式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

182 二人織部(4) 戦国残照

織部内通の件に関して、もう一つ気になることが有ります。それは、織部の古田家と重勝流古田家の間に何かしらの交流があったのではないか、と言う疑念です。何度も申し上げました様に、重勝流古田は東西に分かれて戦っていますので、どうしてもその点が気になってしまうのです。前号では、織部の弟子を中心に、東西勢力にどう分布しているか的な視点で考えてみましたが、今回は、同族と思われる二つの古田の関わり合いを探ってみます。尤も、婆の手元にそれに関する資料は乏しく、コアになる事実はブログ№179 「二人織部(1) 重勝のこと」の中の基本情報を基にして、事実と空想を交えながら婆の勝手流推理物語になります。

 

武士の家では、男子を殊のほか重要視しております。今ならば、女性蔑視だと抗議を受けるでしょう。が、待って下さい。よくよく考えてみれば、逆にこれは男子軽視の表れなのです。

男子は戦闘要員、消耗品扱いです。嗣子だけは大切に育てますが、他の男子は出家させるか養子に出します。兄弟間争いを無くす為です。もし、嗣子が病死や戦死をした場合、寺にプールしておいた男子を還俗させて、その後釜を補充すればよい。これは家を存続させる為の仕組みです。家が絶えてしまえば、一族郎党端女(はしため)に至るまで失業してしまうのですから、何としても跡継ぎが必要でした。ですから殿様は戦争に勝つ事、繁殖の役目を果たす事、つまり種牡馬(しゅぼば(→種馬))である事が最大の仕事でした。 

馬上から凛冽な声を放って「掛かれぇーっ!」と命ずる漢(おとこ)の、何と凛々しいことか。80過ぎた婆でさえ惚れてしまいます。でもね、本当を言えば、殿様なんて成るもんじゃありません。これほど「きつい」「きたない」「きけん」の3Kが揃っている職業って、外には有りません。ブログ№136の「武士の生死報告書」で申し述べました様に、何しろ武士と言う職業の致死率は37.7%です。戦になれば殿様は真っ先に首を狙われます。しかも、種牡馬(しゅぼば)の勤めもあります。側室を沢山持てると言って頭がお花畑になるようでは、立派な子孫を残す種牡馬になるのは難しいでしょう。平和時ならともかく下剋上の世では、頭に蝶々が舞っている様な殿様は、隣国に潰されるか、下剋上に遭うか、讒訴に遭い左遷されるか、「上様」から切腹を命ぜられるか、いずれ碌な目にあいません。不行跡・統治未熟なら猶更です。殿様はつらいよ、です。

 

戦国のこの殺伐とした風潮に逆らう一人の大名がおりました。彼の名を古田重治と言います。

彼は重勝流古田三兄弟の末弟で、石見国浜田藩の初代藩主になった人物です。その稀有(けう)な生き方に家康は大いに感服し、今の世で稀に見る人物よと誉めそやしました。彼は地位も名誉も城も財産も全てのしがらみを放棄して、我が子へでは無く、兄の重勝の遺児・重恒に3代目を譲り、江戸市中でひっそりと暮らして息を引き取った、と聞きます。

彼は茶人という名の席に列していません。けれど、家督を甥の重恒に譲った時、兄重勝から受け継いだ茶道具を全て目録に書き出して引き渡したそうです。これで、重治が茶の湯を嗜んでいたことが分かります。「人間元来無一物」「茶禅一味」と言って禅寺に参禅しながらも、世俗に執着していた武野紹鴎千利休の様な茶の巨匠達に、この話を言って聞かせたい気がします。

 

桐一葉、落ちて天下の秋を知る、とか。ここで、乱世の夕暮れに映えた一人の大名を、彼の生い立ちから物語風に紹介したいと思います。

 

これまでの経緯

古田重治重勝流古田三兄弟の末弟です。彼の長兄・重勝と次兄・重忠については、ブログ№179 の「二人織部(1) 重勝の事」と、同180の「二人織部(2) 関ケ原の戦い」で既に述べております。これらを今回の項につなげる為に、彼等の今までを掻い摘んで振り返ってみます。

