式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

85 元滅亡と朱元璋

日本の文化は、大陸の影響を受けながらも、それらを取り入れつヽ島国と言う器の中で独自に消化し発展してきました。

1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度の蒙古襲来を受けてから、大陸との交易が険悪になっていました。

この辺りで大陸の事情を探ってみたいと思います。

 

元の滅亡

大元の初代皇帝フビライの後、権力闘争が続きます。四代皇帝・アユルバルワダ(仁宗)の頃になると、皇太后とその寵臣(ちょうしん)の専横が罷り通る様になり政権が不安定になります。その為、アユルバルワダ没後の13年間に7名の皇帝が次々と変わりました。

人々に順法意識が薄く、法は無視されました。血筋が尊ばれ、宮廷の役職は能力に関係なく皇帝の身内が占めました。賄賂が横行し、寵臣や軍閥が跋扈(ばっこ)しました。

重税が課せられ民衆は苦しみました。加えて、数年に及ぶ冷害によって農作物が出来ず、飢饉が発生、更に追い打ちを掛けたのが、14世紀に起きたペストのパンデミックです。飢饉と疫病、重税と極端な貧富の差に耐え切れなくなった民衆が、やがて蜂起します。

 

朱元璋(しゅげんしょう)

中國は江南の地に朱重八(しゅじゅうはち)と言う子供が居ました。兄弟と従兄弟合わせて8人で、重八は末っ子でした。彼の父は洪水で死亡、他の家族は皆餓死して亡くなりました。重八は寺に入りますが、やがて寺でも小僧を養うだけの余力が無くなります。彼は乞食(こつじき)をしながら各地を転々と放浪し、何とか生き延びました。

重八は後に名を朱元璋と改めます。彼こそ明の初代皇帝になった太祖・洪武帝その人です。

1351年白蓮教徒が紅巾の乱を起こします。彼等はみんな頭に赤い布を巻いて乱に加わりました。

25歳の時、朱元璋は紅巾の乱に身を投じます。彼は、郭子興(かくしこう)と言う紅巾軍の将の下に行きます。朱元璋は異形の顔をしており、スパイと疑われましたが、その面構えが気に入った郭子興は自分の配下に入れます。朱元璋は郭子興の下で軍功を上げ頭角を現していきます。そして、郭子興の養女・馬氏を妻に迎えます。

 

戦績

郭子興が亡くなると、子興の軍は二人の息子に引き継がれます。が、その二人の息子が戦死してしまいましたので、朱元璋はその軍を率いて戦います。彼は長江下流の集慶路(現南京市)を押さえ、応天府と地名を変えました。

江南の地には、張子誠(ちょうしせい) の勢力と紅巾党の勢力があり、朱元璋と三つ巴で争う様になります。朱元璋は紅巾党の党首・韓林児と手を結ぼうと応天府に呼びましたが、謀略を持って彼の船を転覆させ、殺してしまいます。また、鄱陽湖(はようこ)の戦いで紅巾党の一派が興した大漢国の水軍60万を、朱元璋赤壁の戦いの戦略に倣って火計で殲滅し、この三つ巴の戦いに勝ち抜きました。

彼は応天府で即位し呉王と名乗り、元号洪武、国名を大明としました。元号に従って彼を洪武帝と呼びます。

洪武帝はここで元討伐に手を着けます。20万の大軍を差し向け、連戦連勝の快進撃を続け、ついに元の首都・大都に迫りました。元は抵抗することなくゴビ砂漠の北へ逃げて行きました。これ以降、元は北元となって存続して行きます。更に洪武帝は紅巾党の残党を滅ぼし、ほぼ中国全土を平定しました。

 

洪武帝の評価

清の三代皇帝・順治帝は「漢の高祖から明まで歴代の君主は洪武帝に及ばない」と称賛し、康熙帝(こうきてい)は「唐宋以上の盛時を成した」と書いたそうです。「聖賢と豪傑と盗賊を一人で兼ね備えた人物」と言われた朱元璋。その肖像画には、威厳に満ちた帝王の顔と、異形な顔の二枚があります。異形の方は、顔が長く、顎がしゃくれ、耳が長く、口が大きく、眉も目も吊り上がって鋭い眼光を放っています。

 

善政

洪武帝重農政策を取ります。治水事業を盛んにして堤防修理に力を注ぎました。天災で飢饉にあえいでいた民に養民政策を施しました。移民と定着を進め、免税も実施しました。これによって農業生産が回復し始めました。小商いの商人を優遇し、大商人などの財産を没収し弾圧しました。商人と役人の癒着を切り離す為に、北人の官吏を南方へ、南人の官吏を北方に任命する『南北更調の制』が取られました。抵抗すれば即処刑でした。

 

粛清

 [空印の獄]  1376年、印鑑の不正使用に対して大規模な粛清が行われました。その頃、予め印鑑を押した白紙書類を使って書類を作るという習慣が横行していました。洪武帝はそれを禁止。印鑑管理者と関係者全員を、有無を言わさず処刑しました。死刑執行は数千人に及んだそうです。

[胡惟庸の獄]  1380年、共に建国の労を取った胡惟庸(こいよう)に謀反の疑いを掛け、彼とその重臣、一族郎党を皆殺しにします。そればかりか、「あいつは胡党だ」と密告があれば確かめもせず処刑してしまいました。宮廷の功臣も巻き込まれた者が多く、その数1万5千人と言われています。

