式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

92 応仁の乱(3) 序章

(な)れや知る都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)

       あがるを見ても落つる涙は      飯尾常房(いいお つねふさ)

応仁の乱で焼け野原になった都。婆の目には、終戦直後疎開から帰って来た時の東京の景色が、朧気ながら重なって目に浮かびます。

飯尾常房細川成之(ほそかわ しげゆき)の家臣です。彼は青蓮院(しょうれんいん)流書道を究め、飯尾流の書を始めた流祖で、歌人です。その能力を買われ、足利義政の祐筆(ゆうひつ)を務めました。

大乱はいきなり始まるものではありません。そこに至る迄の下地があり、序章があります。応仁の乱の始まりは1467年の、語呂合わせで言えば『人の世空しい』年から始まりますが、ここではいきなり1467年から書き起こすのではなく、足利尊氏から始まる権力闘争に目を向けて、簡単に初めから触れて行きたいと思います。

 

初代将軍・足利尊氏

尊氏には弟・直義(ただよし)が居ました。非常に優秀な弟でした。北条時行の起こした中先代の乱では、尊氏は直義を救援しましたが、高師直と直義が対立して起こした観応の擾乱(じょうらん)の時は、直義を殺し、直義の養子(実は尊氏の実子)・直冬(ただふゆ)も殺します。

 

2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)

南朝北朝の間で揺れ動く家臣が多く、家臣同士の争いも絶えませんでした。尊氏が薨去(こうきょ)すると細川清氏管領になります。清氏は幕閣と摩擦を起こし、仁木義長(にき よしなが)南朝に下ります。義詮は清氏を失脚させ、清氏に追討令を出します。清氏は南朝に下り、更に讃岐(さぬき)に逃げて、従兄弟の細川頼之(ほそかわ よりゆき)によって討たれます。義詮は管領斯波義将(しば よしゆき)を任命、義将が失脚すると細川頼之管領にして、幼少の嫡男・義満を託して薨去します。

 

3代将軍・足利義満

斯波氏や土岐氏に強要され、義満は管領細川頼之を罷免、斯波義将管領になります(康歴(こうりゃく)の政変)。

[守護弱体化策1]  土岐氏を弱体化させる為に、兄弟同士で戦う様に仕向けます。

義満は、3か国領知の土岐康行(とき やすゆき)から尾張一国を召し上げて、康行の弟・滿貞(みつさだ)へ与えました。滿貞は尾張を受け取りに行くも、既に尾張守護代になっていた弟の詮直(あきなお)と合戦になり、滿貞は敗走します。滿貞は康行と詮直の謀反を言い立てます。それを待っていた義満は康行討伐を命じます。康行は負け、尾張守護職は滿貞が就きます。明徳の乱の時、義滿は土岐滿貞の守護職を罷免します。義満は、兄弟喧嘩を誘発させて双方を自滅させました。土岐氏の没落は、やがて美濃守護代・斎藤氏の台頭を招き、斎藤道三へと繋がって行きます。

[守護弱体化策2]  大内氏を崩壊させる為に同族同士で争わせ勢力を削ぎます。

[守護弱体化策3]  山名時煕(やまな ときひろ)山名氏之(やまな うじゆき)を討伐せよと、同族の氏清滿幸に命じます。時煕と氏之は敗走、討手の氏清には但馬(たじま)を、滿幸には伯耆(ほうき)が与えられました(明徳の乱)

しかし、翌年の1391年(明徳2年)、滿幸は上皇の所領を押領した罪で放逐されます。滿幸は氏清を誘い幕府に反抗、氏清は戦死、滿幸は逃亡の末殺害されました。明徳の乱で敗走した時煕と氏之は雌伏後復帰、時煕流が家督を継いで行きます。時煕嫡子・持豊(宗全)の代に、旧領回復の動きが活発になり、更に争いの火種が延焼して行きます。

 

4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)

[対抗馬を潰す]  父・義満は弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛しており、弟の義嗣は義持の将軍位を脅かす存在でした。父没後に関東で上杉禅秀の乱が起きます。義持は鎌倉公方足利持氏(あしかが もちうじ)を援(たす)け、首謀者の一人と見られる義嗣を捕縛、幽閉後殺害します。持氏はその後も関東平定の為、乱に加担したと言う名目で関東扶持衆(将軍直臣)に弾圧や討伐を行い、次第に義持と対立して行きます。義持は持氏討伐軍を発しようとしますが、持氏が謝罪、沙汰止みになりました。

