式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

185 桂離宮(1) 親王と古書院

桂離宮は数寄屋書院の最高傑作と言われています。

タテ・ヨコ直角に交わる幾つもの柱と梁、それが紡(つむ)ぎ出す方形の面の数々。研ぎ澄まされた線と、その緊張をいや増す四角い壁や障子が、心地よいリズムを奏でています。そして、柔らかさを醸し出す杮(こけら)葺きの屋根と庭の緩やかな起伏の曲面に包まれて、池、庭石の配置、樹木などの不規則な構成が、直角と四角の世界に融和して、これ以上ない完璧な立体の抽象絵画を見ている様です。それにしても、なんて具象なのでしょう。なんて自然なのでしょう。これ以上なく簡素で素朴で美しい。

残念ながら、一度は桂離宮を訪れてみたいと思っていながら、未だその機会を得ておりません。いつかは、いつかはと思いながら何時の間にか80を超えた婆になってしまいました。

言い訳をするならば、個人的に申し込んで参観できたとしても、古書院・中書院・新書院などの内部は一般人は見せて貰えないそうです。嘘だか本当だか知りませんが、風聞に依れば、大学の建築科の研究者とか、宮内庁から許可を得た報道関係者というような特別の人だけが、内部を見る事が出来るそうです。婆はそういう方達が引いた図面や撮った写真、映像などに加えて、一般の方達にも撮影が許された茶亭や庭の写真などをネットで見ながら、この項を書き起こしています。

 

                       桂 離 宮 物 語

 

桂離宮の在る場所

桂離宮は、京都の渡月橋から桂川をおよそ5㎞下流に下った所に有ります。

17世紀初頭の元和(げんな)のころ、八条宮智仁(はちじょうのみや としひと)親王が、ご自分の領地のこの地に別荘を建てました。その頃は離宮とは呼ばず、桂別業と呼んでいたそうです。智仁親王桂離宮の中でも「古書院」「月波楼」「瓜畑の御茶屋(現存せず)」「竹林亭(現存せず)を造営しました。二代目の智忠(としただ)親王「中書院」「新書院」「松琴亭」「笑意軒」などその外の建物を増営し、建物の補修や、更なる造園整備などが施され、三代穏仁(やすひと)親王へと受け継がれて行きました。

 

離宮建設の祖・智仁(としひと)親王のあゆみ

智仁親王は、1579(天正7)年に生ま1629(寛永6)年に51歳で薨去された方です。

智仁親王正親町天皇を祖父に持ち、父は・誠仁(さねひと)親王と言って、正親町天皇の唯一の男子、つまり東宮(皇太子)だった人です。

正親町天皇が御年50代を超えた頃、天皇誠仁親王に譲位したいと望んでおりました。が、朝廷には儀式を執り行うだけの財力がありません。資金を信長に頼らざるを得ない状況の中で、信長は戦争にかまけてばかりいます。そうこうしている内に、本能寺の変を迎えてしまいました。

 

誠仁親王信長から贈られた二条新御所にお住まいでした。親王はここを下御所の第二政庁として住まい、正親町天皇の政務を援(たす)けておりました。

本能寺の変の時、信長嫡男の信忠は京都の宿所の妙覚寺を捨て、防備に優れていた二条新御所に入ります。驚天動地の事態に戸惑う中、明智が二条新御所に押し寄せて来ました。親王は、自分は切腹しなければならないのかと明智側に問いました。そして、誠仁親王と妻子、宿直(とのい)の公家達は許され、攻囲の二条御所を徒歩で脱出する事が出来ました。

信長が消え、光秀秀吉に討たれ、秀吉が着々と天下統一へ向かって歩を進めます。そして、秀吉は関白にまでになります。

秀吉は信長と違って、積極的に朝廷に関わりました。秀吉は、正親町天皇の御意思を奉じて譲位が執り行える道筋を付けましたが、そんな矢先の1586.9.7(天正14.7.24)に、誠仁親王は突然お亡くなりになってしまいます。34歳でした。

唯一の皇子を失った正親町天皇は、やがて、誠仁親王の遺児で孫の第一王子・和仁(かずひと)親王に譲位、親王はそれを受けて後陽成天皇となりました。1586(天正14)年の事です。

秀吉には実子が居ませんでしたので、養子や養女、猶子(ゆうし)を沢山(たくさん)とりました。誠仁親王の第6王子・智仁親王も1586(天正14)年の7歳の時、秀吉の猶子になりました。

