式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

181 二人織部(3) 内通の嫌疑

二人織部古田重然と古田重勝。「古田重 」までは名前が同じですが、その人生は違っています。古田織部は大坂方に内通した嫌疑で捕えられ、切腹を命ぜられました。

内通と言うからには、そこには必ず人との接触が有る筈です。

「類は友を呼ぶ」「友達を見ればその人が分かる」などなど、人に関する諺が数多くあります。関ケ原から大坂の陣までの期間限定で、織部の周りにいた人々から彼の属性を探ってみたいと思います。

 

織部の周囲

織部には弟子が沢山いました。

下記に記載した人達は、織部の弟子で、それなりに茶人として名を成しております。ここでは、関ケ原合戦の時と大坂冬の陣・夏の陣の時に、東軍か西軍かどちらに属していたかを中心にまとめています。

職業は、大名・武将・武士・僧侶・公家・町衆などの頭文字をもって表しています。大名ならば、武将なら、武士なら、公家なと言う具合いです。

関ケ原合戦で、東軍で戦ったら、西軍なら西、幼少で出陣していなかったら、その時既に死亡して居たら、不明と不出陣の場合は。戦闘中に西軍から東軍へ寝返りすると東返、戦闘中に東軍から西軍へ寝返りすれば西返。出陣しても戦闘をしなかった場合は、旗色を( )で囲っています。例えば(西)と言う風です。

冬陣は大坂冬の陣の略です。東西陣営の区別は関ケ原の合戦の表記に準じます。

夏陣は大坂夏の陣の略です。東西陣営の区別は関ケ原の合戦の表記に準じます。

        職 関原 冬陣 夏陣   備考

浅野幸長    大    東   東  東   『茶道長問織答抄』著

安楽庵策伝   僧      -         -       -        落語の祖。

石川貞通       将    西   西  西 

板倉重宗       大    東   東       東  京都所司代

猪子一時          将    東   東  東    秀忠お伽衆

上田重安(宗箇) 大    西       東        東    上田宗箇流流祖

大久保忠隣    大    東     -  -  改易故に大坂出陣不能

大久保藤十郎   武    東       東   東  大久保長安嫡男・切腹

大野治長     大    東     西   西       穏健派  大坂落城時自害

大野治房     武    西     西  西  主戦派 大阪落城時逃亡

岡部宣勝     大    幼     東  東   織部流第一の門弟

金森可重            大     東     東  東   嫡男に金森宗和

江月宗玩    僧   -    -  -   孤蓬庵開山

小早川秀秋   大   東返   亡  亡   肝硬変糖尿病享年21

小堀政一(遠州)   大    東     東  東         遠州流祖 きれいさび

近衛信尋            公      -        -       -     後陽成天皇第四皇子 

佐久間勝之   大  東     東  東  

佐久間実勝   武  東  東  東   呼称将監 宗可流祖

佐竹義宣    大  東     東  東     石田三成上杉景勝と親交有

島津義弘    大  西  -  -     大坂の陣は不参加 

清水道閑    町       -     -  -      石州流清水派祖

常胤法親王   僧    -   -     -     天台座主正親町天皇猶子

角倉素庵            町  -   -  -       京の豪商・書道角倉流祖

大文字屋宗味  町  -   -     -     京の豪商

伊達政宗    大       -         東  東   関時慶長出羽合戦

徳川秀忠    大        東   東  東   将軍

永井尚政    大        東        東   東  永井信濃守屋敷跡が信濃町

中野笑雲     ?         -   -  -   柳営茶道頭 御数寄屋頭

南部利直    大        -   東  東   関時慶長出羽合戦

服部道巴     ?         -   -  -   織部高弟   加藤清正茶堂

原田宗馭    武  -    -  -   柳営茶道 御数寄屋頭

針屋宗春    町  -    -  -  「宗春翁茶道聞書」針屋金襴

広橋兼勝    公  -    -  -    従一位 武家伝奏 歌人

船越永景    将  幼    幼  幼     武将・江戸時代旗本

本阿弥光悦   町  -    -  -    芸術家 刀研師

本阿弥光益   町  -    -  -    芸術家 刀研師 灰屋紹益父

本願寺教如  僧  -   -  -    親東派 織部茶会に8回も正客

松屋久好    町       -     -  -    奈良豪商漆屋 松屋会記

毛利秀元    大  (西)    (西)   (西)  宰相殿空弁当(出陣不戦闘)

