鎌倉に幕府を開き、征夷大将軍になった源頼朝は、武家政権の樹立という大事業を成し遂げました。武家を取り纏め、政権としての形を整え、守護・地頭を置いて勢力拡大の足掛かりを作りました。そこに至る迄には、敵対した身内も、敵対しなかった身内も、頼朝は多くの身内を殺しています。
以下は頼朝に殺された身内の名前です。
異母弟・源義経 自刃 (奥州平泉合戦)
異母弟・源範頼 幽閉 (誅殺の噂も・・・)
娘婿・義高(義仲嫡子・頼朝娘大姫の婿) 斬殺
叔父・源義広(義仲陣営) 合戦・斬首
叔父・源行家(=新宮十郎) 捕縛・斬首
従兄弟・源光家(行家息)、源行頼(行家息) 捕縛・斬首
1199年、頼朝は53歳で亡くなります。武家の棟梁が平和時に落馬し、その予後が悪く亡くなりました。何故彼は馬から落ちたのか・・・嘘か誠か頼朝の死には暗殺説が付き纏っています。
頼朝の嫡男・頼家は父が無くなってすぐ18歳で二代将軍になります。ところが、母・北条政子と伯父・北条時政は、頼家の強力な後ろ盾であった妻の実家の比企氏を滅ぼしてしまいます。更に実母と伯父の手により、頼家は将軍職を追放された上、伊豆の修善寺で暗殺されてしまいます。
三代将軍は、頼家の子が小さかったので、頼家の弟の実朝がなります。実朝この時12歳です。しかし、実朝28歳の時、頼家の猶子・公暁(くぎょう)によって鶴岡八幡宮参詣の折、暗殺されてしまいます。公暁は実朝を親の敵と思い込んでいました。公暁に実朝を親の仇と信じ込ませた黒幕が誰か分かっていません。
頼家には四男一女の子供がおりました。頼家の長男・一幡(6歳)は伯父・北条時政に殺されます。猶子の公暁も「敵討ち」をした後,北条の手の者に捕らえられ殺されます。四男禅暁も公暁に加担したと見られ殺されてしまいます。
三男は幼い時に次期将軍として担がれますが、計画は失敗します。北条政子の嘆願により助命され,明菴栄西禅師の下で出家し、栄実と名乗ります。しかし、再び将軍職に担がれて北条氏と戦い、14歳の時に敗北して自刃してしまいます。
頼家の唯一の姫は竹御所と呼ばれていました。
彼女は四代将軍・藤原頼綱(九条家出身)の下に嫁ぎましたが、男子を死産、本人も産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。
こうして、源頼朝の直系は絶えてしまいました。
源氏の嫡流は三代で滅び、執権北条氏によってその実権を奪われてしまいます。
余談 源実朝
鎌倉幕府の三代将軍・源実朝は和歌を能くし、藤原定家に指導を仰ぎ、勅撰和歌集にも選ばれる程の歌人でした。小倉百人一首にも選ばれています。自身でも「金槐和歌集」を表しています。
世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも (小倉百人一首)
大海の磯もとどろによする波 われて砕けて裂けて散るかも (金槐和歌集)
時により過ぐれば民のなげきなり 八大龍王雨やめたまえ (金槐和歌集)
余談 修善寺物語
源頼家について書かれた本に岡本綺堂の「修善寺物語」があります。
これは福地山修善寺の寺宝として伝わっている源頼家愛蔵の舞楽の面を基に想を得た作品です。
頼家を扱った文学作品は他にも下記の様なのもがあります。
高橋直樹著 『悲命に斃る』
湯口聖子著 『落日』