ところが、1589(天正17)年秀吉と淀殿間に男子が生まれて事情が一変。智仁親王の猶子の縁も解消されました。秀吉は、智仁親王に京都の桂の地に3,000石の領地を献上します。智仁親王はここに別荘を建てました。これが桂離宮の始まりです。

 

武家勢力の横暴

1588(天正16)年、時の関白・秀吉は、聚楽第後陽成天皇行幸を仰ぎ、盛大な饗応を行います。天皇を迎えて最大級の持て成しをした秀吉。得意満面の彼の野望は更に暴走して大陸へ食指を動かします。

秀吉は朝鮮へ出兵をします。彼は大陸の明を征服したならば、後陽成天皇を北京に遷座(せんざ)させて明の皇帝とし、後陽成天皇の第一皇子・良仁(かたひと/ながひと)か、天皇の弟の智仁親王のどちらかを日本の天皇にすると言う、途方もない妄想を実現させようとしていました。

後陽成天皇は病気勝ちになり、弟宮の智仁親王を次の天皇に推し、譲位を秀吉に打診します。

後陽成天皇は秀吉の朝鮮出兵を快く思っておりません。ご自身のお子・第一王子の良仁親王はまだ幼く、秀吉の意のままになる可能性があり、天皇はそれを恐れ、それで、弟の智仁親王を次期天皇にと望まれたのだと思われます。

 

智仁親王古今伝授(こきんでんじゅ)

1598 (慶長3)年夏、豊臣秀吉がこの世から去り大陸への妄想は霧消しました。その代り豊臣と徳川の二大勢力が衝突し全国規模で内戦が再発します。

主戦場は関ケ原。それぞれの傘下の武将達は続々と関ケ原に集結します。しかし、その戦火は日本中に広がりました。丹後国も例外ではありませんでした。

丹後国細川幽斎(藤孝)(=長岡幽斎)は文武両道の達人です。

彼は、家康が会津征伐に赴(おもむ)いた時、息子の細川忠興に細川家の主力を率(ひき)いさせて家康に従わせて出陣させていました。自身は500の手勢で丹後田辺城(現京都府舞鶴市)を守っていたのですが、西軍15,000に囲まれて、籠城戦になってしまいました。

1600年8月27日(慶長5年7月19日)から始まった田辺城の籠城戦は、兵力の圧倒的な差により10日も経たない内に落城寸前にまで追い詰められてしまいます。

幽斎は一流の文化人で、歌道の師であり、大勢の弟子を持っておりました。攻囲している武将の中にも弟子が何人も居て、攻める矛先が鈍っていました。何しろ、幽斎は三条西実枝(さんじょうにし さねき)から古今伝授(こきんでんじゅ)相伝された日本で唯一の人物です。幽斎を失ってしまうと日本の歌の奥義も失われてしまうという、大変な事が起きてしまうのです。幽斎の弟子の八条宮智仁親王はそれを憂慮し、幽斎に開城する様に勧める使者を2度にわたり送りました。ところが幽斎は討死を覚悟していると言い、古今集証明状』智仁親王に贈り、『源氏抄』『二十一代和歌集』を朝廷に和歌を添えて献上しました。

その歌とは

いにしへも今も変はらぬ世の中に こころの種を残す言の葉

というものでした。

これを読んだ智仁親王は事態が切迫している事を察知、緊急手段を取ります。この歌からは死を覚悟した人の心が読み取れます。この歌はいわば辞世の句。智仁親王は兄帝を動かし、大納言・三条西実条(さんじょうにしさねえだ)中納言中院通勝(なかのいん みちかつ)、中将・烏丸光弘(からすまる みつひろ)の三名を勅使として遣わし、勅命を以って停戦させました。そして、開城させて幽斎を救います。

 

禁中公家諸法度(公家諸法度)

1615大坂城が落城し、豊臣が滅亡しました。同年9月9日(慶長20年7月17日)、二条城で徳川幕府による「禁中公家諸法度」が公布されました。同じ年、それに先駆けて武家諸法度秀忠の名で公布されています。

幕府は力の論理の下に、天皇も朝廷も配下に組み込み支配権を拡大しましたので、幕府の言いなりになるよりほか何も出来なくなりました。

後陽成天皇が次期天皇智仁親王を推しておられましたが、支配者が豊臣から徳川に代わった途端、それは反故(ほご)にされました。智仁親王が秀吉の猶子だった事が阻害要因でした。また、良仁親王も秀吉推しの候補だった事も有ってこれも退(しりぞ)けられ、結局、幕府は後陽成天皇の三番目の皇子・政仁(ことひと)親王を擁立して次期天皇にします。この方が後水尾天皇です。

