昔々のその昔・・・
昔々のその昔、お茶の色は茶色でした。それが今では緑色に代わっています。そこには茶葉の製造方法に大きな変化がありました。
唐の時代、8世紀の頃、茶祖・陸羽(りくう)がその著書『茶経(ちゃきょう)』の中で、お茶は滋養や体調回復に良い薬と書いております。その頃の中国の茶は、団茶と言うものでした。
団茶と言うのは、茶葉を蒸してから搗(つ)き固め、それから型に入れて形を整え、日干しして乾燥させて作ったものです。
飲む時は、焙(あぶ)って、飲む量だけ削り取り、臼や薬研(やげん(漢方薬を作る道具))や擂鉢(すりばち)で粉砕して細かい粉茶にし、それから煮出して頂きます。或いは熱湯を注いで頂きます。当時の人達は、粉末茶に塩やネギ、ショウガ、橘皮(きっぴ)、ハッカなどを入れて飲んでいましたが、陸羽は、それらの「薬味」を入れて飲むのは良くないと批判しており、純粋に茶だけを味わう事を推奨しています。この頃のお茶の水色(すいしょく)は茶色でした。
団茶には次の様な形のものがあります。
餅茶(びんちゃ or へいちゃ or もちちゃ) 直径20cm位の円盤形で鏡餅の一段目の様な形。
沱茶(とうちゃ or だちゃ) お饅頭の様な形。或いは瓜や南瓜のような形等。
磚茶(じゅあんちゃ or せんちゃ or とうちゃ or ひちゃ) 煉瓦状の四角い形。
今でも、中国茶は団茶の形で販売されているものが有ります。
釜炒り茶
鎌倉時代の臨済宗の開祖・明菴栄西(みょうあん えいさい or ようさい)(1141‐1215)は、南宋へ留学して茶の種を日本に伝えました。
その頃、大陸では上記に述べた様に団茶を粉にしてお茶を飲んでいました。禅宗寺院では清規(しんぎ)という生活習慣のルールがあり、大陸の習慣をそのまま日本に持ち込んでいましたので、禅林でのお茶の飲み方も大陸の遣り方と同じ様にしていたと、思われます。
唐-五代十国-遼(りょう)-北宋-南宋-金-元と時代が下り、洪武帝(=朱元璋)が元を倒して明を打ち立てた時、団茶は転機を迎えます。余りにも高額になった団茶を、洪武帝が禁止したのです。団茶の中でも超高級茶は金2両出しても買えなかったそうです。また、茶商が私腹を肥やし、賄賂がはびこり、政界に腐敗が蔓延したのも禁止の理由でした。(参考:「85 元滅亡と朱元璋」 2021(R3).2.18 up)
そこで、団茶の製造に急ブレーキがかかり一時お茶が衰退します。その代りに新たに興きたのが「散茶」と言うお茶でした。散茶は、蒸してから、搗き固める工程を抜かしたもので、茶葉が一枚一枚ばらけているお茶の葉の事を言います。
お茶の葉は、木から摘み取ると直ぐ酸化 (発酵) が始まります。その酸化を止める為に蒸していたのですが、それを釜で炒る方法に変えました。この散茶も浸出液の色は茶系の色でした。
隠元禅師、散茶を伝える
江戸幕府の3代将軍・徳川家光の治世の頃、明の禅僧・隠元隆琦(いんげん りゅうき)(1592年―1673年) が1650年に渡来し、日本に明の臨済宗を伝えました。
隠元禅師は京都府の宇治市に黄檗山萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)を開き、黄檗宗という禅宗を開きました。
隠元禅師は日本にインゲン豆や普茶料理などを伝え、また、釜炒り法による散茶をも伝えました。散茶が伝わったことにより、お茶が手軽く飲めるようになりました。茶葉を急須に入れて湯呑に注ぐ、今に通ずる茶の淹れ方の始まりです。隠元禅師は煎茶道の開祖でもあります。散茶によるお茶の水色は、やはり焙じ茶の様な茶色でした。