 

古田兵部少輔重勝(ふるた ひょうぶしょうゆう しげかつ)文禄の役など数々の戦績を重ねておりました。その頃、関白秀吉は隠居して太閤になっており、関白職を豊臣秀次が継いでいました。ところが、秀吉側室淀殿秀頼を出産。秀次が切腹を命ぜられてしまいます。所謂(いわゆる)関白秀次事件です。この事件に連座した松坂藩の服部一忠切腹を命ぜられてしまいます。重勝は、空白になった松坂城に入る様にとの太閤の仰せを受け、松坂藩の藩主になります。

慶長の役の最中、太閤が薨去(こうきょ)。残された秀頼の政治体制は盤石ではなく、徳川家康の台頭と共に風雲急を告げる様になりました。何時、何が起こる分からない時代の闇に、重勝に後継ぎがいない事が重大な問題になってきました。家臣一同が心配する中、三人兄弟の内、真ん中の重忠が自分の長男を重勝の養子に出します。加えて、次男も、末弟の重治に養子に出します。これで万事安泰、と思った矢先、重勝に実子・希代丸(まれよまる)が生まれます。ここに豊臣家の秀次と秀頼の関係と全く同じ構図の相似形が形成されてしまいました。さて、困った!・・・と言う所までが、ブログ№179と180迄の話です。

 

武士は何よりも家が大事。自分の家を継ぐ者を必ず確保するのが武士の家の習いです。子供二人の内二人とも手放すなんて、絶対有り得ません。長男か次男のどちらか一人を養子に出し、残った一人を自分の後継ぎにするのが賢明なやり方です。と、前に申し上げました。そして、それをしない重忠の動きを怪しみました。

此の不自然な動きを、納得できる様な自然な動きに捕らえるにはどう考えたらよいか思案している内に、婆は自分の間違いに気付きました。養子に出したのは同時ではなく、時間差があったのではないか、と思い至ったのです。

 

豊臣と徳川に緊張が高まり、重勝流古田では跡継ぎ問題を解決して万一に備えなければならない必要に迫られていました。重忠は自分の長男を長兄・重勝のもとに養子に出しました。後継ぎが決まっていれば重勝が戦死しても家の存続が約束される筈です。それに、内勤の重忠は武功を上げて出世する手立てを余り持っていません。それ故、重忠にとってもこれは悪い話ではありません。兄の跡を我が子が継げれば、城持ち大名になる道が開けます。

1614年(慶長19年) 方広寺の鐘銘問題の失策と大坂城内の不穏の動きの責めを負わせて、秀頼片桐且元に隠居を命じて執政の任務を解きました。且元が手勢を引き連れて大坂城を去ると、織田長益はじめ織田信雄、織田信則、石川貞政など多くの豊臣の重臣達が大坂城を出て行きました。重忠も恐らく進退を迷ったと思います。織部の長男で秀頼に仕えていた同僚の古田重行(九郎八)や、頻繁に茶の湯大坂城に出入りしている織部と意見を交わして情勢分析をしたかもしれません。これは婆の想像です。こういう事があって、それが「内通」と疑われたのかも、と思うのです。想像の域を出ない話ですが、有り得るシーンです。

淀殿周辺で行われている統治の乱れから、彼は豊臣方の敗色を見通したでしょう。負けるかも知れないと分かっても、彼は豊臣方に従います。そして、重臣達が去っていく機会を捉えて、重忠は次男を手放して、弟の重治に託したのではないか・・・重忠は大坂城を枕に討死する覚悟だったと思われます。

なぜ兄の重勝ではなく、弟の重治に託したのか、と言いますと、重勝関ケ原の戦い6年後の1606年(慶長11年)に、江戸城石垣普請に携わっている最中に亡くなってしまっていました。享年47歳でした。

 