家康は後水尾天皇に自分の孫娘・和子(まさこ)を入内(じゅだい)(天皇の后にする事)させます。

1627(寛永4)年、紫衣(しえ)事件が起きます。宗教界の高僧に紫の衣を許すというのは天皇の専権事項。それを幕府は奪い取り、幕府の許諾を得なければならない、として関係者達を捕まえ流罪などに処しました。徳川秀忠の娘・和子(=東福門院)を無理矢理入内させたり、徳川の高圧的な数々の振る舞いに逆らう事が出来ず、言いなりになるしかない立場をお怒りになった後水尾天皇は、突然次女の興子(おきこ)内親王に譲位をしてしまいます。この方が女帝・明正(めいしょう)天皇です。

 

後陽成天皇から次期天皇へと望まれていた智仁親王は、政争の圏外に出て、桂の地に別荘を建てます。そこで心行くまで学問や和歌や趣味の世界に没入して行きます。

 

                            桂離宮の建築・古書院

 

加飾の美 捨離の美 数寄の美

お花を飾る時、色々な花をできるだけ多く盛り合わせて花瓶に飾る事も有れば、一枝一花を活ける場合もあります。また、ロココ建築の様に、壁と言わず柱と言わず隙間なく装飾を施して、豪華さを演出する様式も有れば、伊勢神宮のように何の飾りも無い白木の小屋に素朴なるが故の神々しい清々しさが宿る事も有ります。美しさとは不思議なものです。

二条城や日光の東照宮の様に、もっと良いものを、もっと美しいものをと考えて、それからそれへと善美なる飾りを足し、大いにアピールを増して行くのが加飾の美です。

待庵のように、物事の本質を磨き出そうと、余計な装飾や付属物を一切取り払ってしまうのが捨離の美です。捨離の美の行き着くところが「侘び」「寂び」の世界です。

そして、その中間にあるのが、捨離の美に自分の好みを加えたものを数寄(すき)の美と、婆は位置付けております。

 

数寄の美の傑作と言われる桂離宮を造った人は、どういう人なのでしょう。

笑い話に、大坂城は秀吉が造ったのではない、大工が造った、というのがありますが、その伝で行けば、桂離宮は大工が造ったと言えます。が、大工は施主の思いを技(わざ)をもって形にする専門職の人なので、その論は脇に置いておきます。

古文書の『桂御別業之記』には、作事に携わった人物の名前が挙げられています。小堀遠州没後100年余の後に書かれたと推定されるその古文書に依れば、次の様に書かれています。

 

『桂御別業之記』

豊太閤より小堀遠州政一に命じて造進し給ふ、庭作古書院等是也 其の御門弟大蔵少輔山科出雲守倉光日向守玉淵坊之輩遠州の指図を受けてしつらいぬ御茶屋は瓜畑の御茶屋  今は無し を始めとして月波楼  梅の御茶屋又月梅の御茶屋と云う  竹林亭  挽河台とも云今はなし  続いて御二代智忠親王造増有しも遠州に  伏見在役中度々参上  仰せられて悉く作らしめ給ふ中にも妙蓮寺の玉淵坊まされり

 

とあります。ただ、この記述には問題があります。

「豊太閤より小堀遠州政一に命じて造進し給う」という記述には、明らかに時代に食い違いが見られますので、鵜呑みは禁物です。何故なら、造進とは、造って進呈する事。という事は、秀吉が智仁親王に造進したという事になりますが、それは不可能だからです。秀吉1598(慶長3)年に亡くなっております。桂離宮の古書院が建てられたのが1615年頃。秀吉が亡くなってから17年後の事なのですから。

今では、作事については小堀遠州の義兄弟・中沼左京(松花堂昭乗の兄、茶人)や、妙蓮寺の玉淵坊((ぎょくえんぼう))普門寺の庭園などを作庭)などが、桂離宮の作庭に関わっていた、とされています。

 

八条宮智仁親王は、ご自分の領地の桂の地に、自分好みの別荘を建てました。それが桂別業、今で言う桂離宮です。

桂の地は月見の名所。宮は別荘の造営に当たり、「月」をテーマに据えました。

宮は、「月」を鑑賞するのに最も相応しい場をつくろうと、庭と言わず建物と言わず隅々まで細かい気配りをしました。

古書院は池の前に建っており、その向きは東から南へ約30°傾いております。中秋の名月の月の出が丁度古書院の一の間の真正面になる様になっています。部屋の間取りもそれに合わせております。月の光の取り入れ方、襖や壁が月光にどう映えるかまで、計算され尽くされています。