 

5代将軍・足利義量(あしかが よしかず)

足利義量は将軍位に就くも、父・義持よりも早く亡くなりました。享年19歳。

 

6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)

[圧伏]  くじ引き将軍・義教は延暦寺と対立。彼は兵を持って延暦寺を攻め、屈服させます。24人の僧が根本中堂に火を放って焼身自殺。これに抗議します。

[対抗馬を潰す]  先々代義持の時から懸案であった鎌倉公方・持氏の排除に動きます。持氏と関東管領上杉憲実(うえすぎ のりざね)との間に亀裂が入った機を狙い、義教は持氏討伐の軍を発し、持氏を滅ぼします。

[対抗馬を潰す]  大和の国人達の間で争乱が続いており、弟の義昭(よしあき)がこれに関与していると見て義教は討伐軍を派遣、越智(おち)箸尾(はしお)を討ちます。義昭は逃亡し、四国から九州へ逃げますが、薩摩で捕えられ自害しました。

[守護弱体化策]  義教は、有力守護大名家督相続に口を挟み、自分の気に入った者、自分の意の儘になる者を後継者に指名し、混乱を起こさせます。その餌食になったのが、斯波氏、畠山氏、京極氏、富樫氏、今川氏などです。義教の命により土岐持頼は大和出陣中に誅殺され、一色義貫(いっしき よしつら)親子も武田信栄(たけだ のぶひで)に暗殺されます。信栄も2か月後に殺されます。

1441年(嘉吉元年6月24日)、赤松満祐は結城合戦戦勝祝いの宴席を設け、その席で義教を暗殺します。

 

7代将軍・足利義勝

義勝は義教の長庶子で、父死亡後9歳で跡を継ぎます。将軍在位8か月で亡くなります。

 

8代将軍・足利義政

義政は義教の5男、義勝の同母弟です。幼くして将軍職に就きますが、14歳の頃から管領細川勝元の助けを借りながら政務を執り始め、近臣や女房衆が彼の周りを取り囲みます。

[対抗馬を潰す]  鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)関東管領上杉憲忠(うえすぎ  のりただ)を謀殺、義政は討伐軍を派遣し鎌倉を制圧、成氏は古河(こが)に逃れます(享徳の乱)。成氏は古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。

義政は兄・政知(まさとも)鎌倉公方に任命します。が、政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越(ほりごえ)に留まります。政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれます。

[守護弱体化策]  畠山持国庶子・義就(よしひろ)と甥の政久(=弥三郎)家督争いが起きます。義政が義就を家督者にします。細川勝元山名宗全は政久を支持します。義就が義政の命令を聞かず、細川勝元の所領山城国を攻撃し、義就が失脚します。政久死後、弟の政長が義就に代わり畠山の家督を継ぎ、管領に就任します。

さて、これから先、義就の逆襲が始まり、義就と政長の死闘が始まります。また、それぞれの守護大名が抱えているお家の事情や思惑、婚姻による派閥など集合離散の連続になります。

将軍家は人事権を振り回して守護達の力を削ぐ努力をして来ました。義政の先代も先々代も、義政自身もそうして将軍の力を強めようと努力してきました。義政の代になって、その成果を刈り取る時期が来た筈ですが、時すでに遅し、野焼きの火は消し様も無く大きくなり、大森林火災となって日本中を覆い尽くしていたのです。

 

 

余談  還俗(げんぞく)

 還俗はゲンゾクと読みます。カンゾクではありません。普通「還」はカンと読みます。けれども、お寺や仏教に関する用語では特殊な読み方をする場合があります。カンゾクと辞書で引くと、漢族、姦賊、奸賊、官賊、貫属と言う言葉が出てきます。ゲンゾクで引くと「還俗」が出てきます。

婆は今まで字が読めなくて随分恥ずかしい思いをして来ました。例えば「安芸」ですが、50過ぎるまで読めませんでした。「アキノミヤジマ」という言葉は知っていましたが、宮島の紅葉は有名だから「秋の宮島」だと思っておりました。「安芸」とは結び付いていなかったのです。そんな事が沢山ありました。今でもあります。