式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

187 桂離宮(3) 新御殿と茶屋と庭

山紫水明 白砂青松 の風景は、400年前の日本ではごく当たり前に見られたことでしょう。須磨や住吉の浦、近江八景和歌の浦三保の松原天橋立などと思(おぼ)しき大和絵の、名所を描いた屏風絵に、色紙の和歌を散らして眺めて愉しむばかりでなく、その景色を屋敷の庭に取り込んで、歩いて楽しみ、舟遊びに興じるという風雅に暮らすのは、殿上人のこの上ない喜びだった事と思われます。彼等は噂に聞く風光明媚な景色を絵や庭に写して、そうやって旅行気分を味わっていたのかも知れません。

 

目次

中書院

新御殿

天下の三棚

  桂離宮・桂棚、修学院離宮・霞棚(かすみだな)醍醐寺三宝院・醍醐棚

桂離宮の御寝間(ぎょしんのま)

茶屋

  月波楼(げっぱろう)、松琴亭(しょうきんてい)、賞花亭(しょうかてい)

  園林堂(おんりんどう)、笑意軒(しょういけん)

庭園

  『作庭記』、離宮の作庭、名勝のジオラマ、延段(のべだん)(=敷石)

   庭園の種類、桂垣、

余談

  面皮柱(めんかわばしら)、裙帯(くんたい)、下地窓(したじまど)と連子窓(れんじまど)

 

                                   中  書  院

 

桂の別荘を智仁(としひと)親王から引き継いだ智忠(としただ)親王は、父宮が造営した古書院につなげて中書院を建て増ししました。それは、智忠親王前田利常の娘・富姫(ふうひめ)と結婚した1642(寛永19)年より前の頃だろうと言われております。中書院は、古書院より池から少し引っ込んで雁行して建てられています。

 

古書院の襖は雲母(きら)入りの桐模様の唐紙が使われていましたが、中書院の部屋の襖は狩野3兄弟の筆による水墨画が描かれています。一の間は狩野探幽「山水図」、二の間は狩野尚信「竹林七賢図」、三の間は狩野安信「雪中禽鳥図」です。襖絵が墨絵とあって、落ち着いた部屋の雰囲気になっています。恐らく智忠親王は、父宮が月を愛(め)でる為に特化した別荘に手を加えて、より滞在型の居住性を高めようとしたのかも知れません。雲母の襖の使用を控え、地味な水墨画の襖絵にしたのは、智忠親王の心の趣(おもむき)を表している様に思えます。

 

中書院の一の間は6畳でそれに加えて間口2間幅の大畳床があります。大畳床に対して90度の位置に棚が設えられております。二の間は8畳、三の間も8畳間です。三の間にも1間幅の畳床がありますが、これは後付けのものだそうです。

茶湯所やお湯殿や御厨(みくりや/みくり)が設けられ、多少の並びのズレはあるものの、全体の部屋の配列が田の字に納まっており、部屋数や施設も増え、より居住性が増しています。

写真から見ると、柱は面皮柱(めんかわばしら)の様に見受けます。柱の様子から数寄具合が古書院より増している様です。柱の形を真(しん)・行(ぎょう)・草(そう)で分けるならば、かっちりした角材は真、面皮柱は行、丸太や曲がり材・節有りなどが草に分けられ、草に近い材を使う程、より数寄屋造りに近くなります。

 

中書院の、庭に面した部屋を取り巻くように、半間巾の畳廊下が巡らされております。畳廊下には明障子が引かれており、更に明障子の外側に雨戸が設置されております。普段、雨戸は戸袋に収納されています。ですから、写真などで外観を見ると、白い障子に囲まれた建物の様に見えます。

 

古書院・中書院・御殿の建物が、高床になっているのは、池の水が増水した時の為だそうです。桂離宮の池は、桂川の水を引いておりますので、川の水位と連動しています。増水被害も有ったそうです。それが桂離宮特有の高床の美しいフォルムになっています。

