式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

32 執権北条氏(6) トップとナンバー2

 執権北条氏の四代、五代と進み、更に六代、七代と延々とブログにアップして行く事に、一体何の意味があるのかと、我ながら呆れつつ自問しております。

メインテーマの「式正織部流「茶の湯」の世界」へどう繋げて行くのか、一話一話を地層の様に積み重ねながら描いて行く内に、覇権の争奪や権力の暴走の姿を次第に浮かび上がらせて、最終的には、千利休が何故切腹しなければならなかったのか、古田織部は何を目指して利休とは違う茶の湯を開いたのか、そして、自刃したのかに到達できればいいな、と思っております。今は富士山の二合目辺りです。

武家社会と言うのは一言で言えば軍隊組織です。

トップが命令一下「右向け右」と言えば全員が右を向き、「掛かれ!」と命ずれば一斉に突撃するのが軍隊です。そこに多様性や民主制が持ち込まれる事はありません。せいぜい軍議で「殿、先鋒はこの私奴にお任せを・・・」と意見を言うくらいです。

現代の軍隊では、あらゆる情報・兵站・戦略・戦術・兵器など、又、民心や社会構造や経済などの動態変化、国際間の外交地図の流動性など、点・線・面・時間などの多方面に亘って重層的な検討が必要で、しかも想定内、想定外も含めて考えて結論を出さなければならず、とてもトップ一個人の手に負えるものではありません。徹底した議論が必要になってきます。

鎌倉時代から江戸時代まで完全なピラミッド型の武家社会では、トップに比肩するナンバー2の台頭は許される筈もなく、常に討伐の対象になりました。徳川家光と忠長の様に時代が下ってもその掟は生きています。そして、もし、ピラミッドを根底から崩しかねない危険な思想を、茶の湯が孕んでいるとしたら・・・それに、トップが気付いたとしたら、トップが打つ手は限られてきます。

北条時頼が病気になった時、嫡嗣子・時宗が6歳だったので、時宗が成人するまでの間、中継ぎの執権として6代目に就任したのが、長時です。

長時は温和で忠実で皆からの信頼が厚く無欲で、実務能力がありました。時頼にしてみれば、これほど息子時宗の存在を脅かす懸念の無い、中継ぎに相応しい人物は有りませんでした。執権職を長時に譲り時頼は出家しますが、病が回復します。時頼はここで院政を敷きます。執権の長時には余り出番がありませんでした。これもナンバー2の生き方です。

また、宮騒動や寛元の乱の時、中原師員(なかはらのもろかず)と言う公家出身の学者で、幕府の御家人文官がおりました。彼は藤原頼経と頼嗣の二代の将軍に最側近として仕え、評定衆筆頭席でした。将軍や執権を補佐し、評定衆で正論を述べたりして皆をリードしていましたが、騒乱で将軍でさえ更迭され、相当数の人達が失脚・滅亡して行く中で、彼は政争に巻き込まれる事無く、正四位下まで昇進し、生涯を全うしております。

トップとナンバー2、或いはそれに準じる立場の人間は、権力との距離の取り方を誤ると忽ち殺されてしまうのが武家社会です。何しろ、武家社会は頂点に立つのは一人しか許されません。「お山の大将」と同じです。「内々の事は利休に聞け」と言われるほど豊臣政権の中で力を持っていた千利休と、中原師員とは何が違ったのか、考えると興味が尽きません。

 

6代執権 北条長時

長時は、3代執権泰時の弟・重時の次男です。又、長時の妹(葛西殿)が時頼の継室なので、長時と時頼は義兄弟になります。

重時が六波羅探題に勤めていた関係で、長時は父と共に京都暮らしが長く、文化人です。勅撰集に12首の歌が採用されています。

長時は真言律宗の忍性(にんしょう)に帰依し、その菩薩行を政策に具体化して行きました。長時は非人救済の病院・桑谷(くわがやつ)療病所を建て、福祉事業に力を注ぎました。鎌倉にある極楽寺は長時の父の重時が開基で、忍性が開山です。

長時は執権職に8年在職。1264年9月12日卒。享年35歳。

(※ 時頼が亡くなったのが1263年12月24日で、享年37歳でした。長時は中継ぎでしたが、時頼と殆ど変わらない位、相前後して亡くなっています。)