豊臣秀吉が天下を取って争乱の時代が終わりを告げたかに見えても、なお戦いは絶えません。小田原征伐・九州征伐・朝鮮征伐、関ケ原、大坂の陣へと続いて行きます。
顧みれば、討死、戦病死、自刃、暗殺、刑死、謀殺・・・畳の上で天寿を全うすると言う事は、武士にとってはなかなか大変な事です。
戦史に消えた武将は、どういう風な死生観を持っていたのでしょうか。そこを探れば、武士と禅と茶の湯とを結びつける何かが、そこに在る様な気がします。
以下に、有名な武将をピックアップして、その生涯を短く纏めて列挙致します。
この項で扱う人物
源頼家 源実朝 北条時宗 北条貞顕 後醍醐天皇 尊義親王 護良親王
宗良親王 恒良親王 成良親王 義良親王 懐良親王 楠木正成 新田義貞
氏 名 (生年-没年)
源頼家 (1182-1204)
鎌倉幕府2代将軍。源頼朝嫡男。禅宗の明菴栄西(みょうあん えいさい)の後ろ盾となり、京都に建仁寺を建立。伊豆修善寺にて暗殺さる。享年23歳。
源実朝 (1192-1219)
鎌倉幕府3代将軍。歌人。明菴栄西より『喫茶養生記』の献呈を受ける。栄西より二日酔いの薬としてお茶を勧められてその実効を知り、武士達にお茶を広める。鎌倉鶴岡八幡宮にて猶子の公暁(くぎょう)により暗殺さる。享年28歳。
北条時宗 (1251-1284)
鎌倉幕府8代執権。二度の元寇を退け、日本を勝利に導く。禅宗に深く帰依。蘭渓道隆、兀庵普寧(ごったん ふねい)、無学祖元に参禅し、学ぶ。満32歳の時に死期を悟り、出家。その日に亡くなる。
北条貞顕 (1278-1333)
鎌倉幕府15代執権。在任期間10日間(嘉暦の騒動により辞任)。一流の文化人。京都の銘茶と茶道具を揃え、守邦親王将軍を慰める。新田義貞と戦い、鎌倉東照寺合戦にて敗北。一族と共に自刃。北条氏滅亡。
後醍醐天皇 (1288-1339)
後醍醐天皇を武士の括(くく)りに入れるのは誤りですが、北条氏を倒し、足利氏と戦ったと言う点で特別に挿入します。
後醍醐天皇、8人の息子の内、夭折の二宮・世良(ときよしor よよし)親王を除く7人の皇子を南北朝の戦乱に投ず。その結果は以下の通り。
一宮・尊良(たかよし)親王、越前金ケ崎城の落城の折り自害す。享年31歳か。
三宮・護良(もりよし)親王、征夷大将軍。父帝に疎まれ、鎌倉土牢内で暗殺さる。
享年28歳。
四宮・守良(むねよし)親王、信濃戦場で敗北後歌人として活動。晩年消息不明。
五宮・恒良(つねよし)親王(皇太子)、越前金ケ崎城落城後に捕虜。毒殺さる。
享年22歳。
六宮・成良(なりよし)親王、越前金ケ崎城落城後に捕虜。毒殺さる。(異説有)
享年19歳。
戦いに生き残った七宮・義良(よしながor のりよし)親王が後村上天皇になり、八宮・懐良(かねよし)親王は九州で日本国王・良懐を名乗り日明貿易に励むも、九州探題今川了俊に敗北、没落し筑紫で薨去。
後醍醐天皇はと言えば、南朝を樹立。文化人としての誉れ高く、闘茶を始めた先駆け。手ずから「金輪寺(きんりんじor こんりんじ)」と言う茶入れを作り、修験僧に振る舞ったと言われている。「金輪寺」は一時期織田信長が所有す。
後醍醐天皇は茶人。又、闘茶などにも関心が高く、故に、臣下達も茶の湯に励む。現代、社長がゴルフ好きなら、部下も挙(こぞ)ってゴルフをするに似る。以下に名を挙げる者はもとより、記載の無い武将達も茶の湯は殆どの者が嗜(たしな)んでいる。
楠木正成(くすのき まさしげ) (1294?-1336)
出自不詳。初期、鎌倉幕府の得宗被官。武装民の討滅に軍事的才能を発揮。後醍醐天皇より報恩院道祐を通して和泉若松荘を得る。後醍醐天皇討幕に起つ報に天皇側に寝返る。赤坂城の戦い、天王寺の戦い、千早城の戦い、いずれも寡兵ながら奇襲とゲリラ戦術を駆使。天才的な戦いぶりを見せ、護良親王と共に勝利す。建武の新政の時、記録所寄人、検非違使等々の役職に就く。護良親王が謀反の讒言に遭い捕縛され、足利方に引き渡されると、正成、全ての役職を辞し、新田義貞、北畠顕家と合流。足利尊氏を撃破、尊氏を九州へ追い落とす。尊氏、態勢を立て直し京へ大軍で攻め上るを、正成と義貞は兵庫・湊川で迎え撃つ。正成敗北、自害。息子の正行・正時は四条畷(しじょうなわて)で高師直(こうもろなお)と戦い討死。三男・正儀(まさのり)は幼少にして参戦せず。
新田義貞 (1301-1338)
御家人。千早城の戦いに幕府方で出陣するも、離脱し新田荘に帰還す。幕府より莫大な軍資金の要求有り。その使者を殺害し挙兵。鎌倉目指して150騎で進軍。途中関東諸将が合流、足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)も加わり20万騎の大軍に成長。鎌倉を侵攻、東勝寺にて北条氏を滅ぼす。上洛し、功により侍所当人に就く。後醍醐天皇の命により護良親王を捕縛。尊氏、関東で勝手に論功行賞に及び領地を分配す。天皇これを怒り、義貞に尊氏討伐を命ず。義貞、尊氏討伐に掛かるも、西進する足利軍阻止叶わず。京都で義貞、顕家、正成、尊良親王、諸将と合流。入洛した尊氏に総攻撃を掛け九州に駆逐。九州より遡上の尊氏は正成・義貞軍と湊川で交戦。尊氏、正成&義貞を撃破。正成敗北し自害。
