式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

186 桂離宮(2) 源氏物語・寛永文化

月のすむ 川のをちなる 里なれば  

          桂の影は のどけかるらむ

これは帝が光源氏へ送った歌。それに対して光源氏はこう返します。

久方の 光に近き 名のみして 

          朝夕霧も 晴れぬ山里

                    源氏物語18帖 松風より

[ずいよう意訳]

帝の御物忌みが明ける日に、源氏の君が宮中に伺候(しこう)しなかったので、帝が「源氏はどうしたのか?」とお尋ねになります。廷臣が「源氏の君は桂へ行っております」と奏上したので、「月のすむ・・」の歌を勅使に持たせて源氏へ遣わします。「月が住むという桂は川向うだから、きっとのどかだろうなぁ」と。 それに対して、源氏は「桂は月の光に近いと言われておりますが、実は朝夕霧が出て光は見えないのです」と歌を返します。

[歌の背景]

光源氏は今迄愛した女性達の中で、今はひっそりと暮らしている方々を一か所に集めて、そこで皆で暮らしてもらうという計画を立てました。旧愛人達の老人ホームですね。場所は二条院の東側です。二条院は源氏の母・桐壺の更衣の実家の館です。母亡き跡、彼はそこを修理して暮らしていました。紫の上も二条院に住んでいます。その二条院の東側に御殿を建てて、そこにそういう人達を住まわせようとの寸法です。

源氏は明石の君を呼び寄せてその二条東院に住まわせようとします。明石の君と言うのは、源氏が左遷されて明石に飛ばされた時、現地で見染めた豪族・明石入道の娘です。彼女との間に姫まで生まれています。明石の君は上洛を拒みますが、姫を田舎に埋もれさせてしまうのも娘の将来の為に良くないと思い、源氏の勧める二条東院では無く、父の明石入道が京都に持っていた大堰(おおい)の別荘に移り住む事にします。大堰の別荘は大堰川の畔(ほとり)にあります。大堰川桂川の事です。源氏が持っている桂の別荘(桂の院)とは目と鼻の先。光源氏は妻の紫の上の目を盗んで、桂の院に用事があると言って外出し、大堰の館に連泊します。

「源氏は桂に行っている」と廷臣が奏上したのは、この事を指しています。

 

桂の別荘の修復と増築

平安時代源氏物語から時代を飛んで江戸の初め、桂別業(=別荘の事=後の桂離宮と呼ばれる邸宅)を造営した智仁(としひと)親王が亡くなられ、その跡を継いだ智忠(としただ)親王。その時、御年11歳でした。桂の別荘を修繕するにも何も、まだ年端が行かなかったので、しばらくそのままになっていました。放置している間に荒れて傷みが進みました。智忠親王が思い立って、父宮の遺した離宮の再生と更なる造営に着手したのは、加賀藩2代藩主・前田利常の娘・富姫(ふうひめ)と結婚した頃になります。宮はその時24歳でした。

宮の御領地に加えて前田家の財力も有り、桂の別荘の修復や増築は、智忠親王の思う様に結構を尽くして造作をしていきます。

その様子が、同じく源氏物語の「松風」に描写されている有様と響き合います。

 

源氏物語18帖「松風」より

繕ふべき所、所の預かり、今加えたる家司などに仰せられる。桂の院に渡りたまふべしとありければ、近き御荘の人びと、参り集まりたりけるも、皆尋ね参りたり。前栽どもの折れ伏したるなど 繕はせたまふ

「ここかしこの立石どもも皆転び失せたるを 情けありてしなさば、をかしかりぬべき所かな・・・(以下略)

 

[ずいよう意訳]
源氏の君は建物が壊れたところは、新しく任じた家司(けいし/いえのつかさ)などに直す様にお命じになりました。光の君が桂の院にお出でになると聞いた近くの荘園の人々が、桂の院に集まって参りましたが、(やがてみんなは源氏の君がそこにはいらっしゃらず大堰(おおい)のお屋敷に居ると知って) 大堰の館を尋ねてやって参りました。源氏の君は、前庭の植え込みの折れたり倒れたりしたものなどを、集まった人々に直させました。「あちらこちらで倒れたり失われたりしている石組も、心を込めて直せば、趣(おもむき)が出てくるでしょう・・・(以下略)」