(災害対策は庭園の項で触れます。→桂垣など)

 

                                    新  御  殿

 

新御殿は、智忠親王後水尾上皇をお迎えしようとして建てた御殿です。彼は上皇を持て成そうと色々と工夫を凝(こ)らしていました。

襖の引手に、四季の花の手桶をデザインした金具を使っています。きっとこれは、上皇が華道の流祖である事を受けての、それとない気遣いではないでしょうか。釘隠しの水仙も、緩(ゆる)みの無い見事な曲線を描いて、たおやかに長押(なげし)に咲いております。華道家の目に叶う花の姿がそこに写し取られています。

 

これらの金具を製作したのは金具師の嘉長(かちょう)という職人だそうです。言い伝えによれば、小堀遠州に可愛がられ、秀吉の目に止まり、大徳寺や二条城などの金具を手掛けた人物と言われています。ただ、桂離宮の新御殿に使われている襖の引手や釘隠しなどのデザインは、親王自らが考えた意匠に違いないと、婆は考えております。

嘉長が手掛けたと言われている大徳寺二条城などの金具と、桂離宮修学院離宮の二つの離宮に使われている金具とでは、少し傾向が違います。

桂離宮に見られる花手桶や月の字崩し、鏑矢(かぶらや)水仙などを引手や釘隠しにする様な自由な発想や革新性は、上記寺院などには無いものです。そこに、施主・智忠親王の意思がある、と推測した次第です。

智忠親王と嘉長はデザイナーと職人の関係だったのではないでしょうか。

 

新御殿の襖や壁には唐紙が張られております。雲母を擦り込んだ細かい黄土色の桐紋の柄で、まるで江戸小紋のように一面にあしらわれております。それだけに、古書院の襖の、大柄な桐紋に比べて光を多く反射して、華やかに見えます。

一の間には上皇がお座りになる上段があります。上段にある付け書院の窓は、櫛形の枠に切り取られていています。その明かり障子を開け放すと、眼前の庭に平地が広がっています。宮内庁の解説を読むとそこで蹴鞠が行われていたとか。上皇は、上段の間にお座りになって櫛形窓の外で行われる蹴鞠をご覧になっていたのかもしれません。

 

天下の三棚

桂離宮の新御殿にある「桂棚」は、修学院離宮の「霞棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」と並んで、天下の三棚と呼ばれております。

桂離宮 ・ 桂棚

桂離宮の棚は、黒檀・紫檀・伽羅などの外国産の銘木18種類の木材を使って造られているそうです。それは上皇がお座りになる上段の三畳間の、奥まった畳にL字型に設置されております。横幅は1間幅です。地袋や袋棚を組み合わせた棚造りになっており、造り付けた場所から想像すると、来客者などへの他者に見せる飾り棚では無く、どうやら上皇のプライベートの品々を置くのが主目的の様に見受けられます。

上段の間は最高位の方がお座りになる場所。その背後に棚があるのですから、もし、そこに登って拝見しようものなら、忽(たちま)ちお付きの方に摘み出されてしまうでしょう。誰も近付けない位置の棚なので、婆は棚を私物収納棚と見ました。

修学院離宮 ・ 霞棚(かすみたな)

その点、修学院離宮の霞棚は広間にあり、大きさも2間幅。開放的な造りです。下は全て地袋。そして、たたなずく霞の様に、長さの異なる棚が間隔を違えて左下から右上に上昇する様に造られております。

棚の後ろの壁全面は、金泥か金粉? で暈(ぼか)しの雲が描かれており、色紙が散らされております。色紙は恐らく名筆名蹟。この棚は、美術館の展示棚の様に、素晴らしい美術品などを並べて見せる為の棚の様に見受けられます。

