
1600.07.26(慶長5.06.16) 家康、大坂城より出陣する。
1600.07.28(慶長5.06.18) 家康、伏見城を発つ。
上杉征伐の為に大坂城を出発した家康、途中伏見城に寄った。その城は家康の家臣・鳥居元忠が守っていた。家康は、自分が大坂を留守にして空白地帯を作れば、徳川に反感を持つ者達が動き出すと考えた。その場合、徳川諸城に攻撃が加えられると予測した。伏見城は真っ先にその血祭りにあげられると見て、それに抗する事が出来る様に、会津征伐に率(ひき)いていた兵を割いて伏見に置こうとしたが、元忠はそれを断った。彼は玉砕の覚悟を示した。18日、家康、伏見城を後にする。
1600.06.25(慶長5.07.17) 大阪の三奉行、家康に対する13ヶ条の弾劾状を発布。
前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、大坂城に居た徳川方の留守居役を追放した。
1600.08.27(慶長5.07.19) 毛利輝元、大坂城に入城
1600.08.27~09.08(慶長5.07.19~08.01) 伏見城を攻囲。伏見城落城。城内将兵全滅す。
徳川軍伏見城守将・鳥居元忠・戦力2,300 対 西軍・宇喜多秀家他諸将・40,000
はじめ、鳥居方は城から打って出て前田玄以や長束正家などの家を放火して回ったが、直ぐに籠城戦に戻った。寡兵よく持ち堪(こた)え、10日以上西軍を足止めさせ、東に向かっている家康軍の背後を守った。
1600.08.27~10.12(慶長5.07.19~09.06) 丹後田辺城(東軍)、西軍に攻められる。
丹後田辺城は細川幽斎(=藤孝)と細川幸隆(藤孝三男)が守っていた。当主・忠興は家康に随って上杉討伐に従軍中であり、主力軍は出払って留守だった。徳川家康が東征している間の空白時に徳川勢力を一掃しようと、西軍の攻撃は伏見城と時を同じくして、徳川派と見られる細川への攻撃が始まった。細川方兵力500。対する西軍15,000。圧倒的な兵力差があり、落城寸前まで追い詰められた。
攻城側には小野木重次、前田茂勝、織田信包(おだ のぶかね)はじめ長谷川宗仁など15を超える武将が参陣、中には古田織部が後見人を務めた事も有る中川秀政の弟・秀成も加わっていた。しかし、兵力は西軍が圧倒していたものの、細川幽斎を歌の師とする弟子達が攻め手の武将の中に大勢おり、攻撃の矛先は鈍(にぶ)り勝ちであった。幽斎は死を覚悟して『古今集証明状』を八条宮智仁(としひと)親王へ贈り、『源氏抄』『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。幽斎は古今伝授を持つ唯一の人物であり、幽斎が死んでしまえば古今伝授が途絶え、日本の文化は計り知れない痛手を蒙ると、八条宮や後陽成天皇も動き出し、幽斎救出に大納言三条西実条(さんじょにし さねえだ)と中納言中院通勝(なかのいん みちかつ)、中将烏丸光弘(からすまる みつひろ)を勅使として遣わし、勅命により講和がなされた。幽斎と幸隆はこれに随い、9月13日に城を明け渡し敵城の丹波亀山城に移った。
関ケ原の合戦はこの2日後の9月15日に行われた。田辺城を攻囲していた15,000の兵は関ケ原に間に合わず、結局、その分、関ケ原に投入すべき西軍の兵力減に繋がった。
1600.09.01(慶長5.07.24) 家康、伏見からの急使により、石田三成挙兵を知る。
家康が下野国小山に進軍した時、伏見城が三成方に襲われたと言う急使が着き、三成挙兵を知った。家康は小山で進軍を止め直ちに会津征伐を中止、小山評定を開く。大坂方に人質を差し出している武将達が多く、動揺が広がった。が、一つにまとまり徳川軍として一致して行動することになる。
1600.09.12(慶長5.08.05) 家康、小山から江戸城に戻る。