 

そう言えば、光源氏は桐壺帝の第二皇子。抜きん出た才能と輝くばかりの美しさを兼ね備えていた光源氏は、人々から絶大な人気を博しており、母の身分が高ければ天皇の位に登れたかも知れない程の人でしたのに、母の身分が低かったので天皇に成れませんでした。

智仁親王も学問文芸に秀で、後陽成天皇から次期天皇へと強く推された人物ですが、信長の死・秀吉の都合・家康からの忌避によって運命に翻弄され、天皇になる事が出来ませんでした。天皇になれなかったという点では似たような境遇に思えます。

 

智仁親王は22歳の時、細川幽斎から古今伝授を継承しました。

こういう秘伝を継ぐというのは、凡人はもとより、そんじょそこらの秀才でも叶わない事です。師が伝える事を取りこぼし無く受け継ぐには、茶筒の胴と蓋のように、師と同じレベルに実力が達していてぴったりと合っていないと出来ない相談です。

親王は和歌の道は無論の事、源氏物語の研究も熱心でした。源氏物語と言えば後陽成天皇御自ら『源氏物語』を講義なさっております。智仁親王は、兄後陽成帝の講義を熱心に聴講し、その聞き書きを残しております。智仁親王のその聞き書きは現在宮内庁書陵部に収蔵されているそうです。

その聞き書きは、単に聞いた事を書き記しただけでは無く、他の説も取り上げて比べながら更に研究されているものだとか。趣味「学問」の域を超えて、研究者の姿がそこに見えます。

 

智忠親王と昕叔顕啅(きんしゅく けんたく)

智忠親王は八条宮(桂宮)智仁親王の第一王子です。学問好きだった父宮の影響を強く受け、智忠親王も和歌や書、学問に優れていました。学問の師であった相国寺慈照院昕叔顕啅から「人とも思えない賢さ」と評されるほどでした。智仁・智忠両親王は親子二代にわたって昕叔顕啅と交流が深く、慈照院は代々八条宮家の菩提所となっています。そればかりか、智忠親王は、慈照院内に御学問所を建て、それをお寺に下賜しております。

昕叔顕啅は後水尾天皇の落飾の時に導師を務めた禅僧です。昕叔は参禅しに来る茶人とも交流が深く、利休の孫の千宗旦と一緒に、境内(けいだい)『頤神室(いしんしつ)』という茶室を作っております。

 

八条宮智忠親王の人脈

人は環境に育つと言います。智忠親王を取り囲んでいる人脈は、智忠親王のみの人脈では無く、父宮や父祖から受け継いできた大いなる人的財産でもあります。優れた方達に囲まれて育った智忠親王は、培ってきたその教養を如何(いかん)なく桂別業(桂離宮)の増築・整備に発揮、父宮の跡を継いで稀に見る優れた建築群と庭を造り上げ、令和の時代の私達に遺してくれました。

その人脈の一部に少し触れてみたいと思います。

 

智忠親王の伯父の後陽成天皇は学識が高く『源氏物語』『伊勢物語』『詠歌大概』などを講義する程のお方です。講義する相手が名だたる公卿衆とあれば、なまじの学識では勤まりますまい。余程の博識の御方と拝察申しあげます。

 

同じく伯父で天台座主良恕(りょうじょ)法親王は和歌や書に優れており、『良恕親王厳島参詣記』等を(あらわ)ています。

 

従兄弟の後水尾天皇は、和歌1万2千余首の和歌を集めた勅撰和歌集『類題和歌集』(31巻)の編纂を命じており、叔父の八条宮智仁親王から古今伝授を受け継ぎました。これが御所伝授の始まりです。外にも伊勢物語御抄』『和歌作法』などの本を著しております。華道を極めた方でもあり、池坊専好と双璧を成しています。