醍醐寺三宝院・醍醐棚

醍醐寺三宝院の中に「奥宸殿」と言う部屋があり、そこに「醍醐棚」があります。

醍醐棚は他には見られない構造をしております。

まず、上部に天袋があります。そして、棚床の中央よりやや右寄りの位置に一本の支柱が下から伸びています。その一本の支柱を軸にして、2枚の棚板が竹トンボの羽のように左右に伸びています。竹トンボと違うのは、左の羽根が長く、右の羽根が短く、しかも段違いに取り付けられている点です。それぞれの羽根(棚板)の片方の先が、左右の壁にくっついています。ところが棚板は奥の壁面には接していません。ですので、棚に物を置いても後ろの隙間から落っこちない様に、棚の奥に透かし彫りの細長いガード板が取り付けられています。棚の背面が全面の金箔押しなので、透かし彫りの向こうに見える金の輝きで豪華に見えます。この棚のデザインは小堀遠州と言われております。

 

桂離宮の御寝間(ぎょしんのま)

お休みになる御寝間は一の間と襖一つ隔てて裏隣りにあります。御寝間は御化粧の間、御手水(みちょうず)の間、御厠、御衣文の間、御納戸、などの部屋で四方を囲まれております。その為、外光が射さないので落ち着いてお休みになれるようになっており、また、警備の面でも心強い造りになっています。朝お目覚めになり身支度を整えて一の間にお出ましになるまでの一連の動きが、そこで完結する様な部屋の配置になっています。

御寝間の隅の角に三角形の棚があります。それは剣璽(けんじ)等を置く場所だそうです。

中書院と新御殿を繋ぐ場所に楽器の間や御湯殿があります。御湯殿は新御殿にもあります。湯殿は屋敷の主(あるじ)用と来客用に分かれていた様です。

新御殿の柱は面皮柱を多用しております。写真を見ると長押はどうやら北山杉の磨き丸太を使っている様に見えますが・・・室内が暗く、漆塗りなのか、時代を経て黒光りしているか、よく分からないのですが、表面の木肌がシボを成しているのが見えます。シボとは、樹木の縦方向に大きい割り箸の様な棒を何本も当てて縛りつけ、成長を阻害し、木の表面に凹凸を付けたもので、これも数寄屋造りにはよく見られる柱材です。

 

残念ながら、御殿の完成を待たず、44歳で智忠親王薨去なさいました。その跡を継いだ養子の穏仁(やすひと)親王がそれを完成させました。穏仁親王は後水尾帝の第11皇子です。

後水尾上皇は1663.04.13(寛文3年3月6日)年に新御殿を訪問なさいました。上皇をお迎えしたのは勿論お子様の穏仁親王です。

宮内庁の栞によれば、当日は大変良く晴れた日だったようで、桜を眺めお庭を散策し、庭園の所々にある御茶屋でお菓子やうどん、冷や麦などの軽食を召し上がったりしたそうです。夜には御膳も出て、御茶や俳諧連歌なども楽しんだとか。招かれた鳳林承章は桂別業を絶賛して漢詩を詠んだそうです。上皇も大変ご満足して過ごされたそうです。

 

          茶  屋

桂離宮には古書院、中書院、新御殿があり、それに付属棟が加わって一塊りの建築群となっております。それらの一塊を中心として、池の周りに月波楼、、松琴亭、賞花亭、笑意軒の四つの茶屋と園林堂があり、その外に外腰掛、四つ腰掛(卍亭)が、池を取り巻くように展開して建っています。

 

月波楼 (げっぱろう)

月波楼の名前は、唐の詩人白楽天漢詩『春題湖上』の中の一節から来ています。

その一節は『月点波心一顆珠』というもので、西湖の美しさを讃えた詩です。

 

春題湖上  白楽天

湖上春来似画図  湖上に春来りて画図(がと)に似る

乱峰囲繞水平舗  乱峰(らんぽう) 囲繞(いじょう) 水は平(たいら)かに舗(し)

松排山面千里翠       松は山面を排し千里の翠(みどり)

月点波心一顆珠  月は波心(はしん)に点じ一顆(いっか)の珠(たま)

