式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

93 応仁の乱(4) 乱の前夜

室町幕府の政治体制はピラミッドの様な三角形をした支配体制の形ではありません。言うなれば、頂上がなだらかな丘の様になっていて、三管領四職の大名や重臣達の評議制の上に成り立っていました。将軍は一見その上に君臨している様には見えますが、将軍職と言うものは彼等が担いでいる御神輿に過ぎず、弱い存在でした。その最大の原因は、室町幕府の経済的基盤が弱かった事にありました。

 

弱い幕府

鎌倉幕府室町幕府の財政を比べてみると、鎌倉幕府承久の乱で没収した膨大な領地を得る事が出来、関東甲信越8か国を知行国にしました。また、潤沢に御家人達に分け与える事も出来ました。室町幕府建武の親政時に出来た幕府で、後醍醐天皇は公家に手厚く荘園を与え、武家には薄く配分しましたので、鎌倉幕府よりはずっと少なかったのです。

3代将軍・足利義滿の時、勘合貿易で利益を得て、経済的に豊かになり余裕も出てきました。が、4代将軍・義持が明との朝貢貿易を廃し、御料地と土倉(=高利貸・質屋) や酒屋からの税収、関銭(通行料)、津料(港使用料) 等の収入に頼る様になると、途端に歳入が不安定になりました。例えば土一揆で徳政令を出すと、土倉や酒屋が潰れそうになり、幕府の税収が減りました。戦乱と飢饉と疫病に苦しめられていた庶民は徳政令を頻繁に要求しました。

朝鮮使節尹仁保(いんじんほ) が出した朝鮮への報告書には、日本の事を『国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ』と書いてあるそうです。

 

策謀と言う武器

将軍は、経済力で諸大名に対抗できず、威令も蔑(ないがし)ろにされる様になる中、将軍家は様々な手を打って将軍の権威を高めようとしました。その手とは権謀術策の数々です。

1. 将軍家に対抗する可能性のある人物を潰す。 2. 内紛を起こさせて大名の勢力を削(そ)ぐ。 3. 利害が反する国同士を戦わせる。4. 強引に圧伏する・・・などなど。

結果は、将軍の権威は挙がらず却って下がり、世が乱れました。その混乱に大名達の欲と思惑が重なり、てんでんに皮算用をしながら、戦い始めます。

 

畠山氏の後継ぎ問題

畠山持国は、将軍・義教(よしのり)の怒りに触れて家督も領国も弟の持永に替えられてしまいました。

1441年(嘉吉元年6月24日)、義教が暗殺された翌日25日の評定で、義教によって失脚させられた者達の赦免が行われ、持国も赦されました。持国は直ちに弟・持永を攻撃して討ち取り、家督と領地を奪い返します。

1442年(嘉吉2年)、嘉吉の乱の張本人・赤松満祐(あかまつ みつすけ)の討伐が一段落すると、細川持之(ほそかわ もちゆき)管領職を辞し、替わりに畠山持国管領職を引き継ぎます。持国は8代将軍に義政を推し、彼を将軍職に就けます。その功のお蔭で持国は権勢並びのない者になります。

畠山持国は弟の持冨(もちとみ)を後継者に定めていました。ところが、後継者を定めた後に遊女との間に子供が出来ました。彼は心変わりして持冨を廃嫡し、その子を跡取りにしました。

持国を取り込みたい将軍・義政は、この変更を裁可します。その子は名前を義夏と言い、更に義就(よしひろorよしなり)と改めます。持冨は廃嫡されて4年後、失意の内に病気で亡くなってしまいました。(参考:91 応仁の乱(1) お家騒動)

 

弥三郎政久  vs  義就

収まらないのは持冨の家臣達です。元遊女の側室から生まれた義就が、本当に殿の子かどうかを家臣達は疑っていました。その側室には他にも二人子供が居て、二人とも父親が違っていました。家臣達は持豊の遺児・弥三郎政久こそ本来の後継ぎだと言い立てます。

1453年(享徳3年8月21日)、弥三郎支持派が持国の屋敷を襲撃します。義就は伊賀へ逃げます。

1454年(享徳3年4月3日)、持国は弥三郎を支持する家臣・神保国宗(じんぼ くにむね)を誅殺し、弥三郎派を一掃します。が、細川勝元山名宗全などが弥三郎を支持し、弥三郎政久とその弟・政長兄弟を保護します。この件で勝元と宗全は持国の責任を追及し、持国を失脚させます。勝元は宗全の養女を正室に迎えており、勝元と宗全は持国追い落としに結託したのです。

義就が伊賀に逃れている間に弥三郎は復権しますが、義政は、勝元と宗全を牽制する為に伊賀に逃げた義就を呼び寄せ、弥三郎を没落させてしまいます。そして、

1455年(享徳3年3月26日)、畠山持国が亡くなり、畠山義就家督を継ぎます。弥三郎は大和へ逃れます。

 その頃、大和では「大和永享(やまとえいきょう)の乱」と呼ばれる大乱が1429年(永享元年)から25年以上も続いていました。発端は奈良の興福寺の支院・大乗院と、同じく興福寺支院・一乗院の両者の覇権争いでした。興福寺成身院光宣(じょうしんいん こうせん) は6代将軍・義教に援軍を要請、以後義教が死亡した後も泥沼の戦いと化していました。義教死亡で復権した河内国守護・畠山持国が大和への勢力拡大を図っていた、と言う様な歴史がそこにはありました。

