式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

193 古田織部茶書(2) 下巻の抜粋解読 

ここでは、国立国会図書館所蔵の「宗甫公古織江御尋」の1冊目と2冊目を取り上げております。前号ブログ№192 古田織部茶書(1)で、市野千鶴子氏校訂古田織部茶書」に通し番号を振り、国会図書館本の原書「宗甫公古織江御尋書」と対比しながら、思いつくまま抜粋して解読して参りました。今回も同様にそうしようと思って、取り掛かってみましたが、早くも壁にぶつかってしまいました。

理由は、国会図書館所蔵の原書と市野氏本との内容の並びが必ずしも同じでは無く、入り組んでいる為です。作業している内に混乱してしまいました。そうなると、通し番号の意味をなさなくなってしまいます。

そこで、軸足を国会図書館に所蔵されている原書に完全に移し、「宗甫公古織江御尋書」をピックアップして参りたいと思います。

 

        慶長尋書下巻

 

国会図書館原書2冊目の1頁目、コマ番号にして3/22の最初の1条は、市野千鶴子氏校訂の17頁・通し番号129に出ている条です。

原書

一 風炉前の足小板間壱寸分半有後乃足より小板乃間貮寸分半有分前へ風炉よ流なり

市野氏本

一 風炉の前の足、小板ノ間一寸有、後ノ足より小板之間二寸分・分半前へフロヨルナリ。(※赤字は原書と違う寸法の箇所)

[原書の訳] 一 風炉の前の足、小板との間一寸八分は有り、後ろ足より小板の間二寸六分は有ります。八分前へ風炉が寄っています。

[解] 最後の語「風炉よ流なり」の「流」を変体仮名の「る」と変換し、「風炉よるなり」→風炉寄るなりと解釈しました。

「一寸八分半」の「半」を変態仮名の「は」と変換し、「一寸八分は」と読みました。尺貫法で「分」の半分はミリ単位になり、設置位置の精度をそこまで要求するのは非現実的と思ったからです。なお、原書と市野本とでは、寸法に違いがあります。

風炉と言うのは、火鉢のように持ち運びができる熱源設備です。これに対して「炉」と言うのは、囲炉裏のように部屋の中に炉を切って作る固定的な熱源設備で、移動が出来ません。

風炉の足」と言うのは、風炉を直に畳に置かないように付けた足の事です。大抵の風炉には3本の足が付いております(鼎(かなえ)の形)。この条ではその足について言及しております。

風炉を直に畳に置かず、四角い小板を敷いてその上に設置します。前にある1本の足と小板の前際(きわ)との間を約5.5cm、後ろ足と小板の後ろの際の間が約8cm、全体的には風炉は小板の中心より2.4cm位前へ寄っている、と言う事です。

[雑]   原書では     1寸8分=5.5cm   2寸6分=7.9cm

   市野本では  1寸7分=5.2cm   2寸4分=7.3cm

因みに尺貫法の換算は 1尺=30.3cm 1寸=3.03cm 1分=0.3cm=3㎜

 

原書下巻 コマ番号9/22。 市野氏本221 33頁出。

文中の「上客之時」の「客」の字が読めず、空欄のまま読み飛ばしていました。が、原書のコマ番号13/22にある「慶長十六年十一月十三日・・・」の小見出しの末尾に同じ文字を見つけました。それが「客」という字でした。近くに同じ字が三ケ所も出て来て、いずれも「客」と読んでも前後に矛盾無く繋がりましたので、この読めなかった字に「客」の字を当てました。

市野氏本では、同じ字を「洛」と読み解いています。「洛」の崩し字にしてはサンズイに当たる部分の筆運びがありません。市野氏の様に「上洛の時」と読んだ方が分かり易いですが、「上客」と読んでも意味が通じます。つまり「上客」は「正客」と同じと判断しました。

慶長14正月上客之時我等直ニも使ニ而も織部へ尋候覚

一 露地山またハ以川連乃景を見候事 木乃間り少し見ゆるか能候哉 山など多く見へ候は能候哉と尋申候へハ 山其外景ハ木乃間より少し見へ多る候面白く候 山なと多く見へ候偏者景しきならさる由候てニ付引事に三井寺にて宗長乃句ニ

夕月夜海寿こしある木乃間か那

[読]  慶長14年正月、上客の時、我等直(じか)にも使いにても織部へ尋ね候覚え

一 露地より山またはいづれの景を見候事、木の間より少し見ゆるが能(よ)き候や、山など多く見え候は能(よ)し候やと尋ね申し候(そうら)へば、山そのほか景は木の間より少し見えたる候面白く候、山など見え候は、景(け)しきならざるよし候てに付き引き事に三井寺にて宗長の句に 「夕月夜 海すこしある木の間かな」