碧毯線頭抽早稲    碧毯(へきたん)線頭(せんとう)早稲(そうとう)を抽(ちゅう)す

青羅裙帯展新蒲    青羅(せいら) 裙帯(くんたい)新蒲(しんぽ)を展(の)

未能抛得杭州      未だ杭州を抛(ほう)りて去る能(あた)わず

一半勾留是此湖  一半勾留はこの湖にあり

 

(ずいよう超意訳)

西湖に春が来るとまるで絵に描いたように美しくなる。遠くにうねうねと続く山々は湖を囲み、湖は穏やかに水を湛(たた)えている。松は山肌を覆い千里の翠(みどり)と為し、月は波に光を点じ一粒の真珠のようだ。早苗(さなえ)のみどりは碧(あお)い絨毯の毛先のようであり、新芽の川柳は青い薄絹の帯のようである。それだから、私は未だに杭州を抛(ほう)り捨てて去る事が出来ないでいる。その理由の半分はこの湖の美しさなのだ。

 

月波楼は初代八条宮智仁親王が建てた茶屋です。

中門を入ると直ぐ生垣に導かれる様に左に折れ、そこに月波楼があります。古書院の月見台と並ぶような位置にあり、矢張り南東向きになっています。古書院月見台が無蓋(むがい)の露台ならば、月波楼は屋根付きのお月見特等席です。

 

建物全体の間取りは漢字の 冂 (けい・きょう・ぎょう(意味→境・境界))の形になっており、開口部は踏み込み土間と大炉と板の間があり、板の間には炉と水屋棚があって調理場になっています。つまり台所が月波楼の玄関になっています。茶屋ですが、躙(にじ)り口は無く、立ったまま台所から室内に入れる貴人口になっており、開け放しであり、非常に開放的な造りになっています。

冂 の2画目、横線に当たる所が一の間です。一の間は4畳に1間幅の床がついており、付け書院も有ります。畳を横幅に並べただけの変則的な4畳です。

冂 の2画目縦線に当たる所が7畳半の「中の間」と、4畳の「ロの間」があります。中の間は掃き出し窓のすぐ下に池が迫っております。1尺半の竹の簀子の濡れ縁があり、手摺が設けられています。北東の向きにも1畳半ばかりの竹の簀子の濡れ縁があります。

 

襖の柄は一面の紅葉散らし。そこに雲母で流水が描かれています。引手は杼(ひ)。杼は機織(はたおり)をする時に緯糸(よこいと/ぬきいと))を通す道具です。紅葉と流水と杼の三題噺となれば、これはもう竜田川を思い浮かべるしかありません。竜田川竜田姫は染色と裁縫の女神様です。中秋の名月に合わせて造られた月波楼。正に秋の茶屋です。

 

屋根は寄棟造で杮(こけら)葺き、屋根裏が葭簀(よしず)張り、垂木と母屋(もや)は共に竹で、船底天井を成しています。天井板が張っていないので、屋根を支える骨組みなどがすっかり丸見えです。柱は曲がり木、丸太、節有りの木を使い、材は細く、地震や台風で簡単に壊れそうな華奢な造りです。侘び数寄もここまでくると極まれりと言う感ですが、修行僧を思わせる様な侘びの暗さは無く、周りの景色と相まって明るく朗らかな雰囲気を持っています。

 

松琴亭(しょうきんてい)

松琴亭は、茅葺(かやぶき)の書院と、杮葺(こけらぶき)の茶室と、瓦葺きの水屋(台所)という三つの異なる空間を、破綻なくまとめた茅葺入母屋造りの天井張りの建物です。

茶室へは普通の人は躙(にじ)り口から入る様になっております。茶室は三畳台目(さんじょうだいめ)(台目畳というのは1帖の3/4の大きさの畳の事。三畳台目は三畳+3/4畳)です。窓が八つあり、八相窓と呼んでおります。