 

目算外れ

関ケ原合戦から大坂城落城、そして織部切腹に至るまでの期間限定で、織部と触れ合った人達を、茶会記や書状から数えてみると、実に多士済々です。

「内通」というキーワードを念頭に、交際範囲が西軍側に偏っているかと思い、それを仮定してリストアップしましたら、むしろ東軍側の人が多いので、目論見が外れてしまいました。

特に頻繁に交流していた人の名を挙げれば、上田重安(宗箇)、浅野幸長毛利秀元島津義弘などがいます。

 この四人に就いて、少し見て行きたいと思います。

 

上田重安(=宗箇(そうこ))

上田重安は丹羽長秀に仕えていました。本能寺の変の時は丁度主君・丹羽長秀大坂城の守将の時でした。重安は大阪城千貫櫓の守りに就いていた津田信澄を単独攻撃して討ち取ってしまいました。津田信澄は信長の甥です。信澄の正室明智光秀の娘。光秀に呼応して大坂城内から信澄が謀反の狼煙を上げたら、という懸念がありました。

この様に重安は猛将の聞こえが高かったのですが、丹羽長秀の跡を長重が継ぐと、主家は123万石から15万石に、更に4万石までに減らされてしまいました。此の大幅減封によって、家臣は殆ど失業してしまいました。勇者の誉れ高い重安も例外ではありません。失業した彼を秀吉が1万石で再雇用します。

上田重安は関ケ原合戦では丹羽長重の城に入り西軍として戦いましたが、敗戦。その後、蜂須賀家の客将になり、四国に移り住みました。重安の正室北政所・ねね(高台院)の従弟の娘で、紀州藩主・浅野長政・幸長と親戚関係にあり、その縁で、宗箇は紀州藩に仕える様になりました。

宗箇(重安)は千利休古田織部茶の湯を学んでいます。そして、彼の主君・浅野幸長(あさの よしなが)も又茶人です。幸長は織部に熱心に指導を仰ぎ、宗箇を助手にして『茶道長問織答抄(さどう ちょうもん しょくとう しょう)』と言う本を著(あらわ)しました。長問とは幸い、織答は部がえる、と言う意味です。

織部と宗箇は、非常に緊密な師弟関係を結んでおります。宗箇は関ケ原では西軍に所属し、大坂の陣では東軍に与(くみ)しています。彼は西軍から東軍に鞍替えしていますので、ここに織部との接触を通して東軍の情報を西軍に流したという疑惑が生じるかも知れません。ただ、常識的に言って、西軍を去った者が、わざわざ東軍の情報を西軍に流す様な事は有り得ないので、織部-宗箇-大坂方という情報ラインは無かったと婆は考えています。

 

浅野幸長 (あさの よしなが)(1576‐1613)

浅野長勝には子供がいませんでした。そこで、親戚の杉原家利から二人の女の子を養女に貰いました。姉妹は「ねね」「やや」と言いました。「ねね」は親の反対を押し切って木下藤吉郎と言う足軽と結婚してしまいました。「やや」は婿養子をとりました。その婿養子が浅野長政です。ややと長政の間に生まれたのが、幸長・長晟・長重の3人の男子と3人の娘です。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)浅野長政は、ねねとややを通して義理の兄弟になります。

