式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

154 名物狩りと松井友閑

生きるか死ぬかは運次第の戦国乱世。きつい・汚い・危険の3Kの最たる職業の武士達。

血塗られている日常で得られるわずかな平穏の中に、己を取り戻そうとする時、彼等はそこに心の平安を求めるのでした。それが禅であり、茶の湯であり、能や連歌や諸芸の世界でした。

よく、「明日地球が滅亡すると分かった時、あなたはそれまでの時間に何をしますか?」と言う問いが出される事があります。その様な前提で作られた映画やドラマが数多くあります。それぞれの状況で答えは千差万別ですが、戦国武将達にとって、その問いは常に喉元に突き付けられている刃の切っ先でした。

藤堂高虎「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。」と言ったそうです。

そういう人達にとって、平安の時は至高の一瞬でなければなりません。

 

真善美の茶の湯

大名の茶の湯と言うのは、唐物趣味で、高価な茶道具を集めて自分の財力と権力を誇示し、およそ茶の精神とはかけ離れた成金趣味と、誹(そし)られる風があります。もっと言えば、道具自慢の茶の湯であって、名物を見せびらかして自慢し合っているだけだ、と。そこに精神性も奥深さも何も無い。秀吉の黄金の茶室などその最たるものだ、キンキラキンのピッカピカではないか、と言われます。特に「侘茶が命」の方々にはその傾向が強いです。

が、少し立ち止まって考えてみて下さい。その時代が産んだもの、その国が一国の精華として世に送り出したものを集めて、生死の合間に愛玩したいと思う心は、決して成金趣味ではありません。彼等はその為に作法を磨き、無駄の無い美しい挙措(きょそ)に心を砕き、それらの道具類に相応(ふさわ)しい態度を養おうと自分を律して修練して、真善美の極致に身を置こうとします。

大名茶(書院茶武家茶)は「侘び」「寂び」とは無縁の茶の湯です。そこにあるのは「善美」の喜びです。良いものに触れて喜び、眼福を愉しみ、明日の死を忘れて夢中になれる様な一刻を求める茶なのです。

加藤泰と言う槍術自慢の殿様が、金森重近(=宗和→宗和流茶道の創始者)に茶会を開いて欲しいと頼み、茶席に臨(のぞ)みました。隙あらば・・・と点前の綻(ほころ)びを窺(うかが)っておりましたが、最後まで一点の隙も無く、その見事さに感服したと言う話が伝わっています。

 

謎の人物・松井友閑

信長に「人間五十年・・」の幸若舞を教えた松井友閑は、明智光秀がそうであったように、信長に仕えて頭角を現すまでの前半生は謎に包まれています。友閑は後に信長の懐刀として辣腕を振るい、優れた鑑定眼によって名物狩りの主導的役割を果たしました。

ウィキペディアでは、『友閑は、京都郊外の松井城で生まれ(中略)、12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、(中略)永禄の変で義輝が三好三人衆らによって殺害されると、後に信長の家臣になった』と紹介されています。Japanese Wiki Corpusでは信長公記の記載により尾張国清洲の町人出身と推定されている。しかしルイス・フロイスは友閑のことを「以前に仏僧であり」と記しており・・』と書かれており、また、能楽師だったと言う説も有ります。

 

友閑とは何者?

幕臣、僧侶、町人、能楽師という四つの言葉のどれが本当の友閑の経歴なのか、分かりません。が、永禄の変の時、将軍義輝と共に討死した侍の中に、松井新三郎と言う武士が居て、新三郎の兄に友閑と言う名前がありますので、松井家が幕臣だった、というのは間違い無い様です。

友閑が元は僧侶であった、と言うルイス・フロイスを信じれば、松井家が幕臣だった事と考え併せて、義政の時代の三阿弥の様に、芸術・芸能の分野で幕府を支えていたのかも知れません。或いは文官として事務方を担っていたとも考えられます。(※ 三阿弥は能阿弥・芸阿弥・相阿弥の父子孫三代で、芸能を持って幕府に仕えた人達)

どの様な経緯で友閑と信長が結びついたのか、その辺の事情は想像を働かせる外は在りませんが、多分、友閑は三好長慶が支配している京都を逃れ、尾張清洲に流れ着いたのではないかと思います。彼はそこで、市井(しせい)に身を置きながら茶の湯能楽を教えて暮らしていたのではないかと、婆は想像しています。

 

「うつけ」と友閑

そういう友閑に、年がら年中領内をほっつき歩いていた「うつけ」の信長が目を止めます。二人は意気投合。信長は友閑から幸若舞を習いながら彼の深い教養に惚れこみ、急接近したのではないかと、話を組み立ててみました。

信長の父・信秀も、傅役(ふやくorもりやく)平手政秀も一流の文化人で、茶の湯や能、連歌などに達者な人でした。そういう環境に育った信長は、親を見てそれなりの下地が出来ていた、と思いたいのですが、いやいやどうして、彼は親や傅役の言う通りに育つような素直な子では無く、反抗期真っ盛り、傅役の政秀が諌死(かんし)する程のうつけ者でした。

それが、1553年(天文22年4月)、尾張国境付近の聖徳寺斎藤道三と会見の時、信長はそれまでの異様な風体を脱皮して、いきなり威儀を正し、他を圧倒する様な立ち居振る舞いをしました。普通の人では出来ない事です。付け焼刃の礼儀など、5分もすれば馬脚を現します。信長の変身は本物でした。だからこそ人物を見抜く目をもった道三を唸らせたのだと思います。その礼儀作法は友閑仕込みだったに違いありません。もし、婆の想像通りなら、友閑は幕府中枢の将軍御所にいた筈ですから、本家本元の礼儀作法を信長に伝授していたのでしょう。

 

