式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

明応の政変 

1493年(明応2年4月)、細川政元10代将軍・足利義材 (あしかが よしき) を追放して、足利義澄(あしかが よしずみ)11代将軍にした事件が起きました。これを明応の政変と言います。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変)

「人の世空しい(1467年)」応仁の乱は、家督相続にまつわる兄弟喧嘩から始まりました。今でも、通夜の席が遺産相続に絡んで肉親同士が争い、とんでもない修羅場になるといった話を聞きます。応仁の乱はその修羅場に軍事力を持ち込んで争った戦争です。

世は乱れ、戦続きの時代でしたが、それでも家臣が主人を追放する事はありませんでした。細川政元がそれを行なった初めての人です。これを下剋上の本格化と捉え、応仁の乱をもって戦国時代の始まりとするよりも、近頃では明応の政変を以て戦国時代の始まりと、解釈する様になって来ています。

明応の政変は、重臣が(14)好み(93)の将軍にすげ替えた政変と語呂合わせすると覚えやすいと思います。

 

3人の養子

 管領細川政元には子供が居ませんでした。そこで彼は養子を3人取りました。

三人の養子の出自は次の通りです。

養子1 澄之(すみゆき) 実父は関白左大臣九条政基

養子2 澄元(すみもと) 実父は阿波細川家(分家)細川義春
養子3 高国(たかくに) 実父は細川野州(分家)細川政春

澄之が政元の養子になった時はまだ2歳でした。政元はこの子に、細川家の嫡流嫡男が代々名乗っていた聡明丸と言う名前を付けました。

聡明丸は細川本家の幼名を付けられたのですが、家中から、細川家嫡流の跡取りに細川家の血筋以外の者を就けるのは如何なものか、と言う意見が出ました。そういう声に加えて、政元と聡明丸はどうも折り合いが悪かったので、1503年(文亀3年5月)、政元は聡明丸を廃嫡し、二番目の養子を阿波細川家から取ります。それが六郎、後の澄元です。

養子の3番目に高国が居ます。彼の諱(いみな)の「高」は、11代将軍・足利義高偏諱(へんきorかたいみな)です。義高は義遐(よしとお)義高義澄と、三度名前を変えています。順番から言えば義高の「高」一字を賜った高国の方が、澄之や澄元よりも先と言う事になります。

 

派閥

聡明丸は元服して澄之と名乗り、六郎は澄元と名乗るようになりました。

この場合「元」の字は細川家代々の当主の名跡です。「元」が付いた方が政元の跡を継ぐ事を意味します。これで細川政元の跡を継ぐのが澄元だと誰の目にも分かりました。

細川政元は、澄元に従って阿波からやって来た三好之長(みよし ゆきなが)を特に重く用いていました。之長は無頼漢でしたが、戦には滅法強い武将でした。一方、澄之付家臣の香西元長(こうざい もとなが)薬師寺長忠(やくしじ ながただ)は、三好之長の後塵を拝していました。もし今の流れのままに澄元が細川家のトップになれば、彼等は完全に反主流派の冷や飯食いになってしまいます。

彼等の焦りと、廃嫡された澄之の恨みがここで接近し始め、或る考えに辿り着きます。政元を斃してその地位を奪う、と。そうすれば澄之は管領になれるし、香西と薬師寺は三好を駆逐して主流になれる・・・この謀は深く静かに進められて行きました。

 

丹後攻略

尾張・知多出身の一色義有(いっしき よしあり)が、落下傘守護の様な形で丹後守護に任ぜられたのですが、応仁の乱から続いている国人達の抗争をなかなか鎮められません。それを見た若狭の武田元信が、一色義有の統治能力を問い、義有の罷免と丹後の国を要求します。

細川政元は武田元信の要求を入れ、義有を罷免します。が、義有はこれを拒否します。

 1506年(永正(えいしょう)3年4月)細川政元は一色氏討伐に動きます。

政元は、澄之、澄元、細川政賢(ほそかわ まさかた)、赤沢朝経(あかざわ ともつね)三好之長、香西元長、武田元信等の武将を率いて討伐軍を発します。

翌1507年(永正4年5月29日)、政元は戦陣を離れて京都に帰りました。澄之は、加悦城(かやじょう)を攻めていましたが、石川直経と裏で和睦を結び、政元を追う様に部下の香西と共に京都に帰ってしまいます。後に取り残された細川軍は、その後も丹後で戦い続けていました。

永正(えいしょう)の錯乱

細川政元修験道に凝っていました。女人を近づけず、また、本気で天狗の真似をして高い所から飛び降りて怪我をするなど、全く馬鹿々々しい修行に本気でのめり込んでいました。

1507年(永正4年6月23日)、この日、政元が修行する為、精進潔斎して湯殿で行水を使って身を清めていた時、突然、香西元長や薬師寺長忠の意を受けた近侍の者に襲われ、暗殺されてしまいました。

翌6月24日、香西と薬師寺は、澄元と三好之長の屋敷を襲います。不意打ちを食らった澄元と之長は辛うじて窮地を脱出し、近江に敗走します。
香西と薬師寺は主君・澄之を迎えて、細川本家家督を継がせました。

同年6月26日、丹後で戦っていた赤沢朝経(あかざわともつね(=澤蔵軒宗益(たくぞうけんそうえき))は、京都の変事を知り、軍を撤退しようとしましたが、石川直経の反撃を受けて敗北、自刃してしまいます。

 

 

余談  赤沢朝経

赤沢朝経は小笠原氏の支流で、大和・河内・山城の守護代です。小笠原流馬術の師範で、細川政元足利義政に弓馬術を教えました。文武両道に優れた剛の者です。

 

余談  今熊野城、阿弥陀峰ヶ城、加悦城(かやじょう)

一色義有の上記三つの城は、日本三景の一つ、天橋立を眼下に望む絶景ポイントに建っていた山城でした。(現在、郭などの遺構は木に覆われています)

この時の戦により町は炎に包まれ、灰燼に帰しました。雪舟の国宝天橋立図」は、そうなる直前の貴重な記録絵でもあります。