1454年、畠山家でお家騒動が発生すると、光宣と弟の筒井順永は弥三郎を支援しましたが、義就側に就いた越智家栄(おち いえひで)に敗れ、光宣は逃亡しました。

その後義就は、義政の上意と嘘をついて大和の弥三郎派の弾圧を開始、軍事行動を起こします。更に義就は上意と嘘をつき細川勝元の所領山城国を攻撃します。勝元は義就の排除に動きます。

上意詐称を何度もする義就は、義政からの信用をすっかり失ってしまいます。義政は、義就を放逐、義就の所領を没収し、更に、義就に協力的だった大和の国人達の所領を没収してしまいます。そして、弥三郎政久は赦されますが、1459年、彼は亡くなってしまいます。

 

政長  vs  義就

 弥三郎が亡くなった後、弟の政長は、畠山家の家臣の遊佐長直(ゆさ ながなお)神保長誠(じんぼ ながのぶ)と、成身院光宣の支持を受けて弥三郎の跡を継ぎます。そして、勝元、光宣、畠山家臣団に擁立されて、畠山家の家督を継ぎます。政長は大和の義就派の残党の一掃に勤めます。幕府は義就追討令を出します。

1460年(長禄4年or 寛正(かんしょう)元年)5月、義就は河内国嶽山城(だけやまじょう)(現大阪府富田林(とんだばやし))に立て籠り、徹底抗戦します。

勝元は細川氏一族、山名氏など諸大名と討伐軍を組んで義就と戦いますが、なかなか決着がつかず、ようやく2年半後に嶽山城は陥落しました。義就は吉野へ逃れました。

勝元は戦いに勝利し、勢いを増しました。ところが、元は協力関係にあった勝元と宗全でしたが、宗全は増大し始めた勝元の派閥を警戒します。これ以上細川勝元を拡大させてはならないと、宗全は勝元を追い落としに掛かります。

畠山政長管領に就任します。

 

義政の子の誕生と義視

1464年12月24日(寛正(かんしょう)5年11月26日)、義政は弟・義視(よしみ)を説き伏せて還俗(げんぞく)させます。

義視は初め説得に応じませんでした。彼は、兄・義政が30代で若く、まだ子供が授かる年齢である事、子供が生まれた場合には自分が家督争いに巻き込まれる事などを懸念、中々承知しなかったのです。義政は自分に子供が生まれても将軍職は子供に継がせず義視に継がせると約束をし、ようやく承諾させたのです。間もなく、義政の妻・富子の妊娠が分かります。富子はそれを承知で、実の妹・良子を義視と結婚させます。

1465年12月11日(寛正6年11月23日)、義政と富子の間に子が生まれます。子の名は義尚(よしひさ)です。義尚は晩年に義煕(よしひろ)と名前を変えます。義政は義尚の養育係に伊勢貞親(いせ さだちか)を付けました。伊勢貞親は、かつて幼少の義政を養育した人物です。義政と貞親の絆は強く、貞親を得て義政は親政の度を深めていきます。

貞親は1466年、斯波氏の家督相続に介入し、山名宗全細川勝元が支持している斯波義廉(しば よしかど) から家督を取り上げ、斯波義敏(しば よしとし)家督を与えました。加えて義敏に越前・尾張遠江(とうとうみ)を与え、更に、義廉を討つ様に命じています。こうして宗全と勝元を牽制しました。

 

文正(ぶんしょう)の政変

1466年、貞親は義視の排除を画策します。貞親が養育している義尚の将来に義視は禍根でしかなく、義尚の安全の為にどうしても義視を殺害しなければならない、と貞親は考えました。貞親は義視に謀反の動き有りと噂を流します。

1466年(文正元年9月6日)、貞親は義政に、義視を誅殺する様に訴えます。義視は勝元の下に逃げ込みます。伊勢貞親は讒言の罪を問われて追われる身となりました。貞親に与(くみ)していた季瓊真蘂(きけい しんずい)斯波義敏赤松正則も失脚しました。義敏の失脚により、斯波家の家督斯波義廉に戻されました。(文正の政変)

1467年(文正元年12月) 畠山義就が軍を率いて上洛、義政に拝謁し、畠山政長管領辞職と畠山邸の明け渡しを要求します。

1467年(応仁元年元日)、義就、義政から赦免され、畠山氏の家督を継ぎます。

1467年(応仁元年1月5日)、畠山政長管領を罷免され、斯波義廉管領になります。

1467年(応仁元年1月18日)、義就と政長は京都の上御霊神社で対峙し、戦いを始めます。(→ 御霊合戦(ごりょうがっせん)or上御霊神社の戦い(かみごりょうじんじゃのたたかい))

義就と政長の両者の戦いに、各守護大名達が参戦します。応仁の乱の勃発です。