本家嫡嗣子と預かった養子と養子と実子と・・

長兄の重勝の所に子供が無い時に、重忠は自分の嫡男・重良(兵九郎)(寛政譜では重直)を重勝の所に養子に出しました。ほどなくして重勝の所に実子希代丸が生まれました。重勝に実子ができた以上、養子の重良(重直)は立場が弱くなってしまい、場合によっては排除されてしまう運命になるかもと、皆は気を揉みました。そうです。同じ城に嗣子は並び立たないのです。

その時、末弟の重治が重良を自分の屋敷に避難させました。重治はこの頃20代半ばになっていて結婚もしており(正室丹羽長秀の娘)、充分に重良の面倒を見る事が出来ました。これで納まりが良くなり、やれやれ良かった! と思ったのも束の間、今度は古田家の当主・重勝が亡くなってしまったのです。遺(のこ)された希代丸はわずか3歳、家督を継ぐには幼過ぎる年齢でした。

ここで大御所・徳川家康が乗り出し、松坂藩は重治が継ぐ様にと仰せ事を下します。

重治は家康に家督を継ぐに当たって一つの願いを申し出ます。

 

 兄・重勝の兵部少輔のポストは希代丸が継ぐべきものであるから、私は兵部少輔のポストを受け取れない。私・重治に対しては兵部少輔以外の役を賜りたい、と。

 

こうして重治は2代松坂藩主となり、従五位下大膳大夫となります。

重勝が背負っていた普請等の数々の労役を今度は重治が背負う様になりました。

駿府城の普請、名古屋城の普請、松平伯耆守改易による領地の接収と仕置、米子城の守衛と、東奔西走の日々が始まりました。

 

そんな生活を続けている重治に、重忠から養子の話が舞い込みました。

「次男重昌(平三郎)(寛政譜では重弘)をお前の養子に出したい」

豊臣政権の中枢部に近侍していた重忠は、大坂方の内部が一本化しておらず、浪人の寄せ集め部隊に過ぎない事を痛感していました。この状態では戦になれば討死するだろうと予測し、身辺整理を始めます。この時次男重昌は2歳。重昌が父と共に大坂城内に居たか、城下の屋敷に居たか、或いは伏見屋敷に居たか分かりません。けれど、いずれ豊臣・徳川決戦になった時、2歳の息子を落ち延びさせるのは非常に困難になります。それこそ、荒木村重の子・岩佐又兵衛の様な目に遭い兼ねません。危機は今。時機は逸してはならないのです。重治は事情を察し、重忠の申し出を受け、重昌を自分の養子にします。

こうして、気付いてみれば重治は、2代目松坂藩主になったものの、重勝の嫡子・希代丸(重恒)を預かり、長兄重勝が養子にした重良(重直)を預かり、そして、今また、自身も次兄の次男・重昌(重弘)を養子にする仕儀となりました。重治自身にも娘と左京と重延と言う実子も居たのです。

 

1615.06.03(慶長20/元和1.05.07) 大坂城が落城しました。

重忠は大坂方で戦い、城内で戦死しました。

重忠が戦死してしまい、織部との繋がりが分からなくなりました。重忠が日記や消息(便り)を残して置いてくれたらなぁと、それを思うと残念でなりません。

もし、重忠が息子を東軍の身内に養子に出す事について、織部に相談して居たら・・・

もし、織部の息子・重行と仲が良く、互いに情報を交換し合い、情勢分析をしていたりして密に関わっているとしたら・・・

もし、重忠が息子を養子に出す際、騒擾状態を創り出してそれに紛れて城から落ちる様に画策していたら・・・

もし・・・もし・・・と幾つもの仮定が浮かび上がっては消えて行きます。

織部は何も釈明せずに切腹してしまいました。

もし織部が、重勝流古田との接触を疑われ、それを以って「内通」を追求されたら、

「言い訳するのもばかばかしい」と、疑われた事こと自体を恥じて切腹してしまったのかもしれません。

或いは、重勝流古田に類が及ぶかも知れないと見て沈黙してしまったのかも知れません。

武士は死に臨んで必ずと言っていい程辞世の句を残します。織部はそれすらしなかった!