1600.10.01(慶長5.08.24) 徳川秀忠、宇都宮城を発ち、信州上田城に向かう。
1600.10.03(慶長5.08.26) 安濃津城と松坂城、西軍の攻撃を受ける。
伊勢の津城が九鬼大隅守嘉隆に襲われたとの知らせに急遽古田重勝が家康より先発して西進、津城に籠城している富田信高に兵500騎を分けてこれを援け、九鬼軍と交戦。ところが古田重勝の居城・松坂城も西軍に押さえられてしまった。重勝は松坂城を何とか奪還したが、直ぐに取り返されてしまい、城を放棄して関ケ原に駆けつける。
(古田重勝は織部の従兄弟。しばしば重勝と重然(織部)と混同される)
(九鬼家では父は西軍、子の守隆は東軍に分かれて戦った。)
1600.10.07(慶長5.09.01) 家康、江戸を出立。
1600.10.18(慶長5.09.12) 細川幽斎、勅命により丹後田辺城を明け渡す。
1600.10.20(慶長5.09.14) 家康、赤坂(現岐阜県大垣市赤坂)に着陣。
1600.10.21(慶長5.09.15) 関ケ原の戦い
両軍主力が関ケ原で相まみえ、午前10時頃から合戦の火蓋が切られ、お昼ごろには勝負が決着した。関ケ原の戦いは小説で、映画で、ドラマで数多く描かれているが、未だに正確な詳細は把握できていないそうである。
関ケ原の戦いで古田織部は東軍に与(くみ)する。関ケ原の功で、織部、大和相良郡と山野辺郡7,000石加増。都合1万石になる。
なお、従兄弟の重勝は関ケ原の功で2万石加増され、5万5千石になる。
上田宗箇、西軍に属し関ケ原で敗北。所領没収。剃髪。蜂須賀家に招かれ阿波に移住。客将の格で遇される。宗箇は蜂須賀家政の頼みで、徳島城の庭を造園している。
余談 「凝碧(ぎょうへき)」について
織部が造った燕庵(えんなん)という茶室は有名です。ところが伏見屋敷に造ったと言う茶亭「凝碧亭」は、殆ど知られていません。婆も、このブログを書くに当たって調べて行く内に知りました。織部が緑釉の焼き物を好んだので「碧(みどり)に凝(こ)る」という事から付けられた名前なのかなと、想像しておりましたけれど、「凝碧」という名前にはもう一つ別のエピソードがある事を思い出しました。
昔、唐の時代、玄宗皇帝の御代に、「凝碧池」という名前の池が、宮城内に有りました。ところが、安禄山と言う謀叛人が現れて、玄宗皇帝を追放してしまいました。安禄山は、凝碧池の畔(ほとり)に部下を集めて宴会を開きました。嫌がる宮廷の楽士達が集められ、飲めや歌への大騒ぎをします。
鹿柴(ろくさい)の詩『空山人を見ず ただ人語の響きを聞く』で有名な詩人・王維は、文官として朝廷に仕えていましたが、安禄山の兵によって捕えられ、菩提寺に監禁されてしまいました。王維を訪ねて来た親友・裴廸(はいてき)が、安禄山によって酷い目に遭っている旧臣達の消息を伝えます。王維の知人の中には、入牢した者、流刑になった者、追放された者、処刑された者、能あるが故に安禄山の下で無理矢理働かされている者などが居ました。王維はその有様を知り、嘆き悲しんで詩を詠み、裴廸に自分の心を示します。
菩提寺禁裴廸来相看説 逆賊凝碧池上作音楽
供奉人等擧聲便一時涙 下私成口號誦示裴廸
萬戸傷心生野煙
百官何日再朝天
秋槐葉落空宮裏
凝碧池頭奏管弦 王維
菩提寺(ぼだいじ)に禁ぜられ、裴廸(はいてき)来りて相看て説く
逆賊等、凝碧池上にて音楽を作(な)し、
供奉の人など、声を挙げて便(すなわち)一時に涙下すと。
私(ひそ)かに口号(こうごう)を成し、誦(ず)して裴廸(はいてき)に示す
万戸傷心 野煙を生ず
百官何(いずれ)の日にか再び天に朝せん
秋槐(しゅうかい) 葉は落つ空宮の裏
凝碧池頭 管弦を奏す (読み下し文は目加田誠博士を引用)
(ずいよう超意訳) 「数万の家々が戦火に遭い、焼け野原に煙が上がっている。宮廷に仕えていた百官は何時の日にか再び朝廷に戻ることができるのだろうか。秋、槐(えんじゅ)の樹は葉を落とし、誰も居ない内裏の庭に降り積もっている。凝碧の池の畔で謀叛人達が宴会を開いて、音楽を奏でさせている・・・