後醍醐天皇、和平の道を探り尊氏と交渉、義貞を捨てる。義貞、起死回生の道を求め、尊良親王、恒良親王、成良親王を奉じて北国へ移動。越前金ケ崎城に入る。足利軍、これを包囲。兵糧尽き、餓死者続出。ついに落城。尊良親王自害。恒良親王・成良親王は捕縛さる。義貞は生き延び、越前・藤島の戦いで討死。享年38歳。
北畠顕家 (きたばたけ あきいえ) (1318-1338)
『神皇正統記』著者・北畠親房の嫡男。美貌にして優秀。舞の名手。3歳で叙爵。12歳で従三位参議。陸奥守。義良親王(=後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城に着任。北条氏残党を平らげ東北を統治す。17歳で鎮守府将軍に任ぜらる。後醍醐天皇の足利尊氏追討令に従い、東北より鎌倉に攻め入り、更に近江坂本まで進軍、新田義貞、楠木正成に合流、この間、約600㎞を半月余りで駆け抜く。(秀吉の中国大返しでは200㎞を10日)。敵地通過、幾筋もの大河渡河を敢行。兵站は現地略奪。因(よ)って、顕家の通過後は人家も草木も無くなったと言われる。義貞・正成・諸将連合で尊氏を九州に駆逐後、奥州帰還。
九州の尊氏、京に攻め上るの報に顕家再度出陣。美濃国青野原で土岐頼遠を破るが、義貞と合流の約は果たせず、進路を伊勢に採る。更に河内・摂津へ進み、北朝勢力と交戦。善戦を続けるも敗色濃し。戦死する7日前、後醍醐天皇へ『北畠顕家上奏文』を遺す。後醍醐天皇を諫めるもので、率直かつ名文。時すでに兵200騎に激減する中、堺の石津で高師直と衝突。戦死。享年21歳。
足利尊氏(1305-1358)
鎌倉幕府を倒し室町幕府を樹立。初代将軍となる。後醍醐帝の南朝に対し、光明天皇を擁立して北朝を樹(た)てる。弟直義(ただよし)を討ち、甥の直冬と戦う。真言・天台・臨済各宗を信仰。夢想疎石に深く帰依、後醍醐帝供養の為天龍寺船を出して費用を捻出。天龍寺を建立。書画骨董など輸入。歌人。腫物の悪化で死去。一説では矢傷の化膿とも。享年54歳。
足利直義(あしかが ただよし)(1307-1352)
尊氏の同母弟。政務の最高統括者。歌人。直義は清廉実直で万人から信篤く、幕府に法治主義を置く。法学者・是円、真恵他数人を召して建武式目制定を主導。高師直と対立し抗争。第1ラウンドで直義失脚。第2ラウンドで尊氏&高師直と交戦し摂津打出浜で勝利。第3ラウンドで尊氏と戦い敗北。幽閉中毒殺さる。享年47歳
高師直(こう もろなお)(=高階(たかしな)師直)(?-1351)
足利家の家宰(執事)。権力絶大。バサラ大名。石清水八幡、金峰山蔵王堂など焼討す。権力闘争で直義を失脚さす(観応の擾乱)。直義との抗争第2ラウンドで師直は尊氏と結び、打出浜で直義と交戦し敗北、京へ護送中殺害さる。一族滅亡。文化人・闘茶好き。好色家。歌舞伎「忠臣蔵」の高師直のモデル。
佐々木道誉(=佐々木高氏=京極道誉or京極高氏) (1296-1373)
鎌倉幕府御相伴衆、検非違使などを務める。室町幕府引付当人、評定衆、政所執事。バサラ大名。鎌倉幕府討幕と室町幕府樹立に関わる功臣。門跡寺院・妙法院を焼討、流罪になるも盛大な行列で賑やかに流罪先へ下向す。立花・茶道・香道・連歌の達人。他に破天荒な逸話多々有り。道誉の闘茶の会は豪華で有名。享年78歳
(次号へ続く)
余談 参考までに
何時もご愛読ありがとうございます。
このシリーズでは、今回の項目に関連した記事を以前にも扱っておりますので、下記の様にご案内申し上げます。
14 栄西、鎌倉に下る
22 源氏の諸流
24 血で血を洗う 源氏三代
42 南北朝への序曲
43 後醍醐天皇
44 鎌倉幕府滅亡
60 建武の親政(1) 荘園制度からの考察
61 建武の親政(2) 綸旨連発
64 建武の親政(5) 箱根・竹之下合戦
71 南北朝時代の年表
76 婆沙羅(バサラ)
77 闘茶
上記の記事を開く場合、次の様にして頂ければその項に飛ぶことが出来ます。
このシリーズのメインタイトルは「式正織部流「茶の湯」の世界」で、各記事毎にサブタイトルが有ります。各サブタイトルには通し番号を付けております。
この記事の場合は120です。120の番号の下にある小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出て参ります。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易い程小さいです。)