織部享年72。「見るべきものは見つ」とこの世に未練も無く、どうせ天寿を全うしてもあと数年の命、それならば今ここで死ぬのも悪くはないわい、とおさらばしてしまったのでしょうか。

それとも、織部は木村宗喜が伏見放火を企てた事を全く知らなかったけれども、部下の責任は上司の責任と思って死んでしまったのでしょうか。

もし、重忠と織部側が何らかの接触をしていたとしても、それと伏見放火未遂事件とは様相が違います。織部の茶堂・木村宗喜が織部の心中を忖度して、お先走って余計な事をしたとしても、一方は家族内の養子の話、一方は騒乱状態を作り出す話しです。全く背景が異なっています。

薩摩の連歌師如玄との関わり合いも気になります。薩摩以外のどこかに、織部が絶対に口に出せない様な黒幕が居たのかも知れません。

ここまで書いて来て、なお真実が掴めないのが悔しいです。

 

重治のこと

重治は大坂両度の陣で軍功があり、石見国(いわみのくに)の濱田(現島根県浜田市)の5万石と、丹波に5千石を賜り、合わせて5万5千石の大名になりました。重治は濱田の初代藩主になりました。

彼は濱田の亀山という海に面した小高い山に城を築きます。重治は攻城が得意の家臣と、守りが得意の家臣に競わせて城の縄張りをさせたとか。城下町を整え、ある程度形が整った頃、成人した希代丸に家督を譲りたいと、2代将軍・徳川秀忠に願い出ます。

願いは早速認められ、希代丸改め重恒(しげつね)は濱田藩の2代目藩主・古田兵部少輔重恒となります。

そして、重治自身は一切を捨てて濱田を離れ、江戸へ行き、そこでひっそりと生涯を閉じました。

 

後日談

重忠の嫡男で重勝の養子になっていた重良(重直)は、秀忠に召されてお小姓組として仕える事になり、上総国の内に500石の知行地を賜りました。

重忠の次男で重治の養子になった重昌(重弘)は、丹羽五郎座衛門尉酒井雅楽頭、酒井讃岐守の推薦を受け、15歳の時家光にお目通りし、御書院番になります。彼は古田騒動が起きた時、上使として濱田に赴き、目付・横目付などと共に領地収納と古田家臣達への仕置などの指揮を執り、城明け渡しなどを無事に済ませました。

 

重治の娘は従兄弟の重恒に嫁ぎました。

重治の嫡男・左京は後に古田騒動を起こします。

重治の次男・重延は侍の道を捨て蘭方の外科医になります。そして、甲府藩主・徳川綱重桜田屋敷に召されて、藩医となります。子孫は代々医者を家業とし、江戸城の奥医も輩出しています。

 

古田騒動

重勝の嫡嗣子・重恒は、叔父重治より家督を譲られ2代浜田藩主となりました。が、彼には中々子供が出来ませんでした。衆道(男色)だったそうです。後世の評判も余り芳しくありません。

古田左京は自分の孫の万吉を、重恒を廃してその後釜にと画策しますが、重恒に筒抜けになります。重恒は病を装って江戸城典医・玄春を呼び密かに老中と連絡を取ります。玄春も藩邸内の不穏な空気を感じ取り、事情を月番老中・阿部豊後守に伝えます。この報せは秘密裏に老中に謀られ、「その儀ならば成敗は心のままに」と言う許可がおります。重恒は許しを得ると左京一派の粛清を断行します。病室で殺害されたものが2名、江戸で処刑されたものが4名、濱田で処刑されたものが18名、室の津で捕え姫路城主の許可を得て船上で切腹させたものが7名おりました。

そして、阿部豊後守、阿部対馬守、松平伊豆守連署で全国に逃亡者の指名手配が行われました。古田騒動と呼ばれるこの一連の事件は、粛清を持って収束しました。

けれど、その後も相変わらず嗣子が生まれないまま重恒が亡くなってしまいましたので、古田家は嗣子無くして絶家となり、改易になってしまいました。

濱田藩初代藩主・重治が亡くなってから23年後の1648年(正保5年/慶安元年)の事です。

 