後水尾天皇の皇后(中宮)の和子(まさこ)(=東福門院)も大変に教養の高い人でして、幕府と天皇との間の調整に苦労しながら、幕府の財力を背景に後水尾院を援(たす)けます。茶道に熱心で、野々村仁清に水指などを焼かせています。また、小袖を愛用、東福門院自らデザインした小袖を、尾形光琳・乾山の実家の高級呉服店『雁金屋(かりがねや)に、自分に仕える女官達の全ての分の小袖を発注しています。時代の名前を取ってこれ等の小袖を寛文小袖と言います。東福門院はファション界のリーダーでした。それが下々にも伝わり、江戸の富豪達にも寛文小袖は持て囃されました。もう一つ加えれば、後水尾上皇の造営した修学院離宮の資金の大半は、東福門院の実家・徳川家から出ております。

 

従兄弟の近衛信尋(このえ のぶひろ)は関白左大臣で諸芸に通じ、古田重然に茶を習い、書は寛永の三筆である養父・近衛信尹(/のぶただ)三藐院流(さんみゃくいんりゅう→近衛流)を受け継ぎ、同じ寛永の三筆の松花堂昭乗(僧侶・茶人)や、沢庵宗彭(たくあん そうほう)一糸文守(いっし ぶんしゅ)と言う二人の禅僧とも親しく交流していました。沢庵と一糸は後水尾上皇との交流もあります。信尋は連歌も能くしました。信尋には、名妓吉野太夫灰屋昌益と争った艶話があります。

 

烏丸光広(からすまる みつひろ)は正二位権大納言で、細川幽斎から古今伝授を継承し、二条派の歌学を極め、徳川家光の歌の先生でもあります。沢庵や一糸に帰依して禅を修め、能書家でもあります。俵屋宗達の絵に画賛を書いたりしています。著書も歌集や紀行記も数多く、中でも『東行記』などが有名です。

 

智忠親王の付き合っていた文化人の中にはこういう人もいます。

安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は兄に金森長近、甥に金森可重(かなもり ありしげ/よししげ)を持つ浄土宗禅林寺派の僧侶です。説法に笑い話を取り入れ、落語の祖とも言われておりますが、古田織部の高弟でもあります。茶の湯俳諧も一流、公家や武士に広く知人を持ち、小堀遠州連歌師松永貞徳(俳諧の祖)などと深く交流していました。

 

三浦(正木)為春は小田原で生まれた武将で、歌人・文化人として知られています。彼は女子のための仮名草子を書き、それを読んで感じ入った後水尾天皇がその本の奥書を書きました。妹のお万の方は徳川家康の側室となり、家康と彼女との間に生まれた子は、後に徳川頼宣となって紀州藩主となります。

 

石川丈山(いしかわじょうざん)は徳川譜代の武将です。大坂の陣で軍律違反の抜け駆けをして咎められ浪人、藤原惺窩(ふじわら せいか)に学び、相国寺の近くに凹凸窠(おうとつか)(=丈山寺)を建てて隠棲しました。彼は林羅山と共に、日本の三十六歌仙に因んで漢・晋・唐・宋の詩人36人を選んで狩野探幽肖像画を描かせました。それを凸凹窠に掲げたのです。それで、そこを詩仙堂と呼んでいます。サツキと紅葉の名所で、秋には観光客が沢山押し寄せます。彼は作庭の名人でした。詩仙堂の庭は彼が造ったものです。

 

藤原惺窩冷泉為純(れいぜい ためずみ)の三男で、相国寺の禅僧です。彼は相国寺朱子学と禅を学びました。秀吉の朝鮮出兵の時、捕虜になって日本に連れてこられた姜沆(きょうこう/カン・ハン)と親しくなり、姜沆の助けを得て日本の儒学を体系化しました。弟子に林羅山が居ます。

 