お茶の色が爽やかな緑色系になるのは、江戸時代の中頃、8代将軍・徳川吉宗の頃まで待たねばなりませんでした。
永谷宗圓、緑の茶に挑戦
1738年(元文3年)、宇治の農民・永谷宗円(1682-1778)が新たな製茶法「青製煎茶製法」を編み出しました。その頃、身分の高い人達や富裕層の人達は、碾茶(てんちゃ)を抹茶にして飲んでいました。値段が高く、到底庶民の手の届くものではありませんでした。庶民は釜炒り茶の、茶色い煎じ薬の様なお茶を飲んでいました。
永谷宗円は、茶葉の発酵を抑え、豊かな旨味のある、美しく爽やかな緑色の浸出液を求めて、栽培方法を研究しました。干鰯(ほしか)や油粕など窒素や養分の多い肥料を使い、炒る代わりに蒸して乾燥させるなど、苦節15年の工夫を経て、ようやく「青製煎茶製法」を完成させたのです。永谷宗圓は、この方法を独占する事無く、一般に公開しました。そして、江戸の取引先である山本嘉兵衛に卸した所、大いに評判になりました。こうして「宇治の煎茶」は日本を代表するお茶になりました。明治時代になっても工夫が続き、蒸し上がった茶葉を熱い鉄板の上で揉みながら乾かすなどの工程が加わりました。
因みに、永谷宗圓は現在の「永谷園」の祖です。また、山本嘉兵衛は、現在の「山本山」の先祖です。
碾茶(てんちゃ)とは
碾茶の碾とは石臼の事です。碾茶とは、石臼で碾(ひ)く為に作られた茶葉の事を言います。つまり、抹茶用の茶葉の事です。
抹茶用の茶葉は、収穫20日くらい前に藁や葦簀(よしず)で覆って光を遮断して育てます。光が当たると苦み成分が出てきてしまいますので、光合成をさせない為です。これを覆い下栽培と言います。玉露もそうして育てますが、覆うタイミングや期間が違います。
(参考: 「11お茶を知る(1) 旨味成分」2020(R2).5.16up 。 「12 お茶を知る(2) 渋味成分」2020(R2).5.19.up)
そうして育てた若葉を摘み、蒸します。蒸して乾燥させます。その工程で、茎などを取り除き、良葉を選んで仕上げたのが碾茶です。揉む事はしません。葉は広がったままで緑色を色濃く残しています。碾茶は、青海苔の様ないい香りがします。
覆い下栽培は安土桃山時代に行われるようになったそうです。覆いに使う藁や葦簀が、今では寒冷紗になり、蒸しや乾燥の作業が機械化されていますが、やっている事は、昔と変わらないそうです。
余談 『喫茶養生記』による製法
以下の文は、喫茶養生記の上巻「五、採茶様」と、同じく上巻の「六、調茶様」から抜粋したものです。
原文
五、採茶様
茶經曰。雨下不採茶。雖不雨雨又有雲不採。不焙。不蒸。用力弱故也。
六、調茶様
見宋朝焙茶様。則朝採卽蒸即焙之。懈倦怠慢之者。不可為事也。焙棚敷紙。紙不燋様。誘火工夫而焙之。不緩不怠。竟夜不眠。夜内可焙畢也。卽盛好瓶。以竹葉堅封瓶口。不令風入内。則經年歳而不損矣
ずいようぶっとび超意訳
5、採茶する方法
(陸羽が)茶經の中で言っております。雨が降っている時は茶摘みをしてはいけない。雨が降らない時でも雲があったならば採茶してはいけない。焙(あぶ)れず、蒸せず、(天気が悪く湿度が多いと)焙る力も弱く蒸す力も弱くなってしまうから。
6、お茶を作る時の方法
宋の国での茶を焙るところを見ていると、則ち、朝に茶摘みをして即刻に蒸し、それから蒸したものを焙ります。怠け者はこの作業をしてはなりません。焙る棚には紙を敷きます。紙が焦(こ)げない様に火を誘導し、工夫してこれを焙ります。緩(ゆる)めず、怠らず、夜っぴて眠らず、夜の内に焙り終えます。終えたら直ぐ好(よ)い瓶(かめ)に盛り入れます。そして、竹の葉でもってしっかりと口に封をし、中に風が入らない様にすれば、歳月が経っても損なわれる事はありません。