式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

158 キリシタン(2) 仏教との衝突

今、旧統一教会と政治家の関係が問題視され、多くの場で議論されていますが、この問題は何も今日に限った事では無く、宗教が及ぼす政治や経済、或いは権力への影響は昔から随分言われてきました。

中世に日本にやってきた宣教師達もまた、彼等の個人的信仰心が篤く純粋であったとしても、別の視座に立って見てみれば多くの問題がありました。彼等はキリスト教内の内部抗争、つまり、カトリックや新興のプロテスタントの版図争いや母国の世界戦略などの背景を背負い、布教に寄せる熱意の裏側には、俗世の競争原理が働いていたのです。そして、その先兵となった日本のキリシタン大名も、キリスト教本来の博愛精神から逸脱して、キリスト教を広めるに急なあまり仏教徒への迫害者に変質して行きました。

 明治維新時に廃仏毀釈という悪法がまかり通って、数多くの寺が廃寺に追い込まれましたが、戦国時代のキリシタンの為政者(いせいしゃ)はそれと同じ様な事をして領内を統治しようとしたのです。

キリシタン大名は、自分が良いと思った方向に領民を導くのは「善なる事」、「善なる事」を知っている自分は、迷える人々をそこへ導く責務があると、思い込んだのでしょう。信者を増やす事は又、如何に宣教師に協力的であるかを、国内外にアピールする事にも繋がりました。

南蛮貿易を盛んにして領国を富ませようとする大名は、それで一層キリシタン化に熱を入れました。言う事を聞かない人間は捕らえたり、殺害したり、海外へ奴隷として売りました。日本人の奴隷は従順で礼儀正しく勤勉でしたので高く売れました。

 

平戸での廃仏毀釈

1550年(天文(てんぶん)19年)肥前国 (現佐賀県長崎県)にフランシスコ・ザビエルがやって来て、領主・松浦隆信(まつら たかのぶ)に宣教活動を願い出ました。隆信はポルトガルとの交易に魅力を感じていましたので、それを許可しました。以来、ポルトガル船が毎年の様に平戸に来る様になり、隆信は鉄砲や火薬などを購入する様になります。

1558(永禄元年)、隆信の重臣籠手田安経(こてだ やすつね)が洗礼を受け、生月島(いきつきしま)度島(たくしま)に教会堂を建て、島民を一斉に改宗させてしまいました。領内がキリスト教色に染まって行くに従って、お寺などとの摩擦も増えました。宣教師達は、真言宗の西禅寺の僧と宗論を行います。平戸の仏僧達は次第にストレスを溜めて行きました。

そんな時、ガスパル・ド・ヴィレラ神父が平戸に派遣されました。彼は強圧的で、ザビエルゴメス・デ・トーレス神父が築いて来た適応主義を無視し、アジア人蔑視の目線で布教を始めました。その上、ヴィレラはとんでもない事をします。彼は、仏像は偶像であると考え、平戸島に祀られていた仏像を集めて焼いてしまったのです。西禅寺を初め平戸にある寺々や神社がこれに猛烈に抗議し、一触即発の状態になってしまいました。はじめ、宣教師達を保護していた隆信も態度を硬化させ、ヴィレラを追放してしまいました。

 

宮の前事件 

1561(永禄4)その事件が起きました。

事の始まりは、平戸の七郎宮と言う神社の前で始まった喧嘩でした。宮前の露天商とポルトガル人が、絹織物(綿布との説も有り)の商いを巡って条件が折り合わず決裂してしまいます。互いに激昂し、周りも加わって大乱闘になってしまいました。そこへ武士が仲裁に入ります。

ところが武士が入って来たので、ポルトガル側はそれを日本側の加勢だと思い、対抗する為に一旦船に帰り、武装して戻って来たのです。事態は収拾するどころか火に油。結局ポルトガル側に船長以下14人の死者が出てしまいました。ポルトガル船は港を脱出しました。

松浦隆信はこの事件で日本人側を罰しなかったので、それを知ったトーレス日本教区長は平戸での出来事をインドのゴアのポルトガル総督に報告し、平戸港での貿易から撤退を決定。代わりの港を探します。この様に、宣教師は貿易の可否の決定権を握っており、布教と貿易は切っても切れない関係がありました。

平戸港を撤退した後、トーレス神父はアルメイダ神父に命じて新しい港を探させました。丁度その時、南蛮貿易に食指を動かしていた大村純忠(おおむら すみただ)が、アルメイダ神父に自領にある横瀬(現長崎県西海市)の提供を申し出たのです。1562(永禄5)年の事です。

 