 

余談  古田大膳大夫

小瀬甫庵(おぜほあん)太閤記太閤記諸士之伝記(巻十八目録)』と言うのが有り、そこに『古田大膳大夫』と言うのが有ります。それをここに紹介します。

太閤記より抜粋

『秀吉公播州三木之城を打囲(うちかこみ)たまふ比(ころ)、古田吉左衛門と云(いい)し小将有しが、三木より夜討入し時討死してけり。其子古田兵部少輔、同大膳大夫とて二人有。慶長五年勢州松坂之城主として六万石を領しけり。其後兵部少輔身まかりぬ。三歳の孤(みなしご)有。前将軍家康公より大膳大夫兄之跡を相続し、則(すなわち)兵部少輔となのるべき旨御諚(むね  ごじょう)有りしかば、忝(かたじけなき)御事此上有るべしとも覚え奉(たてまつ)らず、孤を長(ひと)となし、父の名なれば兵部少輔となのらせ申度由(もうし たき よし)(のぞみ)けり。家康公今世(きんせい)まれなる者かなと感じ給ふ。孤漸(みなしご  ようよう)(ひと)となりしかば、父が茶の具不残目録(ちゃのぐ  のこらず  もくろく)を以(も)って元和六年の比(ころ)相渡し、勿論六万石之地も附与し、其身は物さびしきさまにて在江戸し侍(はべり)き。潔白なる事誰か此上に立たんや。稲葉内蔵人助・一柳監物なども兄之跡を名代として相続せしが、いづれも武市・古田に反しけり。

板倉豊後守評して曰(いわく)。大膳大夫甥に知行幷(ならびに)家財等渡し侍りし事、その身病弱なれば隠居し夜を静かに暮らすべき事にや。尤もなる裁判也と思いし処に、今亦(いままた)在江戸世にあかぬさま(→埒(らち)が明かず苦労している様子)に見えぬ。爰(ここ)に至りて大膳信(→大膳への信頼)や弥(いよいよ)高き事いと限りなく思はれにけり。さも有ぬべき評なりと、在同席分部(わけべ)左京亮・小倉忠右衛門・野々口彦助、此の評尤も深く有し旨感じあへりき。』

(ずいよう意訳)

秀吉公が播州三木城を包囲していた頃、田吉左衛門という少将がいましたが、三木城からの夜打ちに遭い討死してしまいました。古田吉左衛門の子に古田兵部少輔と同じく大膳大夫という二人が居ました。慶長5年伊勢の松坂城の城主として6万石を領していました。その後、兵部少輔は亡くなりました。彼には3歳の児がおりました。前の将軍家康公から、大膳大夫が兄の跡目を相続し、すなわち兵部少輔と名乗るべきだとご諚が有ったのですが、それはとてもかたじけないお言葉で、この様に素晴らしい事は今後再びあるとは思えないものの、兵部少輔という名はこの子の父・重勝のものなので、この子を成人させた上でその時にこの子に名乗らせたく存じます。家康公、このような心配りをする者は、近世希(まれ)に見る者だと感じ入ってしまいます。やがて重勝遺児がようやく一人前に成人したので、子の父・重勝が持っていた茶道具など、残らず目録にして元和6年にその子に渡し、勿論6万石の領地も付けて渡し、自分は貧乏になって物寂しい様子で江戸に住まっておりました。この様にさっぱりと身辺を身綺麗にした話は、重治以上の人が居るでしょうか。稲葉内蔵人助・一柳監物なども兄の名代として跡を継ぎましたが、稲葉も一橋も家督を甥に渡しませんでした。武市・古田とは真逆の振る舞いをしたのです。

板倉豊後守がこれを評して言うには、大膳大夫が甥に知行並びに家財を渡した事、彼が病弱だったので隠居して静かに暮らしたい、という願いももっともな判断だと思うのですが、今また江戸で暮らしている様子を見ると、苦労している様に見えます。それを見ても、大膳大夫への信頼はいよいよいや増して限りがないのです、と言うと、全くその通りの評価だと、同席していた分部(わけべ)左京亮や、小倉忠左衛門、野々口彦助が深く同意したのであります。