[解]  慶長14年正月お正客になって織部の茶会に行った時、私達は直接にも使いにても織部に尋ねた件についての覚えです。

露地からの借景について尋ねました。山やそのほかの景色は木の間から少し見える方が良いのでしょうか、山などが多く見える方が良いのでしょうかと尋ねたところ、織部は次のように答えました。山やそのほかの景色は、木の間から少し見える方が、興趣が有って面白い。山などが多く見えてしまうと、趣のある景色では無くなってしまうので、それについて、次の様な三井寺で宗長が句を引用しました。

「夕月夜 海少しある木の間かな」

ここでは露地の庭づくりに際し、近景と遠景の取り入れ方を述べています。庭に奥行きを持たせる為、近景を大きく、遠景を小さくと言う事で、遠くの山はチラ見の方が良いとの事。秘すれば花の通り、宗長の句も、月の光に照り映える海が全面的に見えるよりも、木の間から海が見える情景を詠っています。

 

原書下巻コマ番号10/22          市野氏本225 、33頁出

一 数寄屋の小袖若キ者ハ赤裏阿しく候半由但し袖ふく里んをとり寿楚ゟ見へ候へハ不苦由

[] 数寄屋の小袖、若き者は赤裏あし(悪)く候は由。但し袖ふくりん(覆輪)をとり、すそより見へ候へば苦しからず由

[] 数寄屋で着る小袖は、若い者が小袖の裏地に赤い裏地を付けるのは良くない事だ。但し、袖口に赤い袖口布を当ててチラッと覆輪の様に見せたり、裾より赤く見えるのは構わない。

裾より赤く見えるのは構わない、というのは、「裾ふき」の事を言っているのだと思います。

裾ふきと言うのは、表地の裾に裏地を2㎜位持ちだして外から見える様にし、裾を縁取りする縫い方です。

 

原書下巻コマ番号10/22  市野氏本226、33頁出

一 数寄候ても数寄屋へ革足袋阿しく候

[] 数寄候ても数寄屋へ革足袋(かわたび)(あ)しく候。

[] 好きだと言っても茶室へ革の足袋を履いて行くのは良くない。

[] 原書の「数寄候ても・・・」の条、市野本では次のようになっています。

市野本 あたらしく候ても、すきやへかわたひあしく候

[談] 革足袋と言うのは、鹿皮や猿等の皮をなめして作った足袋です。大変丈夫で、野原で石を踏んだり棘を刺したりして怪我しないように、作られた物です。武士にとって革足袋は無くてはならない物で、戦場では必須アイテムでした。また、山仕事の樵(きこり)なども重用しておりました。信長などは、革を小紋に染色加工して、お洒落に履いていた様です。

今でも、武道をなさる方々の中には、床での足運びが容易であると言う理由で、足袋底に革を張った物や、全面的に革使用の物などを愛用なさっている方もいる様です。

 

原書下巻  コマ番号13/22   市野氏本265、41頁出

一 織部咄しに如可なる因果に数寄を仕ならひ此寒きに大坂堺にて方々へ数寄に参る故煩も発候又は江戸へ切ヽ伺公申し事数寄故に此引哥に

誰由へに佐乃ミ身をつくすらん  船つなけ雪夕へのわたし守

[意訳] 一 これは織部が咄(はなし)た事です。

どういう因果か茶の湯を習ってしまったので、この寒さの中でも大坂や堺へ行き、方々へ茶会に参るので病気になってしまい、又、江戸へキリキリとハードな日程で伺候する事、これも茶の湯故。これを歌から引用して、

誰由へにさのミ身をつくすらん  船つなけ雪夕へのわたし守

と嘆いておいでてした。

誰の為にこのように一所懸命身を尽くして働かなければならないのだろうか 雪の夕べに舟を岸辺に繋ぐ船頭独り。と口にする織部。寒々とした孤独感が漂って来るようです。

 

原書下巻コマ番号14/22。 市野氏本269、41頁出

慶長17 4月4日古織相尋申覚

一 濃茶乃後茶わん茶付を客人湯を入て候所望候ハヽ同しくハすすき候て別に薄く立て候能由

 [] 慶長17年4月4日 古織に相尋ねた時の覚え。

一 濃茶の後、茶碗の内側に付着している茶に湯を足して、もう一杯頂きたいと客人が所望したならば(そのようにして薄めた茶では無く)、同じ様に濯(すす)いで綺麗にして、別に薄く茶を点てて差し上げるのが能(よ)いとの事。

 