横瀬浦港の焼討事件

肥前の領主・大村純忠は、本当は有馬晴純(ありま はるずみ)の次男です。晴純の次男でしたが、子供のいなかった大村家に養嗣子として迎え入れられました。ところが大村家が純忠を養嗣子に迎えた後に、大村家に庶出の嫡男・又八郎が生まれましたので、実子の又八郎を武雄の領主・後藤家の養子に出してしまいました。又八郎は後藤貴明と名乗ります。この決定は大村家の分断を招き、又八郎支持派の家臣達の中から後藤家に移籍する家臣が続出しました。

さて、大村純忠横瀬浦をポルトガルに提供し、家臣と共に洗礼を受けました。領民にも入信を奨励、大村領内だけでも6万人を超えました。この様に急激にキリシタンが増えた裏には、仏教徒神道信者への強烈な弾圧があったのです。仏教徒の居住を禁止し、寺社を破壊し、先祖の墓も壊しました。仏僧や神官に改宗を迫り、従わなければ殺害しました。仏教を信仰する住民達はキリシタンに反発します。領民の間の亀裂を捉え、後藤貴明が大村純忠を攻めました。

1563.08.15(永禄6.07.27)、貴明は大村家に残っていた貴明親派の家臣達と呼応して謀反を起こさせ、自らも出陣して横瀬浦を焼討しました。開港してわずか1年にして繁栄していた横瀬浦は灰燼に帰してしまいました。

1570(元亀元年)純忠はポルトガル人の為に新たに長崎を提供します。それまで寒村だった長崎は、皆様ご存知の日本一の港町に発展して行きました。思案橋、丸山、上町(うわまち)、下町などなど現在の長崎の地名の中には、かつて横瀬浦にあった地名をそのまま使っているものがあるそうです。

 

大友宗麟、理想郷の夢に沈む

大友義鎮(おおとも よししげ)(宗麟)は、大友義鑑(おおとも よしあき)の嫡男ですが、廃嫡されそうになり、1550(天文19.02)年、対抗馬の異母弟とその一派を粛清して、家督を継ぎました。彼は内政を固める一方、周防国(すおうのくに)大内義隆陶晴賢(すえはるかた)に討たれると、その後釜に異母弟の春英(はるひで)を送り込みました。春英は大内義長と名を改めます。

宗麟は次々と版図を広げ、豊前肥前・肥後・筑前筑後を掌中に収め、自領の豊後を含めて6ヵ国を領知しました。博多港を手に入れた宗麟は莫大な富も掌中に収めます。

宗麟は毛利氏との緊張が高まっている中、宣教師に「私はキリスト教を守っている人間だ。毛利氏はこれを弾圧する側だ。だから私の方に良い硝石をよこし、毛利氏には硝石を渡さない様に」と言う手紙を出しています。

「貿易」と「キリスト教」と「戦(いくさ)」の三題噺がこの手紙にもうかがえます

やがて、宗麟は政治に興味を無くし、1576(天正4)年、家督を嫡男の義統(よしむね)に譲って、その2年後の1578(天正6.07)年、洗礼を受けました。洗礼名はドン・フランシスコです。

1577(天正5)年、薩摩の島津義久が北上し始め、日向国(ひゅうがのくに)(現宮崎県)に侵攻しました。日向の伊東義祐(いとう よしすけ)は一時期領地がかなり拡大し、支城を48も持つ程になっていましたが、奢侈(しゃし)に溺れて人望を失い、島津家に寝返る支城が増える様になりました。島津義久は日向を攻め、義祐は敗れて大友宗麟を頼って豊後に逃亡します。そして、宗麟に援軍を頼みます。

1578(天正6)年、宗麟は義祐の頼みを承知して日向に出陣します。が、実は宗麟には戦意が余り無く、日向を乗っ取ってその地にキリスト教の理想郷を拓(ひら)くのが夢でした。その為、行軍に宣教師を連れていました。彼は理想郷を打ち立てるのに邪魔な神社仏閣を、総なめに打ち壊しながら進軍します。日向の無鹿(むしか)(現宮崎県延岡市)まで来てそこに本営を置き、滞在します。滞在して何をしていたかと言うと、教会を建設していました。それから大友軍は宗麟をそのままそこに残して、本隊は無鹿から更に南下しておよそ30㎞以上も南の耳川まで兵を進めます。耳川を挟んで北に大友軍、南に島津軍が対峙しますが、大友軍は耳川を渡河して更に高城(たかじょう)を攻めます。高城そばの高城川で大友軍と島津軍が激突します。(耳川の戦い」「高城川の戦い」「高城河原の戦い」高城川は現小丸川のこと)

総大将の大友宗麟が後方にあって指揮を執っているならば、将兵も或る程度納得しようと言うものです。が、実際は指揮どころかキリスト教ユートピア建設にうつつをぬかしていました。兵の士気が上がる訳がありません。薩摩軍は大友軍より兵員数は少なかったのですが、「釣り野伏せ」の戦法と言って伏兵や囮(おとり)作戦など戦術の限りを尽くして猛攻、大友軍は算を乱して敗走、耳川まで後退しました。薩摩軍はそれを猛追します。大友軍は耳川で溺れる者多数で、大友軍はかつてない程の大敗を喫しました。