茶室には茶道口(亭主の出入り口)と給仕口(給仕人の出入り口)が設けられています。二つとも襖は白い奉書張りの襖です。

茶室にはもう一つ出入り口があります。襖二枚開きのその出入り口は、二の間に通じており、貴人口(きにんぐち)になっています。

(貴人口とは、お客様が腰を屈めて躙(にじ)って入る方式では無く、立ったまま出入りできる口の事を言います。)

つまり、三畳台目の茶室には躙り口、給仕口、茶道口、貴人口の四つの出入り口があります。貴人口の茶室側の襖は藍色一色。それに合わせて二の間の内側の襖も藍色一色。二の間には半間の違い棚があります。

二の間の襖を開けて一の間へ入ると、鮮やかな藍と白の市松模様の書院が現れます。茶室の白、二の間の藍、一の間の藍と白の市松模様と、実に場面転換が見事です。

襖の引手は「結紐(むすびひも)形引手」と「螺貝(らがい)形引手」になっています。「結紐形」は巾着を紐結びしたデザインで富貴を表します。「螺貝」は法螺貝の事で、むかし貝は財貨でしたので宝物を表します。紐結びも螺貝も宝尽くしの縁起の良いデザインです。

書院には一間の床と半間の袋棚。そして、庇の下ではありますが、部屋から外に張り出して水屋があります。バックヤードにしっかりした水屋がありますので、この位置に水屋があるのは不思議です。きっと、御菓子や簡単な酒の肴をそこで用意して、みんなでワイワイと楽しんだのかしら? そんな想像をしてしまいます。そう言えば、一の間に一畳ばかりの石炉があります。

 

賞花亭(しょうかてい)

峠の東屋(あずまや)。賞花亭の写真を見た時、真っ先にそう思いました。

なんとまぁ小さくて軽やかで、まるで野点(のだて)の御座筵(ござむしろ)に屋根を翳(かざ)したような造りです。

賞花亭の造りは、畳4枚を漢字の 冂(けい) の字に並べて、少し高床にして敷き並べており、開口部の真ん中が土間になっています。土間は白っぽい色をしていて、そこに青黒い小石がまばらに埋め込まれています。まるで箔散らしの御料紙のように見えます。土間の右側に竈(かまど)があります。

土間兼正面入り口と思われるそこは、家の内と外を区切る敷居も戸も無く、壁も全くありません。雨風出入り自由の開け放しです。

開口部の一面を除いて残りの3面の内、「壁」らしい壁があるのは2面だけです。しかもその2面は連子窓や下地窓が大きく取られていて、スケスケです。残りの一面は襖1枚分の大下地窓(おおしたじまど)だけで他に何もありません。この大下地窓、驚いた事に襖の縁取りくらいの幅の土壁しか無いのです。土壁の塗り残しの下地窓と言うよりも、竹の格子窓に土の額縁を付けて嵌め込んだと言う様な、そういう格好をしています。余りにスケスケで虫籠の様にも見えてきます。

屋根は切妻(きりづま)の茅葺(かやぶき)、天井裏はへぎ板、垂木は竹。柱は外樹皮(ごつごつした表皮)付の丸太材で、曲がりくねっています。(へぎ板は、木を1㎜前後まで薄く割いて作った板の事。へぎ板は身近では曲げわっばなどに使われています。)

壁面積が少なく、柱も心許ないほど細くて曲がっていて、よくこんなので立っていられるなぁと感心。いや、心配になります。

 

園林堂(おんりんどう)

本瓦葺きの持仏堂で、唐破風の正面を持っています。今は中に何も置いていませんが、かつては仏像と、八条の宮家の位牌、そして、細川幽斎(=細川藤孝=長岡藤孝)の肖像画が一幅祀られていたそうです。細川幽斎は、八条の宮智仁親王に古今伝授を授けた人です。

 

笑意軒(しょういけん)

笑意軒は茅葺寄棟屋根の田舎家風で、深い庇を持っています。そして、すぐ目の前に舟着き場があります。池の畔(ほとり)を巡り歩いても、舟遊びをしながら優雅に舟で着いても良いようになっていますが、今は見学コースが指定されていて、順路を辿って行く様になっています。