原書下巻コマ番号14/22。  市野氏本270、42頁出

一 風炉乃数寄に茶立候時ハ畳の真中に居て立候かよき由

[] 風炉でお茶を点てる時は、畳の真ん中で点てるのが良い、との事です。

[] 「畳の真ん中」と言う事は、部屋の真ん中と言う意味なのか、それとも、点前座の畳、つまり亭主がお点前をする時に座る畳の、その真ん中に座ってお点前をしなさい、と言う事なのか、この文章だと判然としませんが、ここは常識的に言って、点前座の畳の真ん中を指して言っていると考えて、間違いないと思います。

[参考] 点前畳の「真ん中」と言っても座り位置が二種類あります。

一つは、正面から45度ズレてお客様の方に向かって座り、お点前をするやり方です。

一つは、正面を向いたまま、風炉やお道具に正対してお点前をするやり方です。

殆どの流派は、一番目のやり方でお点前をします。

ところが式正織部流は二番目のやり方でお点前をします。正面に向かったままお茶を点てます。亭主とお客様の関係は90度の位置関係になります。

式正織部流には凡(およ)そ45通り以上の点前のやり方があります。

平点前、四方棚(よほうだな)・二重棚・三重棚・高麗卓(こうらいじょく)等々にはそれぞれ風炉と炉、濃茶と薄茶の点て方の別があります。又、炉点ての袋棚、風炉点ての長板・立礼・竹台子・真台子にも濃茶・薄茶の点て方の違いがあります。それだけあるお点前の中で、お客様に対して45度に座り位置をずらして向き合うのは「炉の平点前」と「炉の太閤点て」だけです。その外の全ては、亭主は客の方へ向かず、正面を向いてお茶を点てます。

太閤点てというのは、太閤秀吉が好んだ茶の点て方で、華やかで動きの多い点前です。袱紗を捌いて蓮の花に見立てたり、花弁がさっと散る様に袱紗を落し、袱紗が畳に落ちる前に掬い取って鮮やかに右手に収めるなど、見せ場の多いお点前です。その為でしょうか、「見せる」為に、お客の方へ体を45度向けるのは。如何にも太閤の好みそうなものですが、運動神経が鈍い婆は失敗も多く・・・

 

原書下巻コマ番号16/22   市野氏本286、43頁出

慶長17上洛之時7月29日朝道巴数寄屋にて口切候時織部殿覚

一 数寄屋へ薄帷子悪し候へハ見へ寿きて悪敷二ツ重て着候か吉同薄き布ハ者可満に阿しく候由□□□とやらん布ハあつくて能由

[読] 一 数寄屋へ薄帷子(うすかたびら)(あ)し候へば見えすぎて悪敷(あしく)、二つ重ねて着候がよし。同薄き布は袴(者可満)に阿(あ)しく候由(よし)□□□とやらん布はあつくて能(よ)い由(よし)

[意訳] 慶長17年上洛の時、7月29日の朝、道巴(=服部道巴)の数寄屋に於いて口切をした時に織部殿が言った事の覚え

一 数寄屋へ薄物の単衣(ひとえ)の着物を着て行くのは良くない。見え過ぎて悪い。二つ重ねて着るのがよろしい。同じ様に薄物の袴も悪いとの事だ。□□□と言う布は厚地なので良いとの事です。

なお、□□□と言う布について、原書に書かれている文字が読めなくて申し訳ございません。

この条は7月の頃の話。セミの羽根の様に透けて見える紗(しゃ)のような布は、紗袷(しゃあわせ)にするか、2枚重ねで着た方が良い、ということでしょう。

市野氏の本では、口切をしたのは「道也」の数寄屋となっており(括弧書で「巴」も並記されている)、又、婆が□□□と読み飛ばした箇所を「十九とや候はんの布・・」とあります。

[] 道巴は古田織部の高弟で服部道巴(はっとりどうは)と言い、加藤清正に200石で召し抱えられた人物です。彼は熊本藩の家臣達の茶の指導に当たっていました。

口切(くちきり)というのは、茶壷に入れて保管していた新茶を、茶壷から取り出して使い始める儀式の事です。新茶を茶壷に入れて厳重に封をして保管するのですが、使い始める時、その封を切るので「口切」と言います。普通、11月に口切の茶事を行い、その為、11月を茶の正月とも呼びます。

 

原書下巻コマ番号18/22   市野氏本309、46頁出

以下の五つの条、即ち「一 脇差をハ・・」「一 腰かけ御座候時ハ・・」「一 御手水之時は・・」「一 御供にハ・・」「一 御炭之時・・」は、いずれも小見出し「慶長御成御供之時」に含まれるものです。御成りの時に御供する時どう振る舞えば良いか述べたものですが、尋ねるのも大名の小堀遠州、答えるのも大名の古田織部、そういう大名が御供する相手といえば、上様・将軍しかおりません。それを踏まえて読み解いていきます。