 

余談  稲葉内蔵人助

上記余談の中で噂に出て来る稲葉内蔵人助は、織部とも重勝とも面識の有る人物です。

ブログ№178「茶史 (6) 織部全盛~切腹」項で

1603.02.23(慶長8.01.13) 古田重勝古田重然(織部)の茶会に正客で招待される。

とありますが、その時に相客になったのが稲葉蔵人道通(いなば くろうどのすけ みちとう)です。道通は長兄の牧村利貞が亡くなった時、利貞の嫡男・牛之助が幼かったため代わりに家督を継ぎ2万300石を領しました。その後軍忠に励み、4万5700石になりました。ただ、牛之助が15歳になっても家督を牛之助に返そうとせず、我が子の紀通へ譲ろうとしたので、それに反抗した牛之助を殺害してしまいました。その半年後、道通は病死。紀通は幕府に問責されて自害しました。

 

余談  一柳監物(ひとつやなぎ けんもつ)

一柳監物は一柳直盛と言って美濃出身の尾張国黒田城城主。後に伊勢国の神戸(かんべ)藩の領主。古田重治と一柳監物とは共に松平伯耆改易による領地の接収と仕置をし、米子城の守衛を務めた仲です。従って互いによく知っている間柄です。

小田原征伐の時、一柳直盛は兄一柳直末と共に出陣しましたが、兄直末は討死してしまいました。直末には松千という幼い嫡男がおりました。直盛は兄の遺領3万石を継ぎましたが、その後松千代に返還されたと言う話は聞きません。この3万石について「父の遺領を叔父直盛に預けた」「いや、兄直末からその遺領を貰った」との主張合戦が起き、うやむやのまま、松千代は母の兄の黒田孝高(くろだ よしたか)に引き取られました。

 

余談  武市(たけち)

板倉豊後守の話に出て来る武市とは、武市常三の事です。常三は兄の善兵衛が討死した時、3歳の遺児を養育して成人させ、父の名前・善兵衛をその子に継がせました。兄の家を修理し、知行所や家財を全て引き渡し、己は燗鍋(かんなべ)(お酒をお燗する鍋)と手槍(短い槍)一本を持って、家を出て行きました。

 

余談  処刑について

江戸時代、主君が家臣を討つには幕府の許可が必要でした。社会の安定と秩序を目指した幕府は、やたらの上意討ちを禁じていました。時代劇でよく見られる藩主の虫の居所や都合で家臣を斬ったりしたならば、直ちにお家御取り潰しの対象になりました。これは旗本の様に知行地を持つ領主でも同じで、領民を訳無く処刑する事は禁じられておりました。領民を処刑する時は、処刑人を領主側から出すのではなく、幕府の手に委(ゆだ)ねられました。藩主や領主の司法には、かなり厳しい制限が加えられていました。

 

余談  指名手配書

幕府が古田騒動で全国に指名手配をしましたが、下記がその文書です。

『今度古田兵部少輔家来不儀有之候而、令死罪之處、彼妻子於在所聞

之欠落候、右之通及上聞、可尋出旨被仰出候付、兵部少輔家中之輩、

諸国在々所々へ相廻候間、見出之、聞出届於有之者、急度捕之可相渡

者也  

                                                              阿部豊後守 忠秋在判 

                                                              阿部対馬守 重次在判 

                                                              松平伊豆守 信綱在判 

  諸国在々所々

    御領内                                                    』 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

寛政重修諸家譜  堀田正教・林述斎他 国立国会図書館所蔵

重勝流古田家系図  個人所有

徳川実記  黒板勝美 國史大系編集会 吉川弘文館

太閤記  小瀬甫庵

戦国人名辞典  高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館

戦国人名事典  阿部猛・西村圭子編 新人物往来社

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「戦国武将列伝wiki」「刀剣ワールド」や、浜田市、浜田城に関するネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございます。