式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

163 茶正月 一客一碗

11月、茶の正月。炉開きの季節です。

何時の間にか季節はしずかに忍び寄り、婆の住まう団地の庭の、ハゼの木の樹冠が少し赤く色付きはじめました。三階のベランダを超えるまでに大きく育ったそのハゼの木は、秋になると鳥たちの楽園になります。ハゼの褐色の小さな実が、シャンデリアの様に房になって、枝という枝から垂れ下がり、大きい鳥も小さい鳥も夢中になってついばみ始めます。

秋。 ♪もういくつ寝るとお正月♪ を歌うにしては早すぎるこの時期、お茶の世界ではお茶の正月を迎えます。

春、一番摘みの新茶の芽を収穫して茶葉をつくり、それを壺に入れて密閉し熟成を待ちます。熟成して香りも味も最高に整うのが11月の立冬の頃。その頃に壺の封を切ります。これが「口切り」です。口切の行事を経て茶葉を石臼で挽き、抹茶に仕立てます。こうして新しい抹茶を使い始めるので、お茶の世界では11月を茶の正月と言う訳です。
せっかくお茶の正月を迎えているのですから、一息入れて、お茶でもいただきましょう。

 

一客一碗

式正織部流って濃茶の回し飲みは絶対にしないって、本当ですか? とよく聞かれます。

本当です。当流では回し飲みは絶対にしません。一人一人個別にお茶を点てて供します。近頃ではコロナ禍と言う事も有り、感染症に気を配る様になっておりますが、当流ではずっと昔からそれを心掛けています。

「一座建立」の理念の下、一碗の茶を啜(すす)り合って仲間意識を養うよりも、各位を尊重し、独立峰を遇する如く茶を差し上げるのが当流のお持て成しです。お客様は大名や武将、一騎当千の侍達。各々それぞれに腹に一物のある者達です。自国の利益優先であり、存亡を賭けての同盟離反の探り合いの場です。そう易々と同化しません。

それに、大名・武将達には結構病気持ちが多かったのです。英雄色を好むと申します。加藤清正浅野幸長(よしなが)結城秀康前田利長黒田如水松平忠吉等は梅毒(=黴毒=瘡毒(そうどく))に侵されて命を落としました。英雄気取りで遊郭に通って女漁りをしたり、衆道に励む者も多かったのです。朝鮮出兵名護屋駐留中や彼の地で罹病した者も多く、梅毒は侍達に広がっていました。

梅毒はコロンブスアメリカから「輸入」し、ヨーロッパに瞬く間に広がりました。大航海時代の貿易発展で、東南アジアや中国に伝搬し、貿易の窓口だった長崎や博多などの港町の遊郭に広がりました。潜伏期間が長く、最初は3か月くらい、その後、発症と潜伏を繰り返し、最終的には10年以上潜伏しています。その潜伏期間の長さから、恐らく、今日のコロナ禍以上のスピードで蔓延したと思われます。徳川家康は家臣に遊郭の出入りを禁止しました。家康自身も遊女を近づける様な事はせず、氏素性のはっきりした者を側室にしており、薬作りにも熱を上げていました。不特定多数と性交をすると梅毒に罹ると言う知識は、当時でも知られていました。

結核竹中重治(半兵衛)や片桐且元ハンセン病や不衛生による下痢など、感染症は最も警戒すべきものの一つでした。

古田織部に現代の衛生知識がどれほど備わっていたか分かりませんが、とにかく、当流の「清め」の所作の手の数が、他流よりも断トツに多い事は論を待ちません。一回のお茶で2枚の袱紗を使い分けます。手巾が1枚、茶巾が2~4枚使います。茶巾を多く使用するお点前の時は、茶巾台というお皿を用意します。

清めの所作が多いので、他流よりもお点前に時間がかかります。お客様の中には、足が痺れて参ったと言う方もいらっしゃいます。けれど、最初から胡坐(あぐら)をかいても当流ではお咎め無しです。なにしろ武家茶。足が痺れては咄嗟の時に戦えないので、茶室でも胡坐はOKです。行住坐臥是戦。何時でも何処でも俊敏に反応するのが侍。厄介な性分の職業です。

 

風炉から、風炉と炉の使い分けへ

お茶の正月を迎えるに当たり、新春の正月を迎えるのと同じ様に、茶室の設えも模様替えをして新しくします。

茶室の模様替えは11月から4月までが「炉」、5月から10月までが風炉と決まっております。

けれども、その様に決まったのは後々のことでして、決まる以前は季節に関係なく風炉に釜を掛けて湯を沸かしました。禅寺発祥の茶の湯は、中国から僧侶が持って来た「風炉」と言う、火鉢や七輪の機能に似た、金属製の、持ち運び可能で便利な火の設備を使っていました。

