式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

79 室町文化(6) 銀閣寺

通称銀閣寺と呼ばれるお寺は、正式には東山(とうざん)慈照寺と言い、相国寺の飛び地にある塔頭(たっちゅう)の一つです。このように飛び地にある塔頭を境外塔頭と呼びます。金閣寺相国寺の境外塔頭です。

銀閣寺の建っている場所は京都市左京区にあり、大文字山の麓です。

北山文化の代表と言われる鹿苑寺金閣。一方、東山文化の代表と言われる慈恩寺銀閣

金閣を建てた足利義満も、銀閣を建てた義政も、禅宗に深く影響を受けている人物ですが、造営した建物の雰囲気はまるで正反対です。(参照:78 室町文化(5) 金閣寺)

金閣は贅美の極みです。銀閣の姿には質実簡素な美が有ります。銀閣には無駄をこそぎ落とした禅宗の精神美が見られます。

 

義政の建築趣味

足利将軍家は、将軍の代が変わる毎に将軍御所を新築する習わしがありました。義政もその例外ではありません。彼は在位中47年間の間に烏丸殿(からすまるでん)、室町殿、小川殿(こがわでん)、東山殿の四か所を造っています。

室町殿は三代将軍・義満の室町第と同じなので、改築位で済ませたのかも知れません。

小川殿は細川勝元の別荘でした。義政は勝元の別荘地を借りて御所を建てます。が、手狭でした。義政は正室日野富子との仲が悪くなり、義政は別居願望が強くなります。彼は東山に延暦寺門跡寺院だった浄土寺の土地を手に入れ、山荘造りを始めます。

足利義政は生来芸術家肌で将軍職には向いていなかったのかも知れません。彼は権力闘争の明け暮れに政治への興味を失っていました。(その癖、実権は最後迄離そうとしませんでした)。正妻からも一刻も早く離れたかったようです。

彼は東山山荘の造営にのめり込み、毎日建設現場に足を運びました。大工や庭師などと話しながら、彼が思い描く理想の山荘を追い求めて行きました。ついには、建設途中の山荘に引っ越してしまい、寝泊まりする様になりました。

彼は芸術に逃避しました。おまけに、財布の紐は正妻の富子に握られていました。日野富子は巨万の富を手にしていましたが、義政自身は貧乏でした。彼は公家領や寺社領から資金を取り立て、また、庶民に税金や労役を課したりしました。家臣の家へ御成りして、饗応接待を受け、お土産を沢山貰ってそれを資金の一部にもしました。

 

部屋の使い回しと固定化

それ迄の将軍御所や上級武士の家の構えは、表向きの客殿は寝殿造でした。

寝殿造りの部屋割りは、御簾や几帳、調度や屏風などで区切ります。客人が来ると、ちょいと設えを動かして、それ用に調えました。(参照:16 室礼(しつらい)の歴史(1) 寝殿造)

それが次第に変わって行き、客用の部屋が生まれました。相手の身分によって上位者であれば主人が下座に座って客を上座に、下位者であれば主人は上座に座ったまま客を下座に迎えると言う形になりました。

その遣り方は時代が経るにつれて更に変わって行きます。

上座は上座で主客入れ替わる事が無くなり、部屋の機能が固定化してきます。接客部屋が固定化してきます。謁見や儀式の間の様な公の間と、主が寛げる私的空間に分かれて行きます。

公の間は会所の広間の変化形と見る事が出来ます。

会所では、壁際全ての面に屏風を並べ立て、長板の上や卓の上に自慢の物を飾り付けて展示しましたが、やがてその飾り付けの場所が固定化し、正面上座の中央に押し板を置き、その分だけ壁を凹ませて、ショーウィンドウ的な効果を演出しました。

禅寺の部屋

世俗の建築がこの様に変化する様に、禅宗の寺も変わって行きます。

禅宗が日本にやってきた時、禅宗寺院では大陸で行われている宋様の諸式に則って全てが運営されていました。必要最低限の荷物を持って、僧侶達は大部屋一つに寝泊まりし、座禅堂で座禅を行い、作務に励みました。

やがて住職の高弟が本寺院の敷地内に塔頭を建て、数人の弟子を預かって指導する様な形が取られて行きます。大寺院では幾つも塔頭が並びます。また、塔頭の住持は自分の個室を持ち、そこで詩作をしたり、読書をしたりの活動をしました。五山文学などの優れた文学も、こういう所から生まれてきています。

武士の部屋

支配層の武士達は禅僧に師事し、学問や行動規範を学びます。

軍事面を除いて、武家と禅家の二者は互いに響き合い、融合した文化を紡ぎ出して行きます。

足利義政は自分が理想とする山荘を建てようと志しました。彼は将軍御所の機能と、自分が独りになれる憩いの場を東山殿に実現しようとします。その憩いの個室こそ書院の始まりになりました。東求堂の同仁斎には文房具を置く付け書院があり、愛玩の文物を置く棚があります。

創建当時は銀閣や東求堂の外に会所、泉殿、常御所、西指庵(禅堂)などなど幾つもの建物が建っていたそうです。これらは慈照寺に受け継がれたそうですが、その後の兵乱で荒れ果てて殆どを失ってしまいました。

(参照:「20 室礼の歴史(5) 同仁斎」)

 

 

余談  日野富子

足利義政正室日野富子は、日本三大悪妻のトップに輝く誉れ高い人物です。

義政との間に出来た初産の子を、即日に亡くした富子は、乳母を流罪にしてしまいます。

義政の側室4人を追放します。

富子に中々男子が生まれなかったので、義政は弟の義視(よしみ)を後継者に指名。その後、富子は男子・義尚(よしひさ)を産みます。富子は我が子を将軍にしようと山名宗全を後見人に指名、細川勝元や斯波氏、畠山氏を巻き込んで応仁の乱を引き起こします。富子は戦費を大名に貸し付け大儲け。米の投機も行い更に儲けます。京都の入り口の七か所に関所を設け、通行税を取り、一揆を頻発させます。

この様な具合で彼女の評判は最悪ですが、芸術オタクの夫・義政を見限って財テクに邁進し、室町幕府の切り盛りをしていた、という見方も出来ます。