建物の前に草(そう)の延段(のべだん)(=敷石)があります。石の敷き方にも真・行・草があり、真は花崗岩表面を平に削った上で、様々な方形に切り整えて真っ直ぐ並べた道を言います。草は、自然石の平らな部分を上にし、石のごつごつした不安定な部分を地面に埋め込んで、歩き易いように敷き並べたもので、行は、切り石と自然石を取り交ぜて作ったものです。(因みに、真の延段は古書院の御輿寄せに通ずる道にあります。)

笑意軒の延段は、道の両側の縁取りにやや大きめの白っぽい石を使用、縁取りの中は青味や赤味を帯びた大小様々な石が敷き並べて埋め込まれています。

さて、その延段の前に、笑意軒の正面があります。客は縁側から入る様になっています。(見学者は建物内に入る事は出来ません。外から眺めるだけです。)

 

正面の上の壁に、六つの丸窓があります。六つとも下地窓です。手前の部屋は「口の間」(入口の間の意味か?)と言って4畳です。その正面奥に「中の間」の6畳があります。「中の間」の襖の引手は、遊び心を舟に託して櫂(かい)形の引手です。庭園内には五つの船着場があります。笑意軒の舟着場はその中でもしっかりした造りになっております。

 

「中の間」にはひじ掛け窓があり、その窓の下の2間幅の腰壁が非常に斬新でユニークなデザインになっております。

腰壁長方形の中央を鋭く平行四辺形に切り裂くように金箔を貼り、残りの左下三角形の空間と右上三角形の空間に、黒とえんじ色の格子窓模様のゴブラン織りを貼っています。ゴブラン織りはビロードだそうです。格子窓の四角い隙間の地色は黄色かオレンジ色? 写真からは色彩が良く分からないのですが、とても華やかです。そういう織物は日本には無いので、舶来物だそうです。豊臣秀吉から贈られたものだとか。

 

ゴブラン織りのある「中の間」の左側が「一の間」です。「一の間」は3畳です。ここには付け書院と床があります。と言う事は、ここが茶室になります。

茶室の裏側が納戸。そして、その外側にトイレ。トイレには縁側廊下で繋がっています。縁側廊下にある杉戸の引手が矢形の引手です。

 

「中の間」の右側が「次の間」で、7畳半です。壁際の下方に袋棚があります。袋棚の襖絵は雲海を表しているそうですが・・?  婆の目には乱高下するグラフの線の様に見えてしまいます。(凡人のドングリ眼(まなこ)、お許しください。)  竹連子窓の内側に、竈(かまど)と長炉があり、そこは板敷きになっています。竈の隅に5重の吊り棚があります。中の間の裏側が勝手口と御膳組の部屋です。

 

笑意軒の柱は面皮柱で、天井板が張られています。外見は何処にでもある様な農家ですが、六つの丸窓と言い、ゴブラン織りの腰壁と言い、意表を突くような内装がいっぱいです。それでいて、ごたごたしていません。スッキリしています。見事と言う他ありません。

 

          庭   園

 『作庭記』

一つ、石をたてん事、まづ大旨をこヽろふべき也

これは、日本最古というより世界最古の造園の秘伝書『作庭記』の出だしです。書かれたのは平安時代の中頃、宇治の平等院が建てられた頃です。著者は橘俊綱(たちばな としつな(=摂政関白藤原頼道の次男))に違いなかろう、というのが定説になっております。

『作庭記』は秘伝として伝わってきましたが、実は書き写しも多くなされ、造園のマニュアル本として活用されてきました。日本の庭園の殆どがこの本の影響下にあります。作庭のバイブルと言っても過言ではありません。

 

離宮の作庭

石組の仕方、泉水の在り様など、施工するその土地の地形をよく見て、施主の意向を汲み取りつつ自分なりのデザインを施して行くように、との『作庭記』の教えは、現代でも十分通じる指南書です。指南の内容も具体的です。

土地を掘り、掘った土を盛り上げて築山に成し、川から水を引き、樹木をあしらう、そう言った土木工事を念頭に、桂離宮の庭園を見ると、非常に手の込んだ作事が行われているのが分かります。その中でも驚くのは、池の複雑な形です。

池と言えば、丸池、心字池、瓢箪池などが思い浮かびます。桂離宮の池は、海岸線ならぬ池岸の線が複雑で、池岸線の長さが、他の類を見ません。何故か?

