式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

88 足利義教(2) くじ引き将軍

宗教界の最高位の人が俗的権力を手にした時、往々にして暴走する事があります。まして神託によって選ばれたという自負がある場合、神が憑依(ひょうい)したかのように生死与奪の権を思いのままに振る舞い勝ちです。万人恐怖と言われた足利義教(あしかが よしのり)は、正に神意を頼むくじ引きで選ばれた将軍です。彼は、元は『天台開闢(かいびゃく)以来の逸材』と言われた僧でした。

 

天台座主出身階層

義円(ぎえん)(=義教)が153世天台座主に就く迄の歴代座主の出身を見ると、次の様になります。

(なお慈円(じえん)の様に4度就任した人も居るので、下記の数字は述べ人数です)

出自が一般人で幼少より僧籍に入った者  32名

公卿(三位以上)の家の子で僧籍に入った者 65名、

親王出身の者               53名、   

武家出身                3名    計153名

(公家と言うのは朝廷に仕える官人全て。貴族と言うのは5位以上。公卿(くぎょう)は三位以上を言います)

初めの頃は修行・学問・人徳が優れた者が天台座主に就いていますが、やがて左大臣など正二位以上の高位高官の子弟達がその地位を占めようになります。更に時代が下ると殆ど法親王(ほっしんのう)が就任する様になります。法親王とは天皇の皇子が僧籍に入った人の事を言います。

権門で占められた叡山の座主。かつて学問に沸き新しい宗派を次々と生み出した叡山は沈滞し、僧兵の横暴が罷り通る時代になっていました。そこへ武家出身の春寅(はるとら)(=義円義宣(よしのぶ)義教)が門跡寺院の青蓮院(しょうれんいん)に入室します。彼の父は征夷大将軍にして従一位左大臣でした。武士の土壌に育った春寅は、僧界とも貴族社会とも違った視点を持っていたに違いありません。

天台開闢以来の逸材、と言われた春寅は、経文の暗記などは難なくできたでしょう。ただ、春寅が特殊だったのは、暗記力や知識力ではなく他の僧侶達とは違う発想と、父から学んだ上から目線の尊大さだったと思います。小さい子が大人顔負けの偉そうなことを言えば、誰でも「ほーっ」と感心するものです。

僧侶出身でありながら、何故『万人恐怖』と言われるまでに残虐性を持ったのか、粛清の帝王・明の朱元璋(しゅげんしょう)(=洪武帝)も僧侶の出であることを思い合わせれば、興味深いものが有ります。 (参考:85 元滅亡と朱元璋)

 

義持、後継者を指名せず

応永30年3月18地日(1423年4月28日)、4代将軍・義持(よしもち)は将軍職を嫡嗣子の義量(よしかず)に譲りました。義持は37歳、5代目を継いだ義量は17歳でした。ところが、

応永32年2月27日(1425年3月17日)、義量は19歳で突然病死してしまいます。生来の病弱と、大酒飲みが原因と言われています。義量の在位2年、義量には子供が居ませんでした。独り子を失い孫も居ないという状況の中で、「次に正室から男子が生まれる」という石清水八幡宮の占いに、義持は希望を託します。

応永35年(1428年1月7日)、入浴中、義持はお尻のおできを掻きむしり、そこから細菌が入って壊疽を起こします。病状が日に日に悪化、敗血症になり、危篤に陥りました。

重臣達は慌てて誰を後継者にするか、義持に尋ねます。ところが義持は後継者指名を頑(かたく)なに拒みましたので、重臣達は義持の4人の弟たちの名前を書いてくじを作りました。

その名前とは、梶井門跡義承(ぎしょう)大覚寺門跡義昭(ぎしょう)相国寺虎山永隆(こざんえいりゅう)、青蓮院義円です。これ等の名前を書いて、石清水八幡宮でくじを引きました。

応永35年(1428年)1月18日、義持が薨去(こうきょ)しました。発病してから11日目でした。 

事前に引いたくじを義持死後開封しますと、そこには義円の名前が書いてありました。

 

還俗(げんぞく)将軍就任

義円は何度も就任要請を断りますが、ついに折れて還俗します。そして、髪の毛が伸びてから元服義宣と名前を変えます。

正長2年(1429年)3月15日、義宣は征夷大将軍に就任します。この時、名前を再度替え、義教と名乗ります。

 

義教の目指したもの

義教は、祖父・義満を理想として強い幕府を目指し、その為の施策を次の様に考えました。

一つに、将軍を頂点とする完全なピラミッド型組織を築く。

二つに、財政基盤と軍事力を強化する。

一つ目の課題を達成するには現在の有力な守護達の首をすげ替え、親義教派に切り替える事です。でなければ、互いに相争うように仕向けます。そうすればどちらかが滅亡し、もう片方が消耗して勢力を衰えさせる事が出来ます。

二つ目の課題は日明貿易を再開し、市場経済を活発化させることです。室町幕府は直轄領をほとんど持っていなかったので、年貢の収入は当てになりませんでした。朝鮮通事の尹仁甫(いんじんほ)の朝鮮への報告書に、室町幕府の事を「国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ」と書いてあるそうです。財務省的な機能を持つ役所が無く、幕府の財産管理を民間に任せていたようです。