長い間風炉の時代が続き、やがて部屋に1尺4寸(42.5cm)四方に畳を切り、小さな囲炉裏風に仕立てた炉が登場します。足利義政が建てた鹿苑寺の東求堂を、何時だったか調査した際に、同仁斎に炉を切った跡が発見された、と言う報道があったのを覚えております。

炉が登場してから、やがて侘茶が盛んになって来ると、次第に季節によって炉と風炉を使い分ける様になり、何時の間にか、秋冬は炉、春夏は風炉と使い分けるのが慣習になり、そして、それが固定されて行きました。

 

炉開き

夏場の茶室を覗くと、炉が畳の下に隠されていて、ちょっと見では何処にあるか分かりません。でも、よくよく見ると、1尺4寸(42,4㎝)四方の小さな畳が、畳の筋目に同化する様に嵌め込まれている箇所があります。そこが炉の畳です。立冬の頃、その小さな畳を上げて炉を出すことを炉開きと言います。炉開きして灰を整え、いよいよ秋冬のお点前が始まります。

どうして春夏が「風炉」で、秋冬が「炉」と使い分けるかと言いますと、夏は、少しでも涼しくするために、お客様から火を遠ざける位置に風炉を据えます。可動式の風炉は、その点とても便利です。亭主の座る点前座の左隅に風炉を据える様にします。そうすると、お客様から離して熱源を置くことが出来ます。

(本勝手の間取りですと、上座に向かって右側にお客様が座り、左側に亭主が座るように造られた茶室になりますので、点前座の左隅に風炉を置くのは、お客様から火が離れますので、具合がいいのです。)

炉は炭火の容量が大きいので部屋全体が温まります。炉を切る場所は、亭主が座る点前座とお客様の座る客畳の間にありますので(待庵のように極小の茶室は例外)、火がお客様に近くなります。寒い冬などは火の温もりがご馳走です。という訳で、火がお客様の傍になるように秋冬は炉でお持て成しをするのです。

 

炭手前

炉で茶の湯をする時は、炉に炭を熾(おこ)します。炭火熾しは難しくコツが要りますが、近頃では電熱器を使いますので、随分便利になりました。

炭組みには各流派でも独特のやり方があり、炭が確実に熾(お)きる様に、炭を組み上げた時の姿が美しい様に、火箸扱いや灰の扱い、炭手前の所作など様々に工夫されています。

ここでは失敗無く火が熾せる式正織部流のやり方の、炭組みの順序だけを述べてみたいと思います。所作・お香・その他については省略します。

炭にはそれぞれ名前がついています。順序に従って炭を炉の中に組み立てます。

炭手前を始める前に、予(あらかじ)め灰の中に種火を入れて置きます。炭手前に取り掛かる時、最初に灰の下に埋め込んだ種火を、火箸で掻き分けて表に出し、空気に晒します。

炭の組み方は色々ありますが、炭をどのように組み上げるにしても、空気が底面の横から入り、種火で熱せられて上昇気流が起り、新鮮な空気が絶えず流れる様にすれば、放って置いても火熾しは成功します。

下記は、当流で炉の時に使う炭の名前と長さです。風炉の場合も名前は同じですが、炭の長さが少し短くなります。(例えば風炉用胴炭は12cm、立輪炭は6㎝と言う具合です。また、炭組みの順序は風炉でも同じです。) 頭に振った番号は炭を組む順番です。

柄杓

炉のお点前になると使う柄杓も、風炉用から炉用に変わります。

炉用は、柄杓の合(ごう→お湯を入れる所)が、風炉で使っていた柄杓よりも少しだけ口径が大きくなります。柄杓の柄の先の切止め(柄を断ち切った所)も切り方が変わります。

風炉の時に使う柄杓の切り止めは身を斜めに削りますが、炉の時に使う柄杓の柄は皮を削る様に斜めに切ります。(身を削る→竹の内側の白くて柔らかい部分を斜めに削る。皮を削る→竹の表皮(艶があって堅い方)を斜めに削る。炉と風炉兼用の柄杓は、切止めが垂直になります。蓋置には竹、陶器、金属など材質に色々なものがありますが、もし、竹の蓋置ならば、身が肉厚のものになります。

炉縁

炉の縁ですが、他流では黒漆の縁(真塗り)を用いる時も有れば、侘びた風情を出す為に木地のままを使う場合もあります。当流では必ず漆塗りの縁を使います。茶席の趣向によっては蒔絵、螺鈿象嵌などの縁を使う場合もあります。炉縁ばかりでなく、長板や棚もの、台子(だいす)にしても、木地のままのお道具を使う事はありません。全て漆が塗られています。袋棚などは華やかな朱塗りです。