[文字の獄]  1381年、文字の獄と言う弾圧を始めます。自分の過去を隠したい朱元璋は、「僧」「光」「禿」等と一緒に、「僧」に近い発音の「生」、「盗」に近い発音の「道」も使う事を禁止しました。これを迂闊に書いたり話したりすると処刑されました。

[藍玉の獄]  1393年、元を倒し、元を北方モンゴルの地に追い払った大将軍・藍玉(らんぎょく)も粛清されます。藍玉の時に連座して粛清されたのは3万人と言われています。

柔弱な皇太子を心配した洪武帝は、息子の脅威になりそうな頭の良い官吏も、知識人も殺しました。ところが、皇太子が若死にしてしまいましたので、嫡孫の允炆(いんぶん)を皇太孫にしました。幼い孫が帝位に就く事を考え、益々謀反の芽を事前に摘み取る事に熱中し、粛清に励みます。允炆が帝位に登り建文帝となった時、彼の周りには無能な者ばかりでした。「靖難(せいなん)の変」のクーデターが起きた時、建文帝を助ける優秀な将軍も献策をする文官もおらず、敗退してしまいます。

豊臣秀吉が死の床で、「秀頼を頼む」と何度も五大老五奉行に繰り返して懇願した話は有名です。ところが、朱元璋は猜疑心の命ずるまま、前田利家石田三成に相当する重臣達を片っ端から処刑してしまいました。結局、二代目・建文帝は、叔父・朱棣(しゅてい)(洪武帝の四男)に攻められ、帝位を簒奪(さんだつ)されてしまいます。(→靖難の変)

建文帝を倒して三代目の皇帝になったのが永楽帝(=朱棣)です。永楽帝は帝位簒奪の悪名を払拭する為、建文帝の元号を抹消して、自分が二代目であるかの様に振る舞います。

 

勘合貿易

 洪武帝(朱元璋)は日本に朝貢を求めました。九州に居た懐良(かねよし)親王がその親書を受け取り、使者を切り捨てるなど一悶着しましたが、結局朝貢する事に決め、日本国王の称号を得て、冊封されます。

 永楽帝の時、足利義満日明貿易を求めます。が、「日本国王」と呼ぶ人物が懐良親王だった為、義満の要求は受け入れて貰えませんでした。義満は、九州に根を張る南朝勢力を駆逐する為にも、貿易の利権を得る為にも、懐良親王を排除する必要があり、今川了俊を九州に遣わし、親王を追い落としてしまいます。そして、倭寇の取り締まりを条件に、晴れて義満は日本国王と明に認められ。勘合貿易を始める事が出来る様になりました。

  

余談  白蓮教

白蓮教の教義は、ササン朝ペルシャで興ったマニ教を基にしています。中国では明教とも言います。ゾロアスター教キリスト教、仏教の三つの要素を持った宗教です。人間界も世界も光と闇の戦いで成り立ってたっており、光の要素を持った救い主は弥勒菩薩の姿をして降臨する、という教義だそうです。マニ教は布教を浸透させる為に、その土地の宗教を取り入れて説いているそうです。

洪武帝が「光」と言う言葉を嫌ったのも、白蓮教に接近した過去を消したかった為かと・・・

或いは白蓮教を弾圧する為だったのかも知れません。一方国名「明」はそこが出所だと言う説もあります。

 

余談  糟糠(そうこう)の妻・馬(ば)皇后

 朱元璋には馬皇后と19人の側室が居ました。馬皇后は、洪武帝朱元璋と言っていた頃に娶った最初の妻で、郭子興の養女でした。彼女は質素で優しく、驕り高ぶらない人でした。

彼女に有名な逸話があります。馬皇后が病気になった時、彼女は医者を拒否しました。もし、私が死んだならば、私を診た医者は処刑されるだろう、と気遣ったのです。彼女は50歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異形の人

朱元璋(=洪武帝)には、威厳に満ちた帝王の顔と、異形な顔の二枚の肖像画があります。異形の方は、顔が長く顎がしゃくれ、耳が長く、口が大きく、眉も目も吊り上がって鋭い眼光を放っています。

彼は紅巾軍の中で軍功を上げ頭角を現していきます。そして、郭子興の養女を妻に迎えます。彼女は後の馬皇后(ばこうごう)です。彼女は質素で優しい人でした。彼女に有名な逸話があります。馬皇后が病気になった時、彼女は医者を拒否しました。もし、私が死んだならば、私を診た医者は処刑されるだろう、と気遣ったのです。彼女は50歳で亡くなりました。
 

洪武帝の評価

 清の三代皇帝・順治帝は「漢の高祖から明まで歴代の君主は洪武帝に及ばない」と称賛し、康熙帝は「唐宋以上の盛時を成した」と書いたそうです。「聖賢と豪傑と盗賊を一人で兼ね備えた人物」と言われた朱元璋は、出自が極貧の農家だった為、農民や下層に生きる庶民へは手厚い政策を施しました。

 

善政

 朱元璋は重農政策を取ります。治水事業を盛んにして堤防修理に力を注ぎました。天災で飢饉にあえいでいた民に養民政策を施しました。移民と定着を進め、免税も実施しました。これによって農業生産が回復し始めました。小商いの商人を優遇し、大商人などの財産を没収し弾圧しました。商人と役人の癒着を切り離す為に、北人の官吏を南方へ、何陣の官吏を北方に任命する『南北更調の制』が取られました。抵抗すれば即処刑でした。

 

粛清