メインの主殿や各茶屋からの眺めに、常に月を取り入れようとするには、その場所、その角度に水面を配置しなければならず、そうなると単純な池岸線ののっぺらぼうな丸池や瓢箪池では用が足りなくなります。ただ、それだけでは入り江や島、水路、橋などの多用は説明がつかないように思えます。そこには場面転換が仕組まれているように思えてならないのです。

 

名勝のジオラマ

月波楼から月の出の方向を見た場合、脇に天橋立、前に松琴亭が見えます。その構図、雪舟天橋立図』に描かれた風情に重なります。海の向こうの樹々の間に見え隠れする智恩寺や山の上の成相寺(なりあいじ)などを彷彿とさせます。

苑路を歩き、次々と変わっていく景色は、牧谿(もっけい)『瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)長谷川等伯『瀟湘八景図』を思い起こさせます。今の景色から次の景色に移ると、過ぎ去った前の景色が樹々の枝などに遮られて微妙に隠され、新たに表れる亭は一部を植え込みに隠して全身を表すことなく、まるで扇で顔を隠しているかぐや姫の様です。秘すれば花と言います。想像力を掻き立てます。

そう言えば、婆は桂離宮を見学に行っておりません。情けない事に、これ等の話は全てネットの写真や動画で見た景色を心の中で綴り合わせて、書いております。きっと実際はもっともっと素晴らしいものでしょう。

写真に写っている延段を、あたかも歩いているかのように空想の旅をしております。

 

述段(のべだん)(=敷石)

小さな石を縦にびっしりと土に埋め込んで造る「あられこぼし」の延段、1㎡あたり450~500個も敷き詰めるのですって! その「あられこぼし」の敷石面積が286㎡あるそうです。これに使われる石はチャートと言う非常に硬い堆積岩だそうです。延段に使うのは黒色系の石で、その1割くらいに赤系や白系の石を混ぜるそうです。敷石もお洒落です。

ついでに言えば、真・行・草の三種類の延段は、全部合わせて26か所あります。そして、延段や池面を照らす灯籠は24基あります。全部デザインが違います。

 

庭園の種類

2021年(令和3年)1月25日にアップした当ブログ№80 室町文化(7) 庭園」で幾つかの作庭について触れております。

浄土式庭園、寝殿造庭園、神仙蓬莱式庭園、縮景庭園、禅宗寺院庭園などです。これ等の庭園のそれぞれに回遊式庭園もあれば、座敷から一方的に眺める様な庭も有ります。

桂離宮の庭園はそのどれにも当てはまらないのに、全てを包含しております。

桂離宮と言う世界を創り上げた八条宮家の三人の親王智仁親王、智忠親王、穏仁親王の凄さに圧倒される思いです。

 

桂垣

この離宮を400年間も守って来た人達の偉さもさることながら、守り続けた防災の知恵も又学ぶべきものがあります。

桂離宮には「桂垣」という特殊な垣根が存在します。何が特殊かと言うと、その作り方です。生きている竹を腰から折り曲げて、竹の天辺を地面に接地させ、それを密に編みこんで垣根にしているのです。竹は根を張ったままですから枯れることなく、何時も青々と葉を茂らせています。

この桂垣は桂川沿いにあります。川が氾濫した時、離宮に押し寄せた水は竹垣を難無く通り抜けてしまいます。しかし、水流は密に造られた竹垣によって弱められ、しかも、泥水の泥は濾し取られ、流木はそこでストップします。生きている竹ですから弾力もあり、濁流に強いのです。洪水の時には古書院等は畳まで水を被った事があったそうですが、高床のお蔭で被害は少しで済んだそうです。松琴亭は低い位置に在ったので、鴨居ぐらいまで水に浸かったとか。今でもその浸水の跡が壁に残っているそうです。

