人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり
一度(ひとたび)生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか
ご存知、信長の愛した幸若舞「敦盛」の一節です。
桶狭間への出陣を前にして、人の寿命は五十年、この世にオギァーと生まれたからには、必ず死ななければならない、と謡い、人生の儚(はかな)さを舞う信長に、齢80の婆が痺れてしまうのですが・・・ちょいと待て! そう単純ではないと押し止(とど)める声が聞こえてきます。
「にんげん」と「じんかん」
冒頭の「人間」を「にんげん」と読むか、「じんかん」と読むかで、諸説分かれています。
普通は「にんげん」と読んでいます。「じんかん」と読んだら、それは間違いだと訂正され兼ねません。漢音読みと呉音読みの違いだから別に拘(こだわ)る必要など無いと考える方もいらっしゃいます。皆んな「にんげん」って言っているから、「にんげん」って読めばいいじゃないか、考える必要ないよ、と言う人も居ます。けれど、「人」と表現する場合と、「にんげんと読む「人間」」と「じんかんと読む「人間」」とでは意味合いが違ってきます。
「あの人は・・」「この人は・・」と話し始める時と、「あの人間(にんげん)は・・」「この人間(にんげん)は・・」と話し始める時では、その後に続く話の内容が違って来るように思います。発音の響きが「人間(にんげん)」と言った方が少し堅苦しく、ちょっと学が有りそうに聞こえます。加えて、「あの人」は個人を指しているのに対し、「あの人間は」と言った場合、その人の個性や人格をステレオタイプ化して、或る属性に嵌め込もうとする心が見え隠れしますし、話す人と噂される人との間の親密度に距離を感じます。
では、「人間(じんかん)」と言った場合、何が違うのか、と言いますと、「人」個人を指しているのでは無く、「人」と「人」との間、間合い、つまり人が構成している世の中、人間関係、社会、或いは人間世界を指して言っていることになります。
下天(げてん)
天上界には六道と言う世界があるそうです。六道と言うのは、天上界(人間の世界より苦が少ない)・人間界(四苦八苦がある世界)・修羅界(怒りと争いの世界)・畜生界(獣や鳥、虫等の弱肉強食の世界)・餓鬼界(嫉妬や我執や欲望の世界)・地獄界(もっとも苦しみの多い世界)という世界です。下天と言うのは、その中の最下層の地獄の世界を指すそうです。
人は死ぬと、閻魔様の裁判を受け、その罪に応じて天界のどれかの世界に振り分けられるそうです。そして、そこで一生を終えます。終えたらそれで輪廻転生の無い極楽浄土に行けるか、と言うとそうでは無いそうです。又、別の六道の世界に生まれ変わる、と仏教では説いております。これが、六道輪廻です。
例えば仮に、人が死んで閻魔様によって修羅道の世界に振り分けられたとします。修羅道で「つとめ」を終えて寿命が尽きたら(あの世でも死ぬそうです)、次には餓鬼道や地獄道などの別の世界に転生するそうです。そこでも「つとめ」終えて、やれやれいよいよ極楽浄土に行けるかと言うと、更に別の世界に生まれ変わるそうです。そうやって、ランダムに、ぐるぐると六道を回って永遠にそこから抜け出せないのが輪廻の世界だそうです。唯一、そこから救い出してくれるのが地蔵菩薩だと、聞いたことがあります。
あの世の時間
浦島太郎は竜宮城で楽しく3日間を過ごしました。彼が竜宮城から地上に戻ってみたら、住んでいた家も村も無く、知らない人ばかりの世の中になっていました。竜宮城の3日間は、地上では300年に相当したのです。十年一日どころか百年一日だったのです。
下天の1日は人間界の50年で、しかも下天での寿命は500年と言われています。この伝で行くと下天で500歳になり転生の時を迎えたならば、人間界では何百万年も経っている事になります。
これが下から二番目の化天(けてん)の餓鬼界(欲の世界)になると、1日が人間界の800年になるそうで、そこの寿命が8,000歳だそうですから、1日800年で1年365日として8,000歳まで計算すると、人間に直すと何十億歳になるのかなぁ・・・
永遠に輪廻転生を繰り返すあの世の時間に比べれば、人間界に生きている50年と言う時間はほんのわずかにしか過ぎません。
こう考えて来ますと、人間を「にんげん」か「じんかん」かの読みを考える時、「下天」の時間に比べて人間に流れる時間を言っているのですから、対する言葉は個々人の寿命を言っているのでは無く、「人の世」、つまり、「じんかん」の言葉の方が、文脈としては合っています。
輪廻転生の生と死を永遠に繰り返して行くのが、生きとし生けるものの定めならば、人間に転生したその時間はほんの一瞬。ならば、その一瞬を生き切って見せようと、信長はこの一節を愛したのかも知れません。
人生五十年だから、何時死んでも五十歩百歩、そう諦観し切って桶狭間に出陣したのではなく、人間の姿をして生きている時間は一瞬だからこそ、全力投球して戦いに臨んだのだと、婆は思います。