幸長の初陣は15歳で小田原征伐の時です。文禄の役では朝鮮にも渡海、加藤清正と共に朝鮮半島各地を転戦しました。帰国して関白秀次事件に首を突っ込み、秀次を弁護した為に秀吉の怒りを買い、能登流罪になりました。1年後に許されて復帰、慶長の役で再び渡海します。しかし、蔚山(うるさんじょう)で苦戦。兵糧攻めにあい、生死の淵に追い込まれました。やがて、秀吉薨去(こうきょ)により朝鮮半島から帰国。文治派の石田三成と、渡海して辛酸を舐めて来た武闘派との間に亀裂が入り、鋭く対立する様になります。

幸長を加えて七将と言われる福島正則加藤清正池田輝政細川忠興加藤嘉明黒田長政石田三成襲撃事件を起こします。

関ケ原の戦いの時、浅野長政・幸長父子徳川に与して東軍で戦います。やがて、父・長政が亡くなり、1613年(慶長8年)幸長も病死してしまいました。享年38でした。

1615年織部の家老・木村宗喜による京都放火未遂事件が起き、宗喜は板倉勝重に捕縛されます。

この件で織部は内通の嫌疑を掛けられましたが、もし、内通を織部-幸長ラインで疑われたとしたら、それは全くの見当違いです。豊臣秀吉と縁浅からぬ浅野幸長ですが、何しろ、大坂城落城の2年前に既に浅野幸長は亡くなっていたのですから。

 

毛利秀元(1579‐1650)

毛利秀元の父は穂井田元清(ほいだ もときよ)と言って毛利元就の四男です。

毛利宗家の三代目・輝元に子供がなかったので、輝元は秀元を養子にとります。

1592年(文禄4年)秀元が14歳の時、文禄の役に従軍、これが彼の初陣になります。

1597年(慶長2年)慶長の役の時、秀元は病気の輝元に代わって3万の毛利軍を率いて渡海。14万を擁する日本軍は釜山に上陸、右軍の総大将は弱冠19歳の秀元、加藤清正黒田長政鍋島直茂など歴戦の猛将達を指揮して慶尚道から侵攻、漢城(ソウル)に迫ります。が、秀吉の死と共に戦は終結し、撤収します。

秀元は、宗家・輝元に男子(秀就(ひでなり))が生まれたのを機に、毛利家の跡継ぎを辞し、別家を立てます。秀元は豊臣秀長の養女と結婚しました。

1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いの時、毛利輝元は西軍の総大将になり大坂城に入ります。当然の様に秀元も西軍になり、関ケ原の現場に出陣し、南宮山に陣取りますが・・・補佐役の吉川広家(きっかわ ひろいえ)は西軍が敗けると予測。広家は事前に徳川方と協議を行い、西軍を装って出陣するが戦わないから、東軍が勝った暁には毛利の所領を安堵すると密約を交わします。南宮山の麓に陣取った吉川広家、頑として動かないので山の上に居た秀元は下に降りられず、本戦が始まっても動けません。大坂方の使者が督促に来ましたが、秀元は「只今兵に弁当をつかわしている」と誤魔化して時間を稼ぎ、結局戦いませんでした。(宰相殿の空弁当)。大坂城にいた毛利輝元も敗戦を知って戦わずして退去しました。毛利は徳川との約束を守りましたが、家康は毛利を大幅減封しました。

戦後、秀元は家康の養女と再婚、大坂の陣で今度は東軍に属しました。しかし、関ケ原でそうであったように、毛利は両面作戦を密かに採り、内藤元盛(変名して佐野道可(元盛実母が輝元の叔母))に軍資金と兵糧を与えて大坂城へ潜入させます。大阪城落城後、城から逃亡した元盛は毛利一門である事が徳川に露見、京都で捕縛されました。

輝元は、我が藩と関係ないと申し開きの為、元盛の嫡男と次男を家康の下に遣わし、父が豊臣家に恩義を感じて勝手に大坂方に行ったので我等とは関係ないと釈明させます。家康にそれを認めさせて毛利は事なきを得ましたが、元盛は切腹を命じられました。