 

 

余談  面皮柱 (めんかわばしら)

面皮柱:丸い木材を角材に成形する時、円内に納まる様に正方形に切り出すのでは無く、円からはみ出す様に方形に切り出したもので、そのため角になるべき外皮が取り残されて、角が面取りをしたように丸味を帯びている柱の事を言います。皮と言っても、二通りの皮付があります。樹木の表面のゴツゴツした荒々しい表皮を残したものと、そうでは無く、一皮むいた内樹皮の状態のものです。多くは内樹皮のものが用いられています。

 

余談  裙帯 (くんたい)

唐の時代、裙(くん)と言うのは襞(ひだ)の付いたスカートの事。高松塚古墳の貴婦人が付けているスカートと同じ。裳の事。帯(たい)は帯(おび)、或いは領巾(ひれ)の事です。領巾は細長いスカーフのようなもので、観音様が身に纏っていたり、天女が空を舞う時にひらひらとなびかせているあの布を領巾と言います。

日本で裙帯(くんたい)と言うと、十二単(じゅうにひとえ)の極めつけの正装に使う帯を意味します。略式十二単では、裙帯を付けません。紫式部日記に正装した左衛門の内侍が裙帯を付けた姿を「うるはしきすがた」と評しています。(前略)・・・青色の無紋の唐衣、裾濃(すそご)の裳、領巾(ひれ)、裙帯は浮線綾(ふせんりょう(=浮き織))を櫨緂(はぜだん)に染めたり・・・(後略)」とあります。

  

余談  下地窓 (したじまど)連子窓 (れんじまど)

下地窓と言うのは、有り得ない譬(たと)えて言うならば、鉄筋コンクリートの鉄筋を剥(む)き出しにして窓にした様なものです。

普通、土壁を造る時、竹や葭(あし)を藤蔓(ふじづる)で格子に編んだものを土壁の芯材として据(す)え、藁(わら)などを漉(す)き込んだ土をその上から塗り籠めます。茶室などでは採光用に窓が欲しい場所に、わざわざ土を塗らずに塗り残し、そこを窓とする事があります。それを下地窓と言います。竹などの内部の芯材は剥き出しです。

大下地窓と言うのは、そうやって開けた窓が極端に大きいものを言います。

連子窓というのは、細長い木材、或いは竹などを、櫛(くし)の歯の様に並べて窓にしたものを言います。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記のように色々な本やネット情報を参考にしました。(順不同)

宮内庁 これまでの<京都>御所と離宮の栞 

NHKアーカイブス 桂離宮 新御殿

桂離宮松琴亭襖ほか修理工事

国指定文化財関連サイト

京都・奈良文化財保護サイト 笑意軒

楽器の間・新御殿 | 京都・奈良文化財保護サイト さくらインターネット

月と建築  解説ページ 月と桂離宮-INAX 宮元健次(庭園史・庭園デザイン)

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作庭記原文 大阪市立大学 中谷ゼミナール

千年前の造園指南書「作庭記」について 島根県技術士会 山村賢治

駒澤大学 『作庭記』について

「作庭記」と平等院|藤はなの窓 平等院

桂離宮とその周辺の水害リスク 京都歴史災害研究 

                論文 川崎一郎・岡田篤正・諏訪 浩・吉越昭久・大窪健之・

                          向坊恭介・ 大邑潤三・高橋昌明

まともに見ようよ川と地域と私達の生活007 京都アイネット

桂離宮あられこぼし苑路の改修  

 

この外にウィキペディア」観光案内、自治体のパンフレット、動画、観光客の皆さまネットにアップした写真や情報等々ここには書き切れない程の多くのものを参考にさせていただきました。

ありがとうございました。