友閑登用

信長が桶狭間の戦いで名を上げ、更に、足利義昭を奉じて京都に入洛するという意思を表明すると、足利幕府再興を願っていた友閑は、舞の師匠と弟子の関係を家臣と主君という関係に改め、彼は全力で信長を支える様になりました。

義昭の上洛を成功させた信長は、一躍注目を浴び、多くの人が信長の下に寄ってきました。彼等は、信長が茶の湯に傾倒していると知ると、進んで茶道具を献上しました。また、信長に恭順を示す証(あかし)に秘蔵の茶器を差し出す者もいました。それは信長の茶道具愛を更に増長させ、ついには「あの人は名物を持っている」と噂があると、その者達へも触手を伸ばす様になりました。

信長は、松井友閑と丹羽長秀を堺へ派遣し、大文字屋宗観から「初花」の茶入れを、祐乗坊所持の茶入れ「富士茄子」をと言う具合に、堺の豪商達から幾つもの茶道具を強引に手に入れて行きます。勿論、タダで巻き上げたのでは無く、金・銀・米などで対価を払ったのですが、このように盛んに名物狩りを行いましたので、信長の下に茶道具が一極集中。なので、市中で茶道具が品薄になり、道具の高騰を招きました。

それらの品を鑑定したのが松井友閑です。友閑は信長の御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)の推進役でした。信長はそれを土地の代わりの恩賞として武将達に与えました。

 

信長の懐刀

松井友閑は、信長に右筆(ゆうひつ)に任じられました。文書発給などの政務に携わる傍ら、信長政権の財務を担当し、堺の代官にも任じられています。また、敵対している勢力との外交交渉などにも当たっています。

例えば、石山本願寺との戦いの一環で高屋城の攻防の時、三好康長の降伏を仲介し、許されています。信長は石山本願寺攻めをなおも継続しますが、武田勝頼が西進して長篠に迫ったとの報に接し、信長は戦を中止して長篠へと向かいました。その時を捉えて本願寺側は松井友閑と三好康長に頼んで和睦を申し入れ、これを成立させます。尤も、この和睦はすぐ破られ天王寺の戦いへと続きます。本願寺戦の最中、荒木村重松永久秀の謀反が勃発、友閑はその説得も携わっています。

有岡城荒木村重を説得しに行ったのは、1回目は福富直勝佐久間信盛2回目に説得に赴いたのは村重の妻が明智光秀の娘だったので、明智光秀羽柴秀吉、万見重元、そして松井友閑。それでも駄目だったので黒田官兵衛が単独説得に向かいます。結局この時の説得は成功しませんでした。松永久秀の時も上手くいきませんでした。

そういった政務の合間に信長が開く茶会の茶頭を務めたり、東大寺蘭奢待の切り取りの時の9人の奉行の内の一人になりました。

(※ 蘭奢待9人の奉行:松井友閑(宮内卿法印・正四位下)、武井夕庵((たけい せきあん)助直:二位法印)、菅谷長頼(すがや ながより)塙直政(ばん なおまさ=原田直政)、佐久間信盛柴田勝家丹羽長秀、蜂谷頼隆、荒木村重。以上に加えて外に津田坊)

堺の代官に任じられたことから、堺の豪商や茶人達とも交流があり、津田宗及とも親しく交わっていました。

本能寺の変の時は堺で徳川家康一行を接待しておりました。本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えました。が、1586年(天正14年)突然「不正」を理由に秀吉から罷免され、政治の表舞台から消えてしまいます。その後の消息は不明です。

そして、それから5年後、またもや一人の傑出した茶人がこの世から退場させられました。千利休です。利休が秀吉から切腹を命じられたのは、1591年4月21日(天正19年2月28日)のことでした。

 

 

余談  松井友閑と武井夕庵 (たけい せきあん)

松井友閑をNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出て来る人物に譬(たと)えれば、将軍・源頼朝を文官として支えた大江広元に相当します。広元は頼朝に次ぐ官位の正四位下に任じられており、13人の御家人達の誰よりも位が上でした。

松井友閑の官位も正四位下で信長に次ぐ位であり、織田信忠と同等です。他の家臣の追随を許していません。ただ、信長が友閑に全幅の信頼を置いていたか、という視点で見ると、どうもそうでは無い様な気が、婆はしています。

友閑と同じ右筆で、武井夕庵と言う人物がいます。

夕庵が仕えた主君は、土岐氏斎藤道三、義龍、龍興、織田信長の5人です。信長の右筆であり、茶人です。毛利氏との交渉や朝廷との取次など重要な案件を任されました。蘭奢待を切り取る勅許を得て、正倉院に赴いた奉行の一人でもあります。二位法印となり、安土城の夕庵邸は織田信忠に次ぐ好立地を与えられました。

また、茶席の席次では信忠(正客)の隣(次客の席)に夕庵が座りました。この時に点前をしたのが松井友閑ですから、友閑が次客席に座る事は出来ませんが、功臣綺羅星の如くの席で、次客席に座ると言うのは、厚遇この上ない事です。

夕庵は癇癖性の信長に恐れも無く諫言できる唯一の人物であり、信長から絶大な信頼を得ていました。本能寺の変後は隠退し、逼塞しました。

 

余談  宮内間道(くないかんとう)

宮内間道とは、裂地(きれじ)の模様の名前です。間道と言うのは縞模様の事を言います。

宮内間道は幅広の縞と細い筋の縞が交互に織り出されており、幅広の縞は細かい幾何学模様や唐草模様が織り込まれ、赤・茶・緑・黄色など多彩な色糸が使われているにもかかわらず、全体的に見ると落ち着いた赤茶色系に纏められています。この裂地は堺奉行・宮内法印・松井友閑が所持していたので、裂地銘に宮内間道と言う名前が付けられました。