徳川から更なる追求を恐れた輝元は、口封じに元盛の嫡男と次男も自刃させてしまいます。この大坂城潜入の特命を元盛に下したのは、輝元と秀元でした。

内藤元盛切腹したのが1615.06.17(慶長20年5月21日)です。

古田織部切腹したのが1615.07.06(慶長20年6月11日)です。

日付が接近しています。内藤元盛と似たような事件の構造が、織部にもあったのでしょうか。織部の沈黙の硬さは何を意味しているのか、ますます闇が深くなりそうです。

 

島津義弘(1533-1611)

島津家中興の祖・島津貴久は、義久・義弘・歳久・家久という4人の男子に恵まれました。

4人の男子はそれぞれ優れた特質を持ち、島津の屋台骨を結束して支えて行くようになります。彼等は最強の軍団を作り、九州南端の薩摩から北上し、九州全域に版図を広げる勢いになりました。島津の拡大路線を止めさせる為に、秀吉は20~27万とも言われる大軍を率いて九州に下向、島津はそれに抗し切れず、秀吉の軍門に下ります。

義弘は猛将の中の猛将と言われています。彼は、文禄・慶長の役で「鬼石曼子(ぐいしーまんず)(鬼島津)」と呼ばれて敵に恐れられました。関ケ原の戦いの時、「島津の退(の)口」と言われる壮絶な退却戦を敢行したのも、彼です。

一方文化人の顔も持ち、学問や茶の湯にも熱心でした。明の医師・許儀後(きょぎご)について医術も習っていました。

義弘は、朝鮮に出陣した際、多くの朝鮮の陶工達を連行しました。義弘は自身の茶の湯の嗜好と共に藩の殖産興業の目的もあり、彼等に焼き物作りを始めさせます。義弘は師の織部へ出来上がった作品を送り、指導を仰ぎます。この様な繋がりで、織部と義久の間にはかなり密な交流が有りました。

関ケ原の時、島津義弘は西側に参陣しています。

ただ、島津の実力からすれば申し訳程度の僅か300名位の手勢でした。前哨戦の伏見城攻撃で消耗していたと言う事情もありまして、とても島津の主力とは言えない軍勢でした。そして、彼は前述した「島津の退き口」と言われる壮絶な戦場離脱戦を展開したのです。

3万とも言われる主力を温存したまま家康を威嚇する様にして島津は交渉し、関ケ原は義弘個人の単独参加であり島津宗家は関りが無かったと言う事になり、その罪は不問にされて本領安堵されました。その後、内政事情もあって薩摩は西側に立っては居たものの、鳴りを潜めておりました。

 

古田織部は、関ケ原の戦いの後も何事も無かったように大坂城に出入りし、茶会を開いています。勿論秀忠の茶の師匠でもありますので、徳川にも出入りしています。両陣営にいい顔をして、ひょいひょいと東西を行き来する織部を、家康はかなり注視していたと思います。

薩摩の連歌師如玄と、織部の家老・木村宗喜と結びついていたと言われており、如玄が薩摩の意思をどの程度奉じていたか、気になります。

 

夏の陣の時、大阪側に立って戦った者の中に木村宗明(木村重成の甥・前田利常と豊臣秀頼の家臣)という武士がいます。織部の家老・木村宗喜とこの宗明の間に関係有るのか無いのか引っ掛かります。単なる名前の偶然か、縁戚関係か、それとも大徳寺関係の茶人に付与される「宗」の一字繋がりの関係か、分かりません。

また、夏の陣に大坂方で戦った島津義弘は、「島津の退き口」をやってのけたあの島津義弘ではなく、播磨国布施郷(現兵庫県たつの市)を本拠としていた播磨島津島津義弘です。薩摩島津は遅刻して夏の陣に間に合わず、戦場に顔を出していません。

 