 

例えば古書院の一の間の襖です。襖に用いている唐紙の模様は、五七の桐紋を襖一面に散らしたものです。刷った顔料は胡粉に黄土と雲母(キラ)の粉末を混ぜたもの。冴えわたる月の光を雲母が受け、明るい闇に仄白い桐の葉が浮かび上がる、という趣向です。

また、古書院から張り出している月見台は、栗の木の台の上に百本の竹を簀の子にして敷き延べたものだとか。今でこそ写真で見ると草臥れた竹の簀の子ですが、作り立ての頃はきっと、つやつやとした白竹の肌を明月に晒していた事でしょう。空を見上げてのお月見、池に映してのお月見、そして、月の光が地上に降り注いで描き出す陰影の、静寂とした美しさ。竹の丸い管を敷き並べた床に、不規則に浮かぶ竹節の影、それらが縮緬シボの様な優しい光沢を放っている月見台。池の水面(みなも)に立つ細(こま)やかなさざ波が、そのまま月見台に寄せて来て、部屋の中まで誘(いざな)う様な、そんな錯覚を起こしてしまいそうです。きっと、そのような晩にかぐや姫が降臨して来るのでしょう。

そう言えば、桂離宮の建築素材に随分と竹が多用されています。

 

造営過程

桂離宮の書院群でも古書院と呼ばれる建物は、池に一番近い位置に在ります。古書院は智仁親王が最初に建てた建物です。桂離宮は一度に一斉に建てられたものでは無く、凡(およ)そ50年の歳月を掛けて順次整えられて行きました。

智仁(としひと)親王が最初に古書院と月波楼を建て始めたのが第一期だとすれば、二代目・智忠(としただ)親王が中書院を建て増しした時が二期目になります。一期目と二期目の間にはしばらく空白の時がありました。というのも、智忠親王家督を継いだ時は11歳でしたので、造営や補修はまだ無理でした。親王が成人するに及び、手入れや増築が開始されました。中書院を古書院につなげる様に建て増しし、その頃までには5つの茶屋が建ち揃い、庭は更に整備されて、凡(およ)その完成形を見るに至りました。

智忠親王は、父が貫いた「月」のテーマをそのままに継承し、更に流行りの「きれい寂び」を取り入れて磨きをかけたものを造ります。中書院は古書院に比べて、装飾性が増し、少し華やかになります。この二つの新旧の建物は、全く破綻なく見事に融和したものになっています。

三期目は、新御殿と言われる棟の建設です。これは三代目・穏仁(やすひと)親王後水尾上皇をお迎えする為に増築したものです。これも中書院に連ねて建てられました。結局、古書院・中書院・新御殿が雁行する様な配置になり、カク・カク・カクと屏風を折り立てたような、桂離宮独特の美しいリズムが出現しました。

新御殿は部屋数が多く、格式も一段と上がっています。数寄具合もかなり工夫が凝らされ、新御殿の一の間に桂棚と言う棚の設(しつら)えが造られました。

 

古書院

古書院は、御輿(おこし)寄せの玄関から入って奥に進むと、部屋は南東向きの開口部、即ち池に面した一の間に出ます。

御輿寄せ(玄関)に4畳の畳敷きの上がり框(かまち)があり、続いて鑓(やり)の間があります。鑓の間は玄関の間で、10畳の広さがあります。4畳の上がり框に続いて縁側に畳を敷いた掾(えん)座敷7畳があります。鑓の間と掾座敷でⅬ字に囲まれた二の間が14畳、更にその奥に9畳の一の間があります。一の間には1帖の床(とこ)があります。

さて、古書院と名付けられたこの部屋々、どうも、書院の様式からは外れているように思えてなりません。古書院の内部を撮った写真、特に婆が欲しいと思う様な細部の情報を写した写真が無いので、多くを語ることが出来ませんが、どうも、「書院」と呼ぶに必要な三点セット、即ち、「床・棚・付書院」の内、床だけがあって、外の2点が見当たらないのです。

武家様式の格式張った書院では、「床・棚・付書院」の三点セットは必ず揃っており、床柱も含めて柱は杉か檜の角柱を用います。角柱に面取りが施されている場合もあります。どういう面取りなのかによっては又、格式が違ってきます。床柱だけが面取りで、その他の柱は全て角柱の場合もあります。面取りが浅いのか深いのか、直線的にスッキリとした面取りなのか、丸味を帯びているのか、面皮柱(めんかわばしら(柱の四隅の角に樹の皮が残っているもの))なのか、それとも樹皮をそのままつけている丸柱なのか、曲がっているのかいないのか、杉か檜以外の柿や柳や竹等々の木材なのか、木材の種類によって格式が違ってきます。柱が丸味を帯びていればいる程、節があればあるほど、樹皮が付いていればいる程、遊び心が増し、数寄の度合いが上がり、格式の度は下がります。