注:秋槐(しゅうかい)は、秋の季節を迎えた槐(えんじゅ)の樹の意。槐は宮廷の庭に3本が植わっており、朝廷の最高位の三公がそれに向かって座りました。三公というのは、大臣の中で最も位の高い三人を指しています。時代によって呼び名が違っていますが、丞相や大司馬、御史大夫などの事を言います。この位階の者を槐位(かいい)とも言い、日本では太政大臣・左大臣・右大臣が三公(槐位)に当たります。源実朝の「金槐集」は実朝が右大臣だったからこの名前が付いています。
と、まあ、凝碧池にはこのような逸話があります。
地名の中には、特別の出来事を想起する場所が幾つかあります。例えば中国で言えば、香炉峰、赤壁、梁山泊(りょうざんぱく)などなどです。凝碧池もその一つです。
1591.04.06(天正19.02.13)、織部は細川三斎と共に、蟄居を命ぜられて淀川を下る利休を見送りました。また、織部切腹に至る約10ヵ月前の1614年(慶長19年8月)、方広寺の鐘の銘文を書いた文英清韓(ぶんえいせいかん)を、茶に招いて持て成しました。この様に敗者に心を寄せ弱者に温かいまなざしを注ぐという行動は、荒廃した宮廷を悲しんで詠んだ王維の心と通ずる所が有ります。
利休見送りや清韓の茶の持て成しに見る様に、織部は権力を恐れない反骨精神の持ち主でもあります。そう考えて来ると、織部は或る思いを込めて自分の茶亭に「凝碧」の名を付けたのではないかと疑ってしまうのです。事実の積み重ねがどうであれ、織部の中にある反抗心の塊が、ブラックホールのように過酷な運命を吸い寄せているように思えてなりません。権力は反抗心を嫌いますから、死への帰結も有りかなと・・・
尤も織部はそんな事など意に介せず、ごく大らかに碧釉(みどりゆう)にのめり込んでいる自分を指して、呵々大笑してこの名を付けたのかも知れません。
何しろ、太閤が亡くなっても、前田利家が亡くなっても、石田三成が暗殺されそうになっても、風雲急を告げる関ケ原直前でさえ、茶会を盛んに開いているのですから。ノー天気というか、危機感まるで無し、と言えます。それとも茶会が情報交換の場になっていて、風雲急を告げる時だったからこそ頻繁に茶会を開いたのでしょうか。
この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。
『よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇』展 広島県立美術館
『古田織部三畳大目茶室の研究』 広島大学大学院研究科 坂本尚子
『寛政重修諸家譜』 堀田正教・国立国会図書館デジタルコレクション
『CiNii Research国立情報学研究所 豊臣七将の石田三成襲撃事件:歴史認識生成メカニズとその陥穽』
別府大学・別府大学短期大学部 『豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動である」』 白峰 旬
『考察・関ケ原の合戦 其の四十三「七将襲撃事件」とは何だったのか?②』 古上織 蛍
『戦国武将列伝Ω 古田織部~茶人も極め天下一の茶人になった武将』
『利休が自らプロデュースした茶碗、「美しさ」が取り除かれている』末永幸歩
『[学芸員はツライよ]「第1回 古田織部と吉野の花見」』 中東洋行
『名刀幻想辞典 上田宗箇』
『和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-CASIO』
この外に『ウィキペディア』『刀剣ワールド』『コトバンク』『地図』『地域の出している情報』『観光案内』などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。 ありがとうございました。