総じて戦国時代の大名は権謀術数に長(た)けております。そうやって生き抜いていきました。中でも毛利も薩摩も謀(はかりごと)の多い国です。一筋縄ではいきません。義弘の医術の師でもある明の医師・許儀後が、秀吉の唐入りの意図を事前に知り、その知らせを密かに母国に知らせた時も、島津は知らぬ顔の半兵衛を決め込みました。島津は明と手を結び、秀吉を潰しにかかったのではないか、という噂もあります。秀吉は許儀後を処刑しようとしましたが、家康の執り成しにより救われました。

連歌師と言う仕事は、和歌や古典や各地の情勢に明るく無ければ務まりません。そこに、単なる文化人としての職業ではなく、情報屋としての裏稼業の側面がありました。要するにスパイです。この頃、連歌師は、大名からの連歌会のお座敷の誘いが盛んにかかっていました。

 

 

余談  強制連行

文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮の人々にどれだけ酷い事をしたのか、聞くだけでも恐ろしい事ですが、耳を塞ぎ、目を背ける事があってはなりません。しっかりと心に留めておかなければならない事実です。

豊臣秀吉は明を征服する為に、およそ16万の兵をもって経由地の朝鮮に侵攻しました。

日本軍は戦国の世を経てきており戦には百戦錬磨の兵達を擁しておりました。しかも当時の日本はヨーロッパを遥かに凌ぐ世界最大の鉄砲保有国でした。攻城戦も日常的に実戦で経験を積んでおり、最強の軍事国家だったのです。その日本が朝鮮を侵略。朝鮮はなす術もなく敗退を重ねました。

侍達は戦果を数える為に、殺した人の鼻を削ぎ落としました。首を取るのは嵩があって大変なのでそうしたのです。そうして集めた鼻を塩漬けにして船に積んで秀吉に送りました。これで、何人殺したか分かります。戦功の証(あかし)になりました。秀吉は鼻の塩漬けの樽がどんどん増えるのに満足し、方広寺の近くに塚を築いて「供養」しました。

戦争には陣地を作ったり、荷物を運んだり、様々な陣役が有ります。それらに日本の農民が駆り出されたので田畑の仕事が手薄になりました。彼等の代わりに朝鮮の人々を捕虜にして日本に送り、奴隷として使役しました。労働力にもならない様な人間は奴隷として外国に売り飛ばしました。捕虜で「値打ち」のあったのはまず、朱子学者でした。彼等を日本人は尊敬しました。次に陶工でした。陶工は役に立つ捕虜でした。大名達は競って陶工達を生け捕りにしました。技術を持った者は歓迎されました。日本に連れてこられた陶工達は、囲われた地域に押し込められ、強制的に焼き物を作らされました。お蔭で、日本の焼き物の質は格段に上がりました。日本の焼き物界を大いに刺激し、その後の発展に多大な貢献をしましたが、彼等の日本での暮らしは食うに困る程の極貧の中にありました。

 

 

 

  この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

古田織部の茶道 桑田忠親

没後400年 古田織部展 編集NHKプロモーション

秀吉・織部と上田宗箇 編集広島県立美術館 秀吉・織部と上田宗箇展実行委員会

日韓文化交流基金 文禄・慶長の役(壬辰倭乱) 六反田豊/田代和生吉田光男・伊藤幸司・橋本雄・米谷均・北島万次

九州の朝鮮陶工たち 故郷忘じがたく候

島津義弘茶の湯と茶陶製作   深港恭子

BTG「大陸西遊記豊臣秀吉朝鮮出兵と倭城

和楽 連歌師とは何者? 連歌会とはどんな場? 戦国時代の不思議な職業の秘密とは?

日本初の歴史戦国ポータルサイト BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

この外に「ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「戦国武将列伝wiki」「刀剣ワールド」「名刀幻想辞典 毛利秀元」「戦国ヒストリー」「漢字検索」

などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。ありがとうございます。