当流ではわび・さびに強いて拘(こだわ)りません。それと言うのも、書院で点てる事を旨にしておりますので、室内の雰囲気が草庵風では無いのです。床柱一つにしても、草庵なら数寄を凝らした丸柱や自然に近い樹木の姿を取り入れたりしますが、正式の書院の床の間は角材を用います。垂直の角柱・角材を使った梁と言う具合で、直角の線と面の、言うなれば四角四面の部屋作りです。一事が万事、そういう訳で、殊更にわび・さびに拘らないのです。

武家に相応しい茶を創始せよ、との秀吉の命令で織部が編み出した武家茶。利休から茶の湯を学んだ織部は、師から受け継いだ侘茶を脱皮して、如何にして武家らしい茶の湯にするか、かなり悩んだと思います。彼が辿り着いたのは、師・利休の極端に平等意識に裏打ちされた侘茶を排して、足利義政が開いた唐物道具による書院茶へ回帰し、当世風にアレンジしたものでした。

 

炉の無い書院

前置きでも触れました様に、炉が無かった大昔の茶の湯は、全て風炉で行われておりました。これが原形です。その後、書院にも炉が切られる様になりました。代表的なものに、

大徳寺龍光院(りょうこういん)にある小堀遠州作の密庵(みったん)席。

同じく大徳寺小堀遠州作・松平不昧再建の弧蓬庵(こほうあん)にある忘筌(ぼうせん)。

上田宗箇の和風堂・鎖の間「建渓(けんけい)」。

などがあります。

独立した庵(いおり)での茶会で無く、お城や御殿の一画の炉の無い部屋で茶の湯をする場合、移動可能な風炉を持ち込んでお茶を点てる様になります。こういう場所で茶湯をする時は、夏でも冬でも、風炉を持ち込んで茶を点てます。

他流では、冬の風炉使いはルール違反になります。「秋冬に風炉で茶を点てるなんてとんでもない、アレはお茶を知らない奴だ。非常識だ」と非難されそうですが、式正織部流では唐物茶の湯の時代に回帰している側面がありますので、冬の風炉点ては全く問題ありません。江戸城での正月賀の祝いでは、真台子(風炉点て)六天目の茶会を開いているくらいです。建物の構造上、或いは、大勢を部屋に入れての茶会の需要で、冬の風炉点ては大いに有りなのです。

ところが、すっかり秋冬は炉、春夏は風炉と言う常識が定着しているものですから、そういう社会通念に逆らって、冬の風炉点てと言う世間様で物議を巻き起こしそうな点前は、当流では遠慮して行わない様にしています。婆はそれをとても残念に思っております。弓箭台子点て(きゅうせんだいすだて)や天目茶碗を使っての真台子点てなどはいずれも風炉点てで、なかなか見ごたえのあるお点前なのですが、外部で茶会をする時は、春夏しかやりません。

 

殿様茶

お茶を戴く時、目の前にお茶が供されたら、隣の人との間に一旦お茶碗を置き、「お先に如何ですか?」と目顔で伺ってから自分の前に茶碗を戻して、「それではお先に」と挨拶をして頂く、という作法が他流では行われています。

式正織部流では茶碗を移動する所作はありません。お茶が供されたら、隣の人に「お先に」と黙って軽く会釈して、そのまま茶碗を取り上げ、亭主に礼をしてから頂きます。

というのも、亭主がそのお客様の為にお茶を点てて差し上げたのに、そのお茶を、他のお客様に譲るゼスチュアをすると言うのは、亭主に対して非常に失礼に当たる、と考えるからです。身近な例で言えば、お歳暮に頂いた品物を他所様に回すような行為に映る訳です。「儂の点てた茶が飲めぬと申すか!」と、殿様の逆鱗に触れかねません。

他流では、お互いに謙譲の美徳で譲り合い、和気藹々とした雰囲気の中でお茶を戴いています。日本的美風で大変結構な作法ですが、当流では、客と客との横の関係性よりも、亭主と客との縦の関係性が重視されます。これも支配者層の武士の意識と、町衆が商業圏の共同利益を守るという仲間内意識との差から来るものではないかと、愚考する次第です。

出入り口を低くして誰彼別なく頭を下げさせ、侍のアイデンティティの刀を取り上げ、横の繋がりを大切にするという、この様な侘茶に潜む平等意識に対抗して、秀吉は、武家に相応しい茶の湯を創始せよ、と織部に命じたのかも知れません。