諸行無常の風の前に平家は滅び、貴族達は戦乱の坩堝(るつぼ)に投げ込まれます。運命に翻弄されながらも、万葉の昔から老若男女貴賤の別なく、人々はその時々の心を歌に詠んできました。平家や源氏の武人達も又、多くの歌を残しております。そして、歌をこよなく愛する将軍・源実朝が、藤原定家の指導を受けて歌の道に励んだことが、鎌倉歌壇の隆盛を呼びました。実朝以降、京都から親王を迎えて将軍に戴いた事もあって、むくつけき武士達も一層和歌を嗜む様になります。
武士の歌
庭の面はまだかわかぬに夕立の 空さりげなく澄める月かな
さざなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
平忠度 (千載集)
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ
源実朝(金槐集)
来し方ぞ月日にそへて偲ばるる又めぐりあふ昔ならねば
旅人のともし捨てたる松の火のけぶりさびしき野路の曙
「旅人の・・」の歌は、宗尊親王が将軍職を解任されて京都に送り返される時に詠んだ歌、と聞いております。
勅撰和歌集は「古今和歌集」から「新続古今和歌集」まで合わせると21集あります。
21集の中でも主だったものを八大集と呼びます。
八大集は次の通りです。
①古今和歌集 ②後撰和歌集 ③拾遺(しゅうい)和歌集 ④後拾遺和歌集 ⑤金葉(きんよう)和歌集 ⑥詞花(しか)和歌集 ⑦千載(せんざい)和歌集 ⑧新古今和歌集 です。
五山文学
ここで五山と言うのは、鎌倉五山、京都五山の総称で、いずれも禅寺です。
鎌倉五山と言うのは、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺 です。
京都五山と言うのは、南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺 です。
京都五山は六か寺あります。南禅寺は、亀山法皇開基による勅願寺なので、別格扱いで数えられています。時には政治的な事情で、妙心寺や大徳寺の名前が挙がる事もありました。要はどこそこのお寺と言うよりも、一括りに禅寺として見るべきで、五山文学は禅寺で生まれた漢詩・漢文の文学で、看話禅(かんなぜん)と深く関わっています。
禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)です。つまり、「悟りは文字では表せない」を宗是としています。であるならば、不立文字を言葉で説明するとはこれ如何に!!
宋の時代、汾陽善昭(ぶんようぜんしょう)という禅僧が、頌古(じゅこ)を詩にして書きました。更に雪ちょう重顯(せっちょうじゅうけん)が豊かな文才を発揮して「頌古百則(じゅごひゃくそく)」と言うものを作りました。そして更に、「頌古百則」を芯にして色々のものを加え、編纂し直して、圜悟克勤(えんごこくきん)が「碧巌録(へきがんろく)」を著しました。
「碧巌録」は韻文・散文見事な文学作品だそうです。そういう本を土台にして日々研鑽に励んでいる臨済禅の僧侶達は、自ずと漢文学の素養を深めて行きました。
日本では虎關師錬(こかんしれん)が五山文学の開祖と言われております。彼は「済北集」「聚汾韻略(しゅうぶんいんりゃく)」「元享釈書(げんきょうしゃくしょ)」等の本を書いております。