智忠親王連歌仲間として、武将の黒田孝高(よしたか)(=官兵衛)が居ます。

また、忘れてはならないのが本阿弥光悦です。

光悦は寛永の三筆の一人であり(近衛信伊・松花堂昭乗本阿弥光悦)、万能の芸術家でした。国宝の白楽茶盌『不二山』『舟橋蒔絵硯箱』等々工芸作品には重文も含めて多数、書でも重要文化財『鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦・宗達合作)などなど多くの作品を残しており、書・陶芸・漆芸・能・茶の湯など各芸術界のリーダー的存在でした。光悦は、尾形光琳尾形乾山(/けんざん)兄弟と遠い親戚関係にあります。光琳琳派を成すほどの絵師、乾山は陶芸と絵に卓越し、今に残る重文の作品群があります。兄弟合作の作品も幾つもあります。更に、光琳と乾山は楽焼の楽家とも親戚関係にあります。親戚などという血脈関係にはありませんが、尾形乾山が一時期仁和寺の近くに住んでいた事があり、その仁和寺の門前に野々村仁清が住んでおりました。乾山は仁清に陶芸を学んでおります。

 

寛永文化

それぞれの人がそれぞれの人脈を持ち、その人脈がそれぞれに広がり、複雑に絡み合って一つの「世界」を形作っている様子が、ここに見られます。

綺羅星の如く一流の文化人が宮廷を中心にして活躍していた時、そういう環境の中に在ってその空気を吸って育った智忠親王。生来のずば抜けて優れた資質がそこで開花し、桂離宮という作品に結実したのだと、思います。

この文化の気運は関東の江戸では見られず、京都を中心に地域的な偏りが見られます。これは禁中公家諸法度(公家諸法度)により、公家達は和歌と学問だけをしていれば良い、他のことはするなと禁止されたので「それでは」と上皇をはじめ公家、京の上層の町衆は、千年にわたって培(つちか)ってきた文化力を磨き上げ、武家政権に対抗しようとした結果なのではないでしょうか。こうして醸成された文化を寛永文化と言い、その期間は寛永年間の前後合わせて約80年間に及びます。それは洗練された雅(みやび)の世界でした。

その80年間とは、およそ、元和(げんな)寛永、正保(しょうほう)、慶安、承応(じょうおう)、明暦(めいれき)、万治(まんじ)、寛文の期間です。政治史で言えば、大坂の陣終わって江戸幕府が産声をあげてから内政が軌道に乗った時期で、島原の乱直前にまで重なります。文化史的に言えば、安土桃山時代の豪華絢爛さや傾奇(かぶき)のまだ余韻が残っている時から、江戸時代の商業隆盛を背景とした元禄文化が生まれる少し前までの区分です。

                                                            次回予告 桂離宮(3) 新御殿と茶屋と庭

                                         

 余談  頤神室(いしんしつ)

茶室「頤神室」には面白い伝説があります。狐が宗旦に化けて、宗旦の留守中に来た客に茶を点てて持て成したと言う話です。頤神室の床には、宗旦狐の掛け軸が掛けられているそうです。

また、慈照院は布袋の姿をした利休像を祀っている寺でもあります。どういうことかというと、首が挿(す)げ替えられる様になっていて、いつもは布袋像ですが、場合に応じて布袋様の首を挿げ替えて利休の顔にするのだとか。利休が秀吉の勘気に触れて切腹した為に、世を憚(はばか)ってそうしたのだそうです。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記のように色々な本やネット情報を参考にしました。

源氏物語紫式部

源氏物語瀬戸内寂聴

源氏物語を読む 松風

源氏物語の住まい・貴族の生活・風俗  風俗博物館

源氏物語の「二条院」の位置  奈良大学リポジトリ 森本 茂

J-Stage 智仁親王源氏物語研究 小高道子

三思一言 徒然に長岡天満宮(8) 智忠親王寛永文化

智忠親王寛永文化 百瀬ちどりの楓宸百景

後水尾院ってどんな人? 特集「後水尾院と江戸初期のやまと絵」 東京国立博物館

特講2. 寛永文化    odn,ne,jp

世界美術全集9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

宮内庁 桂離宮の写真

[京都] 御所と離宮の栞~其の一 其の二十八 宮内庁

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「Weblio 辞書」「漢字検索」「元号一覧」観光案内、自治体のパンフレット、動画、ネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。