5代執権 北条時頼
5代執権北条時頼は4代経時の弟です。
ここで一つ押さえておきたい血筋の問題があります。
経時と時頼兄弟の父時氏は3代執権・泰時の長子ですが、庶子です。
泰時の本来の嫡嗣子は朝時(ともとき)です。朝時が不祥事で失脚した為に、庶子の時氏の長男・経時が執権職を継ぎました。
4代・経時の病が重篤になると後継者問題で秘密会議(深秘の御沙汰)が開かれ、執権職を経時の弟・時頼が継ぐ事に決まりました。二代続けて時氏流から執権が出たことで、時氏流が北条本家嫡流(得宗家)に確定しました。これにより朝時の子は完全に分家になってしまったのです。朝時(名越(なごえ))流の子孫がこれを面白く思う筈がありません。
名越流の光時は、将軍親政を目指す九条(藤原)頼経を担いで、評定衆の有力御家人達を糾合し、反時頼陣営を築きます。
1246年5月、4代経時が亡くなると直ぐ、光時周辺に不穏な動きが出て来ます。時頼はそれを察知するや直ちに行動に移します。
光時の所領を没収して出家させ伊豆に配流。将軍側近だった藤原定員(さだかず)を安達義景に預けて出家させます。(宮騒動)
これで収まれば、かなり穏便な政変で終わったでしょう。けれど、もう一つ別の勢力がさらなる波乱を巻き起こします。安達氏の関与です。
経時と時頼の母(松下禅尼)の実家が安達氏です。安達氏の当主・景盛は、最大勢力の三浦氏が存在すると、地盤の弱い時頼の将来に害を成すと判断、と言うよりも、安達氏の繁栄の障害になると踏んだのでしょう。事前にこれを取り除こうとします。
三浦泰村は穏健派だったのですが、弟の光村は反時頼の強硬派だったので、安達氏と時頼の手で三浦氏は追い詰められ、鎌倉の法華堂で一族と親将軍派御家人合わせて500余人が自害し、滅亡します(宝治合戦)。三浦氏と縁戚の千葉秀胤(ひでたね)も追討。三浦氏に加担した毛利季光(すえみつ)も討伐し、滅亡させます。(季光の娘は時頼の正室。事件後離婚。季光の四男は越後に居て無事。この四男が毛利元就の先祖になります)。(寛元の乱)
時頼は後藤基綱、三善康持などの反対派を評定衆から解任し、一掃します。
1252年、時頼は将軍・九条(藤原)頼嗣を追放、御嵯峨天皇の皇子の宗尊(むねたか)親王を迎え、新たな将軍にします。また、連署に北条重時を迎えます。
時頼は政権を安定させる為、評定衆の下に新たに引付衆を設置して訴訟の迅速化を進めます。そして、宮騒動で失脚させた御家人達を引付衆に採用し、返り咲かせています。
1256年、連署の重時が出家し、時頼は代わりに重時の弟・北条政村を連署にします。同年11月、時頼は執権職を義兄の長時に譲り、最明寺で出家します。以後、最明寺入道と呼ばれますが、引退とは程遠く、院政の如く政治の実権を手にしています。
彼は、子供達の序列を明確に決めました。正室、継室、側室からそれぞれ生まれた子供達。それぞれの室に長男、次男、三男とある訳で、序列の乱れは政争の種になります。
出家してから7年後、病に罹り、次第に悪化して1263年11月22日に亡くなります。享年33歳。
鉢の木
雪の或る日、佐野源左衛門常世(つねよ)の家の前に旅の僧が立ち、一夜の宿を頼みました。
常世は一旦は断りますが、「何もありませんが暖だけならば」と言って招き入れます。彼は囲炉裏に薪をくべ、凍えている僧を温めました。常世の女房は粟粥を炊き、僧に差し上げました。
常世の家は酷いあばら家です。けれど、鎧があり、長押に槍もあります。僧は不思議に思って、常世に身の上を尋ねました。
常世が語るには、以前は佐野の領主でしたが一族に土地を横領され、今はこの貧乏・・・と。やがて囲炉裏の薪も乏しくなったので、常世は植木鉢の木を伐り、火にくべ始めました。それは松と梅と桜の立派な盆栽でした。
そして、「この様に零落の身ですが、いざ鎌倉と言う時は、痩せ馬に跨り、錆びた槍を引っ下げ、鎌倉に馳せ参じる覚悟でございます」と申しました。
春。鎌倉から召集がかかります。常世も鎌倉に駆けつけます。
大勢の侍達が犇めく中で、幕府の役人は「痩せ馬に跨り、錆びた槍を携え、ボロの鎧を着た者はおるか?」と声を掛けます。
「私でございましょうか?」
常世が前に出ると、そこに一人の僧が立っておりました。
「おヽ、そなたじゃ。あの雪の日は世話になった」
その僧こそ、最明寺入道時頼でした。
入道は、あの時のお礼として旧領地を回復した上、鉢の木に因み、加賀の梅田荘、越中の桜井荘、上野の松井田荘の三か所を常世に与えました。
これは能楽「鉢木」の演目になっています。