そういう目で見ると、写真に写し出されている柱の様子は、歯がゆい程不鮮明です。床框も材の様子が分かりません。

分からないなりに頑張って推測してみると、当時の書院に要求されている約束事を、桂離宮の古書院は軽やかに無視しています。囚われない心で自由に別荘生活を楽しもうとする当主の心意気が感じられます。

一の間に続いて広掾、広縁から張り出す様に月見の台があります。月見の台の幅は4m、奥行き2.9m。その先に池が広がっています。

月見台には手摺がありません。手摺を付ければ台と池に境界が出来てしまいます。それでは無粋と言うもの。

そこに座ればきっと池と台が地続きに繋がっている様に見えるでしょう。

名月 水面(みなも)に揺らぎ、ひたひたと寄せる光の波は月見台を超えて膝を濡らすでしょう。清らかな天空の明かりを全身に浴びて、一献 弾弦 また善き哉

 

余談  桂(カツラ)と桂(ケイ)

ひさかたの月の桂も秋はなほ 

    紅葉すればや照りまさるらむ     (古今集 壬生忠岑(みぶのただみね))

(歌意は、月の桂が紅葉しているから、こんなに月が明るいのだなぁ)

 で詠まれている桂(カツラ)は、分類上では被子植物 真正双子葉類 ユキノシタ目 カツラ科カツラで、香りが高く、秋に紅葉して落葉します。

中国の桂林という地名で知られる桂(ケイ)は、木犀(モクセイ)の事を指し、銀木犀、金木犀のように香りが高い木です。分類は被子植物 真正双子葉類 キク類シソ目モクセイ科でライラックレンギョウと同じ仲間です。

桂冠詩人やオリンピックの勝者に与えられる月桂樹の冠は、桂の文字が入っていますが、桂(カツラ)とは違います。芳香のある常緑樹で、被子植物モクレンクスノキクスノキ科ゲッケイジュ屬ゲッケイジュで、紅葉も落葉もしません。月桂樹は明治時代になって日本に伝えられた植物で、江戸時代には無い樹木です。

 

余談  折桂(せっけい)

伝説によると、月には桂の樹が生(は)えていると言われており、桂は聖樹として尊ばれています。桂の枝を折る「折桂」と言う言葉があります。手の届かない所にある月の桂の枝を折るという意味で、唐の進士の試験に首席で合格する事を指しています。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記のように色々な本やネット情報を参考にしました。

世界美術全集9 日本(9) 江戸Ⅰ 角川書店

桂離宮御写真及実測図-NDL Digital Collections 国立国会図書館

      著者川上邦基編 古建築及庭園研究会 出版日昭和7

桂御別業之記に就いて  高橋英男

桂離宮御殿の造営過程における設計者の意図 建築デザイン研究所 舩橋耕太郎

桂離宮 月波楼-けんちく探訪 写真 Observing the Architecture

観 宮内庁 桂離宮 古書院と月見台

宮内庁 桂離宮の写真

桂離宮を巡る (7) 室内の装飾と内からの景色 藤原道夫

造形礼賛桂離宮

Linea-  桂離宮修学院離宮を訪ねて(日本・京都)№39   

たびこふれ [美意識の結晶 「桂離宮」を堪能!~最古の回遊式庭園

おにわさん 桂離宮-日本庭園の最高傑作・・!京都市西京区の庭園

You Tube 桂離宮~建築と庭園が美しく融合した日本庭園の最高傑作

桂離宮の画像検索  平面 高画質 茶室・・・

wikiwand 誠仁親王

Weblio辞書 

Japanese Wiki Corpus  八条宮智仁親王

senjp.com 後陽成天皇 乱世を生き抜く処世術で皇室を生き残らせる

田辺城 細川幽斎舞鶴市

落語あらすじ事典 Web千字寄席 しょうぐんせんげ[将軍宣下]ことば江戸覗き

過酷! 夏の京都、建築散歩-桂離宮-大和工務店

京都市 桂離宮の美(その1-建造物等

京都・桂離宮とは? 日本庭園の見どころと歴史は

この外にウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「コトバンク」「Weblio 辞書」「刀剣ワールド」、観光案内、自治体のパンフレット、動画、ネット情報などなどここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。