この耳川の戦いで、大友軍は4,000の将兵を失ったと言われています。この敗戦から大友氏の凋落(ちょうらく)が始まりました。再起不能なほどの兵力を失い、与力する者が現れるどころか離反する者の方が多く、龍造寺氏(肥前)や島津氏の草刈り場になって行きました。

ついに宗麟は豊臣秀吉に援助を求める様になりました。これが秀吉の九州征伐に繋がって行きます。

九州平定後、秀吉は宗麟に九州の一国を領する様に計らおうとしますが、宗麟はそれを断り、病に伏すなか、ひたすら祈りを捧げて没したと伝わっています。直後の葬儀はキリスト教式、後に仏式で執り行われました。享年58歳。

 

 

余談  ダンテの「神曲

ルネサンス期、イタリアの詩人・ダンテは「神曲」の中で、ローマ教皇や聖職者達が地獄に落ちてもがき苦しんでいる有様を活写しています。聖職者が神に仕えているからと言って、全てが聖人君子ではありません。ダンテは、欲深き偽善の聖職者達を地獄に落として断罪しています。彼等や、宗教を利用して国を統治していた王侯貴族を痛烈に批判した為に、ダンテはフィレンツェから追放されてしまいました。

  

余談  婆の思い出

婆が子供の頃、宗教勧誘の場面を見たことがあります。

私事ですが、婆の家は母子家庭でした。父と母が別れた頃、或る新興宗教の方がいらっしゃって、家庭が不幸なのは信心が足りないからだ、我が宗教を信じれば幸せになれると説教に来ました。熱心に誘うも靡(なび)かないとなると、もう少し上級の人が来たり、時には数人で押しかけてきたり、それが断続的に何か月も続きました。母はその都度論破して追い返し、仕舞いに相手側も諦めて来なくなりましたが、ご近所の家では、仏壇を庭に放り投げられてめちゃくちゃに壊され、泣く泣く入信したという話を聞きました。

その家はお子さんが病弱でしたので、ご両親は藁(わら)をもすがる思いでその宗教を受け入れたのでしょう。信心すればお子さんは元気になり、幸せになるという謳(うた)い文句は、お子さんの夭折(ようせつ)によって打ち砕かれてしまいました。信心を勧めた方は、「それはあなたの信心が足りないからだ。もっと熱心に信心すれば死なずに済んだ」と言ったそうです。

母は仕事を持っておりました。或る企業の独身寮の寮監、いわゆる末端管理職で、住み込み(婆達子供も一緒)でした。最盛期には寮生が200人を超え、倒産した時に最後まで残っていた寮生は11人。最後の人達の身の振り方を手配して母は退職しましたが、とにかく大変な激職でした。

終戦直後の、左傾化した労働組合員と生活基盤が直接接する立場でしたので、寮生活の改善やら何やらしょっちゅう団交があり、突き上げや吊るし上げがあり、理論武装した闘志達に囲まれていました。血のメーデー事件のあった日の夜など、破けた旗を持った泥まみれのシャツの寮生達が帰寮し、裸電球の灯った玄関の板敷きに、大勢がへたり込んだ光景を覚えております。母は何時も穏やかでした。キレた所を見たことがありません。

母は婆にこう申しておりました。

「勉強しなさい。考えなさい。特に哲学を学びなさい。問題解決の処方箋の様な本(今で言うハウツーもの)は読まなくてもよい。それは相手も読んでいます。同じ本を読んでいる者同士が議論したって、同じ土俵で同じ戦い方で相撲を取っているだけです。それでは解決策は見つからない。それは取りも直さず、著者の手の平の上で双方が踊っているだけですから」

母が薦めてくれた幾冊もの哲学書、不肖の娘の婆は、余り読んでいません。時間が有り余る今になって、いざ読もうとしても、年取り過ぎたせいで頭に入らず、数行読むだけで眠りの世界に入ってしまいます。高卒で就職した婆は、人は皆師と思い、耳学問、目学問、体験学問で学ぶしかありませんでした。その事を愧(は)じ、義母に申しましたら、「気にする事はありません。北政所は小学校さえ出ていらっしゃらないのだから」とにこにこと笑っておりました。

今は、母も義母も既に鬼籍に入っております。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク「地形図」「古地図」「戦国日本の津々浦々平戸」「旅する長崎学「島の館」中園成生さんインタビュー」「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)耳川の戦い」「耳川の戦い高城の画像(その内の数葉)」地域の出している情報」「観光案内」等々。

「印度学仏教学研究第三十八巻第2号「近世仏教と対キリシタン問題」高神信也」

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。