慶長御成御供之時

一 脇差をハ刀懸に懸申し候

[訳] (上様の)慶長御成りに、お供した時

一 脇差を刀懸けに懸けました。

[参考] 市野氏本では「一 脇差をハさし申候、刀かけニ掛け申候」

 

原書下巻18/22   市野氏本310、46頁出

一 腰かけ御座候時ハ圓座を敷但し飛石之上敷御供有之

[訳] 一 腰掛に居る時は円座を敷きます。但し、飛び石の上に敷く、御供の者にはこれも有りです。

[解]「御成り」と言うのは将軍が家臣の屋敷を訪れる「数寄屋御成」の時に使う言葉です。腰掛けに居る時は円座を敷きます。御供の者が飛び石の上で待っている時は、飛び石の上に円座を敷く事もアリ、です。

上様の御供をして腰掛近くにまで近侍できる様な人物は、単なる平の警護の侍ではありますまい。幕閣のお偉いさんか大名格の人物。そういう身分の御供の人達であっても、上様と同じ腰掛に並んで座るなんて事は有り得ないですから、彼等は飛び石に蹲踞(そんきょ)していたのかも知れません。そういう時に「飛石之上敷御供有之候」と言ったのかも。

円座は、藁(わら)やイ草、菅(すげ)、真菰(まこも)、竹の皮などで丸く編んで作った敷物(座布団)の事です。

次の次の条で、お炭の時は、上様の手が汚れない様に、御供の者が炭を取って差し上げなさい、と言っていますので、ひょっとして上様が亭主を務める積りの席なのでしょうか。席主は御成り屋敷の主人、亭主が上様というのも戯(たわむ)れの酔狂、そんなぶっ飛んだ空想してしまう婆なのではあります。

[参考] 市野氏本では 腰かけニ御座候時ハ円座を(敷、但し)飛石ノ上ニ敷、御供之者ハ在之候」とあります。

 

原書下巻18/22   市野氏本311、46頁出

一 御手水之時は御供之内参り懸申候

[] 一 (上様が)御手水(おちょうず)を使う時は、御供の内の誰かがお側に参り、お水を懸けて差し上げます。

 

原書下巻18/22   市野氏本312、46頁出

一 御供にハ世きたをはき能候

[] 一 御供には、せきた(席駄or 雪駄)を履いて良い。

[] 「せきた」は「席駄(せきだ)」で、雪駄(せった)の事です。雪駄は和装男子の履物で、竹皮の草履の裏に革を張り、滑り止めの金具を付けたものです。「席駄」は、千利休が創ったと言われています。茶事などで、庭に降りた時などに履いたりします。

 

原書下巻18/22   市野氏本313、46頁出

一 御炭之時底は御供之とり申候

[] 一 (上様が)お炭手前をする時は、そこは御供の内の者が取ります。

[] 上様がお炭手前をする時は、お供の内の誰かが(炭を)取って差し上げなさい。上様のお手が汚れてしまうので、そうしなさい、という事。

  

 

余談  「上洛」と「上客」

この№193のブログで2番目に取り上げた条ですが、そこで、「上客」と「上洛」について、文字の読解に不安がありました。はじめ分からないので読み飛ばしていましたが、原書のコマ番号16/22の「慶長17上洛之時・・」には、はっきりと「上洛」と書いてあります。又、コマ番号13/22ある「慶長十六年十一月十三日・・・」の小見出しの末尾には「客」の字がありますので、「洛」と「客」を書き分けているのが分かります。と言う訳で、2番目に取り上げた条の「慶長14正月上客(or洛)之時」は、矢張り「客」で確定したいと思います。

 

 

 

この記事を書くに当たり、下記のような本やネット情報を参考に致しました。

国立国会図書館デジタルコレクション「宗甫公古織江御尋書」

検索は「茶道叢書 ウエブ目録 リサーチ・ナビ 国立国会図書館」ですると便利。目録通し番号は第108冊

「宗甫公古織へ御尋書」 市野千鶴子校訂

お点前の研究茶の湯44流派の比較と分析-Google ブック検索結果 廣田吉

角川書道字典

角川 漢和中辞典

AI手書きくずし字検索

人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍くずし字データセット文字種(くずし字)一覧」

この外に「ウィキペディア」、「コトバンク」などなど多くの情報を参考にさせていただきました。有難うございました。