 

守護弱体化へ

[御前沙汰]  将軍親政が行えるように、義教は有名無実化している重臣達の評定衆や引付を止め、自ら選んだ人を召して御前会議を行い、色々の事を決定しました。これを「御前沙汰」と言います。

[裁判]  義教は裁判にも関心を持ち、直接裁可を下しています。全てがそうではありませんが、中には、「湯起請(ゆきしょう)や「くじ引き」など神がかり的な判決も有りました。「湯起請」と言うのは、熱湯の中に手を入れて火傷すれば有罪、火傷しなければ無罪という判決の仕方です。これは古代に行われた裁判の方法と同じで盟神探湯(くがたち)とも言われています。

 [延暦寺対策]  義教は自分の後任に、弟の梶井門跡義承を延暦寺天台座主に送り込みます。が、永享年(1433年)、山門奉行の不正を切っ掛けに延暦寺と揉め、奉行を配流して事を収めましたが、延暦寺は図に乗り園城寺(おんじょうじ)を焼き討ちします。義教は激怒、延暦寺を攻め、門前町の坂本を焼き払います。そして、延暦寺の使いの僧4人を斬首、延暦寺は抗議の為、根本中堂に火を掛け、焼身自殺24人を出します。

[永享の乱]  鎌倉公方足利持氏(あしかが もちうじ)が将軍義教を蔑(ないがし)ろにし、勝手に振る舞うので、義教は持氏を朝敵にします。そして、関東管領・上杉憲実(うえすぎ のりざね)と手を結び、持氏一族を討ち滅ぼしてしまいます。

 [結城合戦]  足利持氏の残党と結城(ゆうき)氏等が、持氏の遺児を擁立して反乱を起こします。幕府は結城氏を討伐し、持氏の遺児3人の内2人を京へ護送中に殺害します。後日、この結城合戦の戦勝祝いの席で、義教は赤松満祐に殺害されるのです。

[弟殺し]  異母弟の大覚寺門跡義昭が突然出奔。これを南朝方と通じた為であると見た義教は、義昭に謀反の疑いを掛け、探索します。義昭は追われ、四国から九州へと逃れるもついに包囲され、自害します。義教は義昭の首を見て喜んだと言われています。

[家督相続への干渉]  義教は守護大名達の家督相続に口を挟みました。嫡嗣子に関係なく、義教に従順な者の方を選んで首をすげ替えました。相続争いに負けた方の領地を没収し、寵臣にそれを分け与えました。気に染まなければ攻め滅ぼしてしまいました。そのようにして山名氏、細川氏、一色氏、土岐氏など有力守護大名を自分の息のかかった者にしてしまいました。

そんな中で、次に殺られるのは赤松満祐だという噂が流れました。赤松満祐は先代将軍・義持の時、相続問題で一悶着を起こして赤松を討伐せよとの騒ぎを起こしたことがありました。幸いにしてその時は、周囲の執成(とりな)しで大事に至らず納まりましたが、そういう前科があったので、噂を本当に信じてしまいました。義教だったら遣りかねないのです。

赤松満祐は殺られる前に殺ってしまえと、結城合戦の戦勝祝いの宴席に義教を招き、暗殺してしまったのです。

[その他]  義教は些細な事で多くの人を処罰しました。顔を見て笑ったから、とか、料理が不味いとか、闘鶏の賑わいで道が混雑していたからとか、噂話をしたからとか、とにかくとんでもない事に腹を立て、殺したり、所領を没収したり、流罪にしたりしました。酷いのは、義教の側室に男子が生まれた時、側室の兄の所に祝い客が大勢押しかけたと言って、それが気に障り、押しかけた客全ての者を調べ上げて処罰したのです。又、日蓮宗の僧・日親に説教されて激怒、灼熱の鉄鍋を頭から被せ、舌を切ると言う罰を与えました。

伏見宮貞成(ふしみのみや さだふさ)親王は、『万人恐怖、言う莫(なか)れ、言う莫れ』と書き記しています。

 

 余談  天台座主は何処に住んでいたの?

比叡山延暦寺と言うのは比叡山一帯に広がって建っているお寺の総称です。山の峰や谷を、東塔地区、西塔地区、横川(よかわ)地区、別所と分けて三塔十六谷二別所と言われる地区に堂塔伽藍が立ち並んでいます。中心は東塔の根本中堂です。昔の最盛期の頃、比叡山が擁しているお寺は3千とも言われていました。天台座主は根本中堂に住む事は無く、周辺のお寺のどれかに住んでいました。

義承が住持していた梶井(かじい)門跡と言うのは昔の名前で、現在は三千院、或いは三千院門跡と呼ばれています。比叡山のお寺の一つで京都の大原にあります。

義円が住持していた青蓮院(しょうれんいん)は京都の粟田口にある天台宗のお寺で、門跡寺院です。青蓮院は青蓮院流書道で有名です。